シゲブログ ~避役的放浪記~

日々の些細な出来事、昔の思い出を書いていきます

#35 偶然/必然

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 自転車がパンクした。ここ一か月でもう3回目である。誰かにいたずらされているのではないかと勘繰りたくなるような頻度である。はじめに後輪が2回パンクしてチューブを新しくした。大学が午前中で終わった日の午後、自力でチューブ交換をしてみたのだ。これが案外簡単にできた。昔、ことあるごとに「おれは一人でパンク修理ができるんやぞ」と豪語するクラスメイトがいて、そんな彼をすごいなと思っていた。でもなんだ、やってみれば簡単じゃないか。

 3回目の昨日は前輪だった。たまたまパンクした場所が自転車屋の近くだったのでそこで直してもらった。自転車屋の隣にはドン・キホーテがあった。ふと気付いた。1回目のパンクもこのドン・キホーテの近くだった。大学に行く途中でパンクに気付き、ドン・キホーテの駐輪場に自転車を止めてひとまずバスで学校に行ったのだ。よくよく考えると2回目のパンクも別のドン・キホーテの近くであった。私はその奇妙な偶然に驚いた。3回のパンクが全てドン・キホーテの近くで起こっているのだ。少し怖くなった。21世紀になってもやはり説明のできない出来事は怖い。

 

 

 大学に入って一度だけおばあちゃんに手紙を出した。1週間後に返信が届いた。病気が進行するに連れて祖母はますます読書を楽しみとするようになっていて、その頃は私が貸した沢木耕太郎の「深夜高速」を読んでいた。手紙にも「深夜高速」のことが書いてあった。沢木耕太郎は「デリーからロンドンまでバスで行ってやる」といって一人旅をした人なのだけど、おばあちゃんの若いころにも小田実という人がいて、彼も「何でも見てやろう」という本に世界旅行の経験を書いたらしい。おばあちゃんはそういう諸々を手紙の中で教えてくれた。

 朝日新聞の一面には「折々のことば」というコーナーがあって、鷲田清一古今東西のステキな言葉を紹介している。毎日、過去の名言とそれにまつわる彼の文章が載っている。私はよくもまあネタが尽きないなと思う。もう1200回以上連載しているはずだ。

 おばあちゃんの手紙を読んだその日、鷲田清一が紹介していたのは「人間古今東西みなチョボチョボや」という小田実の言葉だった。びっくりした。その日まで「小田実」という名前を聞いたことも読んだこともなかったのにたった一日で2回も目にしたのだ。不思議である。ここから遠くない芦屋に彼の記念碑があって、その言葉が刻まれているということも新聞には書かれていた。

 それだけではなかった。「小田実」の名前はその午後読み始めた本の中にも出てきたのだ。新潮文庫「ニ十歳の原点」。その本にも彼の名前が紹介されていた。何か目に見えない力が働いているような気がして鳥肌が立った。「ニ十歳の原点」は学生運動全盛期の京都で大学生だった高野悦子という人が書いた日記である。「何でも見てやろう」が出版されたのが1961年で、高野悦子の日記が書かれた時期は60年代の終わり。小田実ベ平連といった平和運動に参加していた人だから当時の学生には広く知られていたのだろうと思う。

 同じ人の名前が別々の場所から3つも出てくるとやっぱり怖かった。ただの偶然とはいえその偶然が何か意味を持つのではないかと考え込んでしまった。私の思考は「運命」とか「啓示」といったスピリチュアルな方向に向かってしまい、その日は何をしていても頭の片隅でそのことを考えていた。

 

 

 1カ月前、連続して「ヘンな」ものが見えた。

 ある朝駅に向かう途中で犬を散歩させている人影を見た。確かに見た。しかしその一人と一匹は、私が地面に目を落としまた顔を上げるまでの数秒足らずの間に影も形もなくなった。急いでいたのでちゃんと確認しなかったけれどどう考えてもおかしな出来事だった。

 その次の月曜日にもまた「ヘンな」ものがみえた、祖父の家の手前50メートルほどのところを自転車で走っている時のことだった。時刻は夜10時で暗かった。坂道なので立ち漕ぎをしていた。祖父の家の門灯を見ていると人影がスーッと移動して門のところに入っていくのが見えた。初め、祖父だと思ったので「ただいまー」と呼びかけた。けれども返事はないし、門が閉まる音もしない。センサーで点く防犯ライトも反応はなかった。玄関の扉を開けて祖父に訊くと、彼はずっと書斎にいたと言う。私は自分の見間違いかと思ったけど、何かを見たということには間違いなかった。泥棒かと思ったが、生身の人間なら防犯ライトが反応したはずである。謎だった。怖かったので家中の電気を点けて風呂に入った。

 シャワーを浴びながらいろいろ考えていた。誰かが死んだのかもしれないとぼんやり思った。いつか聞いた怖い話を思い出してぞっとした。

 そんな時いきなりお風呂のドアの向こうから電子音が聴こえた。ピピピピピピピピ……。体をふいて急いで出ると、誰も設定していないのにリビングでアラームが鳴っていた。時計を見ると日付が替わって10月2日になっていた。そこでようやく気付いた。そうか、2日は祖母の月命日じゃないか。そう気づくと、少しうれしくなった。

 

 ドライヤーで髪を乾かした後で、祖母の写真の前に正座し、線香に火をつけた。煙の筋を見ていると少し気持ちが落ち着いた。もちろん私が勝手に盛り上がり、自分の都合のいいように物事を解釈しているだけとも言えよう。こういうものを全く信じない人の目には、私の思考も行動もひどく馬鹿げたものに映るに違いない。

 それでも私はその夜の不思議な出来事に理由を見つけることが出来てほっとした。

 

 その話は祖父にはしなかった。ただ彼の部屋までは行った。

 彼はパソコンの前に座っていた。もう寝ようとするところだった。見ると彼は画面の上にあるタブを一つ一つ消していたのだけど、最後にデスクトップに残ったのが谷町にある風俗店のホームページだった。私はニヤニヤがとまらなかった。そして少し安心した。自分の心配がちっぽけなものだと気づけたし、この人は恐怖をみじんも感じていないに違いない。

 一方で、それは悲しいことだとも思った。この人とは今の感情を共有できないと感じたからだ。私の恐怖も感動も、彼にとっては隣の星雲の出来事と大差ないのだろう。

 

#34 ポケット今昔物語

 

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 今は昔——というか去年の6月——2つ年下の女の子が私に言った。「人ってそんな簡単には変われないんですよ」

 その時、私は「そんなことはない」と返したし、今でもそう思っている。でもどうだろう。人間の根っこにある本質的な部分は案外変わらないのかもしれない。そんな風に最近感じ始めた。

 

 

 目薬がなくなりそうだ。小さなボトルにはあと数滴分しか残っていない。達成感が湧いてくる。何しろ目薬を最後まで使い切るのは初めてのことなのだ。

 私は目が細い。目つきが悪くて、祖母には何度も注意された。道を歩いているとガンを飛ばされたりすることもある。目を開けているのに寝ていると勘違いされたこともある。正直目の大きな人が羨ましい。彼らは笑っても目が線になることはない。クラス写真を撮る時、写真屋さんに「そこの男の子、目を開けてくださいよー」なんて言われることも絶対にない。

 そんなに細い目だから、目薬をさすのは大変である。恥ずかしい話、一滴で目薬をさせるようになったのは高校生の時である。中学生になっても私は目薬が苦手で何滴垂らしても上手く目に入れることができなかった。悪戦苦闘する私をみんなが笑っていたけれど私は必死だった。

 最近極端に目が疲れるようになった。大学の眼科検診で視力を測ると左目だけ視力が落ちていた。眼科に行くとおばあちゃんの先生が「きみ眼圧高いねー」と言って眼圧の検査をすることになった。まあ眼圧には異常がなかったのだけど点眼薬をもらった。

 私は面倒くさがりでもある。眼科で目薬をもらっても面倒で、いつも途中でさすのをやめてしまう。処方されて大体3日ぐらいは毎日使うのだけど1週間ほど経つと忘れてしまって、1ヶ月経てばどこに行ったのかもわからなくなる。

