◎令和元年11月2日
朝6:00に起きた。まだ出発まで時間があった。
昨日は東京から来た高校生と一緒にラーメンを食べたあと、睡魔に負けて早めに寝た。本当はカプセルホテルのベッドで家から持ってきた『ワインズバーグ・オハイオ』を読もうと思っていたのだけど、すぐに眠くなってしまった。金曜日の夜だったから、TwitterやFacebookではみんないろいろなことを言っていた。連休で旅行に行く人もいるみたいだった。逆にどこにも行かずに普段通り仕事の人もいた。色々な人が様々の場所で週末を迎えようとしているのと同じように、私もいわき駅近くのカプセルホテルのベッドで仰向けになっているのだった。眼を閉じて日中に見た光景のことを考えているうちに眠ってしまった。
台風19号が来た時、私は山形にいた。山形国際ドキュメンタリー映画祭のためだけに山形に来ていたのだ。もうすっかりおなじみになったゲストハウス「ミンタロハット」のリビングで私は台風のニュースを見ていた。
ドキュメンタリー映画を観に集まった人たちと映画について色々話し合っていた。たまたま関西から来ている人がいて、その人とよく話した。その人は介護職の人だった。私もたまたま障害を持った人が寝泊まりする施設でアルバイトをしているので、話が盛り上がった。同じ職場なら聞けないようなことをその人に質問した。介護業界の話や、世間の「障害」に対するイメージ。それから映画祭でその人が観たという「障害」についてのドキュメンタリー映画の話も聞いた。
ミンタロハットのリビングに最初にいたのは、オーナーさんとヘルパーさんと合わせて四人だった。ヘルパーというのはゲストハウスの仕事を手伝っている人たちのことで、その時に私が会ったヘルパーさんは同い年の女の人だった。福島県出身だと言っていた。オーナーの佐藤さんの性格に惹かれるのか、出会ったヘルパーさんたちは優しい人が多いような気がする。過去3回の宿泊で私は一度も嫌な思いをしたことがない。
佐藤さんが振舞ってくれる料理を食べながらみんなで話した。ミンタロハットに泊まるといつも佐藤さんがご馳走を作ってくれる。一度なんか、寝坊した私のためだけにお昼ごはんを作ってくれたことがある。「山形はラーメンの消費量が日本一だからね」なんて優しい口調で言いながらささっと作ってくれたしょうゆラーメンはとても美味しかった。それは2年前の映画祭で、前の晩台湾人の友達と喋り続けていたせいで早起きできなかった私はラーメンを食べて、また映画館に繰り出していったのだった。
その夜は麻婆茄子だった。めちゃくちゃおいしかった。おにぎり、そしてラッキーなことにお刺身もあった。スーパーで安売りをしていたのだとオーナーさんは言った。台風が来るせいで客足が少なかったのかもしれないと思った。山形でもスーパーやコンビニの棚からパンが無くなってしまったそうだ。「明日の朝はパンがないのでおにぎりを食べてください」と言ってオーナーさんはお米をたくさん炊いていた。おにぎりの具は山形県特産の「秘伝豆」——大豆の種類だと思う。おにぎりには枝豆の形で入っていた——でとても美味しかった。お皿に盛られた菊の花もあった。それも山形の特産で、お豆腐と一緒に食べると美味しかった。
食べているうちに宿泊客が何人か帰ってきたり、台湾から旅行できた家族がテーブルに着いたりしてにぎやかになった。楽しかった。「菊」を英語でなんと言うのか、その日観た映画はどうだったか、みんなで盛り上がった。まだそんなに遅くなくてリビングは賑やかだった。でも、部屋の片隅にあるテレビはずっと台風のことばかりだった。山形市内の今いる地区は川から離れているので大丈夫と佐藤さんは教えてくれた。だから安心はしていたのだけれど、それでも今日も映画の途中で一斉にみんなのスマホのアラートが鳴ったし、東京と千葉の親戚が心配だし、落ち着かなかった。すぐ近くの宮城県や福島県は危険そうだった。テレビでは東京の多摩川が氾濫したとか、どこどこで避難指示が出たとか、そういう情報が流れた。ヘルパーさんの友達の実家が大変なことになっているらしかった。去年免許合宿で出会った郡山の友達は大丈夫だろうかなんて思っていた。
三々五々宿泊客は部屋に戻り、リビングは人が減っていった。ドミトリーに戻っても私は独りなのでリビングに残って話していた。映画のこと、ドキュメンタリーのこと、政治のこと、台風のこと、あの地震のこと。もう寝るだけだったのと明日観る映画もそんなに早くないので、私は安心して喋っていた。
