シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#112 重力のない○○

 

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重力のない○○

 

トンネルを抜けていく路線バスとオレンジ色のライト

レンジの中で火花を散らすステンレスカップ

芝生でネコと遊んだ後のムズムズする鼻

大講義室を我が物顔で歩いていたネコ

プールの後の教室の気だるい感じ

お気に入りなのにクラスメイトに笑われていた可哀想な服たち

ブラインドの隙間からクラスメイトの背中を照らす光

逆光の中を進むフロントガラス

集まった罪のない烏と国道の真ん中で倒れていた鹿

それを眺めながら食べたリッツのビスケット

食べきれないほどバケツに詰められた不格好な牡蠣たち

深夜のマクドナルドのコーヒーと書きかけの文章

その年に初めて降ったみぞれのような雪

初めて見る単線の電鉄

誰もいない駅のプラットホームと赤いポスト

冬の朝のココアと帰っても誰もいないフラット

冬なのに暑いトマトのビニルハウス

腕の点滴を認識する朦朧とした脳みそ

誰かのお土産の甘すぎるお菓子と眼鏡の奥の笑っている目

鴨居に手が届くことに気がついた日

最寄りのスーパーマーケットまで40分も歩いた冬の日

銭湯で薬湯からなかなか離れない老人

盲いた老婆に顔を触らせる母親似の孫

お尻のやぶれたジーンズとカモメ

不明瞭で聞きとれない教官の声

I love youが言えない人たち

ごめんねが言えない祖父

ソフホーズは国営、コルホーズは民間だと口を酸っぱくして言った世界史の教師

繋がらない電話、やっと繋がっても本音と建て前。今切ったら次にかけるのはいつかはわからない。でももう切らないといけない。モザイク状に積みあがった記憶はまとまりのないまま流れてふとした時に顔を出す。瞳を閉じた布団の中、風呂掃除の手を休める一瞬、公園を横切って歩く帰り道。そもそもがまとまりのないものだからまたどこかに消えて、私はそれらを自由に蘇らせる術を持たない。いくつかの記憶は二度と蘇らなくて、同時にその記憶の中にいた誰かも私の中で死んでいく。忘れた記憶は宇宙の塵となって漂い、ほうき星によって掃き集められる。死んだ人だけがそれらの記憶を取り出していつでも眺めることができる。お空の高いところにあるその図書館で「ああ、あの時はこうだったね」と「こういうこともあったね」と死んだ人たちが確認して、また忘れる。そうしたことが何回も繰り返されてまた私が生まれる。

  

【ひとこと】

みなさんなら○○の中に何をいれますか?

 

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【今日の音楽】

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#111 気まずい?

 

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気まずい?

 

あなたが踊っていた日はちょうど従妹の誕生日で、だから私はしばらくは忘れない。

あなたはすぐに忘れても私は思い出し続けるでしょう。

あなたが踊っていた時、月は隠れていて、夏なのに涼しかった。

 

あなたが気まずいなんて思うなんてなんかもうがっかり。

そういった感情とは無縁の人だと思っていたから近づいたのに。

勝手に勘違いして勝手に裏切られた気になって、お馬鹿だったのはわたくし。

 

あなたは避けられるだけ避けて私の見えないところまで行くだろう。

人間関係を次から次へとポイ捨てしてこの海をどこまでも泳いでいけばいい。

あなたの世界にはガラスの天井なんてなくて、地平線にも終わりはないから。

 

あなたは自由で、だからあなたに惹かれた。

あなたにはずっと遠くまで行ってほしかった。

あなたには妬みも嫉みも見えないままでいてほしかった。

なのにあなたが気まずさに気付いているなんて。

 

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【ひとこと】

人間は多面体なので、私が見えている範囲がその人の全てではありません。一つのコミュニティにしか所属していないような人はもうほとんどいないので、人によってその人の評価が違うのも当たり前なのです。少々混乱しますけど、黒と白、善と悪で割り切れることなどそもそも少ないのです。なのに勝手に思い詰めて勝手に勘違いして勝手に裏切られて、人間は馬鹿です。

 

【今日の音楽】

youtu.be

 

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#110 めちゃくちゃな一週間 中編

 ジャンパーをクローゼットから出した。おしゃれな24歳が羽織る上着は「コート」なのだろうけれど、私が着るのは「ジャンパー」である。そう。まごうことなきジャンパー。

 ポケットに手を入れると、去年のレシートが出て来た。チョコレートと映画館のレシート。しばらく考えた後で私はポケットから出て来たそのレシート達をゴミ箱に捨てた。めちゃくちゃな一週間だった。

