シゲブログ ~避役的放浪記~

ありゃりゃ、みつかっちゃったぜ

#88 4回目の仙台

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 今メモ帳として使っているこのノートは実は2017年のスケジュール帳である。年始の家族旅行から始まり、農場での住み込みバイトで終わった2017年は本当にちゃらんぽらんな1年だった。精神的にとても不安定だった。多くの人に迷惑をかけてしまった。自分も落ち込んでばかりだった。私は明日から1週間農場で働くのだけれど、やはり思い出すのは3年前の南丹の農場のことである。つらい時期だったけれど土と植物を触っていたら自然と心が落ち着いた。今は心の状態も安定して、そんなに落ち込むことも少なくなったけれど、植物の感触や、「暮らしにつながる仕事」をしている感覚は恋しい。もちろん都会でも四季や自然を感じることはできる。けれど、時々生きているという実感が乏しくなって、そんな時自然の中にある生活が恋しくなる。

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南丹の農場。1ヶ月くらい過ごした

 

 私は今仙台にいるけれど、初めて仙台に来たのも2017年だった。人生で初めて北海道に降り立ち札幌を観光した後、苫小牧から仙台港までフェリーに乗った。仙台港から電車に乗り鹽竈神社を観光したのだった。そして夜は高校の同級生、R太郎君の部屋でアルコールを飲んだ。仲の良かった同級生にも電話をかけたりした。旅行先に知り合いがいるというのは嬉しかったし、昔のあれこれをまた語れて楽しかった。定禅寺通りの色づいた欅並木を歩いたり、美香園という広東料理の店であんかけ焼きそばを食べたのもこの時だったと思う。それが、もう3年も前になってしまった11月の7日とか8日とかそこらへん。

 仙台に来るのは人生で4回目。前回は去年の10月に来た。目当ては山形国際ドキュメンタリー映画だったので、仙台空港からレンタカーに乗った。仙台市内は素通りしたから、実質的に仙台に来るのは2018年の1月以来ということになる。実はその時も旅の目的地は仙台ではなかった。米沢市のドライビングスクールで免許合宿をすることにした私は、ついでに東北の他の地域も回ってみようとしたのだ。仙台市内や石巻、そしてすっかりおなじみになった山形に寄って、米沢市にたどり着いた。あれからもう2年も経ってしまった。

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鹽竈(塩釜)神社の紅葉

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定禅寺通りの欅並木

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広東飯店 美香園

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あんかけ焼きそば

 

 夜行バスを降りた5:30の仙台はまっくらで、空には月が、駅前にはマクドナルドが光っていた。店内にはかなりの人がいてこの街ではマクドナルドぐらいしか夜を明かす場所がないのかもしれないと思った。「朝マック」を頼んで、いつもの旅と同じようにノートに文章を書く。たまり場のようになっている店内は案外にぎやかだった。ひと通り文章を書いた後で、仙台市内をどうめぐるか考えた。仙石線石巻まで行きたかったけど、時間が無くなりそうなのでやめた。朝風呂を入れる場所や朝ごはんの美味しいお店を探したが、物足りない気がして、結局荒浜に行くことにした。2年前の1月と同じだった。

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地下鉄東西線。けっこう深い

 地下鉄東西線の一番東の駅、荒井駅からバスに乗り込む。前回1時間かけて歩いた道のりはバスでは20分足らずだった。2年前にはなかった大きな丘があった。津波が来た時にはこの丘に避難できるのだろうと思った。だいぶ工事は進んでいて家の跡地があった所がアスファルトで整備されていたり、家の残骸が震災遺構となって近くまで寄って見れるようになっていた。相変わらず旧荒浜小学校はバス停の側にたっていて、でも今日はコロナウイルスのせいで休館だった。浜には観音像があった。何しろ家がないので遠くからでも観音様がよく見えた。観音像と慰霊碑の脇には若い松林が育っていた。浜から山側を見るとかさ上げ工事をしているのが見えた。かさ上げをしたところで人が戻ってくるのだろうかと思った。2年前にも同じ疑問を抱いていた。時間が経てば経つほどこの問題は切実になるのだろうと思った。

 昨日でちょうど9年だった。今日から10年目が始まる。9年間何もできなかったという感じである。14歳の時の何もできなかったという無力感は今もそっくりそのままある。

 1時間荒浜を歩いた。人の住んでいたであろう跡が至る所にあった。残った家の基礎を見ながら勝手口の場所や間取りを考えて、その家にかつてあった暮らしに思いを巡らしたりした。津波が一つの街を飲み込んでいく様を想像するとつらくなった。昨日が丁度311日だったので街には花束がいくつもあった。慰霊碑の所にも花があった。海水浴場だった岩沼海岸の近くには数台車が停まっていて、私がそこにいた1時間ちょっとの間にも数家族が献花に訪れていた。砂浜でバドミントンをしている親子もいた。砂浜はきれいなのだけど風が吹きつけて寒かった。白い波が飽きずに寄せては帰っていった。

仙台市若林区荒浜で多数の遺体」

その夜のラジオでひっきりなしに流れたセリフだった。私は眠れなくてウォークマンFMラジオを聴いていた。夕方のニュースの映像も原発の事故も未だに現実味が無くて、ただただ大変なことが起ってしまったと思った。暗いベッドの上に仰向けになって頭の中ではいろんなことがぐるぐる渦巻いていた。14歳の私は何を感じたのだろう。無力感? 絶望? 恐怖? あんまり覚えていない。

 次の日には中学校の卒業式があって、司会を務める国語の先生が「本日は祝いの式ですので、おめでたい表現が出てきます。予めご了承願います」みたいなことを言った。そこで私は、ここに座っている父兄の中にも、生徒の中にも東北にルーツがある人がいるのだと知った。ルーツでなくても、友達や家族が東北にいたりするのだろうと思った。当時金沢より北に行ったことのない私にとって、東北は異国のように思えていたが、先生の言葉で昨日のニュースが同じ国の出来事なのだと再認識した。小学校の同級生、Uさんのことも思い出した。彼女は仙台から転校してきたのだった。彼の地にはUさんの友達もいて、もしかしたら被害を受けているのかもしれないと思った。教室や廊下では至る所で地震津波原発の話がもちきりで、各々興奮した様子であった。

 浴室だけが残った家。門だけが残った家。暮らしの痕跡とそれよりももっとむき出しのまま残る津波の跡。貞山堀にかかる橋にもガードレールにも9年前の跡がそのままあって悲しかった。震災遺構は年々取り壊されたりしているけれど、毎日目にすることに耐えられない人も確かにいるのだろうなと思った。9年間自分は何をしていたのだろうと思った。