 そんな私だが今回はちゃんと毎日目薬を差そうとこころがけた。視力の低下が少し怖かったのだ。実際目が疲れるとぼやけて見えることが多くなっていた。私は毎日小さなボトルをポケットに入れて家を出た。バイト、大学、図書館、カフェ。いろんな場所を行き来しながらいつもポケットの中には目薬を忍ばせていたのだ。一か月半ほど経って目薬はもうほとんどなくなった。少し誇らしかった。目薬を最後まで使い切るというのは今までにない経験なのだ。「初めて」はいくつになっても良いものである。私は目薬を使い切るXデーを心待ちにしていた。

 

 

 ところがである。先週ついに恐れていた出来事が起きた。私は目薬をポケットに入れたまま洗濯に出してしまったのだ。次の朝、目薬がないことに気付くも時すでに遅し。「ああ」とむなしいため息が漏れる。私はまたやろうとしていたことを成し遂げられなかった。がっかりして悲しくなる。

 小学校に入った頃のことを思い出した。小学校に入ると祖母と母は決まって毎朝ハンカチとティッシュを持たせた。家を出る前に「ハンカチ鼻紙持った?」といつも私に確認するのだ。7歳の私は半ズボンの小さなポケットにそれらをねじ込んで家を出る。小学校低学年の子が履くようなズボンは小さい。ハンカチとティッシュを入れるとポケットはぱんぱんに膨らんで気持ちが悪い。動きにくいのでハンカチも鼻紙も持っていくのはいやだった。

 学校と学童保育が終わると家に帰る。帰宅した私は最初にお風呂に入ることになっていたと思う。一日中校庭で遊んで服を汚しているからだ。私はよくハンカチとティッシュをポケットに入れたまま洗濯機を回してしまった。洗濯かごを持った母があきれた顔で私を呼びつける。私は洗濯物にからみついた白い繊維たちを見て何とも言えない悲しい気持ちになるのだった。沈んだ気持ちでティッシュだった塊をセーターやシャツから取り除くのだ。「ティッシュを洗濯機に入れてはいけない」と母に何度も言われているのにまたやってしまった。自分が恥ずかしかった。いらいらした。

 奇妙なことだが、幼い私はそんなティッシュ達に対して申し訳ないと思っていた。最後まで使い切ることが出来なかったという自責の念にかられる。道半ばで洗濯機の藻屑となった彼らのことを考えるとやり切れない思いになった。

 目薬を洗濯してしまったのも今回が初めてではない。生まれてから今まで、かれこれ10回ぐらいやっている気がする。洗濯する度自分が成長していないことを知って悲しくなる。別にそんなに大げさなことではないのだけれどやっぱり悲しい。さすがにティッシュを洗濯することは少なくなったけれど、目薬やレシートなんてのをポケットに入れたまま洗濯してしまうことはまだある。秋が来て涼しくなったこの10月、私は今シーズン初めてのジーンズを履いたのだけれど、お尻のポケットから出てきたのは出場を済ませていない阪急電車の切符だった。もう笑ってしまった。

 

 

 自分より若い人が「人間はそんな簡単に変わらない」と言うのを聞いた時、私は悲しくなった。自分自身これから大きく変わりたかったし、変われると信じていた。なのにそんな風に言われるなんて。

 極悪人が改心して善人になる話や、問題児が更生してヒーローになる話は世の中にごまんとある。例えばほら、刑務所で腐っていたジャンバルジャンも善人になろうと苦悩する。ジャベール警部だって最後は改心したじゃないか。「クリスマス・キャロル」のスクルージだって最後は善人になろうとするだろ?

 「でも、」と私の頭の中で声がする。それってお話の中だけだろ? 実際の世界を見ろよ。お前の祖母は恨み言を言いながら死んだし、彼女の死があってもお前の家族はほとんど変わっていない。

 

 

 私はロマンチストで肥大妄想の癖がある。だからこそその言葉を聞いて耳が痛かった。「こんな人間になりたい」という自分の妄想も、「変わりたい」という思いも、無計画で非現実的なものだ。第一努力していると本当に言えるのかよ? その現実をどこかで自覚していたから彼女の言葉が心に刺さったのだ。

 

 

 思えば今年の9月、親友Jも同じことを言っていた。「毎年新しい夏が来ても、結局人は最初の夏休みを繰り返す」

 自分自身を振り返ってみて、これは真実だと思う。

#33 そのことば「取り扱い注意!」


 

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 使う時に気をつけないといけない言葉がある。

 今年の217日と18日の土日に名古屋の大須に行った。「大須にじいろ映画祭」というのに参加したのだ。「にじいろ」という名の通り、セクシャルマイノリティに関する映画祭だった。

 18日にメインの上映会があって、17日の夜には前夜祭という名のパーティーがあった。パーティーの中盤になると、集まった参加者で輪になって自己紹介をした。映画祭の性質上様々な人がいて、いろんな境遇の人がいるのだった。自分をレズビアンだという人もいればゲイの人もいた。自分をセクシャルマイノリティだと思っていない人も何人かいて、その人たちは「私はふつうなんです」と言った。

 何人目かの人が「ふつうです」と言ったときに、自分のことをゲイだと言ったおじさんが「みんなふつうなんですよ」と言った。確かにそうだった。

 

 略し方もそうである。

 レズビアンは「レズ」と略したら不快に思う人もいるらしい。「どうして?」と聞くと、「レズ」という短縮した言葉にはポルノビデオのイメージがあったり、蔑称として使う人が多いからだそうだ。なるほど。

 東洋人、特に日本人のことを「ジャップ」と言うのもダメなようである。私の大好きなフットボーラーであるジェイミー・ヴァーディ―が昔、レスターのカジノで「ジャップ」という言葉を東洋人に浴びせて問題になっていた。

 

 この「気をつけないといけない言葉」の話をすると、いつも中国の名称の話をする人がいる。最近は中国のことを「しな」と呼ぶのは蔑称になるらしい。「東シナ海」や「インドシナ半島」という地名があるにも関わらずだ。

 確かに「支那人」という言葉からは差別の匂いがする。そういえば高校時代、右翼思想にはまっていたクラスメイトも中国のことを「しな」と呼んで笑っていた。

 この話を持ち出す彼はいつも決まってその後に続ける。「中国」という名称も逆差別に当たると毎回主張するのだ。中国という名前自体、「中国が世界の中心である」という中華思想に基づくもので、「中国」という言葉を使う時、それは中国を必要以上に敬ってしまうことになるのだと彼は言う。この話は面白いと思う。

 ただ、この論争には答えが出ない。年々、「志那そば」の文字は「中華そば」や「らーめん」の文字に替わっていくし、ニュースで中華人民共和国が取り上げられる時、キャスターは必ず「中国」と言う。しかし一方で東シナ海東シナ海のままである。「しな」という言葉にも「中国」にも問題があって、そういった言葉を嫌がる人はいるのだけど、彼らは新しい名称を作るわけでもないし、もし作ったとしても定着するには時間がかかる。一朝一夕で答えが出る話ではない。

 わきにそれるが、毎回この話題を出す彼のことが私はわからない。この論争を食事の時間に始めること自体私には不思議なことに思える。テーブルの面々を見回してもみんなは口をつぐんでいる。喋っているのはいつも彼一人である。私はこの話題が始まると帰る準備を始めることにしている。

 

 

 友達に3年浪人したやつがいる。もうどういう言葉をかけたらいいのかわからない。彼が頑張れるような言葉をかけてあげたいと思ったが、何を言っても傷付けてしまいそうな気がする。ツイッターでの彼の呟きを見ながら、私は考えなくてもいいようなことをいちいち考えてしまった。勇気づけたいし頑張ってほしい。けど無理はしてほしくない。私が声をかけて、それで彼が傷つくのなら声はかけないでおきたい。結果的に彼は東京の大学に行ったみたいで、私はそういうことをSNSでなんとなく知ってとりあえずほっとした。長い間彼にかける言葉を探していたが私はその言葉を見つけることが出来なかった。わりかし仲のいい友達だったのに。

 

 去年の10月上旬、山形国際ドキュメンタリー映画祭に行った。面白い映画祭だった。私は時間とお金が許す限り死ぬまでこの映画祭には参加していたいと思う。それほど良い場所である。