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 日曜日は寝ていた。やらないといけない課題はあるのだけれど最近肌が痒くて痒くてたまらない。全てのことに集中できないから一日中寝ていた。受験の時も大変だった「大人になれば治るよ」って多くの人が言ってたけれど、未だに痒い。そして醜い。肌を気にするあまり小学生の頃は半袖のシャツを着れなかった。肌の汚さを見られると嫌われると考えていた。プールの授業をいつまでも好きになれなかった。毎日ジーンズをロールアップして履いていた。

 夜遅くに家を出て京都に着いた。木屋町にはたくさんの客引きがいて鬱陶しかった。「お兄さんキャバクラどうですか?」だって。私はお兄さんでもないし、お金をもってないし、お金を払ってよいしょしてもらうなんて気持ちが悪くてできない。仕方ないけれど無視をすることにした。

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 昔は高瀬川沿いに立誠小学校だった建物があって、その中に映画館があった。『さよならも出来ない』という素敵な映画を観たのがその映画館だった。私は俳優ワークショップのプログラムとして作られたその映画がひどく気に行って、一時期本気で俳優ワークショップに参加しようと思っていた。大学を休学しようとしていた時で、映画を作りたいと思っていた時期だった。結局映画を作ることも俳優のトレーニングを受けることもしていないけれど、それでも木屋町を歩く時、映画鑑賞後の感動や当時の悶々とした感情を時々思い出す。立誠小学校の跡地には今はホテルが立っていた。

youtu.be

 川沿いを歩いて三条まで行き、バーに入った。パブ、ハイベリー。今夜は1:30からアーセナルの試合があるのだ。パブに入るのはいつも緊張するけれど、今日はそれほど緊張しなかった。アーセナルの一つ前の試合が、まだ行われていてニューカッスルサポーターの男の人が一人でテレビの前にいた。ニューカッスルFCのホーム、セントジェームズパークで行われたエバートン戦は2-1でもうロスタイムだった。前節終了時に首位だったエバートンニューカッスルが勝てそうなので男の人は固唾をのんでテレビを見ていた。私もリュックサックを置いてその試合を観た。間もなく笛が鳴ってニューカッスルが勝った。嬉しそうな男の人と少し話した。私はその昔2011/12シーズンのニューカッスルユナイテッドが大好きで応援していた。シュートブロックが多いチームで、センターバックにいたのはスティーブン・テーラーコロッチーニだったけれど、とにかくずっとスライディングをしていた印象である。ゴールマウスを守るのはティム・クルルで、毎試合ワクワクするようなセービングを披露していた。ライアン・テーラーコーナーキックを蹴って、キャバイエがフリーキックを決めていた。前線にはデンバ・バパピス・シセセネガル人コンビがめちゃくちゃ点を獲っていた。私のお気に入りはベン・アルファとダニー・シンプソンだった。左足のテクニックだけを武器に進んでいくベン・アルファのドリブルは観ていて楽しかった。現在はボルドーにいるみたいだけれど、エキセントリックな性格とファンタジスタを必要としない潮流のために期待されていた才能を大成できずにキャリアを終えそうである。シンプソンはその後レスターシティの一員として奇跡の優勝を成し遂げ、岡崎と共に退団した。それからシェイク・ティオテアーセナルニューカッスル戦で4点差を追いつかれた時、最後のゴールは彼のボレーシュートだった。彼の魂よ安らかに。

youtu.be

 キックオフの時刻が迫るにつれてアーセナルファンが段々増えてきた。私は早くから近くに座っていた男の子と話した。Mと名乗った彼は大学1年生で、私よりも5歳も年下だった。彼と一緒に最近のアーセナルや、アーセナルの所属するイングランドプレミアリーグの話題を話した。チームから干されてるエジルはこれからどうなるんだろうとか、新加入のパーティはどんな活躍をするだろうとか同好の士ならではの会話。とても楽しかった。その中でアーセナルを好きになるきっかけをお互いに話したのだけれどさすがに5年のギャップは大きくて、なんだかおじいさんになってしまった気分だった。当の試合結果はというとマンチェスターユナイテッドのホームに乗り込んだアーセナル1-0で勝った。PKによる得点だけだったけれど点差以上にアーセナルが優位に試合を進めていて、ロブ・ホールディングが試合後のインタビューで語っていたように、別の日なら4-0で勝っていたかもしれない。大好きなエルネニーがファーストチョイスになっていてピッチ上を走り回っていたのがよかった。守備的ミッドフィルダーの彼の持ち味はセイフティなパス捌きで、悪意あるファンからは横パスしかしないと揶揄されることが多い。でも今日の彼は自信満々でどんどん前にボールを進めていた。アーセナルの最初の決定機はベジェリンのクロスだったけれど、彼がウィリアンに出したパスから生まれたものだった。前半の最後に、パスを予想してなかったであろうラッシュフォードとポグバの間を通してベジェリンに出したパスなどため息が出てしまった。

