シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#227  顔の中の顔

 顔の中に顔がある。風景の中に風景が、都市の中に都市が。記憶はリンクする。今日はジュリアを訪ねてトレヴィソに来た。経由したヴェネチアもクラーゲンフルトも、私が知っているどの都市とも似ていなかった。でも私はフリックスバスの中で、梅田のバスターミナルから乗った高速バスを思い出したし、Trenitalia(イタリアのJRみたいなやつ)ではウラジオストクで乗ったロシアの鉄道を思い出した。

 ジュリアは銀色のフィアットで待っていた。ハグをして車に乗り込む。ジュリアの住む街はなんとなくトビリシのどこかに似ていると思ったけれどどうしてなのかわからなかった。年の瀬だったからかもしれないし、空が灰色がかった青色だったからかもしれない。家の前まで来ると尼崎の昔の友達の家の近くに似ている気がしたけれど、それもやっぱりどうしてかわからなかった。20年前の小学校の記憶が今頃出てくるなんて不思議だ。そういう記憶はもちろんジュリアとも誰とも共有できないから、自分だけで抱えて生きていかないといけない。こういう感覚をすぐに忘れられるようになれば楽だと思うのだけれど、そうはできないからこういう生き方をするしこうやって文章に残そうとする。削った方がいい文章も削ることができなくて文章はどんどん長くなる。スマートフォンの写真フォルダは増えるばかりでもう必要ないスクリーンショットも私は消すことができない。イベントの入場に必要だったQRコード、インスタで見た美味しいレシピ、覚えておきたいと思ったネット記事。見返すことのないスクリーンショットが溜まっていく。

 知り合いの家族に会った時、顔の中に顔を見出す。ジュリアの中にはジュリアのお父さんとお母さんが少しだけ共存していることがわかる。同じことをお笑いコンビ、真空ジェシカの川北もラジオで言っていた。ジュリアは私と同じ一人っ子で、でも両親とはそれほど強く似ていないと思った。両親の顔を足して2で割ったのが子どもの顔だなんて言われても私は信じない。

 夕方になって会ったジュリアのお爺さんはお父さんにそっくりだった。頭の禿げ方と、髭の生え方、それから鼻の形が特に。それから話す時の表情や雰囲気も似ている。

 90歳のおじいさんは、私の顔をもっと見たいと言って、だから私は帽子を脱いで光の方に顔を上げる。ドイツとイギリスとイタリアしか知らないけれど、ヨーロッパの室内照明は日本のそれと比べると暗く、暖色が多い。オレンジ色の照明が斜め上に向けた私の顔に当たる。ジブリならきっと私の長い髪が靡くのだろうとなんとなく思った。ナウシカもののけ姫で、風が無いのに髪が靡くシーンがあった気がする。

 そうだ。「ジブリ」という単語はイタリア語だった。確か昔の飛行機の名前だったと思う。軍事マニアとしての宮崎駿と作品の中で反戦を訴える宮崎駿鈴木敏夫や日テレと働く彼の中にはやはり葛藤などはあるのだろうか。数日前にこのことについて誰かと話した気がする。そう、ケイトだ。ジブリの新作を見てきたと言う彼女は遅くに帰って来て、深夜に勉強している自分と鉢合わせして少し話したのだ。『風立ちぬ』よりはわかりやすいと言うのが私が聞き出せた彼女の感想で、きっともっとたくさん思うことはあったのだろうけれど、私も彼女もあちらこちらに会話の方向を向けるうち、私たちは最初に話していたその宮崎の映画のことを忘れてしまった。ケイトは学士課程の卒業論文関東大震災後の日本における都市計画について書いたらしい。今は修士課程にいて北アイルランドのある自然遺産の保全活動について論文を書こうと思っていると教えてくれた。宗教間で対立が残る場所で、異なる宗派にいる人たちがどうやって協力して来たのかということを調べていくのだという。

ケイトはニナとマーティンの娘で、あごの細さ以外ほぼ全てニナと似ている。逆に妹はほとんど全てマーチンと似ているらしい。北アイルランドのどこかのカフェで働いているという妹は、クリスマスにも帰って来なかった。

 話はジュリアのお爺さんの家に戻る。ケイトと同じように、あるいはヨーロッパの多くの人と同じように、ジュリアのお爺さんにとっても日本はミステリアスな国なのだという。その家の壁にも日本の工芸品がかかっていて、船医をしていたジュリアのひいお爺さんが日本から持ち帰ったらしい。元は何かしらの家具の一部だったようで開き戸になっていたのか蝶番の痕跡があった。黒い漆塗りの中に嵌め込まれた象牙螺鈿で、烏帽子を被った人物が描かれている。左下に「内藤」という署名があった。私はその人物が着る衣装や彼が持つ笛の正確な名前を知らない。それは少し悲しい。ものごとの「本当」の名前を知りたいけれど、それには人生がいくつあっても、脳みそがいくつあっても足りない。今読んでいる多和田葉子の主人公も言っていたけれど、私は鳥や草花の名前を文学の中の文字情報として覚えているだけであって、実物の見た目も、鳴き声も、香りも知らない。

