シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#128【書籍紹介】『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』瀬尾夏美(2019)晶文社

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 ある村がダムの底に沈むことになった。村人たちは満ちていく水を見ながら過ぎた日々のことを思い、語らい合った。ある村人は都会に出た。またある家族は親類の伝手を頼って、近くの村に移り住んだ。一人のおじいさんがいた。おじいさんは思い出のたくさんあるその土地を離れることができなかった。彼はダム湖のほとりに小屋を建て、そこに住むことにした。

 ある秋の夜だった。おじいさんの耳に笛の音が聴こえた。それは村祭りの音色だった。おじいさんは外に出た。耳を澄ますと音色はダムの方から聴こえてくるのだった。夜風がおじいさんの頬をなで、草むらに虫が鳴いていた。湖から祭りの音色が聴こえるなんてそんなはずはないだろうと思っておじいさんは寝床に戻った。それでも、その夜から毎晩、小屋まで笛の音が聴こえるようになった。やはりダムの底から聴こえるとおじいさんは思った。

 ある夏、何週間も雨が降らなった。ダムに注ぐ川は細くなり、湖の水位は下がり続けた。やがて段々と昔の村が姿を現し始めた。村役場、神社、杉の木、丘の上にあった誰々の家。水はすっかりひいて、ついに陽光の下に村全体が姿を現した。もうかなり年老いていたおじいさんは湖の底に降りて村があった場所を歩いた。おじいさんは一本の笛を見つけた。それは村の祭りで使っていた笛だった。何年も湖の底だった地面から笛を取り上げ、昔を思い出しながらおじいさんは笛を吹いた。つかの間、様々な情景が蘇った。おじいさんが吹き終わると、笛はその時を待っていたかの様にばらばらに崩れ、風が吹いて跡形もなくなってしまった。

 

 こんな話を私は尼崎の小学校で読んだ。昔話とか民話とかそういった類が好きで、図書室にある各地の民話集を片っ端から読んでいた。どこの県の民話だったか「ふえのおと」という話があって、だいたい上のような話だった。

 

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 最近ようやく『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』を読み終わった。

 2年前に買ったけれど、途中で読めなくなってしまっていた本。東日本大震災から10年経つのを前にまた読み始め、ついに読み終えた。もっと早く読めばよかった。積んでいた本を読み終えた時は毎回そんなことを思う。

 著者は瀬尾夏美さん。2011年以降、陸前高田を主とする東北沿岸部で風景と人の言葉を記録し、制作活動を行ってきたアーティストである。2011年から7年にわたって著者が呟いたツイートをまとめた〈歩行録〉と各年を振り返って刊行時に書いた〈あと語り〉。それに絵と写真を加えて19年に晶文社から出された本は、なんていうか、もうめちゃくちゃ良かった。

 冒頭に「みぎわの箱庭」という未来から当時を語る絵物語がある。かさ上げされた上のまちとかさ上げ前の下のまち、それを歌——とおそらく記憶——がつなぐ話だった。昔読んだ「ふえのおと」と何となく似ているように思った。「ふえのおと」の正確な内容はインターネットでも見つけられなかったが、四国のどこかの民話だった気がする。

 巻末にも、渡り鳥の視点でまちを見つめた絵物語「飛来の眼には」がある。7年間の具体的な記録を、2つの抽象的な物語がふんわり包んでいるように思った。

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2020年3月仙台市若林区荒浜

 2011年に東京藝術大学を卒業した著者は、震災後の東北沿岸部を旅する。車で北へ北へと上り、10日間の旅路でいろんな人に出会う。東京と東北を行き来して制作する生活を送った後、2年目から気仙郡住田町という所に移り、隣の陸前高田で働き始める。写真館などで働きながら、かさ上げ工事が行われる様子や、時間と共に変わる人々の思い、街の顔、自分で考えたこと、そういうのを記録していく。並行して、大学院を卒業し、アーティストとして各地で展覧会を行っていく。

〈歩行録〉に出てくる名もないたくさんの人々。もちろん著者はわかるのだろうけど、読者は顔や年齢を想像するしかない。出てくるのは「宮古出身のおばちゃん」とか「証明写真を撮りにきたおじちゃん」である。ほとんど固有名詞が出てこない。固有名詞がなくとも、その人一人ひとりに背景があるのだろうというのは読んでいれば何となくわかる。地名以外にほとんど固有名詞が出ないことは、この本のふしぎな雰囲気を作るのに一役買っている。読者である私の身近にいる誰かの語りにも、高田以外の土地の話にも思える。固有名詞の欠落によって生まれた普遍性。

 最近読んだジュリー・オオツカの『屋根裏の仏さま』という小説を思い出した。写真花嫁としてアメリカに嫁いだ日本人女性の証言や資料を集めて、書いたものだ。「わたしたち」という主語を用いて、写真花嫁として渡った女性に普遍性を持たせようと著者は試みたのだ。読んでいるうちに、語られる内容が自分の知る誰かの話のように思えてくる。日系アメリカ人の著者は、歴史の中に埋もれていった彼女たちを身近に感じられるように書いたのだろう。

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『あわいゆくころ』に登場する人々がまるで身近な人のように感じられるのは、語り言葉のおかげでもある。ツイッターに元々あった文章だから話し言葉と書き言葉が混在していて、かぎかっこで区切られているわけでもない。書き言葉を読みながら著者の思考の中に入ったかと思ったら、いきなり誰かが語り掛けてきたりする。その語り言葉の豊かなこと豊かなこと。まるで目の前で誰かが語っていることのように思えてしまう。

災厄のあと、「何もかも流した」と語る人たちがその場で発揮していく創造性は、本当に尊いものだった。私は、日々目の前に立ち上がるものたちに憧れ、それゆえにすこしだけ距離を取る必要を感じて、〝旅人〟としてこのまちに関わっていこうと決めた。(p18