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2020年3月12日

 

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バスは1時間に1本


 バスに乗り込んでまた
40分ぐらいかけて仙台市内に戻った。仙台市中心部と荒浜は別の世界のように思えた。ぼうっとしながら商店街を歩いたらミスタードーナツを見つけたので入った。いろいろ書いて、また出た。R太郎からラインが来て仙台駅でランチを食べることになった。待ち合わせの前に私は定禅寺通りを歩き、いつの日かの広東料理の店の横を通り、せんだいメディアテークまで足を伸ばした。コロナウイルスが紙面をにぎわしているこのご時世、展示はすべてキャンセルになっていた。私は伊東豊雄の建築が好きなので建物の写真だけ撮って、R太郎と待ち合わせをしている仙台駅の方にまた引き返した。

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せんだいメディアテーク。人は少なかった

 

 指定された仙台駅の改札前にはたくさん人がいたけれど、東北大学院生になった彼の姿はすぐに見つかった。前に会った時よりもかっこよくなっていた。彼はなんというか着実に「大人」になっている気がする。前仙台に来た時と変わらないバックパッカースタイルの自分が、ひどく間抜けに思えた。着てる服も高校の時と何も変わっていない。自分のことながら笑ってしまう。

 茶髪になって、でも人懐っこい笑顔はそのままの彼と、駅構内にある「ハチ」という有名な店に入った。二人でおそろいのハンバーグナポリタンを食べた。いつぞやのテレビでサンドウィッチマンが紹介していただけあって、とても美味しかった。パスタが絶妙の太さで、ハンバーグは切ると肉汁が溢れて、1週間毎日食べても飽きないだろうと思った。 1月にも会っているので、そう大して話すこともないたのけど、お互い今年が就活なので自然とそういう話になった。前仙台で会った時シゲはドキュメンタリーに興味を持ち始めた頃だったよな、とフォークをくるくる回しながら彼が言って、確かにそうだったと私は思い出した。「ドキュメンタリーを作りたい」とか夢ばかり語って何もしていないのだと思うと恥ずかしくなった。

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ハンバーグナポリタン。とっても美味しい

 東北大学コロナウイルスの影響で春学期の授業の開始が4月後半になったそうだ。それでも院生の彼は毎日研究室に行って勉強をしているのだという。今日も大学に行くのだと言って、ナポリタンを食べた後は青葉城の方に歩いて行った。高校の時のようにあっさりと別れて、私はバスの時間まで仙台駅周辺を歩くことにした。バスターミナルには宮城県内のみならず東北各地に行くバスがあって、ワクワクした。乗り場もバスの種類もたくさんあって、日本で一番心が高鳴るバスターミナルかもしれないと勝手に思っている。

 私は明日から宮城県北西部にある栗原市というところで働くのだった。これから2時間後には栗原市くりこま高原駅で降りて、新しい生活が始まるのだと知っていても実感がわかなかった。とにかく旅の疲れで眠かった。東日本急行のバスは時間通り13:50に来て、バスの座席に座った途端私はすやすやと眠ってしまった。 

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バスターミナル

 

 

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#87 拝啓宇宙人様

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〈詩のコーナー〉

 

拝啓宇宙人様

 

昨日おばあちゃんが死んじゃった

358分の熱だった

明日棺の中骨になって

いつかお墓に入るのだろう

 

遠くない日におじいちゃんだって

動かなくなる日が来るのだろう

おなじような白い骨になって

おんなじお墓に入るのだろう

 

いつか元気なぼくの両親も

帰らない人になるのだろう

彼らが歩いてきたみちのりも

誰も思い出さなくなるだろう

 

いつかいつの日かぼくだってね

土に還る時がくるだろう

昨日の電話明日の給食

全てが無に帰る————

 

 

みんな誰も彼もいなくなって

いつか文明さえもなくなって

街があった場所に風が吹いて

亡霊だけがさまよい続ける

 

ある日宇宙船がやってきて

彼らはぼくの街を見つけるだろう

彼らなりの解釈を施して

僕らは再び息を吹き返す

 

たちまち蘇るネット空間

他愛ないやりとりクラスline

メールのはじめの決まり文句

「お疲れ様です」「よろしくお願いします」

 

彼らは笑い泣くだろうか

そもそも面白いと思うだろうか

理解しようとしてくれるだろうか

覚えようとしてくれるだろうか

 

 

忘れられることが怖くて

忘れられたくなくて

だから今日も歌っています

暗い澱の中の醜悪をさらいながら

何食わぬ顔で

 

忘れることが怖くて

忘れたくなくて

だから今日も書いています

奥底から出てくるきらめきが

夢だったとしても

信じていたいから

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#86 映画『フィッシュマンの涙』を観た

 

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 深夜、文章を書いていた。やっと進級できたこと、昔の友達にまた会ったこと、昔住んでいた町を歩いたこと。3月には別れと時の流れを実感してしまう。つらつらと今しか書けないであろうことをノートに書いていた。

 傍らにあるラップトップで音楽を流していた。Still Corners、それからTalking Headsを聴いた後、最近知った자우림Jaurim/紫雨林を聴いた。しんみりした。心が疲れた時に聴く音楽は毎回いいなあと思う。韓国語の菓子を聴いていたら韓国映画が観たくなってきた。『親切なクムジャさん』にしようと思ったのだけど、アマゾンプライムではもう観れなくなっていた。それなら同じパク・チャヌク監督の『オールドボーイ』はどうかと思ったが、大量の血を見る気分ではなかった。もちろん『親切なクムジャさん』も血は出るのだけれど、『オールドボーイ』の比ではない。それに暴力シーンは作業の邪魔になりそうなので、かねてから観たかった『フィッシュマンの涙』を観た。

 2015年、クォン・オグァン監督。92分。原題は『돌연변이』。グーグル翻訳で発音を聴いたところ、カタカナで表現するなら「ドリョンビョニー」っといった感じである。「突然変異」という意味らしい。ちなみに英題は”Collective Invention"。「集団的な発明」あるいは「共同での捏造」。そういった訳が適切だろうか。多分二重の意味を持たせた含みのある題名だと思う。 

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ソウル

 パク・グ(イ・グァンス)は平凡そのものであった。大学を出たのだけれど平凡すぎるが故に、就職できなかった。仕方なく彼は公務員試験の勉強を始め、治験のバイトをした。その治験のせいで彼は魚人間になった。その突然変異の理由は誰にもわからないようであった。

