シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#99 remember me

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 忘れられることは死ぬことだ。

 ずっとそう思っている。逆もまたしかりで、誰かを忘れることは誰かを殺すこと、とまでは思わないけれど、それに近いことだと考えている。昔から忘れたくなかったし、忘れられたくなかった。一年間過ごした病院を退院した時から友達とは年賀状をやり取りし続けたし、転校してからも毎年一回は友達に会いに自転車で隣町まで走った。西宮から尼崎まで、JRに沿って自転車を走らせる。甲子園口駅にも、武庫川にも、立花駅にもいろんな思い出があってウキウキしながらワダっぺの家の前に自転車を止めてインターホンを押した。カホちゃんの家に行くこともあったけど、カホちゃんは塾があったり忙しいから遊んでくれなかった。ワダっぺと一緒に校区を回って友達の家に行ってみたり、小学校の校庭で友達の野球を見たり、タコ公園を一緒に散歩したりした。小学生だからできたことだ。いきなり家におしかけても許されたし、別に用事もないワダっぺは気がいいから一緒に遊んでくれた。気まずいという感情をまだ知らなかった時代、楽しいことしかなかった。いつか離れ離れになってしまうとしても、できればずっと一緒に遊んでいたかった。

 

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 父親の家を出る時、ずっと彼の顔を覚えていようと思った。何も知らない父親はいつものように小さい私の方にかがみこみ笑顔で私を見ていた。父は何か言ったけれど声色も内容も全く覚えていない。もうすぐその家から出ていくことを母から告げられていた私は父と会うのはもう最後なのだと思ったからその顔を忘れないようにずっとずっと覚えていなくてはならないと思った。

 次の記憶はいきなり保育所に移る。毎日泣いていた。それまでずっと家の中で育ったので、他の子どもたちと同じ場所にいること自体が初めてだった。母親と離れないといけないというのも初めてで、だから毎日毎日保育所に行くのが嫌だったし、特に嫌なのは私を母が保育所の門を出ていくのを見ることだった。母は新しい町で仕事を見つけて働いていた。母親が職探しに成功しなかったらどうなっていただろうと想像するとぞっとする。毎朝私は号泣するから母は遅刻することも多かったらしい。

 最悪だった保育所も次第に慣れていった。最初に話しかけてくれたのはスズキナツミちゃんでかけっこが速かった。ワダっぺともそこで会った。ワダっぺは当時からすでに天才的で遊戯室にある画用紙を使って漫画を描いていた。ワダっぺのやっていることを真似してみんなが絵本をつくるようになり、年長になるころにはクラスのみんなが作った絵本を読み聞かせして発表する会が定期的に催された。小学校低学年には彼は夏休みの宿題で描いた絵で表彰されていたし、4年生になる頃には「無言キャンペーン」というのを展開して全く話さない時期があったらしい——映画『リトルミスサンシャイン』のポール・ダノみたいだ——。ワダっぺ、彼は今なにしてるのだろう。引きこもりになってなかったらいいなあ。

 

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 とここまで書いたところでチャイムが鳴って従弟が車のカギを取りに来た。私も3歳下の従弟も自動車免許をとって、おばあちゃんのものだった日産ティーダを乗り回している。冴えない色と形のコンパクトカーだけど、見てくれはともかく、機能性は高いと思う。この前もこの車に乗って出雲まで行った。父親の家にいた時に母が運転していたのはホンダシビック。父親も奈良に住む父親の家族も誰も免許を持っていないから、母が運転していた。マザコンだった父親は始終、勤め先のある京都と実家のある奈良を往復したのだけれど運転するのは母だった。料理するのも母。眼が見えないおばあちゃんの手助けをするのも母。もちろん私と遊んだりするのも母。父親に抱きしめられた記憶は全くない。ウルトラマンの本をもらったぐらいだ。そしてもっと最悪なのは父親の姉と母だった。彼女たちの存在は父親をも苦しめていたと思う。

「嫁に来たということは家に嫁いだのと一緒」

そんなことを平然と、後ろめたさなどみじんも感じることなく言える人たちだった。私はあの頃無力だったのが悔しい。

 

