シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#228 OK。眉毛は後回し

 眉間に毛が生えていて、そろそろ切らないといけないなあとか考えている。そういえば昨日スーパー並んでいる時、前に並んでいたお爺さんがとても立派な眉毛をしていたなあと何となく思い出す。その前に並んでいたお爺さんがかなりの曲者で、レジの人と何やら話し込んでいた。というか意思疎通が難しい感じだったからボケているのかもしれない。「ボケる」という少し残酷な響きをもつ動詞で表現するのは勇気がいる。私はその時繰り広げられていたドイツ語の会話を聞き取れなかったから、もしかしたら実際はそのお爺さんはボケていなかったのかもしれない。私が聞き取れた範囲では、お爺さんはカルボナーラの作り方をレジ打ちの店員に聞いていたのだと思う。長い行列の一番前の人がそんなことをするのは多分変だし、結局カルボナーラのためにレジに持ってきたと思われるマヨネーズのボトルを、お爺さんはレジに持ち込まなかった。

 脇に置かれたマヨネーズの白いボトル。駆けつけた別の店員が回収していった。10分後には、カルボナーラを食べたかったお爺さんに手に取られたことなんてまるでなかったような顔で、ケチャップの横に並ぶの。

 最近わかってきた自分の行動に、後回し癖がある。床屋、ビザ、携帯電話、銀行の手続き。別に何でもいいけど、例えば作りたい料理をインターネットで見つけたとして、それを本当に作るまでに最低2週間以上かかるらしい。その間に物事が変わったり、自分の興味関心が移って、そのレシピに戻ってこないこともあるのだけど「本当に」作りたいと思ったものには戻ってくるみたいだ。きっと眉毛を整えるのにも時間がかかるのだ。

「眉毛整えた方がいいよ」
最初にそう教えてくれたのは中学校からの同級生。2021年の秋だった。一緒にドライブしたのに、その人はなぜだか黙っていて、そのせいで何だか不安な時間を過ごした。久しぶりに口を開いたかと思えばそんなことを言ったので、何だか腹が立った。
 ひどい交通事故の後だったからか、ADHDであることを真剣に疑い始めた時だったからか、不安な時期だった。卒業論文から目を逸らし、モスクワの大学院に行く手続きをモモエちゃんに助けを借りながら何だかんだ進めていた。今思うと本当に適当にやってたなと思う。「本当に」やりたいなら正しいやり方でやらないといけない。自分がやりたいやり方ではなく。自分には譲れないこだわりがあって、自分なりの順番があったとしても、そのこだわりを理解してくれる人なんて一握りだ。
 市役所の人も国費留学プログラムの担当者も、年金事務所ハンブルクの外国人局もそんなの関係なしに彼らの仕事をしている。それって何だか怖い。自分が置いていかれるような感覚がある。座っているこの椅子が急に後ろの方向に回転し始める感覚。どこか高くて暗い場所にいて、地上の光を見下ろしている。交信はもうすぐ途切れる。

 私は結局ADHDではなくて、ADHDのように感じる自分の状態は、長い間抑鬱状態にあることが原因みたいだった。「愛着状態かもしれませんね」そんなことも精神科の先生は言った。それはネットに落ちているような簡単なチェックテストではなくて、心理カウンセラーさんとの3時間にわたる心理テストの結果だったから、一応は納得した。
 一応は納得するけれど、自分の心を知ろうという試みは、正直終わりがない。みな安直な考えを持って病院に行きたいと思い、占星術の結果を知ろうとする。強迫性障害もある気がするし、境界性パーソナリティ障害もある気がする。アスペルガー障害は確実にある気がする。全部ちゃんと確かめたいけれど、確かめても何にもならないかもしれない。私はきっと、小学校低学年の時点で、何となく自分の頭がおかしいことに気づいているのだけど、それがどうおかしいのか自分でも説明ができなくて、ずっと困っている。精神病の名前とか、アルファベット4文字で16種類に分類されるやつとか、一時期流行った「HSP」とか。そういう「誰か」が決めた枠に自分を当てはめることで、自分をわかりやすく伝えることができる気がする。でもそれでは「本当の」自分を伝えるために誰かの言葉を借りている気がして、別のモヤモヤが発生する。

 相談しても家族の口から飛び出すのは「シゲはうつ状態に見えないけどなあ」という言葉だった。でもどうしてそんなことが言えるんだろう。もうそこで話が終わってしまうじゃない。理由がなくて言っているわけじゃないのに。でももう一つひとつ説明しようとも思わない。ただただ心と心の距離がどんどん離れていくだけ。この話はもうできないし、頼ったりもできないってことよね。
 家族と話すたび、いつの間にこんなに遠くなってしまったのだろうと悲しくなる。毎回さようならと小さく呟く。私だけが違う重力に引っ張られているのだろうか。重力に引っ張られてたどり着いたその場所には私のような人たちがいるのだろうか。そこで私は「本当の」私に出会えるのだろうか。

「じゃあ、シゲの状態に名前がついたからと言って何か変わるわけ?」
 家族の誰かが言ったのは全くその通りだと思う。今までもこれからも何も変わらない。私が病気だろうが病気じゃなかろうが、関係なく日々は続く。でも、少なくとも病気という診断があることは、お金を払って何かしらの定義づけがされたことは、自分の助けにもなるはずだ。闇雲に進んでいくだけの力がもうなくなった以上、その定義によって自分のことが理解できて、助けになることもあると思うのだけど。まあ自分でやるしかないか。
 
 死んだ祖母ならわかってくれたかも知れないと時々思うこともあるが、そんな風に思うのは死んだ人だからだ。死人に口なし。死んだ人を味方にすることは簡単だ。
 残念ながら生きていても死んでいても父はわかってくれないと思う。自分の知る限り、彼は高度な情緒を持たず、他人対する関心も持てなかった人だ。2023年に彼の亡霊がハンブルクにいる私の枕元に現れたとして、まるで、理解できないだろう。理解してほしくもないし。
 
 ××××。
 
 安心できる人に安心できる場面でしか言えなかった。もっとオープンな感覚で生きていたら違ったのだろうなと、ドイツに来て思う。どうしてか私はとっても自意識過剰で、それは日本からドイツに来てもそんなに変わらない。でもそんな風に深く考えすぎることは、この国ではそれほど美徳とはされていないように思う。だから、自分がクラスにいる誰かを観察していることとか、バスの中で観察していることは、もしかしたら理解しがたい変なことなのかも知れない。


 眉毛のことを言われたドライブも、きっと普通のドライブだったのかも知れない。自分が変に考えすぎて、勝手にしんどくなっていたのかも。周りを見て、気を遣うことは大事だけど、そのせいで自分が苦しくなるのなら、ちゃんとバランスを取らないといけない。誰のために生きているのかわからなくなる。
 
 今日も地下鉄や通りにはたくさんの人がいて、その向こうにはそれぞれの家族だったり友達だったりがいる。それぞれの物語が同じ街で進んでいく。同時に自分の毛も伸びる。今日シャワーの時にちゃんと剃ろうと思う。
 
 
【Aufsatz016】

„Die Frauenquote in Japan"

Es gibt 23 Politiker im japanischen Kabinett. Wie viele davon sind Frauen?

Nur vier. Außerdem ist jeder siebte Politiker des Parlaments eine Frau und der Rest sind Männer.

 

Laut des Global Gender Gap Report des Weltwirtschaftsforums liegt Japan auf dem 125 Rang. Besonders im politischen Bereich wird Japan schlecht bewertet.

Zum Beispiel wurde im Juni dieses Jahres in Japan ein G7-Ministertreffen organisiert. Bei dem Treffen geht es um die Gleichstellung der Geschlechter und die Stärkung der Rolle der Frau. Daran haben Ministerinnen von den sechs Ländern und von den EU sowie ein Minister teilgenommen. Natürlich kam es aus Japan. Nach den Treffen hat Minister bei seinem Interview nach dem Treffen, dass ihm von anderen teilnehmen der Sitzung geholfen und er inspiriert wurde. Zwar ist das eine beschämende und lächerliche Nachricht, aber solche Probleme passieren jeden Tag in meinem Land. Schade drum.

 

Wie ist die Lage an der Uni?

Lange Zeit waren Frauen immer zuhause und haben sich unten Haushalt gekümmert. Das war traditionelle Kultur laut der Gedanken in Japan. SolcheAtmosphäre existiert noch. Einige Eltern wollen für Töchter beim Studiengang weniger als Söhne. Jetzt hat sich die Situation verbessert. 48 Prozent der Frauen und 55 Prozent der Männer in meiner Generation gehen an der Uni und studieren. in den internationalen Studiengängen studieren viele Studentinnen. Mehr als 60 Prozent von den Leuten Frauen sind beispielsweise, in keiner sprachwissenschaftlicher Fakultät der Osaka Universität. Aber andererseits ist es schwer in Japan Frauen in der Naturwissenschaft oder an staatlichen Universitäten in Japan. Tokyo Universität ist eine der bekanntesten und Gesten Universitäten in Japan. Jeder fünf Studierende dort ist eine Frau.

