シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいる者です 文章を書くのを仕事にするのが目標です。夢は世界一周です

2022年の記事

2022年お疲れ様でした。正月は山を登りました。

正月の富士山
自分にとっての2022年のキーワードは「お互いに生きている限り、いつかは出会える」というものでした。大学を卒業して以来、会っていない人がたくさんいるのですが、別れる時に私はいつもそういうことを思っていました。大学時代の友達、それからこのブログを時々読みに来てくれる人へ対して、いつもそのように思っています。もしかすると、2023年には、あるいは2024年には、なんの脈絡もなく、思いついたように連絡するかもしれません。それまで頑張って生きていきましょう。
 
ちょうど一年前に2021年の記事をまとめた時は「健康に気をつけましょう」というようなことを書いたのですが、健康だけではどうにもならないことが今年は起きました。私が留学する予定だった国が隣の国に攻め込み、友達が一時的に難民になったり、モロトフカクテルを作らないといけなくなったりしました。もちろん私の留学はなくなり、未来が白紙になった私は真っ白な頭と真っ青な顔で就活をして、説明会にとりあえず行ったりしました。
 
結局私は派遣社員として箱根のホテルで働き、今は同じ箱根のゲストハウスで働いています。 自分の運命を呪ったりはしませんが、正直プーチンには「ありがとう」の気持ちを込めてぶん殴ってやりたいです。
 
2022年に書いた記事をいくつかの項目に分けてまとめてみました。どうぞ読んでください。

 
〈終わりゆく大学生活〉
大学生活が終わっていくのが悲しくて、切なくて、色々な切り口で大学生活をまとめようとしていました。この時期は卒論の時期で色々荒れていて、色々怒っていた時期でした。私が聞き上手なことを良いことに私の時間を散々無駄に使った助教授にも、教授ごとに指導している卒業論文の数が違うという専攻語のシステムにも腹が立っていました。プーチンウクライナを専攻しようなんて気を起こさなければもっと大学生活について書いたのですが、2月24日以降書くことは難しくなってしまいました。大好きな先生授業が終わってみんなでコーヒーを飲んだ日のことを#153 に書いたのですが、先生とはこの前関西に帰った時に会いました。簡単にロシアに帰れなくなった先生は、日本で車の免許を取ろうとしているみたいです。
 
 
〈2019年の旅〉
2019年に2週間位かけて、中国地方と九州、四国を小さく一周したのですが、時間がなかったり忙しかったりでそれについて全然書けていませんでした。卒論がおわったタイミングで、古い日記と写真を頼りに色々書こうとしていたのですが、続きませんでした。萩は本当にいいところでオススメです。「ゲストハウス萩・暁屋」にももう一度行きたいです。
 
 
〈ロシアとサッカー〉
戦争が始まると、ずっと戦争のことを考えていました。ニュースを逐一追って、どこに戦線があるとか、どこで虐殺が起きたとか、キエフに住む友達は安全なのか。そういうのばかり調べていました。UEFAの決定によって、W杯予選を勝ち抜いていたサッカーロシア代表が試合をできなくなり、お気に入りのチームであるスパルタクモスクワもヨーロッパリーグから姿を消しました。奇跡的なグループステージ突破を遂げたというのに。
 
段々とロシアリーグから選手が抜けていきました。ロシア人がオーナーを務めるクラブが議論の対象となり、アブラモビッチチェルシーを売りました。
 
戦争そのものについて書くのはとても怖くて、だから私はサッカーを通じて戦争を書きました。SNSに色々書いたけれど、それが意味あるものだったのかどうかはわかりません。自分を保つのが難しい時期でした。
もし、戦争がなければ今頃ルジニキスタジアムでトルペド・モスクワとスパルタクの試合を見ていたかもしれません。プーチンが2022年の3月に演説をしたルジニキに将来行けたとしても複雑な気持ちになるでしょう。
 
〈ラーメンで振り返る大学生活〉
大学になってラーメンを食べるようになりました。別にめちゃくちゃ好きというわけでもないのですが、ラーメンという「軸」で大学生活を振り返ったら面白いかなあと思って始めたシリーズです。戦争が始まって間もない頃、毎日苦しくて、このシリーズを書くことだけが楽しみだった時期がありました。
 
 
ミスドで振り返る大学生活〉
これも、いろんな軸で大学生活を振り返りたいと思って始めたシリーズです。他にも「よく歩いた道」とか「音楽」とか「アーセナルの成績」で大学時代をまとめられるような気がするので、新しいシリーズを始めたいなあと思います。
 
 
〈定点観察伊坂幸太郎
伊坂幸太郎をちゃんと読み始めたのが2021年の秋だったと思います。伊坂幸太郎とは1年ちょっとのお付き合いですが、まだ数冊しか読めていないです。
『フィッシュストーリー』『砂漠』『アヒルと鴨のコインロッカー』『PK』『魔王』です。次は『ラッシュライフ』に手を出そうとしていますがまだ読み始めてもないです。『ラッシュライフ』を読み終わったら、また書こうと思います。
 
〈就活〉
去年は就活をしていました。覚えているのはもう切れ切れです。東京の王子にあるゲストハウスにいた日々のこと、新聞社に入るために通っていた東京の都立図書館。麻生十番のおしゃれな店たちを尻目にマクドナルドに入ったこと。そのマクドナルドの見習い店員さんが60代くらいの女性で、おそらくその日が勤務初日のように思われたこと。また別の日、春の日差しの中を友達と神田とお茶の水を歩いたこと。友達の恋。
何にでもなれる可能性があったのにまた最後まで走りきれず「とりあえずホテルで働いてみたい」という理由で箱根に来ました。就活はプレッシャーに耐えきれず、やるべきことが無限にあって毎日パニックになっていました。
 
〈父〉
ノーコメントです。就活を辞めたのも箱根に来れたのも、そして今年海外に行こうとしてるのも、ここから始まっています。
 
〈箱根の日々〉
6月から今まで7ヶ月間箱根にいます。色々な場所に行ったし、自分が働いているからという理由でみんなが来てくれて、とても嬉しかった。たくさんの人にお世話になりました。離れてもまた来ると思います。みんなも元気でいてね。東京に行った話もこの中にあります。
 
 
〈文章〉
本を読みながら感じたことを書いた文章です。どれもお気に入りの文章ばかりです。
 
〈音楽〉
音楽ってどう言葉にするか迷います。結構永遠の課題です。音楽について(別に映画でも絵画でも料理でもいいです)言葉にしようとするとどうしても陳腐な表現しか出てこなくていつも嫌になります。
 
今年もシゲブログをよろしくお願いします!
またね!