 この映画祭のいいところの一つに映画の感想をみんなで語り合える場所がちゃんとあるということがある。夜になるとみんなで香味庵という居酒屋に集まってわいわい話し合うのだ。

 そこで私は台湾の人達と仲良くなった。今思えばそれが私が台湾を好きになるきっかけで、それがなければ今年台湾に2回も訪れたりしなかったと思う。彼らは皆フレンドリーで話していて気持ちよかった。そもそも映画祭で私が話した人はみな面白い人であった。その頃の私は休学期間が始まったばかりで、開放的な気分になっていたのだと思う。

 

 私はミンタロハットという名のゲストハウスに泊まっていた。私が泊まって3日目の夜に台湾の人が二人、近くのホテルからミンタロハットに宿を移してきた。ゲストハウスのリビングには彼らのトランクだけがあって、私と顔なじみになった宿泊客達が、その台湾人達がどんな人なのかと話し合っていた。私は彼女らを知っていたので、二人のことを話した。ニ人は今度の5月に台北で行われるドキュメンタリー映画祭の宣伝で来ていること、一人は映画製作の会社に勤めていること、もう一人は私と同じように大学でロシア語を勉強していた人だということを話した。

 ニ人を区別する言葉を私は思いつくことが出来なくて、「若い方の人」「年取った方の人」という言葉を使った。そのすぐ後で「年取った」という言葉は女性に対して使うには適切ではないと私はその場にいた人に言われた。何の気もなく発した言葉だけど、それが人を傷付けるものであることに気付いて恥ずかしく思った。されど他にどういった言葉を使えばよかったのかと考えると、それも難しい話であった。しかし私はうまくやるべきだった。

 

 

 つまるところ、言葉を使って生きる限り人を傷つけることは免れない。大事なのは指摘された時にどうリアクションするかだと思う。「レズ」は「レズ」だと言って開き直る人を私は知っている。理解したうえで嬉々として「しな」と呼ぶ人もいた。

 そもそも線引きがあいまいな問題である。同じ言葉を聞いて全く何も感じない人もいれば、深く傷付く人もいる。「つんぼ」「めくら」は確かにダメな言葉だと納得できるが、「ぎっちょ」がなぜダメなのか私にはよくわからない。それでもその言葉を嫌がる人がその場にいるのであれば私はその言葉を避けようと思う。少なくともその人の前では言っちゃダメだ。

 ただ、傷付いた気持ちをみんながみんな表現できるわけではない。私が誰かを傷付けても、その人は傷付いた気持ちを自分で抱え込んだままであることもある。私が発した言葉で傷付いている人が私の知らないところにいるのなら、それはとても悲しいことだ。

#32 プレゼンターツィア  

 

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 今日はロシア語でプレゼンをする授業だった。4月から各々で進めてきた研究を発表するのだ。90分の授業で6人が発表した。

 私は今月に入ってから論文を調べ、何冊かの本を読み、原稿を仕上げた。パワーポイントもどうにかこうにか仕上げた。しんどかった。

 その時間、私は一番目に発表した。ロシア語を読むスピードが遅くて、A4の原稿を2ページ読むのに15分もかかった。その間みんなはずっと黙っているわけで、原稿を読みながらちらちらアイコンタクトをとっても、全員が全員退屈しているように思えた。顔を知っているけれどそのほかは全く知らないようなクラスメイト達。彼らの顔は無表情で怖かった。

 

 私はプレゼンをするにあたって私の範疇を超える語彙を使っている。使うことを強いられている。そうした語彙はまだ私の血にも肉にもなっていなくて、だから使っても使っても手ごたえがなくてなんだか心細い。喋っているうちにどんどん自分が信じられなくなってしまいには何を言っているのかわからなくなる。それでも私は「新しい単語も文法も全部知っているんですよ」という態度で話さないといけない。もしかしたらそれが一番辛かったかも知れない。

 

 正直、話を聞いている人もそんなにはわかっていないのだと思う。私たちはお互いに自分が知っているボキャブラリーだけを喋り理解する。みんながよく使うボキャブラリーも勉強の足りない私にとっては初めてだという時がある。逆に私が知っているボキャブラリーもおそらく何人かにとってはなじみのないこともある。

 

 

 言語を学んでいて気付くことの一つに「私たちはお互いに決して分かり合うことがない」ということがある。この世の真理の一つだと思う。その真理は、言語の世界でわかりやすい形で現れる。

 私が話し終えた後、一人のクラスメイトが質問をした。情けないことに彼女の質問を全く聴き取ることが出来なかった。あとで確認すると簡単な内容の質問だった。それでも私は聴き取ることが出来なくて、もちろん質問にも答えることが出来なかった。さっきまでさかしら顔でスピーチをしていたのに、急に心細くなる。所在無げに突っ立ったままの私にロシア人の先生が助け舟を出してくれた。それでもやっぱりわからなくて立ち尽くしている。こうかなと推測して答えてみたけれどうまくロシア語を使えなくてもどかしい。ひねり出した私の答えはやはりとんちんかんなものだったらしく、クラスメイトの顔にはてなマークが浮かんだだけであった。化けの皮が剥がれた私は先生に言われるがまま「Извините я не знаю」(ごめんなさい。わからないです)と言って教室の前から退散し、モヤモヤの残ったまま席に戻った。

 

 前に立つ私はみんなの目にどう映っていただろう? 自分の席でそんなことを考えていた。私の弱気はきっと見透かされていただろう。何人かはきっと軽蔑したにちがいない。落ち込む。

 他の人のスピーチも頑張って聞こうとしたけれど、いかんせん話の内容を聴き取ることが出来ないので、私の思考は自然とネガティブな方向へ進んでいった。

 

 いや、思い込みすぎだ。そんなことあるわけない。みんな無表情なだけで、私に対してネガティブな感情を抱いているわけではないだろう。自分の思い込みが激しいことはよくわかっている。別にみんながみんな私を嫌っているわけではないのだ。それでも私だけがみんなから離れた場所にいるような気がして辛かった。

 大学生は賑やかでいるように見えて、 実は孤独なのだと思う。私が抱いている孤独もおそらく私だけの孤独というわけではけっしてないだろう。私はみんなと仲良くなりたかった。でもどうすればいいのかわからなかった。教室を出てから少しだけ涙が出た。

 家に帰って馬鹿みたいにチョコレートを食べたかった。下手なギターをじゃらじゃらならして大声で歌いたかった。自転車を全速力でこいでみたかった。

#31 台中小旅行 その2~日月潭~

 

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(#29のつづき)

 

 811日土曜日。

 寝てたら台中についた。駅前のバスターミナルで降ろされた。寝起きで頭がぼんやりしていて、どこに向かえばいいのかわからなかった。最初の目的地は南投県にある日月潭という湖で、台湾のど真ん中にある。南投客運というバス会社が台中駅前から湖までバスを出しているということだった。寝ぼけなまこのままやっとこさ南投客運の事務所にたどり着き、バスの乗り方を教えてもらう。バスでは悠遊卡が使えるということだった。

(※悠遊卡:発音はヨウヨウカーeasy cardともいう。台湾におけるICカードで、これ一枚で鉄道もバスも乗ることができ、さらにはコンビニやスーパーでも使える便利なカード)

 あそこの乗り場からバスは出発するよ、とバス会社の人に言われた場所でバスを待つ。台湾人のソフィーから教えてもらったサイトをもう一度見て時刻表をチェックする。先週みんなで台南市内を回った日に、彼女を含めた何人かのが日月潭をおすすめしてくれた。前から気になっていた場所だったので私は今日日月潭に行ってみる。日月潭は観光名所らしく、バスにはたくさんの人が乗っていた。私は何とか席を見つけて座った。スマホ日月潭の見所を調べたり今日明日の予定をたてようとしたけど、眠くなったのでまた寝た。

 バスが着いたのは日月潭における観光案内センターのような場所で、ボートやレンタルバイクの客引きがいた。また寝起きで寝ぼけていたし、お腹の調子が悪かった。たくさんの観光客とたくさんの客引きがいて見ているだけで疲れた。時刻は1010分を過ぎたところで私はまずトイレに行った。自転車を借りて湖の周りを一周できるのは知っていたが、それは疲れるのでやめようと思っていた。暑い日だった。

 

