シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#223 引きこもり。

 久しぶりに引きこもっていた。この2日間の自分は本当によくないなあと思って、でもアウトプットの時間も取らないといけないのだろうと思ってこの文章を書く。長くなりそうだと思う。
 せっかくこの世に生を受けたのに。せっかくドイツに来て、毎日新しいことをしたいのに。いや「〇〇しないといけない」「ちゃんとしないといけない」そう思うからこそ苦しくなって自分を縛り付けてしまうのかも。それ自体がよくない。でも引きこもると、縛られたまま死んだであろう父親のことを思ってしまう。縛りつけたであろう父親の姉のことも。

この前ゴーダチーズを初めて買った。間違って周りのゴムまでも食べてお腹を壊した
 先週、久しぶりに父親のことを話した。たまたま毎週月曜の夕食に招待してくれる人がいる。家族のことをそこで初めて話した。父親のことは私にとってはターニングポイントだった。日本にずっと留まれば、父親のようになってしまうんじゃないかと思っていた。何をチャレンジすればいいのか決め切られず、死ぬまで好きなことにチャレンジできないんじゃないか。そのまま腐っていく自分は容易に想像できた。とりあえず日本を出た方がいいと思った。
 
 詳細なことは永遠にわからないのだけれど、要するに父親は引きこもりだった。私にとっての彼は、生物学的な父親でしかなくて、残念ながら「父親」と言う気にはなれない。ドイツで家族について聞かれても「Ich habe keinen Vater.」と言うことにしている。だって彼、父親と言えることは何ひとつしてないもん。「父親」と「母親」を同列に語って釣り合わせる訳にはいかない。

 家族についてのこういう話って、中学高校の同級生はどれくらい理解できるんだろ。中学受験をしてキツかったのは「両親が揃った家庭」を持った子が多数だったことだ。それまでに過ごした尼崎でも西宮でも、母子家庭や父子家庭の子がクラスに結構いた。なのに「お受験」をしたあとの学校の雰囲気は別物だった。不平等に憤りを覚えることが多くて、その怒りを原動力にして勉強していた。中学時代の私は、常に怒っていた。映画に出会う14歳の冬までの自分を思い返すとよくなかったと思う。学校も部活も何もかもが嫌いだった。どうして毎日通えたのか不思議なくらいだ。高校以降しか知らない人は信じられないと思うが、中学3年間皆勤だった。一度病院に行くために早退して、だから卒業時に表彰状はもらえなかったけど、無遅刻無欠席なのだ。きっと相当な無理をしていたのだろうと今なら思う。毎日張り詰めていた。心の底に怒りがあった。

 余談になるけれど、私が通った学校では、その昔日本中の誰もが知っている事件が起こった。そのことも書かないとフェアではない。あの事件の前では「父親がいない」なんていう私の悩みはとるに足らないようなことにも思えるからだ。そういうのって、大人になってから知り、理解できるようになり、言葉にできる。でもあの頃の私たちには言葉がなくて、そういう話をすることはなかった。というか、きっとできなかった。これからも、同級生のほとんどとはもう会わないだろうから、永遠にその話もできない。聞きたいことは結構あるのだけれど、ゼロの関係性から簡単に始められる話ではないし。Nとだけは少し前にそのことを話した。

ある月曜日の夜
 人生で幾度となく私は引きこもっている。その度に私はある漫画に詳しくなり、ある芸人の漫才に笑い、新しい音楽と出会う。14歳の夏、私は部活にも行かずにダラダラしていたのだけど、あの頃は何していたのだろう。毎日鏡に向かって自分を呪っていたのは覚えている。それがルーティーンになって、それ以降の私は希死念慮を高めていく。それは良くなかったとは思うのだけれど、自分の環境を振り返ると必然であったようにも思う。手塚治虫の『火の鳥』をずっと読んでいたような気もする。最近ドイツ語で『火の鳥』についてプレゼンした。みんな興味を持ってくれて楽しい授業になった。

火の鳥』と少し似てて、キリスト教における「キリストの血」にも重要な役割があるんだよって大家さんに教えてもらった。
 部活の顧問は二人いた。一人は熱血教師を絵に描いたような人で、目立つ子には怒ったり注意したりするけれど、私には何も言って来なかった。私が夏休みの部活にほぼ行ってないことや、遅刻していることに先生は気づいていたのだろうか。あの頃に戻って聞いてみたい。本当に気づいていなかったのか。言えば、取り返しがつかないほど傷つくと思われていたのか。
 もう一人の顧問はH先生と言った。中学生の最初の2年間、私の担任だった。私が入学する以前はサッカー部の練習にも毎週来て、激しく声をかけるような人だったらしい。私の入学時、H先生は教職の傍らで大学院でも勉強していたらしく、顧問というのは名簿上だけで全く部活には来なかった。
 名ばかり顧問のH先生だが、三者面談ではいつも部活について尋ねてくれた。それが自分にとってはとても嬉しかった。もう一人の顧問には無視されているように感じていたので。
 H先生はその頃喉にポリープがあったとかなんとかで、いつも小声で話していた。お調子者の同級生Yが、1階の教室から中庭に出るために、ドアではなく窓枠を跨いで出ようとした時に一度、先生の大声を聞いた。普段小声な分、元ラガーマンの精悍な顔つきをしている分、凄みがあった。