 

Meiner Meinung nach ist Gleichstellung in der medizinischen Bereiche nicht schlecht. Einige von meinen klugen Freundinnen studieren in diesen Bereiche und arbeiten als Ärztin oder Krankenpflegerin. Meine Mutter arbeitet als Apothekerin und in ihrer Apotheke arbeiten viele weibliche Angestellte. Anzahl von medizinischen Fakultäten sind gleich. Das verursacht andere Probleme. Die medizinischen Universitäten Kosten viel. Nur die Töchter reichert von Familien können studieren und Ärztin werden. Wegen den Kosten geben vielen Studentinnen den medizinischen Studiengang auf.

 

Die Situationen um die Gleichstellung von Man und Frau ist nicht nur ein Problem. Es ist mit anderen Problemen verbunden, zum Beispiel, das wenige staatliche Budget für Bildung, die alternde Gesellschaft und niedrige Wahlbeteiligung. Bevor mein schreiben zu lang wird, beende ich diesen Aufsatz.

 

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#227  顔の中の顔

 顔の中に顔がある。風景の中に風景が、都市の中に都市が。記憶はリンクする。今日はジュリアを訪ねてトレヴィソに来た。経由したヴェネチアもクラーゲンフルトも、私が知っているどの都市とも似ていなかった。でも私はフリックスバスの中で、梅田のバスターミナルから乗った高速バスを思い出したし、Trenitalia(イタリアのJRみたいなやつ)ではウラジオストクで乗ったロシアの鉄道を思い出した。

 ジュリアは銀色のフィアットで待っていた。ハグをして車に乗り込む。ジュリアの住む街はなんとなくトビリシのどこかに似ていると思ったけれどどうしてなのかわからなかった。年の瀬だったからかもしれないし、空が灰色がかった青色だったからかもしれない。家の前まで来ると尼崎の昔の友達の家の近くに似ている気がしたけれど、それもやっぱりどうしてかわからなかった。20年前の小学校の記憶が今頃出てくるなんて不思議だ。そういう記憶はもちろんジュリアとも誰とも共有できないから、自分だけで抱えて生きていかないといけない。こういう感覚をすぐに忘れられるようになれば楽だと思うのだけれど、そうはできないからこういう生き方をするしこうやって文章に残そうとする。削った方がいい文章も削ることができなくて文章はどんどん長くなる。スマートフォンの写真フォルダは増えるばかりでもう必要ないスクリーンショットも私は消すことができない。イベントの入場に必要だったQRコード、インスタで見た美味しいレシピ、覚えておきたいと思ったネット記事。見返すことのないスクリーンショットが溜まっていく。

 知り合いの家族に会った時、顔の中に顔を見出す。ジュリアの中にはジュリアのお父さんとお母さんが少しだけ共存していることがわかる。同じことをお笑いコンビ、真空ジェシカの川北もラジオで言っていた。ジュリアは私と同じ一人っ子で、でも両親とはそれほど強く似ていないと思った。両親の顔を足して2で割ったのが子どもの顔だなんて言われても私は信じない。

 夕方になって会ったジュリアのお爺さんはお父さんにそっくりだった。頭の禿げ方と、髭の生え方、それから鼻の形が特に。それから話す時の表情や雰囲気も似ている。

 90歳のおじいさんは、私の顔をもっと見たいと言って、だから私は帽子を脱いで光の方に顔を上げる。ドイツとイギリスとイタリアしか知らないけれど、ヨーロッパの室内照明は日本のそれと比べると暗く、暖色が多い。オレンジ色の照明が斜め上に向けた私の顔に当たる。ジブリならきっと私の長い髪が靡くのだろうとなんとなく思った。ナウシカもののけ姫で、風が無いのに髪が靡くシーンがあった気がする。

 そうだ。「ジブリ」という単語はイタリア語だった。確か昔の飛行機の名前だったと思う。軍事マニアとしての宮崎駿と作品の中で反戦を訴える宮崎駿鈴木敏夫や日テレと働く彼の中にはやはり葛藤などはあるのだろうか。数日前にこのことについて誰かと話した気がする。そう、ケイトだ。ジブリの新作を見てきたと言う彼女は遅くに帰って来て、深夜に勉強している自分と鉢合わせして少し話したのだ。『風立ちぬ』よりはわかりやすいと言うのが私が聞き出せた彼女の感想で、きっともっとたくさん思うことはあったのだろうけれど、私も彼女もあちらこちらに会話の方向を向けるうち、私たちは最初に話していたその宮崎の映画のことを忘れてしまった。ケイトは学士課程の卒業論文関東大震災後の日本における都市計画について書いたらしい。今は修士課程にいて北アイルランドのある自然遺産の保全活動について論文を書こうと思っていると教えてくれた。宗教間で対立が残る場所で、異なる宗派にいる人たちがどうやって協力して来たのかということを調べていくのだという。

ケイトはニナとマーティンの娘で、あごの細さ以外ほぼ全てニナと似ている。逆に妹はほとんど全てマーチンと似ているらしい。北アイルランドのどこかのカフェで働いているという妹は、クリスマスにも帰って来なかった。

 話はジュリアのお爺さんの家に戻る。ケイトと同じように、あるいはヨーロッパの多くの人と同じように、ジュリアのお爺さんにとっても日本はミステリアスな国なのだという。その家の壁にも日本の工芸品がかかっていて、船医をしていたジュリアのひいお爺さんが日本から持ち帰ったらしい。元は何かしらの家具の一部だったようで開き戸になっていたのか蝶番の痕跡があった。黒い漆塗りの中に嵌め込まれた象牙螺鈿で、烏帽子を被った人物が描かれている。左下に「内藤」という署名があった。私はその人物が着る衣装や彼が持つ笛の正確な名前を知らない。それは少し悲しい。ものごとの「本当」の名前を知りたいけれど、それには人生がいくつあっても、脳みそがいくつあっても足りない。今読んでいる多和田葉子の主人公も言っていたけれど、私は鳥や草花の名前を文学の中の文字情報として覚えているだけであって、実物の見た目も、鳴き声も、香りも知らない。

 漆塗りから数メートル離れた壁にもう一つ額にかけられた日本のものがあった。百人一首のかるた札が2枚あって、「こゑきくときぞ秋はかなしき」と「いく夜寝覚めぬすまの関もり」だった。それぞれ「奥山に」と「淡路島」の歌で、後で調べると前者は猿丸大夫の、後者は源兼昌の詠んだ歌らしい。

 ジュリアがトイレに立って、イタリア語が話せない私と英語が話せないお爺さんが取り残された。手持ち無沙汰になった私はお爺さんが淹れてくれた紅茶を飲む。ジュリアがさっきシンクに置いた茶漉しをシンクから取り戻して紅茶を入れる。ジュリアの家に置いてきたほうじ茶を持ってくればよかったと思った。

 数週間前もジュリアの大学の同級生がお爺さんの家を訪ねたらしい。インドから来たとその学生はダージリンティーをお土産に置いて行ったらしく、お爺さんはその紙袋を見せてくれた。西ベンガルのどこかに広がる茶農園で摘まれた茶葉。イギリス人が切り拓いた農園とそこに連れてこられた人々。

 時々ヨーロッパ人が語る「アジア」や「オリエント」について私は考える。お爺さんはインドと日本をどれくらいの近さだと思っているのだろう。話していて少し気になった。

今日の昼もジュリアのお父さんがパッタイの話をしてくれたのだけど、その時も日本とタイの距離感をどれほどのものだと思っているのだろうと不思議に思った。


 小さい頃から地球儀が大好きで、今月も図書館で地図つきのエッセイを借りたくらい地図マニアの自分にとって、アジアやアフリカ、ヨーロッパの距離感は明らかなものなのだけれど、車で数時間走れば違う国へ行けてしまう距離感は島国育ちのそれとは全く違うものだのだろう。

 パッタイの話になった元々のきっかけはスノーボードしに行くジュリアの両親が荷造りする中に私が「うどん」と書かれた袋を見つけたことで、それを皮切りに「アジア」の麺料理の話になったのだ。

 ピーナッツとレモンとパクチーは比較的簡単に手に入るけれどエビはドイツでは少し高い。イタリアではどうなんだろう。魚を食べる人の割合は少なくともドイツよりは多いと思う。

 パクチーが、英語では「coriander」ドイツ語で「 Koriander」と呼ばれるのがどうしても覚えられない。どうしても最初に出てくる単語は「パクチー」というタイ語に由来する日本語で、「コリアンダー」を思い出すまでに数秒の時間がかかる。「コリアンダー」の音の響きは私にとってハリーポッターに出てくる「コーネリウス」や「オリバンダー」といった魔法界の人物と同じ引き出しに入っている。


 一瞬会話の中で京都にあるタイ料理屋「三条パクチー」のことを思い出した。高校の同級生
Oに教えてもらったお店で、何回か行ったお店。一緒に行ったどの人も大切な人たちだったなと思い出して、そういうのはジュリアのお父さんとは全く関係がないから記憶には無理に蓋をする。これからタイ料理屋でパッタイを食べる度、あの店のことを思い出せるのだ。だから今じゃなくていい。

 東アジアの麺たち。札幌から平壌、ソウル、盛岡、東京、山東、四川、沖縄、サイゴンバンコク。各地に様々な麺があって、それはイタリアも同じだ。ジュリアのお父さんはパッタイの平たい麺がイタリアのある麺と似ているように思ったと教えてくれた。私は同じように平たい、山西省刀削麺や名古屋のきしめんについて話そうと思ったが、会話の流れに身を任せる中でそれらについて話す機会はついに失われた。

 当たり前のことだけど、会話には筋書きがない。その場のノリとアドリブで話していくと話したいことからどんどん逸れていって、しまいには最初に話していたことと全く違うことを話していたりする。