 クランベリージュースを飲んで、フィッシュアンドチップスを食べて、けっこうお金を使ってしまった。フィッシュアンドチップスを食べながら昔イギリスで食べたことを思い出した。英語を勉強しながら週末になるとパブでサッカーばかり見ていた。みんな元気にしているだろうか。最近そんなことばかり考えている。みんなに会いたい。

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トルコ人がやってる店で。450円くらいの昼ごはん

 試合が終わると河原町マクドナルドでM君と二人で始発を待った。せっかく大学に入れたのに人と会うことができないから大学生らしい生活ができていないみたいだった。今日も昼にサークルの集まりがあったけれど、大人数のサークルだからまだあまり仲良くなれていないのだという。自分が大学生になった時のことを思い出したりして感慨深く思った。何人かの友達が卒業して、もうすぐ卒業する友達もいる。コロナだからと言って実家に帰った人もいるし、そもそも人を誘って遊びに行くのが難しくなってしまったというのもある。いや前から人を誘うのには勇気が必要だったか。

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誰もいない河原町駅

 始発の阪急に乗って動き始める街を窓から見ていた。こんなに早いのに梅田駅にはたくさんの人がいた。午後には起きてzoomで授業を受けるつもりだったのだけれど起きたらもう夜になっていた。時計を見て驚いたなにしろ12時間もぶっ続けで寝ていたのだから。時間を無駄にした気分だった。色々文章を書いたり本を読もうと思ったけれどまだ眠り足りない気がして困った。オードリーのラジオをradikoで聴いたりして勉強してみたけれど集中できずに、無為に時間をつぶしてしまった。明日は文化の日でこれまた休みである。映画を観に行こうなどと思った。でも結局火曜日も寝て過ごしてしまった。昔滞在したイングランドの街と語学学校の夢を見た。

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Eastbourne

 

 

【今日の音楽】

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#109 めちゃくちゃな一週間 前編

 ジャンパーをクローゼットから出した。おしゃれな24歳が羽織る上着は「コート」なのだろうけれど、私が着るのはジャンパーである。そう、まごうことなきジャンパー。

 ポケットに手を入れると、去年のレシートが出て来た。ガソリンスタンドとミスタードーナツのレシート。しばらく考えた後で私はポケットから出て来たそのレシート達をゴミ箱に捨てた。めちゃくちゃな一週間だった。

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 木曜日髪の毛を染めた。ブリーチというやつをして青色を入れた。首元がひりひりした。ブリーチの白い泡は抜けた髪の色で段々黒くなるのだろうと思っていたけれど最初から最後まで白いままだった。脱色した後で青色を入れる前にシャンプーをしてもらったら気づいたら寝てしまった。昨日も一昨日もゼミの発表のためにたくさん論文を読んでいたのだ。論文を読んで、発表に必要そうなところを抜き出しているうちに収集がつかなくなって、でも論文を探すのも文章を書くのも楽しいから、テンションが上がって寝れなかったのだ。

気がついたら髪を乾かしてもらうところだった。やけに長いシャンプーだと思っていたけど私が仰向けになって気持ちよく寝ている間にカラーも終わっていたみたいだった。光に透かして見ると確かに青い色が入っていた。テンションがあがった。毛先だけだけど、なにしろ髪を染めるのが初めてのことだったから。髪を染めた状態で服飾史の教室に入るのはとても緊張していて、そんなのを24歳になっても感じている自分のが愛らしいと思った。でもトイレで髪をセットする時の手は震えていた。

 授業の後はゴビゴビ砂漠と一緒に珈琲を飲みながらゼミの課題をした。ゴビゴビも内定先に提出する自己紹介を書いていた。仲の良かった人たちは春がくるとどこかへ行ってしまうのだなと思った。

 簡単な発表なのに私は10枚もレジュメを書いてしまった。明日の発表に戦々恐々としながら寝た。

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A棟。このキャンパスは来年には取り壊される

 金曜日の朝、原付に乗って下宿から実家に帰った。金曜日の授業は全てzoomになっていたので帰ることにしたのだ。2限のマリーナ先生は体調が悪いらしく、最近はずっとオンラインだ。

 母は私が髪を染めたことに驚いていた。確かに私は自分の髪の色も質も気に入っていたけれど、でも一度は染めてみたかったのだ。今となってはどうして染めようと思い立ったのか忘れたけれど、私の人生ってだいたいそんな感じだ。伯母には髪色は高評だった。

 ありきたりな茶色や金色は嫌だったし、最初のカラーだから髪の毛全体を染めるのではなくて、一部だけ染めてオシャレにしたかった。スウェーデン語専攻の友達がオレンジのインナーカラーをいれてて、火曜日に同じ授業を受けている人が赤系の髪で、緑は自分に似合わないだろうから青色にした。一週間は鏡を見るのが楽しいだろうと思い、実際楽しかった。

