シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#180 幸せってなんだろう

 ラッキーオールドサンの曲「フューチュラマ」の歌詞にこんな箇所がある。
「幸せって何だろう? 青梅行きのホームで」
関西出身の私はわざわざ東京に行って、中央線のどこかの駅に降りて、歌詞の通りに青梅行きの電車を待ってみたけれど、別に幸せは見えなかった。見えるものではないと知っていても、なんだかがっかりした。そんな私に頭の中の金子みすゞが「見えぬものでもあるんだよ 見えぬけれどもあるんだよ」と呟き、私は来た電車に乗った。
 今、リゾートバイトで箱根の旅館で働いている。一泊25000円以上する旅館。私はまだ新人だから、午後のシフトしか入らせてもらっていない。基本的に夕食の準備と配膳がメインの仕事。その他に仕事は山のようにあるのだが、基本的には夕食しかやらせてもらえてない。最初は、お部屋に配膳する夕食について覚えていく。メニュー、お皿の並べ方、料理を紹介する口上。それが今週の主な仕事だった。献立には知らない日本語がたくさん出てくる。迎腕、絹かつぎ、道明寺蒸し、香物。

「今日はどうされたんですか?」とお客さんに聞くとよく話題に上がる大涌谷
 四半世紀以上、日本語を母語として生きてきたのに、まだ知らない言葉がある。それってすごいことだ。私は覚えたての言葉を嬉々として使う。お客様はそれをフンフンと聞いている。「説明なんていいから早く食べたいなあ」と何人かは内心で思っているだろうけれど一応一通り話す。何層にも重ねて作られたサーモンの花造りに使われている食材は何か。絹かつぎとはどういった料理なのか。十割蕎麦の一口目は風味を楽しむために水に潜らせた方がいいとか。説明に次ぐ説明。
 説明を聞いたからといって料理が美味しくなるわけではないけれど、味わい方やエピソードを知った方が料理は楽しくなる。食べ方もわかる。正直、食べ方に正解なんてないと思うのだけど、そういうことを言うのが今の仕事だ。そうした「説明」がサービスであり、付加価値である。お客様が楽しんでいるのがわかる時、リアクションがあった時は嬉しい。
 
 自分の旅行について考える。自分がどこかにいく時、泊まるのはゲストハウスであって、旅館ではない。お風呂に入りたければ銭湯に行く。ご飯を食べたければコンビニや中華料理屋に行く。ゲストハウスはオーナーや旅人と語らう場所で、時々バーが併設されていて、たまに可愛い猫がいて、DIYで作り直した古民家であることもある。それが私が優先する価値である。「高級料理」は私の中で順位は高くない。むしろ低い。だから私がお客としてこの旅館に来ることはないと思う。料理の説明をされてもむず痒くなるだけだ。自分のテーブルマナーの酷さに恥ずかしくなるだろう。

山形にある大好きなゲストハウス「ミンタロハット」
 歯の浮くようなセリフを毎日言っている。自分がそんなセリフを言うようになるなんて。「かしこまりました」「ただいまお持ちいたします」「のちほどお部屋に伺います」「こちらにご記入お願いいたします」
 今まで接客のバイトをほとんどしてこなかったことを実感する。接客の経験が少しでもあれば、これほどまでに違和感を感じなかっただろう。大学生以降経験した接客のバイトは2つ。イベントスタッフと新入生向けのアパートの紹介しかない。障がい者向けのショートステイはある意味では接客だけれど特殊すぎる。「接客バイト」というより「介護のバイト」と言うべきだろう。

 箱根に来て、食事からお風呂から何から何までやってもらって寝て帰る。それが幸せの形なのだろうか。その感覚があまりわからない。ただ、働いていると、自分のしていることがお客様に喜んでもらえていることを感じる瞬間があって、そうした時は感動する。関西にずっと住んでいた人間が箱根の旅館で泊まりこみのバイトをしている。そして日本全国から来た人をもてなす。料理の配膳や紹介。小さなコミュニケーションを通じて束の間だけ心を通じ合わせる。夕食を出す人、出される人。少しだけ人生が重なって、また離れていく。その繰り返し。理解し合うほどまでに近づくことは決してない。それでも通い合わせた何かに毎日のように感動する。前のバイトでもそうだった。多分次の仕事でもそうだ。

梅雨の時期だからか箱根では毎日のように霧が出る
 もしお客様が源泉掛け流しのお風呂が各部屋にあるような旅館に泊まることを、料理が数回に分けて部屋に出されるような旅館に泊まることを「ステータス」だと思っているならそれは理解できる。男女で来て、一緒に数時間過ごし、思い出を作る。思い出を作るのに厳選掛け流しのお風呂も、大涌谷の名物である黒たまごも必要ないように思うけれど、でもそうして目に見える形にしないと幸せは共有できない。自分が文章を書くのもきっと同じようなことだ。相手が大事だから。大事な人と過ごす旅館なら「いいもの」にしたいから。思い出に残るから。高いステータスが選ばれ、今日も私は夕食の説明をする。来週からは朝食の説明もするだろう。起きられるか不安だ。

京都三条大橋のスタバ
 ある人が、1週間に一度スターバックスでフラペチーノを飲み、その写真をインスタグラムに投稿することで自分を保っていると言っていた。その気持ち、私はよくわかる気がする。
 中学時代、自分の尊厳を守るために勉強していた時期があった。高校になってから半ば信仰のように映画を観ていた。中学受験した進学校で周囲との間に貧富の差や文化の差を感じた私にとって、勉強こそが周りに勝つ手段だった。高校では、大学進学に向けて勉強ばかりしている同級生が馬鹿みたいに思えていた。芸術系の仕事をしたいと思っていたから、感性が若い時期になるべく沢山のものに触れようとしていた。結果的に私は25歳でいまだに何者にもなれていないけれど、勉強熱心で感受性の豊かな人間にはなった。これから先、腰が曲がり、顔がどれだけしわくちゃになろうとも、目だけはキラキラしていると思う。死ぬ間際になってきっと後悔する。何者にもなれていないだろうから。