 パスタについてイタリア人に聞きたいことは色々あって、茹でる水が硬水か軟水かによってパスタの風味や硬さは左右されるのかどうか、ワイン作りにも水は影響するのか知りたかったのだけど、それについてイタリア人に尋ねるのは次回に持ち越しとなった。


 もちろん私の定義する「ヨーロッパ人」もざっくりとしたものでしかない。

ドイツ社会で私が不満に思う点を挙げる際、私は時々「ドイツ人って大体〇〇なところがあるよね」という風なことを言ってしまうけれど、「ドイツ人」という乱暴なひとくくりの中にもたくさんのグラデーションがあってそういった言い方を毎回してしまうのも考えものである。

 お爺さんと過ごす中で、S台に住む自分の祖父を思い出した。自分が日本から出て行こうとしていることを彼なりのやり方で応援してくれる祖父。今年で90歳になったというジュリアのお爺さんは祖父と同じように新しいものに対する興味を持っていて、それが長生きする秘訣なのだろうと思った。自分の時代は戦争があって外国に行くなんて思いもしなかったけれど、今は簡単に行ける。まるで魔法みたいだと。

 そうなんだよね、昔より簡単なのだよね。孫娘と祖父に「明日ウディネに行くのはどうして?」と聞かれた私は正直に答える。私の好きな書き手が結婚式を挙げたのがウディネのある教会であること、その人のおかげでイタリアに対する興味が湧いたこと。私も彼女のように違う国に住んで文章を書きたいということ。

 テクノロジーに関しては、須賀敦子がイタリアに行った時代よりも、多和田葉子がドイツに来た時代よりも、今の方がはるかに便利だ。まあ、バブル時代に多和田葉子がドイツで生活を始めた80年代の方が、円がユーロにボロ負けしている令和5年では経済的には楽だったかもしれないけれど。とはいえ、インターネットの発達と、日本のパスポートが勝ち取ってきた信頼性は、間違いなく私のヨーロッパ生活を容易にしているはずだ。

 ジュリアはよく友達をお爺さんのところに連れて行くらしい。お年寄りが集まるところがお爺さんは好きではなくて、若い人と話すのが好きな彼にとって大切なことなのだと思う。私も関西に住んでいる時はよく祖父の家に友達と言った。関西にいる、いとこ達は同じことを祖父にしてくれているだろうか。祖父母の庭にある夏みかん狩りもマーマレード作りも、雪の日に雪だるまを作ったことも木に登ったこともなんだか随分昔の記憶に思える。父親がいないために祖父母とよく過ごした私と、いとこ達の間には、祖父母との距離感が全く違って、彼らは楽そうでいいなあと時々思う。一人っ子のジュリアにとってお爺さんはどういった人なのだろう。彼女とは日本とイタリアの高齢化について何回か話した。彼女にいとこがいるのかは知らない。

 夜、ジュリアと猫と一緒に映画を観た。みんな大好き2001年のフランス映画『アメリ』をテレビで流して、明日から友達とスキーに行くジュリアは映画の途中で、オーブンの中のケーキを取り出したり入れたりして忙しそうだった。映画に登場する人物の顔の中にも顔があって、主人公アメリが働くカフェでタバコを売っているジョルジェットは私の友達のマリフェに似ていた。次に会ったら話そう。私は結局、ハンブルクであまり友達ができず、マリフェだったりジュリアだったり、数ヶ月おきに会う人と仲良くなっている。

 

 

 

Aufsatz015

„Hoffnungsbild“

 

An einem Sonntag habe ich ein Wort in der Kirche gehört.

Das Wort “Hoffnungsbilds“ erinnert mich an zwei große Schriftsteller, Leo Tolstoi und Kenji Miyazawa.

Leo Tolstoi ist ein russischen Schriftsteller, der bekannt für seine Hauptwerke „Krieg und Frieden“ und „Anna Karenina“ ist.

 

Kenji Miyazawa ist ein Dichter und Autor von Kinderbüchern. Er lebte im frühen 20. Jahrhundert. Seine Bücher gründen auf Empathie mit den Geschöpfen, buddhistischem Mitgefühl und christlicher Nächstenliebe.

 

Die zwei Schriftsteller vertrauten auf Menschlichkeit und fordern Gewaltlostigkeit. Beide gründen Schulen und engagierten sich in der Aufklärung der Bauern.

 

Sie schrieben über gute Ideen und haben mit jedem Schreiben Utopien entwickelt. Deshalb litten sie viele Jahren unter der Diskrepanz zwischen Masterbild und Leben. Sie wurden manchmal von den Bauern missverstanden.

 

Tolstoi war der Sohn einer adeligen Familie, die für den Kaiser seit vielen Generationen arbeitete. Miyazawa war auch reich, da seine Familie Kleidung verkaufte und Pfandleiher war. Tolstoi hatte Probleme mit seiner Frau und Miyazawa stritt mit seinem Vater über die Unstimmigkeit der buddhistischen Bereiche.

Am Ende Tolston's Leben floh er vor seiner Familie und während der Reise starb an der Lungenentzündung. Miyazawa lehnte die Hilfe seiner Familie ab und ist er in Alter von 37 Jahren gestorben.

 

Sie planten die Utopie, trotzdem wurden die Pläne nicht wahr. Ihr Leben als Menschen waren nicht erfolgreich. Einerseits waren sie normale Menschen wie wir, andererseits hatten sie gute Gedanken, die sich überall durch ihr talentiertes Schreiben ausgebreitet.

 

Als Fazit kann ich sagen, dass es schwer ist, auf der Welt eine Utopie zu machen. Alle können sie in einem Buch finden und sie injedem Herz bauen.

 

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#226 ぷにぷにが失われた

ぷにぷにが失われた。35分の命だった。
ぷにぷにが失われた。石橋くんの乱暴な左手によって。
ぷにぷにが失われた。その引き換えに右手の自由を得る。
ぷにぷにが失われた。後にも先にもそれだけだった。
ぷにぷにが失われた。そう語るのは京都市伏見区の住所不定無職ラジオネームはマジで破産する5秒前さん。
ぷにぷにが失われた。いーや馬鹿言ってんじゃないよ。
ぷにぷにが失われた。最後の目撃証言は昨日の午後8時ごろ、練馬区の路上で。
ぷにぷにが失われた。その裏、ヤクルトは4番畠山のツーベースで先制。
ぷにぷにが失われた。こんな新婚旅行は嫌だ。何があった?
ぷにぷにが失われた。最後はひび割れてばらばらになった。
ぷにぷにが失われた。最近、空気が乾燥してきた。部屋に今流行りの除湿機でも置こうかしら。
ぷにぷにが失われた。それでも次郎の上に雪降り積む。
ぷにぷにが失われた。屋根まで飛んで壊れて消えた。
ぷにぷにが失われた。海よりも深い心と山よりも高い志を。そういう者に私は成田空港。
ぷにぷにが失われた。ややあってうっすら白い汁が吹き出す。
ぷにぷにが失われた。おい、灰皿持ってこい。
ぷにぷにが失われた。なに?それでも饅頭が怖いって?
ぷにぷにが失われた。満開の桜の木の下のそのずーっと下まで掘ればきっと温泉が湧いてくると思う。
ぷにぷにが失われた。山田より山田かつ花子より花子で、だがしかし太郎よりは太郎でないもの、これなーんだ?
ぷにぷにが失われた。飛んで火に入る夏の虫とはこういうことを指すのかも知れないし、指さないのかも知れない。ただその虫は刺すから気をつけた方がいい。
ぷにぷにが失われた。ここ掘れワンワン日野の2トン。
ぷにぷにが失われた。その暑い夏の昼下がり、僕は人知れず泣いた。
ぷにぷにが失われた。そう言って彼は息を引き取った。
ぷにぷにが失われた。それは彼女と僕だけのちょっとエッチな言葉。
ぷにぷにが失われた。田中が漏らしたらしい。俺たちの銀行強盗の計画を。
ぷにぷにが失われた。ということは今年ももう秋刀魚の季節だ。
風が止んだ。
 
【Aufsatz014】
„Shitshow auf der Reeperbahn" (Passiv)
Tabakmüll und Plastiktassen werben überall auf den Weg weggeworfen und wir gehen zu Fuß dadurch bis zur Haltestelle Reeperbahn. Der ganze Müll auf dem Boden wird flach getreten. Der Rosenstrauß wird in dem Arm gehalten und verkauft, aber leider nicht gekauft.
In einer Shisha-Bar wird großer Rauch ausgeatmet und die Kohlen, die auf das Gerät an der Pfeife gestellt werden und die Luft aufheizen, funkeln in Dunkeln.
Die Haltestelle ist sehr laut und unsere Stimme werden von der Fliesenwand reflektiert und hallen nach. Im Kiosk auf der Treppe wird elektromusik aus dem Lautsprecher gespielt and von den Leuten ohne Kopfhörer gehört. Bei ihnen gibt es keine Option. Die Flaschen werden neben der Mülltonne abstellt und dann gesammelt.
Des alles passiert jeden Samstagabend hier. U-Bahn kommt.
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#225 黒と紫

 小さい頃から自分か我慢すれば物事が解決することが多かった。父と暮らしていた時も、祖父母の家に毎週行く時も、私は自分が何をやりたいのかわからないまま生きてきた。

 