 客引きの人がいて声をかけてきた。彼の話を聞いてボートの一日乗船券を買うことにした。今いるのは水社という場所のようである。ボートに乗れば湖岸の、玄光寺と伊達邵という2地点に行って帰ってこれるみたいだ。水社から玄光寺へ、玄光寺から伊達邵へ、伊達邵から水社へのボートは定期的に出ていてそんなに待つこともないようだった。客引きの人にボートの乗り場に連れて行ってもらう。私はサマースクールで習った中国語を試してみた。「わーたしは、にーほんからたいわんにきまーーした」「わーたしはことーし22さいになります」みたいな感じ。それでもちょっとは伝わって嬉しかった。

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 お金を払って腕にスタンプを押してもらった。このスタンプを見せれば今日一日、何度でもその会社のボートに乗れるらしい。汗をかいてもこすらないようにしよう。ボート乗り場まで歩いて気付いたのは、台北や台南のような都会と違う人々の顔だった。なんというか顔の濃い人が多い。台湾には2%ぐらい原住民の人がいる。彼らは大陸から漢人が来る前から台湾に住んでいた人々でオーストロネシア語族に属するそうだ。日月潭周辺にはサオ族と呼ばれる人々がいて日月潭の中心にある拉魯島(ラル島)が彼らの聖地だという。さっき話した客引きの人も漢人とは少し違う顔つきをしていた。 

 ボートに乗るとたくさんの人がいた。土曜日の晴れた午前中。観光船には子供連れやカップルがたくさんいた。みんなわいわい楽しそうだった。サングラスかけたりセルフィーを撮ったりしている。ボートは走り出し桟橋がどんどん遠ざかる。緑色の不思議な色の水がきらきら光る。ボートの周りには波が立ち湖面がうねる。拉魯島が見えて遠ざかった。思ったより小さな島で木が2本しか生えていなかった。あとで知ったけれど1934年のダムの建設で水位が上がり、島の一部が水没してしまったみたいである。日本統治時代のことだ。

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 玄光寺という寺は桟橋から少し歩いた小高い場所に合った。寺の前からは湖が見えた。向こうにはさっきまでいた水社が見える。ビルや大きな建物やらが建っていて、向こうには山が見えた。玄光寺とその近くにある玄奘寺は有名なお寺だそうで、なんでも玄奘の骨が安置されているということだった。長い年月のあとようやくこの場所に落ち着くことになった骨である。日中戦争時に日本軍が持ち去り、1952年よりこの地に来たという。

 ただ私は少し寝不足で玄奘の骨にはあまり惹かれなかった。山道を歩いてすこしハイキングをしてみようかと思ったけれどなんせ人が多くてちょっとだけ歩いて引き返した。山道では法輪功の信者の人たちが黄色い服を着て立っていて、勧誘をしていた。急にめちゃくちゃ帰りたくなった。帰るといってもゲーマーのルームメイトがいる大学寮の8階ではなく、日本に住む友達のところに行きたかった。でも今日はまだ8月の11日で私は31日まで台湾にいなくちゃならない。桟橋の方に向かうと、広場みたいなところでサオ族の男女がパフォーマンスをしていた。歌がすごくうまかった。広場にはサオ族の2人だけが歌っていて、周りはみんな中国人ばかりだった。彼らの歌声を聴いているとなんだか苦しくなって私はボートに乗って次の場所に行くことにした。

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  何をしているのかわからなくなってきた。とりあえずボートに乗って名所みたいなところを回っているけど、別に何をするというのでもない。ただただ単純な好奇心だけで目的もなく動いている。能動的に動いているように見えて、実は受動的なのだった。「これがしたい」「あれがみたい」という強いモチベーションを持って動いているわけじゃないから何を見てもあまり感動しないし、新しいもの、変わったものが見たいという野次馬精神だけで行動している。そして条件反射的に写真を撮っている。時々、自分は写真を撮るだけのために旅行をしているのではないかと思う。

 伊達邵と言う場所にはいくつかのレストランやお土産屋さんがあった。どれも高かった。げんなりした。とはいえ安いからといってコンビニでご飯を食べるのは違うと思った。。いろいろ見るためにちょろちょろ歩いた。中心から少し歩くと、工事中の場所があり、坂道に立ついい感じのホテルがあり、その向こうには湖を一周する幹線道路があってバスが走っていた。また戻って日月潭の名物料理などが売られているところを歩く。サオ族の血を引いた人が多いのか、顔が濃い人が多かった。帰りたいという思いがさっきよりも強くなっていて、段々しんどくなっていた。私は少し休憩することにした。ボート乗り場近くにある日陰に座ってぼうっとしてみる。日陰を求めてみんながそこに座っていて、にぎやかだった。

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 旅に出ているというのに私はツイッターを開いてしまった。ツイッターでは日本の日常が垣間見ることができた。無意識にスクロールするとHeather Heyerという人の写真がタイムラインに出てきた。調べると彼女は去年の812日に亡くなったアメリカの人で、Charlottesvilleという街でデモしていた時、暴走してきた車にはねられたという。私はその事件を覚えていた。人で埋め尽くされた車道に急に暴走した車が突っ込んでくるショッキングな映像を去年の夏、確かに見た。彼女のことを忘れないようにしようという呼びかけがSNS上であるようだった。そんなことが降り積もり、私の感情はぐちゃぐちゃになりつつあった。

 

 

 帰ることにした。水社に行くボートに乗り込む。同じペースで回っていたのか、先ほどのボートでも見かけたような人が何組かいた。不思議な巡り合わせだと思う。別にしゃべりかけるほどではないなと思う。子供を2人つれた夫婦が子供をあやしながら湖を観ていた。

 本当に不思議なミステリアスな水の色だった。何か人を惹きつける力がある。雨が降っているのか山のむこうの空は暗くなっていた。風が急に吹いて湖も急に表情を変える。波が少し高くなった気がした。

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 お腹が空いていた。よく考えると4時半にコンビニで豚まんを食べてから何も食べていない。水社の街を歩いてようやく普通の値段のお店を見つけた。魯肉飯が60元だった。本当はカフェに入ってゆっくり日記を書きたかったのだけれど高いのでやめた。テーブルの向かいにはオーストリアから来た女の人たちが座っていて少しだけ話した。魯肉飯はやはりもれなくおいしい。ただ量が少ない気がした。

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 バスの前には行列ができていた。乗れないかもしれないと思ったけれど何とか乗り込むことが出来た。いろんな顔がそれぞれの席に座っていた。私はそういう顔を見るのが好きだ。イタリア人に見えるカップル、地元の友人同士で来たと思われる台湾人の老人たち。たくさんの顔の中を日本人の私が歩く。私はどのように見えているのだろう。

 バスの中で私は今日泊まるエアビのホストに連絡をした。「今日バスで月潭を出ました。3時半から4時ぐらいに着きます」 返信ははすぐに帰ってきて少し安心した。ホストの人は「〇子」さんという日本人風の名前なのだけど、アコモデーションの説明は全部中国語で日本語の箇所はない。どうやら日本人ではなさそうである。どんな人なのだろうとちょっとだけどきどきしながらバスに乗っていた。バスは高速道路を走っていて、遠くの山の崖に顔を出している断層や、畑で農作業している人が見えた。

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 台中の駅前で下りて、チャットでホストの人に教えてもらった番号の市バスに乗る。なぜかバスは目的地の2つ手前で止まり、私は運転手におろされた。私はそこから3ブロックほど歩くはめになった。ちょうど旧暦の7月に入ったばかりで多くの店先や家の前に先祖を祀るための台があって、果物が置かれたりや線香が立てられていた。ドラム缶には火が焚かれていて、先祖達があの世で使えるようにと紙でできたお金を燃やす姿もあった。私はこういった光景を映画でしか観たことがなかったので少し胸が高鳴った。同時に、こういった儀式を「よそもの」である私が直視してもよいのだろうか、とか、見るならどのような気持ちでいたらよいのだろうかと考えていた。