 主人公サンウォン(イ・チョニ)は「真の」記者になりたい。面接の前に彼はなぜ自分が記者になりたい理由を書いて覚える。「国民のために真実を知らせ、社会の不条理をただし、弱者を守る」 彼はずっとそういう人になりたかった。でも面接官の部長にとっては彼の言葉なんてどうでもいい。会社は今ストライキ中で人員不足なのだ。すぐにでも動ける人が欲しいのだ。途中で遮られ非正規としていきなり取材に飛ばされるサンウォン。「仕事ぶりを見てから採用するか決めてやる」と言う部長の言葉を信じてがんばるサンウォン。

 彼は「魚人間」のことをネットに書き込んだジン(パク・ボヨン)のところにカメラを持っていく。サンウォンの初めての取材は自己顕示欲丸出しの彼女に振り回される。サンウォンを演じる は髪型のせいかどこか星野源に似ている。なかなかサンウォンという名前を覚えられなくて、星野源と心の中でこっそり呼んでいた。

 

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魚人間は喉が渇くのだ


 初め「治験によって人生を狂わされた男が製薬会社に復讐する」という内容の映画だと思って観ていた。もしかしたらフランス映画の『ミックマック』と似ているかもしれないなと思いながら見始めた。冒頭のコメディ調で語るナレーションといい、アコーディオン——もしかしたらバンドネオンかもしれない——の音楽といい、どこかしら『アメリ』と似ている気がした。この監督はジャン・ピエール・ジュネの映画が好きなのだと思った。手元では進級した時のことをペンで書き進めていた。

 しかし、面白すぎて段々ノートではなくスクリーンに目がいくようになり、そのうち書くことが浮かばなくなってしまった。復讐コメディだと思っていたのが段々社会派ドラマのようになってきた。大卒なのに就職できずバイトをしながら公務員試験の勉強をしていたグは、「貧困する若者」としてメディアに持ち上げられ一躍時の人となる。格差社会や就職難といった社会問題を身をもって体現するアイコンとなり、街行く人に写真を求められたり、魚人間のグッズが作られるようになる。パク・グの意志とは関係なく政府に対してデモが行われ製薬会社が糾弾され、当然のように裁判では勝訴する。しかし段々と雲行きが怪しくなってくる。

 サンウォンは自分がメディアの人間であることを隠している。彼はドキュメンタリー作家としてグとその周りの人間を取材している。グの父親(チャン・グァン)、人権擁護派のキム弁護士(キム・ヒウォン)、それにグが唯一頼れる相手で会ったジン。全員曲者で、パク・グのことを考えているように装いながら、その実、自分のことしか考えていなかったりする。父親は何かにつけてお金のことを口にし、裁判でより多く賠償金をせしめようと画策する。年下と女性に厳しい彼はジンのことをよく思っていない。大学に行っていないジンをあからさまに馬鹿にする。最近の若者は我慢が足りないとかなんとか。ジンがもう若くないことを見てまた非難する。20世紀のジェンダー観をそのまま引きずったミソジニーだ。そんな父親にパク・グは自信を奪われ、へこへこしている。父子の仲も良好とは言えない。というか最悪だ。キム弁護士も人権派として有名でありながら、結局は大衆を扇動する輩である。最初から最後までどこか胡散臭い。人間がつかめない。

 若者と中年の対比が映画の軸でもある。日本と同様少子高齢社会が進む中、若者がメインストリームにいない世論に、若者たちは振り回される。製薬会社とピョン博士(イ・ビョンジュン)の実験によって魚になったパク・グ。正規として働けず、部長にいいように使われるサンウォン。女性であるという理由で軽んじられることに怒り、社会に対する不満をことあるごとに露わにするジン。コメディ映画の体裁をとりながら韓国社会のいびつさを告発する映画だと思う。それでいて説教臭くなく爽やかである。あんまり難しいことはわからないけれど、多分脚本が素晴らしいのだと思う。社会の不条理を感じながらも、物語の最後に3人の若者はそれぞれの将来へと進む。

 

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ソウルのメトロから


「パク・グ」対「カンミ製薬会社」。常識的に考えて
100%悪いのは製薬会社であり、パク・グは治験を受ける前と同じ程度の「人間らしく生きる権利」を保証されるべきである。しかし世論は簡単にメディアに左右される。実験の責任者であるピョン博士の研究がノーベル賞級のもので、食糧難を解決しうる大発見であることが知れ渡ると、メディアはすぐ手のひら返しである。逆にパク・グは捏造されたセクハラのせいで大バッシングを受け、「アカだ!」なんて言われて物を投げられたりする。逆に博士はヒーローとして持ち上げられる。カンミ製薬を大企業が買収し、二審では製薬会社側が勝ってしまう。ありえない判決が実際に下されてしまう。

 渦中にあってもパク・グの表情は変わらない。というか魚人間に表情はない。パク・グの周囲の人間は右往左往するが、彼自身はもう精気もなくほとんど感情的にならない。裁判にも就職にも人生にもとっくの昔に諦めた様子である。最初は頭だけ魚だったのが、頭以外の部分もどんどん魚に近づいていく。手にはみずかきが生まれ、こまめに肌に霧吹きをかけなくてはいけない。笑い声もうまく出せない。

 そんな魚人間を見ていると、『千と千尋の神隠し』のカオナシが思い出された。しかしカオナシが無個性化する社会や若者の象徴であったのに対して、無表情の魚人間は普遍性を表しているように思えた。この主人公パク・グに起きた出来事は誰の人生にだって起こりうることなのだと、そう思った。実際パク・グの素顔はちょびっとしか出てこないし、彼の育った環境や教育だってありふれたものなのだろう。

 あるいは、「本当に困難にある人は感情を表に出すことが出来ない」ということなのかもしれないとも思った。行き場を失ったパク・グは通りで出会った中学生に殴られる。理由は「気持ちが悪い」から。

「殴られてるのに笑いが出たよ。その子たちの言ったことに間違いはないから」

 

  何という悲しいセリフ。無表情の魚人間は悲し気なオーラをいつも漂わせてはいるものの、感情をほとんど表に出さない。父親がひどいことを言っても言い返したりはしない。パク・グのための市民運動、デモ活動とカウンター。彼のいないところで彼を巡って対立が起こる。誰も彼自身のことを見ていない。彼がどう感じているかさえ気にせずに魚人間の存在を利用しようとする。