 マリーナ先生の授業はzoomでも楽しかった。楽しかったけれどロシア語の聴き取りが難しくて、でも留学帰りの人は私よりうんとわかっていて、私もがんばらないといけないなあと思うけどなかなかうまくいかない。日揮がヤマル半島の天然ガスプロジェクトに関わっていることを今日の授業で初めて知った。天然ガスプロジェクトはネネツなどの先住民のトナカイの牧畜に影響を及ぼしているのだろうと思うけれど経済の授業ではそうした人たちのことまでは掬いあげてはくれない。

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黄緑の丸の中にあるのがヤマル半島

 そして実家は寒かった。下宿の18家賃27000円なら空気が温まるのは早いけれど実家ではすぐに空気が循環して冷えてしまう。手が震えてフルーツグラノーラを盛大にこぼしてしまった。震えたのは寒さのせいだけじゃなかった。発表の前で緊張していた。オンラインだから緊張することなんてなさそうなのに。情けないとは思い、一方で自分のそんな未熟さに笑ってしまった。

 案の定ゼミの発表はだめだめだった。『ロシア文化事典』の2章にある各項目を当てられた人が調べて輪読形式で発表していく授業で、私が担当したのは「狩猟・漁労・牧畜」という箇所だった。持ち時間は大体10分ほどで、長くても15分。なのに私はCiNiiで論文を片っ端から探して気づいたら15本も読んでいた。15本を15分に凝縮できるはずなどなく大失敗だった。私はこの効率化の時代に生きていけるのだろうか。

 オランダやイギリスが北米大陸に毛皮を求めて進出したように、ロシア人はシベリアを東へ東へと進み、17世紀中葉にはユーラシアの東の端へと到達してしまう。さらには露米会社という国策の会社がアラスカまで行くのだけれど、私はシベリアの民族がロシア人と出会い、世界システムの中に組み込まれていく過程が面白くて、本来語るべき「狩猟・漁労・牧畜」の内容からかなり逸脱して話してしまった。本質が掴めていない、とまでは思わないけれど要領が得ず歯切れが悪い説明だった。聴く方はつまらなかったと思う。なにより、交通整理の手間を先生にかけてしまった。

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レジュメの一部

 ロシア人、というかヨーロッパ人にとっての毛皮はもっぱら換金材料だと私は思っていたのだけれど、先生によればそれだけでは不完全だということだった。確かにクロテンやオコジョの毛皮は高い値で取引されたけれど、そもそも日本と比べて寒冷な気候のヨーロッパでは、冬には毛皮を着て寒さをしのがないといけなかったのだという。なるほど。

 発表の後で私は落ち込んでしまった。とっくの昔に克服できたと思っていた上がり症が、まだまだ全然治っていないことを知らしめられたからだ。がっかりだった。こんなに手が震えて頭が真っ白になるとは思わなかった。「もっとできたかもしれない」とか「元々ダメだったのだから」とかが頭の中に渦巻いておかしくなりそうだった。とにかく自己嫌悪がひどくて、早く家に帰りたいと思ったけれど既にリビングに座っているのだった。こういうモヤモヤは本来であれば学校から家に帰る間に整理がつくものなのだろうけれど、オンライン授業だと仕事や授業のテンションと家でのテンションをうまく切り替えることができなくて困る。家から出る前に服を着るとか、歯を磨くとか髪をキレイにするとか、そういうのは結構大事なのだたぶん。コロナ禍でたくさんのことに気づかされたけれどこれもその一つ。

 なんにせよこのまま家にいたらよくないことばかり考えてしまいそうだった。とにかく家を出てどこかに行こうと思った。図書館で本を借りてミスタードーナツに行った。半額のクーポンがあったので期間限定のドーナツを注文して席に着いた。金曜日の18時のミスタードーナツは商談をする人やラップトップで仕事をする人、資格の勉強をする人がいて、まだまだ週末の雰囲気ではなかった。私は疲れがどっと来て本を開きながら寝てしまった。モスクワのフォークロアの本は全然進まなかった。

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日本とロシアの口承文芸を研究している斎藤君子さんの本

 今年もロシア語のスピーチコンテストに出ようと思っていたけれどこの分だと無理かもしれないと思った。体がすっかり冷えていて、発表はもう終わったというのに息がまだ上がっていた。2年前に授業のプレゼンで大失敗した記憶がよみがえる。あの時は最悪だった。

 土曜日、バイトの後石橋でH君とご飯を食べた。土曜日の中環が混んでいることを忘れてバイト先でのんびりしていたら、待ち合わせに遅れてしまった。

 何食べようかと迷って、結局ガンガマハルに行った。ガンガマハルはこの街に住む大学生ならば一度は行ったことがあるであろう鉄板の店である。あ、鉄板というのは言葉の綾で、お好み焼ではなくインドカレーの店である。私が社会人になって——そんな日が来るとは想像もできないけれど——大学時代の味が何かと聞かれたらガンガの味を思い出すのだと思う。あるいはピノキオのナポリタンとコロッケか。