友達と待ち合わせ
 不思議な力を持った人だった。その人の目を見て嘘はつけないだろうなと何となく思っていたし、常に生徒を観察しているように思った。「シゲは観察すると面白い」と他の生徒に言っていたのをこっそり聴いてしまったこともあるけれど、それは全然嫌な風ではなかった。
 同級生のIは「見透かされてる感がイヤ」と言い、反抗期真っ最中だったMはホームルームでニヤニヤしながら先生の顔を見ていた。フェイスブックを見るに、H先生は今関西のどこかの大学で教えているはずだ。きっと大学での仕事を楽しんでいるのだろうと思う。
 ちなみにお調子者のYと以前話したところ、彼も大学で教職につく可能性があるらしい。人生って面白い。そんなYも母子家庭で、大学生になってからお互いの家庭の話をした。

 土曜日、毎週通っている読書クラブで「自閉症なの?」って冗談で聞かれた。難しい質問だった。大学最後の年、いつものように鬱のサイクルに陥った私は、どうしても発達障害かどうかを確かめたくなった。3時間にわたる心理テストを受けて、カウンセラーと精神科の先生の見解を聞き、結果として私は発達障害とは言えないようだった。(簡単にいうと、項目ごとの点数・IQに有意なバラツキが見られると「病気」と認定されるらしいが、私のIQはどの項目も116〜121の間にあった)

この前高速道路に乗せてもらった。速すぎてびっくりした
 心理テストの結果には色々驚きがあった。まず自分のIQ。日本語能力に関わるとされるIQ(なんていう名前かは忘れた)が120あった。私はどうも物事に共通点を見出すのが得意らしく、自閉傾向も高いということもわかった。私の自閉傾向は平均を大幅に超えていて「治療が望ましい」とされる点数まであともう少しのところまで迫っていた。「この点数は結構しんどいよね。ある程度客観視できているところもあるから大丈夫だと思うけれど、この特性は覚えておいた方がいいと思いますね」

骸骨とピクニックしてる人
 私の高校には「校舎主任」という不思議な肩書きの人がいた。小学校、中学校、高校が揃ったそのキャンパスの中で一番偉い人とされる人だった。不思議な人で、自作の俳句を朝礼で読むような人だった。俳句も素人目に見ても、普通の出来ばかりで「一体どうして、月曜日の朝から、よく知らない肩書きのこの人の下手な俳句を聴かないといけないのだろう?」とみんなが思っていたはずだ。
 
「私はこの前、自閉傾向を測るテストを受けました。その結果、私の自閉傾向は一般平均よりもとても高いということがわかりました」
どういう文脈だったのかは覚えていない。ただ急にN校舎主任がそんなことを言い出したので私はどんな顔をしたらいいのか困った。続いて、体育館に薄く広がった笑い声に憤りを覚えた。何人かの笑った顔を私は未だに覚えていて、見てしまった笑顔のせいで何人かをそのまま嫌いになった。それを笑えてしまう人ってものすごく残酷だと思う。忍び笑いを聞いた時の心の冷たくなる感覚はまだ忘れられない。笑った人はすっかり過去のことなのだろうけど。

いつかの牡蠣
 そういう許せない記憶というのが私の中にはたくさんある。高校1年生のクラスは未だに大嫌いだし、学校に行けないきっかけになった周りの席の女の子達とはフラットな感情で話せなくなった。
ちびまる子ちゃんの作者ってさ、バツイチなんだよ」
「シゲくんはいいよね、色んなところにいけるからさ」
このセリフを私に言った人は同じ人だ。その人は、そんな言葉で私が傷つくとは思わなかっただろう。そんなので傷つくのが悪いとさえ言うかもしれない。でも未だに忘れられない。
自分の家庭がその学校で数少ない母子家庭であることをとても気にしていた。「バツイチ」というその人の唇の向こう側ある侮蔑的な響き、私は見逃せなかった。
 同窓会でもそう。どこのコミュニティにもどのカーストにもずっと話せる人がいなくて、色んな人少しだけ話して、水族館のイワシよろしくグルグルと会場を回遊するしかない自分に悲しみを感じていた。確かに私は誰とでも仲良くできるけれど、表面以上の関係を長く続けるのは苦手だ。
「そんなん関係ないやん。高校卒業して5年経てば、昔のグループとか関係なくない?」
みんなと均等に仲良くなりたくて、みんなのことを知りたい。でもその裏には、同時に、どこにも属せないという諦めもあるのだ。そういうのを一人で考えているから、その言葉に悲しくなってしまった。ああ、どうせこの人はわかってくれないんだ。私は「みんな」と仲良くなりたくて、でもそれは自分の寄る辺のなさの裏返し。同窓会は私がそうした感情を説明するには時間が足りなかったし、自分の闇を持ち込むには明る過ぎた。

