シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいる者です 文章を書くのを仕事にするのが目標です。夢は世界一周です

#148 ヘアドネーションをしました

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 伸ばし続けていた髪を切った。

 ちゃんとした美容室に行くのは1年ぶり。去年の10月に髪の毛を染めて以来だ。2019年からずっとツーブロックにしている。頭頂部だけ残して、左右と後ろは刈り上げ。この髪型にして2年半。長かった。

 

 美容室に行く時というのは、どうしてあんなに緊張するのだろう。かっこよくなりたい、外見を良くしたいという人が行く場所なのだから、自分のような磨いても光らないような人間には敷居が高いというか、意味がないような気がする。あるいは、人間大事なのは中身であって外見ではないのだから、そんな見せかけを変えたところで無意味なのではないかとも思ってしまう。そんな風に思うけれど、美容師さんのおかげでいい感じになった後は、自分の気分が上がることも知っている。私は大学2年生を3回やったのだけれど、進級できた年は、時々美容院に通っていた。自分の髪型が「変じゃない」という自信を持てていなかったら、もしかすると大学にも行けず、未だに2年生をしていたかもしれない。

 

 もしかして、と時々思う。

 私は外見と内面を別々のものとして考えていたいと思っているけれど、私の外面の自信と内側の自信は、かなり強く繋がっているのではないだろうか。そうとすれば色々と思うことはある。例えば、私にもしアトピー性皮膚炎がなくて、身長もあと10センチほど高かった場合、もう少し自信を持って日常をムーブ出来ていたのではないだろうか。そうだとすると————そうだとすると私がやるべきことは一つである。急いで荷物をまとめて温泉地でのリゾートバイトに行くのだ。出来れば肌に効能があるアルカリ性鉱泉だとよい。旅館で魚をさばき、モップ掛けをし、皿洗いをした後で、一日の疲れを温泉で癒す。アトピー性皮膚炎とは長い付き合いだけど、リゾートバイトをしながら毎日毎日浸かればだいぶ良くなるだろう。旅館の女将さんや他のみんなに惜しまれてリゾートバイトを去る頃にはたんまり小金持ちになっているわけで、そのお金をもってしてソウルのどこかの美容整形外科に行くのだ。そこで身長を伸ばす手術をしてもらって身長が165センチぐらいになれば、ちょっとは自信がつくかもしれない。

 リゾートバイト程度の貯金では、手術費用に到底足りないし、骨を切って伸ばす手術は絶対痛いに違いないけれど、まあ妄想なのでそういう面倒なことは考えないでおこう。

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 ヘアドネーションを目指して髪を伸ばすのは、実は2回目である。2017年から2018年にかけても、寄付するために髪を伸ばしていたのだけれど途中で断念してしまった。自分自身の内面が抱える、悩みやモヤモヤを、長い髪が如実に表している気がして切ってしまった。その時は、髪を切ったらさっぱりして心も晴れやかになったけれど、ヘアドネーションできる31センチを目指していたので挫折も感じたのだった。

 2020年は外に出る時間も少なくて、だから髪の毛を毎月切る必要も特に感じなかった。それよりも、果たして外に出ていいものか悩む場面が多くて、だから初めのうちは自分でバリカンを持って側頭部を剃っていたし、慣れると後ろ側も自分で剃った。ヘアゴムでまとめるだけのシンプルな髪型なので外に出る時に迷わなくていいし、いちいち考えなくていいので楽だった。「その髪はなんなの?」なんて眉をひそめる人もいたかもしれないけれど、世界的に疫病が大流行している2020年には生きているだけでいいやと思っていた。大学であからさまに私の髪を笑う男の子のグループもいることにはいたけれど、慣れると気にならなくなった。悲しくはあったけど。

 

 ヘアドネーションというのは病気や事故など様々な理由でウィッグを必要とする子供たちのために、ウィッグを無償で作成・提供する運動らしい。調べると色々な団体が出てくる。参考にしたブログで紹介されていたJapan Hair Donation&Charity JHDC/ジャーダック)というNPO法人に髪を送ることにした。

 ヘアドネーション、手順通りにすれば、自分で髪を切って包装して送ることもできるみたいだけど、ジャーダックや他のNPOHPにある「賛同サロンを探す」というページから、行きやすい美容院を探して予約する方法が一番簡単だと思う。ヘアドネーション用のカットは色々ルールがあって少しややこしい。慎重を期すなら、ヘアドネーションに慣れている賛同サロンを使う方が良さそうである。

 「賛同サロンを探す」のページで調べると、自転車で10分ほどのところに賛同サロンがあった。電話をかけてヘアドネーションをしたい旨を話して、予約をした。カットは2900円。QBハウスの1200円と比べると高く感じるけれど、今回ばかりはどうしょうもない。カット後のヘアスタイルも相談したいし。

 毎回思うけれど美容院の名前って、どうしてああも様々なのだろう。ヘアーサロンとか美容院、理容院なら分かりやすいけれど、「テラス」とか「グランドサロン」とか言われるとよくわからなくなる。男性である自分が行って大丈夫な雰囲気なのか、というのも気になる。別に性別に関係なくどこでも行けるべきだし、そういうのを気にしないような肝っ玉の太さが欲しいけれど、でも気にしてしまう。今回も電話をかける前に、クチコミを読んでどういう人が利用しているのかを調べた。

 

 髪の毛を伸ばして気づいたことはけっこう多い。例えば長い髪でリュックサックを背負うと、肩ひもと体の間に髪の毛が挟まることがあって、とても痛い。女の子の方がハンドバッグやトートバッグを持っている率が高い理由がよくわかった。リュックの紐をあんなに伸ばしている人が多いわけも。それから、髪の毛を結ぶために買ったヘアゴムたちは、安いものから順にボロボロになっていく。全部調べたわけじゃないけど100均のはあまりよくないと思う。それから、つけるトリートメントで髪を梳く時のは気分があがる。大学やバイト先にいる日中、自分の髪からいい匂いがするとなんだか心強い。頑張れるような気がする。旅行先で使ったことのないコンディショナーがあると試してみたくなる。そういうあれこれは、精神的な余裕や心の豊かさにやんわりと繋がっているのだと思う。長い間、髪の毛のケアやネイル、化粧といったものを、どこか「本質的でないもの」として軽んじていたけれど、それは間違いだった。大事な人にとってはとても大事なのだ。軽々しく馬鹿にしていいものではなかった。

 

 担当して頂いた美容師さんは男の人で、おしゃれなニューエラのニット帽を被っていた。かっこいい人だった。ネックレスやきれいな眉毛の形もそうなのだけど、それだけじゃなくて、美容師としてしっかり私のヘアスタイルを考えてくれる姿勢がかっこいいと思った。久しぶりの美容院に緊張していたけれど、段々自然に振舞えるようになったのは美容師さんのおかげだった。

 

