シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#191 みたいな。朝吹真理子『きことわ』を読みながら


 例えば真実。
 例えば、世界の全てを説明するような秘密。その隠された真実を、隠された秘密を、人間はどのようにして見つけ出せば良いのだろう。
 
 真実が雨と共に空から降るとしたら。水とともに川を流れ、真実はやがて海へと行き着く。太陽に照らされた海から雲が湧き、また空へと帰った真実はまた雨と共に人々の元へ降る。平原や山々を巡りながらあなたのところまでも真実は降る。
 あるいは宇宙の向こうから真実と共に風が吹くとしたら。大気圏を通って空中に舞う真実。吸い込んだ人間の中で真実は発芽し、その人にとっての真実がその人の中で形成される。

 時々思う。70億人も地球上にいるのだから、誰か一人くらいは、私と同じ「真実」にたどり着いているのではないだろうかと。感受性の解像度やチューニングが同じであれば、今日一日くらいは同じ「真実」を見ていてもいいのではないのか。私と「全く」同じ見方で世界を見ている人が一人はいてもいいのではないだろうか。
 
 もちろんそんな人には巡り会えない。会えたとしても、次の日にはその人は変わる。そして変わらないと思っていても、自分は変わっていく。「知っている人だと思っていたのに知らない人だった」なんて、私はいつも裏切られたように思って人から離れるけれど、それは多分相手も同じ。

 自分を作り上げた年月。重ねてきた日々。そうした過去が自分を形作るとして、記憶を失ったとき、私は私ではなくなるのだろうか。10年前の夏。いくつもの壁につき当たり、来た道と行く末について考えた日々。あの夏。ぶっ倒れるまであてどなく歩いた。でも倒れなかったし、死ななかった。死んだつもりで生きると楽だった。学校に行くだけ。死なないだけ。部活を辞めないだけでOKだと思うことにした。それ以外のことは諦めた。あの夏の記憶を無くしたら、私はある意味で私でなくなるのだろう。でも昨日の私と今日の私が同じとは限らない。
 
 記憶は曖昧だ。あったかのように思い込んでいる記憶も、本当はなかったのかもしれない。現実だと思っている「これ」も、実際は生命維持装置に繋がれていて昏睡状態の中で見ている夢なのかも。記憶だと思っていたのが夢で、正しいと思っていたことが間違っていて、自分のことだと思っていたことが誰かのことで。そうだとしても真実は真実のままであってほしい。
 
 記憶の中で時間は自由自在に膨らみ縮む。朧げだったものが急に鮮明になる。初めから確かにあったように思うけれど、5分後にはそれがとても不確かであやふやに思えてならなくなる。
 
 初めての場所なのに見たことのある景色。
 誰かに似ているのにそれが誰だか思い出せない。
 前から友達だったような気がするのに、全然そうじゃなかった。
 聴いたことのある曲。でもいつ聴いたのだっけ。誰か大事な人とカフェで話した時にこの曲がかかっていた気がする。でも確かめられない。わからない。視界が歪む感覚。

 あの夏から断定的な口調が怖い。「そんなん〇〇すればいいやん」「君は〇〇やからいいよな」「シゲは楽しそうよな」
 思い出すたび吐きそうになる。
 あったかどうかわからない時間を「あった」と断定するのは怖い。わからないままでいいじゃないかと思う。「ある」と「ない」のあるグラデーションの中にその記憶を置いてもいいじゃないかと思う。グラデーションを拡大しても拡大しても、その記憶は見つからないのかもしれないけれど、それでもいいと思う。

 夏に読んだ『きことわ』は、そんな自分が普段考えていることとリンクする本だった。25年前に葉山の別荘で夏の間一緒に過ごした女性2人の物語。別荘の解体とともにまた連絡を取り合い、再会した貴子(きこ)と永遠子(とわこ)。25年前には高校生と小学生だった2人も、今は成人していて少女ではなくなっている。少なくとも外見と社会的立場の上では。
 
 記憶はもう曖昧で、合致することがあれば、食い違うこともある。他の人に聞いてわかることでもない。検証できる事実があるかどうかはさほど重要じゃない。グラデーションの中で、輪郭のない記憶の中で夢と現、現在と過去が入り混じる。文章を読みながら、誰の言葉なのか、誰の記憶なのかわからなくなる。ひょっとして、今自分が読んでいる文章は、自分が書いた文章なのではないだろうか。そんな風にさえ思う。
 別荘から帰る車の中で、カンブリア紀について話す場面がある。話しながら、永遠子は時間の長さについて考える。本当にそんなに長い時間があったのだろうか。生命の誕生から今の今までの時間。長すぎるスケールの時間を考えた後に25年間について考えると、焦点が合わなくて、どれもこれも、私もあなたも、あったかどうかもわからない曖昧なものに思える。その車の中は、25年前の少女時代の出来事なのに、時間についての思考は終わることはなくて現在にまで続いている。まるで自分が成長していないような、あるいはその時の自分が大人だったかのような不思議な気持ち。永遠と永遠と永遠。

 
 この文章はなんなのだろう。自分が読んでいるこの本は? 書いているこの文章は?
 私というものが曖昧になれば、読む文章も書く文章も輪郭を失うのだろうか。私がいなくなれば、私が書いた文章も、私が読んだ文章もなくなるのだろうか。私の中にあった時間もなくなるのだろうか。私があった場所は他の何かによって埋められて、きっとそこに私がいたこともわからないくらいになるのだろうか。
 
 私がいなくなれば、地球の誕生もなくなるのだろう。生命も誕生することはなかったし、人類は地球にはいなかった。真実だけは私がいなくなってもそこにあるだろう。形は変わっても確かにあるのだろう。天上の星々の間を歌いながら。あるいは、急峻な山々を谷川と巡りながら。見える人が見れば、真実はあちらにもこちらにもあるのだろう。見えない人たちも感じていないわけではなさそうだ。

 自分が書いた文章がこうして誰かに読まれて、誰かの中に根を下ろす。そこで私の文章は成長し、違うものになる。文章の中の真実も変わるだろう。でも私がいなくても、いなくなっても、あなたは代りの真実も見つけるし、だから大丈夫。きっと私も大丈夫。

 
 
 
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