#190 忘れること。忘れたことを気にすること。

 母も私も、物をよくなくす。家の鍵、物差し、お気に入りのお皿、鰯の缶詰。コンパスと分度器。
「物を探している時間が人生で一番無駄」といつか母が言って、それは今でも真実だと思う。
 ホテルで働き始めた時、毎日のように物をなくした。お気に入りだった1本のボールペンは結局戻らなかったけれど、それ以外は戻ってきた。サラサの青のボールペン、赤い300ミリリットル入る魔法瓶、仕事用のメモ帳。無くしたはずの物は様々な場所で発見される。コーヒーメーカーの横や、あるいはバーのカウンター。同僚や社員さんが、私の忘れ物を見つけて、次の日に渡してくれることもあった。ゲストハウスに住んでいる今も同じだ。保湿液やメガネ、イヤホン、日々様々な場所に忘れては取り戻している。

「忘れていく」のイメージ
 自分が一度確認したはずの場所や、自分の部屋から無くしたはずのものが出てくる。そんな時、大きな存在のことを思う。何か神様だったり死んだ祖先だったり、そういった存在が私を助けてくれているのではないかと思う。きっとそういうのが信仰の始まりだったのだ。

イメージ図「信仰」
 ホテルには、私よりもっと物をなくす社員さんがいる。制服だったり、夕食の配膳時に腰に巻くサロンだったり。飲みかけのコーラならいいけれど、財布もバーカウンターに置き忘れてしまうのは大変だろうなと思う。箱根を離れる時、お世話になった人たちにプレゼントを渡そうと思っているが、彼にあげるべきものがなかなか見つからない。簡単に無くしてもいいものかつ、心に残るもの。それってなんだろう。

ある日の忘れ物
 ロンドンからやってきたレミーが共用スペースのソファーのところにスリッパを忘れていった。ゲストハウスHAKONE TENTでは玄関先で靴からスリッパに履き替えてもらう。でも旅館だった建物をリノベーションして作ったゲストハウスには段差があったり、畳があったり、トイレがあったりでスリッパを脱ぐ箇所が多い。ソファーでピザを食べ、くつろいでいる間にスリッパを脱いでしまったレミーのようにいろんな場所にスリッパが置かれている。
「いつもものを置き忘れてしまうんだよなあ」そう言って笑ったレミーは、母や私や、ホテルの社員さんと同じ種類の人間なのだろうと思う。

 大事なものを忘れてしまうのは怖い。昔、耳鼻科からの帰り道に、おばあちゃんからもらったニュージーランド土産の帽子を忘れてしまったことがあった。私と母で必死に元の道を引き返し、暗いアスファルトの上を必死で探した。帽子は道の真ん中で発見され、二人で寒い中を凍えながら帰った。
 こういったことが私の子供時代には結構あった。アトピーが酷かったせいで、学童保育で出されるおやつが食べられなかった私は、いつも家からおやつを持参していた。それは煎餅だったり、スルメだったり、メザシだったりしたのだが、私は健気にいつも食べていた。今でこそアトピーは治りこそせずとも、ましになったが、当時は毎晩お風呂の後に塗り薬を塗っていた。ステロイドを使ったせいか、今でも痕が残っている。みんなでプールに入るのが今も昔も嫌いだ。

雨の日の車窓は記憶の中の風景と似ている
 毎日、学童保育に行くために、ブリキの箱に入れたおやつを持参していた。ある時、家に帰ってブリキの箱を洗おうとしたら、手提げ鞄に入っているはずのそれが無かった。その時も母親と一緒に通学路を戻って学校まで行き、ツツジの植え込みの中を探したり、公園のベンチの方に懐中電灯を向けたりした。無くしものに対して母は厳しかったような気がするが、それはどうしてだったのだろう。大人になって、あの頃の母の経済状態や心理状態について考えたりするけれど、未だによくわからない。当の本人はきっとこんなこと忘れているだろうから、訊いても意味がなさそうだ。もしかしたら、自分のように忘れ物や探し物で時間を無駄にして欲しくないと、母は私に対して思っていたのかもしれない。
 そんな記憶がいくつか積み重なり、私は「忘れてしまうこと」や「無くしてしまうこと」をひどく恐れるようになった。いまだに、「忘れる」ということが怖い。

年末大掃除の前の日に見つけた死んだ鳥

 

 目に見える物なら、忘れても無くしても、まだ諦めることができる。でも目に見えないことは諦めても諦めきれない。
 例えば日常のちょっとしたコミュニケーション。
「ありがとう」
「こんにちは」
「ごめんなさい」
 さっきのAさんとの会話で私はしっかり感謝を伝えていただろうか。小さなことでもごめんなさいと謝れていただろうか。初めに挨拶をちゃんとしていただろうか?
 メンタルが安定していない時、こういう些細なことが気になって仕方がない。
 言い忘れているかもしれない何かが気になって電話を切れない。私が相手を大事に思っていることが伝わっているのかどうか不安で中々見送ることができない。同級生と久しぶりに会って別れる時まだ大事なことを言ってないんじゃないかと思ってダラダラと過ごしてしまう。などなど。

 そこには「間違いを犯すこと」に対する恐れもあるような気がする。それは中学受験のために勉強しはじめた10歳以来、ずっと持ち続けている強迫観念かもしれない。いずれ、これについても書きたい。「間違えたくない」という強迫観念に苛まれながら成長した結果、自分の人生を「間違い」とも「正解」とも評価されないために足掻いている、そんな人生。

 
 最近、忘れることを恐れるあまり、知ること自体が怖くなってきた。
「知る」というプロセスには同時に「感じる」や「考える」ということも必要で、それって面倒だし、いちいち感受性を刺激してくる。毎日いろんな人が来て去っていくゲストハウスでは、せっかくゲストと仲良くなれてもすぐに別れないといけない。それぞれの人のそれぞれの物語に向き合い、それぞれの人生について考えたいのに、時間が足りなくて困る。会話を反芻し、メモし、忘れないように書き残す。その会話について考えたことをまた思い出し、また書く。そういった作業は忙しい毎日の中でこそ大事にしたいと思う。でも次から次へとゲストは来て去っていく。その中で一人一人との時間を私の中で大事にしようというのは不可能で、そんなことこの世が始まった頃から分かりきっていたのだろうけれど、私はまだ諦め切れない。