 最初にヘアドネーションについての髪を書いて、それから髪を束ねて切ってもらう。2年半も伸ばした髪の毛だけど、束にすると4つにしかならなかった。とにかくヘアドネーションすることしか頭になくて、カット後のヘアスタイルを全く考えていなかったのだけど、美容師さんは自分のために髪型を色々と提案してくれた。ドネーション分の31センチを切れば、ほとんど坊主頭になるかと予想していたけれど、案外髪の毛は残った。結局アーセナルの左サイドバック、キーラン・ティアニーのような髪型になった。美容師さん曰くジェットモヒカンという髪型らしい。髪型は業界用語のようで覚えられない。美容院では、髪型を区別するために、たくさんの髪型に名前がついているけれど、興味がないらしい私の脳みそには、ツーブロックとかアシメトリとか、そういう一般的なもの以外を受け付けいれるスペースがないようだ。美容師さんがよく「○○なんてどうです?」なんて勧めてくれるけれど、私はいつも「○○ってどんな髪型ですか?」と聞き返さないといけなくて何だか間が悪い気がする。もちろん、わからないことは質問するべきだし、正しいコミュニケーションとはそういうものなのだけど、面倒くさく感じてしまう。よくないなあとは思うけれどこれは当分続きそうだ。

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 ヘアドネーションするというのを決めて、ようやくやり切ることができた。美容院を探して予約するというめんどくさい作業をこなし、気まずくなったかもしれなかった時間を楽しむことができた。ちょっと自信になった。まあただただ伸ばすだけだから簡単なものなのだけど、目標を達成できてよかった。目標を達成するなんてなんだか久しぶりだった。

 

 髪を切ってどうしてだか体調を崩した。季節の変わり目というのもあって2日ほど寝込んでしまった。体がだるくてお風呂に入るのが面倒だったけれど、シャンプーもドライヤーも楽になっていた。少し寂しい気もした。

 

 

 

 

ヘアドネーションするにあたって参考にしたブログ記事: 

mitsuyahideto.com

 

Japan Hair Donation & Charity JHDC/ジャーダック)のサイト:

www.jhdac.org

 

 

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#147 10年後のサッカーは

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これは2019年の全州ワールドカップ競技場

 日本代表のワールドカップ出場が怪しいらしい。3試合を終えて勝ち点がたったの3点。オマーンサウジアラビアに負けて、中国には勝ったらしい。アジアを代表してワールドカップに出れるのは4カ国だけ。アジア最終予選のグループBで現状3位の日本は出場が厳しい状況だ。3位になっても望みがなくなるわけではないが、その場合ワールドカップグループに出るには、A組の3位に勝ち、さらには大陸間プレーオフでも勝たなくてはならない。ちなみに2018年ワールドカップにはアジアから5カ国出場したのだけれど、それはオーストラリアが大陸間プレーオフで北中米のホンジュラスに勝ったからである。

 日本代表の試合には我がアーセナルの冨安が出ていていい感じにプレーしていた。右足も左足も同じように使える彼は最終ラインならどこでもできるから、監督としても使いやすい選手だろうと思って見ていた。アーセナルボローニャでは右サイドバックや右センターバックで出ることが多いけれど、今日は吉田麻也と並んで左のセンターバックで出ている。冨安が好調な反面、吉田麻也がミスを連発していた。オリンピックでも活躍してクラブでも試合に出ているので、少し休んでもいいと思う。中山や板倉がいるから大丈夫のはずだ。柴崎に代わって田中碧が先発出場していた。攻撃も守備もできて、しかもよく走る選手なので見ていて頼もしい。顔もかっこよくて、高校の先輩と似ているので余計に応援してる。今はドイツ2部のデュッセルドルフにいるけれど、すぐにもっと強いチームに行くと思う。今日も初めてのスタメンなのに開始早々に点を決めていた。

 後半に相手にフリーキックを決められて、残り時間はわずか。でも今日は勝たないといけない、なんていう苦しい展開だったのだけれど、途中出場から快速を飛ばしていた浅野拓磨がシュートを打ち、それが結局オウンゴールになった。85分のオウンゴールが結局決勝点になって日本代表はなんとか勝った。当分、勝たないといけない試合が続くけれどなんとかワールドカップに出てほしいなと思う。
 浅野拓磨も元アーセナルの選手である。セルビアパルチザン(サッカーチームの名前)でのすったもんだの後、夏に昇格したばかりのドイツのボーフムに加入している。ルール地方にあるボーフムデュッセルドルフとそう離れていない場所にあるので、クラブの外で田中碧との交流があったりするのかもしれない。ボーフム
1部に上がったと思うとすぐに降格するという典型的なエレベータークラブ——英語風に言えばヨーヨークラブ——で、今シーズンもすでに18チーム中17位である。7試合で16失点して4点しか取れていない。ウイングもフォワードもできる浅野が得点を重ねたら残留できるかもしれない。

 同じテーブル——順位表のことをテーブルと言ったりする——の7位には浅野の元所属チームであるシュツットガルトがいる。浅野はアーセナルで試合には出ることはなかったけれど、その間ドイツにレンタルに出されていた。16年から18年にかけて2シーズンはシュツットガルトで、18/19シーズンはハノーファーで試合に出ていた。ちなみにブンデス2部——ドイツ語風に言えばツヴァイテ・ブンデスリーガ——では13位がハノーファーで、12位がデュッセルドルフである。

 みたいなことをトランスファーマーケットというサイトで調べていたら、元イングランド代表のスターリッジがオーストラリアのパース・グローリーというチームに加入しているのが目に入った。好きな選手なので、彼が2年ぶりにサッカー選手として所属チームを見つけられたのはうれしく思った。怪我さえなければなあ、なんて嘆きながら語られる選手はサッカーに限らずたくさんいるけれど、彼もその一人だ。18/19シーズン、チェルシー相手に終了間際に決めた同点ゴールはなかなか忘れられないような美しいゴールである。スターリッジは英語ではSturridgeと書くのだけど、未だに発音がわからない。

 トランスファーマーケットの「latest transfers」の欄には最近チームを移った選手の名前がいろいろあるのだけれど、時々名前だけ知っているような選手が出てくる。スターリッジのすぐ上にダン・クロウリーという名前があった。無名の選手だけれど、彼はアーセナルユース出身の選手で、トップチームに昇格できずにクラブを去った1人だ。期待されて、でもうまく育たずに放出される、そんな選手は何人もいるけれど、そういう選手がやめずに活躍しているのを見るのはうれしい。サッカーを観始めた時は、トッププレイヤーのドリブルだとかシュートだとか、そういうのに感動していたけれど、年を取ると、選手がどういうキャリアを辿るのかという方が、面白いと感じるようになってきた。