鳩も何かになりたいと思っているのかなあ
 他人から舐められないために、また自分を信じるために、インスタにスタバの写真を投稿することは必要なのだ。学校の成績という揺るぎない物差しも同じ。学校をサボって映画の感想を書いたノートでさえ、自分を保つために必要だった。
 社会から祭り囃されるもの。学歴、収入、家庭の有無。学歴以外、そういうのに無縁なので、代わりとなるものを探さないといけない。メインストリームを歩かないから、歩けないから。他の道を探して、その道に沿って進む自分を信じないといけない。舐められないためにも大丈夫なように振る舞わないといけない。久しぶりに会った別に仲良くもない友達。「シゲ、そんなので大丈夫なの?」「うちの親が心配してたで」「フリーターとかやばいやん」
 正直、もう同窓会にも野球大会にも行かなくてもいいかなあと思っている。会いたい人は連絡してくるだろうし、会いたい人には連絡するし。気難しくてごめん。

去年の今頃、大学から高校まで歩いた
 来月、友達の結婚式に出席する。いわゆる「幸せ」を体現したかのようなビッグイベント。その友人が幸せであることを私は心の底から願うし、彼が悲しい時は私も悲しい。それでも家庭にコンプレックスがある私にとって、劣等感に苛まれるイベントになる気がする。悲しい。本来友人を祝福し、幸せを願うための行事なのに、私は自分のことばかり気にしてしまうような気がする。私は未熟で自分勝手な人間だ。申し訳なくなる。主役は彼と彼女なのに。

この写真は結婚式ではない。尾道のお祭りの写真である。
 この前、初めて母親の結婚式の写真を見た。古いアルバム。父親の写真はほとんど全て抜き取られていて、唯一彼の顔が写っているのが結婚式の写真だけだった。この書き方で察して欲しいけれど、私は母子家庭で育った。父親は遺伝子と養育費とウルトラマンの本以外、何も残してくれなかった。彼は脳出血の後遺症で医師として働けなくなり、引きこもった挙句、近畿地方のどこかのアパートで孤独死を遂げ、警察に発見された。結婚式に出席した友人の、誰とも連絡を取っていなかったらしい。私は「会いたい」というメッセージを送ったけれど、彼は拒否した。だから私は父と3歳以降会ってないし、写真以外の父をうっすらとしか覚えていない。この前、お骨になった父に手を合わせに行った。写真に写った人は、全然知らない人だった。みんなが色々な意味を込めて言うであろう「ご冥福をお祈りします」という言葉に、何の気持ちも込められなかった。いけしゃあしゃあと思ってもいないことを言う自分に、乾いた笑いが込み上げ、漏れそうになった。
 あるいは祖父母のこと。最後まで恨み言を言って死んだ祖母と、何もわからずに能天気な祖父。孫から見てもわかる。彼らの結婚は幸福だったとは言い難い。生まれてきてしまった私は一体なんなのだろう。私が生まれてきた意味とは? 私は誰のための何なのだろう?

いつかの年の暮れ。祖父、母、私
 きっと私は友人の結婚式に出席して彼を祝福しながら、頭の隅で自分の家族について考えるのだろう。今から考えてもそれは憂鬱で、友人に対して申し訳なく思う。私よりもふさわしい出席者がいるのではないだろうかとさえ思う。ただただ同じ部活にいたからという理由だけで呼ばれる自分よりも、より純粋に彼と彼女を祝福する誰かがいるに違いない。くだらないブログで幸せに水をさすようなことをしない誰かが。こんな文章、きっと書くべきではない。

結婚式をするならモエレ沼公園みたいなところでやりたい
 きっと同級生や部活のチームメイトと顔を合わせる。どうせ話題もないだろうし近況を確かめ合うのだろう。お互い別に興味もないだろうに。喫煙者であるフリをして「ちょっとタバコ吸ってくる」とか言って式中に散歩できたらいいのに。会場は大阪城が見える場所らしいから、京橋の近くを歩いてそのまま遊覧船にのってどこかに行ってしまいたい。あるいはお酒を飲みすぎたフリをするとか。
「結婚おめでとう」や「幸せな家庭を築いてね」を、私は心の底から言える気がしない。家庭にコンプレックスがある人間からしたらそんなのは全てチクチク言葉だ。
「たくさんいいことがあるといいね」なら心の底から言える。だからそう言う。ここに書いたことなど全て考えてないような顔をして。

高校のグラウンド
 幸せになるために結婚する人や、幸せになるために高級旅館に泊まる人がいるとしたら、それはお馬鹿で悲しい人だと思う。でもそんな人は世の中にたくさんいる。父の姉は「結婚ができて、こんなお嫁さんがいるなんて幸せだねえ」と父に言い聞かせていたらしい。馬鹿な人たちだと思う。でも、そういう風にして「見える」ようにしないと伝わらないこともある。共有できないこともある。なぜなら感情に対する解像度は皆それぞれ違うから。仕方ないことだともちろんわかっている。
 高級料理を出した後で、コンビニに行ってガリガリ君を食べる。何通りの幸せがあってもいいと思う。タバコが吸いたい。今の職場ではみんな吸ってる。

大学の建物。ここにくると何となくタバコが吸いたくなった。

 

 

 
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