シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#86 映画『フィッシュマンの涙』を観た

 

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 深夜、文章を書いていた。やっと進級できたこと、昔の友達にまた会ったこと、昔住んでいた町を歩いたこと。3月には別れと時の流れを実感してしまう。つらつらと今しか書けないであろうことをノートに書いていた。

 傍らにあるラップトップで音楽を流していた。Still Corners、それからTalking Headsを聴いた後、最近知った자우림Jaurim/紫雨林を聴いた。しんみりした。心が疲れた時に聴く音楽は毎回いいなあと思う。韓国語の菓子を聴いていたら韓国映画が観たくなってきた。『親切なクムジャさん』にしようと思ったのだけど、アマゾンプライムではもう観れなくなっていた。それなら同じパク・チャヌク監督の『オールドボーイ』はどうかと思ったが、大量の血を見る気分ではなかった。もちろん『親切なクムジャさん』も血は出るのだけれど、『オールドボーイ』の比ではない。それに暴力シーンは作業の邪魔になりそうなので、かねてから観たかった『フィッシュマンの涙』を観た。

 2015年、クォン・オグァン監督。92分。原題は『돌연변이』。グーグル翻訳で発音を聴いたところ、カタカナで表現するなら「ドリョンビョニー」っといった感じである。「突然変異」という意味らしい。ちなみに英題は”Collective Invention"。「集団的な発明」あるいは「共同での捏造」。そういった訳が適切だろうか。多分二重の意味を持たせた含みのある題名だと思う。 

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ソウル

 パク・グ(イ・グァンス)は平凡そのものであった。大学を出たのだけれど平凡すぎるが故に、就職できなかった。仕方なく彼は公務員試験の勉強を始め、治験のバイトをした。その治験のせいで彼は魚人間になった。その突然変異の理由は誰にもわからないようであった。

 主人公サンウォン(イ・チョニ)は「真の」記者になりたい。面接の前に彼はなぜ自分が記者になりたい理由を書いて覚える。「国民のために真実を知らせ、社会の不条理をただし、弱者を守る」 彼はずっとそういう人になりたかった。でも面接官の部長にとっては彼の言葉なんてどうでもいい。会社は今ストライキ中で人員不足なのだ。すぐにでも動ける人が欲しいのだ。途中で遮られ非正規としていきなり取材に飛ばされるサンウォン。「仕事ぶりを見てから採用するか決めてやる」と言う部長の言葉を信じてがんばるサンウォン。

 彼は「魚人間」のことをネットに書き込んだジン(パク・ボヨン)のところにカメラを持っていく。サンウォンの初めての取材は自己顕示欲丸出しの彼女に振り回される。サンウォンを演じる は髪型のせいかどこか星野源に似ている。なかなかサンウォンという名前を覚えられなくて、星野源と心の中でこっそり呼んでいた。

 

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魚人間は喉が渇くのだ


 初め「治験によって人生を狂わされた男が製薬会社に復讐する」という内容の映画だと思って観ていた。もしかしたらフランス映画の『ミックマック』と似ているかもしれないなと思いながら見始めた。冒頭のコメディ調で語るナレーションといい、アコーディオン——もしかしたらバンドネオンかもしれない——の音楽といい、どこかしら『アメリ』と似ている気がした。この監督はジャン・ピエール・ジュネの映画が好きなのだと思った。手元では進級した時のことをペンで書き進めていた。

 しかし、面白すぎて段々ノートではなくスクリーンに目がいくようになり、そのうち書くことが浮かばなくなってしまった。復讐コメディだと思っていたのが段々社会派ドラマのようになってきた。大卒なのに就職できずバイトをしながら公務員試験の勉強をしていたグは、「貧困する若者」としてメディアに持ち上げられ一躍時の人となる。格差社会や就職難といった社会問題を身をもって体現するアイコンとなり、街行く人に写真を求められたり、魚人間のグッズが作られるようになる。パク・グの意志とは関係なく政府に対してデモが行われ製薬会社が糾弾され、当然のように裁判では勝訴する。しかし段々と雲行きが怪しくなってくる。

