シゲブログ ~避役的放浪記~

日々の些細な出来事、昔の思い出を書いていきます

#30 ちょっとラクになる音楽たち

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 今日は「しんどい時に私が救われた音楽」について書こうと思う。

 ちょうど今日916日までの1週間が「自殺予防週間」だったらしいし、10日はWHOが制定した「世界自殺予防デー」だったみたいだ。

 この国では91日に自殺する人が多いらしいというニュースを初めて見たのは多分18歳の時で、衝撃的だった。しかし考えてみると思い当たることはたくさんあって、私が初めてしんどくなったのも夏休みの終わりだった。

 本来なら「自殺予防週間」なんてものがあること自体おかしいのだと思う。でも仕方ない。私たちはいつからか「死にたい」という感情を抱くようになってしまったのだ。悲しいけれど。

 

 今回、自分がしんどい時に聴く音楽について書いてみた。【シリアスな曲】、【しっとりした曲】、【叫ぶ曲】、【考えずに聴く曲】と4ジャンル17曲あるので、好きな箇所から読んでほしい。

 自分の好きな曲を他の人が知ってほしいと思って書いたのが8割ぐらいである。でも、もしここに書いた音楽でラクになる人がいたらそれは嬉しい。

 

 紹介する曲は以下の通り。

【シリアスな曲】

アンジェラ・アキ「手紙」

みるきーうぇい「ほんとは生きるのとても辛い」

中島みゆき「時代」

中島みゆき「ファイト!」

 

【しっとりした曲】

小沢健二天使たちのシーン

ラッキーオールドサン「ミッドナイトバス」

Peter, Paul & Marry500 miles

The ClashLost in the supermarket

Samuel BarberAdagio for Strings

 

【叫ぶ曲】

Ben E KingStand By Me

尾崎豊15の夜」

フラワーカンパニーズ「深夜高速」

高橋優「陽はまた昇る」

 

【考えずに聴く曲】

くるり「ハム食べたい」

Plastic BertrandÇa Plane Pour Moi

The Royal ConceptOn Our Way

My Chemical RomanceNa Na Na

以上17曲。

 

 

 

 

【シリアスな曲】

最初は、歌詞やメッセージがストレートに伝わってくる4つの曲です。全部歌詞そのまんまです。

 

 

1)アンジェラ・アキ「手紙」 13

 

 初めてウォークマンに入れた曲の一つがこのアンジェラ・アキの「手紙」である。ウォークマンをもらっても何を入れたらいいのかわからないからとりあえず家にあるCD——クラシックがほとんどだった——を片っ端から入れていった。その中におばあちゃんが買ったアンジェラ・アキもあった。有名な曲だし、まだウォークマンに曲がそれほど入っていなかったので私はそればかり聴いていた。

 「手紙」が大きな合唱コンクールの課題曲に指定されて一躍有名になった後だった。現在の自分と過去の自分が対話するという歌詞にはストーリーがあってそれがクールに思えた。ピアノの音も好きだった。私はこの曲がお気に入りでよく口ずさんでいた。

 私は別にいじめられていなかったし、思春期にも入っていなかった。まだクソガキで、別に学校も人間関係もつらいともしんどいとも思わなかった。ただ年を経るにつれて人生は段々しんどくなって、高校1年でピークに達した。めちゃくちゃしんどかった。助けを求めるように映画を観て本を読んで音楽を聴いた。「手紙」もその時に再び聴くようになってようやく理解し始めた。

 歌詞にあるような「消えてしまいそうな時」というのに本当に直面していて、でも死ぬわけにはいかなくて、どうにかこうにか切り抜けないといけなかった。自分がどんな人で何をしたいのか今まで真剣に考えたこともなくて、確かに「将来の夢は映画監督です」とか調子の良いことを言っているけれど別に美大の入試に向けて努力しているわけでもなく放課後はサッカーをしている。このままいけば多分普通の大学に入ってやりたくもない仕事に就かないといけないのかもしれない、でもそんなことを考える前にまず目の前にある問題を片づけないといけない。部活のことクラスのこと家族のこと好きな女の子のこと——不安の種は次から次へと浮かんで心が休まらなかった。

 

 ながーい現実逃避のあと、1回死んだつもりでやり直すことにした。全てに立ち向かわなくてもいいのだとわかったので、いくつかのことをあきらめようと思った。英語の暗唱テストは黙りこくったままで通したし、得意な世界史だけやってればいいやと思うようになった。自分に完璧を求めることをやめようと思った。ちょっとだけラクになった。

 その後何年か経って「人生のすべてに意味がある」という歌詞の意味もようやくわかり始めてきた。生きててよかったなあと最近は思う。

 

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2)みるきーうぇい「ほんとは生きるのとても辛い」19

 

 20164月。大学に入ることになって、楽しみでもあり不安でもあった。スマホを買ってもらってYouTubeを簡単に見れるようになったので、入学までの間毎日音楽を聴いていた。予備校の友達とカラオケに行った時メイちゃんが歌ったチャットモンチーの「シャングリラ」と相対性理論の「気になるあの娘」が気に入ったのでそこらへんをよく聴いていた。受験期から気になっていたHomecomings Hyukohも飽きるほど聴いた。

 YouTubeでは1つの動画が終わると15秒ほど後に彼らがオススメする動画が勝手に再生される。ある時、Hyukohの韓国語の曲をかけてそのままスマホをほったらかしにしていると、日本語で女性ボーカルが歌い始めた。Hyukohの別の曲に変えようかと思ったけれど、ストレートな歌詞が胸に刺さってそのミュージックビデオから目を離せなくなった。

 それは例えるならMax150キロのストレートで、ひょっとすると大谷翔平よりも速かったかもしれない。「ほんとは生きるのとても辛い」は自殺がテーマの曲で映像も歌詞もどうしようもなくストレートだ。血が出るくらいにキリキリ尖っていて、今までに全く聴いたことのない音楽だった。

 中島みゆき尾崎豊も私がしんどい時そっと寄り添ってくれる。けれども彼らはもう大人である。少なくともずっと年上の人たちで、平成っ子の私には歌詞が古いと感じる時もある。出てくる単語や言い回しになじみのないこともある。その点、みるきーうぇいは私とほとんど同世代で、私が普段使っているような言葉をストレートにぶつけていた。オブラートに包んだ抽象的かつ婉曲的な歌詞ではなくてそのままの感情をそのままの言葉で発していた。めちゃくちゃかっこよくて「パンクだなあ」と思った。彼らの曲はいじめとか自殺、鬱がテーマが多くての悲しい曲が多い。メンヘラだと言う人もいると思う。でもその飾らない表現は現実社会を映していると思う。楽しい歌や泣けるテレビ番組、笑える動画はいっぱいあるけれど別にそれだけが人生じゃない。人間はもっと複雑で孤独で悲しくてかっこ悪い。そういった人間のリアルをちゃんと表現しようとしているんだと思う。

 辛い時に聴くみるきーうぇいは、いつも私と同じサイドに立って私を勇気づけてくれる。私は自分が一人ではないことを再確認してすこし安心するし、独りで頑張っているボーカルにも、歌詞の中の前向きな言葉にも勇気づけられる。

 

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3)中島みゆき「時代」 

 

 ある時テレビをつけたら小藪千豊が映っていた。しんどい時に励まされた歌として、彼は中島みゆきの「時代」を挙げていた。売れない若手芸人だった小藪がつらかった時にふと聴いた「時代」の「あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ」という歌詞に助けられたという話だった。テレビでヒールを演じることの多い小藪がそんな風につらかった若手時代のことを喋っているのが新鮮でついついテレビに見入ってしまっていた。あんなに性格の悪いように見える小藪を勇気づけたという曲を聴いてみたいと私は思った。