 とっても大きな金色の像が目に入った。お寺だった。そのお寺の裏に今日の宿があるということだった。雨が降ってきて私は足を速めた。細い路地で何回か迷った後でようやく伝えられた住所にたどりつく。よくあるアパートだった。チャットで彼女に連絡をするとすぐにガチャリとアパートに入る鉄扉が開いた。上から声がして、見るとベランダから50代ぐらいの人が私の名前を叫んでいた。階段を上がりホストと対面した私は、少し面食らった。不思議な雰囲気の女性だった。ゆっくりと歌うように話す人だった。英語だけでなく中国語もゆっくり話していたから多分それが彼女の個性なのだと思う。私の部屋を案内してもらい、そこでも私は面食らった。私の部屋はアパートの屋上に立ったプレハブを改造したような場所だった。明らかに最近まで物置として使っていた形跡があった。家族のものと思われる古い人形や旅行カバンがあった。壁の下からは隙間風が吹き込むような場所でクーラーはなく扇風機しかなかった。それでも十分すぎるスペースがあったし、ベッドも広くて寝るには困らないなと思った。シャワーとトイレは彼女たちが住む階下の部屋にあるということだった。私は三つの鍵を受け取った。アパートに入る鍵、彼女の部屋の鍵、それから私の部屋の鍵だ。

 少し彼女と話をした。彼女は3歳の孫と暮らしていた。ちっちゃい子と遊ぶのが大好きなので一緒に遊んだ。ホストは学生時代に習った日本語も話してくれた。私も習った中国語を頑張って話した。台南で2週間サマースクールに参加していること、大阪から来たこと、サマースクールの後は台湾を旅行する予定であるということ、いろいろ話した。彼女も小さいころ台南の祖母の家に住んでいたことを話してくれた。その祖母はなんとまだご健在で、彼女には5世代もの家族がいるのだという。びっくりした。彼女のLINEのアカウントには、Sunnyという彼女の英語名と共に家のアイコンが5つあるのだけど、それは家族のことを表しているのだという。彼女が冷蔵庫から出してくれた紙パックのジュースはおいしかった。なんでも台湾で一番ポピュラーなジュースということだった。

 

 喋っていると楽しくてついついリビングに長居してしまった。しかし私には今日のうちに行きたい場所がもう一つあった。日没は午後635分。それまで次の目的地に着かないといけない。私は夜9時には帰ると彼女に告げてアパートを出た。そしてレンタサイクルにまたがって、曇り空の台中を走りだした。

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#30 ちょっとラクになる音楽たち

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 今日は「しんどい時に私が救われた音楽」について書こうと思う。

 ちょうど今日916日までの1週間が「自殺予防週間」だったらしいし、10日はWHOが制定した「世界自殺予防デー」だったみたいだ。

 この国では91日に自殺する人が多いらしいというニュースを初めて見たのは多分18歳の時で、衝撃的だった。しかし考えてみると思い当たることはたくさんあって、私が初めてしんどくなったのも夏休みの終わりだった。

 本来なら「自殺予防週間」なんてものがあること自体おかしいのだと思う。でも仕方ない。私たちはいつからか「死にたい」という感情を抱くようになってしまったのだ。悲しいけれど。

 

 今回、自分がしんどい時に聴く音楽について書いてみた。【シリアスな曲】、【しっとりした曲】、【叫ぶ曲】、【考えずに聴く曲】と4ジャンル17曲あるので、好きな箇所から読んでほしい。

 自分の好きな曲を他の人が知ってほしいと思って書いたのが8割ぐらいである。でも、もしここに書いた音楽でラクになる人がいたらそれは嬉しい。

 

 紹介する曲は以下の通り。

【シリアスな曲】

アンジェラ・アキ「手紙」

みるきーうぇい「ほんとは生きるのとても辛い」

中島みゆき「時代」

中島みゆき「ファイト!」

 

【しっとりした曲】

小沢健二天使たちのシーン

ラッキーオールドサン「ミッドナイトバス」

Peter, Paul & Marry500 miles

The ClashLost in the supermarket

Samuel BarberAdagio for Strings

 

【叫ぶ曲】

Ben E KingStand By Me

尾崎豊15の夜」

フラワーカンパニーズ「深夜高速」

高橋優「陽はまた昇る」

 

【考えずに聴く曲】

くるり「ハム食べたい」

Plastic BertrandÇa Plane Pour Moi

The Royal ConceptOn Our Way

My Chemical RomanceNa Na Na

以上17曲。

 

 

 

 

【シリアスな曲】

最初は、歌詞やメッセージがストレートに伝わってくる4つの曲です。全部歌詞そのまんまです。

 

 

1)アンジェラ・アキ「手紙」 13

 

 初めてウォークマンに入れた曲の一つがこのアンジェラ・アキの「手紙」である。ウォークマンをもらっても何を入れたらいいのかわからないからとりあえず家にあるCD——クラシックがほとんどだった——を片っ端から入れていった。その中におばあちゃんが買ったアンジェラ・アキもあった。有名な曲だし、まだウォークマンに曲がそれほど入っていなかったので私はそればかり聴いていた。

 「手紙」が大きな合唱コンクールの課題曲に指定されて一躍有名になった後だった。現在の自分と過去の自分が対話するという歌詞にはストーリーがあってそれがクールに思えた。ピアノの音も好きだった。私はこの曲がお気に入りでよく口ずさんでいた。

 私は別にいじめられていなかったし、思春期にも入っていなかった。まだクソガキで、別に学校も人間関係もつらいともしんどいとも思わなかった。ただ年を経るにつれて人生は段々しんどくなって、高校1年でピークに達した。めちゃくちゃしんどかった。助けを求めるように映画を観て本を読んで音楽を聴いた。「手紙」もその時に再び聴くようになってようやく理解し始めた。

 歌詞にあるような「消えてしまいそうな時」というのに本当に直面していて、でも死ぬわけにはいかなくて、どうにかこうにか切り抜けないといけなかった。自分がどんな人で何をしたいのか今まで真剣に考えたこともなくて、確かに「将来の夢は映画監督です」とか調子の良いことを言っているけれど別に美大の入試に向けて努力しているわけでもなく放課後はサッカーをしている。このままいけば多分普通の大学に入ってやりたくもない仕事に就かないといけないのかもしれない、でもそんなことを考える前にまず目の前にある問題を片づけないといけない。部活のことクラスのこと家族のこと好きな女の子のこと——不安の種は次から次へと浮かんで心が休まらなかった。

 

 ながーい現実逃避のあと、1回死んだつもりでやり直すことにした。全てに立ち向かわなくてもいいのだとわかったので、いくつかのことをあきらめようと思った。英語の暗唱テストは黙りこくったままで通したし、得意な世界史だけやってればいいやと思うようになった。自分に完璧を求めることをやめようと思った。ちょっとだけラクになった。

 その後何年か経って「人生のすべてに意味がある」という歌詞の意味もようやくわかり始めてきた。生きててよかったなあと最近は思う。

 

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2)みるきーうぇい「ほんとは生きるのとても辛い」19

 

 20164月。大学に入ることになって、楽しみでもあり不安でもあった。スマホを買ってもらってYouTubeを簡単に見れるようになったので、入学までの間毎日音楽を聴いていた。予備校の友達とカラオケに行った時メイちゃんが歌ったチャットモンチーの「シャングリラ」と相対性理論の「気になるあの娘」が気に入ったのでそこらへんをよく聴いていた。受験期から気になっていたHomecomings Hyukohも飽きるほど聴いた。

 YouTubeでは1つの動画が終わると15秒ほど後に彼らがオススメする動画が勝手に再生される。ある時、Hyukohの韓国語の曲をかけてそのままスマホをほったらかしにしていると、日本語で女性ボーカルが歌い始めた。Hyukohの別の曲に変えようかと思ったけれど、ストレートな歌詞が胸に刺さってそのミュージックビデオから目を離せなくなった。

 それは例えるならMax150キロのストレートで、ひょっとすると大谷翔平よりも速かったかもしれない。「ほんとは生きるのとても辛い」は自殺がテーマの曲で映像も歌詞もどうしようもなくストレートだ。血が出るくらいにキリキリ尖っていて、今までに全く聴いたことのない音楽だった。

