シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいる者です

#126 記憶たち

 

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 わりと根に持つタイプである。記憶がいいのもあると思う。私が2歳の時に母親が妊娠したことも、妹か弟かわかる前におなかの中で死んでしまったことも覚えている。病院の椅子に座る母に「どうして? どうしておなかの赤ちゃんはいなくなっちゃったの?」と尋ねていたことも覚えている。あの頃は毎週京都のマンションから、奈良にある父親の実家に帰っていた。夜の高速道路は楽しいものだったのだけれど、一度だけひどい雷の中帰る時があって、その時は泣きわめいた。全部を全部覚えているわけじゃないけれど、結婚と同時に専業主婦になった母は私をよくドライブに連れて行ってくれた。そんな記憶が助手席や後部座席に乗るときに急に記憶の淵からふわりと浮かびあがって来て、私はついつい一人の世界でうっとりしてしまう。もちろんそんな自分の中の感動を誰かに伝えてもヘンな感じになってしまうだけだから、誰にも言ったりはしない。だから一人でこうやって文章に書いている。でもたまには、たまには誰かに理解してほしいと思う。ただ誰に話しても結局は同じで、「共感」を求めても求めても「分かりあえた」という確信を持つことができなくて、むしろ自分は独りで生きていくしかないのだという絶望がちょうど汐が満ちていく時のようにじわじわと足元を浸していく。振り返ると、干潟だったのが消えてひざ下まで水があって、ズボンがもうだいぶ濡れている。早くあの松林のところまで戻らないと。でももう疲れて走れない。足がうまく動かせない。

 中学時代の同級生からインスタグラムをフォローされた。嫌だった。彼が私に投げた言葉を私はまだ覚えているからだ。彼はいじめっ子だった。少なくとも私の中では。箕面の高級住宅街に住む彼は明らかに私の服装や持ち物を見下していた。それなのに私のSNSをフォローしようなんてどういった心境なのだろう。もう忘れていたのに私の人生にひょっこり顔を出して嫌な気持ちにさせて。その上SNSを覗こうなんて虫が良すぎるのではないだろうか。まあでも、本人は忘れているのだろう。そうに違いない。私が彼をブロックしても彼はどうしてだかわからないだろう。

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 時々気になること。一体全体、教師と言うものは、生徒にかけた言葉をどれだけ覚えているのだろう。彼らは毎年毎年違う生徒たちの前に立ち、同じようなシチュエーションで同じような言葉を投げかけ続ける。彼らはいったい生徒のことをどれくらい、自分がかけた言葉をどれくらい覚えているのだろう。

 中学高校時代には想像もできなかったことだけれど、当時と今とで印象が大きく異なる先生がいる。例えばサッカーをしている時、顧問の言うことは絶対で、彼の言葉や存在をありがたく聴いていたものだけど、今考えるとわりと無茶苦茶だった。最も悲惨だったのが中学の顧問で、ありえないことにサッカーの上手い下手に成績を持ち込んだりしていた。先生が思う「若者らしさ」を押しつけて、個々の性格を認めようとはしていなかった。はっきりいってひどいものだった。悪目立ちするチームメイトは怒られる一方で目立たない私は遅刻しても気づかれなかった。私たちにはみな複雑な背景と複雑な感性と複雑な思考があるのに、「中学生」という単純なレッテルでしか私たちを見ないような顧問だったから頑張る前に先にシラけてしまっていた。あの顧問はまだ令和になっても2020年代になっても同じことをしているのだろうか。勝ち負けではなくて、もっとサッカーを楽しみたかったと今なら思う。そんな考え方は軟弱なのだと彼らは言うかもしれないけれど。

 医者を目指していたある友達は、生活態度を咎められた時に、担任に「あなたには医者になってほしくありません」と言われたらしい。彼は簡単なことではへこたれないキャラクターのだけど、数年以上経ったその時でも結構な熱量で怒っていた。今彼は医学部に入っていて、その先生が診察室に来る日を楽しみにしているらしい。彼のその根性は見習いたいものである。

 保健の授業で自己同一性障害について勉強した時、教室を見回したあとに教師はこう言った。

「まあ、このクラスの人は心の病気にはそんなに気をつけなくていいと思うよ」その後私をちらっと見た。「シゲ以外はね」

 ユーモアがあって笑わせてくれる人気の先生だった。何人かが笑った。私は頭が真っ白になった。何しろ数カ月前まで学校を辞めるかどうか悩んでいたのだ。何かを言わないといけないけれど言えなかった。笑ったクラスメイトがかなりの人数いて悲しくなった。これは年に3回ぐらい思い出す××みたいな思い出だ。そんなこと絶対に言うべきではなかったと思うし、言ったからには責任持って対話するべきだったと思う。でも彼はそんなこともう覚えていないだろう。むしろ覚えていないで欲しい。覚えていたら尚更ひどい。

 随分前に会った高校時代のチームメイトは、サッカー部の思い出も文化祭の思い出もすっかり忘れてしまっていた。清々しいくらいきれいさっぱりと忘れていて、同学年の生徒も部活の後輩の名前もかなり怪しかった。一緒になってあんなに笑ったりしたのに、思い出を共有しているはずなのに、と思うと悲しかった。16歳の時に学校にも部活にも行けなくなった私は、彼の言葉や思いやりにとても救われたのだけど、彼はもうそういうことを覚えていないのだろうなと思ったら帰り道とてつもなく寂しくなった。