「おじちゃん」「おばちゃん」なんて書かれることが多い〈歩行録〉だけれど、よくよく読めば繰り返し出てくる人が何人かいる。りんご畑の老夫婦や花畑の周りの人々、散歩仲間のおじちゃん。私が好きなのは、消防団の団長だった写真館の店主である。〝旅人〟として、芸術家あるいは記録者としての姿勢が揺らぐたび彼が登場する、そんな気がする。

 4年目から、復興のための工事が本格的に始まり、町は見た目も中身も様相を変えていく。背景や被災状況の違う人たちをつなぐよりどころだった山際の花畑がなくなって、海辺に住む老夫婦もりんご畑を手放す。2011年以来続いていた生活が、まちが、また復興工事によって奪われる様は、五年目の〈あと語り〉に「期せずして、被災した土地に訪れた二度目の喪失というもの」と表現される。

この年、著者は陸前高田を離れて仙台に拠点を置く。東北の記録・ドキュメンテーションを考えるための一般社団法人NOOKを立ち上げる。各地で巡回展も行う。

 風景がどんどん変わっていき、山を削って建てられた高台には公共施設や公営住宅の区画ができるにつれて、1995年の阪神淡路大震災を経験した神戸を訪ねるシーンや原爆が落とされた広島や長崎の話、東北にも残る戦争の話の継承について考える箇所が出てくる。6年目、7年目と経ていったんこの本は終わる。けれどもかさ上げされた新しいまちでの人々の生活は続く。著者の制作活動もこれから続く。

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2018年1月石巻市

 

 復興という言葉はあるひとつの時点を指すのだろうか。時間は「復興」の以前と以後に分けられるのだろうか。「復興」が完了したら、それはつまり問題が全て解決されたということなのだろうか。『あわいゆくころ』は、流されたまちが土の下に埋もれ、新しいまちができるまでの仮設的な時間だったのかもしれない。それでも、語りや絵、そして文章——と映画も——ができることはたくさんあるのだと、また教えられた。

 

 

瀬尾夏美さんのツイッター

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晶文社のページ:

あわいゆくころ | 晶文社

  

一般社団法人NOOK

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映画『二重のまち/交代地のうたを編む』

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#127【映画紹介】『コーヒーをめぐる冒険』(2012)

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 16歳の時に映画『桐島、部活やめるってよ』を観た。人間は同じ空間に存在していても、別々の視点で物事を見て、各々の感じ方で世界を切り取っている。同じ出来事を前にしても人間は別々の反応をする。正しいとか正しくないとか、そういうのじゃなくて、なぜその人がそのような反応をするのか、というのが大事なのだ。そんなことを考え始めた時期だった。それが多様性であって、豊かな社会であればあるほど、選択肢が多いのだ。多分。

 

 暗い画面の中からジャズが聴こえてきて映画は始まる。ガールフレンドのフラットで目を覚ました主人公ニコはコーヒーを作ろうかという彼女の誘いを断って自分の新しいフラットに戻る。シャワーを浴び、歯を磨く前の一瞬、鏡の中の自分に笑いかけすぐやめる。

 免停を免れたいニコは医療心理テストで意地悪な質問に答えないといけない。心理分析官——正確に言えば、州に所属する心理学者——との対話で観客はニコのコンプレックスを知る。身長が低いこと、大学を卒業しなかったこと、両親との関係。情緒が不安定と診断されたニコに運転免許は返されない。

 コーヒーを飲んで落ち着こうとするものの、コロンビアのコーヒーは高すぎてニコはコーヒーの料金を払えない。キャッシャーの前で立ち尽くすニコはカフェで新聞を読む客の視線を気にしてばかりだ。コーヒーにありつけなかったニコは自分の部屋に帰って窓辺で煙草を吸う。ニコはコーヒーを逃してばかりだが、この映画を通じて煙草は6本吸う。映画撮影所で煙草の火を役者にもらうシーンが特に象徴的だった。ハーケンクロイツの腕章をつけてナチに扮した男とダビデの星を胸につけてユダヤ人役の男が撮影の合間に煙草を吸っている。ちなみに映画が公開されたのは2012年。ダビデの星の着用がユダヤ人にとって義務とされるようになるのは1941年。

 多くの喫煙者と同じように、ニコもストレスを抱えた時に煙草を吸う。ゴルフ場のクラブハウスで父親に不真面目さを問いただされた後にも、テーブルに残された酒を飲み、ゴルフ場のグリーンを横切って森に入り、駅を目指す。木々の中をゆらめく煙草の煙、葉っぱ、モノクロの画面だからこその光、音楽、鳥のさえずり。とても美しいシーン。この場面と後に書くマルセルのおばあちゃんのシーンだけでいいからみんなに観てほしい。本当に。すごくいいシーンだから。

 

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「変」と思われることをニコは異常に恐れている。最初に入ったカフェでも、「普通」のコーヒーを買おうとする。父親には「他の人がしているように」髪を切って靴を買うように言われる。でも彼はもう「普通」ができない。別にそれは彼だけのせいじゃないように思う。劣等感も挫折も、果たして彼だけの責任なのだろうか。

「変」なのは別にニコだけじゃなくて、この映画にはたくさんの「変」な人々が登場する。マッツェとニコにオーダーを訊くレストランの人はモヒカンの女性で一見「変」だし、無賃乗車を咎め2人組のうちの一人、シュテファンも、言動がかなり「変」だ。そもそもニコとつるむマッツェも俳優としての才能があるのに仕事を断り続けていて十分「変」の部類に入る。ニコの新居を訪ねてくる上の階の住人カールも、やっぱり「変」で、勝手に箱を開けてニコと恋人の写真を取り出すし、「よくない」というニコの言葉に過敏に反応したりする。初対面なのに、乳がんで手術をした妻とセックスが出来なくなった話を始めついには泣き出す。ヘルニアで運動ができなくなった彼はアパートに地下室を作り、サッカーを観るための薄型テレビとカウチがあることを自慢げに語ったけれど、実際の地下室も、一人でサッカー盤をするカール自身もみじめだ。奥には古ぼけたトロフィーが並べられ、どういうつもりなのか女性のヌード写真が壁に貼られている地下室。映画に映るのは一瞬だけど、カールはもう何年もこの地下室で妻から逃げて過ごすのだろう。キッチンに篭って料理を延々と作り続けるカールの妻が作ったミートボールをニコは便器に捨てる。