 ゲームもテレビも漫画も欲しかったけれど禁止されていた。硬い感受性のままに生きた。欲しいものを欲しくないものと思い込むようにして、次第に欲しいとか欲しくないとか、自分の気持ちがどんどんわからなくなった。

 

 知らない間に引っ越すことが決められた。病院に入院して、退院した直後の春休みに転校したので誰ともお別れを言えなかった。

「あの子達と同じ中学に行きたくないでしょ?」

そう言われて私は中学受験の塾に通い、高校退学を思い留まり、芸術大学に進むのを諦めた。別に簡単なことで決められる進路だったし、諦めたのも反対を押し切るだけの覚悟を持てなかっただけの話。単にめんどくさがり屋だったという話だけど、その頃にはもうエネルギーが枯れ果てていたのかも知れない。

 

 人生の決断はネガティブな要素で決まったことが多くて、私が「やりたい」と言っても否定的なことを祖母は言った。祖母はいつでも思いついたことを好きなことを断定的な口調で言う人だった。ある時にはこう言い、ある時にはまた違うことを言う。機嫌を読むのが難しくて、些細なことで誰かを否定するような人間。

 

 毎週水曜日は祖母と2人で過ごす時間があって、だから水曜日はいつも少しだけ緊張していた。歩き方が変、アトピーが汚い、目つきが悪い、背が低すぎる、性格が捻じ曲がっている、もっと子供らしくしなさい、私とあなたは対等じゃないのよ?etcetcetcetc...... ガチャガチャみたいにランダムに繰り出される言葉。誰にも頼れなかった。伯母も伯父も母も。あんまりだと思う。伯父は祖母の荒れ狂う姿を知らなかったし、母は祖母に抵抗できなかった。伯母は、いとこ達の子育てに忙しかったし、そもそもこれ以上傷つきたくなかったのかも知れない。まともに顔をみて話すことももうないだろうから結局いつまでもわからない。訊く度に違うことを言うかもしれない。彼女もその時の考えだったり思いつきで違うことを言う人だ。何を言いたいのか自分でもわかっていない時もあるかもしれない。

 

 小さい頃、あまりにも祖母が怒ってばかりなので祖父が自殺してしまうのではないかと思っていた。あんなに言われっぱなしじゃおじいちゃんしんどいよ。かわいそうだよ。

おじいちゃんはおじいちゃんで、どこまでも感受性に乏しくて、いつまで経っても祖母が怒ってる理由がわからなかった。共感や理解を示そうともせずに謝らずに居直るものだから、祖母はその態度にも腹を立て、口論は延々と続くのだ。祖父が自分の部屋に行き、テレビを見るまでそれは続いた。盆と正月が楽しいだけで終わった記憶なんてない。いつでも祖母が喚いていた。

 正月も盆も、世間では「楽しいもの」という認識があって、その空気のせいで時々自分が社会の一部だと思うのが難しくなる。結婚するとか家族を作るとか、そういうのって自分には関係ないのだろうと思って生きてきた。これからも生きていく。諦めがどんどん妬みに変わっていく。自分の性格がどんどん悪くなっている気がしてとても怖い。

 

 伯父と伯母が祖父母といる時は楽しいけれど、彼らが帰った後にいつも祖母は爆発した。伯父がいるために言えなかった言葉を祖父にぶつけるのだ。

「さっきの言葉は何なの?」

「〇〇さん(伯父の名前)に対してその言い方は失礼よ?」

失言をしたり、他人に対する想像力がない祖父ももちろん悪いのだけど、そういった彼を祖母が少しでも大目に見て許すことができたらもっと楽しかったのだろうと思う。

 

 いつでも祖母は私と母が祖母側につくことをよく要求した。私はどっちの味方でもありたいのにどちらかを選ばないといけなくて、面倒だなあと思いながら話を聞いていた。大抵は母も私も祖母側についた。なぜなら祖父は、今までに付き合った人間の誰よりも、感受性と想像力が欠如していて、自分たちも何度も彼に傷つけられて来たからだ。祖母の怒りと祖父の困惑。その2つのうちどちらかを選ばないといけないとしたら、祖母の怒りはまだ理解できた。でも祖父の困惑はいつも不思議だった。

 

 伯父といる時に祖母は怒ったりしなくて、だからいとこ達も伯父も、私がそういう時にどういうことを思っていたのかは知らない。きっと死ぬまで彼らはわからない。

 祖母側につくことを求められた私は、その昔父にも同じことを言われたなあと思い、つまんないなあと思いながら散歩したり庭の木に登ったり、隣の部屋で勉強してたりした。

 

 時々、口論を聞いているのが辛くて、わざとインターホンを押して、知らない人が来たように装って祖母の注意を逸らせたりした。あるいはわざと子どもっぽく振る舞ったり。

 そういうことって別に自分だけがしたことじゃないと思うけど、母以外のは家族は、私がどういう気持ちでそんなことをしてたのか知らないだろうし、わかりっこないだろうなと思う。理解と共感は違うのは頭ではわかるけど心ではまだわかっていない、そこら辺をいつか自分がわかるようになれば楽だと思う。

 

 伯父は心が広い人だし、ある意味で鈍感とも言える人なので、伯父が祖父の言葉にムッとしていたのかはわからない。でも完璧主義の祖母ば怒り狂っていた。そこに残される母と私。私はいつもいとこ達を羨ましく思っている。小さい頃は妬ましくて、いつも3歳下の従弟を殴っていた。本当に申し訳ない。自分で感情をコントロールできなかったのだ。伯父と伯母が作り上げた家庭はいつも幸せそのものに見えていつも妬ましかった。

 それは自分がついぞ感じられることがなかった「家族団欒」であり、自分が大人の顔を見てばかりで楽しめなかった少年時代であり、逆に「家族っぽさ」を体験できる唯一の時間でもあった。小学校高学年くらいまで、いつか父親が迎えに来てくれないだろうかとぼんやり考えた。

 

 時々誰が一番祖父母に傷つけられたかをみんなで競う。いつでも伯母がチャンピオン。彼女が一番強く主張できる。「祖母譲り」の攻撃力があるから。誰もまともに立ち向かえない。段々と祖母に似てきたと思う。祖母と同じように、伯母は伯父の無理解を愚痴る。「あなたは過去ばかり見ている」と私に言いながら、自分も祖父母の過去について延々と語る。祖母と同じように周りの人の気持ちなんて考えない。自分の気持ちをわかって欲しいと思って延々話す。母だけがその話を聞いてあげている。母の気持ちを伯母がどう理解しているのかは知らない。

 

 他人の苦しみを100%理解することはできない。それ故に苦しみを比較することらできないと思う。「苦しい」と言う私に対して、彼女はいつも「私だって苦しい、でも前を向いて生きている」と言う。私の苦しみにはきっと関心がないのだ。あるいは心に余裕がないのだ。もしかしたら同じような解像度で物事を見ていないがゆえに感受性や想像力に乏しいのかも知れない。共感を示すことが彼女は怖いのかも知れない。少なくとも彼女は祖父母の「ヤバさ」を認識していた。なのに助けてくれなかった。いつまでも彼女は私を助けない。それどころか私をいつまで経っても傷つける。現実世界でも私の頭の中でも。「あなたがそう思うからそう見えるのよ」ってお母さんは言ったけれど、私が過呼吸になるまでに伯母が厳しい言葉を言わないといけなかった理由が私は死ぬまでわからないだろうし、尋ねようとも思わない。「母が頼りなく見えたから」みたいなことを伯母も祖母も言うけれど、そもそも彼女達は母の気持ちを聞いたのだろうか。

 

 伯母はいつだって家族について「許す」と「許さない」のフェーズに留まり続けていて、相手を叩きのめすまで捲し立てることをやめない。全てを屈服させるまで彼女は走り続ける。きっと友達は多くないだろう。一方の私はもう逃げることにした。この前真剣に考えたのだけど、伯母と「ちゃんと」した会話をした記憶は、10年近く遡らないと見つからなかった。2人とも似た苦しみを抱えているのにそれについて話しても分かり合えることがない。小さい頃からの刷り込みで、私の脳みそは彼女のことを敵だと認識しているみたいだ。いつだって彼女は私を傷つけてそれについて彼女は罪悪感を抱かない。傷つく方が弱いのだ。傷つく人が悪いのだ。だって彼女は傷つかずに生きてこれたから。みんなが同じわけじゃないのに。悲しみや辛い記憶は比較できないというのに。

 これからの人生、彼女と会うことも目を合わすことも、もう何回もあるわけじゃない。もう本心で話せないだろうなと思う。いつから自分はこんな嘘つきになったんだろう。最後に会った時、自分にがっかりした。次会う時もがっかりするだろう。

 

 家族について考えていると結局死にたくなる。死なないためには逃げることだ。いつか繋がりが無くなれば逃げ切れば、いつか解放されるかも知れない。死ぬことの方が楽になればその時はしょうがない。死ねばみんな悪かったと思ってくれるのだろうか。死ねば、みんな覚えていてくれるだろうか。死んでも、誰かは時々自分のことを思い出してくれるだろうか。

 

 伯母と祖父は、祖母が死んだ時、誰が祖母の死を一番悲しんでるか、誰が一番祖母を愛していたかを争っていた。私に対してそれぞれがそれぞれの愚痴を言い、sのように家族の間に挟まれて考え込む羽目になるのは子供のことからと同じだと思った。ある意味で彼らはとても幸せなのだと思う。私が死んでも彼らにはそんなことはさせない。死んでも。

 

 

 

Aufsatz013

„Erinnerung und Speicher“

13.08.2018 soll ein Samstag gewesen sein. Ein gespeichertes Foto auf Googlephoto erzählt mir des. Ich habe fast alles von diesem Datum verpassen.