 そうこうしているうちに時間が来て、UEFA.TVでヨーロッパワールドカップ予選、カザフスタンフィンランドの試合が始まった。フィンランドのサッカーは頭がいいプレーが多くて見ていて楽しい。初出場だったEUROでも、弱小なりに賢い試合運びをしていて、いいところまでいきそうだった。今日の対戦相手のカザフスタンFIFAランキングが124位で、56位のフィンランドとはチーム力に差があった。ディフェンスラインを中心に若手が多く出ていた。怪我で出ていないウロネンに代わって左サイドバックには、応援しているハマライネンが入っていた。彼はフィンランド代表だけれどアメリカで育った選手だ。カザフスタンは背番号11番の選手が良かったけれど、なかなかシュートまではいけなかった。フィンランドは中盤のカマラとロビンロッドが自由に動きながらボールを支配していた。グレン・カマラも元アーセナルの選手。確かシエラレオネにもルーツがあると思う。レンジャーズの彼は、先シーズン、ヨーロッパリーグでも活躍していた。前半の終わりにフィンランドフォワード、プッキがきれいなターンからゴールを奪った。アナウンサーが言うには、フィンランドのレジェンド、ヤリ・リトマネンに並んでフィンランド代表として歴代最多得点者となったという。プッキは後半開始早々にも点を決めて記録を更新した。彼の前にはもう誰もいない。全員が後ろにいるのはどんな気分なのだろう。現在プレミアリーグノリッジにいるプッキだけど、10年前にはシャルケ内田篤人の同僚だった。シャルケにいた時の試合をテレビで見たことがあるけれど、その時はもっとテクニカルな選手で髪の毛もサラサラだった。そんな彼が今も試合の流れを読みながら頭のいいフォワードとしてプレーしていて、なんだか過ぎた年月を感じる。

 オリンピック以降、私は自分がスポーツを応援する意味について考えているけれど、答えは出そうにない。つい先日、サウジアラビアの王子がニューカッスル・ユナイテッドのオーナーになって、ますますモヤモヤしてしまった。人権問題を抱えた国の王子が、人権問題を解決しようという姿勢を見せないまま、フットボールチームを所有するというのは気に食わないし、何よりスポーツウォッシュである。スポーツによって自らの人気を上げて、人権問題を覆い隠そうとしている。「オリンピックで高揚した国民は、メダルラッシュの中で政治に対して文句は言わないだろう」とでも言いたげだった政治家と同じ態度である。これからの世界でスポーツの政治利用は避けられないのかもしれないとも思う。昔見ていたようにサッカーを見られる日はもう来ないかもしれないと思うと悲しい。プレミアリーグ10年前とはだいぶ変わってしまった。10年後のサッカーはどうなっているだろう。

 

 

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#146 永遠の入り口

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 誰かと仲良くなる。「○○が好きなの?」「一緒だね」「似てるね!」そういうやりとりが繰り返されて、束の間私はうっとりしてしまう。共通点がたくさん。育った町や行った場所。好きなバンド、スポーツチーム、アイドル。出会った日はうっとりしながら帰る。また次に会う時にこんな話をしようとか、もしかして私が好きなあの映画も、あの人は好きなんじゃないかとか、そういうのを考えて一人で嬉しくなる。「この小説知ってる? ○○にオススメかも」なんていうlineを送ろうか送るまいか迷ってやめにする。時々我慢できなくて送る。

 しばらくして、違いが見えてくる。「あ、ここはちょっと違うんだ」なんてことが増えてくる。私がよく見てしまうのは家族のことや金銭感覚。自分と違うことに気づいて、そして勝手に裏切られたような気になる。その人と「おんなじ」だと思っていたのに、実は違っていると知ってしまったから。そうよね、違っているよね。当たり前だよね。全部一緒なんてあるわけないよね。わかっているけど少し悲しくなる。

 オードリーの若林もこの前のラジオでそんなことを言っていた。その人の言葉や表情に「わかるなあ」「一緒だなあ」って思うことが多ければ多いほど、違っていることが逆に目立つ。好きだからこそ、共感することが多いからこそ、違うということに悲しくなってしまう。

 そんな時、その人との距離が急速に遠くなるような気がする。ぐるぐると回転しながら宇宙空間に放り投げられたような気分。「地球は青かった」なんて言う暇もない速さで私は飛んでいってしまう。

 人間にはいろんな面があって、だからある一つの面だけでその人のことを決めつけて、勝手に悲しんだり起こったりするのは、あまり良いことではないかもよ? そう教えてくれたのは小説家の森絵都さん。『カラフル』という黄色い表紙の本だった。中学受験の国語のテキストで出会ってから、10代の前半、森絵都の本ばかり読んでいた時期があった。児童文学も、それから大人向けの文学も両方書いていた森絵都さんのおかげで、あの頃大人への階段を少しずつ上がることができた。中学校の図書室に置いてある本が小学校の頃のそれとは違って面食らった私は、馴染みのある森絵都の本を見つけて安心した覚えがある。ストーリーはもうほとんど覚えていないけれど『つきのふね』や『ゴールド・フィッシュ』という彼女の本をある時期夢中で読んだ。その中でもやはり『カラフル』は特別で何度も読み返した。それなのに、時々私は一人の人間の中にたくさんの色があることを忘れて、裏切られたように感じてしまう。

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 人は変わる。現実の中のあなたも、思い出の中のあなたも。人は時間とともに変わる。一つの真理だ。そして彼らは私の人生を横切っていく。これもまたもう一つの真理。グーグルで「Friends come and go,」と検索すれば古今東西の名言がザクザク出てくる。人生における人の出会いと別れなんて、寄せては返す波のようなものなのだ。満ち潮とともに消える城のように、後から思えば、そもそもあったかどうかも確かでなくなるような儚いものなのだ。砂丘の上の鳥の足跡のように風が吹けばすぐに消えてしまうのだ。

 誰かと出会って意気投合した時、これからもたくさん楽しい話をしようと思う。あんな話こんな話。一緒にどこか行ってみたいとかそういうことも思う。出会いには別れがつきものだということも、時間には終わりがあることも忘れて、ずっと一緒にいられるなんていう勘違いをしてしまう。他の人も、これを読むあなたも同じように感じたりするのだろうか。同じように思っている人がいたら嬉しいな。もしかしたら私の中を流れる時間は、「ふつう」の人よりも緩慢なのかもしれないと、時々不安に思う。

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「今日あまり話せなかったな」

 初めて打ち上げの帰りに泣きそうになったのは中学3年生の時。体育祭だった。もっと話したいのに、焼肉の食べ放題の時間は終わってしまって、別れたくないから河原でみんなで話したりしたけれど、門限があるから帰らないといけなくて、そういうのを初めて悲しいと思った。帰り道が途中まで一緒でもどこかで別れないといけなくて、そういうのって悲しいことなんだなって知った。この角を折れて家に着けば、風呂に入って眠りにつけば、今日の楽しかった時間や会話が無くなってしまうような気がした。体育祭が終わって日常が戻れば、今日の出来事を忘れてしまうかもしれない。悲しかった。永遠などないと初めて思い知った。

「仲が良い」とまでいかなくても「一緒にいて楽しかった」ということは、おそらくその人との間で何かを共有できたということなのだと思う。一時的に共有できたものが無くなってしまう、元々無かったことかのようになる。そういうことが悲しみの原因だと思う。