 

 レストランでニコは昔の同級生ユリカに出会う。昔太っていた彼女はすっかり痩せていて、今はアバンギャルドな舞台に出ているという。今夜の回を観に来るように誘われたニコとマッツェは映画の後半で劇場に向かうが、まっすぐには行かず途中でマルセルのアパートに立ち寄る。出迎えたのはマルセルの祖母で、少しボケているようだ。近所から聞こえる怒鳴り声にも気づいてない様子の彼女は、来客として来たニコとマッツェにおなかが空いていないか、パンに何か挟むか、しきりに尋ねる。

 礼儀正しくおばあさんに挨拶してマルセルの家に入ったニコは、マッツェが薬——違法、あるいは違法に近いと思われるもの——を買う間、おばあさんと話す。際どそうなスニーカーや薬を売っているマルセルだけど、一方では電気で動くリクライニングチェアを祖母に買っている。ニコは彼女に誘われてそのマッサージチェアに乗る。老人も若者も何も言わず、ピアノの音が流れる。劇場に向かう助手席のニコが見るベルリンの街。夜の光。

 すでに舞台が始まっていて、頼み込んで途中から入れてもらう。舞台上にあるのは前衛的で難解な表現。ニコとマッツェは笑ってしまい、ショーの後に演出家にそれを咎められる。身振り手振りを交えて動き、早口でまくし立てる人々。画面の中央でニコだけが動かずに一点を見つめている。トレインスポッティングにこんなシーンがあったなと思う。

 

 議論から逃げ出すようにニコは通りの新鮮な空気を吸い、煙草に火をつける。ユリカが追ってきて、昔のニコはもっと自信を持っていたと言う。一方でニコは舞台で表現をしているユリカを本当にすごいと思っている。お互いがお互いに流れた年月のことを、いじめっ子といじめられっ子だった過去を思う。酔った3人組の男が絡んできて、ニコが殴られる。出血した鼻を抑えながら「挑発に乗らなかったらよかったのに」と言うニコに、私は無視することをやめたと言うユリカ。ニコはユリカに優しくすることを過去の清算だと感じているが、ユリカの昔のコンプレックスはまだ消えておらず、過去は清算できない。 

 今度はバーに行き老人に絡まれるニコ。今日一日で何人もと話したニコはいい加減うんざりしている。でも別に席を移ることも店を出ることもなくまた酒を飲む。60年ぶりにドイツに帰って来たという老人は少年時代の話を始め、次第にニコも観客も引き込まれていく。あそこの駐車場は昔サッカー場だったこと、父親に教えられて初めて自転車に乗れた日、学校で総統への敬礼の仕方を教えられた日々、父親に連れられて石を握って窓ガラスを破った夜。クリスタルナハトの時、まだ少年だった老人は一面のガラスの破片と炎を見て、明日は自転車で走れないと考えて泣いたのだ。バーの店先で老人は倒れ、救急車で一緒に病院に行く。故障中のコーヒーマシンの前で力尽きるニコ。ベルリンの街は夜から朝になり、誰もいない街のカットがスクリーンには映し出される。壁に書かれた絵、たくさんの自転車、線路。老人には家族がなく、ニコは老人のファーストネームだけ教えてもらう。朝のカフェでニコはようやくコーヒーにありつく。

 

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 見終わった後で、彼にとってのコーヒーとは何だったのだろうと思う。主人公ニコはずっと無気力で、積極的には動いたりはしない。免許が返ってこないことがわかってもすぐに諦めた様子だし、ガールフレンドが不機嫌なのを見ても何も言わない。父親に援助を打ち切られても、父親が怒りを見せても、無言で下を見つめている。何も言えないのだ。

 ぶらぶらしている彼にはもちろんなりたいものなんてない。だいたい無表情だ。撮影現場でマッツェが端役をもらおうとする時、ニコも役が欲しいか尋ねられるけれど彼はすぐに断る。そして一瞬下を向く。アルバイトもしていない様子だから、エキストラでもしてみたら良さそうなものなのに。映画を通じて何度も彼が求めた唯一のものがコーヒーである。小銭がなかったり、コーヒーマシンが故障していたりで、一日コーヒーを飲むことができない。最後のシーンのカフェでやっと飲むことができたコーヒーは彼にとって何か意味を持つのだろうか。

 ニューヨークを歩き回っていたホールデン・コールフィールドは「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたい*1と言うけれど、ニコも多分似たようなことを言うだろう。彼は何にも好きじゃないけれど、それでもマルセルの祖母と話す時も泣き出すカールを慰める時も、まっすぐな態度だ。

 もちろんこれは映画で、つまり現実の話ではない。映画にあるほど心理分析官は意地悪ではないと思うし、ATMも映画のようにカードを吸い込んだりしないだろう。般若心経をどれだけ唱えたか、あるいは聖書の内容をどれだけ暗記しているかということは大して重要でなくて、大事なのはどう行動したかと言うことだと思う。例えば『The Catcher in the Rye』をページが擦り切れるほど読んでもそこに書いているのは小説の中でうだうだしている主人公なわけで、彼と同じことをしても意味はないし、あなたの哀しみや怠惰、繊細さをサリンジャーが正当化するわけではない。『コーヒーをめぐる冒険』も同じである。映画の中のニコは最後に何かつかんだように見えるけれど、現実の私やあなたが彼の真似をしても無駄なのだ。映画は映画で、それ以下でもそれ以上でもない。現実の私たちは現実の世界で行動しない限り何もつかめない。でもこういった映画が作られて評価される。そんな世界が私は好きだ。

 

 

【予告編】

まだアマゾンプライムにあるはず! 急げ!