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 彼みたいに思い出のために割く脳の容積やパワーを、今目の前にある現実のために使えば楽なのかもしれないと思う。少なくとも今のような気難し屋にはなっていないように思える。それが私にとって幸せかどうかは別として。辛い時に思い出すのは、やはり辛い思い出が多いけれど、その中でも時々クスリと笑ってしまうような思い出やうっとりするようなやつがたまにあって、そういうのがあるから生きていけるのだろうとも思う。

  

 

 

【ひとこと】

忘れてください。でも意外と覚えていますからね。

 

 

【今日の音楽】

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#125 裏切り

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裏切り

 

 

ウッディーアレンに憧れて

映画監督になろうとしてた

14歳の冬だった

人生が転がり始めた

 

生まれて初めて観た映画

図書館ブースのスタンドバイミー

5歳の僕にはわからなかった

永遠も死も吹き抜ける風も

 

ああ時がくれば

たくさんのことが

少しくらいわかると

思っていたのに

 

考えることが

感じることが

雪だるま式に増えて

坂道を転がってく

 

 

デビットベッカムに憧れて

ツンツンヘアーにしてみたかった

泣いてばかりいた保育所

クレヨンの匂いはいずこに

 

ジャッキーチェンに憧れて

鉄棒ぶんぶん回っていた

悪と正義はシンプルで

あの頃はまだよかったんだ

 

ああ大人になれば

もっともっと楽だと

カンタンになると

思っていたのに

 

永遠の時間も

少しずつ無くなって

またいつものように

部屋の隅かたまってる

 

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【今日の音楽】

youtu.be

 

 

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#124 【映画紹介】『長い見送り』(1971)キラ・ムラートワ監督

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 映画監督セルゲイ・ロズニツァは全ロシア映画大学(以下VGIK)の映像編集の授業でКороткие встречи(『Brief Encounter』)』と『Долгие проводы(英題『Long Farewell』日本語題『長い見送り』)』を解説する教授の言葉を覚えている。

 

「こんなやり方はありえない。こんな風に編集してはいけないし、明らかにルールから逸脱している。上手くいくはずがないのに、見てごらん。完全に上手くいっている」

 

 その授業で学んだことは、自分のルールを持つことが映画監督にとっていかに大事であるかということだったと彼は回想する。ムラートワのスタイルはといえば、よく言われるのは、登場人物たちの不可解な言動、奇怪な筋書き、ブラックユーモアや不条理である。

 

 ムラートワのキャリアは、長い検閲との戦いと言っても過言ではない。彼女が国際的に脚光を浴びるのは89年製作の『Астенический Синдром(英題『The Asthenic Syndrome』)』がベルリン映画祭で銀熊賞を受賞した時である。グラスノスチ(情報公開)が進められ、言論の自由が認められるようになったた時期にも関わらず、当初『The Asthenic Syndrome』は卑猥であることを理由に公開禁止になっており、銀熊賞の受賞の後に国内で公開された。

 

 映画監督キラ・ムラートワは1934105日にルーマニア(現在はモルドバ領)のソロカという町で生まれた。母親はユダヤ人の産婦人科医であり、父親はロシア人の技師であった。彼女自身はソ連崩壊後をウクライナ人として過ごした。両親は共産党員であった。戦中、父親は反ファシストの抵抗運動に加わり、ルーマニア当局によって尋問の後銃殺された。2014年のユーロマイダンの時のインタビュー記事などを読むと、戦争体験が彼女に影響を与えたことは間違いないと思うが、これについてはいずれ時間が空いた時に調べてみたい。

 59年にVGIKを卒業したムラートワはオデッサ映画スタジオで働き始め、67年に『Brief Encounter』、71年に『長い見送り』を製作する。どちらもフランスのヌーヴェルヴァーグの影響を色濃く受け、そして2本とも検閲に引っかかり、ペレストロイカの時代まで長らく上映を禁じられていた。『Brief Encounter』はセックスと不倫の描写とニヒリズム的態度が問題となり、『長い見送り』はエリート的な手法が問題となった。その後70年代の大半を監督として活動しないまま過し、83年の『(英題『Among Grey Stones』)』ではクレジットに偽名を使った。しかし、ペレストロイカの時代に検閲がゆるくなり、ソ連崩壊によって気兼ねなく映画を撮れるようになったことは、彼女の製作活動にとって追い風となった。1987年から2012年の25年間に彼女は14本の映画を撮り、2018年の6月に83歳で亡くなった。

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  映画『長い見送り』の主人公は16歳になるサーシャと、やや過保護気味の母親のエフゲーニャである。エフゲーニャとサーシャの父親は10数年前に別れ、以降彼女は英語翻訳の仕事で生計を立て、サーシャを育てて来た。思春期——そんな言葉に縛られたくなかったし、今でも大嫌いな言葉だけど、なにせ便利なので使うことにする!——のサーシャにとって、愛情過多で世話焼きな母親を疎ましく、父親に会いに行きたいと考えている。