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風呂場のシーンがよかった


 パク・グはサンウォンに語る。普通に就職して、結婚をして子どもを持つことが夢だと。それの「普通」さえ望めない人々の悲しさを魚人間は伝える。無表情のうちに。地方大学出身でコネもないサンウォンは自分が正社員になるためにこの魚人間の取材を成功させなくてはいけなかった。それでも大きな力が動いて部長は彼に取材の中止を命令する。正義が通らない現実に憤りを覚えるサンウォン。そして、パク・グは体が「魚化」しすぎたため、これ以上生きていくことが難しくなる。彼はピョン博士を頼り、カンミ製薬で人体実験を受けることにする。ほとぼりが冷めると世論は「かわいそうな」パク・グのことなど忘れ、メディアは新しい話題を報道する。一つの不条理が新たな不条理でかき消されていく。

 

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 色々な事件を思い出した。最初に思い出したのはナガサキヒロシマ原子爆弾の人体への影響を調べるために爆弾を落とした人たち。犠牲になった人々。治療をすることなくデータだけをとったABCCアメリカ政府。それからSTAP細胞の騒動。加熱するメディアの報道とバッシングで人が一人自殺した。覚えている限りあの後メディアは反省も謝罪もなかった。パク・グの事件にしたって、周囲の誰かが自殺してもおかしくなかった。

 映画の舞台が日本だったらどうなっているだろうかと思った。「治験で体がおかしくなってしまった」人は日本でどういう扱いを受けるだろう。『フィッシュマンの涙』にある韓国社会みたいに、やはり世論を巻き込んで議論が起こるのだろうか。どうもそうはならないだろうな。魚人間の人権を擁護するためにSNSで数人が日本語で書き込んでも、数十人がリツイートしても多分それだけだろう。何も変わらない。大多数は無関心だろう。でも無関心なのも正直仕方ない。政治にも社会にも期待できないのもわかる。実際国会での政治家のやりとりを見るとうんざりする。コロナウイルスで旅行がキャンセルになって暇なので、この前国会中継をじっくり見たのだけれどなんだか絶望的になった。問題を後回しにすれば、いずれ有耶無耶になるだろうという姑息さ、真剣に議論しようとする人をあざ笑う顔。絶望である。

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 保育園におちても、コロナウイルスの感染者が出たクルーズ船に偶々乗っていても、メディアは「自己責任」の方向で報道する。政府は保障しないし、メディアの人間は政府が保障をするべきとは言わない。政治家が「自己責任」として、メディアがその論調を肉付けする。アナウンサーは「ボランティアが足りない」なんて平気で言う。そういう言説がみんなの中に知らず知らずのうちに刷り込まれていく。

 おそらく日本版『フィッシュマンの涙』では「魚人間になったのは治験を受けた彼の自己責任」なんてホリエモンSNSで言って、それが拡散されるのだろう。彼らは弱い人に共感を寄せたりたりしないし、元々生活に厳しい人は他者の尊厳の問題に時間を割いている暇はない。どんどん社会が分断されていく気がする。もし『フィッシュマンの涙』を日本でリメイクするなら、ホリエモン田端信太郎に似た俳優が出てくるのだろう。

 そんなことを考えたら悲しくなった。でも映画を作った監督も配給した会社も、この映画を肯定的に観た人も同じ世界に生きている。彼らのような人たちがこの『フィッシュマンの涙』みたいな映画を作って、大げさな言い方ではあるが、私に勇気をくれる。

 

 

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#85 海野君のこと

 

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 今とてもしんどい。

 理由はたくさんある。まず第一に睡眠の問題。昨日は友達と朝まで遊んだ。フットボールとアルコール。ラーメンとカラオケ。

 第二に食事。春休みだからのらりくらり一日一食。時間も栄養素も偏っている。でんぷんばかり摂っている。

 第三に花粉。これに関しては言わなくてもいいだろう。

 第四にコロナウイルスとかそういうの。テレビを見てもSNSを見てもホント気持ちが滅入って来る。

 第五にさっき見たNHKスペシャル。明後日で震災からもう9年。「復興」を謳う政治家、五輪開催への忖度。

 第六に進路。3回生になって就職活動が現実味を帯びてきたこと。

 第七に毎日を無為に送っていること。目標も希望もない。「○○したい」「○○しなくてはならない」とは思うものの、計画を立てられない。

 第八にメールとLINEの返信。いちいち返信しないといけないのはめんどくさい。

 第九に——いやもういいや。なんせつらいのだ。でもそのつらさがどこから来ているのかと考え始めると、それはわからない。落とし穴のように突然沼があって、気がついたらそこで身動きがとれなくなっている。いやそんな大げさな、と自分でも思う。これ以上書くとみんなに誤解されそうだ。でも真実だ。

 単に3月だからかもしれない。幼少期の出来事が私の情緒の発達を阻害したからかもしれない。今夜はいつもより気温が低いからかもしれない。くるり岸田繁なら「しんどい理由なんて何ひとつないのだよ」なんて歌ってくれるかもしれない。寝不足の私はもう私がわからない。よくわからない怖さがある。いつか「社会が嫌い」って書き込んでしまいそうで怖い。いつか自分が消えてしまうのではないか、自分が独りぼっちになってしまうのではないか、そういうのに怯えている。

 

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深夜のスポーツバー。アーセナルが勝ったのでよかった

 ハイウェイに乗って車をすっ飛ばしたら少しはすっきりするだろうか。

 実際、自殺というのはすぐそこに潜んでいる。開けたドアの裏とか電子レンジの中にミスタースーサイドが佇んでいて、私にむかって微笑みかけている。彼らは日常生活の様々な場面でどこからともなく姿を現す。終電の吊り輪に、1人で入るバスタブ、飲み会のテーブルの角っこ。私にしか見えない絶妙な場所に彼らは現れ、静かな声で歌う。ある時一人でドライブしていて、ふとを横を見るとミスタースーサイドが助手席に座っていてぎょっとしたことがある。

 彼らは身長20センチぐらい。ボーリングのピンのような体形である。個体によって色は様々で、鮮やかなレモンイエローもあれば、パステルカラーのピンクもある。顔らしきものはあるのだけれど口以外は不鮮明だ。人間であれば目や鼻のある位置に、時折模様のようなものが見えたりするのだけれど、それも時間が経つと消える。我々は、いつも口の形を見て彼の考えていることを推測しなくてはならない。でもそれも、彼の思考が人間のそれと同じかはっきりしないので結局よくわからない。人が笑う時のように口角を上げてクックックとくぐもった声を出す。それを研究者は「笑い」と呼ぶけれど、それも便宜上そう呼んでるわけであって本当のところはよくわかっていない。アメリカのQ博士が1970年代に彼らの脳波を調べたのだけど、人間のものとあまりにもかけ離れているせいでそのデータは使い物にならなかったらしい。その後、Q博士の一番弟子のQ'研究員が——もちろん彼女は出世して今では教授職に就いている——論文の中でその脳波のデータに関して大胆な仮説を立てた。「Q'予想」と呼ばれる彼女の仮説は学会で論争となり、長い間議論の対象となっていた。そして2010年代、日本のRK研究所のQ"研究員が「Q'予想」を裏付ける革新的な論文を発表し論争に決着をつけたかに見えた。一躍時代の寵児になった彼はテレビにラジオに引っ張りだこになり、彼がいわゆる「イクメン」だったこともあってますます持ち上げられた。おんぶ紐を背負ったままの姿で週刊誌の表紙を飾った彼は、受け答えが当意即妙であったのもあってバラエティーやクイズ番組に呼ばれた。ユーキャン流行語大賞に「おんぶ紐」がノミネートされ、空前のおんぶ紐ブームになった。しかし、週刊誌の記事のせいで受賞はなくなってしまった。