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#126 記憶たち

 

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 わりと根に持つタイプである。記憶がいいのもあると思う。私が2歳の時に母親が妊娠したことも、妹か弟かわかる前におなかの中で死んでしまったことも覚えている。病院の椅子に座る母に「どうして? どうしておなかの赤ちゃんはいなくなっちゃったの?」と尋ねていたことも覚えている。あの頃は毎週京都のマンションから、奈良にある父親の実家に帰っていた。夜の高速道路は楽しいものだったのだけれど、一度だけひどい雷の中帰る時があって、その時は泣きわめいた。全部を全部覚えているわけじゃないけれど、結婚と同時に専業主婦になった母は私をよくドライブに連れて行ってくれた。そんな記憶が助手席や後部座席に乗るときに急に記憶の淵からふわりと浮かびあがって来て、私はついつい一人の世界でうっとりしてしまう。もちろんそんな自分の中の感動を誰かに伝えてもヘンな感じになってしまうだけだから、誰にも言ったりはしない。だから一人でこうやって文章に書いている。でもたまには、たまには誰かに理解してほしいと思う。ただ誰に話しても結局は同じで、「共感」を求めても求めても「分かりあえた」という確信を持つことができなくて、むしろ自分は独りで生きていくしかないのだという絶望がちょうど汐が満ちていく時のようにじわじわと足元を浸していく。振り返ると、干潟だったのが消えてひざ下まで水があって、ズボンがもうだいぶ濡れている。早くあの松林のところまで戻らないと。でももう疲れて走れない。足がうまく動かせない。

 中学時代の同級生からインスタグラムをフォローされた。嫌だった。彼が私に投げた言葉を私はまだ覚えているからだ。彼はいじめっ子だった。少なくとも私の中では。箕面の高級住宅街に住む彼は明らかに私の服装や持ち物を見下していた。それなのに私のSNSをフォローしようなんてどういった心境なのだろう。もう忘れていたのに私の人生にひょっこり顔を出して嫌な気持ちにさせて。その上SNSを覗こうなんて虫が良すぎるのではないだろうか。まあでも、本人は忘れているのだろう。そうに違いない。私が彼をブロックしても彼はどうしてだかわからないだろう。

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 時々気になること。一体全体、教師と言うものは、生徒にかけた言葉をどれだけ覚えているのだろう。彼らは毎年毎年違う生徒たちの前に立ち、同じようなシチュエーションで同じような言葉を投げかけ続ける。彼らはいったい生徒のことをどれくらい、自分がかけた言葉をどれくらい覚えているのだろう。

 中学高校時代には想像もできなかったことだけれど、当時と今とで印象が大きく異なる先生がいる。例えばサッカーをしている時、顧問の言うことは絶対で、彼の言葉や存在をありがたく聴いていたものだけど、今考えるとわりと無茶苦茶だった。最も悲惨だったのが中学の顧問で、ありえないことにサッカーの上手い下手に成績を持ち込んだりしていた。先生が思う「若者らしさ」を押しつけて、個々の性格を認めようとはしていなかった。はっきりいってひどいものだった。悪目立ちするチームメイトは怒られる一方で目立たない私は遅刻しても気づかれなかった。私たちにはみな複雑な背景と複雑な感性と複雑な思考があるのに、「中学生」という単純なレッテルでしか私たちを見ないような顧問だったから頑張る前に先にシラけてしまっていた。あの顧問はまだ令和になっても2020年代になっても同じことをしているのだろうか。勝ち負けではなくて、もっとサッカーを楽しみたかったと今なら思う。そんな考え方は軟弱なのだと彼らは言うかもしれないけれど。

 医者を目指していたある友達は、生活態度を咎められた時に、担任に「あなたには医者になってほしくありません」と言われたらしい。彼は簡単なことではへこたれないキャラクターのだけど、数年以上経ったその時でも結構な熱量で怒っていた。今彼は医学部に入っていて、その先生が診察室に来る日を楽しみにしているらしい。彼のその根性は見習いたいものである。

 保健の授業で自己同一性障害について勉強した時、教室を見回したあとに教師はこう言った。

「まあ、このクラスの人は心の病気にはそんなに気をつけなくていいと思うよ」その後私をちらっと見た。「シゲ以外はね」

 ユーモアがあって笑わせてくれる人気の先生だった。何人かが笑った。私は頭が真っ白になった。何しろ数カ月前まで学校を辞めるかどうか悩んでいたのだ。何かを言わないといけないけれど言えなかった。笑ったクラスメイトがかなりの人数いて悲しくなった。これは年に3回ぐらい思い出す××みたいな思い出だ。そんなこと絶対に言うべきではなかったと思うし、言ったからには責任持って対話するべきだったと思う。でも彼はそんなこともう覚えていないだろう。むしろ覚えていないで欲しい。覚えていたら尚更ひどい。

 随分前に会った高校時代のチームメイトは、サッカー部の思い出も文化祭の思い出もすっかり忘れてしまっていた。清々しいくらいきれいさっぱりと忘れていて、同学年の生徒も部活の後輩の名前もかなり怪しかった。一緒になってあんなに笑ったりしたのに、思い出を共有しているはずなのに、と思うと悲しかった。16歳の時に学校にも部活にも行けなくなった私は、彼の言葉や思いやりにとても救われたのだけど、彼はもうそういうことを覚えていないのだろうなと思ったら帰り道とてつもなく寂しくなった。

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 彼みたいに思い出のために割く脳の容積やパワーを、今目の前にある現実のために使えば楽なのかもしれないと思う。少なくとも今のような気難し屋にはなっていないように思える。それが私にとって幸せかどうかは別として。辛い時に思い出すのは、やはり辛い思い出が多いけれど、その中でも時々クスリと笑ってしまうような思い出やうっとりするようなやつがたまにあって、そういうのがあるから生きていけるのだろうとも思う。

  

 

 

【ひとこと】

忘れてください。でも意外と覚えていますからね。

 

 

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#125 裏切り

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裏切り

 

 

ウッディーアレンに憧れて

映画監督になろうとしてた

14歳の冬だった

人生が転がり始めた

 

生まれて初めて観た映画

図書館ブースのスタンドバイミー

5歳の僕にはわからなかった

永遠も死も吹き抜ける風も

 

ああ時がくれば

たくさんのことが

少しくらいわかると

思っていたのに

 