Sobald ich jedoch das Foto anschaue, sind viele Erinnerungen bald wiedergebet. Aber natürlich kann ich nicht mich an alles erinnern.

Solche Dinge passieren ständig überall in dieser Zeit.

Wir Speichern sowohl Fotos als auch Erinnerungen in unseren Handys, aber wir schauen nicht of darauf. Die Fotos, auf die niemand schaut, sind tot, wie Wim Wenders bei seinem Interview gesagt hat. Ich stimme ihm zu.

An diesem Tag war ich in Taiwan, eine Stadt die in Süden Taiwans liegt, und ich habe dort an einem sommerkurs teilgenommen. Jeden Tag habe ich etwas Neues entdeckt. Durch den Kurs habe ich viele kammeraden kennengelernt, die aus 9 Ländern in Asien kamen. Süße Erinnerungen kommen und gehen, während ich diesen Text schreibe.

Mit em Paar von ihnen in ich noch im Kontakt. Eine kam mit ihrem Freund noch Japan, als ich in halone gearbeitet habe. Das war ein kalter Tag in Dezember 2022.

Durch soziale Medien können wir uns einfacher unterhalten als früher, jedoch können mit nicht in die Vergangenheit zurückgehen und nicht an alles erinnern. Ich sollte mich daran erinner, dass mich alles in der Vergangenheit zu dem macht, der ich heute bin.

 

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#224 フェンネルのスープ

 フェンネルのスープだっけ。それともフェンネルとプロッコリーのスープだっけ。あれどっちだろう。そう思ってMさんに連絡する。なぜか今回はすぐに返事が来る。きっと、簡単に返事できる内容だったんだ。正しくは「フェンネルブロッコリーのスープ」
 去年の夏から秋にかけて、たった4ヶ月間だったけれどホテルで働いていた。朝食で出していたのがその「フェンネルとプロッコリーのスープ」だった。

日本語を話せないお客さんのために英語でメニューを作っていた

 昨日、八百屋で初めてフェンネルを見た。フェンネルはドイツ語では「der Fenchel」らしい。和名はウイキョウと言って、漢字では「茴香」と書く。フェンネルを使うことで、悪くなった肉の香りが良くなるかららしい。「回復」とか「回想」のように、「回」という漢字には「戻る」という意味がある。中国語でもそうだったはず。ちなみに「ヒメウイキョウ」というのもあってドイツ語では「der Kümmel」という。英語ではcaraway。『華麗なるギャッツビー』の語り手と同じ名前だと思って調べたけど、小説の方はNick Carrawayで「r」が2つあるようだった。

箱根登山電車宮ノ下駅
フェンネルって何ですか?」って朝食の時に訊いてきた女の人がいたなと思う。咄嗟のことだったので「アスパラガスに似たようなものです」なんて適当に言って誤魔化したのだけど、その後で嘘はダメだなって反省した。インターネットで調べるとフェンネルはなかなか面白い野菜だった。フェンネルの歴史は古く、フェニキア人によってヨーロッパに持ち込まれたらしい。整腸作用や、呼吸器官を整える作用があるらしく、体に良い食べ物のようだ。インド料理屋で会計を済ました後、時々口直しとしてカラフルな種を勧められることがあるけれど、あれもフェンネルの種らしい。

箱根湯本駅。ここでみんな乗り換える
 女の人は夫婦でホテルに来ていた。チェックインの時に担当したTさんから聞いた情報がよくなかったので、少し緊張しながら夕食の配膳をした。夕食中に彼らは自分の娘に電話していた。娘は結婚式を控えているらしく、リーガロイヤルホテルとニューオータニと、あといくつかの高級ホテルの名前が電話の中で出てきて、何だかイライラしたのを覚えている。高い食事、高いホテル、ステータスとしての時間。自分の人生には全く関係がないと感じ、金持ちの会話はつまらないと思っていた。今もそうだけど家族ができるとか結婚とかってもう自分には全く関係のないことだなと思っていて、だからなんか複雑な感覚でその電話を聞いていた。電話に配慮した風を装って食事の紹介を短く切り上げて部屋を出た。
「あいつがもう結婚かあ」なんて父親がため息をついて、私は乾いた笑い声をあげそうになった。私が結婚してもそんな風に言ってくれる父親がいないと言うこと。それからそんな風に言う人が自分の家族にはいないこと。そういった文化が私の家族にはなくて、テレビドラマでしか知らないありふれたセリフすぎたこと。そうした全部がいっぺんに押し寄せてきて、だから笑えてくる。もちろん我慢するし、別にバックヤードで笑ったりもしない。後で少し悲しくなっただけだ。

箱根は坂が多い。宮ノ下駅も坂の途中にある
 Mさんは、今度結婚するって言っていた。お腹に赤ちゃんもいるらしい。びっくりした。自分だけが同じところをぐるぐるしている気がする。別にそれは自分の良さでもあるのだけれど、でも時々悲しくなる。私はいまだにどこにも行けずどこにも行かず、ただただ親が稼いだお金を使い続けている。ただただ積み重ねたこの文章があるだけで、でもこの文章がお金になるとは思えない。
 それぞれに夢があって、それぞれにできることとできないことがある。私はそろそろ自分の限界を感じ始めていて、自分がずっと抱えて来た精神の問題がいよいよ重荷になってきたと考えている。これから大きなチャレンジをする気にはなれなくて、せっかく私はこの場所まで来れたけれど、もう色々諦めた方がいいのかもしれないと思っている。夢も希望も大きなことは考えない方がいいのかも知れない。大きな夢を見て、それと離れた現実に失望するなら、諦めた方がいい。できることを一つひとつ積み重ねていって、その先に夢があると思わないと。夢は夢のままでいいのだから、夢の前に目標を持って、現実的なステップをクリアしていかないと。そうじゃないといつまで経っても自信は身につかない。何かを積み上げて、自分もできていく。関係性も学業も生活も。

「料理長って、絵心があるというか、芸術家肌の人なんです」初日の面談でそう言った支配人の言葉がかっこよかった。問題を抱えていても、互いに対するリスペクトを感じたからだ。
「シゲさんって、みんなが通り過ぎた場所にいて、そこで書いてますよね」後輩の言葉。正しくて何も言えなかった。
 私は祖母の言葉に苦しみ続けていて、父親が私に何も言わずに会ってくれもせずに死んだことをいまだに許せなくて、高校の時に言われた言葉をいまだに思い出して悲しくなる。
「子どもらしく明るく振る舞いなさい」って祖母は言ったけれど、私が子どもでいられた時間はどれくらいあったのだろう。父親に会えなくなった悲しさも、母親に捨てられるという恐怖も、祖父の冷たさも、人生に対する無力感ゆえに激しく燃え上がる祖母の負の感情も、どうして自分が経験しないといけなかったのだろう。どうして誰も助けてくれなかったのだろう。

宮ノ下は用事がなければ通過するような駅だ。駅前の足湯のあるカフェでよく本を読んだ。
 それもきっと諦めた方がいいのだと思う。その人たちに理解してほしいと思うけれど、もう無理だ。祖母と父親はもう会えないし、言っても意味がなかったかもしれない。私はみんなに対してもう何も言わないし、謝ってほしいとももう思わない。ただ色々諦めようと思う。もう無理はしない。あの頃のような大それたことは自分にはもう望まない。あの頃に考えていた生きる意味なんてのは間違いだった。きっと生きる意味なんてのは初めからなくて、作り上げていくものだった。
 適当に生きていいのかどうかは自分次第だ。自分で決められるうちはできるだけ自分で決めれるようにしたい。まだ自分で決められるというのは、きっと幸せなことなのだから。

小田原駅。登山鉄道の終着駅。下界に降りたことを感じていたあの頃。
 
【Aufsatz012】
„Weil liebe ich schreiben②"
Worüber schrieb ich?
Ich schrieb darüber, was in meinem Leben passiert ist, wie sie mich angesprochen haben, wie ich mich gefühlt habe, woran ich dachte.
Auf dem Papier konnte ich ausdrücken, dass ich nicht sprechen konnte. Wenn ich etwas mich äußern möchte, versuche ich es jener meinen Gefühlen entsprechend zu tun. Das ist sehr schwierig und brauchst viel Zeit. Niemand wertet auf mich in der Schule, auf der Straße oder in der Party. Das ist leider eine Wahrheit im Leben.
Nach en paar habe ich Jahren meinen Blog angefangen. Das war im Januar 2017 und ich hatte bereits zehn Notizbücher mit strömenden Wörtern. Jede Seite war von Wörter bedeckt. Und ich fühlte mich nicht gut alles auf Papier schreiben.
Dann fand ich den Blog besser als das Notizbuch und informiere mich Mare Freunde über den Blog.
Sie waren  darüber überrascht, dass ich einen Blog geschrieben hatte und haben mir gesagt dass, ich Schriftsteller werden sollte.
In der Zukunft Schreibe ich ein Buch über mich. Nach dem Buch möchte ich in Hamburg die Ausbildung zum Krankenpfleger machen und dort viel Neues erfahren.
 