 ちょうど伯父が中島みゆきのシングル曲を集めたCDを持っていた。「時代」もその中に入っていて、私はそのCDウォークマンに入れた。毎日そればっかり聴いていて自分の心を慰めていた。高校を卒業した時、同じクラスの友達と一緒にカラオケに行って、私はみんなの前でその歌を披露した。同じ場にいたM君も「時代」を知っていて彼と一緒に歌った。浪人に突入する時だった。歌詞にあるようにつらい時代のことも笑って話せる日が来たらいいなと思った。そして実際にそういう日は来た。

(※動画はショートバージョンです)

 

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4)中島みゆき「ファイト!」

 

 去年の11月、福井に旅行に行った。帰りに京都の友人を訪ねた。彼は大学に入ってから音楽に目覚めたみたいで、ギターで弾き語りをしてくれた。中島みゆきが好きだと言うと「ファイト!」を歌ってくれた。私はそこでその曲を初めて知った。彼はいろいろ変わってしまっていて、私は少し寂しかったけれど、モノマネのうまさだけは全く変わっていなくて安心した。彼の声は中島みゆきにそっくりだった。

 中島みゆきの歌詞にはいつもストーリーがある。「ファイト」の中にもいろいろな物語が見える。歌詞にあるように頑張っている自分を笑う人をいつかは見返したいと思う。自分も人の頑張りを笑うことはしたくないなと思う。

 後で知ったのだけれど「ファイト」カロリーメイトCMで有名になった曲らしい。YouTubeで調べると満島ひかりが歌っていて、そっちもなかなか良かった。しんどい時にこの歌を口ずさむと不思議と力が湧く。

(※動画はカロリーメイトCMです。歌っているのは中島みゆきではなく満島ひかりです)

 

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【しっとりした曲】

眠れない夜に聴いてほしい。ホットミルクとか飲みながら聴いたらいいと思う。

 

 

5)小沢健二天使たちのシーン」 

 

 小沢健二という人が長いブランクを経て新しいCDを出すらしい、というのをある日のFM802で知った。その頃の私は火曜日の深夜にやっているMidnight Garageという番組が大好きで毎週聴いていた。その時に私は初めて小沢健二という名前を知ったし、彼が一昔前にカリスマ的な人気を誇っていたことも知った。番組で流された彼の新曲を聴いたけどなんというか不思議な魅力があった。私は小沢健二の曲をYouTubeで調べてみた。古いライブ動画を見ると、彼の人気のほどがよくわかった。

 いろいろ聞いたのだけど「天使たちのシーン」という曲が一番心に残った。歌詞の意味もよくわからないし、めちゃくちゃ長い曲なのだけど何回も聴いてしまう不思議な曲である。たぶんメロディーがいいのだと思う。深夜のつらい時間に聴くとちょっと心が軽くなる。

 

 

 

 

 

6)ラッキーオールドサン「ミッドナイトバス」

 

 これも眠れない夜によく聴く曲だ。浪人時代に初めて聴いたのだけど衝撃だった。どこか懐かしいメロディーと飾らないボーカル。全体的に静かな分、ストレートに伝わってくる歌詞。私は予備校の自習教室で勉強していたのだけれど、急いで「ミッドナイトバス」とノートの端に書きとった。

 大学に入ってYouTubeが好きなだけ見れるようになってから「ミッドナイトバス」のミュージックビデオを何度も何度も観た。たぶん100回ぐらい観たと思う。何回も何回もYouTubeで再生しながら、彼らが私の孤独に寄り添ってくれる気がした。「しんどいのは君だけじゃないんだぜ。がんばっていこうぜ」と言われている気がした。

 

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7)Peter, Paul & Marry500 miles」 

 

 私は群れることが嫌いである。そのくせ寂しがり屋で時々誰かの背中に泣きつきたくなったりする。

「自分は自分だ。自分だけの道を行かないといけない」と知っている。どんな人も皮を剥がしていけば最後に残るのは孤独な存在である。どんなに偉そうな人もすごい肩書がある人も、結局のところ一人で生きて死ぬ。頭ではわかっている。

 誰かが遠くに行った時、すごいことをした時、置いて行かれたような気分になる。昔は同じ教室で勉強していた人が東京に行ったり、就職を決めたり、留学に行ったりしている。SNSを通じて頑張っている様子の彼らが目に入ってくる。

 もちろんわかっている。私と彼らは全く違う。目指している方向も距離も、お互いにベクトルが違うのだ。

 それでも時々、どうしても彼らが羨ましくなる。ないものねだりがしたくなる。「おいていかないでくれよ!!」と叫びたくなる夜がある。そんな時この曲の歌詞を思い出す。

 

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8)The ClashLost in the supermarket」 

 

 河合塾に通う浪人生には、一日の授業を終えた後「チュートリアル」と呼ばれるホームルームがある。チューターと呼ばれる職員の人が事務連絡を伝えてくれる。私たち浪人生はチュートリアルの時だけ決められた席について話を聞かなくてはならない。私の席の後ろには「ケニア」というあだ名で呼ばれているヘンな子がいた。彼は不思議な雰囲気を持った子で、音楽と文学にとても詳しかった。よく昼ご飯を食べながら音楽や文学について喋った。彼は私に初めてロシア文学のすばらしさについて熱弁した人物で「プーシキンは偉大だ」みたいなことを言った。その熱弁から一年後、私はなんの巡り合わせかロシア語科に入学することになった。

 

 仲良くなったきっかけは缶バッジだった。彼のくたくたの筆箱には「Sex Pistols」と書かれた缶バッジがついていた。私はパンクロックに目覚め始めた頃で、同志を見つけて嬉しくなった。「ピストルズ、好きなん?」と聞くと「好きやで。まあクラッシュの方が好きやけどな」みたいなすかした答えが返ってきた。私もThe Clashが好きでウォークマンに一枚だけ入れていた。まさかこんな近くにThe Clashを知っている人がいるとは思わなかったので興奮した。

 お気に入りの映画「ロイヤルテネンバウムズ」の中で「Police Thieves」という曲が使われていて、その曲を歌っているのがThe Clashだった。市立図書館のCDコーナーで探すとたまたまThe Clashのライブ音源があって私はウォークマンに入れた。70年代から80年代にかけて活躍したバンドを知っている同世代はいないと思っていたのに、まさか後ろの席のやつが知っているとは。世界は広いのか狭いのかよくわからない。

 彼にはCDを貸してもらったりして、いろいろThe Clashについて教えてもらった。彼は「(White man) In Hammersmith Palais」がすごいと言い、私は「Lost in the supermarket」が一番すごいと言った。別にThe Clashの話ばかりじゃなくて他の話もした。チャップリンの映画音楽の話もしたし、ロシア文学のこともだいぶ教えてもらった。彼は段々予備校に来なくなって消息不明になったのだけど、風の便りによれば最近第一志望にようやく合格したという。いつかまた会えたらいいなと思う。

 

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9)Samuel BarberAdagio for Strings

 

 アヒージョではない。アダージョである。アダージョは「『ゆるやかな速度』を示す音楽用語」だという。転じて緩やかな速度で書かれた曲もアダージョと呼ぶのだという。このリストの中で唯一詩がない。

 初めて聴いたのは5年前である。テレビでケネディ大統領のドキュメンタリーがやっていて、彼のお葬式で流れていたのがこの曲だった。私は音楽のことはよくわからないけど、とても心が動かされた。悲しい気分にもなったし、心が洗われる気もした。

 番組が終わった後パソコンを立ち上げてYouTubeに「Adagio for Strings」と打ち込むとオーケストラの動画がいくつか出てきた。片っ端から聴いた。ついには図書館でCDを借りてウォークマンにも入れて時々聴くようになった。特に受験期の疲れた日やしんどい時によく聴いた。別にこの曲のおかげで勇気が出るとか頑張れるとかはなかったけれど、怖くて眠れない夜にこの曲を聴くと不思議とよく眠れた。

 

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【叫ぶ曲】

私は自転車に乗りながらよく歌う。塾や学校から帰る道で私は歌をよく練習する。たまにびっくりした顔で見られることもあるけれど、自転車で通り過ぎるのは一瞬だから歌いながら走ってもあまり恥ずかしくないのだ。