考えることが

感じることが

雪だるま式に増えて

坂道を転がってく

 

 

デビットベッカムに憧れて

ツンツンヘアーにしてみたかった

泣いてばかりいた保育所

クレヨンの匂いはいずこに

 

ジャッキーチェンに憧れて

鉄棒ぶんぶん回っていた

悪と正義はシンプルで

あの頃はまだよかったんだ

 

ああ大人になれば

もっともっと楽だと

カンタンになると

思っていたのに

 

永遠の時間も

少しずつ無くなって

またいつものように

部屋の隅かたまってる

 

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#124【映画紹介】『長い見送り』(1971)キラ・ムラートワ監督

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 映画監督セルゲイ・ロズニツァは全ロシア映画大学(以下VGIK)の映像編集の授業でКороткие встречи(『Brief Encounter』)』と『Долгие проводы(英題『Long Farewell』日本語題『長い見送り』)』を解説する教授の言葉を覚えている。

 

「こんなやり方はありえない。こんな風に編集してはいけないし、明らかにルールから逸脱している。上手くいくはずがないのに、見てごらん。完全に上手くいっている」

 

 その授業で学んだことは、自分のルールを持つことが映画監督にとっていかに大事であるかということだったと彼は回想する。ムラートワのスタイルはといえば、よく言われるのは、登場人物たちの不可解な言動、奇怪な筋書き、ブラックユーモアや不条理である。

 

 ムラートワのキャリアは、長い検閲との戦いと言っても過言ではない。彼女が国際的に脚光を浴びるのは89年製作の『Астенический Синдром(英題『The Asthenic Syndrome』)』がベルリン映画祭で銀熊賞を受賞した時である。グラスノスチ(情報公開)が進められ、言論の自由が認められるようになったた時期にも関わらず、当初『The Asthenic Syndrome』は卑猥であることを理由に公開禁止になっており、銀熊賞の受賞の後に国内で公開された。

 

 映画監督キラ・ムラートワは1934105日にルーマニア(現在はモルドバ領)のソロカという町で生まれた。母親はユダヤ人の産婦人科医であり、父親はロシア人の技師であった。彼女自身はソ連崩壊後をウクライナ人として過ごした。両親は共産党員であった。戦中、父親は反ファシストの抵抗運動に加わり、ルーマニア当局によって尋問の後銃殺された。2014年のユーロマイダンの時のインタビュー記事などを読むと、戦争体験が彼女に影響を与えたことは間違いないと思うが、これについてはいずれ時間が空いた時に調べてみたい。

 59年にVGIKを卒業したムラートワはオデッサ映画スタジオで働き始め、67年に『Brief Encounter』、71年に『長い見送り』を製作する。どちらもフランスのヌーヴェルヴァーグの影響を色濃く受け、そして2本とも検閲に引っかかり、ペレストロイカの時代まで長らく上映を禁じられていた。『Brief Encounter』はセックスと不倫の描写とニヒリズム的態度が問題となり、『長い見送り』はエリート的な手法が問題となった。その後70年代の大半を監督として活動しないまま過し、83年の『(英題『Among Grey Stones』)』ではクレジットに偽名を使った。しかし、ペレストロイカの時代に検閲がゆるくなり、ソ連崩壊によって気兼ねなく映画を撮れるようになったことは、彼女の製作活動にとって追い風となった。1987年から2012年の25年間に彼女は14本の映画を撮り、2018年の6月に83歳で亡くなった。

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  映画『長い見送り』の主人公は16歳になるサーシャと、やや過保護気味の母親のエフゲーニャである。エフゲーニャとサーシャの父親は10数年前に別れ、以降彼女は英語翻訳の仕事で生計を立て、サーシャを育てて来た。思春期——そんな言葉に縛られたくなかったし、今でも大嫌いな言葉だけど、なにせ便利なので使うことにする!——のサーシャにとって、愛情過多で世話焼きな母親を疎ましく、父親に会いに行きたいと考えている。

冒頭のお墓参りの場面から母子のすれ違いは決定的である。楽しい音楽とともに笑顔で話すエフゲーニャとは対照的にサーシャは終始テンションが低く、明らかに母と話すことに気分が乗っていない。母の別荘に向かう電車の中でも二人は向かい合って座らず、背もたれ越しに言葉を交わす。母との会話に気分を害したサーシャは席を立ち、残された母親は息子を見つめるが彼は目を合わせずに外の景色を眺めている。

 笑ってしまう。大人になる前の時期、親が疎ましく感じられるのは別に珍しいことではないだろう。最初に映画を観た時の私は20歳になったばかりで、ついこないだまで反抗期だった——反抗期にまだ片足突っ込んでいたかもしれない——。ロシアの男の子も自分と同じように母親に反抗し、自暴自棄になり、同じ年ごろの女の子にあこがれを抱いていることを知って、安堵した。そして息子の変化に戸惑う母親の姿も、見慣れないものではなかった。

  別荘のみんなが集まった食卓での母子のやりとり。体育の授業で高跳びに失敗する息子を校庭の隅で見ている母。彼女はサーシャのことを知ろうと父親が息子に送った手紙を読み、元夫に向けて電報を書こうとするも何枚も書き損じ、さらにはサーシャと父親の長距離電話を盗み聞く。「お父さん、3分しかないんだって!」

息子が自分から離れていく不安と迷いの中、エフゲーニャは男に手紙の代筆を頼まれる。明らかに乗り気でなかった彼女だったが、男が手紙の内容を語るうちに、手紙の出し手と受け取り手の間にある関係や愛に触れ、最後にはエフゲーニャは笑顔になる。

 そうはいっても、楽しげな映画音楽とは裏腹にエフゲーニャの気持は晴れない。サーシャがどこかに行ってしまうのではないかという不安が拭い去れないからだ。職場の懇親パーティーで音楽に合わせてみんながダンスする時もエフゲーニャは女の子と踊るサーシャを見ている。せっかくおしゃれな手袋をしているのに爪を噛んでしまっている。パントマイムの観覧席でもめ事を起こしてしまったエフゲーニャをサーシャは手を取って引っ張っていき、噴水の側で「お母さん、僕はどこにも行かないから」と言う。最後のシーン、サーシャが母を見る目は映画前半とは違って温かい。彼は自分の成長を実感し、疎ましく思っていた母親が支えるべき存在に変わったことに気づいたのだ。