 半年ぐらい経つと保育所は楽しくなっていた。毎日元気よく母の自転車の後ろに乗り込んで登園した。どこで気づいたのかは忘れてしまったが、ある日、父親の顔をどうやっても思い出せないことに気づいた。脳みそを必死で絞り出しても何も出てこなかった。ショックだった。自分にとってかけがえのない存在であるはずの父親の顔をもう思い出せないとは。街行く男の人の顔を見ながら父親の顔を思い出そうとしたけれどはっきりしなかった。ミニアチュールに描かれるムハンマドのように顔の輪郭や体つきはわかるのに、目鼻立ちがわからなかった。毎日毎日思い出そうとして、頭の中で一人で福笑いをやっていた。鏡に映る自分の顔を見て、父親に似ているな、と思う時もあったがどこがどう似ているのか説明できなかった。なんとなく鼻が似ている気がした。

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 ある日私は全てのことを忘れないようにしようと決意した。父親の顔が思い出せないなんてことはもう二度と経験したくなかった。小学校に入ると日記を書きだした。「今日は学童で円盤かくれんぼをしました。初めはながはしりなが鬼でした。すずが枯れ葉の中に隠れていたのが面白かった」「今日の算数の授業では百マス計算をしました。カホに負けたのは悔しかった。また頑張ろうと思います」こんな感じ。日記を書くのが面倒だと感じる時期もあって、そういう時は「今日は学校に行き、学童に行きました」「今日は学校に行き、学童に行った後テニスに行きました」みたいな日が延々と続いた。毎日日記を読むのを楽しみにしていたらしい母が「もっとちゃんと書けば?」と言うまでそんなのが続いた。大学に入る時、受験勉強から解放されて本格的に日記を書き始めた。書くことがたくさんあって、大学の授業そっちのけで書きまくっていた。気がつくと100ページもあるノートを10冊以上も書いていて、自分が怖くなった。思いついたことを忘れないようにと思うからSNSの更新頻度も高くなってきて、良くない傾向だと思った。Twitter140字じゃダメだと思ってブログを始めた。でもブログでも良くないことばかり書いてしまって、書けば書くほど友達は減っている気がする。でも書くという行為は私にとって、その時の自分や周囲の人間の存在を生き永らえさせるため行動なのだ。書き残すからこそ、私は保育所で同じクラスだった内藤まいかちゃんを覚えているし、人生で最初の音楽会でめちゃくちゃかっこよく大太鼓を叩いていた大川ことみちゃんや、8歳の時にくだらないギャグを一緒に考えた笹野ゆうやを覚えている。彼らが私のことを覚えているかどうかということはこの際関係ない。別の話だ。

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 小学校を転校する時も、卒業する時も、もう二度と会わない誰かとの別れを惜しんだ。7歳の時に友達のあずさちゃんが転校したのだけれど、そこにいた人が次の日にいなくなるという事実が悲しすぎて、お別れ会の間、あずさちゃんがかけがえのない人に思えた。別に遊ぶグループも住んでいる場所も違ったけれど、もう会えなくなるのは辛かった。住所を交換するとか、電話番号を教え合うとかそういうことを思いつくようになる前のことだった。私は友達に好きだったと伝えた。それが考えられる最も良い方法だった。次の日から彼女は学校に来なくなった。私は半年前に卒園式で歌った歌を思い出した。

 

みんなともだち ずっとずっとともだち

がっこういっても ずっとともだち

みんなともだち ずっとずっとともだち

おとなになっても ずっとともだち

 

みんないっしょに うたをうたった

みんないっしょに えをかいた

みんないっしょに おさんぽをした

みんないっしょに おおきくなった

 

 私は今でも思い出を残そうと誰かと遊んだ時のレシートを残す。誰かと街を歩いた時には古本屋に寄って本を買ったりする。その本には、内容とはまた別に思い出が付与されて、私にとってはかけがえのないものになる。その本が手元にある限り、その人のこともすぐに思い出せるからだ。そんな生き方をしているから私は物を捨てられない。最悪なのは教科書で、私は卒業からだいぶ経った今も高校の教科書を捨てられていない。

 

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 忘れない限り記憶の中ではみんなと一緒にいられる。忘れない限り彼らは私の中で生き続ける。物を捨てた時、定期的に連絡をとりあうことをやめた時、相互フォローでなくなった時、会話で話題に上がらなくなった時、彼らはゆっくり死んでいく。全部を全部抱えきれやしないし、みんなそうやって生きているし、人生そういうもんだろ? ってもう一人の私は言うけれど、もう一人の私はわからずやで絶対に納得しない。周りのみんなはもう大人になっているのに、片手で抱えあげられるほど小さいそいつは頑なにその場から離れようとしない。そうしてまた一年が経ってゆく。

 

 youtu.be

 

https://youtu.be/jbYh4su2HGE

 

 

 

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