 結局メディアと大衆は、彼の研究自体ではなく、彼の偉業と功績に興味があるだけだった。彼の論文2本に重大な欠陥があったことが判明するとあからさまに手のひらを返した。メディアに扇動されるまま愚かな大衆も彼を「嘘つき」と呼んだ。ネットに彼の住所が流出し、スプレーで落書きをする輩が現れ、その蛮行を一定数のネット民が賞賛した。Q"はそのスキャンダルのせいで第一線から離れることとなり、さらには離婚にまで追い込まれた。子供の親権はQ"の妻が持つこととなり、おんぶ紐は無用の長物となった。彼は今は東北の田舎町でマタギになる修行をしているらしい。バッシングのせいでQ"の上司は自殺したが誰もSNSでの悪口について問題にしなかったし、メディアも反省をしなかった。その騒動の数年後、ドイツのKR研究所が出した論文がQ"の主張の正当性を認め「Q'予想」の正しさは80%程度認められた。こうしてミスタースーサイド研究の主導国になるチャンスを日本はみすみす失った。

 まあそれもニッチなアカデミアの世界の話で一般人に広く知られているとは言えない。日本の人々の記憶に残ったのは「嘘つきQ"」だけであろう。そもそもミスタースーサイドの存在に気付いている人間も少ないのだ。多くの人が目撃し、れっきとした研究対象であるのに、未だに科学者の陰謀だと信じて疑わない人がいる。確かに「見える」人間と「見えない」人間がいるのはQ博士が第一線にいた時代からの研究対象であった。「見える人」の割合は国や地理的な条件によっても異なるみたいである。最近、猿や犬、馬といった一部の動物にもミスタースーサイドを見える個体がいることがわかってきている。さらなる論文の発表が待たれる。

 

 明らかなこととして、年齢が低ければ低いほど「見える」人間の数は少なることである。これはよく知られている。フィクションの題材にもなっている。Q教授が論文の中で提唱し今では定説となった文言を借りるならば、「自殺を自分の心の中で肯定的に考えた時、初めて彼らの存在が視認できるようになる」のである。

 私が通っている小学校では昼休みの後に掃除をするのであった。給食を食べてから昼休みは校庭でドッジボール。その後に班ごとに分かれて掃除。2年生のある日、私は「教室のホウキ」担当になった。私の班に海野君という物静かな男の子がいた。昼休みも中休みも教室で本を読んでいるような子だった。物知りなのだけど、手を挙げて発言するようなタイプではなくて、授業中はつまらなさそうに窓の外を見たり、先生の目を盗んで本を読んでいた。クールな彼にいつか話しかけたいと8歳児なりに思っていた。しかしいざ同じ班になって給食を一緒に食べるようになると、彼は意外と饒舌なのだった。私の発見だった。私は「シャイ」という言葉を初めて知った。

 二年生の水曜日の時間割は4時間目で終わり。掃除をしたらすぐに家に帰れるのだった。放課後に神社の池で遊ぶことだ好きだった私は早く帰りたくて急いで掃除を終わらせようとしていた。ドラム缶を再利用したゴミ箱にちりとりの中身を捨てると、勢いよくホウキ入れを開けた。

 開けてびっくりした。さっと血の気が引いて、頭がくらりとした。そこには水色に光るグロテスクな生き物がうずくまっていた。私はまだミスタースーサイドの存在を知らなくて、初めて見るその気持ちの悪い外見に頭がクラクラしてしまった。同じ班の鈴木さんやカネミチがその生き物に気付かないままホウキを直していく。私はその水色と縞々模様を食い入るように見つめたまま動けなくなっていた。すると後ろから誰かが肩を叩いた。振り返ると海野君が私の顔を見ていた。眉間にしわが寄っていた。

「なに、お前も見えるの?」

そう言いながら平然とホウキをしまった。私の手からホウキを取ってそれも直し、ピシャリと戸を閉めた。中で「ニ―」という声が聞こえた。水色の肌に浮かんだ縞々模様が頭から離れなかった。放課後の誰もいないトイレでゲーゲー吐いた。3年生以上のクラスではまだ授業が続いていて、トイレの個室まで授業中の声が届いていた。「もしかしてあいつを見るの初めて? こっちが普通に暮らしている限り何もしないから大丈夫だよ」

 その日は悪友のあっちゃんと神社の池で亀を捕まえるつもりだったのだけれどど亀どころではなくなったので、家で寝ていた。夕方5時ごろになってあっちゃんが捕まえたザリガニを見せに私の家まで来たけれど、ザリガニの尻尾の模様を見て、私はまた吐いてしまった。図書室で調べた結果、私が見た水色の生き物は「ミスタースーサイド」という名前なのだと知った。観察すると彼らはいたるところにいた。授業をする先生の教卓の上に寝転がっていたり、黒板消しに腰かけていたりした。しかし、クラスメイトのほとんどはミスタースーサイドが見えないようであった。8歳の時点で見えていたのは海野君と私だけであったと思う。その日から海野君と私の間には同じ秘密を共有するある種の仲間意識が芽生えた。私は少し大人だった彼にいろいろなことを教えてもらった。

 図書室で調べたり海野君に聞いたりして、ミスタースーサイドについての知識を得た私であったが、私に彼らが見えるのには心当たりがあった。しかし、8歳児の語彙力ではそれを簡潔に言語化することができず、私は長い間苦労した。今でもそうだが、自分の心の中が言葉で表現できないというのはもどかしく、つらいものである。

 

 成人式の日、中学校の同窓会があった。あっちゃんが幹事だったので私も行った。懐かしい面々がいて、その中に海野君がいた。中学時代はさほど話さなかったし、高校も違う高校に行ったから、共通の友達は少なかった。お酒を飲みながら一人また一人と家に帰っていき、最後まで残った十数人の中に海野君もいた。二次会の後、公園のジャングルジムに座った私たちは6年ぶりに話すことになった。