 そう。勝手に傷ついて、損ばかり。こういうのは綺麗さっぱり忘れてしまうのが多分ラクなのだ。忘れて、許して、仲良くすのが大人なのだ。なのにまだ覚えている。1年に1回くらいDMをやり取りして、やり取りしながら、イヤな記憶だけを反芻して、DMのやりとりを「いいね」マークで終わらせる。いつになれば海のような心を持てるのだ。いつになったら「こだわり」から解放されるのだろう。
 
 でも、もう戻れない。何年も前に決めたのだ。父親の顔を思い出せなくなった時、保育所の卒園の時、転校する時、地元の子とは違う中学に通うことになった時、その都度その都度、できる限り「全部」覚えることに決めたのだ。過去を何度も何度も反芻しながら、私は後ずさりで未来へと進む。もうそれでいいと思う。そのスタンスでこのまま来てしまったのだから。それすらも愛せるようになればそれでいい。

取り壊される旧キャンパス。
「血を分けた家族と言いますが、父親から受け継いだのは種だけですよね。厳密に言えば血を分けているのは母親からだけなのに、どうして日本語では血を分けた家族、なんて言うんですかね」
大学2年生のオセアニア文化の授業。担当するのは紙村教授。太平洋の人類学を研究している人だった。父親と母親、祖母。そう言ったことで悩んでいた2017年の私はその言葉に何となく救われる思いがした。
トオルちゃん」と学生の間で呼ばれていた先生の授業は面白かった。授業では週ごとに違うトピックが扱われた。フィリピンの呪術、ニューギニアカニバリズム、戦時中の日本軍の食人、伊豆諸島と太平洋の島々との文化的関わり。一次資料が印刷されただけのプリントとともに先生が好き勝手に話すのだけれど、ある時はとても面白く、ある時はつまらなかった。大学で受けた授業の中でなぜか忘れられない授業の一つだ。
 友達に、黒魔術から逃げるために母国を去り、ドイツで勉強することに決めた人がいる。彼からその話を聞いた時は紙村先生の話を思い出した。フィリピンの呪いを送り合う文化、慣習。日本だって昔はそうだった。『源氏物語』には怨霊の話が出てくるし、地元尼崎にも討幕の志半ばで切腹した長州藩士の墓がパワースポットになっている。神社のおみくじも言ってしまえば魔術のようなものだ。黒魔術の話を聞いた時は「あり得ないなあー」って思ったけど、6年前の授業のことを思い出して、別に不思議でもないかって思った。
 今年の春に沖縄の博物館で『椿説弓張月』の資料を見た時も、「トオルちゃん」の授業を思い出した。為朝の伝説はなぜか伊豆大島同様、琉球にも伝わっているのだ。不思議だ。どうしてなんだろう。
 単位は落とし続けた大学生活だけれど、真面目に受けた授業は結構覚えている。
 貴志先生のアメリカ文学の授業、産業革命が文学をどのように変えたのかという、中村教授の授業。「真面目であるということもある種考えものです。私の知る限り一番真面目だった友達は、結局殺人を犯してしまったんですよね」とボソリと言った月曜1限のオペラ史の先生。夏期講座で他大学から来たウクライナ語の先生は「言語の絶滅」について話していた。ドイツに来て、一時的にせよ日本語の語彙が自分の中から消えていく現在、そのテーマをよく考える。それから1年生時に受けた「障害と心理」の授業。あの授業は私の人生を形成する一要素になった。あの後で私は障害を持った人が利用するショートステイで働き始めた。そして今、ドイツで新しく専門学校に通おうとしている。病院で働きたいと思っている。

「銀杏薬局」と名付けられた薬局。イチョウもドイツでは結構植えられているらしい
 引きこもる時、必ず血について思う。そして紙村徹教授の言葉を思い出す。何の意味もない言葉だけど、なぜか勇気が出る。時々私たちは血について、遺伝子について考えすぎる。母方の家族に私のように引きこもり癖のある人はいない。母や叔母、祖父母との理解し合えなさについて、考えれば考えるほど、不在の彼について、DNAというアルファベット3文字について考えてしまう。いないが故に意識される血。