小田原駅前の再開発に負けず、一軒だけ残った不動産屋
 日々の中で話すこと聞くこと感じること。思い出してまた考えること。記憶と記憶が繋がり、現実では他人同士のはずの誰かと誰かが、私の脳内で繋がること。連鎖が連鎖を引き起こし情報が脳内でパンパンに膨れ上がるのに、それを誰とも共有できないという虚しさ。
 
 レミーは今はロンドンに住んでいるけれど、パスポートを4つ持っていると言っていた。フランスとイギリスとシリア。もう一つは忘れてしまった。どのゲストと同じように彼にも彼の物語がある。彼のパスポートについて私は尋ねてみたいと思ったけれど訊きはしなかった。それはその朝のシフトが一人しかいなくて忙しかったこともあるし、チェックアウトの時間が迫る時間で、その話を十分に聞くには時間が足りないように思えたからでもあった。レミーのパートナーもスロバキアと英国のパスポートを持っていて、そのことも気になった。彼ら(とその家族が)どういった物語の後にイギリスに住むようになり、どういった未来の中に生きていくのか。
 その話を聞いても、どうせ私は考え込んでしまうのだろう。何かを感じ、物思いに耽ったりするのだろう。そうしたところで、結局は彼らのストーリーも忘れてしまうのだろう。聞いても聞かなくても、何も変わることはなく人生は続くのだ。そういう未来が既にもう見えているのなら、聞いても聞かなくても結局は同じことだとその時は思ってしまったのだ。

イメージ図「未来」
 そろそろ箱根から場所を移した方が良さそうだ。少し疲れている。
 
 
 
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#189 オーストラリアに行く日

 まだオーストラリアに行ったことがない。私の初めての海外旅行はモンゴルだった。日本人としては珍しいと思う。
 オーストラリアが初の海外渡航になる可能性もあった。中学校の英語研修がオーストラリアだったのだ。希望者が研修内容をプレゼンし、プレゼンが良かった人が選ばれてオーストラリアに10日間いけるというシステムだったと思う。私は行きたい気持ちもあったけれど、40万円という金額にビビり、結局行かなかった。今でも行けばよかったと思う。旅行会社が絡んでなくて、お金がもっと安ければ絶対に行っていた。でも行かなかった。勇気がなかった。
 

箱根の秋。
 14時に大きな荷物を持った5人組の外国人がHAKONE TENT(私の働くゲストハウス)に来た。一棟貸しになっている離れを利用するグループ。チェックインの1時間前だけど、部屋の用意はもうできているので入ってもらった。カップルが2組と、その友達の女性。彼女は自分のことをふざけて「Third wheel」あるいは「Fifth wheel」と言っていた。親密な関係の2人にくっついていく羽目になりお邪魔虫となる人のことを英語でそういうらしい。勉強になった。
 彼ら5人は基本的にシドニーの大学時代に出会った友達らしかった。友達の友達だったり、カップルだったり、高校時代の友人だったり。複雑だけど、一緒に5人で日本を3週間旅行するぐらいだから、皆仲良しで、オープンな性格なのだろう。5人全員の共通の友人がもう1人いるらしいけれど、今はカナダにいるらしい。その人の話も興味深かった。
 次にチェックインしたのもオーストラリア人だった。2人で予約していたのに男性1人だけだった。彼はライリーと名乗り、自分の彼女は今日は来ないということを言った。なんでも彼女のパスポートに「ウォーターダメージ」があってオーストラリアから出国できなかったらしい。パスポートを新しくして、彼女は5日遅れで日本にやって来るらしい。建築を学ぶライリーは東京を一人で観光し、都内の有名な建築を見て回ったらしい。そんな彼はメルボルン出身なのだけど、初め「メルボルン」の発音が聞き取れなくて、何回も訊き返した。私の耳には「ルボン」や「ルーベン」としか聞こえないのだけど「メルボルン」らしい。正直に言うと、最後まで納得できなかったのだけど、グーグルマップで見せてくれたのは絶対に「Melbourne 」で、全豪テニスが行われる都市だと言っていたから間違いない。オーストラリアの訛りなのか、それとも彼の言い方なのか。検証が求められる。
 

強羅にあるパプ「PUB STOP」ブルワリーの隣にあるので美味しいビールが飲めます

 16時にシフトが終わった。部屋で少し寝て、18時半から外出した。近くのパブにサッカーの試合を見に行った。そこには離れに泊まっている5人組がいて、ガハガハと騒いでいた。大画面にサッカー中継が流れていて、W杯のコスタリカ戦がやっていた。でも別に誰も真剣にサッカーを見ている感じではなくて、ビールを飲みながらあれこれ議論しあっている感じだった。結構熱く話していて、こういうのは日本語ではあまりできないことだよなあと思った。私の世代の文化では日本語で「議論」することというのがほとんどない。昔はもっと議論しやすい文化があったのだと思うけれど、90年代生まれの私にとって、日本語で議論することは結構難しい。「熱い」ことを冷笑する文化が、中学校の時点ですでに教室の中にあった。残念なことだ。

写真美術館のカフェ。パブからの帰り、カフェの前の坂道で「Melbourne」の発音を教えてもらった。
 5人と話す。名前は、アレックス、エリッサ、ブレイディ、サラ、サマラ。自分のことを「お邪魔虫」とふざけて呼んだのがサマラで、彼女は「Kiwi」つまりニュージーランド出身だった。大学進学のタイミングでオーストラリアに渡ったらしいけれど、そういうことってよくあるのだろうか。芸術系のエリッサ以外はみんな理系で、生物学や、ケミカルバイオロジー、ブログラミング、化学を勉強してた。アレックスはひらがなをマスターしていて、簡単な日本語で会話できたし、エリッサも小学校時代に少しだけ日本語を勉強したと言っていた。ブレイディとアレックスがグーグル翻訳で英語のスラングをニヤニヤしながら教えてくれた。ロシア語もそうだけど、英語は日本語と違って悪態の数が多くて羨ましい。中継の中で日本の選手が倒された時や、コスタリカが点を決めた時に、私がブツブツ言うと、「こういう時はこの言葉を使うんだよ。××××!」と悪態を教えてくれた。多分一生使わない。それなりに日本語ができるアレックスがブレイディと一緒にGoogle翻訳を使って色々日本語の「悪い」表現を調べていた。
 途中でライリーが来て一緒にサッカーを見た。みんなそれなりにサッカーについて気になっているようだったけれど、ワイワイ騒いでいるうちに試合は終わった。日本代表は引いて守るコスタリカを攻めあぐね、負けた。