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#223 引きこもり。

 久しぶりに引きこもっていた。この2日間の自分は本当によくないなあと思って、でもアウトプットの時間も取らないといけないのだろうと思ってこの文章を書く。長くなりそうだと思う。
 せっかくこの世に生を受けたのに。せっかくドイツに来て、毎日新しいことをしたいのに。いや「〇〇しないといけない」「ちゃんとしないといけない」そう思うからこそ苦しくなって自分を縛り付けてしまうのかも。それ自体がよくない。でも引きこもると、縛られたまま死んだであろう父親のことを思ってしまう。縛りつけたであろう父親の姉のことも。

この前ゴーダチーズを初めて買った。間違って周りのゴムまでも食べてお腹を壊した
 先週、久しぶりに父親のことを話した。たまたま毎週月曜の夕食に招待してくれる人がいる。家族のことをそこで初めて話した。父親のことは私にとってはターニングポイントだった。日本にずっと留まれば、父親のようになってしまうんじゃないかと思っていた。何をチャレンジすればいいのか決め切られず、死ぬまで好きなことにチャレンジできないんじゃないか。そのまま腐っていく自分は容易に想像できた。とりあえず日本を出た方がいいと思った。
 
 詳細なことは永遠にわからないのだけれど、要するに父親は引きこもりだった。私にとっての彼は、生物学的な父親でしかなくて、残念ながら「父親」と言う気にはなれない。ドイツで家族について聞かれても「Ich habe keinen Vater.」と言うことにしている。だって彼、父親と言えることは何ひとつしてないもん。「父親」と「母親」を同列に語って釣り合わせる訳にはいかない。

 家族についてのこういう話って、中学高校の同級生はどれくらい理解できるんだろ。中学受験をしてキツかったのは「両親が揃った家庭」を持った子が多数だったことだ。それまでに過ごした尼崎でも西宮でも、母子家庭や父子家庭の子がクラスに結構いた。なのに「お受験」をしたあとの学校の雰囲気は別物だった。不平等に憤りを覚えることが多くて、その怒りを原動力にして勉強していた。中学時代の私は、常に怒っていた。映画に出会う14歳の冬までの自分を思い返すとよくなかったと思う。学校も部活も何もかもが嫌いだった。どうして毎日通えたのか不思議なくらいだ。高校以降しか知らない人は信じられないと思うが、中学3年間皆勤だった。一度病院に行くために早退して、だから卒業時に表彰状はもらえなかったけど、無遅刻無欠席なのだ。きっと相当な無理をしていたのだろうと今なら思う。毎日張り詰めていた。心の底に怒りがあった。

 余談になるけれど、私が通った学校では、その昔日本中の誰もが知っている事件が起こった。そのことも書かないとフェアではない。あの事件の前では「父親がいない」なんていう私の悩みはとるに足らないようなことにも思えるからだ。そういうのって、大人になってから知り、理解できるようになり、言葉にできる。でもあの頃の私たちには言葉がなくて、そういう話をすることはなかった。というか、きっとできなかった。これからも、同級生のほとんどとはもう会わないだろうから、永遠にその話もできない。聞きたいことは結構あるのだけれど、ゼロの関係性から簡単に始められる話ではないし。Nとだけは少し前にそのことを話した。

ある月曜日の夜
 人生で幾度となく私は引きこもっている。その度に私はある漫画に詳しくなり、ある芸人の漫才に笑い、新しい音楽と出会う。14歳の夏、私は部活にも行かずにダラダラしていたのだけど、あの頃は何していたのだろう。毎日鏡に向かって自分を呪っていたのは覚えている。それがルーティーンになって、それ以降の私は希死念慮を高めていく。それは良くなかったとは思うのだけれど、自分の環境を振り返ると必然であったようにも思う。手塚治虫の『火の鳥』をずっと読んでいたような気もする。最近ドイツ語で『火の鳥』についてプレゼンした。みんな興味を持ってくれて楽しい授業になった。

火の鳥』と少し似てて、キリスト教における「キリストの血」にも重要な役割があるんだよって大家さんに教えてもらった。
 部活の顧問は二人いた。一人は熱血教師を絵に描いたような人で、目立つ子には怒ったり注意したりするけれど、私には何も言って来なかった。私が夏休みの部活にほぼ行ってないことや、遅刻していることに先生は気づいていたのだろうか。あの頃に戻って聞いてみたい。本当に気づいていなかったのか。言えば、取り返しがつかないほど傷つくと思われていたのか。
 もう一人の顧問はH先生と言った。中学生の最初の2年間、私の担任だった。私が入学する以前はサッカー部の練習にも毎週来て、激しく声をかけるような人だったらしい。私の入学時、H先生は教職の傍らで大学院でも勉強していたらしく、顧問というのは名簿上だけで全く部活には来なかった。
 名ばかり顧問のH先生だが、三者面談ではいつも部活について尋ねてくれた。それが自分にとってはとても嬉しかった。もう一人の顧問には無視されているように感じていたので。
 H先生はその頃喉にポリープがあったとかなんとかで、いつも小声で話していた。お調子者の同級生Yが、1階の教室から中庭に出るために、ドアではなく窓枠を跨いで出ようとした時に一度、先生の大声を聞いた。普段小声な分、元ラガーマンの精悍な顔つきをしている分、凄みがあった。

友達と待ち合わせ
 不思議な力を持った人だった。その人の目を見て嘘はつけないだろうなと何となく思っていたし、常に生徒を観察しているように思った。「シゲは観察すると面白い」と他の生徒に言っていたのをこっそり聴いてしまったこともあるけれど、それは全然嫌な風ではなかった。
 同級生のIは「見透かされてる感がイヤ」と言い、反抗期真っ最中だったMはホームルームでニヤニヤしながら先生の顔を見ていた。フェイスブックを見るに、H先生は今関西のどこかの大学で教えているはずだ。きっと大学での仕事を楽しんでいるのだろうと思う。
 ちなみにお調子者のYと以前話したところ、彼も大学で教職につく可能性があるらしい。人生って面白い。そんなYも母子家庭で、大学生になってからお互いの家庭の話をした。

 土曜日、毎週通っている読書クラブで「自閉症なの?」って冗談で聞かれた。難しい質問だった。大学最後の年、いつものように鬱のサイクルに陥った私は、どうしても発達障害かどうかを確かめたくなった。3時間にわたる心理テストを受けて、カウンセラーと精神科の先生の見解を聞き、結果として私は発達障害とは言えないようだった。(簡単にいうと、項目ごとの点数・IQに有意なバラツキが見られると「病気」と認定されるらしいが、私のIQはどの項目も116〜121の間にあった)

この前高速道路に乗せてもらった。速すぎてびっくりした
 心理テストの結果には色々驚きがあった。まず自分のIQ。日本語能力に関わるとされるIQ(なんていう名前かは忘れた)が120あった。私はどうも物事に共通点を見出すのが得意らしく、自閉傾向も高いということもわかった。私の自閉傾向は平均を大幅に超えていて「治療が望ましい」とされる点数まであともう少しのところまで迫っていた。「この点数は結構しんどいよね。ある程度客観視できているところもあるから大丈夫だと思うけれど、この特性は覚えておいた方がいいと思いますね」

骸骨とピクニックしてる人
 私の高校には「校舎主任」という不思議な肩書きの人がいた。小学校、中学校、高校が揃ったそのキャンパスの中で一番偉い人とされる人だった。不思議な人で、自作の俳句を朝礼で読むような人だった。俳句も素人目に見ても、普通の出来ばかりで「一体どうして、月曜日の朝から、よく知らない肩書きのこの人の下手な俳句を聴かないといけないのだろう?」とみんなが思っていたはずだ。
 
「私はこの前、自閉傾向を測るテストを受けました。その結果、私の自閉傾向は一般平均よりもとても高いということがわかりました」
どういう文脈だったのかは覚えていない。ただ急にN校舎主任がそんなことを言い出したので私はどんな顔をしたらいいのか困った。続いて、体育館に薄く広がった笑い声に憤りを覚えた。何人かの笑った顔を私は未だに覚えていて、見てしまった笑顔のせいで何人かをそのまま嫌いになった。それを笑えてしまう人ってものすごく残酷だと思う。忍び笑いを聞いた時の心の冷たくなる感覚はまだ忘れられない。笑った人はすっかり過去のことなのだろうけど。

いつかの牡蠣
 そういう許せない記憶というのが私の中にはたくさんある。高校1年生のクラスは未だに大嫌いだし、学校に行けないきっかけになった周りの席の女の子達とはフラットな感情で話せなくなった。
ちびまる子ちゃんの作者ってさ、バツイチなんだよ」
「シゲくんはいいよね、色んなところにいけるからさ」
このセリフを私に言った人は同じ人だ。その人は、そんな言葉で私が傷つくとは思わなかっただろう。そんなので傷つくのが悪いとさえ言うかもしれない。でも未だに忘れられない。
自分の家庭がその学校で数少ない母子家庭であることをとても気にしていた。「バツイチ」というその人の唇の向こう側ある侮蔑的な響き、私は見逃せなかった。
 同窓会でもそう。どこのコミュニティにもどのカーストにもずっと話せる人がいなくて、色んな人少しだけ話して、水族館のイワシよろしくグルグルと会場を回遊するしかない自分に悲しみを感じていた。確かに私は誰とでも仲良くできるけれど、表面以上の関係を長く続けるのは苦手だ。
「そんなん関係ないやん。高校卒業して5年経てば、昔のグループとか関係なくない?」
みんなと均等に仲良くなりたくて、みんなのことを知りたい。でもその裏には、同時に、どこにも属せないという諦めもあるのだ。そういうのを一人で考えているから、その言葉に悲しくなってしまった。ああ、どうせこの人はわかってくれないんだ。私は「みんな」と仲良くなりたくて、でもそれは自分の寄る辺のなさの裏返し。同窓会は私がそうした感情を説明するには時間が足りなかったし、自分の闇を持ち込むには明る過ぎた。