冒頭のお墓参りの場面から母子のすれ違いは決定的である。楽しい音楽とともに笑顔で話すエフゲーニャとは対照的にサーシャは終始テンションが低く、明らかに母と話すことに気分が乗っていない。母の別荘に向かう電車の中でも二人は向かい合って座らず、背もたれ越しに言葉を交わす。母との会話に気分を害したサーシャは席を立ち、残された母親は息子を見つめるが彼は目を合わせずに外の景色を眺めている。

 笑ってしまう。大人になる前の時期、親が疎ましく感じられるのは別に珍しいことではないだろう。最初に映画を観た時の私は20歳になったばかりで、ついこないだまで反抗期だった——反抗期にまだ片足突っ込んでいたかもしれない——。ロシアの男の子も自分と同じように母親に反抗し、自暴自棄になり、同じ年ごろの女の子にあこがれを抱いていることを知って、安堵した。そして息子の変化に戸惑う母親の姿も、見慣れないものではなかった。

  別荘のみんなが集まった食卓での母子のやりとり。体育の授業で高跳びに失敗する息子を校庭の隅で見ている母。彼女はサーシャのことを知ろうと父親が息子に送った手紙を読み、元夫に向けて電報を書こうとするも何枚も書き損じ、さらにはサーシャと父親の長距離電話を盗み聞く。「お父さん、3分しかないんだって!」

息子が自分から離れていく不安と迷いの中、エフゲーニャは男に手紙の代筆を頼まれる。明らかに乗り気でなかった彼女だったが、男が手紙の内容を語るうちに、手紙の出し手と受け取り手の間にある関係や愛に触れ、最後にはエフゲーニャは笑顔になる。

 そうはいっても、楽しげな映画音楽とは裏腹にエフゲーニャの気持は晴れない。サーシャがどこかに行ってしまうのではないかという不安が拭い去れないからだ。職場の懇親パーティーで音楽に合わせてみんながダンスする時もエフゲーニャは女の子と踊るサーシャを見ている。せっかくおしゃれな手袋をしているのに爪を噛んでしまっている。パントマイムの観覧席でもめ事を起こしてしまったエフゲーニャをサーシャは手を取って引っ張っていき、噴水の側で「お母さん、僕はどこにも行かないから」と言う。最後のシーン、サーシャが母を見る目は映画前半とは違って温かい。彼は自分の成長を実感し、疎ましく思っていた母親が支えるべき存在に変わったことに気づいたのだ。

  映画館で『長い見送り』を観た際、なぜこれが検閲に引っかかり、公開禁止処分になったのかわからなかった。当時の私は、ソビエト時代の検閲についてよく知らなかったから、よほど反体制的な描写がない限り公開禁止にはならないのだろうと思っていた。だから腑に落ちなくて、地下鉄に乗ってもずっと考え込んでいた。65年のゲオルギー・ダネリヤ監督の映画『33』では幼児を腕に抱えたスターリンガガーリンのパレードをパロディにしたことで映画の上映が禁じられたが、『長い見送り』の中にそうしたパロディはないように思えた。逆に墓参りの場面のように、ソビエトの赤い星のカットが差し込んだことで、戦争で犠牲になった兵士を想起させるようなシーンもある。

 死んだカモメのカットや、一方的に話し続ける母を見つめるサーシャのうんざりした顔、外国のポップ音楽。それらは確かに受け取り方によっては退廃的であり、それが当局に「エリート的」と考えられたのだろうか。あるいはヌーヴェルヴァーグの手法——ジャンプカットの多用、実際の街や場所で録音した音と映像——そのものが「エリート的」だったのだろうか。

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  同じブレジネフ政権下の70年代に撮られた、ダネリヤの『アフォーニャ』や『ミミノ』でも、仕事をせずお酒を飲み続ける労働者や、計画経済の中で起きた物不足など退廃的とも受け取れる描写はあるが、『ミミノ』の主人公がイスラエル——当時ソ連イスラエルの間には国交がなかった——に電話をかけるシーンが差し替えられた以外は検閲の被害を受けていない。ただ、この2作が明らかなハッピーエンドであった一方で、『長い見送り』はわかりにくい。私はハッピーエンドだと思うが、みんながみんなそう思うかどうかはわからない。物語にしっかりとした起承転結があるわけではなく、現実なのか妄想なのか観客に十分な説明があるわけでもない。突然エンディングが来たように感じる人もいるだろう。

 一言で言うなればこの映画は母と子の絆を描いた物語である。映画の前にも後にも二人の生活は延々と続いている。ただ、この映画の中で、サーシャは成長して、母親が自分を必要としていることを知る。エフゲーニャは息子の成長と自分を取巻く状況を受け入れるようになる。こうして、息子が母親を必要としていた一つの時代が終わる。観客は題名の意味を知る。

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〈表記に関して〉

1: よりロシア語の発音に近い「ムラートヴァ」ではなく、日本語表記でより多く見受けられる表記「ムラートワ」で統一して書いた。

2: 映画を表記する際は初出のみ『ロシア語の題(英題)』とし、その後は英題で統一した。ただし、この文章の主題である『長い見送り』に関しては、日本語題である『長い見送り』で統一し、冒頭でのみロシア語と英語の題を併記した。

 

 

〈映画のURL

megogo.net


 