 永遠なんてないのに、ずっと話していたい、繋がっていたい。未だにそう願ってしまう。幼稚だなとは自分でも思う。そんなのエゴだしわがままだ。でもそう思わずに済ますことができない。ちょっとまだ難しい。もう25歳なのに。グラスの中の氷はとっくに解けてなくなっているのに。

 長く続く関係なんてそうそうあるわけではない。あの人も遠くに行ってしまった。目の前のこの人もいつかは遠くに行ってしまう。そういうことを——仏教が諸行無常と呼ぶこと全てを——私はいつか愛せるようになるだろうか。受け入れることができるだろうか。あるいは諦めてしまうのだろうか。ついには疲れて何も思わなくなるのだろうか。

 毎日毎日を大切にしないといけないな。一つひとつの会話を大事にしないといけないな。なんて当たり前のことを思う。でもまたすぐ忘れてしまう。それはまた別の悲しさだと思う。

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#145 そこにいたこと

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※読む人によってはつらい箇所もあるかもしれません。予めご了承ください。

 

 日記によると私が荒浜と石巻を訪ねたのは2018年の119日と20日らしい。津波の被害を受けた沿岸部は災害危険区域となり、かさ上げ工事がされていた。吸い込む空気の中に砂ぼこりを感じながら海まで歩いた。

 荒浜は住宅地がまるまる流されて家の基礎だけが残っていた。立ち退きに反対する人は自分の土地に黄色い旗を掲げていて、それが風になびいていた。震災遺構となった荒浜小学校がぽつんと残っていて、建物が寂しげな顔をしているように思った。

 1階では波をかぶった教室ががれきを撤去されたまま残されていた。黒板には子供が書いたであろう「今でしょ」という当時の流行語があった。私のいた大阪の中学校でもCM林修をまねて「今でしょ!」と誰かが言っていたのと同じように荒浜の小学校でも誰かがふざけていたのだろうと思うと不思議な感じがした。なんでもないような落書きが震災遺構となった小学校に残っていて、それを書いた子供は今はもう中学生や高校生、あるいは社会人になってるのだろうと思うと、なんだか頭がクラクラした。老夫婦がいて少し喋った。彼らは少し離れた町に住む人で、実際に荒浜地区に住んでいた人ではなかった。つまり直接の被害者ではなかった。私は話す人がいてほっとした。車で来た彼らは私を地下鉄の駅まで送ってくれた。

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石巻市旧北上川






 石巻は海岸にたどり着くのが難しいほど工事ばかりだった。津波を逃れた人々が一夜を過ごしたという日和山公園に上って、海を眺めた。地元の高校生が山上の神社で参拝していた。鳥居から海を見下ろして、でも津波が来る前の街並みが想像できなかった。工事のための車両が行き来していて、慌ただしかった。この文章を書いている現在、地図アプリによれば、私が見ていた場所には「石巻南浜津波復興記念公園」というのがあるらしい。津波の被害を示すボードがあって、門脇(かどのわき)と南浜の両地区は、災害危険区域となって人が住めなくなったと書いてあった。

 旧北上川沿いにフェリーの発着場があった。誰かが教えてくれた、猫が住む観光地の島はここから行けるのだった。でも私は観光をする気になれなかった。

 結局その日は海まで行けずに川沿いを戻って石巻駅まで帰った。門だけ残った家があり、何かがあったであろう場所があり、どこからか来たであろう工事の人がいた。午前中訪れた石ノ森漫画館の白い建物が何だか場にそぐわないと思えるほど考え込んでしまっていた。美しいデザインの駅も、街角に立つサイボーグ009の登場人物の像も違和感があった。別に震災と津波だけがその場所を表すわけではないのに。そして私は一日だけ訪れた旅人でしかないのに。

 かさ上げ工事をしても、人や街が戻るわけではないのに、なんて残酷なことを21歳の私は考えていた。モヤモヤした思いを抱えながら仙石線を仙台まで帰った。そして東北大に進学した高校時代の友人Rとご飯を食べた。

 

 202188日、列島は雨が至る所で降っていた。すでに高校野球の開会式は雨天順延になっていた。私は事故で入院していた。手術をして2日経って、車椅子で動けるようになっていた。夕食は6時からだと決められていた。私は賑やかな場所で食べたかったので車椅子を漕いで病棟の共用スペースに行った。共用スペースではテレビがあって、大抵その時間はニュースをやっていた。毎日リモコンを持っている人によってチャンネルが違うけれど、夕食を食べながらテレビを見るのがルーティンになっていた。

 明日は長崎に原爆が落とされた日だということで、池上彰が中継先の長崎からニュースに出ていた。長崎も雨が降ってること。明日予定されていた様々な集まりが中止になったこと。そういうことを彼は東京のスタジオに伝えていた。スタジオにはアナウンサーがいて、リモートで番組に参加している鈴木福古市憲寿も時々画面に映った。

「福君、長崎市被爆建造物はどれくらいあると思いますか?」という池上彰の質問に福君が答えていた。池上彰はいつもクイズ形式で話すなあと思った。福君が何か数字を答えて、それは正解からそう離れていない数だった。前日に撮ったであろう映像が流れて、山王神社の一本柱鳥居が紹介されていた。爆風で片方の足が倒壊してしまった鳥居は今も片足で立ち続けている。VTRの中の池上彰は柱に彫られた文字が、爆風と衝撃によって消えてしまったことを話していた。ジャーナリストの彼は、テレビの中で物知りであることを演じ続けないといけない宿命みたいに思える。彼の仕事は、人間一人がカバーできる知識の範囲をとうに超えているような気がしてならない。彼は自分の話した内容、書いた文章を一体どれだけ覚えているのだろう。知ったかぶりをして乗り切ったりしてないのだろうか? なんて意地悪なことを考えてしまう。それとは別でCOVID-19とオリンピックと原爆と大谷翔平を一緒くたにして、テレビ局の人達は頭がおかしくならないのだろうかとかも思う。入院中よくテレビのニュースを見たけれど、情報を処理できなくて時々頭が痛くなった。

 

 また少し時間が経って2021911日。あの日から20年経ったということでテレビでは特集が組まれていた。なんだかお決まりの光景のように感じてしまっている自分がいた。

 1月には阪神淡路大震災を、3月になれば東日本大震災を、4月には福知山線脱線事故6月は附属池田小の事件、あるいは沖縄戦で、7月にはやまゆり園。8月になると俄かに戦争の話を始めるテレビ。考えないといけない、感じないといけない。そんな圧力がある、ような気がする。

 しかしそれが何の意味がある? 考えて感じて、だからなんだというのか?