 漆塗りから数メートル離れた壁にもう一つ額にかけられた日本のものがあった。百人一首のかるた札が2枚あって、「こゑきくときぞ秋はかなしき」と「いく夜寝覚めぬすまの関もり」だった。それぞれ「奥山に」と「淡路島」の歌で、後で調べると前者は猿丸大夫の、後者は源兼昌の詠んだ歌らしい。

 ジュリアがトイレに立って、イタリア語が話せない私と英語が話せないお爺さんが取り残された。手持ち無沙汰になった私はお爺さんが淹れてくれた紅茶を飲む。ジュリアがさっきシンクに置いた茶漉しをシンクから取り戻して紅茶を入れる。ジュリアの家に置いてきたほうじ茶を持ってくればよかったと思った。

 数週間前もジュリアの大学の同級生がお爺さんの家を訪ねたらしい。インドから来たとその学生はダージリンティーをお土産に置いて行ったらしく、お爺さんはその紙袋を見せてくれた。西ベンガルのどこかに広がる茶農園で摘まれた茶葉。イギリス人が切り拓いた農園とそこに連れてこられた人々。

 時々ヨーロッパ人が語る「アジア」や「オリエント」について私は考える。お爺さんはインドと日本をどれくらいの近さだと思っているのだろう。話していて少し気になった。

今日の昼もジュリアのお父さんがパッタイの話をしてくれたのだけど、その時も日本とタイの距離感をどれほどのものだと思っているのだろうと不思議に思った。


 小さい頃から地球儀が大好きで、今月も図書館で地図つきのエッセイを借りたくらい地図マニアの自分にとって、アジアやアフリカ、ヨーロッパの距離感は明らかなものなのだけれど、車で数時間走れば違う国へ行けてしまう距離感は島国育ちのそれとは全く違うものだのだろう。

 パッタイの話になった元々のきっかけはスノーボードしに行くジュリアの両親が荷造りする中に私が「うどん」と書かれた袋を見つけたことで、それを皮切りに「アジア」の麺料理の話になったのだ。

 ピーナッツとレモンとパクチーは比較的簡単に手に入るけれどエビはドイツでは少し高い。イタリアではどうなんだろう。魚を食べる人の割合は少なくともドイツよりは多いと思う。

 パクチーが、英語では「coriander」ドイツ語で「 Koriander」と呼ばれるのがどうしても覚えられない。どうしても最初に出てくる単語は「パクチー」というタイ語に由来する日本語で、「コリアンダー」を思い出すまでに数秒の時間がかかる。「コリアンダー」の音の響きは私にとってハリーポッターに出てくる「コーネリウス」や「オリバンダー」といった魔法界の人物と同じ引き出しに入っている。


 一瞬会話の中で京都にあるタイ料理屋「三条パクチー」のことを思い出した。高校の同級生
Oに教えてもらったお店で、何回か行ったお店。一緒に行ったどの人も大切な人たちだったなと思い出して、そういうのはジュリアのお父さんとは全く関係がないから記憶には無理に蓋をする。これからタイ料理屋でパッタイを食べる度、あの店のことを思い出せるのだ。だから今じゃなくていい。

 東アジアの麺たち。札幌から平壌、ソウル、盛岡、東京、山東、四川、沖縄、サイゴンバンコク。各地に様々な麺があって、それはイタリアも同じだ。ジュリアのお父さんはパッタイの平たい麺がイタリアのある麺と似ているように思ったと教えてくれた。私は同じように平たい、山西省刀削麺や名古屋のきしめんについて話そうと思ったが、会話の流れに身を任せる中でそれらについて話す機会はついに失われた。

 当たり前のことだけど、会話には筋書きがない。その場のノリとアドリブで話していくと話したいことからどんどん逸れていって、しまいには最初に話していたことと全く違うことを話していたりする。

 パスタについてイタリア人に聞きたいことは色々あって、茹でる水が硬水か軟水かによってパスタの風味や硬さは左右されるのかどうか、ワイン作りにも水は影響するのか知りたかったのだけど、それについてイタリア人に尋ねるのは次回に持ち越しとなった。


 もちろん私の定義する「ヨーロッパ人」もざっくりとしたものでしかない。

ドイツ社会で私が不満に思う点を挙げる際、私は時々「ドイツ人って大体〇〇なところがあるよね」という風なことを言ってしまうけれど、「ドイツ人」という乱暴なひとくくりの中にもたくさんのグラデーションがあってそういった言い方を毎回してしまうのも考えものである。