そんな時にテレビにテロップが出た。「いわき市全域に避難指示」 私は「こんな時間に避難指示出されても困るやん」みたいなことを言ったと思う。「でも、川の水位が上がって基準に達したら、どういう時間でも避難指示を出さないといけないの」と佐藤さんが言った。都内から映画を観に来ていた人は「全員が避難したら避難所が足りなくなるのじゃない?」と言った。私は一度だけ訪ねたことがあるいわき市のことを思っていた。
ボランティアのために会津から来た人が、みんなの朝ごはんにといってリンゴを剥いてくれた。それがとても美味しかった。その人は地元で公務員として働いている人だった。その日の午前中の作業を一緒にしたこともあって、色々と会津のことや福島のことを教えてもらった。仙台との県境近くにある早戸温泉というところの露天風呂がとても良いと聞いたので今度行ってみようと思う。今度と言ってもまあいつになるのかわからないけれど。
7時半なるとみんなホテルから降りてゆく。私も車に同乗させてもらって「つながり」の拠点に行った。長靴を履いて、ゴム手袋を借りて、そしてマスクをつける。大きな段ボールの中にカップ麺がたくさん入っていて、それを朝ごはんとして食べている人もいる。私は普段インスタント食品は食べないようにしているけれど、いわきでは料理をする場所がなかったので結局インスタントばかり食べることになってしまった。環境に負荷をかけるのは悲しいけれど、かといって外食に行くとお金が足りなくなってしまう。ジレンマであった。
朝礼があって、現在の状況を確認する。今日11月2日はちょうど台風から3週間だった。午前中はユニクロの支援物資の配布があるようだった。ユニクロの服が入った段ボールをどんどんトラックに載せた。「つながり」がユニクロに連絡をして送ったもらった物資らしい。今日、あるレストランの駐車場で被災した人たちに服を配るのだ。大学院で研究をしながらカメラマンをしている人がボランティアとして来ていて、支援物資を配布する現場にカメラマンとして向かうようだった。そうした写真がHPやSNSで広がっていわきの現状を伝えるのだろうと思う。インターネットに情報が氾濫している時代だから、簡単に人に届くとは思わないけれど、少なくとも自分の周りに伝えることはできると思った。後日、彼のインスタグラムやツイッターを見たけれど、いわきのことをとても丁寧に書いていてちょっと驚いた。そして、思ったことをSNSに素直に連ねていることに尊敬した。私はいわきにいる間、私もSNSでいわきのことを伝えようと思ったけれど、うまく言葉にできなかった。こうしてブログで書いているけれどもうずいぶん時間が経ってしまった。
今日私が割り振られたのは、民家の床下の泥をかきだす作業だった。ちりとりと草刈り鎌をつかって床下に積もった泥をかき出して土嚢袋に入れていく。たったそれだけの作業なのに大変だった。泥をかぶった畳とその下の床下は以前に来た「つながり」の誰かの手によって剥がされてあった。骨組みだけになった床下には黒い泥が溜まっていて、鎌でかくと茶色い元の土が顔を出した。随分古い家だったからか、基礎の部分のコンクリートはもろくなっていて、うっかり鎌を当ててしまうとボロボロと崩れた。碁盤の目ように縦横に走る骨組みに腰かけ、そこから腕を伸ばして土の上の泥をとるのだけれど、姿勢を維持するのがつらくて、腰が痛くなった。2つの部屋の床下をきれいな土に戻したいのだけれど、作業は思うように捗らなくて、今日中ようやく終わるかどうかというところだった。
一時間弱作業をした後に15分ほど休憩をとる。それを2回あるいは3回繰り返して午前の作業が終わる。
休憩中、その家のおじいちゃんとおばあちゃんと話した。「ここまで水が来たんだよ」そう言っておじいちゃんが示した高さはちょうど私の胸ぐらいだった。壁にまだ泥の後があった。2台あった車は二つとも駄目になってしまったとおじいさんが悲しそうに口を尖らせて言うのをみて涙が出てしまった。涙を見られるのは嫌だったので、少しおじいさんから離れた。庭に座って休んでいた会津の女性が庭の花をほめていた。はにかむおじいさんには不思議な哀愁があった。おばあさんが差し入れを出してくれた。シャインマスカット——それも高級そうなやつ——、それから北海道のとうきびチョコがお盆の上のお皿に盛られていた。その現場にいる4人じゃ食べきれなくて、拠点に持って帰ることにした。