PUB STOP。別のアングルから。奥の壁にビールのサーバーがあります
 みんなに色々質問をされた。「日本ではサッカーが一番人気のあるスポーツなの?」「うーん。野球とサッカーが同じぐらい人気があるかな」「バレーはどう?」「バレーも人気だよ。学校では人気だし。女子バレーの日本代表は結構強いよ」そんなことを話した。バレーボールについて訊いてきたのはもしかしたら『ハイキュー』が外国でも人気だからかもなと思った。外国語学部でもゲストハウスでも、日本のアニメや漫画について話したがる人は結構いる。この前来たマルセイユからの3人組も日本の漫画がぎっしり詰まっている本棚を見せてくれた。お土産に日本語版のワンピースの最新巻を買ったらしい。11月にリヨンから一人で来た女の人とも結構漫画の話をした。最近私は友達に勧められて『蟲師』を読んだのだけど彼女は『蟲師』も知っていてびっくりした。オダギリジョー主演で映画化されたとはいえ、そんなに有名な漫画じゃないと思うから。おすすめの漫画を訊かれたので、とりあえず私の好きな『この世界の片隅に』を教えてあげた。

チェックインの時間が始まる前に掃除をしてベッドメイキング
 サッカーを観ながらラグビーの話もした。親友がラグビーをやっていたので、日本のリーグワンにオーストラリアの選手がいるのも知っているし、最近電話したら新しいラグビーリーグの話も彼から聞いた。でも上っ面の知識しかないから、限界があるし、別にオーストラリア人が皆ラグビー大好きというわけではない。日本人の私がアニメを好きでないように。

ゲストハウスの玄関。日が直接差す午前中の短い時間だけガラス戸がこんな風に美しくなる。
 バーから帰って一緒にカードゲームをした。「SET」という名前のゲーム。場にカードが並べられて、同じ組み合わせを見つける遊びなのだけど、それが結構難しいのだった。ワイワイやっているうちに時間はすぐに過ぎた。英語の表現とか教えてもらって、代わりに日本語の便利な表現とか、おすすめの観光地を話したりした。彼らは京都と大阪に行き、高山に行くらしい。飛騨高山で合掌造りを見る人は結構多い。いいなあ高山。自分はまだ行ったことがない。
 
 さんざん騒いでいた彼らだけどチェックアウトの時はとても部屋をきれいにして帰ってくれた。そして靴下を洗濯機の中に忘れて帰った。交換したインスタグラムで連絡したら「捨てていいよー」と返事が来た。
 これから2週間日本を楽しんでほしいなあ。SNSの彼らの投稿を見るのが楽しみだ。いつかオーストラリアに行ったら彼らに会えるかなあ。

 

〈おまけ:その日覚えた英語〉
servo:オーストラリア英語におけるガソリンスタンド。service stationの短縮形だと思われる。
be dying to do〜: (死ぬほど〜したくて仕方がない)
cheeks will fall off: (美味しくて)ほっぺたが落ちそう!
banter: 冗談
mockery: 嘲けり、愚弄
Birdsville: オーストラリア、クイーンズランド州のまち。ラクダで有名らしい。ちなみにオーストラリアのラクダはフタコブラクダ
 
 
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#188 秋が来る


 秋になった。でもどのタイミングで秋になったのかはやっぱりわからない。
 北大阪にある学校(中学校と高校は同じところに通った)にいた10代の頃、秋を感じる暇などなかった。気づいたら桜の葉が紅色に染まっていて、そして茶色になり散った。住んでいる街には夙川公園という桜の名所があって、川沿いを海まで歩きながら赤い葉っぱを集めて本に挟んでいた。

 いつも気づかない間に秋になり、すぐ冬になる。最後まで半袖を着ていた部活の先輩が長袖を着るようになったり、駅前の銀杏が色づいたり、ふと見上げた鰯雲が綺麗だったり、そういう「秋っぽさ」をこの時期いくつも目にするのだけれど、「はい! 今から秋になりました!」みたいな劇的な瞬間はいつの年にもなかった。いつもなんとなく秋が来て、それを受け入れてきた。昔の人は律儀に、暦の中にいちいち立秋とか秋分を挟み込んでいて、偉いなあと思う。でもつむじ曲がりの私は「今日から秋です!」とカレンダーに言われても「はいそうですか」とはならない。秋にしては暑いと思ったり、寒いと思ったり、感じ方はその時々で変わる。それに場所によって秋に対する感覚も違う。
 
 関西にいた頃、秋はいつも気づかないうちに来て、去って行った。それは、中学から大学にかけての自分に、秋を感じる余裕がなかったからかもしれないし、関西の秋は本当に短いのかもしれない。
コートなしで外を歩けるのはもうこれで最後という時期が好きだった。ひんやりした空気を肌に感じながら、つむじ風に巻き取られる落ち葉が綺麗だと思い、暗くなる道を重いリュックを背負って駅まで喋りながら歩く。駅前の国道はいつも混んでいて、車のライトが眩しかった。毎日歩く道を毎日歩くチームメイトと歩いたあの頃。

 好きなソ連映画に『秋のマラソン』というのがある。大学にいた時、ロシア語専攻のゼミで観た映画だ。翻訳家で大学教授の主人公が秋のペテルブルクを走り回る話だ。中年に差し掛かった彼は人生の「秋」にいる。妻とは別に、若いタイプライターの女の子と付き合っているし、出来の悪い同僚も助けてやらねばらない。彼女らに求められるまま、主人公はペテルブルクのあちこちを、文字通り奔走する。頭も良くてかっこいい主人公が、人生の秋の中で疲れ果て、哀愁を滲ませていく。全てを拒まない彼の人生はひどく大変そうに見えるけれど、スクリーンを通して見れば喜劇なのだ。
 画面に映るペテルブルクの秋は、私にはもう冬に見える。フィルム映画だからか(1979年の映画だ)通りは濡れて冷たく見えるし、主人公が朝帰りするシーンも日の出が遅いせいか全体的に青くて寒々しい。「いや、秋じゃなくてもう冬やん!」と何度となく突っ込みたくなったけれど、授業中なので我慢した。
 


