シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#192 正月と山

 昨日、少し羽目を外しすぎたのかも。昨日が楽しかった分、反動なのか、今朝はナイーブで、変な感じだった。今日から2023年が始まっていると言うのに全く実感が湧かなかった。こうして実感のないままに30歳になり、40歳になり、死ぬのだと思う。

 朝のゲストハウス。昨日仲良くなった人たちを送る。地元が同じということで仲良くなった家族。大阪出身で「源泉掛け流しの温泉にしか入らない」と言っていたお父さん、牛久出身のお母さん、小五と小三の兄弟。弟くんは、昨日鬼怒川温泉から箱根にくる時に乗った、特急リバティのことを教えてくれた。来年の、もう今年か、今年のクリスマスには特急リバティのプラレールが欲しいみたいだった。プラレールから卒業してほしい両親は、今年は、いや去年はレゴブロックの飛行機を買ったらしい。
 
 物心ついて以降、自分はあまりものを買ってもらえなかった記憶がある。ずっと我慢していたような感じ。ただ、父親の家にいた3歳以前は、なんでもかんでも買ってもらえていたらしい。父方の人間に過剰に溺愛されていたのだ。部屋が埋まるほどのプラレールを持っていたらしいのだが、全く覚えていない。はっきりとした記憶があるのは母と二人で尼崎に住み始めてからだ。おもちゃはほぼ買ってもらえなかったと思う。買ってもらえても数が少なかったり、パーツが少なかったりで、満足に遊べなかった。いつもいとこのレゴやプラレールを借りないと面白くなかった。自分のおもちゃは大抵、母や母のきょうだいのお古で、所々欠けていたりした。

 いとこ達は何でも買ってもらえて、両親と2人ずつの祖父母がいた。羨ましかった。どれだけ愛情をかけて育っていても、自分にはそこがかけていて、いとこ達には到底及ばないのだと思った。「父親がいない」ということは永遠に消えない傷のようなものだと当時の自分は解釈し、実際その思い込みは2023年現在、本当になってしまっている。

 一家の小5のお兄ちゃんは「もう欲しいものはない」なんて言う大人びた子だった。きっと野球に夢中で、速いボールを打てるようになることとか、ゴロに追いつくこととかが、彼の中のプライオリティなのだろう。それってとても健全なことだ。
 朝も、弟君が両親の陰に隠れながらダラダラと私に話しかけるのに対し、お兄ちゃんは自分でちゃんと立って歩いていった。もうすでに自分を律することを覚えている彼は、ちゃんと成長してちゃんとした大人になるのだろう。
 
 1組ずつチェックアウトしてゆく。「ゲストハウスで働くなんて青春ですね」と言って、ここで働きたいと言った体育会系の大学生3人。私には団体スポーツで汗を流し、友情を育む方が「青春」のように思えたけれど、彼には彼なりの地獄というか、満たされなさがあるのだろう。昨日彼らとも話したが、我々がコロナウイルスのために失ったものについて考えさせられた。自分も去年まで学生だったから、無関係じゃなかった。

 昨日、最後まで一緒に飲んでいた人たち。湘南のバスケットサークルの4人。静岡から来た幼馴染3人。長い時間過ごして話したけれど、別れ際はあっけなかった。この「あっけなさ」に私はいつになったら慣れるのだろう。

 電話の切り方がいつになってもわからない。チャットの終わり方がわからない。久しぶりに会った誰かと別れる時、何を言えばいいのかわからない。
その時になって、私はいつも忘れ物をしたような気分になる。大切なことをまだ言えていないような、そんな気持ちになるのだ。きっとこれはまだ父親に「さようなら」を言えてないことと関係があるに違いない。

仙石原のバス停
 いつでも会えたはずの人たちのことを考える。
同じ授業を受けて、同じグラウンドで走って、同じ時間に同じ駅まで歩いたあの頃。大人になって別れのあっけなさがこんなにも辛いものだと思っても見なかった。ハグしたり、写真を撮ったり、SNSを交換したり、好きな映画や音楽を教え合ったり。そんなことをしても満たされない。仲良くなれたという実感がない。怖い。ずっと一人のような気がする。
 次会うのはいつ? 来年? 5年後? 
 もしかしたらずっと会えないかもしれない。じゃあ、なんのために生きるのだろう。ゲストハウスで出会う人なんて、もう一生会わない人の方がほとんどだ。宿帳には宿泊する人の住所や電話番号があって、その気になれば電話も手紙もできるけれど、もうそれは変人、というかストーカーの域に、片足を突っ込んでいる。それに、そんなことをしても寂しさは無くならないだろう。一人で想う寂しさはいつになっても同じなのだろう。

明神ヶ岳。向こうに金時山と富士山が見える
 ダラダラと共用スペースで過ごす常連さんを除いて、全員がチェックアウトした。このまま部屋にいてもベッドで寝正月をするのが関の山だ。新年の最初をちゃんと迎えるには、外に行かないといけない気がした。そんなこんなで私は今、強羅の向かいにある明星ヶ岳に登り始めている。
 