  映画館で『長い見送り』を観た際、なぜこれが検閲に引っかかり、公開禁止処分になったのかわからなかった。当時の私は、ソビエト時代の検閲についてよく知らなかったから、よほど反体制的な描写がない限り公開禁止にはならないのだろうと思っていた。だから腑に落ちなくて、地下鉄に乗ってもずっと考え込んでいた。65年のゲオルギー・ダネリヤ監督の映画『33』では幼児を腕に抱えたスターリンガガーリンのパレードをパロディにしたことで映画の上映が禁じられたが、『長い見送り』の中にそうしたパロディはないように思えた。逆に墓参りの場面のように、ソビエトの赤い星のカットが差し込んだことで、戦争で犠牲になった兵士を想起させるようなシーンもある。

 死んだカモメのカットや、一方的に話し続ける母を見つめるサーシャのうんざりした顔、外国のポップ音楽。それらは確かに受け取り方によっては退廃的であり、それが当局に「エリート的」と考えられたのだろうか。あるいはヌーヴェルヴァーグの手法——ジャンプカットの多用、実際の街や場所で録音した音と映像——そのものが「エリート的」だったのだろうか。

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  同じブレジネフ政権下の70年代に撮られた、ダネリヤの『アフォーニャ』や『ミミノ』でも、仕事をせずお酒を飲み続ける労働者や、計画経済の中で起きた物不足など退廃的とも受け取れる描写はあるが、『ミミノ』の主人公がイスラエル——当時ソ連イスラエルの間には国交がなかった——に電話をかけるシーンが差し替えられた以外は検閲の被害を受けていない。ただ、この2作が明らかなハッピーエンドであった一方で、『長い見送り』はわかりにくい。私はハッピーエンドだと思うが、みんながみんなそう思うかどうかはわからない。物語にしっかりとした起承転結があるわけではなく、現実なのか妄想なのか観客に十分な説明があるわけでもない。突然エンディングが来たように感じる人もいるだろう。

 一言で言うなればこの映画は母と子の絆を描いた物語である。映画の前にも後にも二人の生活は延々と続いている。ただ、この映画の中で、サーシャは成長して、母親が自分を必要としていることを知る。エフゲーニャは息子の成長と自分を取巻く状況を受け入れるようになる。こうして、息子が母親を必要としていた一つの時代が終わる。観客は題名の意味を知る。

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〈表記に関して〉

1: よりロシア語の発音に近い「ムラートヴァ」ではなく、日本語表記でより多く見受けられる表記「ムラートワ」で統一して書いた。

2: 映画を表記する際は初出のみ『ロシア語の題(英題)』とし、その後は英題で統一した。ただし、この文章の主題である『長い見送り』に関しては、日本語題である『長い見送り』で統一し、冒頭でのみロシア語と英語の題を併記した。

 

 

〈映画のURL

megogo.net


 

〈参考文献〉

Film Comment

In Memoriam: Kira Muratova

https://www.filmcomment.com/article/memoriam-kira-muratova/

最終確認日:202125

 

The Gurdian

Kira Muratova obituary

https://www.theguardian.com/film/2018/jun/21/kira-muratova-obituary

最終確認日:202125

 

 

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#123 松山から高松

 

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令和元年 94

 書きたいことがたくさんある。忘れたくないことが星の数ほどある。

「山ほど」という言葉や「沢山」という言葉の語源はどこにあるのだろう。やはり日本が山がちだからこそ出来た言葉なのだろうか。この旅でもたくさんの山をみた。今日も松山から西条、新居浜を抜けて原付で走って来たけれど、国道11号線は途中で四国山地に入った。細い山道を縫うようにしてトラックや乗用車が走るから生きた心地がしなかったし、渋滞もところどころで起こるのだった。

 Ropeway St. Guesthouseでたまたま同室になったタチアナとドムに別れを告げて原付に乗ったのが今日の昼。松山城の東側にあるゲストハウス。一軒家を改装した建物はおしゃれな雰囲気で、オーナーも感じのいい夫婦だった。

 朝はゆでたモロヘイヤを食べた。少し固かった。早起きできたら道後温泉本館に行こうと思っていたけれどやはり起きれず、ゆっくりと朝食を食べた。食べながら、今朝見た変な夢を思い出していた。何者かによって高校時代の友達と共に校舎に監禁される夢だった。友達と離れた私は自力で脱出するのだけれど、脱出に成功した瞬間、自分だけ助かってしまったことに気付き、自責の念で苛まれ、ついには動けなくなってしまうのだった。私は上空から、コンクリートの上でうずくまる私の姿を、見下ろしていた。飛び起きると8時だった。私は時間をかけてモロヘイヤを咀嚼していた。

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 もう少し松山に居たかったので出発前に少し歩くことにした。城山のふもとから商店街を抜けて松山市駅まで。いつかの国語の授業で観た俳句甲子園の映像を急に思い出した。高校生がチームを組んで俳句を発表し、句の善し悪しをディベートするという内容だった。その俳句甲子園が行われていたのがこの松山の商店街だった。何年も前に観た映像をまだ覚えているのが驚きだった。その映像に出て来た場所に今立っているのも変な感じがだった。

 松山市駅から路面電車に乗りゲストハウスに帰った。ゲストハウスの近くの古書店三好達治の随筆集を買った。ドミトリーでパッキングをしながら「この人は詩人で、自然のことを詠んだ人なんだよ」と二人に説明した。

 出発前にタチアナとドムと3人で写真を撮ろうかと思ったけれどやめた。忘れてしまうのが怖いから写真を撮って、思い出に振り返ってばかりの今の自分がひどく不健康であるように思ったからだ。写真なんてなくてもいつでも思い出せるようにしたい。でもそんなの絵空事だ。悩んでいることも、哲学も、好きな人のことも、家族も全部無に帰るのだと思う。結局。バックパックを背負い、午後は高松を目指す。城も街も人も一瞬で過ぎて行った。タチアナは日本を旅行しながら水彩画を描いているらしい。私は日記をずっと書いている。書きたいことがたくさんある。