 ロシアの服飾史の授業が好きだった。先生は新潟出身で、演劇を中心としたロシアの芸術が専門だった。ある授業で、ゴーゴリの「外套」をみんなで読んで感想を言い合った。無欲で冴えない、およそ小説の主人公としては似つかわしくないような下級役人と、彼が唯一こだわりを持つ外套の話だ。「外套」とロシアの服飾について一通り話した後、先生は寒い地域において冬に着るものがいかに大事かという話をした。授業に出席していた札幌出身のSさんと先生が話す雪国の冬について思いを巡らせながら、雪の降らない関西の私は教室の後ろの方に座っていた。それは後期の授業が始まってしばらく経った頃で、ちょうど今頃、11月の初めだった。
 
 もうちょっとできっと秋も終わる。冬が来る。でもいつ来るのかはさっぱりわからない。
 
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#187 友達のジャズを聴く

 で、今の私は吉祥寺のジャズバーStringsでカプリチョーザを食べている。正しい場所の名前はLive Bar & Italian Restaurant Stringsというらしい。イギリスじゃなくてグレートブリテン及び北部アイルランド連合王国。ハクじゃなくてニギハヤミコハクヌシ。パブロ・ピカソではなくて、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ何でもかんでも正式名は長いのだ。ここまでが導入。読まなくて結構。ちなみに、カプリチョーザというのはイタリア語で「気ままに」「勝手に」という意味らしい。日本語にすると「シェフのおまかせピザ」といったところだろうか。

STRINGSはこちら
 そろそろ本文。カプリチョーザは高校の先輩が奢ってくれた。たまたま会った先輩。高校時代話したことは数回あるかないかだけど、目立つ先輩だったからなんとなく覚えていた。そして、10年ぶりに会った先輩に認識された自分も目立つ後輩だったびだろう。ジャズバーへ降りる踊り場でタバコを吸っていた先輩。大袈裟なバックパックを背負った私。先輩と一緒に来ていた先輩の同僚の人。今日は高校時代の友達のコンサート。友達が歌う。観に行く。いや「聴きに行く」が正しいかも。 
 
 高校を卒業してから「高校」という枠を外れて友達とコミュニケーションできるようになった。小さな社会の中で息苦しかった高校時代。卒業してから仲良くなれた人の方が多いかもしれない。それは、受験に追われた閉塞感かもしれないし、クラブごとに固まらないといけない風潮があったからかもしれない。あるいは、私がまだ幼かったからかも。書きたいディテイルが多くて、前置きがいつも長くなってしまう。
 
 観に行ったのはピアノとヴォーカルのデュオ。「デュオ」ってジャズの世界だとどういう意味なのだろう。音楽については全くの素人なので、最初は「ピアノの伴奏に合わせて小野さんが歌う」のだと思っていたけれど、その認識が全然違うということを、聴き始めて気づいた。そのライブではヴォーカルとピアノは対等なのだった。どちらかが一方に合わせるのではなく、会話というか掛け合いというか、そういうやり取りの中でできていく音楽みたいだった。もしかしたら、音楽ってみんなそうなのかも。素人すぎてわからない。
 
「表現っていいなあ」っていうのを終始思っていた。そして演奏の合間に、モカさん(先輩)とコウさん(その同僚の人)に「表現ってほんまええですねえ」みたいなことを言ってた。まだ飲んだのはコーヒーだけで、酔ってはなかった。吉祥寺の後で、先輩に連れて行ってもらった下北沢のバーで酔って寝てしまい、自分の酒の弱さをまた思い知ったのだけど、それはまた別の話。

駅に続く道。ここで先輩たちと別れた
 音楽を聴きながら色んなことを考えた。私の好きなフィギュアスケーター鈴木明子やジェレミーアボットがこの曲に合わせて滑ったらどうだろうとか、小説家と音楽家はどっちが多いのだろうとか、そんなとりとめのないことばかり浮かんでは消えた。カプリチョーザを食べる音が演奏の邪魔になってないだろうかとか、真剣に演奏を聴くのならカプリチョーザなんて食べてる場合じゃないのかも、とかも考えた。耳のところはサクサクなので演奏の合間に食べた。ピザには茸が乗っていて噛むと口の中で香りがはじけた。
 
 曲紹介の中で色んな音楽家の名前が出てきた。トランペット奏者、ピアニスト、ヴォーカリスト。Ambrose Akinmusire、Kenny Kirkland、Lyle Mays、Aubrey Johnson、Tatiana Parra。その一人一人にそれぞれの作品と録音がある。途方もない数。
 今の今までに、世の中に出されては消えていった音源。この世の中に何か絶対的な存在がいて、その存在が作った音楽の殿堂に、全ての音楽がアーカイブされていればいいのにと思う。いつでもどの音楽にアクセスできるような場所があればいいのに。
 
 曲の合間に紹介されるエピソード。作曲家にまつわるストーリー。スタンダードはアンコールの一曲しかなくて、コンテンポラリー(これはモカさんの言葉をそのまま借りた)が多かった。ジャズ、全くの初心者だから何がスタンダードで何がコンテンポラリーかもわからないけど、なんとなくわかった気になって「ふーん」とか思ってた。たくさんのエピソードやストーリーが積み重なったスタンダードにはそれなりの重さととっつきにくさがありそうだし、コンテンポラリーは新しいもので私のような初心者には優しいけれど、また別の難しさがありそうだった。でもまあなんにせよ新しい場所に来て新しい素敵なものに触れるのは楽しくて、なんとなく体を動かしたりして、適当にやっていた。

stringsは吉祥寺の駅から5分ぐらい歩いたところにあった。
 言葉のある曲と、言葉のない曲を比較した時に、言葉のある曲は「難しい」と小野さんは言っていた。その話をもっと聴きたかったなと思う。実際私はこうして文章を書いているけれど、文章を書いても書いても、真実は言い表せない。
 言葉は完全ではないから、言葉を重ねると同時に嘘も重ねることになる。そして言葉を紡げば紡ぐほど文章に対するハードルは上がり、長い文章になるほどアクセスしにくくなる。それに、長々と書いた大河小説よりも、万葉集に残る一首が何倍も真実を表しているように思える時もある。

 言葉を含む歌であれば、その言語がわからなければ楽しめないし、小さい子にも届かない。それなら言葉を無しにして、みんなにアクセスできるものになればいいと時々思う。時々文章を書くのをすっぱりやめて、絵を描いたり、粘土をこねたり、料理をしてみたくなる。でもいつも続かなくて文章に戻る。
 