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私のスマートフォンにはガンガマハルの写真がいっぱい

 そういえばH君も髪を染めている。ピンク色だった時もあったし、今は色が抜けて金色みたいになっている。初めて会った時以来彼はずっと長髪である。クイズも大喜利もいろいろやってる彼は思想史や政治史に詳しくて色々教えてもらった。楽しかった。ご飯を食べ終わっても話すのが楽しいから散歩することにした。宝塚線に沿って歩いて、蛍池の近くにある業務スーパーでアイスを買ってまた石橋に帰った。そういえば今日はハロウィンだったけど、仮装するでもなくいつもと同じ日常だった。月がきれいだった。彼が教えてくれたDos Monosの音楽は家に帰ってから聴いたらとてもよかった。オードリーのオールナイトニッポンを聴きながら寝た。

 

【ひとこと】

中編に続きます。

 

 

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#108 どうにもならない

 私は記憶力がいい方である。最も古い記憶は父親の実家で洗濯籠を被って遊んでいた記憶である。たぶん2歳になる前だと思う。「そんなことしたら大きくなられへんよ」と父方のおばあちゃんが言って、その言葉通り私は身長が伸びなかった。よくL'Arc〜en〜CielのボーカルのHydeが低身長男子の代名詞のように使われるけれど、私は彼よりさらに一回り小さい。生まれたのが1930年代のソ連ならボストーク1号に乗れて人類のヒーローになれたかもしれないけれど、私が生まれたのは20世紀末の京都であった。「男の子の身長は後から伸びる」とか「私だって高校の時に身長が伸びたのよ」とかみんな言ってくれたけれど、結局私の身長は伸びず、病院に通ったりもしたけれど無駄足になった。

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ガガーリン

 ある日の帰り道、自分が社会的に去勢された存在であるという考えに陥った。自分なんて必要のないような、誰からも捨てられたような感じ。そのイメージは頭の中にこびりついてなかなか消えなかった。背が低い故に誰も私のことを恋愛対象として見ていない気がした。恋愛対象として見られたかった。いわゆる「男らしさ」から外れている私は、これからの人生を、社会の中で大手を振って歩いてはいけないように感じた。母子家庭に生まれたからこそ、母親も祖母も私が「男らしく」なれるように気にしてくれたけれど、うまくいかなかった。もう21世紀だから「男らしさ」とか「女らしさ」のような規範は以前のように厳しいものではないと思うけれど、それでもまだ苦しんでいる人はいる。

「シゲ、身長何センチなんだっけ?」

「え、152センチだけど」

「ほな152センチより低い女の子と付き合わないといけないね」

 大学生になって同じ学部の女の子に言われた言葉。

 多分私は怒るべきだった。でも私の口から出たのは「いや、おれはバレーボール選手と結婚することに決めているから」なんていう斜に構えた嫌な言葉だった。できるだけユーモラスになればいいと言ったけれど。たぶん伝わらなかった。正面から彼女に私が傷ついたことを伝え、そんなことを言うべきではないと伝えるべきだった。でも「いや、おれはバレーボール選手と結婚することに決めているから」がその時の私にとっては精一杯だった。気まずい一瞬の後に彼女は何か言ってくれたけれど、忘れてしまった。それ以来私は彼女のことを避けるようにしたけれど、彼女は私がどうして避けるのかわからなかっただろう。だからちゃんと言うべきだったのだ。怒りを見せるべきだった。

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「男の子なら強くないといけない」

「男ならスポーツができないといけない」

「男ならかっこよくないといけない」

「男なら身長が高くないといけない」

「男なら勉強ができないといけない」

「男なら収入が高くないといけない」

「男なら」

「男なら」

「男なら」

くそくらえ。

 長い間父親に会いたかった。母子家庭の子供の幼少期。母親と祖母が私にとって唯一の世界である時期が長かった。世界は狭かった。一年間の入院と転校の後はますます面白くなくなった。本ばかり読んでいた。祖母が褒めるから勉強をした。母が嫌うからテレビは見なかった。よく理不尽な理由で怒られた後で、私は毎回自分がダメな人間だと思っていた。自分の中に荒れ狂う怒りの渦をどうにかこうにか落ち着かせようと思うのだけど、うまくいかなかった。負の感情に対処する術を覚えないまま大人になってしまった。

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 かなり長い間、自分の不完全さの原点を全て父親の不在に求めていた。父親がいないからこうなってしまったのだと漠然と考えていた。父親がいないから不完全なのだ。父親がいないから私はいつまでも足りないのだ。