 サンウォンは自分がメディアの人間であることを隠している。彼はドキュメンタリー作家としてグとその周りの人間を取材している。グの父親(チャン・グァン)、人権擁護派のキム弁護士(キム・ヒウォン)、それにグが唯一頼れる相手で会ったジン。全員曲者で、パク・グのことを考えているように装いながら、その実、自分のことしか考えていなかったりする。父親は何かにつけてお金のことを口にし、裁判でより多く賠償金をせしめようと画策する。年下と女性に厳しい彼はジンのことをよく思っていない。大学に行っていないジンをあからさまに馬鹿にする。最近の若者は我慢が足りないとかなんとか。ジンがもう若くないことを見てまた非難する。20世紀のジェンダー観をそのまま引きずったミソジニーだ。そんな父親にパク・グは自信を奪われ、へこへこしている。父子の仲も良好とは言えない。というか最悪だ。キム弁護士も人権派として有名でありながら、結局は大衆を扇動する輩である。最初から最後までどこか胡散臭い。人間がつかめない。

 若者と中年の対比が映画の軸でもある。日本と同様少子高齢社会が進む中、若者がメインストリームにいない世論に、若者たちは振り回される。製薬会社とピョン博士(イ・ビョンジュン)の実験によって魚になったパク・グ。正規として働けず、部長にいいように使われるサンウォン。女性であるという理由で軽んじられることに怒り、社会に対する不満をことあるごとに露わにするジン。コメディ映画の体裁をとりながら韓国社会のいびつさを告発する映画だと思う。それでいて説教臭くなく爽やかである。あんまり難しいことはわからないけれど、多分脚本が素晴らしいのだと思う。社会の不条理を感じながらも、物語の最後に3人の若者はそれぞれの将来へと進む。

 

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ソウルのメトロから


「パク・グ」対「カンミ製薬会社」。常識的に考えて
100%悪いのは製薬会社であり、パク・グは治験を受ける前と同じ程度の「人間らしく生きる権利」を保証されるべきである。しかし世論は簡単にメディアに左右される。実験の責任者であるピョン博士の研究がノーベル賞級のもので、食糧難を解決しうる大発見であることが知れ渡ると、メディアはすぐ手のひら返しである。逆にパク・グは捏造されたセクハラのせいで大バッシングを受け、「アカだ!」なんて言われて物を投げられたりする。逆に博士はヒーローとして持ち上げられる。カンミ製薬を大企業が買収し、二審では製薬会社側が勝ってしまう。ありえない判決が実際に下されてしまう。

 渦中にあってもパク・グの表情は変わらない。というか魚人間に表情はない。パク・グの周囲の人間は右往左往するが、彼自身はもう精気もなくほとんど感情的にならない。裁判にも就職にも人生にもとっくの昔に諦めた様子である。最初は頭だけ魚だったのが、頭以外の部分もどんどん魚に近づいていく。手にはみずかきが生まれ、こまめに肌に霧吹きをかけなくてはいけない。笑い声もうまく出せない。

 そんな魚人間を見ていると、『千と千尋の神隠し』のカオナシが思い出された。しかしカオナシが無個性化する社会や若者の象徴であったのに対して、無表情の魚人間は普遍性を表しているように思えた。この主人公パク・グに起きた出来事は誰の人生にだって起こりうることなのだと、そう思った。実際パク・グの素顔はちょびっとしか出てこないし、彼の育った環境や教育だってありふれたものなのだろう。

 あるいは、「本当に困難にある人は感情を表に出すことが出来ない」ということなのかもしれないとも思った。行き場を失ったパク・グは通りで出会った中学生に殴られる。理由は「気持ちが悪い」から。

「殴られてるのに笑いが出たよ。その子たちの言ったことに間違いはないから」

 