〈参考文献〉

Film Comment

In Memoriam: Kira Muratova

https://www.filmcomment.com/article/memoriam-kira-muratova/

最終確認日:202125

 

The Gurdian

Kira Muratova obituary

https://www.theguardian.com/film/2018/jun/21/kira-muratova-obituary

最終確認日:202125

 

 

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#123 松山から高松

 

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令和元年 94

 書きたいことがたくさんある。忘れたくないことが星の数ほどある。

「山ほど」という言葉や「沢山」という言葉の語源はどこにあるのだろう。やはり日本が山がちだからこそ出来た言葉なのだろうか。この旅でもたくさんの山をみた。今日も松山から西条、新居浜を抜けて原付で走って来たけれど、国道11号線は途中で四国山地に入った。細い山道を縫うようにしてトラックや乗用車が走るから生きた心地がしなかったし、渋滞もところどころで起こるのだった。

 Ropeway St. Guesthouseでたまたま同室になったタチアナとドムに別れを告げて原付に乗ったのが今日の昼。松山城の東側にあるゲストハウス。一軒家を改装した建物はおしゃれな雰囲気で、オーナーも感じのいい夫婦だった。

 朝はゆでたモロヘイヤを食べた。少し固かった。早起きできたら道後温泉本館に行こうと思っていたけれどやはり起きれず、ゆっくりと朝食を食べた。食べながら、今朝見た変な夢を思い出していた。何者かによって高校時代の友達と共に校舎に監禁される夢だった。友達と離れた私は自力で脱出するのだけれど、脱出に成功した瞬間、自分だけ助かってしまったことに気付き、自責の念で苛まれ、ついには動けなくなってしまうのだった。私は上空から、コンクリートの上でうずくまる私の姿を、見下ろしていた。飛び起きると8時だった。私は時間をかけてモロヘイヤを咀嚼していた。

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 もう少し松山に居たかったので出発前に少し歩くことにした。城山のふもとから商店街を抜けて松山市駅まで。いつかの国語の授業で観た俳句甲子園の映像を急に思い出した。高校生がチームを組んで俳句を発表し、句の善し悪しをディベートするという内容だった。その俳句甲子園が行われていたのがこの松山の商店街だった。何年も前に観た映像をまだ覚えているのが驚きだった。その映像に出て来た場所に今立っているのも変な感じがだった。

 松山市駅から路面電車に乗りゲストハウスに帰った。ゲストハウスの近くの古書店三好達治の随筆集を買った。ドミトリーでパッキングをしながら「この人は詩人で、自然のことを詠んだ人なんだよ」と二人に説明した。

 出発前にタチアナとドムと3人で写真を撮ろうかと思ったけれどやめた。忘れてしまうのが怖いから写真を撮って、思い出に振り返ってばかりの今の自分がひどく不健康であるように思ったからだ。写真なんてなくてもいつでも思い出せるようにしたい。でもそんなの絵空事だ。悩んでいることも、哲学も、好きな人のことも、家族も全部無に帰るのだと思う。結局。バックパックを背負い、午後は高松を目指す。城も街も人も一瞬で過ぎて行った。タチアナは日本を旅行しながら水彩画を描いているらしい。私は日記をずっと書いている。書きたいことがたくさんある。

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 空腹を我慢して走り続けたせいで、立ち寄ったコメダ珈琲ではコーヒーだけのつもりがコロッケサンドも頼んでしまった。思ってより大きくて、食べた後眠ってしまった。イヤホンから聴こえるオードリーのラジオが心地よかった。ちょうどむつみ荘から放送した週で、二人でむつみ荘の思い出を話しているのを聴いているとしんみりしてしまった。いつか春日が住んでいるうちに阿佐ヶ谷のむつみ荘に行こうと思っていたけれど、いつになっても行けなさそうだった。

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 イヤホンの向こうから聞こえるコメダの有線が良かった。同じカウンターに座る女の人は私が来た時には期間限定のかき氷を食べていたけれど、今はグラタンみたいなものを食べている。よほど面白いのかずっと同じ本を読んでいる。私はノートを開いてまた旅のことを書いた。また時間が経って、書かずにはいられない自分の性について少しだけ考えた。

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仏生山温泉

 仏生山温泉は相変わらずぬるぬるしていた。肌に良いのであろうと思った。脱衣所で着替える時に車椅子の人がいたけれど、この建物は玄関から湯船にいたるまでほとんど段差がないので比較的楽に移動できるようだった。湯には1時間ほどいた。

 高松郊外の温泉。去年来たのは11月だった。私はまだ髪を伸ばし続けている最中だった。じろじろ見られた。髪の毛長い男が高松ではそんなに珍しのだろうかと思うほどだった。その時から髪を切ることを考え始め、暮れのロシア旅行の前に切ってパーマを当てた。ランボーみたいになった。それでもまだ髪は長かったようで、モスクワの地下鉄では女の子に間違えられた。トランジットで滞在した武漢でも男子トイレに入ろうとすると掃除のおばさんが「間違えているよ」とジェスチャーで教えてくれた。

 せっかく600円も払って入湯するのだからできるだけ長く入ろうと思った。何時間も原付の上にいてお尻が痛かった。体を伸ばして湯船の中で目を瞑るといい気持ちだった。お風呂を出た後はお座敷に座って少し休んだ。テレビでは野球中継がやっていた。