 モカさんもコウさんも音楽をやっている人だから、二人の感想を聞くのがとても面白かった。弱く歌うところの声が何種類かあって、それが綺麗だったと二人が言っていた。詳しいこととか具体的なことは、あまりわからないけれど、同感だった。歌う人にはそれぞれ自分の声の強みとか特徴があって、それについていつも考えてるんだろうな。どんな曲をどのように歌うとか、今日はこんな風に歌ってみようとか。その分野を知らない人には想像もつかないようなことがきっとたくさんあるのだ。吉祥寺から下北沢のバーに移って二人の感想を聴きながら、やはり表現っていいなあって思う。

井の頭公園。すっかり秋でした。

 

 
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#186 パリピになろう計画。序

これは300Barの近くにあったオイスターバー
 東京に着く度に、東京が苦手だと思う。小田急線で小田原から新宿。始点から終点まで。寝ていたら一瞬だった。経堂や祖師ヶ谷大蔵、下北沢。知り合いが住む街を抜ければもうそこは新宿。すでに体が重い。ゲストハウスで8時間働いて、お風呂に入って、そして荷物をまとめて箱根登山鉄道。今日は人が足りていなくて、罪悪感を感じながら退勤した。

深夜の東京駅。工事していた。
 東京に住む親友からは返信がない。忙しいのはいいことだと思って気にしないことにする。会いたい気持ちはあるけれど。東京に住む人は他にもたくさんいるから。でも誰に連絡すればいいのか迷う。本当なら全員と会いたい。でも時間は有限だ。脳内にずらりと並ぶ彼らの顔。連絡がとりやすい人、休みがとりやすいであろう人、忙しそうな人、高校時代以来連絡をとっていない人。会いたいけど、何て言えばいいのかわからない人。昔は仲良かったけれど最近のSNSはなんだか大変そうな人。正直全員に連絡したい。でも面倒なので数人にだけ。友達に久しぶりの連絡を取ろうとする時、決まってある映画を思い出す。『恋する惑星ウォン・カーウァイ監督作品。1994年香港。
 金城武演じる刑事が一晩中電話をかけるシーン。失恋した悲しさを埋めるため、誰かと話しながら飲みたいのだ。近い友達に電話していたのが、段々と関係性の遠い、昔の友達にも電話する様になる。しまいには名前も覚えていないような小学校の同級生にも電話する。東京に来て、誰かと予定を合わせて会おうと思う時、この映画の金城武を思う。ドラッグ・ディーラーを演じるブリジット・リンのことも一緒に思い出す。それからフェイ・ウォントニー・レオンも。

地元の駅の公衆電話。親の顔ほど見た
 金城武と違って私は電話をかけない。チャットもしない。
 友達がたくさんいるはずなのに誰1人にも連絡できない。誰かとずっと飲む、というのが少し怖い。年月を経て成長した彼らと自分を比較してしまう気がする。あるいは久しぶりに会った彼らに幻滅してしまう気がする。待ち合わせしても会ってすぐの15分で帰りたくなってしまう、なんてこともあり得る。

東京の夜は出会いがいっぱい?
 それなら割り切って、新しい人と会えばいいじゃん。そうやってどんどん新しい場所に行こう。飽きたら別の場所へ。汚いものが見えたら次の場所へ。ずっとそうやって生きているように。
 時々自分が心配になる。新雪を求めるスキーヤーが遭難するように、新しい刺激を求めてドラッグにハマる中毒者のように、自分もいつかどうかなってしまうんじゃないかと思う。
映画『スタンド・バイ・ミー』でリバー・フェニックスが言ったように、自分のことを誰も知らない、どこか遠くへ行きたいと、いつだって私は思ってきた。でもそれをずっと続けるわけにもいかない。いつか諦めないと。
 
 大きい新宿駅を歩く。なんとか西口から東口に出る。小田急から丸の内線へ。そして銀座。ようやく東京に体が慣れてきて、少し余裕が出てきた。箱根と違って人が多い。電車に乗る人がもの珍しくて面白くてまじまじと見てしまう。サラリーマンの疲れた肩。半袖半ズボンで乗っているおじいちゃん、ギターを担いだ青年。アプリで東京の地図を見ながら行きたい場所に行く。銀座コリドー街。

冗談抜きでナンパ目的の人がほとんどだった
「戎橋に匹敵するナンパスポットですよ」とコリドー街について教えてくれたのは同じゲストハウスの社員さん。正直、大阪の戎橋の比なんてものじゃなかった。本当にそこかしこにナンパする男性が溢れていて、最初から最後まで笑うのを我慢して歩いた。自分が普段しないからだと思うけど、みんなきちんとスーツを着ている様に見えたし、髪の毛もちゃんと整えていた。自分の来るべき場所ではないなーと思って歩いたけれど、こういう場所に慣れてないので、人を観察しているだけで楽しかった。そういうのも楽しみながら歩ける様になった。いつからだろう。
 
 6月から箱根のホテルでコンシェルジュをしていた。今でもゲストハウスで働きながら週に一度ホテルで働いている。ホテルではお部屋でご飯を出す。料理の紹介やドリンクのオーダーを取るのが基本なのだけど、それだけじゃつまらないから大抵いつも雑談をする。お客さんとの会話が盛り上がって、とても気に入られる時がある。仲良くなった後で、時々、私を見透かしたようなことをいう人がいる。「人を観察すること」が職業病になっていて、私に対しても何か言わずにいられない様な人達。そういう人に生き方や態度について教えてもらう時、とても嬉しい。思い出しても胸が熱くなるくらいだ。

「胸が熱くなる」のイメージ図
 8月にホテルで2泊されたお客さんに水津さんという人がいた。千葉県某市のタワマンに住んでいる人だ。2泊とも私が夕食を出したこともあって、とても気に入ってもらい、色々教えてもらった。頂いたアドバイスの中に「あがり症を治すなら、クラブに行ってナンパしまくれ」というのがあった。緊張している私を見て言ってくれたアドバイスだ。

色んな人の人生がすれ違う。その一瞬がとても好きだ
 別にナンパはどうでもいいけれど、クラブに行って、人と話すのはいいなと思った。普段出会わない人がいるだろうし、非日常的な雰囲気の中なら、自分の殻を破れるのではないかと思ったのだ。そういうことがあって、今日私はコリドー街に来て、ビルに入り、地下への階段を降りた。私が入ったのは、「300Bar」というところ。だから正確にはクラブではない。DJがいて、踊るスペースもそれなりにあって、談笑している人もいた。