 中島みゆき尾崎豊も私がしんどい時そっと寄り添ってくれる。けれども彼らはもう大人である。少なくともずっと年上の人たちで、平成っ子の私には歌詞が古いと感じる時もある。出てくる単語や言い回しになじみのないこともある。その点、みるきーうぇいは私とほとんど同世代で、私が普段使っているような言葉をストレートにぶつけていた。オブラートに包んだ抽象的かつ婉曲的な歌詞ではなくてそのままの感情をそのままの言葉で発していた。めちゃくちゃかっこよくて「パンクだなあ」と思った。彼らの曲はいじめとか自殺、鬱がテーマが多くての悲しい曲が多い。メンヘラだと言う人もいると思う。でもその飾らない表現は現実社会を映していると思う。楽しい歌や泣けるテレビ番組、笑える動画はいっぱいあるけれど別にそれだけが人生じゃない。人間はもっと複雑で孤独で悲しくてかっこ悪い。そういった人間のリアルをちゃんと表現していると思う。

 辛い時に聴くみるきーうぇいは、いつも私と同じサイドに立って私を勇気づけてくれる。私は自分が一人ではないことを再確認してすこし安心するし、独りで頑張っているボーカルにも、歌詞の中の前向きな言葉にも勇気づけられる。今度ライブに行く。

 

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3)中島みゆき「時代」18歳

 

 ある時テレビをつけたら小藪千豊が映っていた。しんどい時に励まされた歌として、彼は中島みゆきの「時代」を挙げていた。売れない若手芸人だった小藪がつらかった時にふと聴いた「時代」の「あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ」という歌詞に助けられたという話だった。テレビでヒールを演じることの多い小藪がそんな風につらかった若手時代のことを喋っているのが新鮮でついついテレビに見入ってしまっていた。あんなに性格の悪いように見える小藪を勇気づけたという曲を聴いてみたいと私は思った。

 ちょうど伯父が中島みゆきのシングル曲を集めたCDを持っていた。「時代」もその中に入っていて、私はそのCDウォークマンに入れた。毎日そればっかり聴いていて自分の心を慰めていた。高校を卒業した時、同じクラスの友達と一緒にカラオケに行って、私はみんなの前でその歌を披露した。同じ場にいたM君も「時代」を知っていて彼と一緒に歌った。浪人に突入する時だった。歌詞にあるようにつらい時代のことも笑って話せる日が来たらいいなと思った。そして実際にそういう日は来た。

(※動画はショートバージョンです)

 

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4)中島みゆき「ファイト!」21歳

 

 去年の11月、福井に旅行に行った。帰りに京都の友人を訪ねた。彼は大学に入ってから音楽に目覚めたみたいで、ギターで弾き語りをしてくれた。中島みゆきが好きだと言うと「ファイト!」を歌ってくれた。私はそこでその曲を初めて知った。彼はいろいろ変わってしまっていて、私は少し寂しかったけれど、モノマネのうまさだけは全く変わっていなくて安心した。彼の声は中島みゆきにそっくりだった。

 中島みゆきの歌詞にはいつもストーリーがある。「ファイト」の中にもいろいろな物語が見える。歌詞にあるように頑張っている自分を笑う人をいつかは見返したいと思う。自分も人の頑張りを笑うことはしたくないなと思う。

 後で知ったのだけれど「ファイト」カロリーメイトCMで有名になった曲らしい。YouTubeで調べると満島ひかりが歌っていて、そっちもなかなか良かった。しんどい時にこの歌を口ずさむと不思議と力が湧く。

(※動画はカロリーメイトCMです。歌っているのは中島みゆきではなく満島ひかりです)

 

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【しっとりした曲】

眠れない夜に聴いてほしい。ホットミルクとか飲みながら聴いたらいいと思う。

 

 

5)小沢健二天使たちのシーン」20歳ぐらい 

 

 小沢健二という人が長いブランクを経て新しいCDを出すらしい、というのをある日のFM802で知った。その頃の私は火曜日の深夜にやっているMidnight Garageという番組が大好きで毎週聴いていた。その時に私は初めて小沢健二という名前を知ったし、彼が一昔前にカリスマ的な人気を誇っていたことも知った。番組で流された彼の新曲を聴いたけどなんというか不思議な魅力があった。私は小沢健二の曲をYouTubeで調べてみた。古いライブ動画を見ると、彼の人気のほどがよくわかった。

 いろいろ聞いたのだけど「天使たちのシーン」という曲が一番心に残った。歌詞の意味もよくわからないし、めちゃくちゃ長い曲なのだけど何回も聴いてしまう不思議な曲である。たぶんメロディーがいいのだと思う。深夜のつらい時間に聴くとちょっと心が軽くなる。

 

 

 

 

 

6)ラッキーオールドサン「ミッドナイトバス」19歳

 

 これも眠れない夜によく聴く曲だ。浪人時代に初めて聴いたのだけど衝撃だった。どこか懐かしいメロディーと飾らないボーカル。全体的に静かな分、ストレートに伝わってくる歌詞。私は予備校の自習教室で勉強していたのだけれど、急いで「ミッドナイトバス」とノートの端に書きとった。

 大学に入ってYouTubeが好きなだけ見れるようになってから「ミッドナイトバス」のミュージックビデオを何度も何度も観た。たぶん100回ぐらい観たと思う。何回も何回もYouTubeで再生しながら、彼らが私の孤独に寄り添ってくれる気がした。「しんどいのは君だけじゃないんだぜ。がんばっていこうぜ」と言われている気がした。

 

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7)Peter, Paul & Marry500 miles」18歳 

 

 私は群れることが嫌いである。そのくせ寂しがり屋で時々誰かの背中に泣きつきたくなったりする。

「自分は自分だ。自分だけの道を行かないといけない」と知っている。どんな人も皮を剥がしていけば最後に残るのは孤独な存在である。どんなに偉そうな人もすごい肩書がある人も、結局のところ一人で生きて死ぬ。頭ではわかっている。

 誰かが遠くに行った時、すごいことをした時、置いて行かれたような気分になる。昔は同じ教室で勉強していた人が東京に行ったり、就職を決めたり、留学に行ったりしている。SNSを通じて頑張っている様子の彼らが目に入ってくる。

 もちろんわかっている。私と彼らは全く違う。目指している方向も距離も、お互いにベクトルが違うのだ。

 それでも時々、どうしても彼らが羨ましくなる。ないものねだりがしたくなる。「おいていかないでくれよ!!」と叫びたくなる夜がある。そんな時この曲の歌詞を思い出す。

 

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8)The ClashLost in the supermarket」19歳 

 

 河合塾に通う浪人生には、一日の授業を終えた後「チュートリアル」と呼ばれるホームルームがある。チューターと呼ばれる職員の人が事務連絡を伝えてくれる。私たち浪人生はチュートリアルの時だけ決められた席について話を聞かなくてはならない。私の席の後ろには「ケニア」というあだ名で呼ばれているヘンな子がいた。彼は不思議な雰囲気を持った子で、音楽と文学にとても詳しかった。よく昼ご飯を食べながら音楽や文学について喋った。彼は私に初めてロシア文学のすばらしさについて熱弁した人物で「プーシキンは偉大だ」みたいなことを言った。その熱弁から一年後、私はなんの巡り合わせかロシア語科に入学することになった。

 

 仲良くなったきっかけは缶バッジだった。彼のくたくたの筆箱には「Sex Pistols」と書かれた缶バッジがついていた。私はパンクロックに目覚め始めた頃で、同志を見つけて嬉しくなった。「ピストルズ、好きなん?」と聞くと「好きやで。まあクラッシュの方が好きやけどな」みたいなすかした答えが返ってきた。私もThe Clashが好きでウォークマンに一枚だけ入れていた。まさかこんな近くにThe Clashを知っている人がいるとは思わなかったので興奮した。

 お気に入りの映画「ロイヤルテネンバウムズ」の中で「Police Thieves」という曲が使われていて、その曲を歌っているのがThe Clashだった。市立図書館のCDコーナーで探すとたまたまThe Clashのライブ音源があって私はウォークマンに入れた。70年代から80年代にかけて活躍したバンドを知っている同世代はいないと思っていたのに、まさか後ろの席のやつが知っているとは。世界は広いのか狭いのかよくわからない。