「シゲにはおばあちゃん一人しかいないけど、おれには二人おるもんな!」

7歳の従弟がそんなことを言って、10歳の私はボコボコに殴った。ずっとコンプレックスだった。

 中学受験をしていい学校に入れば、もっと楽しくなるのだろうと思っていた。自分の辛さを理解してくれるような人がいるかもしれない、そうでなくても地元の友達よりも話が分かるような人が多いだろう。そう思っていた。実際地元の友達よりも、学習塾の友達の方が喋っていて楽しかった。でも中学生は所詮中学生で、それなりの精神年齢なのだった。私自身の精神年齢が他より高かったとは全く思わないし、みんな一長一短なのだけれど、それにしても楽しくなさすぎた。

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 小学校も併設されている国立の学校だった。同級生の家庭にある文化的資産やお金の使い方に驚いた。どの子も幸せそうな家庭で育っていて、そもそも母子家庭で育った子がほとんどいないように思えた。私は僻みと妬みがひどくなってしまって、現実から逃避するように問題集を解いた。私は、彼らが関心を抱くことに興味を持っていないように振舞い、とりあえず勉強をしていた。そう、とりあえず勉強したのだ! 友達の好きな音楽を聴いたり、サッカーの知識を増やしたりしたけれど、いつまでたっても空虚感は消えなかった。そんな私を見て馬鹿にする同級生もいて、確かに自分でも滑稽だとは思っていたけれど、どうすればいいかわからなかった。毎日毎日欲求不満を抱えていた。勉強さえしていれば褒められた。

 段々、全部母子家庭のせいだとはっきり思うようになっていた。とにかく父親に会いたかった。父親に会いさえすれば私の中のモヤモヤは全て解決されるのだと思っていた。父親がいないから私の世界はこんなにも満たされないのだと思った。父親がいればあったはずの人間関係、家族、友達、価値観の多様性。そういうものがないから私の世界は狭くて、クラスの友達とどこか「違う」のだろうと思っていた。両親の話や家族の話を友達の口から聴く度に、落ち込む日々があった。

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 父親が会いに来てくれるシチュエーションを私は日々夢想した。私は父親の顔を忘れてしまっていたから街行く男の人が全て父親に思えた。父が寝ころんだ私の顔を覗き込んでいるのは覚えているのだけれど、肝心の顔はいつまでものっぺらぼうだ。18歳の時に父親の顔をインターネットで見つけた時は拍子抜けした。僅かに鼻が似ているだけで、全く私とは似ていない。宣伝用の写真なのににこりともしていない無表情は怖かった。名前も職業も確かに父なのだけど、その男が父親だとは思えなかった。父親のことが知りたくて調べていたのに、急に知らない人の顔が現れるとそれはそれで怖かった。時間が経って私は全てを悟った。

 そうなることもありえた過去、そうならなかった未来のことを考えて、時間を費やすのはきっと愚かなことなのだ。妄想の中に人は生きて行くことはできない。頭の中の世界と現実の世界、そのバランスをとらないといけないのだ。悩むことも考えることもそればっかりしていると死んでしまう。

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 誰かを好きになった時、その人と関係を結びたいと思った時、私は両親のことを考えてしまう。自分の辛かった時期を思い出して、その時の怒りや恥ずかしさで今でも震えてしまう。当時も感じていた妬みや僻みが蘇って、やっぱり自分には無理かもなあと思う。自己を肯定することが出来ないことがこんなにも尾を引くとは思わなかった。

 

 

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#107 白兎神社・鳴り石の浜

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白兎海岸

 ◎令和2825

 道の駅神話の里白うさぎという場所に車を停める。

 眠い。眠いし暑い。昨日3時間ぐらい鳥取砂丘でぼうっと海を見ていたからたぶん日焼けしたんだと思う。体がじんわり熱かった。日焼けは気持ちいけれど、体力がなくなるので一人旅なのだからほどほどにしないといけなかった。

 砂浜と砂丘があって国道9号線を挟んだ向かいに道の駅があった。兎と大国主命の像があってそこから白兎神社への参道が続いている。階段となった参道の左右には石で作られた兎が並んでいた。一羽ずつ表情やポーズが違っていて、見ていて飽きなかった。神話に出てくる因幡の白兎の話はこの白兎海岸が舞台である。ワニザメに皮を剥がされて痛がっている兎を大国主命が助け、兎が大国主命が八上姫と結ばれることを予言する話。興味深い神話だと思う。数千年前に実際にこの地域で起きた出来事に何か関係があるのだろう。私は昔から民話や神話が好きである。現代に残る民俗と比較したり、昔の人がどのように世界を認識していたかということを考えるのは楽しい。

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 神話にあやかった銘菓に「因幡の白うさぎ」という名のうさぎの形をした焼きまんじゅうがある。バター風味でとても美味しい。ぜひ山陰に行った際にはおすすめである。お土産にも喜ばれると思う。