お昼。「つながり」の拠点に戻ってカップ麺をすする。だれかがおにぎりを差し入れしてくれたみたいでおにぎりも食べた。カップヌードルの残りの汁をどこにも捨てれなくて、最後のスープにおにぎりを投入した。美味しかったけれど喉が渇いた。
午後からも同じ現場だった。会津から来た人は知人の柿の収穫を手伝いに行くとかなんとかで、お昼に帰っていった。代わりに東京から来たプログラマーの人が来た。東京の高校生と同じく東京でアニメーションの仕事をしている人、それから私。その4人で、また同じ家の床下の泥を外に出していった。プログラマーのAさんは元々岡山県から上京した人らしく、言葉が柔らかくおっとりした人だった。彼は私がいわきを去る前日に東京に帰っていった。私は彼と話す時に流れるおちついたが好きだった。
高校生の頃、岡山の高校生と継続的に交流する機会があった。その時に矢掛町の友達が話していた岡山の方言がとても優しくてかわいくて、それ以降岡山弁が好きになった。東京に出た千鳥が一世を風靡したために、彼らの言葉が有名になったけれど、私の知っている岡山の言葉はもっと優しくて人懐っこい響きがする。従兄弟のおじいちゃんとおばあちゃんも元々は岡山県小田郡の人で、とてもやわらかい話し方をする。大学で出会った岡山市出身のTの言葉もやっぱりきれいだと感じたから、やっぱり私は岡山の言葉が好きなのだろうと思う。
Aさんは去年の7月の水害の時も岡山で「つながり」の活動に参加したらしい。すこしおっとりしたAさんの話す言葉が好きで、いわきにいる間、私はAさんとよく一緒にいた。ボランティアに来る人にももちろんそれぞれの人生があって、みんな仕事や学業の合間を縫っていわきにやってくるのだ。ボランティアをしているその人も家に帰ればまた別の顔をするのだろうと思うと、不思議な気持ちになる。私がいわきにいる4日間、いろんな人がやってきては帰っていった。何人かと過ごした時間や会話は今でもすぐに思いだせる。そうした思い出は私の血となり肉となる。私は生涯を通じて記憶を抱きしめて行くのだと思う。
午後の作業は案外簡単に終った。4人で作業をしている間、その家の老夫婦のもとには一日を通して3人ほどの業者が来ていた。床下の洗浄や、この家をどうするのかという諸々のことを話していた。
「娘とも話したんだけどね、私はこの家に住むことはもう難しいかなと思ってるの」
「たとえばね、東京の子たちが夏休みなんかにみんなで過ごしてくれるような場所になったらいいなあ、なんて考えたりもするの」
おばあちゃんのはっきりとした声がよく私の耳に届いた。その度に私はいろいろ考えてしまった。口数の少ないおじいさんは業者の前では何も言わなかったけれど、業者さんが帰った後にはおばあちゃんと二人で話し合っていた。
休憩中に、おじいさんは合わないからと言って私に帽子をくれた。おじいさんにとってはぶかぶかな帽子だったみたいだけど、私の大きな頭にはぴったりだった。紺色のアンダーアーマーをかぶる度、私はおじいさんと、いわきの日々を思い出すのだと思う。私はそういうことばかりしている。
一日かけて作った土嚢袋を、昨日と同じように仮置き場に持っていった。「ごみ」になってしまった山を見て、私は今日のことについて何か書きたいと思った。でもどう書いても人を傷付けてしまう風に感じてしまった。どういう言葉を選べば自分の想いが伝わるのか、嘘を少なくするにはどういった表現を使うべきか、そんなことを悶々と考えていた。
カプセルホテルに帰ってからも頭の隅にはそのことがずっとあって、気持ちが浮ついていた。お風呂に入って、ゆらゆら上っていく湯気を見ながらどうしたらいいのだろうと考えた。大学に入ってから色々な人と会い、色々なことを経験したけれど、自分の将来はどうなるか未だに見当もつかない。
今日は小説を読むのは諦めて寝た。明日は早いらしい。日々は進んでいく。
※私が活動に参加した「一般社団法人震災復興支援協会つながり」のいわき市と館山市における活動は以下のリンクからチェックすることができます。館山での活動は週末のみで屋根の修繕やブルーシート張りを行っているみたいです(2019年内の活動は終了)。いわきでのボランティア活動は1月末までを予定しているようです。詳しくは下のリンクをご覧になってください。
直近の活動(12月14日の記事)についてはこちらからどうぞ。
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