 彼にはCDを貸してもらったりして、いろいろThe Clashについて教えてもらった。彼は「(White man) In Hammersmith Palais」がすごいと言い、私は「Lost in the supermarket」が一番すごいと言った。別にThe Clashの話ばかりじゃなくて他の話もした。チャップリンの映画音楽の話もしたし、ロシア文学のこともだいぶ教えてもらった。彼は段々予備校に来なくなって消息不明になったのだけど、風の便りによれば最近第一志望にようやく合格したという。いつかまた会えたらいいなと思う。

 

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9)Samuel BarberAdagio for Strings」17歳

 

 アヒージョではない。アダージョである。アダージョは「『ゆるやかな速度』を示す音楽用語」だという。転じて緩やかな速度で書かれた曲もアダージョと呼ぶのだという。このリストの中で唯一詩がない。

 初めて聴いたのは5年前である。テレビでケネディ大統領のドキュメンタリーがやっていて、彼のお葬式で流れていたのがこの曲だった。私は音楽のことはよくわからないけど、とても心が動かされた。悲しい気分にもなったし、心が洗われる気もした。

 番組が終わった後パソコンを立ち上げてYouTubeに「Adagio for Strings」と打ち込むとオーケストラの動画がいくつか出てきた。片っ端から聴いた。ついには図書館でCDを借りてウォークマンにも入れて時々聴くようになった。特に受験期の疲れた日やしんどい時によく聴いた。別にこの曲のおかげで勇気が出るとか頑張れるとかはなかったけれど、怖くて眠れない夜にこの曲を聴くと不思議とよく眠れた。

 

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【叫ぶ曲】

私は自転車に乗りながらよく歌う。塾や学校から帰る道で私は歌をよく練習する。たまにびっくりした顔で見られることもあるけれど、自転車で通り過ぎるのは一瞬だから歌いながら走ってもあまり恥ずかしくないのだ。

 

 

10Ben E KingStand By Me」6歳?

 

 人生で最初に見た映画はたぶんドラえもんの映画で、私は全く覚えていない。家に残っていたパンフレットをみるに、アステカとかメキシコの古代文明のび太たちが活躍する映画だったと思う。私が推測するにたぶんその映画は私と両親がそろって映画館で観た最初で最後の映画だと思う。

 記憶にある中で一番最初の映画は「ハリーポッター」と「スタンドバイミー」である。どっちが先なのかはわからないけれど、「ハリーポッター」は劇場で「スタンドバイミー」は図書館で観た。幼な過ぎた私には「スタンドバイミー」の内容はまるで分からなかった。ブルーベリーパイを次々に吐き出すシーンと少年たちの肌に吸い付いたヒルの気持ち悪さしか印象に残らなかった。ただエンディングで流れるBen E Kingの「Stand By Me」はずっと覚えていてテレビやラジオで聴くたびに映画のことを思い出した。

 15歳ぐらいの時にTSUTAYADVDを借りて映画をもう一回見直した。ようやくストーリーがわかった。リバーフェニックスの煌めきが眩しかった。そしてやっぱりBen E Kingの歌は良かった。TSUTAYAサウンドトラックを借りて、歌詞をノートに書き写して覚えた。ボイスパーカッションでイントロを歌おうと何回も練習した。何回も歌って聴いているうちにこの曲は特別なものになった。

 

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11尾崎豊15の夜」14歳 

 

 この曲は中学生3年生ぐらいから聴き始めたのだと思う。「ぬーすんだバイクではーしりだす~」のフレーズは替え歌とかで小さいころから知っていたけれどちゃんと聴いたことはなかった。TSUTAYAで借りた尾崎のCDには「15の夜」と「卒業」が入っていた。校舎裏でタバコを吸ったり、バイク盗んで走り出しちゃったり、夜の校舎の窓ガラスを壊してみたり、ストレートに反抗できる昔の「不良」と呼ばれる人たちが羨ましかった。平成20年代の日本で——少なくとも私の周りで——そんなぐれ方をしている人を見たことも聞いたこともなかった。

 18歳のある夏の夜、母親とめちゃくちゃ喧嘩した。勉強をしたくなかったけど、そんな自分が不安だった。このままでは志望校にはとうてい受からないような成績だったし、受からないとはなからあきらめているようなところもあって勉強する気も起きなかった。ただただ映画ばかり観て昼夜逆転生活を送っていた。私はむしゃくしゃした私は深夜2時、自転車で走りだした。はじめは近くの海まで行って防波堤の上で寝ようと思ったのだけど、海岸は思った以上に風が冷たかった。寝ころんでもただただ都会の光に照らされた夜の曇り空があるだけで自分の沸々とした心は収まらなかった。結局私はとりあえず西に向かって走り始めた。誰もいない道を走りながら「15の夜」を熱唱した。もう18歳なのに。

 ものの1時間ぐらいで三宮に着いた。商店街にはホームレスがたくさんいた。夜でも明るい繁華街があってなぜか外国人がたむろして騒いでいた。少し怖かった。駅前のベンチに座ってそこに座ってぼんやりしていた。駅前には今は亡き「パイ山」がそのころはまだあった。

 センター街を通り抜けた。昼間は人がいっぱいで自転車ではとても走れないアーケードを走る。前を見ても後ろを振り向いても自分と寝ているホームレスしかいない。なんだか笑い出したくなった。ところどころに電気がついていて明るくもなく暗くもない不思議なグレーの世界だった。一方でその先の南京町は真っ暗だった。見慣れない中国風の街が妙に不気味であった。中国風の屋根も門もコンクリートの像もなんだか怖かった。

 私は帰ることにした。帰り道、尾崎が15歳でやったことを自分は18歳でやっていることに気付いた。ダサいなと思った。しかも乗っているのは自前のマウンテンバイクだ。ああ情けない。

 家に着いたのは朝5時で、すっかり明るくなっていた。私はベッドにたどり着いてぐうぐう寝た。その時から「15の夜」には妙な親近感を覚えるようになった。

 

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12フラワーカンパニーズ「深夜高速」19歳 

 

 「生きていてよかった そんな夜を探している」っていうサビの歌詞だけで好きになるには十分だった。浪人時代の真夜中にラジオで聴いたこの曲が忘れられなくて、大学に入ってからCDを買った。何度聴いてもやっぱりよかった。

 熱量がすごいのでとにかく聴いて叫んでみてほしいと思う。

 

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13)高橋優「陽はまた昇る」16歳 

 

 映画「桐島、部活やめるってよ」がめちゃくちゃ好きなんだけど、そのエンディングで流れるのがこの曲なのだ。一応【叫ぶ曲】のところに入れたけれど【シリアスな曲】のところに入れてもよかったかもしれない。歌詞は簡潔でわかりやすくてド直球なのだ。それを高橋優はめちゃくちゃ全力で歌う。ほとんど叫んでいるようである。

 映画が公開されたのは2012年の8月とかで、私は劇場でこの映画を観た。感動して涙が止まらなかった。映画が終わってからしばらくの間動けなくて係の人がほうきとちりとりで掃除を始めてもなかなか立ち上がれなかった。ラストシーンの東出昌大のうるんだ目と高橋優の声でガツ―ンとやられた。何でもできるのに何もしていない登場人物がまるで自分のように思えた。

 映画館であんなに泣いたのは「桐島、部活やめるってよ」のエンドロールと「ララランド」の冒頭のシーンだけだと思う。

 

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【考えずに聴く曲】

このジャンルはあんまり書くことがない。とりあえず頭を空っぽにして聴くのだ!!!

 

 

14くるり「ハム食べたい」16歳ぐらい? 