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 空腹を我慢して走り続けたせいで、立ち寄ったコメダ珈琲ではコーヒーだけのつもりがコロッケサンドも頼んでしまった。思ってより大きくて、食べた後眠ってしまった。イヤホンから聴こえるオードリーのラジオが心地よかった。ちょうどむつみ荘から放送した週で、二人でむつみ荘の思い出を話しているのを聴いているとしんみりしてしまった。いつか春日が住んでいるうちに阿佐ヶ谷のむつみ荘に行こうと思っていたけれど、いつになっても行けなさそうだった。

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 イヤホンの向こうから聞こえるコメダの有線が良かった。同じカウンターに座る女の人は私が来た時には期間限定のかき氷を食べていたけれど、今はグラタンみたいなものを食べている。よほど面白いのかずっと同じ本を読んでいる。私はノートを開いてまた旅のことを書いた。また時間が経って、書かずにはいられない自分の性について少しだけ考えた。

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仏生山温泉

 仏生山温泉は相変わらずぬるぬるしていた。肌に良いのであろうと思った。脱衣所で着替える時に車椅子の人がいたけれど、この建物は玄関から湯船にいたるまでほとんど段差がないので比較的楽に移動できるようだった。湯には1時間ほどいた。

 高松郊外の温泉。去年来たのは11月だった。私はまだ髪を伸ばし続けている最中だった。じろじろ見られた。髪の毛長い男が高松ではそんなに珍しのだろうかと思うほどだった。その時から髪を切ることを考え始め、暮れのロシア旅行の前に切ってパーマを当てた。ランボーみたいになった。それでもまだ髪は長かったようで、モスクワの地下鉄では女の子に間違えられた。トランジットで滞在した武漢でも男子トイレに入ろうとすると掃除のおばさんが「間違えているよ」とジェスチャーで教えてくれた。

 せっかく600円も払って入湯するのだからできるだけ長く入ろうと思った。何時間も原付の上にいてお尻が痛かった。体を伸ばして湯船の中で目を瞑るといい気持ちだった。お風呂を出た後はお座敷に座って少し休んだ。テレビでは野球中継がやっていた。

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 高松市中心部に着いた時には、お店はもう店じまいしているころだった。名物の骨付き鳥にはありつけなかった。結局遅くまで空いていたうどん屋に入った。そこは歓楽街のそばだったので、「マッサージどう?」なんていう声を笑顔でかわして店に入った。生しょうゆうどんを頼んだ。すっかりできあがったサラリーマンで店は繁盛していた。少し割高に感じたけれど、長いお店らしく雰囲気もよくて、味も美味しかった。お金を払い、商店街をまた歩いた。

 珈琲と本と音楽 半空は大人の空間だった。コーヒーを頼んで、閉店時間まで居座ろうと思ったけれど、その大人向けの雰囲気に緊張してしまい、私はすこし居心地が悪かった。店の奥に座る男女は常連のようでマスターと話している。髭のマスターはてきぱきと動きながら、話に耳を傾けている。もう一人で入り口の近くにいる人は、学生のようで何やら勉強をしているようだった。テキストの内容をルーズリーフにまとめているように見えた。たくさんの本と音楽がカウンターのこちらにも向こうにも積み重なっていて、知らない人の名前がたくさんあった。やがて2時になり閉店と共にみんな店を出た。

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 高松は24時間営業の店が少なくて、結局ネットカフェに泊まった。押見修造の『ぼくは麻里のなか』を読んだ。すごい面白くて全9巻があっという間だった。少し寝て、ココアとコーンポタージュとトーストをたらふく食べて朝の街に出た。

 

 

【今日の音楽】

 

youtu.be

 

 

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#122 部屋の整理(2)

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 子供向けの国旗の本。保育所に通っていた時、国旗の本をおばあちゃんに買ってもらった。たしかクリスマスプレゼントだったと思う。朝起きたら枕元に一目見ただけで中身が本だとわかる包みがあって、開けると色とりどりの国旗の絵が入った表紙が目に入った。ちなみに今も昔も私はプレゼントの包装紙が破れてしまうのがイヤで、セロテープをきれいに剥がすことに一生懸命になるタイプである。保育所の遊戯室には自由に使っていい画用紙があって、毎日国旗を色鉛筆で描いていた。そのうちに、どうやらどの国にも「しゅと」というものがあるらしいということが解ってきた。日本の首都は東京。韓国の首都はソウル。中国の首都はペキン。覚えることがたくさんあった。今も昔も我が家のトイレには地元の銀行が年末に配る大きなカレンダーがあって、メルカトル図法の周りに12カ月が配置されていた。

 

 中学校の国語便覧。あんなによく読んだのに、読み返すと、あまり良いものではなかった。夏目漱石芥川龍之介以外にも日本には良い作家がいるのに、彼らのことしか書いていない。評価され過ぎて権威的な文学になってるのだとしたら作家にとっても読者にとってもよくないと思う。また便覧には、ことわざや四字熟語、日本語の細かい文法のルールも載っていた。海外で日本語教師をするときに便利だろうと思ったけれど、そんな日が実際に来るとは思えないので捨てることにした。

 

 高校1年生の時の生徒会報と文化祭実行委員会から配布されたプリント。私の高校は各学級で劇をする伝統があった。当時の私は劇を仕切る係をしていた。今となっては考えられないけど。劇の小道具を学校から借りるための申請書が出て来た。担任のハンコと署名。文化祭実行委員の署名。顔と名前だけは知っている先輩。今何してるんだろ。何してるんだろ自分。

 