 

 

10Ben E KingStand By Me」 

 

 人生で最初に見た映画はたぶんドラえもんの映画で、私は全く覚えていない。家に残っていたパンフレットをみるに、アステカとかメキシコの古代文明のび太たちが活躍する映画だったと思う。私が推測するにたぶんその映画は私と両親がそろって映画館で観た最初で最後の映画だと思う。

 記憶にある中で一番最初の映画は「ハリーポッター」と「スタンドバイミー」である。どっちが先なのかはわからないけれど、「ハリーポッター」は劇場で「スタンドバイミー」は図書館で観た。幼な過ぎた私には「スタンドバイミー」の内容はまるで分からなかった。ブルーベリーパイを次々に吐き出すシーンと少年たちの肌に吸い付いたヒルの気持ち悪さしか印象に残らなかった。ただエンディングで流れるBen E Kingの「Stand By Me」はずっと覚えていてテレビやラジオで聴くたびに映画のことを思い出した。

 15歳ぐらいの時にTSUTAYADVDを借りて映画をもう一回見直した。ようやくストーリーがわかった。リバーフェニックスの煌めきが眩しかった。そしてやっぱりBen E Kingの歌は良かった。TSUTAYAサウンドトラックを借りて、歌詞をノートに書き写して覚えた。ボイスパーカッションでイントロを歌おうと何回も練習した。何回も歌って聴いているうちにこの曲は特別なものになった。

 

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11尾崎豊15の夜」 

 

 この曲は中学生3年生ぐらいから聴き始めたのだと思う。「ぬーすんだバイクではーしりだす~」のフレーズは替え歌とかで小さいころから知っていたけれどちゃんと聴いたことはなかった。TSUTAYAで借りた尾崎のCDには「15の夜」と「卒業」が入っていた。校舎裏でタバコを吸ったり、バイク盗んで走り出しちゃったり、夜の校舎の窓ガラスを壊してみたり、ストレートに反抗できる昔の「不良」と呼ばれる人たちが羨ましかった。平成20年代の日本で——少なくとも私の周りで——そんなぐれ方をしている人を見たことも聞いたこともなかった。

 18歳のある夏の夜、母親とめちゃくちゃ喧嘩した。勉強をしたくなかったけど、そんな自分が不安だった。このままでは志望校にはとうてい受からないような成績だったし、受からないとはなからあきらめているようなところもあって勉強する気も起きなかった。ただただ映画ばかり観て昼夜逆転生活を送っていた。私はむしゃくしゃした私は深夜2時、自転車で走りだした。はじめは近くの海まで行って防波堤の上で寝ようと思ったのだけど、海岸は思った以上に風が冷たかった。寝ころんでもただただ都会の光に照らされた夜の曇り空があるだけで自分の沸々とした心は収まらなかった。結局私はとりあえず西に向かって走り始めた。誰もいない道を走りながら「15の夜」を熱唱した。もう18歳なのに。

 ものの1時間ぐらいで三宮に着いた。商店街にはホームレスがたくさんいた。夜でも明るい繁華街があってなぜか外国人がたむろして騒いでいた。少し怖かった。駅前のベンチに座ってそこに座ってぼんやりしていた。駅前には今は亡き「パイ山」がそのころはまだあった。

 センター街を通り抜けた。昼間は人がいっぱいで自転車ではとても走れないアーケードを走る。前を見ても後ろを振り向いても自分と寝ているホームレスしかいない。なんだか笑い出したくなった。ところどころに電気がついていて明るくもなく暗くもない不思議なグレーの世界だった。一方でその先の南京町は真っ暗だった。見慣れない中国風の街が妙に不気味であった。中国風の屋根も門もコンクリートの像もなんだか怖かった。

 私は帰ることにした。帰り道、尾崎が15歳でやったことを自分は18歳でやっていることに気付いた。ダサいなと思った。しかも乗っているのは自前のマウンテンバイクだ。ああ情けない。

 家に着いたのは朝5時で、すっかり明るくなっていた。私はベッドにたどり着いてぐうぐう寝た。その時から「15の夜」には妙な親近感を覚えるようになった。

 

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12フラワーカンパニーズ「深夜高速」 

 

 「生きていてよかった そんな夜を探している」っていうサビの歌詞だけで好きになるには十分だった。浪人時代の真夜中にラジオで聴いたこの曲が忘れられなくて、大学に入ってからCDを買った。何度聴いてもやっぱりよかった。

 熱量がすごいのでとにかく聴いて叫んでみてほしいと思う。

 

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13)高橋優「陽はまた昇る」 

 

 映画「桐島、部活やめるってよ」がめちゃくちゃ好きなんだけど、そのエンディングで流れるのがこの曲なのだ。一応【叫ぶ曲】のところに入れたけれど【シリアスな曲】のところに入れてもよかったかもしれない。歌詞は簡潔でわかりやすくてド直球なのだ。それを高橋優はめちゃくちゃ全力で歌う。ほとんど叫んでいるようである。

 映画が公開されたのは2012年の8月とかで、私は劇場でこの映画を観た。感動して涙が止まらなかった。映画が終わってからしばらくの間動けなくて係の人がほうきとちりとりで掃除を始めてもなかなか立ち上がれなかった。ラストシーンの東出昌大のうるんだ目と高橋優の声でガツ―ンとやられた。何でもできるのに何もしていない登場人物がまるで自分のように思えた。

 映画館であんなに泣いたのは「桐島、部活やめるってよ」のエンドロールと「ララランド」の冒頭のシーンだけだと思う。

 

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【考えずに聴く曲】

このジャンルはあんまり書くことがない。とりあえず頭を空っぽにして聴くのだ!!!

 

 

14くるり「ハム食べたい」 

 

 岸田繁がひたすら「ハム食べたい」と歌うだけの曲である、と言ってしまってもほとんど語弊はないと思う。

 とりあえずこの曲を聴いて「ハム食べたい」と何回か言ってみてほしい。もしかしたらちょっとすっきりするかもしれない。その後でなぞときのような歌詞を読んでストーリーを想像してほしい。どうも、歌詞に出てくるハムという言葉は暗喩で、別の意味が込められているように思える。ネットにはいろんな意見があって、岸田繁がそれについて言及したこともあるらしいけれど、私はまだ答えを出せていない。

 

P.S.この曲をみんながいるカラオケで歌うのは避けた方がいい。みんなが笑ってくれるのは最初だけで、完全なる出オチになってしまうからだ。

(※この曲だけはYouTubeにはありませんでした)

 

 

 

15Plastic BertrandÇa Plane Pour Moi」 

 

 フランス語、、、なのか? よくわからない。とにかく知らない言語である。歌詞の意味がみじんも分からない。動画を見る限り楽しい曲みたいだ。この曲に関しては、私は曲を楽しむというよりむしろYouTubeの動画を楽しんでいる。Plastic Bertrandという名前の歌手が奇天烈な格好で歌いながら踊っている。そしてサビになると腕を組んでちょっと決め顔をしたりする。画面の中の彼はめちゃくちゃ自由で、見ているだけでニヤニヤしてしまう。ついつい私もサビの「ウ―ウ―ウ―ウ―」のところを裏声で歌ってしまう。

 1970年代の曲である。イギリスでクラッシュやピストルズといったパンクロックが全盛の頃、ベルギーにはこんな歌手がいたのか。

 高35月ぐらいに塚口で観た「ルビースパークス」という映画のワンシーンにこの曲が出てきて、そこで初めてこの曲を知った。映画のシーンもまた主人公がはしゃぎまくる楽しいシーンだった。こっちの映画もおすすめである。

 

P.S.テストの合間の休み時間にこの曲を口ずさむのはやめたほうがいい。みんなのひんしゅくを買ってしまう。私はクラスメイトのO君にこっぴどく怒られた。

 

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16The Royal ConceptOn Our Way

 

