シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#127【映画紹介】『コーヒーをめぐる冒険』(2012)

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 16歳の時に映画『桐島、部活やめるってよ』を観た。人間は同じ空間に存在していても、別々の視点で物事を見て、各々の感じ方で世界を切り取っている。同じ出来事を前にしても人間は別々の反応をする。正しいとか正しくないとか、そういうのじゃなくて、なぜその人がそのような反応をするのか、というのが大事なのだ。そんなことを考え始めた時期だった。それが多様性であって、豊かな社会であればあるほど、選択肢が多いのだ。多分。

 

 暗い画面の中からジャズが聴こえてきて映画は始まる。ガールフレンドのフラットで目を覚ました主人公ニコはコーヒーを作ろうかという彼女の誘いを断って自分の新しいフラットに戻る。シャワーを浴び、歯を磨く前の一瞬、鏡の中の自分に笑いかけすぐやめる。

 免停を免れたいニコは医療心理テストで意地悪な質問に答えないといけない。心理分析官——正確に言えば、州に所属する心理学者——との対話で観客はニコのコンプレックスを知る。身長が低いこと、大学を卒業しなかったこと、両親との関係。情緒が不安定と診断されたニコに運転免許は返されない。

 コーヒーを飲んで落ち着こうとするものの、コロンビアのコーヒーは高すぎてニコはコーヒーの料金を払えない。キャッシャーの前で立ち尽くすニコはカフェで新聞を読む客の視線を気にしてばかりだ。コーヒーにありつけなかったニコは自分の部屋に帰って窓辺で煙草を吸う。ニコはコーヒーを逃してばかりだが、この映画を通じて煙草は6本吸う。映画撮影所で煙草の火を役者にもらうシーンが特に象徴的だった。ハーケンクロイツの腕章をつけてナチに扮した男とダビデの星を胸につけてユダヤ人役の男が撮影の合間に煙草を吸っている。ちなみに映画が公開されたのは2012年。ダビデの星の着用がユダヤ人にとって義務とされるようになるのは1941年。

 多くの喫煙者と同じように、ニコもストレスを抱えた時に煙草を吸う。ゴルフ場のクラブハウスで父親に不真面目さを問いただされた後にも、テーブルに残された酒を飲み、ゴルフ場のグリーンを横切って森に入り、駅を目指す。木々の中をゆらめく煙草の煙、葉っぱ、モノクロの画面だからこその光、音楽、鳥のさえずり。とても美しいシーン。この場面と後に書くマルセルのおばあちゃんのシーンだけでいいからみんなに観てほしい。本当に。すごくいいシーンだから。

 

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「変」と思われることをニコは異常に恐れている。最初に入ったカフェでも、「普通」のコーヒーを買おうとする。父親には「他の人がしているように」髪を切って靴を買うように言われる。でも彼はもう「普通」ができない。別にそれは彼だけのせいじゃないように思う。劣等感も挫折も、果たして彼だけの責任なのだろうか。

「変」なのは別にニコだけじゃなくて、この映画にはたくさんの「変」な人々が登場する。マッツェとニコにオーダーを訊くレストランの人はモヒカンの女性で一見「変」だし、無賃乗車を咎め2人組のうちの一人、シュテファンも、言動がかなり「変」だ。そもそもニコとつるむマッツェも俳優としての才能があるのに仕事を断り続けていて十分「変」の部類に入る。ニコの新居を訪ねてくる上の階の住人カールも、やっぱり「変」で、勝手に箱を開けてニコと恋人の写真を取り出すし、「よくない」というニコの言葉に過敏に反応したりする。初対面なのに、乳がんで手術をした妻とセックスが出来なくなった話を始めついには泣き出す。ヘルニアで運動ができなくなった彼はアパートに地下室を作り、サッカーを観るための薄型テレビとカウチがあることを自慢げに語ったけれど、実際の地下室も、一人でサッカー盤をするカール自身もみじめだ。奥には古ぼけたトロフィーが並べられ、どういうつもりなのか女性のヌード写真が壁に貼られている地下室。映画に映るのは一瞬だけど、カールはもう何年もこの地下室で妻から逃げて過ごすのだろう。キッチンに篭って料理を延々と作り続けるカールの妻が作ったミートボールをニコは便器に捨てる。

 

 レストランでニコは昔の同級生ユリカに出会う。昔太っていた彼女はすっかり痩せていて、今はアバンギャルドな舞台に出ているという。今夜の回を観に来るように誘われたニコとマッツェは映画の後半で劇場に向かうが、まっすぐには行かず途中でマルセルのアパートに立ち寄る。出迎えたのはマルセルの祖母で、少しボケているようだ。近所から聞こえる怒鳴り声にも気づいてない様子の彼女は、来客として来たニコとマッツェにおなかが空いていないか、パンに何か挟むか、しきりに尋ねる。