 山の中にあっても、うじうじ考えている。昨日の復習。今日の朝の復習。「一年の計は元旦にあり」なんて諺があるのに、私は未来ではなく過去についてうじうじと悩んでいる。

明星ヶ岳の上の方。奥にあるのは相模湾
 明星ヶ岳の大文字まで1時間かかった。毎年8月16日になると送り火が焚かれる場所だ。今年、いや去年の送り火の日、私は朝食と夕食を担当するシフトだった。送り火自体は見られなかったが、休憩時間に行った強羅の賑わいはすごかった。いつもは空っぽの駐車場が全て埋まっていて、駅前に屋台がたくさん出ていた。夜、強羅に集まった観光客が見えるように花火が打ち上げられた。それは宮ノ下のホテルからも見えたので、夕食を配膳しながらお客さんと一緒に見た。その日はちょうど後輩Rの入寮日で、一緒にお風呂で話したのだった。初日に感じたことは、彼が、自分がずっと避けてきたタイプの人間であるようだということだった。私は合理的で自信があり、それでいて人懐っこい彼を前にして、時々自分が情けなくなる瞬間もあったけれど、自分の人嫌いを克服すべく、彼とよく喋っていた。そんなことももう大昔のように思える。箱根にいた半年は、本当にたくさんのことがあって、毎日インプットばかりだった。満足にアウトプットできていないという不満足さがある。書きたいことが山ほどある。でも書けてないことは次から次へと忘れていく。悲しい。

縁日の強羅駅

強羅の坂
 明星ヶ岳の大文字は宮ノ下から見えない。代わりに宮ノ下から見えるのはひょうたんのイルミネーション。豊臣秀吉が戦の疲れを癒したとされる「太閤の岩風呂」があるからか、宮ノ下のアイコンはひょうたんらしい。「みやのした」という文字とともにひょうたんをかたどったイルミネーションが、夜宮ノ下から見えるのだ。といってもイルミネーションは毎晩点灯するわけではないようだった。不定期で点くので、夜コンビニにお菓子を買いに行く時にひょうたんの絵を見れたりすると、何だか嬉しかった。
 虫の声と雨の匂い。風と霧。花火と酒と、消えていった言葉。
 山歩きの途中で急に視界が開ける。下を見下ろせば強羅の坂道、宮城野の住宅地、たくさんのホテルと旅館、リゾート。早雲山の向こうには大涌谷が煙を上げている。有毒ガスが出るせいで、立ち枯れ状態の木が多い。
 それからいくつものアパート。従業員寮。箱根には各地から泊まり込みで働きにくる人がいる。その人のための寮も、この土地にはあるのだ。そういうのも働き始めて1ヶ月ほど経ってようやく知った。一方で強羅からポーラ美術館の方に抜ける道沿いにはたくさんの別荘があったりもする。不思議な場所だ、箱根は。
 
 そろそろ疲れてきた。休もう。でも休んだからといって体力が回復するわけではない。芝の上に座る。霜柱がキラキラ光る。暖かい日の光が凍りを溶かし、泥だらけの山道が生まれ、人々は靴を汚しながら歩いていく。
 目の前の素晴らしい光景を前にしても私はスマホが気になっている。何かに急かされているような気分。何かになりたいのに何にもなれない。怖い。焦る。でも焦ったところで山道は今すぐ終わるものではない。入ってしまったが最後、出るまで歩き続けないといけない。

山道、終わらせたければ歩くしかない
 
 明神ヶ岳まで歩き出す。時々富士山が見える。御殿場の演習場も、その前の仙石原も。外輪の山々から御殿場方面に抜ける峠はいくつかあるけれど、山の名前も峠の名前もいくつもあって覚えきれない。でも覚えきれないからこそ地図を見る度ワクワクできる。
 あと2週間くらいで箱根を出る。出たとしても、何も変わらないのだろう。私は私で、こういう生き方を選んだからこそ前に進んでいかないといけない。そしてそのためにも、山道の中にいる私は目の前の道を一歩一歩進んでいかないといけない。
 
 明神ヶ岳まで行くまでに予想以上に時間がかかった。山頂には結構人がいた。特徴的な形をした金時山があって、その向こうに富士山が見えた。富士山は綺麗で、見る度に感動してしまい、やっぱり自分は関西人だなと思う。関東に育った人なら少しは富士山に慣れているものなのだろうか。
 陽が傾いているのがわかる。時間が微妙だった。金時山を登るだけの時間は、今日はなさそうだった。このまま先を進むか、引き返すか悩み、進むことにした。御殿場方面は晴れていて、山道に立って富士山の写真を撮る人が何人もいた。

明神ヶ岳から
 
 アップダウンが多い。気がつけば一人で歩いている。山道が暗い。動物の足跡。メジロのつがい。笹が道の脇にずっと生えている。かと思えば並木道のように同じ木が続く。木も森も峠も。植物も虫も、一つ一つに名前があるのに、私は知らない。なんだか勿体無いと思う。
 



 祖母と歩いたいつかの正月を思い出す。
「歩いてみよう」と誰かが言い出して、母と祖父と4人で歩いたある年の元旦。植物の名前も、木の名前も、祖母はよく知っていた。曇ばかりの白い空と、正月の何処か澄んだような空気。深呼吸して歩いた山々。あれは夢だったのか。笹藪の中に何かを見つけた祖母がそのまま道から外れて消えていって、なんだか怖かった。何年も忘れていたことなのに、山道で一人でいると思い出してしまう。不思議だ。
 
 日没が近づいてやっぱり金時山には登れなかった。きっと、私は金時山に登れないままで箱根を去るだろう。今度箱根に来ても、金時山に登るようなことはないだろう。いつか登ろうと思っていた訳ではないけれど、でももう登ることはないのだろうなと思うと変な感じだった。
 
 仙石原のコンビニの駐車場でカップラーメンを食べて、今年の一年をどうしようか考えていた。

帰り道に通り過ぎた郵便局。掲示板に紙を貼った人の遊び心を考えて、なんだかしんみりした。
 
 
 
【今日の音楽】
 
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