 スウェーデンのバンドだったと思う。くるり岸田繁がどこかで紹介していて知った。ユニバ——東京ではUSJって言うんだっけ?——のCMでも使われていたらしく、なんだかパリピが好きそうな曲だ。プールで泳いだりスケボーに乗ったりするミュージックビデオといい、ノリのいいメロディーといいパリピのにおいがプンプンする。映像をみた感じだとメンバーも多分パリピだ。パリピじゃない人はトラックの荷台でギターを弾いたりしない。キャンプファイヤーの周りでお酒をのんではしゃぐこともない。まあ偏見なんですけど。

 基本的には明るい曲なのだけど、歌詞はよくわからない。恋人について書いているようにも読めるし、自分の夢や目標について書いているようにも受け取れる。不思議な歌詞だ。なによりキャッチーで疾走感のあるメロディーがずっと頭に残る。浪人の時、どうしても眠い時にはこの曲をずっとリピートして聴いていた。数学の授業で眠くなった時は、授業そっちのけで脳内で再生するときもあった。どうしてもやる気が出ない時にこの曲を聴くとなんだか頑張れる気がした。

 彼らは今度の10月に台北でライブをするみたいだ。台北の人が羨ましい。

 

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17My Chemical RomanceNa Na Na」 

 

 最後はマイケミで締めようと思う。

 とにかくもやもやが溜まって爆発しそうになったらこの曲を聴いてほしい。この曲を聴いて叫べばちょっとはすっきりするかもしれない。変えたい変わりたいと思っているけれど結局何もできないでいて、そんな自分がイヤになっている時にこの曲を聴くと私はやる気がでる。この鬱々とした気持ちに点火して爆発させ、何か別のきれいなものに変えてみたいと思う。

 ドライブの時にこの曲を聴くのもおすすめである。

 ミュージックビデオは二つあってどちらもいい感じである。

 

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【あとがき】 

 最後まで付き合ってくれてありがとうございます。音楽を紹介するといいながら映画やラジオ番組、さらには私の友達を紹介することになってしまいました。自分が楽しいだけの文章になっていないか心配でしょうがありません。

 書いていて思ったのですが。私の音楽体験はFM802ウォークマン、映画とYouTubeによるものが大きいようです。17曲のうち10代に聴いていた曲がほとんどで、20代になってから聴き始めた曲は「ファイト!」だけというのも不思議だなあと思います。

 

 もしよかったらあなたの「しんどい時に救われた曲」をコメントで教えてください。親しい人は今度会った時にでも教えてください。ではでは。

 

#29 台中小旅行 その1~パーティー~

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 1か月前、台南でサマースクールにいた時の話です。週末はサマースクールは休みなので、8月の11日と12日、私は台中へ小旅行に行きました。その時のことをつらつら書いていきます。

 

 810日金曜日。

 夜。寮の部屋に集まってみんなでパーティーをした。原付を持っているミンとダニエルが、雨の街で、ピザとフライドチキン、ジュースとビールなんかを買ってきてくれてそれをみんなで食べて飲んだ。私にとっては久しぶりのパーティーで、私なりに羽目を外した。ベトナムインドネシア、台湾、韓国、日本、中国、香港。いろんな国籍の学生が狭い一室に集まって喋っている。その事実に感動したし、そのことだけで私はぼーっとした。

 ノリのいい音楽をかけようとして、友達のパソコンからRex Orange Countyを流したんだけどどうも盛り上がらなくて結局blurマイケミを流した。途中で調子に乗ってボンジョビIt'smy lifeも歌った。普段から酔っぱらったような言動をしているけれどお酒を飲んで私はすっかり気持ちよくなっていた。マンゴー味とブドウ味のビールを味見して、瓶のビールも飲んでみた。お酒はあんまり味がわからないのだけれど、ダニエルが言うように瓶のビール——「生ビール」とダニエルは言った——の方が飲みやすかった。

 ベトナムの映画の話、北海道の旅行の話、お化けの話、おいしいご飯の話、ホーチミンの話。たくさんの話をした。私は全員の話を聞きたくて輪から輪へと行ったり来たりしていた。あっちではベトナムの話、こっちでは医学部同士の話、こちらの椅子では日本語と中国語の違いについて。台湾人のダニエルはめちゃくちゃ日本語が上手いのだけれど、彼は日本語をアニメやドラマを見て学習したらしい。普通に私と会話できるようなレベルなのに驚いた。ミンはベトナム語を勉強しているのだけれど、彼はパーティーにまで教科書を持ってきてベトナム人に教えてもらっていた。彼は本当にいいやつで、私がサマースクールで初めてしゃべった一人である。最初の昼食の時間、幸運にも私は彼の隣に座ったのだった。私が大学での勉強について聞くと、彼はベトナムでの就職を考えてベトナム語を勉強していると教えてくれた。ベトナム人が台湾に嫁いだり、働いたりしているのは知っていたけれど、逆に台湾人もベトナムで働いたりするのだと知って驚いた。私も一応は大学で言語を学んでいる身だから親近感が湧いて、仲良くなった。最初の日曜日に一緒に球場で野球を観たし、サマースクールが終わってからも高雄の街で遊んだりした。インドネシア人のリアーナとも仲良くなった。彼女ともいろんな話をした。

 人生がこの一室で交差してまた分かれていく。酔った頭のせいで私は迷路の中で途方に暮れているような気分になった。でも何より大事なことはこの場所にいて自分が楽しんでいることだとも思った。それくらい楽しい夜で、1年に1回あるかないかぐらいのものだった。

 

 

 パーティーは真夜中に終わり、酔いがさめてきた私は台中へ行く準備をした。着替え、ノート、タオルと洗面用具をリュックに詰め込む。同じ大学から来たUと話し込み、寮の部屋から1階のロビーへと場所を変えてまた話し込んだ。そうして時間が来て私は早朝の便に乗るためにバス乗り場へと旅立った。

 夜道を私は歌いながら歩く。誰もいない交差点。さっきまでの雨で濡れた路面は信号の青を反射させる。

 サマースクールの間中、どうしてだか私は松任谷由実の——その頃はまだ結婚してなくて荒井由実だったけれど——「ルージュの伝言」をよく歌っていて、バス乗り場までの道中でも私は歌った。旅行へと繰り出す今の自分にピッタリな歌詞だと思った。同じジブリ作品に出てくる歌ということで加藤登紀子の「時には昔の話を」も歌った。

 

小さな下宿屋にいく人もおしかけ

朝まで騒いで眠った

嵐のように毎日が燃えていった

息がきれるまで走った そうだね

 

線路を渡って駅の反対側に向かうと深夜にやっているバーを見つけた。今度Uを誘って乗り込んでみようと思った。(結局忙しくて行けなかった)駅に近づくにつれて人が増えてきて、バス乗り場にはまだ4時だというのに30人ぐらいの人がいた。バス乗り場の隣のセブンイレブンで包子(肉まん)を買って食べた。台中行きのバスが来て私は乗り込んだ。

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#28 パフパフホーンとドライアイス

 

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 小学校の友達と二人で飲んだ。成人式にLINEを交換してまた会うようになった友達である。その夜、酔った私の脳内にはたくさんの懐かしい映像が浮かんで、宇宙の果てアルコール星雲のかなたへ消えていった。

 

 大方の自転車のベルは「チリンチリン!!」と鳴るのけれど、彼の自転車は「パフパフ!!」と音の鳴るタイプだった。「パフパフ!」その音で彼がやって来たことがすぐに分かるのだった。そんな小さなことばかりいくつも思い出していた。

 

 ラーメンを食べて、それから居酒屋に行って合計4時間ぐらい話したのだけれど、昔の友達やクラスメイトのことを話すだけで時間が過ぎた。居酒屋ではたまたま他の同級生も飲んでいてみんなで昔話をした。