 JR尼崎駅前に住んでいた時から幾度となくスーパーはくと東海道線を走るのを目撃してきたけれど、「はくと」は「白兎」だったのだと調べてみて今日わかった。どうしてだかずっと「白斗」だと思い込んでいた。生まれた時からずっと駅の側に住んでいる私が、最初に覚えた特急の一つがスーパーはくとである。関西の人はカニを食べに行く際、だいたいスーパーはくとに乗るイメージがある。あるいはサンライズ出雲か。残念ながらどちらにも実際に乗ったことはない。

 国道が無かった時代には砂浜が神社まで続いて綺麗だっただろうと思った。神社の境内には誰かが自らの凱旋を記念して奉納した狛犬が一対あった。「昭和十年」と書いてあったからまだ日中戦争が始まる前だけど満州国はもうできていた。大陸に赴き軍の中で出世した人が狛犬を奉納したのかもしれない。侵略を続けていた時代の「凱旋」という文字を見るのは複雑な気分だった。

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狛犬

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 拝殿のしめなわはとても大きくて美しくて、去年見た出雲大社のものと似ているように思えた。しかし詳しくないからどう似ているのかわからなかった。白兎神社は健康や縁結びにご利益があるらしいけれど、旅先でいつもするように交通安全を祈った。古事記日本書紀にも出てくる由緒正しい神社らしく、趣のある石燈籠や、菊の花が彫られた石などいろいろな発見があった。30分ほど滞在して参道をまた降りた。参詣者が願いを込めた白い石が鳥居や兎の上にたくさんおかれていた。綺麗だった。

 

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 次に休憩したのは鳴り石の浜という所だった。砂浜ではなく大きな石がコロコロしている浜である。歩くと確かにキュッキュッと足の下で音が鳴った。これが石の「鳴き声」である。車を停めて浜へ向かう道は盛りを過ぎたひまわりの群れが下を向いていて陰気な感じだったけれど、これは「はるかのひまわり絆プロジェクト」で蒔かれたひまわりらしかった。このプロジェクト自体は阪神淡路大震災がきっかけに始まった運動で、「人の尊厳」と「人との関わりの大切さ」を知る感性豊かな地域社会を醸成する事を目的としたものみたいだ。琴浦ひまわりの種は7年前に陸前高田市の滝の里仮説団地から届けられ、それ以来琴浦支援学校の生徒たちが植えているのだそうだ。鳴り石の浜プロジェクトという地域おこしのプロジェクトがあって、浜を観光資源にしたり、海を見えるカフェを運営したりしているのだけれど、ひまわりもその一部みたいだった。

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こうした歩道の整備もプロジェクトの一部なのだろう

 地域の人の思い、25年前に被災した人の思い、仮設住宅にいる人の思い。人間の思いというのは見えにくいし、言葉は不完全だから全てをカバーできない。それでもこうして誰かが植え始めたひまわりをこうして私は見ることができる。そういうのをつまらないものだとは全く思わない。願わくば2000本のひまわりが見ごろだった時にまた来たいと思う。次回カフェで海を見ながら優雅にコーヒーを飲もうとも思う。寝不足だからコーヒーを飲みたかったのだけれど、コロナで営業日を減らしているらしく今日はやっていなかった。こうした地域の観光業や飲食店は大丈夫なのだろうか。我々の政府は弱い人を守る政策をできているだろうか。

 

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水が透明で濡れた石がキラキラしている

 日本海を眺めがら海や川はいつみても良いと改めて思った。小学生の時は辛いことがあると校区内にある砂浜まで歩いていって何時間でも海を見ていた。浪人時代も淀川を眺めていた。台湾を一周した時も海沿いを歩きながらああでもないこうでもないと考えていた。

 夕方になる前に松江につきたかった。松江市内まで70キロなので渋滞も込みでざっと2時間ぐらいだろうと思った。松江ではKさんに会う予定だった。少し松江の町を散策してから仕事終わりのKさんとご飯を食べようと思っていた。しかしなにしろ今日は暑かった。暑すぎた。こうやって海から風の吹くところで座っているだけならいいけれどアスファルトが熱を持つ都会で歩き回れるだろうか。調べると今日の松江は35度を越えそうだった。松江市内のカフェを調べてまた車に乗った。 

 

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〈あとがき〉

#100、#101の続きです。リンクを下に貼っているので気になる人は読んでください

 

 

【今日の音楽】 

youtu.be

 

 

鳴り石の浜プロジェクト

nariishi.com

 

はるかのひまわり絆プロジェクト

haruka-project.jimdofree.com

 

 

 

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#106 1ステップ2ステップ

  

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※この話はフィクションです。
※暗い話が苦手な人や落ち込みやすい人は、調子が良い時に読んでみてください。