 別に私が心を痛めたところで世界が変わるわけではないし、テレビがそれを伝えるからといってそのことを考えないといけないなどと決まっているわけではない。

 留学生の友達は私に言った。「広島に観光に行きたいけれど、原爆のことを私は見れない。だから広島には行けない」

 瀬尾夏美さんの本——『あわいゆくころ——陸前高田、震災後を生きる』と『二重のまち/交代地のうた』のどちらかだと思う——の中で、震災後の光景を「見ておいた方がいい」と考える親に連れられて、東北に来た子どもの話があった。大人になったその人は親に対する違和感を語っていた。

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石巻市日和山公園

 高校の卒業旅行で沖縄に行ったのは2015年の春のことで、今のところそれが、私にとって最初で最後の沖縄旅行だ。首里城に行けばよかったと今なら思う。当時の私は沖縄戦のことを知りたかった。沖縄に行くなら、ひめゆりの塔や平和祈念資料館に行くのが当然だと思っていた。部活の面々も同じように思っていると考えていた。でもそうじゃなかった。私は言い出せず、結局、「楽しい」ところだけを回った。美ら海水族館国際通りでふと我に返り、これで良いのかと考えたりしていた。

 広島にも東北にも沖縄にも、いろんな人がいて、いろんな側面がある。どれか一つの側面だけでその土地について決めつけてしまうのは良くないことだ。もちろん災害や戦争がある土地に大きすぎる爪痕を残していることはあるだろう。それでも災害や戦争以外の側面、その土地にあった人々の営み、喜び、歴史を無かったものかのように考えたくはない。

 仙台市は荒浜地区に住んでいた人に行ったアンケートの結果をサイト上で公開しているのだけれどその中に「思い出いっぱいだった母校が、傷ついたまま人目に晒されているようで悲しい」という意見があった。

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 私のような人間は、外から来て荒浜を歩いて何か学んだような気になって帰る。別にそれが悪いこととは思わない。けれど、自分の住んでいた土地に「被災地」というレッテルをただ貼られただけでそのままなら、それは悲しすぎる。私なら悔しい。もどかしい。

「何人死んだ」「行方不明は何人だ」「どこどこの集落で何世帯何人が孤立している」「選挙で何票を集めて当選」「日本のメダル数は何個」「東京都の今日の感染者数は何人」「自宅療養者は何人」「大阪府の今日の感染者数は何人、死者数は何人」————。私たちは全知全能ではないから、どうしても数字を頼りにして物事を探ろうとする。でも数字には出来ないこと、簡単には言葉にならないことも、同じようにきっと大切なはずだ。

 仙台市の公開するpdfにはこんな意見もあった。「荒谷集落の成り立ちや歴史、震災前の暮らしの様子などがわかるような展示を行い、見学者に荒浜(深沼)という集落があったことを伝えてほしい」「お寺、郵便局、思い出に残っている商店などもわかるようにしてあると嬉しい」

 実際、2018年に訪ねた旧荒浜小学校の4階には荒浜地区のジオラマがあった。模型にはたくさんのピンが刺されていて、「○○さんの家」「ここによくデートで行った」という風に誰かの思い出が書かれていた。良い試みだと思う。数だけじゃわからないことが、言葉にできないことがたくさんある。誰かにとって大事なことならば、できるだけ残ってほしいと思う。

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#144 9歳の私へ

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 お元気ですか?

 愚問ですね。なんせずっと病棟にいるんですもんね。お疲れ様です。色々とつらいこともあるでしょうが頑張ってください。あなたが——当時の私が——つらいと思っていたかどうかは、実は思い出せません。入院するとわかった時に泣いたのは覚えているのですが、どこかわくわくした気持ちもあったように思います。でもみんなが心配してくれるのが嬉しかったりもしましたよね。つらつらと思い出すのは養護学校の芝生や両足につけている装具の煩わしさ、ペルカーをこぐときの風、理学療法士の和田さんや内海さんの顔や、将棋に負けて泣いていたことなどです。切れ切れの思い出はまだ鮮やかで、友達の名前も結構憶えています。まだ小学生にもなっていなかったタボちゃんやひなのちゃんが今どう過ごしているのか気になります。病棟は4つあって、あなたがいるのはばら病棟、やんちゃな子が多くいたのがゆり病棟、一番学校に近いところにあるのがのじぎく病棟でした。誰も入っていない病棟が一つあったのですがその名前は忘れてしまいました。

 あなたは今までにもこれからもない量の手紙を一年で受け取ることになります。家族から学童の先生から。わだりょーからも来ます。9歳の時にたくさん文通したおかげで私は今でも手紙を書くのが好きです。もらった手紙は宝物なので大事にとっておいてください。

 学童保育で氷ノ山へ行くスキー旅行の案内がありました。そのスキー旅行に和田家と一緒に参加したのが2年生の2月で、その時にはもうすでに足が痛かったと思います。「痛い」とあなたが自分から言い出さなかった理由が今でもわかりません。どうして我慢したんですか? 何か理由があったかもしれませんが、言った方が良かったと今では思っています。右足に体重がかけられないので左向きのシュプールがずっと続いていましたね。

 残念ながら25歳の私はあなたみたいに我慢強くなくて、嫌なことはほとんどしないし何かストレスがあるとすぐにふて寝をしてしまいます。実は今交通事故で入院しているのですけれど、傷が痛いときには我慢せずちゃんとロキソニンをもらっていますよ。結局3月になって、年に一度通っていた須磨のこども病院でレントゲンを撮り、そこで小児ペルテスという病気が判明したと思います。「1年入院する必要がある」と知って頭が真っ白になりましたね。こども病院のあの古い薄汚れた感じも人工的な中庭も何となくまだ覚えています。

 小児ペルテスは、現在は手術で治すのが一般的だそうです。当時はまだ手術は主流ではなくて、あなたのお母さんは手術ではなく療養を選びました。小児ペルテスは成長期の大腿骨の骨董が一度壊死する病気なのですが、安静にしていればまた壊死した骨董がまた復活するという「変な」病気なのです。どういう遺伝子の気まぐれなんですかね。ゲームのバグみたいです。羊水の中の胎児に水かきが生えてまた消えるような「アポトーシス」というのを高校生物で習いましたが、それに似ています。人工骨頭を手術で埋めるのを母は嫌がり、あなたは神戸電鉄の緑丘が駅にあるのじぎく療育センターというところに入りました。緑ヶ丘の駅から病院まで徒歩25分程度だと記憶していますがあっていますか? 大人の感覚は子供の感覚と違っていて、全てのことが短く小さく感じられるので、いつかまた歩いてみたら短すぎてびっくりするかもしれません。

 

 病院のある神戸市北区は自然がたくさんあって虫がたくさんいました。のじぎく療育センターは実は今はもうなくて、併設されていた養護学校だけが特別支援学校と名前を変えて存在しています。私が入院している最中にすでに療育センターの取壊しが議論されていました。センターだけでなくこども病院も今は須磨ではなくポートアイランドに移転してしまいました。もしかしたら東播地域から児童医療へのアクセスは、減ったのかもしれません。私のような放っておけばすぐに回復するような患者はいいけれど、脳性麻痺の子や知的障害の子が行き場を失ってしまったとしたらそれはとても悲しいです。実際、入院している患者の家族に対するの説明会——病院の人とともに行政の人も前に立って話していました——に何回か出たことがありますが、聞こえるのは悲痛な声ばかりでした。保母さんが毎月楽しいレクリエーションをしてくれる大ホールは、説明会の時いつもピリピリしていて怖かったです。「これから私とこの子はどうしたらいいんですか?」「今までこの子の将来を考えて、自殺を考えるまで思いつめたこともあったのに、私はまた転院や学校について考えないといけないんですか?」「どうしてまた悩まないといけないんですか?」