   彼と同じクラスだったのは小学校の4年と6年の時だった。小学生って気まぐれだし、別に彼とずっといたわけではないけど、話すといろいろ盛り上がった。

 4年生の時、自分の好きなことについて調べる「自主勉強」という、いかにもゆとり世代的な宿題が導入された。自分の興味のある事柄について調べたりしてそれを先生に提出するのだ。テーマはなんでもよかった。私は新聞記事やニュースをまとめたりしていた。他の子は魚の図鑑に載っている知識を書き写したり、ダジャレを思いつけるだけ書きなぐったりしていた。だいたいみんな手を抜くときはいろいろな国旗を色鉛筆で写していた。私も面倒な時は絵を描いてごまかしていた。その宿題が好きだった。

 ゆとり教育で、楽勝な宿題だったけれど、興味の幅が広がったし、友達のノートにはそれぞれの興味がある事柄が三者三様に書かれていて、面白かった。「そんな宿題あったなあ!」と彼は言った。

 私は当時好きだった女の子のことを話すと、彼も好きだった女の子のことを教えてくれた。意外な名前が出てきてびっくりした。

 

 4年生で今の家に引っ越した私は転校生だった。おまけに1年間病院に入院した後で松葉杖をついていて友達ができるか不安だった。歩けない時間がかなり長く続いて、すっかり自信を無くしていた。彼はそんな時に友達になった一人である。彼とは神社や公園で毎日のように遊んだ。池でブルーギルを釣ったり公園でケイドロをしたりした。私が歩けるようになってから、春休みにみんなで甲山に上ったこともあった。懐かしい思い出である。

 4年生の時、母がチャップリンの映画にはまってよく家族で映画を観たりしていたのだけれど、同級生で彼だけがチャップリンのことを知っていた。「担え銃」でチャップリンが敵兵から逃げ回るシーンをコミカルに演じる彼に感心したものだった。

 

 

 4年生のある日、いつもの公園に集まった私たちのグループはなぜかスーパーに行くことになって、その中に彼もいた。道を挟んだところにあるマックスバリューでアイスか何かを買おうということになったのだと思う。レジが終わったところで急に仲間の一人がドライアイスを袋に詰め始めた。みんなも真似をして、ぱんぱんにドライアイスを詰めた袋をいくつも公園に持って帰った。最初は白い霧を見て楽しんだりしていたのだけど、誰かが袋に水を入れ始めた。猛烈な勢いでぷくぷくと泡が出てきた。それを眺めながら私たちは騒ぎに騒ぎ、ふざけあっていた。興奮していた私たちは、R君がドライアイスと水をあたりにまき散らし始めたのを皮切りにドライアイスの袋をお互いに投げつけ始めた。ただただ楽しくて楽しくて仕方なかった。

 

 「あの時どうしてあんなに楽しかったのか今では説明できない」みたいなことを彼が言って、私も全く同意だった。多分あの時の感情は今よりももっと原始的で素直だったのだろうと思う。「楽しい」と「楽しくない」という感情が今よりも大きくはっきりとあって、「危ない」とか「怒られる」といった感情はまだ小さかったのかもしれない。

 いずれにせよ、私たちの行動を見て「危ない」と思った大人が警察だったか学校だったかに電話して、翌日私たちは担任に怒られた。「なんでこれぐらいで電話するんだよ」とその時は不服だったし、怒られてもドライアイスが「危ない」とは到底思えなかったのだ。やがて、マックスバリューのドライアイスは勝手に持ち帰れないようになった。至極残念だった。

 

 

 成人式の後、私は高校の同窓会に行ったのだけど、地元では中学の同級生で集まっていたらしい。何人かの友達について聞くと、彼らの現在について教えてくれた。いろんな人がいて、結婚した人もいた。警察学校に通っている人もいたし、病んで引きこもっている人もいた。私たちのような大学生もいたし、高卒でばりばり働いている人もいた。何年も会ってないから、私の中で彼らはまだ小学生のままなのだけれど、現実世界の彼らはもう21歳になっている。悪かった性格がよくなった人もいるみたいだし、だいぶ変わってしまった人もいるみたいだ。私は今もこの街に住んでいるけれど、もう全員と会うことは無いのだろうと思う。道ですれ違ってもわからないかもしれない。そう思うと少し悲しい。

 

 私は中学受験をして以降、地元の友達とは疎遠になってしまった。月日が経って成人式で再会した私たちはLINEを交換した。ただの「友達」としてLINEのアプリの中に居続ける存在になる可能性もあったわけだけど、どちらからともなく連絡してまた会うことになった。これからも彼とは定期的に会うと思う。不思議だなあとも思う。

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#27 再び台北。

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 827日。

 困った状況にある。まずお金がない。今日の朝の時点で手持ちには300元しかなかった。おじいちゃんが餞別でくれたアメリカドルを数えると96ドルあってそれを銀行で両替した。ただ、私が50ドル紙幣だと思っていたものは50ミャンマーチャットで、銀行の人に替えられないと言われた。50ドルと50チャットは全然違う。損した気分だ。46ドルだけ両替した。

 

 それからスマホの充電がない。なんとか1120分の電車に乗ることが出来て、今日の夜会う人に連絡したりしたのだけど、なぜか電池の量が少ない。昨日の夜中充電してつもりが、どうもコンセントが抜けていたみたいだ。台北まで4時間ほどあったのだけれど極力スマホを使わないことにした。私はずっと本を読んでいた。

 

 さらにサンダルがとても臭い。一昨日から実は気にはなっていたが、もう知らんぷりが出来ないほどに臭い。電車で座っていても時折匂いが鼻まで届く。恥ずかしい。墾丁で海に入り、南の端まで歩き、花蓮でも太魯閣と街中を歩きに歩いたサンダル。お疲れ様である。昨日匂いに耐えかねてお風呂で洗ってみたのだけれど結局あまり効果はなかった。なにしろこの一か月ほぼ毎日履いているのである。一度洗っただけではだめなのだろう。

 ちなみにこのサンダルはインド製でミャンマーにいた時に買ったものだ。ヤンゴンを毎日ビーチサンダルで歩いていると親指と人差し指の間の皮がむけてしまって、痛さに耐えかねた私は新たにマジックテープのこのサンダルを買ったのだ。ちょっと思い出のあるサンダルだ。

 

 花蓮を出た列車は次から次へと田舎町を過ぎていく。花蓮から宜蘭まで2時間ほど。そこから台北までまた2時間。台湾で初めて電車に乗った時は1駅ごとに駅の写真を撮ってみたものだけれど、もうそんなことはしない。私は椅子に座ってずっと林芙美子の放浪記を読んでいた。大正時代の女の生活が鮮やかに描かれている。作家になる前の芙美子が、書いた詩を出版社に持っていっては突き返されるというのを繰り返していた。時々、列車のは海沿いを走った。読書に疲れると、私は顔を挙げて海を見ていた。

 

 花蓮で乗った時、空いている席は優先席しかなかった。前にはお母さんと4歳ぐらいの女の子が座っていた。二人ともずっとスマホをみていた。時々女の子のスマホから音が漏れて、気が散った。宜蘭でたくさん人が下りたので私は席を移った。

 この前に台東から花蓮まで移動した時とは違って車両にたくさん人がいた。バスケットボール部の少年たち、ヨーロッパからきたカップル、登山を終えた中年の集団、宜蘭から台北に帰る女の子三人組、なぜか猫を二匹連れて移動している夫婦。いろんな人がいて、観察していると面白かった。スマホを見ている人が多いのは日本と同じだった。海が見えても川が見えても窓を見ているのは私だけだった。

 

 今日は10時に起きて、急いで準備をした。4日間過ごしたホステルを後にして銀行へ急いだ。後ろ髪を引かれる思いだった。とても居心地のいいホステルだった。カウンターでケビンとマレーシアの女の子、台湾人の夫婦にサヨナラを言ってホステルを出た。本来であればゆっくりお別れの時間を過ごしたかった。でも今朝の私にはお金も時間もなくて、感傷的になる余裕がなかった。写真だけ撮った。また来ようと思う。本当に来るかどうかはわからないけれど、思うのは自由だ。

 