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 高松市中心部に着いた時には、お店はもう店じまいしているころだった。名物の骨付き鳥にはありつけなかった。結局遅くまで空いていたうどん屋に入った。そこは歓楽街のそばだったので、「マッサージどう?」なんていう声を笑顔でかわして店に入った。生しょうゆうどんを頼んだ。すっかりできあがったサラリーマンで店は繁盛していた。少し割高に感じたけれど、長いお店らしく雰囲気もよくて、味も美味しかった。お金を払い、商店街をまた歩いた。

 珈琲と本と音楽 半空は大人の空間だった。コーヒーを頼んで、閉店時間まで居座ろうと思ったけれど、その大人向けの雰囲気に緊張してしまい、私はすこし居心地が悪かった。店の奥に座る男女は常連のようでマスターと話している。髭のマスターはてきぱきと動きながら、話に耳を傾けている。もう一人で入り口の近くにいる人は、学生のようで何やら勉強をしているようだった。テキストの内容をルーズリーフにまとめているように見えた。たくさんの本と音楽がカウンターのこちらにも向こうにも積み重なっていて、知らない人の名前がたくさんあった。やがて2時になり閉店と共にみんな店を出た。

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 高松は24時間営業の店が少なくて、結局ネットカフェに泊まった。押見修造の『ぼくは麻里のなか』を読んだ。すごい面白くて全9巻があっという間だった。少し寝て、ココアとコーンポタージュとトーストをたらふく食べて朝の街に出た。

 

 

【今日の音楽】

 

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#122 部屋の整理(2)

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 子供向けの国旗の本。保育所に通っていた時、国旗の本をおばあちゃんに買ってもらった。たしかクリスマスプレゼントだったと思う。朝起きたら枕元に一目見ただけで中身が本だとわかる包みがあって、開けると色とりどりの国旗の絵が入った表紙が目に入った。ちなみに今も昔も私はプレゼントの包装紙が破れてしまうのがイヤで、セロテープをきれいに剥がすことに一生懸命になるタイプである。保育所の遊戯室には自由に使っていい画用紙があって、毎日国旗を色鉛筆で描いていた。そのうちに、どうやらどの国にも「しゅと」というものがあるらしいということが解ってきた。日本の首都は東京。韓国の首都はソウル。中国の首都はペキン。覚えることがたくさんあった。今も昔も我が家のトイレには地元の銀行が年末に配る大きなカレンダーがあって、メルカトル図法の周りに12カ月が配置されていた。

 

 中学校の国語便覧。あんなによく読んだのに、読み返すと、あまり良いものではなかった。夏目漱石芥川龍之介以外にも日本には良い作家がいるのに、彼らのことしか書いていない。評価され過ぎて権威的な文学になってるのだとしたら作家にとっても読者にとってもよくないと思う。また便覧には、ことわざや四字熟語、日本語の細かい文法のルールも載っていた。海外で日本語教師をするときに便利だろうと思ったけれど、そんな日が実際に来るとは思えないので捨てることにした。

 

 高校1年生の時の生徒会報と文化祭実行委員会から配布されたプリント。私の高校は各学級で劇をする伝統があった。当時の私は劇を仕切る係をしていた。今となっては考えられないけど。劇の小道具を学校から借りるための申請書が出て来た。担任のハンコと署名。文化祭実行委員の署名。顔と名前だけは知っている先輩。今何してるんだろ。何してるんだろ自分。

 

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 世界史についてまとめたノート。表紙は三国時代の中国の地図があって、曹操劉備孔明孫権のイラストも添えられてある。同時代の朝鮮半島の勢力図も色分けされている。その時代の朝鮮半島中南部には馬韓弁韓辰韓があったと考えられている。受験生だったころ、教科書を読む気になれない時は図書館で世界史に関する本を借りて世界史の知識を得ていた。ノートは主に中国史について書かれている。『鄧小平』と『中国反逆者列伝』という2冊の内容にそって大学入試に必要な知識がまとめられている。

『鄧小平』は戦時下における鄧小平の下積みと、中国共産党の権力闘争の話が主で、中国の現代史について18歳の私はまとめていた。特に毛沢東の死と共に終わった文化大革命、その後の改革経済。ノートによれば鄧小平は客家出身らしい。「客家とは、南方の『本地人』に対して、よそから来た人の意。その多くは非漢民族華北を支配した東晋、唐代末、南宋、明代末、清朝末の5つの時代南方へ移住した。南の文化に同化せず、固有の文化を保ち続けた彼らは結束が強く排他的で、また勤勉で賢いと言われる。現地人から山間のやせた土地しか与えられず、しばしば土地争いが起きた」ノートにはそんなことまで書いている。

 ちなみに、台湾に漢人が移住するようになるのはオランダの統治が終わる17世紀からで、多くの客家も華南から海峡を渡って台湾に移住した。そして大陸でそうであったように土地争いも起きた。いつか読んだ台湾の本にそんなことが書いてあった。