 映画監督になるための勉強をしていると彼は言った。大学名を訊くと、東京にある私でも知っているような芸術大学の名前を出した。いくつかの近況報告があって、会話に花が咲いた後、私は彼に長い間訊きたかったことを訊いた。ずっと気になっていることだった。

「訊きにくい話題で申し訳ないんだけどさ、海野君って私より早くから早くにミスタースーサイド見えてたじゃん? あれってどうしてだったの?」

「うわあ、申し訳ないとか言いながらめっちゃ直接的に訊くやん」

小学校低学年の時には口数が少なくシャイだった彼は中学生になるとよく喋るようになり、放送部の部長として給食の時間にラジオDJみたいなことをするようになっていた。その日も「地元に帰ったらやっぱ関西弁になるなあ」と言ってジョッキを片手にずっと笑い声の中心にいた。

 笑った顔のまま海野君は自分の家族のことについて教えてくれた。最後の方は笑いながら泣いていた。

 海野君が5歳の時、彼のおばあちゃんがが突然自殺したらしい。元々精神的疾患があったのだけど、その年は大きな災害があったり、親戚に不孝が相次いだりで彼の祖母は精神的に参ってしまったみたいだ。おばあちゃんのことが大好きだった海野君は坊さんのお経を聴きながら、自分もおばあちゃんのところに行きたいと思ったそうだ。自殺もおばあちゃんなりの考えがあったのだろうと理解していたから、あまり悲しくなかったそうだ。

「今やから笑えるけど、当時は『おばあちゃんのところに僕も行きたい』ってずっと言ってたな。自分なりに色々必死やったんやろなあ。なんというか、、、健気な話よな」そう言った海野君の目は少し光っていた。

 

 今朝、友達とカラオケで歌った後始発で帰ってきた。電車のシートに座るや否や友達はスース―と寝始めた。私はなかなか寝付けなかった。ぼんやりと窓の外を見ているとなぜか海野君のことを思い出してしまったのだった。

 あの成人式ももう1年前のことになってしまった。そうやってどんどん月日が経って行く。そういえば海野君のおばあちゃんが死んだのは3月だったらしい。3月に死にたくなるなる気分は私も何となくわかる。

 

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始発

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#84 盆のようなもの

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令和元年 8月18日

 おじいちゃんに私の来訪は伝わってなかったらしく、彼は驚いていた。一応お盆で、だから母と3人で過ごす予定だった。そうでもしないとなかなか会えないのであった。ほどなくして母が来た。本来ならば私が前もって祖父に連絡しなければならなかったみたいであった。祖父は午後から用事があると言った。 まあそれでも5時間ぐらい一緒にいられるのであった。 祖母の写真の前で手を合わせて挨拶した。そしてお菓子を食べながらリビングでゴロゴロした。山を切り開いて作った郊外の住宅地は夏でもひんやりしていて、時折通り抜けていく風が涼しかった。庭の木で蝉が鳴いていた。それは幸せかも知れなかった。祖父の家には沢山の思い出があるのだ。そのような場所にいるということ、それだけで安らぐのだ。なんだか落ち着くのだ。アイデンティティというのはこういう物かもしれない。言葉にすると陳腐なのがもどかしい。

  台所に蟻が沸いていた。それを見つけた母が騒いで、祖父と2人で侵入口を探していた。私は3人目のプレーヤーとして加わるには寝不足で、ソファーで寝ていた。夜勤明けだった。母と祖父のやりとり、それからラジオから流れる高校野球を聴きながら、何年も前の夏休みを思い出した。おばあちゃんがいなければこんなに静かなのだなあと思った。カウンセラーの先生曰く、私はおばあちゃんの影響を十二分に受けているらしい。この前の学生センターでのやりとりを思い出しながら寝てしまっていた。

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ミャンマー土産の置物、お菓子とお花とともに

 買い物に行くと言って起こされた。3人でナフコに行って網戸を買った。築50年の家はかなりガタが来ていて、ほとんどの網戸に破れ目があるのである。蟻退治の殺虫剤のようなものと、それからゴキブリ用のコンバットを買った。店に入ってすぐに祖父はレジ打ちで忙しい店員に、網戸の場所を訊いていた。私ならレジ打ちがひと段落してから訊くなあと思った。 ナフコの後に行った寿司屋でもおじいちゃんは壁に掛けてある包丁を、「あれは脇差ですか?」などと板前に頓珍漢な質問を投げかけていた。隣の知らない老婦人の会話に入り込もうとしたりといつも通りの自由人ぶりだった。板前はとても偉そうな人で、お店で働く人を文字通りあごで使っていた。そして客の前で叱ったりしていた。田舎になければとっくに潰れている店だろうと思った。

 座ったのはカウンターだった。私は祖父と母の真ん中に座ったのだけれど、私と母が話す時、耳の遠い祖父は会話に入れなくて、あるいは興味がなくて、退屈そうだった。私はともと韓国に行く話をした。香港は危ないだろうということになった。 また祖父の家に帰って、私はまた庭の蜜柑の木を見ながら眠ってしまった。 時間が来て母は祖父を車で駅まで送り、そのまま家まで帰っていった。私も同時に原付に乗った。家には帰らず、近くに住む従兄弟の祖父母の家に行くことにした。

 

 丸顔の従弟が大型車に乗って来た。私の顔を見てニヤっと笑った。最近免許を取った従弟は日に日に運転が上手くなっている。今度九州まで友達と旅行に行くらしい。私は汗まるけで、従弟のおばあちゃんは驚いていた。「シャワー浴びていくか?」なんて言われたけれど丁重にお断りした。冷たい麦茶が美味しかった。 少しボケが進んだおばあちゃんが、桃やらブドウやらお茶やらをひっきりなしに何遍も勧めてくる。それをのらりくらりとかわしていくうちに時間が過ぎていった。いつもと違って、今日は従弟と2人で気持ちに余裕があった。おじいちゃんは元気そうではあったけれど、体調のことを訊くのは悪い気がしてやめた。 短期記憶がなくなったおばあちゃんは、同じことを何回も訊いた。

 原付を車の中に乗せて、従弟の運転で家まで帰った。従兄弟が近所に住んでいるというのはこういう時便利で楽しいのである。しかし、小さい時から知っている彼の横の助手席に座るのは不思議な感じだった。落ち着いた性格の彼は私よりもうんと上手に運転をしていた。 ブルートゥースでカーナビをスマホと連動させて、色々音楽をかけてくれた。BTSとかTWICEみたいなK-POPAviciiとかAlan WalkerみたいなEDMもTaylor SwiftとかAriana Grandeかも、幅広く音楽を聴くみたいだった。 年下でも彼の方が「大人の」音楽を聴き始めるのが早かったなと思い出した。彼は小学校低学年でラジカセを買ってもらって、CDをたくさん借りて聴いていた気がする。 私が本格的に音楽にはまるのはウォークマンを買ってもらった13歳なので、だいぶ早い。江南スタイルも、スキマスイッチコブクロも従弟の方が先に知っていた気がする。