 そう。勝手に傷ついて、損ばかり。こういうのは綺麗さっぱり忘れてしまうのが多分ラクなのだ。忘れて、許して、仲良くすのが大人なのだ。なのにまだ覚えている。1年に1回くらいDMをやり取りして、やり取りしながら、イヤな記憶だけを反芻して、DMのやりとりを「いいね」マークで終わらせる。いつになれば海のような心を持てるのだ。いつになったら「こだわり」から解放されるのだろう。
 
 でも、もう戻れない。何年も前に決めたのだ。父親の顔を思い出せなくなった時、保育所の卒園の時、転校する時、地元の子とは違う中学に通うことになった時、その都度その都度、できる限り「全部」覚えることに決めたのだ。過去を何度も何度も反芻しながら、私は後ずさりで未来へと進む。もうそれでいいと思う。そのスタンスでこのまま来てしまったのだから。それすらも愛せるようになればそれでいい。

取り壊される旧キャンパス。
「血を分けた家族と言いますが、父親から受け継いだのは種だけですよね。厳密に言えば血を分けているのは母親からだけなのに、どうして日本語では血を分けた家族、なんて言うんですかね」
大学2年生のオセアニア文化の授業。担当するのは紙村教授。太平洋の人類学を研究している人だった。父親と母親、祖母。そう言ったことで悩んでいた2017年の私はその言葉に何となく救われる思いがした。
トオルちゃん」と学生の間で呼ばれていた先生の授業は面白かった。授業では週ごとに違うトピックが扱われた。フィリピンの呪術、ニューギニアカニバリズム、戦時中の日本軍の食人、伊豆諸島と太平洋の島々との文化的関わり。一次資料が印刷されただけのプリントとともに先生が好き勝手に話すのだけれど、ある時はとても面白く、ある時はつまらなかった。大学で受けた授業の中でなぜか忘れられない授業の一つだ。
 友達に、黒魔術から逃げるために母国を去り、ドイツで勉強することに決めた人がいる。彼からその話を聞いた時は紙村先生の話を思い出した。フィリピンの呪いを送り合う文化、慣習。日本だって昔はそうだった。『源氏物語』には怨霊の話が出てくるし、地元尼崎にも討幕の志半ばで切腹した長州藩士の墓がパワースポットになっている。神社のおみくじも言ってしまえば魔術のようなものだ。黒魔術の話を聞いた時は「あり得ないなあー」って思ったけど、6年前の授業のことを思い出して、別に不思議でもないかって思った。
 今年の春に沖縄の博物館で『椿説弓張月』の資料を見た時も、「トオルちゃん」の授業を思い出した。為朝の伝説はなぜか伊豆大島同様、琉球にも伝わっているのだ。不思議だ。どうしてなんだろう。
 単位は落とし続けた大学生活だけれど、真面目に受けた授業は結構覚えている。
 貴志先生のアメリカ文学の授業、産業革命が文学をどのように変えたのかという、中村教授の授業。「真面目であるということもある種考えものです。私の知る限り一番真面目だった友達は、結局殺人を犯してしまったんですよね」とボソリと言った月曜1限のオペラ史の先生。夏期講座で他大学から来たウクライナ語の先生は「言語の絶滅」について話していた。ドイツに来て、一時的にせよ日本語の語彙が自分の中から消えていく現在、そのテーマをよく考える。それから1年生時に受けた「障害と心理」の授業。あの授業は私の人生を形成する一要素になった。あの後で私は障害を持った人が利用するショートステイで働き始めた。そして今、ドイツで新しく専門学校に通おうとしている。病院で働きたいと思っている。

「銀杏薬局」と名付けられた薬局。イチョウもドイツでは結構植えられているらしい
 引きこもる時、必ず血について思う。そして紙村徹教授の言葉を思い出す。何の意味もない言葉だけど、なぜか勇気が出る。時々私たちは血について、遺伝子について考えすぎる。母方の家族に私のように引きこもり癖のある人はいない。母や叔母、祖父母との理解し合えなさについて、考えれば考えるほど、不在の彼について、DNAというアルファベット3文字について考えてしまう。いないが故に意識される血。

 自閉傾向だけに限ると、完全に彼から受け継いでいる。
「親譲りの自閉傾向で子供の頃から損ばかりしている。ある時分、学校の研修旅行でむしゃくしゃして浴槽の淵から湯に飛び込んで1週間ほどたんこぶを拵えたことがある」
これは中学2年生の京都旅行の話。クラスで泊まることになった部屋が全然楽しくなくて、自分を傷つけたくなったのだ。どういう経緯だったかH先生の知るところとなって、私は正直に全てを話した。目撃者としてカチオも先生のところに呼ばれて、証言をしていた。カチオとはたまに話す。彼はこの事件を覚えているかな。どうだろう。

これは2年半前に行った天橋立。黄砂で曇っていた
 京都旅行というのは名ばかりで、私たちはなぜか京都市内ではなく、丹後地方に連れられていた。ホテルの部屋からは天橋立が見えた。寝れない私はモヤモヤした気持ちで早朝の霧向こうでぼやける天橋立を見ていた。
 私の最初の記憶は天橋立から帰るタンゴエクスプローラーの車内だ。家族の誰とも話さずに離れたところに立って外を見ている父の背中。私はどうして彼がみんなと一緒にいないのだろうと思っている。母と父の仲がよくないことを私はもう知っていて、祖父母と離れたところにいるのはなぜなのだろうと思っている。
大江山いくのの道も遠ければまだふみもみず天の橋立」
もちろん彼から手紙なんて来たことはない。

友達の住む港町
 今週しんどくなった理由はいくつか思い当たるけれど、父親のことを少し考えてしまったことはやはり一つの理由だ。ハンブルクに来て、なぜか父のことをよく思う。当然のことでもある。父ができなかったことをしようと思うから。父が見れなかったものを見て、楽しめなかったものを楽しもうと思うから。
 最近よく、頭の中に住んでいる父と対話する。その対話を元に、ドイツ語で物語を書き溜めている。物語の中では、父は違う生き物になるし、私も違う名前になる。自分がドイツで自問自答することを対話形式で書けたらいいなあと思う。どうなるかわからないけれど。ドイツには、創作を学べる場所が日本よりも多い。語学力を身につけたらそこに通おうと思う。

「今はね、まだ悩める若者って感じでいいですし、そのポーズ自体が魅力にもなりますけど、それでいつまでいられるのかって話ですよ。いつか決めないといけません」
 
 中学2年生の三者面談でH先生が私に言った言葉。諦めることができるまで、長くかかってしまった。
「自分の道を決める」ということは「それ以外の選択肢を捨てる」ということでもあって、それがずっと怖かった。今でもまだ怖い。決めざるを得なかったこと、自分で決めたこと、周りに決められたこと、全て自分の人生だ。変えようがない。ただ、物語を未来にどう生かすかというのは、これから決められる。
 もう私は自分から死んだりしないだろうし、彼みたいに引きこもった末に死ぬなんてこともないだろう。自信を持ってそう言えることは自分にとっては随分な進歩だ。道は合っている。
 しかし、どうしてH先生はあんな風な予言めいたことが言えたのだろう。H先生はあの時何歳だったのだろう。
 
 
 
 
 
 
【Aufsatz11】 
„Weil liebe ich schreiben①"
In meiner Kindheit gab es wenige Menschen zu Hause. Meine Eltern haben sich geschieden, als ich 3 Jahre alt war. Ich lebte mit meiner Großmeister und meiner Mutter zusammen. Meine Welt war klein. Meine Familie hat mich immer lernen gelassen.
Mit 12 Jahren alt habe ich eine Prüfung bestanden und ich habe mich an der Junior High Schule angemeldet, die in einer anderen Stadt liegt. In meiner Stadt war ich nicht glücklich, weil die Schüler in meinem Bezirk rauchten und gegeneinander kämpften.
Ich dachte, dass ich in der neuen  Schule "kluge" Freunde kennenlernen würde. Aber Kinder bleiben Kinder und ich wurde enttäuscht. Leider war ich auch ein Kind. Natürlich!
Dann las ich jeden Tag im Bücherzimmer in der Schule und sprach nicht oft mit meinen Kommilitonen.
Als ich 16 Jahre alt war, wurde mir klar, dass meine Welt noch klein war. Ich war gut im Lernen, aber mein Horizont war kleiner als  meine Freunde
Sie sahen glücklich aus, obwohl ihre Prüfungen schlecht waren.
Das war eine ganz neue  Idee und ich habe mich darüber gewundert. Meine Familie und ich ärgerten uns über meine Ergebnisse, obwohl ich einer der besten Schüler war.
Das war ein heißer Tag im Sommer und die Zikaden draußen waren sehr laut. Dann hörte ich auf zu lernen und fing an zu schreiben. Als ich schrieb, fand ich, was ich dachte und was ich ausdrücken wollte.
 