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 世界史についてまとめたノート。表紙は三国時代の中国の地図があって、曹操劉備孔明孫権のイラストも添えられてある。同時代の朝鮮半島の勢力図も色分けされている。その時代の朝鮮半島中南部には馬韓弁韓辰韓があったと考えられている。受験生だったころ、教科書を読む気になれない時は図書館で世界史に関する本を借りて世界史の知識を得ていた。ノートは主に中国史について書かれている。『鄧小平』と『中国反逆者列伝』という2冊の内容にそって大学入試に必要な知識がまとめられている。

『鄧小平』は戦時下における鄧小平の下積みと、中国共産党の権力闘争の話が主で、中国の現代史について18歳の私はまとめていた。特に毛沢東の死と共に終わった文化大革命、その後の改革経済。ノートによれば鄧小平は客家出身らしい。「客家とは、南方の『本地人』に対して、よそから来た人の意。その多くは非漢民族華北を支配した東晋、唐代末、南宋、明代末、清朝末の5つの時代南方へ移住した。南の文化に同化せず、固有の文化を保ち続けた彼らは結束が強く排他的で、また勤勉で賢いと言われる。現地人から山間のやせた土地しか与えられず、しばしば土地争いが起きた」ノートにはそんなことまで書いている。

 ちなみに、台湾に漢人が移住するようになるのはオランダの統治が終わる17世紀からで、多くの客家も華南から海峡を渡って台湾に移住した。そして大陸でそうであったように土地争いも起きた。いつか読んだ台湾の本にそんなことが書いてあった。

 余談になるけれど、鄧小平は89年の64日に天安門広場でデモ隊に対して武力弾圧を行った人である。今でも天安門事件は中国ではタブーとなっていて、インターネットでも検索できないらしい。中国からの留学生と香港やウイグルの問題について話した時に、なかなか話がかみ合わないことがあった。私は天安門事件のことを思った。武力行使を鄧小平が命じなかったら、香港やチベットウイグルにおける現在の人権侵害はもしかしたら起きていなかったかもしれない。

 高校3年生の当時、いかにして勉強に対するモチベーションを上げられるかということを考えていた私は、ノートの表紙に絵を描いていた。世界史の勉強と地理の勉強を組み合わせたノートを作ったり、現代史に関わる英語の記事を読んだりしていた。次第に、好きな分野の勉強ばかりしてしまい、数学の勉強はほとんどやらなくなってしまった。

 

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 浪人時代の河合塾のテキストが出てくる。

 多和田葉子のことを初めて知ったのは現代文のテキストの中だった。アライという名の現代文の教師が「正直、多和田葉子村上春樹よりもノーベル文学賞に近い」ということを言って、『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』という文章を読んで問題の解説をした。

「ここに傍線Aを引く! ぴしっ」

「ぴしっ」をわざわざ発音する先生が面白くてクラスで何人もが真似していた。

 ページをめくるとよく覚えている文章がたくさん出てくる。リービ英雄『「there」のないカリフォルニア』、姜尚中『悩む力』須賀敦子「クレールという女」。

リービ英雄は台湾のことが好きになって調べていた時に『模範郷』という本を読んだ。幼年期に台湾で過ごした作者が大人になってから台中に帰って、昔住んでいた場所を探すというお話だ。烏丸の大垣書店若林正恭の『社会人大学人見知り学部卒業見込み』と一緒に買った。2019年の5月。M先輩と京都を一日歩いた後だった。

『悩む力』は結局買った。天神橋筋の天牛書店。読んだけれど内容は忘れてしまった。須賀敦子の「クレールという女」は『遠い朝の本たち』に収録されている。買ったけれどまだ最後まで読めていない。読むと泣いてしまって進められないのだ。私の本だなにはそうした本が何冊かあって、今年こそは読もうと毎年思うのだが結局読めない。困る。

 大学受験のための授業だったのにアライ先生のことはなぜかかなり記憶に残っている。酒を飲んで留置場で泊まった話や、文学を研究していた学生時代の話など、授業の合間に挟まれる話を毎回楽しみにしていた。同時に先生の人生を諦めたような言動に哀愁を感じたりした。授業後に質問に行くと、酒の匂いがしたりもした。今元気でおられるだろうか。まだ予備校教師をしているのだろうか。テキストで詩が出た週には穂村弘の短歌をプリントに刷って配ったりしていた。

 

 数学のテキスト。名前も忘れてしまった予備校教師たち。まだうっすら顔は思い出すことができる。数学が苦手だから文系にしたのに、文学部の合否を分けるのは数学の点数だと知ってやるせない気持ちになったのを覚えている。結局本番の試験でも数学は5問中1問しか解くことができなかった。

 

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 ミャンマーのパガンで買った砂絵。あまりいいものではない。捨てるかどうかまだ迷っている。パガンは観光地である。パゴダと呼ばれる仏塔が見渡す限り一面にあるのだ。電動バイクや自転車で仏塔をめぐり、写真を撮り、水辺で船から荷物を運ぶ人を見た。子どもにお金を要求され、ある9歳ぐらいの子どもは腕時計が欲しいと言われた。誰かを断罪することも、説教をすることもまっぴらだった。ただ悲しかった。観光が彼らの子ども時代をスポイルしてるように思った。観光客といて楽しんでいるだけの自分もその片棒を担いでいた。

 

 丸谷才一『笹まくら』のストーリーを時系列にまとめたメモ。2019年の夏、『笹まくら』の舞台となる西日本の街を巡る旅をした。杉浦健次が阿貴子と出会った皆生温泉近くの日野川の河口。出雲大社、そして杉浦健次が終戦を迎える宇和島の城山。天赦園の由来となった伊達政宗の晩年の漢詩。赦すとは赦されるとはどういうことなのだろうか。映画よりも映画的な小説。でも映画ではどうしても表現できないだろう。杉浦と阿貴子が結婚していたらどうなっていたのだろうと時々思う。存在しない人物のことを考えて現実にいる人たちのことをないがしろにしている。よくない。

 また今度は、芥川龍之介の「偸盗」に出てくる登場人物の相関図のメモ。もうかなり忘れてしまったけれど阿濃のところが気に入った覚えがある。

 

 全部捨てることにした。そう全部捨てる。

 

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【今日の音楽】

youtu.be

 

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