 寝る前、彼に教えてもらった音楽を聴いた。どれも良かった。

 

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これは従弟ではなく友達に教えてもらったバンド。最近よく聴いている

 

 

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#83 地元でプール

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令和元年 816

 ともの家を9時過ぎに出た。外はもう暑かった。通りを歩き出したところで、昨日オアシスで買ったチョコとカラムーチョはほとんど食べないまま出てきたことを思い出した。

  12時までミスドにいた。何冊も本を持ってきていた。昨日の夜にはアンデルセンの『絵のない絵本』を読み終わっていた。三十三夜月が語った話をまとめた本である。設定がアラビアンナイトと似ていた。いくつか良い話があって、いくつかわからないのがあった。

  ミスドでは『頭の中がカユいんだ』を読んだ。中島らもは締め切りに追われて、100パーセントで書いていたわけではないのだと思うけども(違ったらすみません)、そういう気楽に読めるところが良い。先にエッセイを読んでいたからその分楽しく読めた。立花駅出身の彼に会ってみたかった。今彼が生きていたら何を話すのだろう。

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 中島らもの次は森達也を読んだ。中々面白いのだけど日本の現状にがっかりして悲しくなった。読み進めるうちに落ち込んでしまったので、丁度良いところで店を出た。「知ることはつらいことだ」といつか私に言った友人の暗い顔が頭の中に浮かんでいた。最近は知れば知るほどがっかりしてしまう。まわりもそうで、真面目に考えている人ほど鬱になっている気がする。正直者が馬鹿を見る世の中はいやだ。

 大学にバイクを取りに行く途中で後輩のMに会った。今から一人でプールに行くと行ったら複雑な顔をしていた。23歳でまだ2年生をやっているサークルの元先輩にそんなこと言われたら気まずくて仕方がないかも知れない。言わない方がよかった。

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  家で少し食べて、久しぶりに一人でプールに行くのを躊躇したりして、家を出るのが遅くなった。2時半になってようやく家を出た。隣町のプールまでは自転車で10分。ペダルを漕ぎながら、高校の友達がここら辺に住んでいるのを思い出した。彼元気かな。この前SNSで就職が決まったことを言っていた彼は今帰省中らしい。連絡しようかと思ったけどやめた。今はちょっとしんどいや。また今度にしよう。でも今度っていつになるのだろう。

 屋外プールは大人400円、小人200円。屋内だと料金は倍だった。色々とシステムがわからなかった。荷物をプールサイドに置いてもいいことを知らずにわざわざ100円払ってロッカーを使ってしまった。ちょっともったいない。 8月の炎天下、50メートルプールはファミリー層ばかりだった。一人なのは私だけであった。一人でウォーキングをしているおじいさんがいたけれど次に見た時は孫とボールで遊んでいた。 ライフセーバーとして高い椅子に座る人のうちに地元の友達がいたらイヤだなと思った。ほとんどありえないことなのにだいぶ自意識過剰になっていた。ものすごくヘンな気分だった。ぷかぷかと浮いているだけなのもヘンなのでプールの端から端まで歩くことにした。「ぼっち」だということを監視員やグループで来ている小学生に気づかれるのはイヤだったけれど、入った以上は仕方ない。私は一人でぷかぷかと歩いていた。水の中を歩く感覚が気持ちよくて、次第に気まずさが打ち消されていった。 結局2時間近く歩いた。どうせなら距離を数えておこうと思って、1キロを目標にしたのだけれど、意外に時間がかかった。途中、私のところにビーチボールが飛んできたりして、一人であることを思い知らされた。カラフルな空気の塊を弾き返す度に、また彼らと目が合う度に、実体のよくわからない気まずさが顔を出した。

 1時間経つと監視員が笛を吹いて、休憩時間になった。15分間全員プールから上がらないといけないのであった。一人でベンチに座ってぼんやりとしていた。夕方の風に吹かれてもアトピーの肌が乾燥して辛かった。薄い皮がぺりぺりと剥がれた。つらかった。また45分プールを往復し続けた。最後の方になると人が少なくなってきた。今日は平日なのに父親と来ている子供がたくさんいた。まだお盆休みなのだろうか?

 仮に私が子供を作ったとして私は子供とプールに来るだろうかと考えていた。来るだろうと思った。しかし、私のように背の低くて泳げない私は良い父親にはなれないような気がした。息子や娘を肩車してプールを歩いている自分なんて全く想像できない。なんだかなあ。つらいなあ。

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 自転車で私の街に向って走りながら、シャワーを浴びずに市民プールを出たことを後悔した。髪の毛がガサガサで、さわるとみしみしと音がするぐらいだった。そのままコメダに行って本を読んだ。そのうちに閉店になってしまった。

 昨日に引き続き食欲がない。あと、今日ようやく二段階右折をしなかった分の罰金を払った。高かった。

 

 

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#82 言葉とか場所とか(1)『私小説 from left to right』

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アメリカに生まれていたら楽しかっただろうな」

かつて私の友人がそんなことを言った。私は同意した。私は中学生だった。毎日がどうしようもなくつまらなかった。引っ越し先の街にも学校にもなじめなかった私は親に命じられるままに中学受験をしたのだけれど、中学校も別にたいしたものではなかった。      

 小学校時代、同級生の野蛮さにはいらいらしていた。誰かをいじめたり、けんかや万引きを自慢しているのを見て、早く中学校に行きたいと思った。中学受験をすればこんな環境とはおさらばできて、もっと知的で教養のある友人に出会えるのだと思っていた。でもそれは間違いで、場所が変わっても同世代は馬鹿だった。教室を駆け回る彼らを見て、なんて幼稚なんだろうと思っていた。私はただ勉強し、そして本を読んでいた。そうすることで彼らに優越感を感じていた。優越感を感じながらも彼らのことが羨ましかった。少年なのに「少年らしく」ありたいと願う変な子供だった。トムソーヤーに憧れても彼みたいにはなれなかった。無邪気な少年時代は私にはほとんどなかった。