 

 岸田繁がひたすら「ハム食べたい」と歌うだけの曲である、と言ってしまってもほとんど語弊はないと思う。

 とりあえずこの曲を聴いて「ハム食べたい」と何回か言ってみてほしい。もしかしたらちょっとすっきりするかもしれない。その後でなぞときのような歌詞を読んでストーリーを想像してほしい。どうも、歌詞に出てくるハムという言葉は暗喩で、別の意味が込められているように思える。ネットにはいろんな意見があって、岸田繁がそれについて言及したこともあるらしいけれど、私はまだ答えを出せていない。

 

P.S.この曲をみんながいるカラオケで歌うのは避けた方がいい。みんなが笑ってくれるのは最初だけで、完全なる出オチになってしまうからだ。

(※この曲だけはYouTubeにはありませんでした)

 

 

 

15Plastic BertrandÇa Plane Pour Moi」18歳 

 

 フランス語、、、なのか? よくわからない。とにかく知らない言語である。歌詞の意味がみじんも分からない。動画を見る限り楽しい曲みたいだ。この曲に関しては、私は曲を楽しむというよりむしろYouTubeの動画を楽しんでいる。Plastic Bertrandという名前の歌手が奇天烈な格好で歌いながら踊っている。そしてサビになると腕を組んでちょっと決め顔をしたりする。画面の中の彼はめちゃくちゃ自由で、見ているだけでニヤニヤしてしまう。ついつい私もサビの「ウ―ウ―ウ―ウ―」のところを裏声で歌ってしまう。

 1970年代の曲である。イギリスでクラッシュやピストルズといったパンクロックが全盛の頃、ベルギーにはこんな歌手がいたのか。

 高35月ぐらいに塚口で観た「ルビースパークス」という映画のワンシーンにこの曲が出てきて、そこで初めてこの曲を知った。映画のシーンもまた主人公がはしゃぎまくる楽しいシーンだった。こっちの映画もおすすめである。

 

P.S.テストの合間の休み時間にこの曲を口ずさむのはやめたほうがいい。みんなのひんしゅくを買ってしまう。私はクラスメイトのO君にこっぴどく怒られた。

 

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16The Royal ConceptOn Our Way」18歳

 

 スウェーデンのバンドだったと思う。くるり岸田繁がどこかで紹介していて知った。ユニバ——東京ではUSJって言うんだっけ?——のCMでも使われていたらしく、なんだかパリピが好きそうな曲だ。プールで泳いだりスケボーに乗ったりするミュージックビデオといい、ノリのいいメロディーといいパリピのにおいがプンプンする。映像をみた感じだとメンバーも多分パリピだ。パリピじゃない人はトラックの荷台でギターを弾いたりしない。キャンプファイヤーの周りでお酒をのんではしゃぐこともない。まあ偏見なんですけど。

 基本的には明るい曲なのだけど、歌詞はよくわからない。恋人について書いているようにも読めるし、自分の夢や目標について書いているようにも受け取れる。不思議な歌詞だ。なによりキャッチーで疾走感のあるメロディーがずっと頭に残る。浪人の時、どうしても眠い時にはこの曲をずっとリピートして聴いていた。数学の授業で眠くなった時は、授業そっちのけで脳内で再生するときもあった。どうしてもやる気が出ない時にこの曲を聴くとなんだか頑張れる気がした。

 彼らは今度の10月に台北でライブをするみたいだ。台北の人が羨ましい。

 

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17My Chemical RomanceNa Na Na」19歳 

 

 最後はマイケミで締めようと思う。

 とにかくもやもやが溜まって爆発しそうになったらこの曲を聴いてほしい。この曲を聴いて叫べばちょっとはすっきりするかもしれない。変えたい変わりたいと思っているけれど結局何もできないでいて、そんな自分がイヤになっている時にこの曲を聴くと私はやる気がでる。この鬱々とした気持ちに点火して爆発させ、何か別のきれいなものに変えてみたいと思う。

 ドライブの時にこの曲を聴くのもおすすめである。

 ミュージックビデオは二つあってどちらもいい感じである。

 

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【あとがき】 

 最後まで付き合ってくれてありがとうございます。音楽を紹介するといいながら映画やラジオ番組、さらには私の友達を紹介することになってしまいました。自分が楽しいだけの文章になっていないか心配でしょうがありません。

 書いていて思ったのですが。私の音楽体験はFM802ウォークマン、映画とYouTubeによるものが大きいようです。17曲のうち10代に聴いていた曲がほとんどで、20代になってから聴き始めた曲は「ファイト!」だけというのも不思議だなあと思います。

 

 もしよかったらあなたの「しんどい時に救われた曲」をコメントで教えてください。親しい人は今度会った時にでも教えてください。ではでは。

 

#29 台中小旅行 その1~パーティー~

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 1か月前、台南でサマースクールにいた時の話です。週末はサマースクールは休みなので、8月の11日と12日、私は台中へ小旅行に行きました。その時のことをつらつら書いていきます。

 

 810日金曜日。

 夜。寮の部屋に集まってみんなでパーティーをした。原付を持っているミンとダニエルが、雨の街で、ピザとフライドチキン、ジュースとビールなんかを買ってきてくれてそれをみんなで食べて飲んだ。私にとっては久しぶりのパーティーで、私なりに羽目を外した。ベトナムインドネシア、台湾、韓国、日本、中国、香港。いろんな国籍の学生が狭い一室に集まって喋っている。その事実に感動したし、そのことだけで私はぼーっとした。

 ノリのいい音楽をかけようとして、友達のパソコンからRex Orange Countyを流したんだけどどうも盛り上がらなくて結局blurマイケミを流した。途中で調子に乗ってボンジョビIt'smy lifeも歌った。普段から酔っぱらったような言動をしているけれどお酒を飲んで私はすっかり気持ちよくなっていた。マンゴー味とブドウ味のビールを味見して、瓶のビールも飲んでみた。お酒はあんまり味がわからないのだけれど、ダニエルが言うように瓶のビール——「生ビール」とダニエルは言った——の方が飲みやすかった。

 ベトナムの映画の話、北海道の旅行の話、お化けの話、おいしいご飯の話、ホーチミンの話。たくさんの話をした。私は全員の話を聞きたくて輪から輪へと行ったり来たりしていた。あっちではベトナムの話、こっちでは医学部同士の話、こちらの椅子では日本語と中国語の違いについて。台湾人のダニエルはめちゃくちゃ日本語が上手いのだけれど、彼は日本語をアニメやドラマを見て学習したらしい。普通に私と会話できるようなレベルなのに驚いた。ミンはベトナム語を勉強しているのだけれど、彼はパーティーにまで教科書を持ってきてベトナム人に教えてもらっていた。彼は本当にいいやつで、私がサマースクールで初めてしゃべった一人である。最初の昼食の時間、幸運にも私は彼の隣に座ったのだった。私が大学での勉強について聞くと、彼はベトナムでの就職を考えてベトナム語を勉強していると教えてくれた。ベトナム人が台湾に嫁いだり、働いたりしているのは知っていたけれど、逆に台湾人もベトナムで働いたりするのだと知って驚いた。私も一応は大学で言語を学んでいる身だから親近感が湧いて、仲良くなった。最初の日曜日に一緒に球場で野球を観たし、サマースクールが終わってからも高雄の街で遊んだりした。インドネシア人のリアーナとも仲良くなった。彼女ともいろんな話をした。

 人生がこの一室で交差してまた分かれていく。酔った頭のせいで私は迷路の中で途方に暮れているような気分になった。でも何より大事なことはこの場所にいて自分が楽しんでいることだとも思った。それくらい楽しい夜で、1年に1回あるかないかぐらいのものだった。

 

 

 パーティーは真夜中に終わり、酔いがさめてきた私は台中へ行く準備をした。着替え、ノート、タオルと洗面用具をリュックに詰め込む。同じ大学から来たUと話し込み、寮の部屋から1階のロビーへと場所を変えてまた話し込んだ。そうして時間が来て私は早朝の便に乗るためにバス乗り場へと旅立った。

 夜道を私は歌いながら歩く。誰もいない交差点。さっきまでの雨で濡れた路面は信号の青を反射させる。

 サマースクールの間中、どうしてだか私は松任谷由実の——その頃はまだ結婚してなくて荒井由実だったけれど——「ルージュの伝言」をよく歌っていて、バス乗り場までの道中でも私は歌った。旅行へと繰り出す今の自分にピッタリな歌詞だと思った。同じジブリ作品に出てくる歌ということで加藤登紀子の「時には昔の話を」も歌った。

 

小さな下宿屋にいく人もおしかけ

朝まで騒いで眠った

嵐のように毎日が燃えていった

息がきれるまで走った そうだね

 

線路を渡って駅の反対側に向かうと深夜にやっているバーを見つけた。今度Uを誘って乗り込んでみようと思った。(結局忙しくて行けなかった)駅に近づくにつれて人が増えてきて、バス乗り場にはまだ4時だというのに30人ぐらいの人がいた。バス乗り場の隣のセブンイレブンで包子(肉まん)を買って食べた。台中行きのバスが来て私は乗り込んだ。

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