 
 
 
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#222 雲ばっかり。雨も

 時々、ジブリの『おもひでぽろぽろ』が観たくなる。高畑勲の映画。山形が舞台だったと思う。東京でOLをしていた主人公が山形に帰る一夏。主人公の子供時代と現在が行ったり来たりするストーリーが好きだった。時々、現在パートに子供時代の主人公がチラリと登場したりして、そのシーンを発見するためだけに映画を見たりしていた。そういうメタ的な部分を発見すると作り手の遊び心が見えて楽しい。手塚漫画でベレー帽と眼鏡の作者自身が登場するのも好きだ。
 
 子供時代の主人公が、クラス対抗の野球を観た後の帰り道、試合で活躍した男の子に好きな天気を訊かれるシーンがある。男の子の名前は広田くん。ストーリーの上でほとんど意味を持たないシーンなのだけど、そのシーンが私は大好きだ。好きな天気が、くもりで一致することを知って、うっとりするシーン。

 一つひとつのエピソードが粒立っていて、小さな物語が集められていつの間にか大きくなる話が好き。天才兄弟が主人公のウェス・アンダーソンの映画『ロイヤル・テネンバウムズ』も好きだし、海沿いの小さな街に住む一人の男とその周囲の人々を舞台にした『マンチェスター・バイ・ザ・シー』も好き。20年前に対ヒットした映画『アメリ』が好きなのもそういうところがあるからだと思う。
 映画よりもたくさんの小説を読んできたけれど、好きな小説のいくつかも、小話が集まって大きな物語になるという構造で書かれてある。三浦しをんのいくつかの小説。アメリカ文学で一番好きな『ワインズバーグ、オハイオ』、子供の頃に何度も読んだ『ハリーポッター』シリーズ。全部挙げていきたいけれどキリがない。時間もない。

トマトを鉢に植えた
 昨日の朝はとっても暑くて、最高気温は25度以上あったと思う。私はようやく部屋の掃除をした。マットレスもあげて、ベッドの上にも掃除機をかけた。最近ずっと鼻炎の症状が出ているけれどこれで少しはよくなるといいな。鼻炎の症状があるのは副流煙のせいだと思う。毎日寝る前に鼻うがいをしている。家の人は台所のリノベーションを今日もしていた。少しだけ庭仕事を手伝ったりして、先月植物市場で買って、窓際で目一杯まで伸びていたトマトをようやく植木鉢に移した。自分のドイツ語と一緒にこのトマトがどれだけ伸びていくのか楽しみだ。たくさん実をつけて欲しいな。

Landungsbrücken 駅
 チョコレートを買うためにスーパーマーケットに寄ったら時間ギリギリになって学校に着いた。
先週から新しいクラスが始まっている。新しいレベル、新しい先生。先週から担当してくれる先生は、プリントの練習問題を配って授業内で解かしてくれる。前のクラスではそういった時間はなかったから新鮮だ。
新しい先生は妻が中国人らしい。結婚の時から身につけているというブレスレットには桃(すもも?)の種が使われていた。インドから来ているDr.Pとアヌがその話をしていて、装飾品にも文化が出ていて面白いと思う。アヌもお守りとして果物の種のネックレスをしている。この種はシヴァ神の涙なのだと教えてくれた。古代の日本人も埋葬の際に桃やすももの種を一緒にお墓に入れたというから、なんとなく通じるところがあるなあと思って話を聞いていた。

これはキールの砂浜で見つけた黒曜石
 日中はあんなに暑かったというのに、授業中から雨が降り始めた。学校から帰る頃には雨が土砂降りだった。借りている本が濡れないように、地下鉄の駅まで走る。油断して傘を持ってこなかったことを少しだけ後悔し、でも久しぶりに走って風を感じられたことに嬉しくなる。アヌが笑っている。彼と一緒に今日も帰る。彼の姿勢にいつも勇気をもらっている。ありがとう。

 新しい人と新しいカフェで待ち合わせ。1時間しかなかったけれど話していて楽しかった。で今はその人が帰った後に色々考えてこの文章を書いている。日本に留学経験があるというその人は今もハンブルクの大学にいて学内の新聞を書いているらしい。私がジャーナリストになりたくてロシア語を勉強していたことを言うと、少し嬉しそうな顔をしていた。政治とか社会の話をした。最近即位した英国王のこと、日本の天皇制のこと。大学近くのそのカフェは大学生に見える人が結構いて、私が文章を書いている向かい側のテーブルにはラップトップでレポートを書いている風の人がいた。ちなみに英国はドイツ語で「Großbritannien」というらしい。チャールズ3世は「Charles Ⅲ.」と書いて「Charles der Dritte 」と読むらしい。最近、リューベクに行った。リューベクが予想以上によかったので帰ってから街の歴史を調べていた。火災で荒廃したリューベクの街を再建したのはザクセン公ハインリヒ3世らしい。彼は勇敢だったのかあだ名をハインリヒ獅子王と言うらしいのだけど、それは「Heinrich der Löwe」と書くらしい。

Barmbek駅
 昨日が暑かったから今日は薄着で来たのだけど、カフェを出ると夕方の風は冷たかった。昨日の雨のせいでみんな体調が悪かったのかも知れない。何人か休んでいて、今日は教室にいる人の数が少なかった。ハンブルク、降水量はそれほど多くないらしいのだけど、雨が降る日は多いみたい。雨の日になると「der Wolkenkratzer」という単語について考える。摩天楼を意味するドイツ語だ。あるいは高層ビル。英語なら「skyscraper」で、「空を引っ掻くもの」といった意味だけど、一方のドイツ語は「雲を引っ掻くもの」になる。ちょっと調べたらskyscraperという言葉は19世紀後半のアメリカで生まれたみたいだ。アメリカの高層ビルは空を引っ掻くのに、ドイツでは雲を引っ掻く。それだけドイツは雲が多いのかも、とか思う。

 今朝は霧が少し出ていた。霧を見るとロンドンを思い出す。『ガス燈』とか『シャーロック・ホームズ』のシリーズとか。私の好きなサッカーチームはロンドンを本拠地に置くチームなのだけど、冬場の試合は空がどんよりして憂鬱になりそうだと時々思う。数年前南米からロンドンにやってきた選手が曇りがちの天気に順応できなくてイタリアリーグに移籍して行った。いい選手だったのに。
 箱根のことも思い出す。箱根で働き出したのは6月で、住んでいる部屋がカビだらけで困った。休みの日に外に出ても霧が出ていたり、宮ノ下から強羅まで歩いて戻ろうとしたら雨が降り出したり、そんな毎日だった。いつかまた帰る日が来るだろうか。その時の私は誰と行くのだろう。何を思うのだろう。時間ってどうして進んでいくんだろう。私はまだここに留まってゆっくり考えていたいんだけどな。今日のことも昨日のことも先週のことも、もっとじっくり向き合って書けることは書き残したいのに、気がついたらもう夏になっている。怖い。

 新しく行った場所の新しいカフェだったから、必然的に新しい路線に乗って帰る。初めて乗る駅。初めて降りる駅。予定があることをありがたいと思う。新しい人と新しい場所。それだけじゃダメで、同じことを継続していくことも大事なのだと知っているけれど、でも私は飽きもせずに新しいものを求めて前に進んでいく。資本主義とか消費社会が嫌だと思っているけれど、新しいものへの欲求が消えない自分の生き方は大量消費の時代に迎合した生き方なのかも知れないと思う。私は新しい人と新しい経験を消費し続けている。

Zitronnenmelisse
 家に帰るとキッチンが無くなっていた。DIYを今週はずっとやっていて、そのせいもあって鼻炎がひどいのかもしれない。コーヒーを作るのもこの数日間はできないし、料理のストックももうすぐ切れる。チョコレートばかり食べている1週間。パンとチョコレートは日本より安くてだからついつい買ってしまう。ジャガイモを茹でて今日もまた一日。

Jungfernstieg駅
 
 
【Aufsatz10】
„Das Picknick im Stadtpark“
Gestern habe ich das Picknick organiert. Michael, Dimmas, Dr.P, Anu, Ay, und ich sind im Stadtpark zusammengekommen. Michael und Dimmas kommen aus der Ukraine. Anu und Dr.P sind Inder. Ay kommt aus der Türkei. Und ich bin Japaner. Dr.P und Ay wohnen in einem Haus in Billstedt. Morgens haben sie zusammen Döner gekocht und mitgebracht. Ein Döner war vegetarisch, weil Dr.P Vegetarier ist. Aufgrund seiner Religion kann er kein Fleisch essen und keinen Alkohol trinken. Ich habe Guacamole mitgenommen. Für sie war das seltsam, weil Guacamole mexikanisches Gericht ist und ich kein japanisches Essen mitgenommen habe. In Hamburg koche ich kein japanisches Essen.
Am Dienstag habe ich mit einer japanischen Freundin in einen Asien-Laden gegangen. Dort habe ich „“Ssamjang„ gekauft.
Das ist eine dicke und würzige Paste und wichtig für die koreanische Küche.
Mit Ssamjang hebe ich eine koreanische Küche gekocht und mitgebracht. Das war sehr lecker.
An diesem Donnertag ist nichts Besonders passiert. Aber wir haben im Park entspannt. Das war ein guter Tag.
 
【今日の音楽】
 
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