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歩道橋を歩くと小学校を思い出す

 映画を観るようになった時、アメリカの日常はは楽しそうだった。その国では自分を抑圧しなくてもいいように見えた。最初の頃に観た『SUPER8』や『リトルミスサンシャイン』『スタンドバイミー』に出てくる子供たちは私と違って主体的に行動していた。スクリーンの中に映し出される日常は生き生きとしていて、彼らと比べると、学校と家と塾を電車で往復するだけ生活は空虚でつまらないものに思えた。アメリカでは誰もが自分らしくいられるのだと思っていた。

 しかし私が抱える問題は私自身の問題であって、必ずしも日本の問題と言えるわけではなかった。昔も今も生きづらさの全てが、日本に生まれたことによるわけではない。そんな簡単なことでも気づくのには随分時間がかかった。

 でも次第にわかっていった。私が憧れる明るいアメリカだけがアメリカではないこと。そもそも私が最初にアメリカを知ったのが9.11だった。それからアフガニスタンイラクアメリカのやり方が何かおかしいというのはなんとなく感じていた。大学でロシア語専攻を選んだのも違う視点で世界を見たかったからだった。大学生一年目に受けた中東現代史の授業、そこで学んだアメリカの外交政策は滅茶苦茶だった。「日本人」の私にはおおよそ理解できないことだった。でも私がアメリカで育った「アメリカ人」で、学校で毎朝国家を斉唱するような幼少期を送っていたらイラク侵攻も当たり前だと思ったかもしれない。映画『Zero Dark Thirty』でアメリカ軍特殊部隊がビンラディンを殺害するのも当然と考えたかもしれない。たとえパキスタン政府に通告せずに特殊部隊が作戦を実行し、罪のない彼の家族もその作戦で死んだのだとしても。

 もちろん一口に「アメリカ人」といってもいろんな人がいる。私が「アメリカ人」だったとしても、その肌の色、信じる宗教、住む地域、親の年収と教育程度、その他の要因によって全然違う考え方をしていたに違いない。

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 当たり前だが日本にもいろんな人がいる。大和民族アイヌ、ウチナーンチュ、朝鮮半島にルーツを持つ人、中国にルーツを持つ人、ミックス、自分を何とも規定しない人、等々。1月に麻生副総理兼財務大臣が自身の無知をさらす発言をしたけれど、やっぱり「2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族」というのは無理がある。技術を大陸からもたらした渡来人や、白村江の戦いの後に海を渡った百済の人々、阿弖流為アテルイ)の乱、明治政府がアイヌを迫害した歴史。そうしたものをなかったものにしてもらっては困る。彼が直方市で語った言葉からは、生まれてこのかたメインストリームにいて、自分が「周辺」にあるとは感じたことのない人間の傲慢を感じる。

「だから2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。これに勝る証明があったら教えてくれと。ヨーロッパ人の人に言って誰一人反論する人はいません。そんな国は他にない」

 

 歴史やアイデンティティにしがみつくまでもなく「日本はいい国」と思える国だったらそれが一番いいのにな。

 もし「一つの民族」というのがそんなにいいものなら、どうして少子化対策をしないのかな。

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Tokyo 2019

 

 アメリカの場合、東アジアの島国と比べて、それぞれの人が来た道はより複雑だ。母親とよく観ていたフィギアスケートにもいろんな人がいた。キミー・マイズナーのような幼い私の「アメリカ人」のイメージに合致する人もいればクリスティーナ・ガオや長洲未来、カレン・チェンのように私と顔が似ている人もいた。ジョニー・ウィアーのように差別と偏見に立ち向かう人もいた。レイチェル・フラットのように学業を続けながら競技に打ち込む人もいた。私の周りでもLGBTQに対する知識はまだまだである。一流大学で勉強する傍ら国際大会にも出るような日本のアスリートは稀だ。ただフィギアスケートは「お金のかかる」スポーツなので、私が目にするアメリカのスケーターがアメリカのすべてというわけではないのであった。そもそも、もう「アメリカ」という言葉でひとくくりにできるものなど限られているのだ。

 

 

私小説 from left to right』はそんな「アメリカ」で育った水村美苗が主人公である。題名にも「私小説」とあるし、いくらかフィクションが混ざっているとはいえ、この本が作者水村美苗私小説であるのは間違いないと思う。もしこれがまるっきりのフィクションだったらそれはそれで面白いけれど、それではこの文章が成り立たないからその可能性は今は考えない。

 主人公の美苗は大学近くの部屋で一日中座っている。そしてアメリカに移り住んで以降の家族の来し方、母と姉と自分、そして自分の人生に登場した人物たちを取巻く運命を日がな一日考えている。外界とつながっているのは姉奈苗との電話だけである。博士課程に入るための口頭試験を控えているのだけれど、まだ踏ん切りがつかなくて、試験の日程を決めるのを数回先延ばしにしている。それでも勉強をする気になれなくて、日記と称した文章をコンピューターに書くことを憂鬱のはけ口にしている。まだ美苗のいる大学町には日本語のソフトウェアがなくて、だから彼女が書く文章は左から右へと進む。

 

 実際、今の私の日常は何もしないことに終始していた。机にまともに向かうのがそもそもつらく、朝起きたままの格好でマットレスの上に寝転んで必要文献を読もうとするのだが、とりとめのないことばかり頭に浮かんでくる。これではいけないと意を決してシャワーを浴び服を着替えてもそのあと髪をドライヤーで乾かしたりしたりするうちに、またぼんやりしてしまう。午後になれば雑誌やjunk mailが届くのでそれをいいことに読むともなく頁をめくっていると、もてあますように思えていた時間もいつのまにか経ってしまい、気がつけば日はもう暮れているのであった。夕食を済ませてふたたび文献を手にする頃にはじきに奈苗からの電話がかかってくる。くる日もくる日も不毛に送り、ひたすら口頭試験を先送りしているだけでは、口頭試験を受けるのはもとより、鼻先にある大学に足を踏み入れるのすら怖くなってあたりまえであった。

(中略)

 眠りが浅くなると昼間は考えないように努めていたことが次から次へと半分覚醒した意識にのぼり、ふと眼が覚めると、もう心がざわざわして寝られないのであった。時がとうとう本当にたってしまったこと、帰る家がもうアメリカにもないこと、母に捨てられたのも知らずに白い目を天井に向けホームのベッドに寝転がっている父のこと、母を捨て、ご苦労なことにSingaporeまで年下の男を追っていった母のこと、この先の奈苗のこと自分のこと——そのほか諸々の思いが私を襲い、枕の上から闇を見つめながらいつのまにかめそめそと泣いていることもあった。そして気がつけば朝の光がブラインドの横から漏れているのだった。

 主人公美苗の家族は彼女が12歳の時に日本を出てアメリカに来た。

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 (続きます)

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