『上海ベイビー』を読んだ。衛慧(weihui)という人が女性が1999年に発表した小説である。現代は『上海宝貝』らしい。「宝貝」と中国語の辞書で引いたらどういう意味なのだろう。まさか「ベイビー」と出るわけではないと思うけど。気になる。
主人公はココという名前の25歳。名門復旦大学を出て、今は作家をしている。彼女の行動は刹那的で非論理的で、退廃に満ち溢れている。世紀末の上海。広いようで狭いこの街でココと登場人物たちの断片的な物語が進む。
ユーゴスラビアにアメリカ軍が空爆しても、同棲相手が薬物中毒になっても、ココは決して人生を悲観しない。悲しむことはあっても決して絶望はしない。そして自分の人生に自分で決断を下していく。その決断が誰かを裏切ることにつながってもココは自分を曲げたりはしない。
対照的なのはボーイフレンドの天天である。彼は外界との交流を極力断ち、自分が安住していられる場所に留まろうとする。身の回りの数人しか信用せず、ココと出かけるパーティーでもソファーに座ってぼおっとしていたり、ラりったりしている。先の見えない都会の生活。堕落で退廃的な人々が繰り広げる、確かな軸のないストーリーはどこかしら『限りなく透明に近いブルー』に似ていた。
天天はとても正直で素直である。過去に家族の中でのゴタゴタがあり、それに伴う人間不信から、彼は外の世界から距離をとることにした。肉親の中で唯一心を開いているのは祖母だけである。異国に住む母親は彼にお金を送るだけで、手紙をやりとりするだけの関係である。純粋さゆえに彼は「大人」の「汚い」世界には決して足を踏み入れようとしない。自分が「汚く」なることに彼は耐えられない。
『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンと天天は驚くほど似ている。彼らは二人ともセックスができない。そして物語の最後で、彼らは二人とも社会にはいられなくなる。天天はホールデンやココのように何かを語るわけではない。でも『上海ベイビー』に出てくる登場人物の中で私が一番共感できるのは彼だった。彼らのような人間がアメリカにも中国にもいることは救いだ。彼らは決してメインストリームにはなれない。理解してくれる人間も一握りだ。大概は「変人」とか「メンヘラ」とかレッテルを貼られてそれでおしまいである。でも彼らが本の中にいるからこそ、私は救われた。たぶんそんな人はいっぱいいると思う。
彼らの苦悩はもしかしたら贅沢かもしれない。日々生きるか死ぬかを考えている人間、今日のご飯、来月の家賃で頭が痛い人間とは違う場所で天天もホールデンも生きている。労働という言葉が持つイメージとは遠い場所にいる。
実際、うつ病を抱えている人に対して「それは怠けだ!」という人はたくさんいる。私が「うつ症状」と診断された時もそんな言葉を向けられた。身近な人にも言われてますます絶望した。
それから、当たり前だけど小説と現実は違う。物語を読む私たちは天天やホールデンのように印字された存在だけのではない。自分の肉体を持っている。仮に彼らと「全く」同じ苦悩や生きづらさを抱えていたとしても、私がいるのは現実世界である。つねれば痛い。風が吹けば寒い。ホールデンが精神病棟に入り、天天が薬が原因で死んだとしても——「社会的生活」を拒否したとしても——現実世界に生きる我々は生きなくてはならない。我々は紙の上の彼らとは違って、まだ居場所があるはずだ。そして、簡単に消えられないだけの理由や義理がある。バイトのシフトや親の期待、恋人との約束や友人との旅行、同窓会忘年会内定先の人との飲み会。がんじがらめである。とかくに人の世は住みにくい。
天天やホールデンのような人たちは物語の上でしか存在できない。概念でしかない。——同じように私の書く文章もある意味では「演技」のようなものである。現実の私は文章の上での「私」とは違って肉体がある。嫌いなものも好きなものもある。それを忘れないでほしい——でも物語の中に彼らがいてくれるから、彼らを理解しようという試みは起こると思う。彼らが活字の中にいるからこそ、救われる人もいる。
映画『パラサイト』や『万引き家族』だってそうだと思う。有名になって、多くの人が観て、その中には格差を初めて知る人もいる。その問題を解決しようとか、理解しようと考える人もいる。創作物として世に出たからこそ、問題を提起できるのだ。「ふーん怖いね」なんて言ってディナーを続ける人が多数だったとしても、何人かは、少なくとも誰か1人は関心を持ってくれるはずと思う。そう信じたい。
『ホテル・ルワンダ』も『ルンタ』もそうだ。『トークバック』も『これは君の闘争だ(現題:Espero tua (re)volta)』もそうだ。自分もまだ何かできるはずだ。
I think if people see this footage they'll say, "Oh my God that's horrible," and then go on eating their dinners.
サリンジャーの主人公があんなに赤裸々にぶちまけてくれたおかげで私は救われた。
できることなら私も文章を書くことで誰かを救いたい。「子どもがライ麦畑から落ちてしまわないように捕まえてあげたい」と言うだけだったホールデンよりももっと直接的に具体的に誰かを救いたい。おこがましいかもしれないけど、「誰か」に「何か」を与えたいのだ。それがこうして私が文章を書き続ける理由である。わたしが誰かの文章にたくさん励まされたように、私も誰かの力になりたい。これに関してはおこがましいと思われてもいい。本心だもの。
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