 礼儀正しくおばあさんに挨拶してマルセルの家に入ったニコは、マッツェが薬——違法、あるいは違法に近いと思われるもの——を買う間、おばあさんと話す。際どそうなスニーカーや薬を売っているマルセルだけど、一方では電気で動くリクライニングチェアを祖母に買っている。ニコは彼女に誘われてそのマッサージチェアに乗る。老人も若者も何も言わず、ピアノの音が流れる。劇場に向かう助手席のニコが見るベルリンの街。夜の光。

 すでに舞台が始まっていて、頼み込んで途中から入れてもらう。舞台上にあるのは前衛的で難解な表現。ニコとマッツェは笑ってしまい、ショーの後に演出家にそれを咎められる。身振り手振りを交えて動き、早口でまくし立てる人々。画面の中央でニコだけが動かずに一点を見つめている。トレインスポッティングにこんなシーンがあったなと思う。

 

 議論から逃げ出すようにニコは通りの新鮮な空気を吸い、煙草に火をつける。ユリカが追ってきて、昔のニコはもっと自信を持っていたと言う。一方でニコは舞台で表現をしているユリカを本当にすごいと思っている。お互いがお互いに流れた年月のことを、いじめっ子といじめられっ子だった過去を思う。酔った3人組の男が絡んできて、ニコが殴られる。出血した鼻を抑えながら「挑発に乗らなかったらよかったのに」と言うニコに、私は無視することをやめたと言うユリカ。ニコはユリカに優しくすることを過去の清算だと感じているが、ユリカの昔のコンプレックスはまだ消えておらず、過去は清算できない。 

 今度はバーに行き老人に絡まれるニコ。今日一日で何人もと話したニコはいい加減うんざりしている。でも別に席を移ることも店を出ることもなくまた酒を飲む。60年ぶりにドイツに帰って来たという老人は少年時代の話を始め、次第にニコも観客も引き込まれていく。あそこの駐車場は昔サッカー場だったこと、父親に教えられて初めて自転車に乗れた日、学校で総統への敬礼の仕方を教えられた日々、父親に連れられて石を握って窓ガラスを破った夜。クリスタルナハトの時、まだ少年だった老人は一面のガラスの破片と炎を見て、明日は自転車で走れないと考えて泣いたのだ。バーの店先で老人は倒れ、救急車で一緒に病院に行く。故障中のコーヒーマシンの前で力尽きるニコ。ベルリンの街は夜から朝になり、誰もいない街のカットがスクリーンには映し出される。壁に書かれた絵、たくさんの自転車、線路。老人には家族がなく、ニコは老人のファーストネームだけ教えてもらう。朝のカフェでニコはようやくコーヒーにありつく。

 

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 見終わった後で、彼にとってのコーヒーとは何だったのだろうと思う。主人公ニコはずっと無気力で、積極的には動いたりはしない。免許が返ってこないことがわかってもすぐに諦めた様子だし、ガールフレンドが不機嫌なのを見ても何も言わない。父親に援助を打ち切られても、父親が怒りを見せても、無言で下を見つめている。何も言えないのだ。

 ぶらぶらしている彼にはもちろんなりたいものなんてない。だいたい無表情だ。撮影現場でマッツェが端役をもらおうとする時、ニコも役が欲しいか尋ねられるけれど彼はすぐに断る。そして一瞬下を向く。アルバイトもしていない様子だから、エキストラでもしてみたら良さそうなものなのに。映画を通じて何度も彼が求めた唯一のものがコーヒーである。小銭がなかったり、コーヒーマシンが故障していたりで、一日コーヒーを飲むことができない。最後のシーンのカフェでやっと飲むことができたコーヒーは彼にとって何か意味を持つのだろうか。

 ニューヨークを歩き回っていたホールデン・コールフィールドは「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたい*1と言うけれど、ニコも多分似たようなことを言うだろう。彼は何にも好きじゃないけれど、それでもマルセルの祖母と話す時も泣き出すカールを慰める時も、まっすぐな態度だ。

 もちろんこれは映画で、つまり現実の話ではない。映画にあるほど心理分析官は意地悪ではないと思うし、ATMも映画のようにカードを吸い込んだりしないだろう。般若心経をどれだけ唱えたか、あるいは聖書の内容をどれだけ暗記しているかということは大して重要でなくて、大事なのはどう行動したかと言うことだと思う。例えば『The Catcher in the Rye』をページが擦り切れるほど読んでもそこに書いているのは小説の中でうだうだしている主人公なわけで、彼と同じことをしても意味はないし、あなたの哀しみや怠惰、繊細さをサリンジャーが正当化するわけではない。『コーヒーをめぐる冒険』も同じである。映画の中のニコは最後に何かつかんだように見えるけれど、現実の私やあなたが彼の真似をしても無駄なのだ。映画は映画で、それ以下でもそれ以上でもない。現実の私たちは現実の世界で行動しない限り何もつかめない。でもこういった映画が作られて評価される。そんな世界が私は好きだ。

 

 

【予告編】

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