 台北に着く。メトロに乗って中正紀念堂駅に向かう。友達との約束までまだ時間があるので中正紀念堂を歩いてみる。とてつもなく大きな蒋介石の像があって、衛兵が立っていた。日本人観光客がたくさんいた。大きな広場と建物というだけで、そんなにすごいものではないような気がした。私の中の天邪鬼が呟く。「こんなに大きなものを作れるお金があるのなら、困ってる人を助けるべきなのでは?」  天邪鬼は、私が観光地に行くとよく出てくる。

 写真を撮っているとスマホの電池がなくなってきた。慌ててカフェを探して入る。充電できるカフェは一つしか見つからず、そのおしゃれでお高いカフェに入る。お金がないのに170元もする抹茶ラテを飲むはめになる。本当はコーヒーがいいのだけれど、おなかを壊しているので、暖かい抹茶ラテを飲んだ。抹茶ラテなんて日本でも飲んだことがない。けっこうおいしかった。あったかくて落ち着く味がした。

 

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 7時になって待ち合わせに行く。金峰魯肉飯というお店でご飯を食べる約束である。KCはちょっと遅れてきた。彼女の会社から中正紀念堂駅は少し遠い。彼女の会社や家に近い場所でご飯を食べることにすればよかったなとちょっと後悔した。地下鉄の改札近くで会って地上へと上がると雨が降っていた。トランクもあるのとで困った。どうにか店舗に入って注文する。KCが注文を全部してくれた。ご飯はめちゃくちゃおいしかった。「台湾、どこに行ったの?」とか「中国語話せるようになった?」とか聞かれた。花蓮、台東、墾丁、台南にいたことを話した。台南のご飯はおいしかったこと。ちょっと甘すぎたこともあったこと。KCは台南で勉強していたこともあったし、昔は花蓮にも住んでいたから、話が弾んだ。

 「中国語話してよ」と言われて私は中国語で自己紹介をした。なぜか同じテーブルの向かいに座っている男の人にも自己紹介をした。発音が悪いから彼らの耳には「わーたしはにーほんじーんです」という風に聞こえているのだろう。恥ずかしくて仕方がない。それでも習った中国語を何とか思い出して話した。

 その後KCと男の人は台北で私の行くべき場所を探してくれた。私は淡水の紅毛城と十三行遺跡に行きたかった。結構遠くて自転車では厳しいかもしれなかった。代わりに龍山寺というところをKCはおすすめしてくれた。男の人は30代の人で生まれてこのかたずっと台北にいる人だった。彼も十三行の博物館を調べてくれた。彼とKCは今日初めて会って話した訳なのだけど、台湾ではどうも知らない人同士で話したりすることはよくあることのようである。いい文化だと思う。

 晩御飯に満足した私とKCは帰ることにした。雨がひどくなっていた。去年の11月に北海道で会って15分ほど話して別れただけなのにそれから私は2回も台北に行き、その都度KCと会ってご飯を食べた。SNSがなければこんな風に何回も会えるということはなかったと思う。地下鉄の座席で不思議だねえと二人で話した。写真を撮って別れた。

 

 江さんの家の最寄り駅まで行った。江さんは車で来た。フラットは整っていて、彼はお姉さんと住んでいた。江さんもお姉さんも日本語がかなりできる。言語のことや日本のいろいろ話すと楽しかった。猫が二匹いて彼らと遊ぶのも楽しかった。江さんがギターを弾いてくれて私も歌った。レミオロメン39日を歌った。私も尾崎豊の卒業を下手くそながら弾いて歌った。最近弾いてないからますます下手になっていた。音楽のことでかなり盛り上がって「夏に流れる音楽」は何かという話になった。お互いに中国語の曲と日本の曲を紹介してYouTubeでその曲を聴いた。

 

 

 81日に台北から始まった旅ももう終盤に差し掛かりとうとう手持ちのお金もなくなった来た。台南、墾丁、台東、花蓮に滞在した後、今日ようやく台北についた。お金や充電がないことに焦って必死になっていた私には感慨に浸る余裕は無かった。電気を消してソファーに横になった私は、その時になって少しだけ感慨にふけった。ソファーで寝れるのも江さんのおかげだった。この旅を通じていろんな人の優しさに触れた。ありがたいなと寝る前に思った。

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#26 ワールドカップと残り香

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 フランスの優勝でワールドカップは幕を閉じた。クロアチアは頑張ったけれどフランスは強かった。トリコロールを身にまとった選手たちがグラウンドを走っていく。優勝を記念したシャツが選手とスタッフに配られて、みんながおそろいになっていた。喜び方にも選手それぞれの個性が出ていて視ていておもしろかった。クロアチアの選手はみんな泣いていた。観ていて辛かった。テレビカメラはフランスの選手とクロアチアの選手を交互に映すから。感情がぐちゃぐちゃになって、微笑みながら泣いていた。次第に画面はフランスの選手が長い時間映るようになった。ロシアでのワールドカップなのに会場ではパイレーツオブカリビアンの音楽が永遠にリピートされていた。その裏でクロアチアのチームは円陣を組んで何か話し合っていた。

 好きな映画に「負けて泣くスポーツ選手」が好きな登場人物がいて、私は泣いているモドリッチを見ながらその映画を思い出したりした。そういえばあの映画はフランス映画だった。私が観た初めてのフランス映画。とっても良かった。

 

 

 私も負けて泣くスポーツ選手が好きだ。高校野球を視ながら毎試合毎試合泣いている奇妙な子供だった。初めてラジオで聞いた甲子園は天理高校青森山田の試合で、第86回大会の開幕試合だった。祖父母と母と車に乗っていて、みんなで実況を聴いていた。その試合は延長戦にもつれ込んだ末に天理が逆転して勝った。対戦相手のエースはまだ二年生だった柳田将利で、彼は次の年にも甲子園で活躍してプロに行った。でもプロの世界は厳しかった。あんなに速い球を持っていたのに活躍できなくて、私が知らない間に引退していた。

 その試合から私は天理高校を応援するようになった。紫の色を基調としたユニフォームがかっこよかった。その頃の私は紫色が大好きでけん玉の糸も紫にしていた。他の高校の帽子にはアルファベットの頭文字なのに、天理の帽子には漢字で「天」とだけ書かれていて、それも好きだった。その昔、奈良に住んでいたこともあってそれも天理高校を応援している理由の一つだった。今はそうでもないかもしれないけれど、私が小学生の頃、奈良の代表は毎年天理高校だった。

 第87回大会、天理は一回戦で負けた。相手は機動力で攻めてくる国士館高校。チームの中心は9番と1番を打つ高橋兄弟で、双子の彼らはめちゃくちゃ足が速かった。塁に出ると毎回盗塁を決めてくるのだ。9回の表まで天理が勝っていたのにエラーと高橋兄弟の好走塁で国士館が追いつき、延長の末に天理は破れた。味方の攻撃の時に天理のピッチャーが泣いていた。つられて私も泣いた。号泣した。阪神タイガースは負けてもまた次の日試合できる。でも彼らが甲子園でプレーできるのは今日のこの試合しかないのだ。

 

 

 「この一瞬は二度と来ない」ということが私は怖い。子供の頃日記をつけてたのだけれど、そこには毎日の出来事を全部書き残しておきたいといった軽い強迫観念があった。必死で記録を残そうとしていた。もちろんそんなことは不可能で、それに気づくたび私は悲しくなった。

 

 

 パイレーツオブカリビアンのテーマはまだ流れていて、フランスの選手は思い思いのまま嬉しさを表現していた。サポーターとみんなでバイキングクラップをしたり国旗を掲げて走ったり。観客も選手もスマートフォンを持っていて写真を動画をいっぱい撮っていた。奇妙な光景だった。

 スマートフォンで撮影をしているということは一歩引いた視点で自分の状況を見ているということだと思う。ということは100%その興奮に埋没していないということなのだろうか。電子機器は感動の濃度も薄めるのだろうか。いや感動を切り取って残せるのだから濃度が薄まるだけで感動の絶対量は変わらないのかもしれない。動画や写真は感動を何度でも呼び起せるのだからむしろ絶対量はこっちの方が多いのかもしれない。夜が更けていった。

