シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#225 黒と紫

 小さい頃から自分か我慢すれば物事が解決することが多かった。父と暮らしていた時も、祖父母の家に毎週行く時も、私は自分が何をやりたいのかわからないまま生きてきた。

 

 ゲームもテレビも漫画も欲しかったけれど禁止されていた。硬い感受性のままに生きた。欲しいものを欲しくないものと思い込むようにして、次第に欲しいとか欲しくないとか、自分の気持ちがどんどんわからなくなった。

 

 知らない間に引っ越すことが決められた。病院に入院して、退院した直後の春休みに転校したので誰ともお別れを言えなかった。

「あの子達と同じ中学に行きたくないでしょ?」

そう言われて私は中学受験の塾に通い、高校退学を思い留まり、芸術大学に進むのを諦めた。別に簡単なことで決められる進路だったし、諦めたのも反対を押し切るだけの覚悟を持てなかっただけの話。単にめんどくさがり屋だったという話だけど、その頃にはもうエネルギーが枯れ果てていたのかも知れない。

 

 人生の決断はネガティブな要素で決まったことが多くて、私が「やりたい」と言っても否定的なことを祖母は言った。祖母はいつでも思いついたことを好きなことを断定的な口調で言う人だった。ある時にはこう言い、ある時にはまた違うことを言う。機嫌を読むのが難しくて、些細なことで誰かを否定するような人間。

 

 毎週水曜日は祖母と2人で過ごす時間があって、だから水曜日はいつも少しだけ緊張していた。歩き方が変、アトピーが汚い、目つきが悪い、背が低すぎる、性格が捻じ曲がっている、もっと子供らしくしなさい、私とあなたは対等じゃないのよ?etcetcetcetc...... ガチャガチャみたいにランダムに繰り出される言葉。誰にも頼れなかった。伯母も伯父も母も。あんまりだと思う。伯父は祖母の荒れ狂う姿を知らなかったし、母は祖母に抵抗できなかった。伯母は、いとこ達の子育てに忙しかったし、そもそもこれ以上傷つきたくなかったのかも知れない。まともに顔をみて話すことももうないだろうから結局いつまでもわからない。訊く度に違うことを言うかもしれない。彼女もその時の考えだったり思いつきで違うことを言う人だ。何を言いたいのか自分でもわかっていない時もあるかもしれない。

 

 小さい頃、あまりにも祖母が怒ってばかりなので祖父が自殺してしまうのではないかと思っていた。あんなに言われっぱなしじゃおじいちゃんしんどいよ。かわいそうだよ。

おじいちゃんはおじいちゃんで、どこまでも感受性に乏しくて、いつまで経っても祖母が怒ってる理由がわからなかった。共感や理解を示そうともせずに謝らずに居直るものだから、祖母はその態度にも腹を立て、口論は延々と続くのだ。祖父が自分の部屋に行き、テレビを見るまでそれは続いた。盆と正月が楽しいだけで終わった記憶なんてない。いつでも祖母が喚いていた。

 正月も盆も、世間では「楽しいもの」という認識があって、その空気のせいで時々自分が社会の一部だと思うのが難しくなる。結婚するとか家族を作るとか、そういうのって自分には関係ないのだろうと思って生きてきた。これからも生きていく。諦めがどんどん妬みに変わっていく。自分の性格がどんどん悪くなっている気がしてとても怖い。

 

 伯父と伯母が祖父母といる時は楽しいけれど、彼らが帰った後にいつも祖母は爆発した。伯父がいるために言えなかった言葉を祖父にぶつけるのだ。

「さっきの言葉は何なの?」

「〇〇さん(伯父の名前)に対してその言い方は失礼よ?」

失言をしたり、他人に対する想像力がない祖父ももちろん悪いのだけど、そういった彼を祖母が少しでも大目に見て許すことができたらもっと楽しかったのだろうと思う。

 

 いつでも祖母は私と母が祖母側につくことをよく要求した。私はどっちの味方でもありたいのにどちらかを選ばないといけなくて、面倒だなあと思いながら話を聞いていた。大抵は母も私も祖母側についた。なぜなら祖父は、今までに付き合った人間の誰よりも、感受性と想像力が欠如していて、自分たちも何度も彼に傷つけられて来たからだ。祖母の怒りと祖父の困惑。その2つのうちどちらかを選ばないといけないとしたら、祖母の怒りはまだ理解できた。でも祖父の困惑はいつも不思議だった。

 

 伯父といる時に祖母は怒ったりしなくて、だからいとこ達も伯父も、私がそういう時にどういうことを思っていたのかは知らない。きっと死ぬまで彼らはわからない。

 祖母側につくことを求められた私は、その昔父にも同じことを言われたなあと思い、つまんないなあと思いながら散歩したり庭の木に登ったり、隣の部屋で勉強してたりした。

 

 時々、口論を聞いているのが辛くて、わざとインターホンを押して、知らない人が来たように装って祖母の注意を逸らせたりした。あるいはわざと子どもっぽく振る舞ったり。

 そういうことって別に自分だけがしたことじゃないと思うけど、母以外のは家族は、私がどういう気持ちでそんなことをしてたのか知らないだろうし、わかりっこないだろうなと思う。理解と共感は違うのは頭ではわかるけど心ではまだわかっていない、そこら辺をいつか自分がわかるようになれば楽だと思う。

 

 伯父は心が広い人だし、ある意味で鈍感とも言える人なので、伯父が祖父の言葉にムッとしていたのかはわからない。でも完璧主義の祖母ば怒り狂っていた。そこに残される母と私。私はいつもいとこ達を羨ましく思っている。小さい頃は妬ましくて、いつも3歳下の従弟を殴っていた。本当に申し訳ない。自分で感情をコントロールできなかったのだ。伯父と伯母が作り上げた家庭はいつも幸せそのものに見えていつも妬ましかった。