 

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 あなたは入院する1年間の間にいろいろな経験をします。のじぎく療育センターにいた1年のおかげで、あるいは退院後に松葉杖や車椅子なしでは歩けない経験をしたために色んなことを考えるようになります。車椅子で受ける居心地の悪い視線や、点字ブロックを進むときの不快な振動も、より病状の重い友達と接するときの何とも言えない感情も、ずっと私のテーマであり続けます。よく将棋を指した友達が病気で亡くなることもこれからあなたは経験するでしょう。

 25歳の私は交通事故で入院しています。今日で40日目です。でも1ヶ月や2ヶ月の入院なんて、9歳のあなたが過ごしているのじぎくの時間と比べたらなんでもありません。私は1年で退院できたけれど、最初はいつ退院できるかわかっていませんでした。事故直後と、植皮手術の——コンクリートで削られた足首の皮膚が欠損した挫滅創という状態で、鼠径部の皮膚を切って移植しました——後は安静にしないといけなくて、車椅子なしで移動も何も出来ませんでした。でも病院でもどこでも工夫すれば乗り切れるということをあなたの経験のおかげで私は知っています。のじぎくで過ごした時間のおかげで頑張れています。

 これはまた別の話なのですが、色々ひっくるめてたくさんのことを9歳で気づいてしまい、見てしまったことで、あなたは少し大人びてしまうかもしれません。周りがどこか幼く感じたり、馬鹿みたいに見えるかもしれません。「ガイジ」とあまりにも簡単に口にしてしまうクラスメイトにこれから悲しくなったりします。大学生になった私は障碍を持った人が過ごすショートステイという場所でアルバイトをしています。時々あなたが過ごしている日々がふわりと蘇ります。あの時の友達は今何してるんだろうとか、養護学校——特別支援学校——を卒業してみんなどうしたんだろうとか、考えたりします。患者として療養者として過ごしたからこそ、気づくことがたくさんあって介護者としては上手くやれていると思います。時々、気づくことや感じることが多くてパンクしてしまいますが。大学でも福祉に関する授業をいくつかとりました。

 

 ばら病棟4号室。同室のT君は今思えば意地悪だったかもしれません。あなたが彼に感じる違和感は大体正しいです。25歳の目で見れば、人の痛みを想像することができない冷たさを持っていたように思います。退院してから彼とは養護学校の同窓会で会ったはずですが、興味がなかったのかあまり覚えていません。何度か年賀状を出したけれど途中でそれもなくなりました。途中で来た2歳年下の北野君は少しわがままだったし、隣の5号室の方が楽しそうだったことを覚えています。私の記憶はどうでしょう、正しいでしょうか? 5号室には当時流行っていたオリエンタルラジオやレーザーラモンHGのモノマネが上手なた森君と、いつもニヤニヤしながらダジャレとかギャグを考えている西尾君とがいました。生まれたときからずっと病院にいるさとちゃんが時々怖かったけれど。私より後に入院して先に退院した中野君も5号室にいました。中学生なのにHGが出てるディースターのCMと一緒に「フォー!」とか言って騒いでいました。一緒にいたら楽しいので中野君が入院してきたらぜひ話してみてください。全然関係ないけど今はHGよりもRGの方がテレビではよく見ます。

 テレビ、よく見ていますよね。幼少期に見ていた教育テレビ——12チャンネルだったのがいつのまにか2チャンネルになって、名前もEテレに変わりました——を抜きにすれば、のじぎくでは今までで一番テレビを見ているのではないでしょうか。家では、特に母と暮らす尼崎の部屋では、テレビは悪という感じがあってあまり見れなかったと思います。テレビを自由に見れる今を謳歌してください。退院後もやはりまだ母に遠慮してしまって、10代の終わりまで家ではテレビを隠れて見ていました。何となく今でもテレビを見ることはよくないことだという意識があります。

 あなたは中野君と一緒にプレイルームのテレビでヘキサゴンとアンビリバボーをよく見ると思います。言っても信じないと思いますがヘキサゴンは間もなくなくなります。そして残念なことに笑いの金メダルが終了するのもすぐです。テレビに出ているピン芸人ヒロシの姿をしかと目に焼き付けておくことをオススメします。意外かもしれませんが2021年の世界でもアンガールズは面白いです。

 

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 アトピー大変ですよね。今回も入院した当初は少しアトピーが悪くなりました。痒くて寝れなくて、ストレスでかきむしっていた9歳の夜を思い出しました。あなたが過ごす日々は、人生で一番アトピー性皮膚炎が酷い時期です。でもこれからの人生を大きな目で見ると少しずつよくなるので安心してください。おばあちゃんがあなたの肌の汚さについて色々言ってきますが気にしなくていいです。看護師さんに毎日アズノールや保湿剤の後にステロイドを塗ってガーゼと包帯をしてもらっていると思います。看護師さんに体を触られるのも結構ストレスですよね。触らせてもらえない看護師さんはあなたや母に文句を言ったりしますが、正直あなたは悪くないと思います。人間には好き嫌いがあるし、医療行為とは言えど自分の体は自分のもので、できれば他人に触らせたくないですよね。もちろん看護師さんにとってそれはお仕事だし、何よりあなたのためにやってもらっていることなので感謝の気持ちを持つべきなのでしょうけれど。残念ながら、大人になってもアトピーとはまだお付き合いさせて頂いてます。「大人になったら治るよ」ってみんな言ってくれたんだけどなあ。時々恨めしく思います。喘息も結局治らないし、身長も伸びないままでした。ごめんよ。あなたもそうだと思いますが、今も昔も寝るのは苦手です。なんせ3歳の時にあんなことを経験してしまったので。起きて、寝る前と違う場所にいると気づくのが怖いんですよね。笑っちゃいますよね。想像していたのと違う25歳になっています。ごめんね。

 

 看護師さんの名前。福田さん、佐伯さん、上田さん、ほかにもたくさん。ばら病棟便りを書いていた辻本さん、子供にも対等に接していて、私について「良くも悪くも自尊心が高い」と言った中辻さん。将棋の強かった山本さん、いつも座っている師長さん。もう一度会いたいなと思うのは喜谷さんです。青い目をしていて不思議な雰囲気を纏っていました。大人になったら話せなくなることもあります。今のうちに色々話しておいてください。それで、もしできるなら話したことを覚えておいてください。看護師さんの心無い言葉を聴いたり、母について何か言っているのを聴いたりして、嫌な思いをしたことも覚えています。これは忘れた方がいいですきっと。

 病棟と養護学校は渡り廊下で繋がっていて、朝になるとみんなペルカーや車いすで競ってレースみたいにして学校に行きました。学校は2階が中学校、1階が小学校になっていて、初めて訪れた時は芝生の美しさに驚きました。あなたは毎日休み時間にはペルカーに乗って野球をしていると思います。時々テントウムシが飛んできてペルカーにとまります。秋にはトンボがたくさん飛びます。