一応画像を加工しました。バーの雰囲気を写した写真にいいのが一枚もねえ
 モヒートがないので、代わりにモスコミュールにした。どこの場所に行けばいいのかわからなくて、とりあえず突き当たりまで歩いたら、トイレの横かつDJの近くという変な場所に陣取ることになった。
 周りを見渡す。完全に浮いているということだけわかった。ノースフェイスの水色のフリースを来て、下はジーンズ。そしてインテリ風の金縁メガネ。肩掛け鞄はジーンズとシャツをリメイクして自分で作ったもので、中には英語版の『ワインズバーグ・オハイオ』と『コルシア書店の仲間たち』が入っている。このフロアの中で、シャーウッド・アンダーソンと須賀敦子がわかる人はいるのだろうか。どちらも私の好きな書き手だけど、わざわざバーに持ってくるべきものではない。

🎶
 周りは会社帰りの黒いスーツだったり、おしゃれな襟付きを着ている人ばかりだった。音楽も知らない曲ばかりだし(私が好きなジャンルは、ドリーム・ポップ、パンクロック、ポストパンク、オルタナティブ・ロック、ブリット・ポップで、どれもクラブではかからないものばかりだ)もちろん曲に対するノリ方もわからない。、体の動かし方も一人だけ何かしら違う気がする。でもだからどうだっていうのだろう。知らない音楽だとしても、音に合わせて体を動かすのは楽しいし、モスコミュールも美味しかった。ただ、文字通り毛色が違う人間が紛れ込んでいるのは間違いがなく、四方から視線を感じた。クールに見えたらいいなと思って、DJの人がディスクをチェケチェケするのをじっと見るふりをしていた。側から見れば、DJ志望の若者と思われたかもしれないくらいの、熱い眼差しだったはずだ。実際それは演技でもなくて、新しい曲へと移る時に、どういう作業をしているのか気になったし、ホールの様子を加味してどのように選曲するのかも気になっていた。でもキャップの下のDJの顔は暗くて、表情が読み取れなかった。緊張しているせいかお酒は全然回らなかった。

この地下にバーはありました
 30分ほど経って、飽きてきた。別にこのまま居続けるのも楽しいのだろうけど、でも何も進展がない。「私、一人でも楽しめるんです」という風を装って体を小刻みに揺らすのも限界が近い。誰かに話しかけようか、でも誰がいいのだろう。何度かチラチラ目が合う人もいるし、多分誰でも大丈夫なのだろう。でも怖いぜ、モスコミュールをごくり。

バーのトイレではいつも、『トレインスポッティング』でトイレの中に入っていくユアン・マクレガーを思い出す
 冷静になってみると、全く緊張しなくていいのだ。なにしろ、自分の目的はワンナイトではなく、ただただ新しい世界を知ることなのだから。何も気負う必要がない。よーし、そろそろ次のドリンクを頼みに行って、帰り道でレジとカウンターの間にいる誰かに話しかけてみよう。
 
 そんなことをうじうじ考えている間に誰かが私にぶつかった。ホールで一際目立つ踊り方をしている女の人とその友達。一瞬にして私の瞬間視聴率が上がる。そして下がる。少しだけ緊張して、でも大丈夫だと思い直す。確かに水津さんが言ったように、これであがり症は改善されるかも。
「ここは初めて?」
「ノースフェイス着てんじゃん!」
「どこから来たの?」
「箱根? 今日きたの?」
「西宮って兵庫よね?」
話すことはたくさんあるし、色々訊きたいこともある。みんな音楽で声が聞き取りにくい中で丁寧に教えてくれた。3人は大人になってからの友達らしかった。みんな東京出身らしく、いいなあと思った。東京で育っていたら見える世界が違っただろうなと思う。お笑いや芸術にももう少しアクセスしやすかったはずだ。

これは9月に行ったむつみ荘。好きな芸人が昔住んでいたアパート
 とにかく、3人のおかげでその夜が格段に楽しくなった。話しかけられる人が増えたし、他の何人かとも仲良くなった。とってもラッキーだったし、感謝しても感謝しきれない。そして、次は自分から誰かに話しかけてみようと思った。

こういう街路樹としての柳の木は関西にはあまりないかも

まだ誰かが働いている
 やはり自分は人間が好きなのだと、夜道を歩きながら思った。ワンナイトどうこうよりも、たくさんの人に色々なことを訊きたいと今日はずっと思っていた。どうも自分の知識欲は、性欲を圧倒的に上回っているらしい。「この人可愛い!」とかじゃなくて「このグループ、どういう関係なんだろう?」とか「この人たち、今何考えているのかな?」とか今日もそういうことばかり考えていた。もっとこういう場所に通ったりしたら自分はどう変わるだろうか。自分に自信は少しつくのだろうか。そんなことを考えていた。
 高揚感と解放感に包まれたまま夜の東京を歩いていた。もうすぐ新月になる細い月がビル街を見下ろしていた。3人のおかげで、とてもいいきっかけになった夜だった。感謝である。次は自分の番だ。
 
 
【ひとこと】
これは昨日の夜の出来事をもとに作った文章です。色々ときっかけになりそうな夜でした。昨晩のことを思い出して、胸が熱くなったりすることもこれからあるでしょう。
誰かにとってこの文章が意味あるものであればいいなあと思います。感想とかコメントとかあれば送ってください。
 
 
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#185 Fujimi Cafe・ラリック美術館

Fujimi Cafe
 うん。とてもストロングなコーヒー。美味しい。最初は砂糖無しで。途中から砂糖とミルクを入れよう。
「富士山が見えるカフェ」という触れ込みの峠のカフェ。バスに乗ってカーブを登っていく。トンネルを抜けると県が変わって静岡県。富士山が見えた。でも全貌は見えない。8合目まで見えて、その上には雲がかかっている。

乙女峠のバス停
 6月。箱根で働き始めた。最初の休みに芦ノ湖に行った。晴れていたのに午後から雲が出て、富士山は見れなかった。関西から出て、小田原までの新幹線でも、富士山は雨で見えなかった。このカフェから見る富士山が、今年になって初めての富士山。関西にいる時と比べて、箱根は富士山に近い。だからいつでも富士山など見られるのだと思っていたけれど、そんなことは全然なかった。今いるホテルからは山に隠れて富士山は見えない。大涌谷芦ノ湖でも、晴れていないと富士山は見えない。そして箱根の夏は晴れの日が少ない。

箱根の第一印象に、紫陽花が綺麗だというのがあった。
 でもがっかりすることはない。今ここにいるという事実自体が奇跡みたいなものだ。去年の7月は病院にいた。トラックに追突されて50日も入院したのだ。「死んでもおかしくなかった」と警察の人が言っていて、実際ガードレールがあったら死んでいたと思う。たまたま橋の上で、縁石の上にガードレールがなくて、原付から歩道に倒れ込むことができた。だから偶然生き延びた。別に、それが運命とも、何かしらの超自然的な力が働いたとも思わなかった。ただ、気をつけないとすぐに死んでしまうなと思った。でも死んでも生きていても一緒では? とも思う。この苦しみや悲しみを何回も経験しないといけないのなら、その度に落ち込まないといけないとしたら、なんで生き続ける必要がある? 生きる意味とは?