 余談になるけれど、鄧小平は89年の64日に天安門広場でデモ隊に対して武力弾圧を行った人である。今でも天安門事件は中国ではタブーとなっていて、インターネットでも検索できないらしい。中国からの留学生と香港やウイグルの問題について話した時に、なかなか話がかみ合わないことがあった。私は天安門事件のことを思った。武力行使を鄧小平が命じなかったら、香港やチベットウイグルにおける現在の人権侵害はもしかしたら起きていなかったかもしれない。

 高校3年生の当時、いかにして勉強に対するモチベーションを上げられるかということを考えていた私は、ノートの表紙に絵を描いていた。世界史の勉強と地理の勉強を組み合わせたノートを作ったり、現代史に関わる英語の記事を読んだりしていた。次第に、好きな分野の勉強ばかりしてしまい、数学の勉強はほとんどやらなくなってしまった。

 

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 浪人時代の河合塾のテキストが出てくる。

 多和田葉子のことを初めて知ったのは現代文のテキストの中だった。アライという名の現代文の教師が「正直、多和田葉子村上春樹よりもノーベル文学賞に近い」ということを言って、『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』という文章を読んで問題の解説をした。

「ここに傍線Aを引く! ぴしっ」

「ぴしっ」をわざわざ発音する先生が面白くてクラスで何人もが真似していた。

 ページをめくるとよく覚えている文章がたくさん出てくる。リービ英雄『「there」のないカリフォルニア』、姜尚中『悩む力』須賀敦子「クレールという女」。

リービ英雄は台湾のことが好きになって調べていた時に『模範郷』という本を読んだ。幼年期に台湾で過ごした作者が大人になってから台中に帰って、昔住んでいた場所を探すというお話だ。烏丸の大垣書店若林正恭の『社会人大学人見知り学部卒業見込み』と一緒に買った。2019年の5月。M先輩と京都を一日歩いた後だった。

『悩む力』は結局買った。天神橋筋の天牛書店。読んだけれど内容は忘れてしまった。須賀敦子の「クレールという女」は『遠い朝の本たち』に収録されている。買ったけれどまだ最後まで読めていない。読むと泣いてしまって進められないのだ。私の本だなにはそうした本が何冊かあって、今年こそは読もうと毎年思うのだが結局読めない。困る。

 大学受験のための授業だったのにアライ先生のことはなぜかかなり記憶に残っている。酒を飲んで留置場で泊まった話や、文学を研究していた学生時代の話など、授業の合間に挟まれる話を毎回楽しみにしていた。同時に先生の人生を諦めたような言動に哀愁を感じたりした。授業後に質問に行くと、酒の匂いがしたりもした。今元気でおられるだろうか。まだ予備校教師をしているのだろうか。テキストで詩が出た週には穂村弘の短歌をプリントに刷って配ったりしていた。

 

 数学のテキスト。名前も忘れてしまった予備校教師たち。まだうっすら顔は思い出すことができる。数学が苦手だから文系にしたのに、文学部の合否を分けるのは数学の点数だと知ってやるせない気持ちになったのを覚えている。結局本番の試験でも数学は5問中1問しか解くことができなかった。

 

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 ミャンマーのパガンで買った砂絵。あまりいいものではない。捨てるかどうかまだ迷っている。パガンは観光地である。パゴダと呼ばれる仏塔が見渡す限り一面にあるのだ。電動バイクや自転車で仏塔をめぐり、写真を撮り、水辺で船から荷物を運ぶ人を見た。子どもにお金を要求され、ある9歳ぐらいの子どもは腕時計が欲しいと言われた。誰かを断罪することも、説教をすることもまっぴらだった。ただ悲しかった。観光が彼らの子ども時代をスポイルしてるように思った。観光客といて楽しんでいるだけの自分もその片棒を担いでいた。

 

 丸谷才一『笹まくら』のストーリーを時系列にまとめたメモ。2019年の夏、『笹まくら』の舞台となる西日本の街を巡る旅をした。杉浦健次が阿貴子と出会った皆生温泉近くの日野川の河口。出雲大社、そして杉浦健次が終戦を迎える宇和島の城山。天赦園の由来となった伊達政宗の晩年の漢詩。赦すとは赦されるとはどういうことなのだろうか。映画よりも映画的な小説。でも映画ではどうしても表現できないだろう。杉浦と阿貴子が結婚していたらどうなっていたのだろうと時々思う。存在しない人物のことを考えて現実にいる人たちのことをないがしろにしている。よくない。

 また今度は、芥川龍之介の「偸盗」に出てくる登場人物の相関図のメモ。もうかなり忘れてしまったけれど阿濃のところが気に入った覚えがある。

 

 全部捨てることにした。そう全部捨てる。

 

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#121 部屋の整理(1)

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例題12「次の日本後の文章をロシア語に訳しなさい」

 

「自分は他人とは違う」「自分こそが××にふさわしい」という慢心、他者への優越。今の自分が「しんどく」なっている原因はこういたものなのではないだろうかと思った。O大学に入った時、周囲のことをなんとなく見下していた。それはK大学に行きたかったということもあるし、自分が浪人したこともあるし、単に周囲となじめなかったってのもあると思う。4年、あるいは5年で大学を出て、「はい! 今からここが『社会』です!」って言われて働き始める自分が全然想像できなかったし、そもそも働きたくなかった。自分の「才能」にはスーツも似合わなければ、満員電車もブリーフケースもデスクワークも外回りの営業も似合わないと思った。自分にこその何らかの使命があると思っていた。だからこそ他人にはあまり興味がわかなかくなったし、他人と違う自分でありたいと思ってた。(→解説は402頁)