 3年生の担任は中村先生で4年生の担当は岩間先生。2学年でよく一緒に授業しました。重い障害の子は別で授業を受けることがあって、吉岡先生が担当していました。吉岡先生もまた会いたい人の一人です。養護学校の図書室で本を貪るように読んでいたあなたが退院するとき、吉岡先生は『ナルニア国物語』をプレゼントしてくれます。『ハリーポッター』とはまた違うペペンシー家の子供たちの話にあなたは夢中になります。校長先生や美術の先生もうっすら覚えています。6年生の担任の南山先生も面白い人でした。

 

 尿瓶(しびん)についても書かないといけません。もう尿瓶には慣れましたか? 今回の入院中に16年ぶりに自分のために尿瓶を使いました。のじぎくで使っていた古びた尿瓶ではなくて新しくて清潔そうなやつです。ペルカーに乗っているあなたは何度も尿瓶を使っていると思いますが、その都度病棟なら看護師さんが、学校なら山本さんが——山本さんの仕事の名前が当時も今もわかりません——尿瓶の始末をしてくれました。ショートステイのアルバイトでも、利用者さんの介護で尿瓶を使うことがあります。やはりあの時間を思い出します。

 

 25歳の私には切れ切れの思い出しか残っていませんが、どれも大事な思い出です。9歳のあなたが、思い出や記憶についてどのように考えているのかはわかりませんが、思い出はきっと最後の最後まであなたの味方です。あるいは————あるいはそんな風に思い出や記憶に固執しない生き方の方が楽かもしれないとも、今は思います。9歳のあなたと25歳の私がどの程度繋がっているのかわからないし、こんなことをここで書いても意味はないのだけれど。

 他にも養護学校バファローズの選手が来たこととか、阪神がリーグ優勝した瞬間とか、夏休みに高校野球をひたすら見ていたこととか、愛・地球博に行って車いすのおかげで行列に並ばずに色々見れたこととか色々書きたいけれど、少し長すぎるのでこれで終わりにします。

 のじぎくでの日々は、自分の人生を振り返ってみてかなり貴重な時間だと思います。いろいろ見て考えてください。

 

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#143 病棟の日々

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 入院しています。何から書けばいいのか迷っているうちにもう38日目になってしまいました。病院での生活は今のところ順調です。8月初めの二度目の手術が終わった後、しばらく車椅子の上で安静にしないといけなかったのですが、それも金曜日で終わりで、昨日から歩いています。最初は歩くだけで足がつりそうになったりしました。1か月以上洗っていない左足の裏はヌルヌルしていてお風呂場で何回も洗いました。

 病棟の中の共用スペースにはテレビがあって、大体いつも高校野球がやっています。試合の合間には過去の名勝負の映像が流れるのですが、田中将大斎藤佑樹の投げ合いや、松井裕樹1試合22奪三振を毎日見ています。横浜の涌井投手、沖縄水産大野倫投手。昔の映像。私が生まれる前の。小さい頃はよく高校野球をテレビや球場で観ていたけれど、いつの間にか見なくなってしまいました。14歳ぐらいまでは毎年楽しみにしていたような記憶はあるけれど、部活で忙しくなったり映画にはまったりで、いつの間にか気にも留めないようになってしまいました。甲子園は17年の選抜を友達と見に行ったのが最後です。当時はまだ外野席は無料で入れましたが、18年ぐらいに、金足農業高校が活躍した頃に外野席も有料になりました。昔高校野球で活躍した選手たちがプロになり、引退するような年齢になりました。自分も年を取ったなあと思います。この前、当直の看護師さんが鳴門高校出身の人で、後藤田投手や板東投手を応援していた話をしてくれました。

 今週の共用スペースには私を含めて3人の人がいました。1人が今日退院していきました。先週はまた別の人がいて退院していきました。来週はまた違う組み合わせだと思います。

 うまく思いが伝わらない、コミュニケーションを取れない、体が動かない歩けない、思い出せない。病院にはそうしたもどかしさがたくさん転がっています。今一緒にいる人は時々ここが病院だと思い出せなくて、今日はどういうわけか槍ヶ岳に上る最中だと思っているようです。

 早朝の国道を原付で走っていて、トラックが追い越すときにぶつけられました。トラックと敷石の間に挟まれた状態で30メートル走って、最後どうしようもなくなって歩道に転がり込みました。コンクリートで削られた足首には穴が開いていて、血が今までに見たことのない勢いで流れていました。最初スマートフォンと同じ大きさだった傷もみるみるうちに小さくなりました。その昔、練習すれば竹馬もけん玉もメキメキ上達したことを思いだしました。毎日寝れば寝るだけ食べれば食べるだけ傷が小さくなっていきます。植皮手術の前までそれを見るのが楽しみでした。その間毎日主治医の方や看護師さんが傷をきれいにしてくださいました。10代が終わる頃から勉強も語学も全部、いくらやっても十分ではないように思えていたのですが、自分の傷の治り方に元気をもらいました。変な話です。

 三食きちんと食べて、睡眠もとっています。病棟の中の刺激のない毎日ならば憂鬱も少しは楽になるかと思ったのですが、考え込む癖は抜けなくて今日も昼ご飯を食べる前に、色々考えているうちにわけもわからず涙が出てしまいました。入院したころは夕食を食べた後が苦しくて寝れませんでした。SNSを見るのがつらくて、自分が置いていかれているきがしました。私の夏休みは始まる前に終わってしまいましたから。何かをしないといけない気がして、病院だから書ける文章もある気がして、でも大学院入試のための研究計画書を書いたりしないといけないし、卒論のことも進めないと。9月にあるコンペティションのための文章もそろそろ書き始めないといけない。まだ構想を練っているだけ。あれをしないといけないこれもしないといけないという風に焦ってしまって、寝れないし起きれないし体は休みたがっているし。どうしたらいいのかわからなくて気づけば一日が終わっているという日々が3週間ほど続きました。

 話し相手がいないのもつらいです。看護師さんや看護助手さんはいつも忙しそうで、処置の時——包帯を取って傷を洗って薬を塗って包帯をまた巻く15分ほどの時間——ぐらいしか話せません。名札を出していない人もいて、未だになんて呼べばいいかわからない人もいます。同じ年齢の人がもう3年目だったり4年目だったりして、ぬくぬくと学生をしていることを後ろめたく思ったりします。怖い。すごく怖い。最近自分の進路をどうするか大体決めたのですが、やっぱり怖いです。これはまた書きます。

 病棟外からやってくる人と話すことが多くて、主治医のA先生や、薬剤師のMさんとはたくさん話しました。あと病院にいるのも10日あるかないかですが、何度かまた話せたらいいなと思います。病院生活はそんなに悪いものではないけれど、いいものではないです。

 高校野球は雨で流れたりで、822日だというのにまだ2回戦をしています。第4試合が始まるところです。盛岡大付属と沖縄尚学の試合です。病棟に流れるぼんやりしたオルゴール調の音を聴きながら、ぼんやりとテレビを眺めています。また気が向いたら書きます。