 自閉傾向だけに限ると、完全に彼から受け継いでいる。
「親譲りの自閉傾向で子供の頃から損ばかりしている。ある時分、学校の研修旅行でむしゃくしゃして浴槽の淵から湯に飛び込んで1週間ほどたんこぶを拵えたことがある」
これは中学2年生の京都旅行の話。クラスで泊まることになった部屋が全然楽しくなくて、自分を傷つけたくなったのだ。どういう経緯だったかH先生の知るところとなって、私は正直に全てを話した。目撃者としてカチオも先生のところに呼ばれて、証言をしていた。カチオとはたまに話す。彼はこの事件を覚えているかな。どうだろう。

これは2年半前に行った天橋立。黄砂で曇っていた
 京都旅行というのは名ばかりで、私たちはなぜか京都市内ではなく、丹後地方に連れられていた。ホテルの部屋からは天橋立が見えた。寝れない私はモヤモヤした気持ちで早朝の霧向こうでぼやける天橋立を見ていた。
 私の最初の記憶は天橋立から帰るタンゴエクスプローラーの車内だ。家族の誰とも話さずに離れたところに立って外を見ている父の背中。私はどうして彼がみんなと一緒にいないのだろうと思っている。母と父の仲がよくないことを私はもう知っていて、祖父母と離れたところにいるのはなぜなのだろうと思っている。
大江山いくのの道も遠ければまだふみもみず天の橋立」
もちろん彼から手紙なんて来たことはない。

友達の住む港町
 今週しんどくなった理由はいくつか思い当たるけれど、父親のことを少し考えてしまったことはやはり一つの理由だ。ハンブルクに来て、なぜか父のことをよく思う。当然のことでもある。父ができなかったことをしようと思うから。父が見れなかったものを見て、楽しめなかったものを楽しもうと思うから。
 最近よく、頭の中に住んでいる父と対話する。その対話を元に、ドイツ語で物語を書き溜めている。物語の中では、父は違う生き物になるし、私も違う名前になる。自分がドイツで自問自答することを対話形式で書けたらいいなあと思う。どうなるかわからないけれど。ドイツには、創作を学べる場所が日本よりも多い。語学力を身につけたらそこに通おうと思う。

「今はね、まだ悩める若者って感じでいいですし、そのポーズ自体が魅力にもなりますけど、それでいつまでいられるのかって話ですよ。いつか決めないといけません」
 
 中学2年生の三者面談でH先生が私に言った言葉。諦めることができるまで、長くかかってしまった。
「自分の道を決める」ということは「それ以外の選択肢を捨てる」ということでもあって、それがずっと怖かった。今でもまだ怖い。決めざるを得なかったこと、自分で決めたこと、周りに決められたこと、全て自分の人生だ。変えようがない。ただ、物語を未来にどう生かすかというのは、これから決められる。
 もう私は自分から死んだりしないだろうし、彼みたいに引きこもった末に死ぬなんてこともないだろう。自信を持ってそう言えることは自分にとっては随分な進歩だ。道は合っている。
 しかし、どうしてH先生はあんな風な予言めいたことが言えたのだろう。H先生はあの時何歳だったのだろう。
 
 
 
 
 
 
【Aufsatz11】 
„Weil liebe ich schreiben①"
In meiner Kindheit gab es wenige Menschen zu Hause. Meine Eltern haben sich geschieden, als ich 3 Jahre alt war. Ich lebte mit meiner Großmeister und meiner Mutter zusammen. Meine Welt war klein. Meine Familie hat mich immer lernen gelassen.
Mit 12 Jahren alt habe ich eine Prüfung bestanden und ich habe mich an der Junior High Schule angemeldet, die in einer anderen Stadt liegt. In meiner Stadt war ich nicht glücklich, weil die Schüler in meinem Bezirk rauchten und gegeneinander kämpften.
Ich dachte, dass ich in der neuen  Schule "kluge" Freunde kennenlernen würde. Aber Kinder bleiben Kinder und ich wurde enttäuscht. Leider war ich auch ein Kind. Natürlich!
Dann las ich jeden Tag im Bücherzimmer in der Schule und sprach nicht oft mit meinen Kommilitonen.
Als ich 16 Jahre alt war, wurde mir klar, dass meine Welt noch klein war. Ich war gut im Lernen, aber mein Horizont war kleiner als  meine Freunde
Sie sahen glücklich aus, obwohl ihre Prüfungen schlecht waren.
Das war eine ganz neue  Idee und ich habe mich darüber gewundert. Meine Familie und ich ärgerten uns über meine Ergebnisse, obwohl ich einer der besten Schüler war.
Das war ein heißer Tag im Sommer und die Zikaden draußen waren sehr laut. Dann hörte ich auf zu lernen und fing an zu schreiben. Als ich schrieb, fand ich, was ich dachte und was ich ausdrücken wollte.
 
 
 
 
【今日の音楽】

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