 *1

 

セブンイレブン関西空港2ターミナル店のレシート。201881日(水)01:15

セブンイレブン関西空港2ターミナル店のレシート。201881日(水)05:07

SEKISUIを知るinternship2018。就活の合同説明会でもらったチラシ。多分2018年の10月に行ったイベント。今のところ自分が参加した唯一の就活イベント。日本コーンスターチ株式会社、読売新聞社スーパーホテルのことが書いてある冊子。その日、スーパーホテルの印象はとても良かったのだった。2020年に支配人と副支配人が残業代の未払いで訴えるまでは。過酷な労働を強いていることを知るまでは。

 

なら国際映画祭近隣飲食店MAP。これも2018年。先輩の侘路さんと行ったやつ。自分が楽しみにしていて、先輩を誘って行ったのに、映画の途中で寝てしまった。

 

米沢ドライビングスクールで受けた効果測定の結果。点数81結果不合格。

新生銀行ATMで出金した際の明細。

中國信託銀行ののATMで出金した際のご利用明細2枚。

ミャンマーに入国する際に提示したEビザの写し。

近所のインド料理屋のチラシ。黄色が鮮やか。このチラシを持っていくとランチが50円引き、ディナーが10%引きになるらしい。

北海道見どころ観光バス道路図。中央に地図があり、端には北海道の難読地名や方言が紹介されている。「小さい」が「ちゃんこい」、「こんばんは」が「おばんです」は何となくわかるけれど、仲間外れにされることを「あっぱくさい」あるいは「あいてくさい」、寒さが厳しいことを「しばれる」というのは聴いてもわからないだろう。

株式会社シギヤ精機製作所のパンフレット。株式会社QOLサービス。株式会社エブリイホーミイホールディングス。株式会社ビンゴ漬物。株式会社キャステム。全て20189月に福山市で頂いたもの。

 

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京都国際写真祭のチラシ。かっこいいデザイン。友達がスタッフとして働いていて、M先輩を誘って一緒に観に行った。アルバート・ワトソンという人の写真の展示を見たと思う。M先輩とはもう連絡をとってない。写真展ももう忘れてしまったかもしれない。スタッフをしていた友達とは場所が違うのかシフトが違ったのか会えなかった。

 

届書(申請書等)の返戻などについて。日付は2019823日。たぶん市役所から送られてきたもの。その裏には日帰り旅行の日程がメモ書きされている。20199月下旬。私たちは竹田城跡と日の出を眺め、出石でそばを食べ、温泉に浸かった。

 

メモ。ボールペンでこう書いてある。怖い。

「ばらばらになった元素。僕たちは再びくっつきあい、またちがった命になる。くりかえされた最後、この星は太陽にのみこまれる」

 

免許合宿でもらった紙束。A4の紙数枚をホッチキスで留めたもの。1枚目は自動車学校の教習計画表。車種普通自動車AT)。私の担当教官は高橋邦則さんという人だったみたいだ。2枚目は宿舎に泊まる際のルールをまとめられたもの。門限は原則として午後10時だそうだ。3枚目はホテル周辺の地図。裏にあるメモによると、運転中に取るべき車間距離は、時速3060の時は時速から15を引いた数を、時速60以上の時はその時速の数字をそのままmにしたものだそうだ。例えば時速45で走る時は30m、時速70の時は70m、前の車と距離を取らなくてはならない。では時速15ならおかまを掘ってよいと? 同じく合宿で配られたであろう小冊子「運転者による応急救護処置」平成281031日第五訂版発行。一般社団法人全日本指定自動車教習所協会連合会が編集・発行したもの。一般社団法人全日本指定自動車教習所協会連合会は漢字で22文字。9歳の時、知っている一番長い単語は駒沢大学附属苫小牧高等学校だったけれど、これは漢字にすると14文字しかない。15年間で8文字分だけ大人になった。

 

また、なら国際映画祭近隣飲食店MAP。その下にはなら国際映画祭2018ネットアンケートのおねがい。2枚ある。QRコードを読み取るとグーグルフォームがあってアンケートに答えられるようになっている。同じところに、なら国際映画祭2018上映スケジュール&チケット情報。A3の紙が4つ折りになっている。

 

大阪大学体育会入会案内の青い封筒。中には大学一回生の時の情報の課題や、ロシア語の授業メモが入っていた。

 

ふるさとワーキングホリデーのご案内。労働契約書と銀行口座の写し。これは南丹の農場で働いた時のものだろう。

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農場で描いた絵

2010年度J2 Grading Test。昔通っていた英語塾のテスト。(  )内に適切なものを選びなさい。上下の文がほぼ同じ文になるように(  )に適語を入れなさい。

 

2016大阪大学Integrared English後期中間テスト4時限目クラス。「答えは全て回答用紙に書くこと」という文があり、下線が引かれている。次の文章を読んで以下の設問に答えなさい。林という名の日本人の先生で、つまらない授業が多かった。