 お爺さんと過ごす中で、S台に住む自分の祖父を思い出した。自分が日本から出て行こうとしていることを彼なりのやり方で応援してくれる祖父。今年で90歳になったというジュリアのお爺さんは祖父と同じように新しいものに対する興味を持っていて、それが長生きする秘訣なのだろうと思った。自分の時代は戦争があって外国に行くなんて思いもしなかったけれど、今は簡単に行ける。まるで魔法みたいだと。

 そうなんだよね、昔より簡単なのだよね。孫娘と祖父に「明日ウディネに行くのはどうして?」と聞かれた私は正直に答える。私の好きな書き手が結婚式を挙げたのがウディネのある教会であること、その人のおかげでイタリアに対する興味が湧いたこと。私も彼女のように違う国に住んで文章を書きたいということ。

 テクノロジーに関しては、須賀敦子がイタリアに行った時代よりも、多和田葉子がドイツに来た時代よりも、今の方がはるかに便利だ。まあ、バブル時代に多和田葉子がドイツで生活を始めた80年代の方が、円がユーロにボロ負けしている令和5年では経済的には楽だったかもしれないけれど。とはいえ、インターネットの発達と、日本のパスポートが勝ち取ってきた信頼性は、間違いなく私のヨーロッパ生活を容易にしているはずだ。

 ジュリアはよく友達をお爺さんのところに連れて行くらしい。お年寄りが集まるところがお爺さんは好きではなくて、若い人と話すのが好きな彼にとって大切なことなのだと思う。私も関西に住んでいる時はよく祖父の家に友達と言った。関西にいる、いとこ達は同じことを祖父にしてくれているだろうか。祖父母の庭にある夏みかん狩りもマーマレード作りも、雪の日に雪だるまを作ったことも木に登ったこともなんだか随分昔の記憶に思える。父親がいないために祖父母とよく過ごした私と、いとこ達の間には、祖父母との距離感が全く違って、彼らは楽そうでいいなあと時々思う。一人っ子のジュリアにとってお爺さんはどういった人なのだろう。彼女とは日本とイタリアの高齢化について何回か話した。彼女にいとこがいるのかは知らない。

 夜、ジュリアと猫と一緒に映画を観た。みんな大好き2001年のフランス映画『アメリ』をテレビで流して、明日から友達とスキーに行くジュリアは映画の途中で、オーブンの中のケーキを取り出したり入れたりして忙しそうだった。映画に登場する人物の顔の中にも顔があって、主人公アメリが働くカフェでタバコを売っているジョルジェットは私の友達のマリフェに似ていた。次に会ったら話そう。私は結局、ハンブルクであまり友達ができず、マリフェだったりジュリアだったり、数ヶ月おきに会う人と仲良くなっている。

 

 

 

Aufsatz015

„Hoffnungsbild“

 

An einem Sonntag habe ich ein Wort in der Kirche gehört.

Das Wort “Hoffnungsbilds“ erinnert mich an zwei große Schriftsteller, Leo Tolstoi und Kenji Miyazawa.

Leo Tolstoi ist ein russischen Schriftsteller, der bekannt für seine Hauptwerke „Krieg und Frieden“ und „Anna Karenina“ ist.

 

Kenji Miyazawa ist ein Dichter und Autor von Kinderbüchern. Er lebte im frühen 20. Jahrhundert. Seine Bücher gründen auf Empathie mit den Geschöpfen, buddhistischem Mitgefühl und christlicher Nächstenliebe.

 

Die zwei Schriftsteller vertrauten auf Menschlichkeit und fordern Gewaltlostigkeit. Beide gründen Schulen und engagierten sich in der Aufklärung der Bauern.

 

Sie schrieben über gute Ideen und haben mit jedem Schreiben Utopien entwickelt. Deshalb litten sie viele Jahren unter der Diskrepanz zwischen Masterbild und Leben. Sie wurden manchmal von den Bauern missverstanden.

 

Tolstoi war der Sohn einer adeligen Familie, die für den Kaiser seit vielen Generationen arbeitete. Miyazawa war auch reich, da seine Familie Kleidung verkaufte und Pfandleiher war. Tolstoi hatte Probleme mit seiner Frau und Miyazawa stritt mit seinem Vater über die Unstimmigkeit der buddhistischen Bereiche.

Am Ende Tolston's Leben floh er vor seiner Familie und während der Reise starb an der Lungenentzündung. Miyazawa lehnte die Hilfe seiner Familie ab und ist er in Alter von 37 Jahren gestorben.

 

Sie planten die Utopie, trotzdem wurden die Pläne nicht wahr. Ihr Leben als Menschen waren nicht erfolgreich. Einerseits waren sie normale Menschen wie wir, andererseits hatten sie gute Gedanken, die sich überall durch ihr talentiertes Schreiben ausgebreitet.

 

Als Fazit kann ich sagen, dass es schwer ist, auf der Welt eine Utopie zu machen. Alle können sie in einem Buch finden und sie injedem Herz bauen.

 

【今日の音楽】

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