  何という悲しいセリフ。無表情の魚人間は悲し気なオーラをいつも漂わせてはいるものの、感情をほとんど表に出さない。父親がひどいことを言っても言い返したりはしない。パク・グのための市民運動、デモ活動とカウンター。彼のいないところで彼を巡って対立が起こる。誰も彼自身のことを見ていない。彼がどう感じているかさえ気にせずに魚人間の存在を利用しようとする。

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風呂場のシーンがよかった


 パク・グはサンウォンに語る。普通に就職して、結婚をして子どもを持つことが夢だと。それの「普通」さえ望めない人々の悲しさを魚人間は伝える。無表情のうちに。地方大学出身でコネもないサンウォンは自分が正社員になるためにこの魚人間の取材を成功させなくてはいけなかった。それでも大きな力が動いて部長は彼に取材の中止を命令する。正義が通らない現実に憤りを覚えるサンウォン。そして、パク・グは体が「魚化」しすぎたため、これ以上生きていくことが難しくなる。彼はピョン博士を頼り、カンミ製薬で人体実験を受けることにする。ほとぼりが冷めると世論は「かわいそうな」パク・グのことなど忘れ、メディアは新しい話題を報道する。一つの不条理が新たな不条理でかき消されていく。

 

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 色々な事件を思い出した。最初に思い出したのはナガサキヒロシマ原子爆弾の人体への影響を調べるために爆弾を落とした人たち。犠牲になった人々。治療をすることなくデータだけをとったABCCアメリカ政府。それからSTAP細胞の騒動。加熱するメディアの報道とバッシングで人が一人自殺した。覚えている限りあの後メディアは反省も謝罪もなかった。パク・グの事件にしたって、周囲の誰かが自殺してもおかしくなかった。

 映画の舞台が日本だったらどうなっているだろうかと思った。「治験で体がおかしくなってしまった」人は日本でどういう扱いを受けるだろう。『フィッシュマンの涙』にある韓国社会みたいに、やはり世論を巻き込んで議論が起こるのだろうか。どうもそうはならないだろうな。魚人間の人権を擁護するためにSNSで数人が日本語で書き込んでも、数十人がリツイートしても多分それだけだろう。何も変わらない。大多数は無関心だろう。でも無関心なのも正直仕方ない。政治にも社会にも期待できないのもわかる。実際国会での政治家のやりとりを見るとうんざりする。コロナウイルスで旅行がキャンセルになって暇なので、この前国会中継をじっくり見たのだけれどなんだか絶望的になった。問題を後回しにすれば、いずれ有耶無耶になるだろうという姑息さ、真剣に議論しようとする人をあざ笑う顔。絶望である。

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 保育園におちても、コロナウイルスの感染者が出たクルーズ船に偶々乗っていても、メディアは「自己責任」の方向で報道する。政府は保障しないし、メディアの人間は政府が保障をするべきとは言わない。政治家が「自己責任」として、メディアがその論調を肉付けする。アナウンサーは「ボランティアが足りない」なんて平気で言う。そういう言説がみんなの中に知らず知らずのうちに刷り込まれていく。

 おそらく日本版『フィッシュマンの涙』では「魚人間になったのは治験を受けた彼の自己責任」なんてホリエモンSNSで言って、それが拡散されるのだろう。彼らは弱い人に共感を寄せたりたりしないし、元々生活に厳しい人は他者の尊厳の問題に時間を割いている暇はない。どんどん社会が分断されていく気がする。もし『フィッシュマンの涙』を日本でリメイクするなら、ホリエモン田端信太郎に似た俳優が出てくるのだろう。

 そんなことを考えたら悲しくなった。でも映画を作った監督も配給した会社も、この映画を肯定的に観た人も同じ世界に生きている。彼らのような人たちがこの『フィッシュマンの涙』みたいな映画を作って、大げさな言い方ではあるが、私に勇気をくれる。

 

 

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