リムジンバス領収書。平成30731日。関空まで片道1750円。

カラーボックス3段取扱説明書および組み立て解説書。その裏には私のメモ書きがあって、バンドみるきーうぇいの曲名が箇条書きに書かれていた。おそらく2018924日のライブのセトリだと思う。グッズを買って、伊集院香織さんに握手をしてもらった。あの頃はCOVID19なんてなかったから気にせずにライブに行き、ドリンクを買い、繁華街を歩けた。

 

紙束2つ。「秋の風」「長生きすること」と題された私の文章。作家志望の友人に見てもらうために印刷したのだけど、ボロクソに評されて腹が立った。思い出のまたその下から思い出が出てくる。彼とはもうあんまり会いたくない。

 

口座振替開始のお知らせ〉by市役所税務管理課出納チーム。原付に乗り始めた時に市役所から来た手紙。

 

大学の図書館に置いてある小冊子2つ。表紙にはそれぞれ「ロシア映画特集」「レポート・論文のための引用の技術」

 

Звезда по имент солнцеの歌詞とコードの書かれたプリント。ロシアのバンドкиноの曲。ロシア人の先生が印刷して配ってくれた。

 

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なら国際映画祭近隣飲食店MAP。何枚あるんだろ。映画を観る度にもらったのだろうか。

花蓮で買った服についていたタグ。Mサイズの服。店員はアミ族の血をひいている女の子で、同年代だったことや彼女の弟が日本に留学していることもあって、お互いの国や文化のことを色々話した。もう3年も前のことになる。今でもたまに連絡を取っている。

 

米沢ドライビングスクール教習生手帳。19ページを空けると、「他の人の運転中に危険をよそくしてみましょう」という項目があった。そこにあるメモによれば、私はイシダとカワイ、それから教官と共に米沢市内を走ったらしい。雪道で標識が読めずに大変だった。

 

令和2年度(2020年度)軽自動車税(種別割)納税通知書。

改元に伴う元号の取り扱いについて(お願い)。大変恐れ入りますが、同封の国民年金学生納付特例申請書にご記入頂く際には、「平成」と記載された箇所を二重線(=)で抹消の上、「令和に修正していただくようお願いいたします。」

どういった理由で「頂く」と「いただく」を使い分けているのだろう。もう公的な書類は全て西暦にすればいいのに。

 

また別のインド料理屋のチラシ。家から歩いていける距離に4つもインドカレー屋がある。このチラシについてあるクーポンもまたディナー10%引き。

 

チバレイのデジカメ便利事典』2001629日発行。千葉麗子って誰だよって思って調べたら、はすみとしこや杉田水脈と一緒に写っている千葉麗子が出て来た。大変不愉快。この本は捨てよう。しかしこの本、どれほど売れたのかしら。

 

ハバロフスクでロシア2部の試合を観た時のマッチプログラム。あの日、アムール川沿いのレーニンスタジアムで、CKAハバロフスクトムスク1-0で勝った。

 

20197月にバイクで事故した時のメモ。保険屋さんとのやりとりなど。夜勤明けの後ブックオフのカベに穴を開け、同じ日の夜、友達と十三でお酒を飲んだ。ミスタードーナツで本を読む私の前に友達が現れる一瞬。赤玉パンチ。画廊の話。音楽。会いたい。

 

平取町立二風谷アイヌ文化博物館のパンフレット。従妹が修学旅行で持ち帰ったもの。いつか行きたい。アイヌ語の一覧がプリントされていた。

 

国民年金保険料納付のご案内。どうせほとんど私は受け取れない。

 

 

 

【今日の音楽】

youtu.be

 

 

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*1:ユーリー・イシドロビチ・シュクスコイ『ロシア語学習者に送る9つの手紙』シベリア出版,2008,217

#120 固執

 

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固執

 

時間が止まったように感じられることは? 

自分だけが暗い穴を落ちていくのに、世界は私には気づかないで昨日と同じ顔で回り続ける

不公平だと思ったことは? 忘れてしまったの? あんなにも怒っていたのに

あの頃、あなたは私の側にいて、私と同じように世界に憤っていた

 

短い春と乾いた夏が過ぎて、あなたが遠くに行ってしまったことを私は知った

何通かあなたから手紙が来たけれど、何一つまともには読めなかった

途中まで書いた便箋がうず高く積み重なり、時々雪崩のように崩れて床に散らばった

私は誰に見せるわけでもない文章をノートに書き続け

ついには積み上がった紙で家を作り住むことにした

 

秋が深まるまでに紙でできた家は冷えるようになっていた

北風が壁から紙を剥がして持って行った

二度と戻らない文章を思って私は泣いた

そのうち本当に寒くなると私は11枚ノートを燃やして暖をとった

あの人の思い出が、あの日の思い出が、ひとつまたひとつ失われていく

その冬最後の寒波が去ると手元に残ったのは10枚の紙きれだけだった

 

雪解け水が小川を作り、いくつもの小川があつまって一つの大きな川になった

私は10枚の紙で船を折り水に浮かべた

海までゆくのだと思った

私にはもう戻れる場所がなくて、だから新しい場所に行かなくてはならなかった

その場所ではあなたの思い出は必要ないだろうと思った

 

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【今日の音楽】

youtu.be

 

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