 

 

 30分以上も彼らが喜んでいる姿を見ているとさすがにちょっと飽きてきた。間違いなく彼らにとっての人生のピークの一つで、選手もスタッフもこの瞬間を迎えるために何年も何年も努力してきたのだ。2年前のヨーロッパ選手権はフランス開催だったのだが、フランスは決勝でポルトガルに負けた。その悔しさをまだ覚えている選手もいるだろう。それでも私にとってはあくまでも他人事で、彼らの姿を見ながらこんなにも高揚感が長く続くものかと思った。多分、彼らの脳内には麻薬のような物質が出ているのだろう。それでも高揚は30分も続くだろうか。彼らはふと我に帰ったりしないのだろうか。不思議に思いながら見ていた。興味深かった。

 

 

 ようやくパイレーツオブカリビアンが終わって表彰式になった。大会MVPに選ばれたモドリッチはまだ浮かない表情でトロフィーを受けとっていた。彼は不思議な顔立ちだと思う。女性のようにも見える顔。表情によって老人にも見えるし少年にも見える。どんな性格なのか気になる。FIFAの偉い人と握手しても彼は終始悲しそうな表情をしていた。抱きしめてぎゅっとしてあげたいと思った。フランスの選手もやっと興奮が収まった様子でメダルを受け取っていた。メダルを受け取ったフランスチームはその後ワールドカップをみんなで掲げた。カメラマンがみんなで一斉にシャッターを切って金色の紙吹雪が吹き上げられた。またまた感動はピークに達しみんながみんなカメラを手にした。

 

 

 彼らの興奮はあとどのくらい続くのだろう。どんな風にして宿舎に帰ってどんな風に眠りにつくのだろう。明日も明後日も彼らは余韻に浸るのだろうか。ワールドカップで優勝し世界の頂点に立つというような興奮はどれだけの期間続くのだろう。気になる。

 これは推測だけど、負けたチームの方が余韻に浸る時間が長いと思う。フランスチームはケロッとしてメダルを受け取っていたがクロアチアの何人かの選手はメダルをもらってもうなだれていた。

 高校野球でも負けたチームがフォーカスされる。熱闘甲子園でも試合に負けて宿舎に戻った選手の様子や、晩御飯の様子が必ず映る。高校サッカーでも高校ラグビーでもそうだ。試合後のロッカールームに、宿舎に、テレビカメラは躊躇なく入っていく。大抵はうなだれたり抱き合ったりしていて、視聴者はそれを視て満足する。みんな負けて泣くスポーツマンが好きだから。でもどのチームにも切り替えの早いやつがいてそいつがみんなを笑わせてくれる。初めて笑った時、今までの暗い雰囲気は魔法のように消える。そこから段々と余韻が薄れていくのだ。

 

 

 それでも残り香はどこかにしつこく残っていて、一人になった時やお風呂に入るときにふらりとやってくる。それでも私を笑顔にしてくれた言葉は悲しさは薄めることができるし、自分は一人でないとも思える。そういう時「大迫、半端ないって」と言った彼はやっぱりすごいと思う。

#25 台湾の南の端を踏む

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 8月21日。

 波は寄せては帰っていった。紺色、濃い藍色だったうねりは岸に近づくにつれて色が薄まり、帰ってきた波とぶつかって白い泡になる。ビールのような泡はすすーっとこちらに向かってくる。泡になる前の一瞬、コバルトブルーが輝く。私はいつまでも海を見ていた。

 

 今日は一日中歩いていた。

 8時に起床すると、もう向かいのベッドでは香港の彼女が荷造りをしている。8時半に部屋を出て行った彼女は今日、花蓮に行く。乗合タクシーで。うとうとしてたら雨が降ってきて外に出れなくなった。下のベッドのやつがごそごそ動くので私のいる上のベッドも揺れる。彼はずっとスマホで動画を見ている。時折ひどい咳をしてベッドが揺れる。私はこのホステルがあまり好きではない。チェックインした時の不愛想な感じも、踊り場にかけられたオーストラリア土産と思われる気味の悪いコアラの絵も、ドミトリーの少し汚れた感じも、全部が全部少しずつ積み重なって負の感情が膨らんでいく。

 

 

  10時に部屋を出てコンビニで水を買った。しかしそこで雨が降ってきてまた足止めされる。もしかしたら今日のハイキングはもうあきらめた方がいいのかもしれない。天気予報を見ると一日中雨だった。私は仕方なくコンビニでカレーを食べて雨が上がるのを待つ。カレーはけっこうおいしかった。昔おじいちゃんに連れられて行った球場のカレーの味と似ていた。リゾート地で物価が高いからか、コンビニでご飯を食べている人も一定数いる。

 雨がましになって外に出る。しかしすぐにまた雨が降りだして私は自然公園の入り口でレインコートを着る。そこから車道沿いにどんどん登っていく。ハイキングコースだと勝手に思っていたけれど歩いている人は一人しかいなかった。ただ近くに有名な牧場があったり山の上に自然公園があったりするから通り過ぎる車は多かった。

 なにか道の端を動いているなと思って見ると、サワガニだった。よく探すと何匹もいた。見たこともない蝶や草木がたくさんあった。近くには大尖石山という山があった。その山の不思議な形と海が見えてきれいだった。2時間ぐらい上がってようやく下り坂にさしかかった。日差しが出てきてガチョウと鶏が陽気の中で散歩していた。草原が広がっていて木々が立っていた。風が強い場所らしく、根元から大きく斜めに生えた木が必死に地面につかまっているように見えた。

 半島の東側に行きたいので自然公園の遊歩道を突っ切っていくことにした。熱帯の薄暗い森の中を歩いた。所々に動物の足跡や糞が落ちていた。たくさんの種類の植物と虫たちがいた。棘のついた草や、もじゃもじゃの木。見たことのない赤い花やねむの木。私はいつも旅行に来ると、家に帰って植生について勉強しようと思う。でも一度も勉強したことはない。それは一種の旅の幻想だと思う。旅の途中に私はいつも「あれもしたいこれもしたい」と思うけれど、家に帰っても元の日常に戻るだけだ。何もしないし何も変わらない。感動も衝撃も家に帰ればただの思い出になるだけで、私を動かすわけではない。能動的に足を運んでいるように見えて、旅路の私は案外受動的である。

 昔昆虫館で見たような蝶が飛んでいた。どうしてだか私は映画「チャーリーとチョコレート工場」に出てくるウンパランドを思い出して一人でふふふと笑った。映画に出てくる熱帯雨林と目の前の遊歩道が少しだけ似ていた。どこかから小人たちがこちらを見ている気がした。

 何人かの子供連れの家族や若いカップルとすれ違った。展望台があって上ってみると一面の森の海だった。その向こうに薄く青い海が見えた。

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 半島の東側に出る道をどうしても見つけることが出来なくて私は焦った。何度もグーグルマップのアプリで確かめるもついに見つけることが出来ず、今いる場所がどこかもわからない私は心細くなった。風がびゅうびゅう吹いて今にも雨が降りそうだった。溶岩が固まってできた岩がたくさんある場所に出て少し怖かった。ぬかるんだ道には誰の足跡も残っていなくて、いよいよまずいかもしれない。雨が降りだしたら大変だなと思った。こんなところで蛇に噛まれたりしたらもうおしまいなのだろうなと思った。そう思う一方、私は宮沢賢治を思い出していて彼がこの道を歩いたらどう思うだろうかと空想した。溶岩や赤土、色とりどりの蝶、カニ、生い茂った緑。そのどれもが急に賢治作品の主人公のように見えてきた。家に帰ったら銀河鉄道でも読もうかしら。彼が学生時代に岩木山に上っていた話やグスコーブドリと火山の話を思い出したりした。

 