事故現場の橋。自宅から車で10分の距離だった。
 このカフェにも次にいつ来れるかわからない。もしかしたらもう来れないかもしれない。だから私は忘れないように味について書く。濃い味。苦味とコク。後から来る酸味。でも味覚を表現するのに言葉は不十分すぎる。メモをどれだけ取っても味は再現できない。匂いも、音も、思い出も。
 
 そもそも今日早起きしていたらここにはいなかったかもしれない。たまたま遅く起きたから山に登るのをやめて、美術館に行って、目星をつけていたカフェが休みだったから、急遽プランにはなかったこのカフェにやってきた。仙石でバスに乗って御殿場方面へ向かい、乙女峠で降りる。そしてバス停の向かいにあるこのカフェへ。富士山が見えるからFujimi Cafe。シンプルでわかりやすいネーミング。テラスがあって、富士山に向かって座るカウンター席もある。気持ちのいい初夏。焼ける二の腕。

 
 カフェの前にラリックの美術館に行った。ルネ・ラリック1860年に生まれて1945年に死んだ人。ガラス職人でありデザイナーであった人。彼のガラス作品が美術館の至る所にあって、産業社会における芸術としてのガラスが展示されていた。青い香水の瓶がとてもよかった。
 
 昨日まで名前も知らなかった人が、今日から知っている人になる。未知から既知へ。既知の分野がどれほど広がってもそれに比例して未知の分野はどんどん広がる。それもまた不思議。私の尽きない好奇心を持ってしてもこの世は結局食べきれないのだろう。それって人生がとても楽しいってことなのだと思う。
 
 いつの日かそんな道のりに疲れて、好奇心を失う日がやってくるのだろうか。気力や体力が好奇心に追いつかなくなって、知ることをやめる日が来るのだろうか。今はまだ想像できないけれど、祖父母や伯父伯母の様子を見ていると、そんな日も来そうである。知らないのではなくて知ろうとしない姿勢。10年後の自分は? 20年後の自分は? 40歳の私は元気にしていますか? 毎日新しい発見をし続けていますか? 生きることについて、生きていることに対しての感動を忘れないでいて欲しいなあ。

ラリック美術館は写真撮影厳禁だった
 もしラリックが日本に生まれていたら何をしていただろうと考えた。アール・ヌーヴォーアール・デコの時代を生きた彼の作品は、新しい産業社会におけるアートだった。そういった時代に相当するものが日本にあるのか考えたけれど思いつかなかった。日本の陶芸の世界でも、明治時代や大正時代に、生活様式の変化に合わせて、何か革新的な出来事があっただろうと推測できるけど、それが具体的に何か私は知らなかった。服飾史のS先生の授業を思い出した。一つひとつの服を手作りしていた時代と、ファストファッションの時代。親から子へ服が代々受け継がれ何度も修繕をしていた時代と、穴が空いたり糸がほつれたりしたらすぐ捨てるようになった時代。少し飛躍しすぎか。ファストファッションの時代だからこそ活躍できている服飾関係の人もいるのだろうと思う。全く知らないので具体例こそ出せないけれど。

美術館の入り口
 
 もし「何でも好きな家を作っていいよ!」ともし言われたとして、ラリックの作品を自分の家に置苦かどうか、正直わからない。香水の瓶などはとても綺麗だったから、玄関とかに飾ればいい感じになるかもしれないけれど、繊細な七宝焼きなどは、私が住む空間にはそぐわないだろうなと思った。
 
 一人の作家をテーマにした展覧会や美術館に行くと、その作家が実際以上に持ち上げられすぎていて、モヤモヤすることが多い。彫刻の森美術館のピカソ館も、ピカソの負の側面には触れていなかった。去年行った宮沢賢治記念館も、賢治の人生の良いところしか紹介していなかった。失敗や苦悩をも含めた宮沢賢治の人生が好きなので、幾許の物足りなさを感じながら駐車場に戻ったのを覚えている。
 
 ラリック自身がフランス国内でどのような評価を受けているのかは知らない。ただ、美術館の最後の部屋では、肺結核根絶や戦費調達、傷痍軍人のためのチャリティーのために仕事をしたことが紹介されていた。メディアを通じて国全体が団結できる様になり、大量に人を殺せる兵器が出現した20世紀。その中で芸術家が担う様になった新しい役割。
 
 で、今私は乙女峠から宮城野まで戻ってきて、またカフェにいる。喫茶くるみの実。マデラ風ハンバーグとコーヒー。親しみのある洋食屋さんの味。コーヒーも、さっきのコーヒーと違って、ほどよい苦味とコクがあった。また書く。さっき富士山を見ながらラリックについての感想を書いていた様に。先週湘南を歩いた時の感想を書いたように。昨日のことその前のこと。知らない土地にいて書きたいことが山ほどある。書いても書いても、書きたいことは無くならない。自分の中にあるこの焦燥感はなんなのだろうと思う。情熱なのか、それとも強迫観念か。自分でもわからない。箱根に来て3週間、行きたいことがたくさんある。書きたいこともたくさんある。時間が足りない。できる限り全部見てやろうと思う。

くるみの実を出る時、厨房に差す日の光が綺麗だった
 
 
 
【ひとこと】
箱根で働き始めてもうすぐ5ヶ月です。これは箱根に来て3週目に行ったFujimi Cafeと箱根ラリック美術館について書いた日記を再構成した文章です。誰かにとってこの文章が意味あるものであればいいなあと思います。感想とかコメントとかあれば送ってください。結局このカフェはまだ一度しか行けていません。
 
 
 
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