 

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#142 グループE第1節 ポーランド-スロバキア

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 スロバキアが青の、ポーランドは白のファーストキットを着た。スロバキアの青いユニフォームは一見ブラシで適当につけたようなカモフラ柄に見えるけれど、実は国内の山地をイメージしたデザインらしい。正直、こういうユニフォームのデザインって紋章やマークでないと何がなんやら分かりづらいものが多い。オーストリア代表のファーストもウィーン分離派に着想を得たデザインらしいのだけど、あまり共感を得られない(知っている人には納得のグラフィックなのかもしれない)。それよりもライオンが透かしで入っているカメルーン代表や、クリミア半島を含む国土の地図をデザインしたウクライナ代表のユニフォームの方が分かりやすかったりする。

 大会前に各チームのユニフォームを見たときは何とも思わなかったけれど、スロバキアの青いユニフォームは「攻めた」デザインになっていてめちゃくちゃかっこいい。ナイキのスウッシュと、サッカー協会のマークと国章が胸に並んでいて、斬新なパターンと合わさってワイルドだ。私服では眼鏡をかけたりパーカーを着たりとおしゃれで知的なハムシークも、このユニフォームを着るとやんちゃな感じに見えた。ちなみにスロバキアの国章の下にある青いモコモコはスロバキアの象徴でもある3つの山を表すらしい。どんだけ山がちな国なんだよスロバキア

 対照的にポーランドはクラシックなスタイル。フォントの番号まで古めかしくておしゃれだった。襟が国旗と同じ白赤二色になっている。胸の中央には赤い盾と王冠を戴いた白い鷲の国章があって、シンプルだけどものすごくかっこいい。赤白を基調とするクラブにいることもあって、ベドナレクとレヴァンドフスキがよく似合っていた。自分が着ても微妙かもしれないけど、屈強なポーランド人が着るとかっこいい。私的にはナイキの品評会のような試合となった。

 

 2018年のワールドカップでも思ったけれどポーランドは国際大会であまりいい試合をしないイメージがある。レヴァンドフスキ以外はあまり動きがよくなかった。ミリク、ピョンテクといったフォワードが怪我していなければそんなことなかったのかもそれない。ちなみにポーランドゴールキーパーシュチェスニーとファビアンスキは2人とも元アーセナルの選手だ。

 地力で負けるスロバキアは純粋なフォワードを起用せず、ドゥダとハムシークというプレイメーカーをトップにおいて、カウンターを狙うスタイルだった。これが功を奏し、前半はスロバキアペース。18分に簡単に先制した。ポーランドの軽い守備を突破したロベルト・マクがシュートを撃って、それがグリクにあたってコースが変わり、ポストからの跳ね返りがシュチェスニーに当たってゴール。一応オウンゴールという記録らしいけれど、シュチェスニーは何もできなかっただろうし、とにかくマクに対してベレシンスキとヨジュビアクが軽すぎた。

 

 これを機にポーランドがポゼッションを取るのだけど、ゆったりした攻撃で得点の気配はなく、むしろスロバキアのカウンターの方が点が入りそうだった。ドゥダとハムシークがうまく時間を稼ぐ間に両サイドのマクやハラスリーンが上がって厚みのある攻撃を作っていた。

 自分としては、クツカ、ハムシークというセリエAをよく観ていた頃の選手が活躍していてうれしかった。クツカはジェノアを経てミランに来てくれた選手。低迷期のロッソネロを支えてくれたけれど2年でトラブゾンスポルに放出されてしまった。今はパルマにいるらしい。髪型とシャツとタトゥーのせいでワイルドな感じで、この試合も走り回っていた。ハムシークのモヒカンは年々短くなっていて、でもいつものように似合っていた。カバーニラベッシとともにナポリで「3テノール」を構成してチャンピオンズリーグでベスト16に入った頃から知っている彼だけど、気づけば彼ももう33歳。自分も年を取ったなあと思ってしまう。

 アナウンサーは、チャンスかどうかに関わらずレヴァンドフスキにボールが入るととにかく叫ぶと決めているらしく、時々ボリュームを下げることを余儀なくされた。レヴァンドフスキにボールが入った時に追い越す動きがなかったし、サイドの守備を固められていい形でクロスを上げられなかったポーランドは前半に見せ場を作れなかった。

 

 後半、ハーフタイムに闘魂注入されたであろうポーランドが攻勢に出て、1分も経たないうちにリネッティがゴールを決めた。画面の右上に時間の表示が出る前に決まったので相当早くて、多分30秒くらい。文字通り目が覚めるようなプレーだった。

 ボール保持時のポーランドは左サイドのリブスを上げてベレシンスキ、グリク、ベドナレクの3バックになっていた。クリホヴィアクがボールを回してリネッティやクリヒが高い位置をとるようになっていて60分まではポーランドペースだった。

 これで試合が面白くなるぞと思っていた頃にクリホヴィアクが2枚目のカードで退場してしまった。クリホヴィアクは納得がいかない様子だったけれど、相手を踏んでいる2枚目はともかく、1枚目はファールかさえ微妙だったのでちょっとかわいそうだった。これでスロバキアが息を吹き返していく。前線の誰かが同じ位置を取るのではなくて、ハラスリーンとドゥダがポジションを交代したり、センターハーフのフロマダが高い位置をとったり、色々やっていた。スロバキアペースだなと思っているところにシュクルニアルがコーナーキックのこぼれ球を決めてゴール。そのコーナーキックは、クツカがドリブルで中央突破を試みて得たものだった。

 試合はこのまま終わった。最後同点を狙うポーランドがパワープレーに出たり、スロバキアが故障や交代で時間を使ったりとまあよく見る展開だった。スロバキアのキーパーのドゥブラフカはお気に入りの選手で、彼がレヴァンドフスキのシュートをどれだけセーブするか楽しみにしていたのだけど、結局ポーランドは枠内シュートが3本だけだった。レヴァンドフスキに決定機はなくて、センターバックのベドナレクの方がエースよりもたくさんシュートを打つような有様だった。

 

 両チームとも1年以内に監督を交代している。シュテファン・タルコビッチ氏をディレクターから昇格させたスロバキア代表と、外部からポルトガル人のパウロ・ソウザ監督を招いたポーランド。チームとしてのまとまりが違うように思った。もちろん1試合見ただけじゃわからないけど。スロバキアと比べるとポーランドは戦い方が定まっていないように見えた。

 というわけでMVPはタルコビッチ監督。裏MVPはクリホヴィアクにする。あのカードはかわいそうだ。あとスロバキア代表は顔がかっこいい選手が多い。よく見るとエディ・レッドメインに似ていると(私の中で)噂のハムシーク、ちょっとチャニング・テイタム感のあるクツカ、フボチャン、フロマダといった初めて知った選手もイケメンで、もしかしたら出場24か国の中で一番眼福なチームかもしれない。異論は、異論はたくさんあると思います。

 

 

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