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 急に視界が開けて丘の頂上に出た。なぜかそこだけ草原が広がっていて、人の手の加えられた跡があった。海と山が見えて、私は東にはほとんど進んでいないことが分かった。雨水がたまってできた池に魚が泳いでいた。トイレの場所を示す標識があってどうやらこの道を進むともと来た場所に戻れるらしかった。がっかりした半面、少しほっとした。結局のところ私の探検は同じところをぐるぐると回っただけで終わった。しかしいろんな不思議な生き物、植物を見ることが出来た。なぜかトマトが道の端に自生していた。

 

 

 ヨット石というところから幹線道路沿いを歩くことにした。目的地は台湾最南端、道のりは大体5キロぐらい。海沿いを歩くからさぞ素晴らしい景色が見えるだろうと思っていたのにゆけどもゆけども防風林しか見えない。波の音や匂いですぐそこに海があるのはわかるのにもどかしい。おまけに日差しがきつくなって日焼けした首や顔がひりひりしはじめた。原付や電動バイクに乗った観光客が次々に私を追い抜いていく。国際免許証がないので原付には乗れないが、電動バイクなら私も乗れる。ヨット石のところの店でレンタルすればよかったと少しだけ後悔した。さらに悪いことにサンダルが擦れて痛くなってきた。汗でふやけた足がサンダルの紐とと擦れて赤くなっている。私は少し休憩した。

 砂島と言う場所の景色がきれいだった。何年も前のサンゴ礁と溶岩が岩になっていてそこに波が打ち寄せていた。いいなあと思った。

 

 「南の端はこちら」みたいな看板が立っていて、そこから小道が続いていた。あと少しで南端だというところで若者が一人でギターを弾いていた。そこは木立の中だったのだけれど、彼の音楽は蒸し暑い熱帯からおおよそかけ離れた、涼しいおしゃれなもので、私はそのギャップに笑ってしまった。かなり巧い弾き手だった。小さな声で歌っていたけどそれも良かった。

 南の端といってもそこはなんて事のない普通の海である。たくさんの人がそこを訪れては帰っていった。子供連れが多かった。私は手摺にもたれかかって海を見ていた。虹が一瞬できてまた消えた。

 

 バスが来たので乗った。2時間弱かけて歩いた距離はバスだと15分だった。ホテル近くの小さなビーチでまた海を見た。波が高くてズボンが濡れてしまった。打ち寄せる波は砂浜に上がっても案外こちらの方まで進んでくる。すーっと波打ち際を進む波を見て、手元で伸びてくるストレートもこんな感じなのかなと思った。

 ワンタンメンみたいなものを食べて部屋に帰った。下の男はずっとスマホの画面を見ている。時々音が漏れてきた。

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#24 墾丁から

 

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 8月20日

 かなり長い時間寝ていた。昨日は風邪気味なのに雨の中を歩いてしまってちょっと疲れていた。筋肉痛がひどかったので寝る前にストレッチをした。起きると汗びっしょりで、でもだいぶ楽になった。

 カウチサーフィンのホストはきっかり10時に部屋から出てきてくれて、私を見送ってくれた。私はやはり今日も慌ててパッキングをした。ホストもやはり最後までドライな人だった。お礼にといってキットカットを渡した。

 今日行くところは墾丁(Kenting)というところである。海があるらしい。あとナショナルパークがあってハイキングもできるみたいだ。滞在していた左管駅からもバスが出ているが、私はお金を両替しに高雄駅の方まで行かなくてはいけない。メトロに乗って高雄駅で降り、銀行まで歩く。昨日とは打って変わって日差しはきつい。汗がダラダラでる。あまりにも汗が出るのでもしかしたら病み上がりなのかもしらない。

 安泰銀行で両替する。調べていた通り手数料を払わなくて済み、少しお得である。手続きはすぐに終わり、私は近くのお店で魯肉飯弁当を食べた。70元だった。弁当形式で食べれるお店はいろんな種類の料理が食べられて野菜もとれるので本当に嬉しい。

 ご飯を食べてから、時間があるのでスマホをいじってこれからの計画を立てたり、SNSを覗いたりした。どうやら日本では金足農業高校が大旋風を巻き起こしているみたいだ。

 

 

  高雄駅前でバス乗り場を探したのだけれど、ひょんなことから乗り合いタクシーに乗ることになってしまった。墾丁に行きたいのだけどどのバスに乗ればいいのか分からない。不安な気持ちで歩いていると、檳榔を噛んでいるおっさんが大声で「ケンチン!ケンチン!」と私の行き先を叫んでいた。てっきりバス会社の客引きだと思った私はどこに行けばバスに乗れるのか聞こうと声をかけた。おっさんは横にとまっている車を指差した。それは乗り合いタクシーだった。値段を聞くと350元。バスは確か340元だからそんなに悪くない。私は乗ることにした。

 不安だったけど、ドライバーの人が私の正確な行き先を聞いてくれてからやっと安心できた。隣の人は私より前の場所で降りるみたいだった。厦門から来ている人で台湾には5日間滞在するみたいだ。前の人はどうも台湾人のカップルみたいで、男の方が英語が話せないドライバーとの通訳をしてくれた。気さくな人で台湾で何をしているのかとか、何日ぐらいいるのかと聞かれた。台南でサマースクールに通っていたというと、授業がどんなんだったかとか、授業料のこととか聞かれた。

 助手席の女の人は全然喋らない人だった。「ユエナンレン」っていう言葉が聞こえた気がしたからベトナム人かもしれない。静かな人だった。

  高雄から屏東に入り、南へ東へとタクシーは進む。途中の東港というところで前のカップルが降りた。私は後列から彼らがいた中列の席に移った。そこで私は寝てしまって気がつくともう墾丁だった。

 


 その建物には私が予約したホテルの名前が確かに書いてあった。ただ予想していたよりもはるかにくたびれた感じの建物だった。しかし昨日クレジットカードで払った値段と、ここ墾丁がリゾート地だということを考えると妥当なのだ。屋上まで階段を上がる時にホテルの人がトランクを運んでくれなかったのもそれは当たり前なのだ。私は少し疲れている。

 部屋には女の人のトランクが開いたまま放ったらかしてあった。ホテルの人は終始無愛想なままで一通り説明をした後下に降りていった。私も荷物を置いて外へ出た。

 

 

 ビーチが広がっていて綺麗だった。昨日とは違って白い砂浜で、人もたくさんいた。靴を履いていたので海にははいれなかった。それでもビーチにいるだけで心がうきうきする。あたりを見渡すと家族連れや友達と来た人が多かった。砂の中に埋められたお父さんや、海に転がり込もうとするバレーボールを夢中で追いかけるあまり転んでしまった人。見たことのある風景が広がっていた。東洋人が多かったけど白人の人も結構いた。近くで結婚式用の写真を撮っている人がいた。

 


 することもないからずっと海を眺めていた。少し疲れてしまったのでセブンイレブンで涼んだ。食堂に入ろうと思ったけどどうも物価が高くていいお店がない。イートインコーナーで明日のハイキングの計画を練った。となりの男は音を出しながらスマホゲームをしていた。30分くらいいたら店員さんが試飲のお茶を出してくれた。レモンの味がしたミルクティーだった。サマースクールで一緒に過ごしていた日本人の友達がうまいうまいと言いながら紅茶を飲んでいたので、いつしか私も台湾の紅茶が美味しいと感じるようになってきた。

 もう一度ビーチを歩いた。プール付きのホテルやら色々あって、やっぱりここはリゾート地らしかった。ホテルへ帰る道にはもう色とりどりの出店が出ていてやはりどれも高かった。沢山の色と高い値段で目がチカチカした。安い食堂で魯肉飯と豆腐を食べて帰った。

 トランクを開けっぱなしにしていた女の人は香港人でとってもフレンドリーな人だった。私は王家衛王菲が好きなのでその話をした。

 


 お風呂に入ってから急につまらなくなった。布団にねっころびながら持ってきた放浪記を読んだ。芙美子が男に会いに因島に行くところだった。パン!パン!と音がなって窓を見ると海岸で花火が上がっていた。けれどももう私は何も感じられなくなっていた。

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