 それは自分がついぞ感じられることがなかった「家族団欒」であり、自分が大人の顔を見てばかりで楽しめなかった少年時代であり、逆に「家族っぽさ」を体験できる唯一の時間でもあった。小学校高学年くらいまで、いつか父親が迎えに来てくれないだろうかとぼんやり考えた。

 

 時々誰が一番祖父母に傷つけられたかをみんなで競う。いつでも伯母がチャンピオン。彼女が一番強く主張できる。「祖母譲り」の攻撃力があるから。誰もまともに立ち向かえない。段々と祖母に似てきたと思う。祖母と同じように、伯母は伯父の無理解を愚痴る。「あなたは過去ばかり見ている」と私に言いながら、自分も祖父母の過去について延々と語る。祖母と同じように周りの人の気持ちなんて考えない。自分の気持ちをわかって欲しいと思って延々話す。母だけがその話を聞いてあげている。母の気持ちを伯母がどう理解しているのかは知らない。

 

 他人の苦しみを100%理解することはできない。それ故に苦しみを比較することらできないと思う。「苦しい」と言う私に対して、彼女はいつも「私だって苦しい、でも前を向いて生きている」と言う。私の苦しみにはきっと関心がないのだ。あるいは心に余裕がないのだ。もしかしたら同じような解像度で物事を見ていないがゆえに感受性や想像力に乏しいのかも知れない。共感を示すことが彼女は怖いのかも知れない。少なくとも彼女は祖父母の「ヤバさ」を認識していた。なのに助けてくれなかった。いつまでも彼女は私を助けない。それどころか私をいつまで経っても傷つける。現実世界でも私の頭の中でも。「あなたがそう思うからそう見えるのよ」ってお母さんは言ったけれど、私が過呼吸になるまでに伯母が厳しい言葉を言わないといけなかった理由が私は死ぬまでわからないだろうし、尋ねようとも思わない。「母が頼りなく見えたから」みたいなことを伯母も祖母も言うけれど、そもそも彼女達は母の気持ちを聞いたのだろうか。

 

 伯母はいつだって家族について「許す」と「許さない」のフェーズに留まり続けていて、相手を叩きのめすまで捲し立てることをやめない。全てを屈服させるまで彼女は走り続ける。きっと友達は多くないだろう。一方の私はもう逃げることにした。この前真剣に考えたのだけど、伯母と「ちゃんと」した会話をした記憶は、10年近く遡らないと見つからなかった。2人とも似た苦しみを抱えているのにそれについて話しても分かり合えることがない。小さい頃からの刷り込みで、私の脳みそは彼女のことを敵だと認識しているみたいだ。いつだって彼女は私を傷つけてそれについて彼女は罪悪感を抱かない。傷つく方が弱いのだ。傷つく人が悪いのだ。だって彼女は傷つかずに生きてこれたから。みんなが同じわけじゃないのに。悲しみや辛い記憶は比較できないというのに。

 これからの人生、彼女と会うことも目を合わすことも、もう何回もあるわけじゃない。もう本心で話せないだろうなと思う。いつから自分はこんな嘘つきになったんだろう。最後に会った時、自分にがっかりした。次会う時もがっかりするだろう。

 

 家族について考えていると結局死にたくなる。死なないためには逃げることだ。いつか繋がりが無くなれば逃げ切れば、いつか解放されるかも知れない。死ぬことの方が楽になればその時はしょうがない。死ねばみんな悪かったと思ってくれるのだろうか。死ねば、みんな覚えていてくれるだろうか。死んでも、誰かは時々自分のことを思い出してくれるだろうか。

 

 伯母と祖父は、祖母が死んだ時、誰が祖母の死を一番悲しんでるか、誰が一番祖母を愛していたかを争っていた。私に対してそれぞれがそれぞれの愚痴を言い、sのように家族の間に挟まれて考え込む羽目になるのは子供のことからと同じだと思った。ある意味で彼らはとても幸せなのだと思う。私が死んでも彼らにはそんなことはさせない。死んでも。

 

 

 

Aufsatz013

„Erinnerung und Speicher“

13.08.2018 soll ein Samstag gewesen sein. Ein gespeichertes Foto auf Googlephoto erzählt mir des. Ich habe fast alles von diesem Datum verpassen.

Sobald ich jedoch das Foto anschaue, sind viele Erinnerungen bald wiedergebet. Aber natürlich kann ich nicht mich an alles erinnern.

Solche Dinge passieren ständig überall in dieser Zeit.

Wir Speichern sowohl Fotos als auch Erinnerungen in unseren Handys, aber wir schauen nicht of darauf. Die Fotos, auf die niemand schaut, sind tot, wie Wim Wenders bei seinem Interview gesagt hat. Ich stimme ihm zu.

An diesem Tag war ich in Taiwan, eine Stadt die in Süden Taiwans liegt, und ich habe dort an einem sommerkurs teilgenommen. Jeden Tag habe ich etwas Neues entdeckt. Durch den Kurs habe ich viele kammeraden kennengelernt, die aus 9 Ländern in Asien kamen. Süße Erinnerungen kommen und gehen, während ich diesen Text schreibe.

Mit em Paar von ihnen in ich noch im Kontakt. Eine kam mit ihrem Freund noch Japan, als ich in halone gearbeitet habe. Das war ein kalter Tag in Dezember 2022.

Durch soziale Medien können wir uns einfacher unterhalten als früher, jedoch können mit nicht in die Vergangenheit zurückgehen und nicht an alles erinnern. Ich sollte mich daran erinner, dass mich alles in der Vergangenheit zu dem macht, der ich heute bin.

 

【今日の音楽】

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