 

 

 大人になんかなりたくないわあ、と言った私に、あんたももう大人なんやでとお母さんは言う。大人って何、みたいな会話は結局いつも哲学みたいなくだらない議論になるからもうその話はしない。たしかに成人して、家族にお酒を注いでもらって1月の第2日曜日は市民ホールにも行ったけど、そんなんで大人になるなんてことが本当にあるんやろか。小学校の同級生の懐かしい顔にまた会って、久しぶりに遊びにいこ! なんて言われて、連絡先も交換して、でもお互いに大学とかバイトとか恋人との約束やらなんやらで結局会えんままになって、あんなに仲良くて毎日遊んでいたのになんじゃそりゃ。あの言葉はやっぱり嘘なんかって感じやけどまあそういうことが大人になることなんかなあ、なんてきれいにまとめてみる。 

「死んだら負け」って誰かがテレビの中で言って、そん時は、そうやろなー、死んだら感じることも笑うこともできへんもんなって思ったけど、「負け」ってのはちょっと違うかもって今になったら思う。「死にたい人がいたら死なせてやれよ」なんて考えるようになってきた。死ぬのはその人の最後の抵抗だったりするもんなやっぱり。ハンガーストライキをしている人に「死んではいけませんよ」なんて説く人がいても聴く気にもなれないやろな。いやでも実際に目の前に飛び降りようとしている人がいたらどう思うんやろう。やっぱり止めるやろか。

 少し前に大丸の屋上に上って、飛びおりた人がいた。誰も止めなかった。ただただスマホを構えてSNSでバズろうとしただけやった。いやこの言い方はちょっと語弊があるか。見ている人はみんなめいめいに心の中で何か思っていたかもしれんし、実際に何かを叫んだ人もいたはずやと思う。それでも大多数はわき目もふらずに駅から駅へと向かう通路を歩いてた。スーツ姿の群れ、車の群れ。ダイヤ通りに動く電車。通勤ラッシュの大阪駅

 そしてその人が死んだ数時間後に私はタイムラインでその映像を見た。「やばいやばい」とカメラを持ちながら呟いている投稿主はどこか楽しんでいるようにも見えた。カメラを向けるその人の自己顕示欲が感じられて嫌な気分になったけれど、スマホの画面から目が離せなかった。周りにいる人もスマホを構えていた。みんな普通の人だった。

 翌日はなぜか各地で人身事故が相次いで、私もあおりを食って大学の講義に遅刻した。私は1限に10分ぐらい遅刻しただけで済んだけれど、グループでのプレゼンがあって、ひとりが1時間ぐらい遅刻した。遅れた彼はプレゼンに間に合わなくて、自殺した人は遅刻するこっちの身にもなってほしいというようなことを言った。その言葉は、その時にはふうんと思っただけやったけれど、段々と私の心の中で膨れ上がってその夜は寝れなかった。よくわからんかった。確かなのは死んだ人はもう遅刻することもできないし、愚痴を言うこともできへんやろうということだった。次の日にはその動画はインターネットからことごとく消されて見ることができないようになった。その自殺が存在しなかったかのように。

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 高校の昼休み、自殺する人はどうして自殺するのかということをクラスで男の子たちが話し始めて、私も気になったから聞き耳を立てた。「自殺する人は死後になにか楽しいことがあると思っているんや」と言った子がいて、あほかそんなわけないやろ、と思った。もちろん私はその会話に入ってないから口には出さんかったけれど、そんな風に考えている人がいるのが信じられんかった。宗教を信じている人ならまだしも、みんな極楽やら天国やら本気であるとは思っていないやん、などと勝手に聞き耳を立てた私は勝手にモヤモヤしていた。そしたらある子が「死ぬ人は逃げたいと思って死ぬんやから他にどうしようもないんやろ」と言ってくれて少しだけほっとした。その子は卒業して東京のほうに進学した。弁護士を目指しているなんて風の便りできいたけど元気にしているだろうか。

「人間は本当にどうしようもないです。誠実に生きようとしても誰かを裏切っています。嘘もつきます。生きながらにして神と呼ばれている人はいません。神様と呼ばれるようになるのは死んだ人だけでしょう?」なんていう講釈を垂れたじじいがいた。たぶん卒業式とか入学式とかで来た「来賓」だったと思う。私はそういった行事ではたいがい寝ていたのだけれど、なぜかその時だけは起きていた。自殺をした人も死んだ人も、死んでから悪く言われることはない。生きていた時悪く言っていたひとでさえ、死んでから悪く言うことはない。しかし、本当にそうなんやろうか。みんな生前のことをそんな簡単にちゃらにできるんやろうか。 

 夏休みが終わるからと思って思い切って部屋を掃除した。クローゼットの奥にしまっていた段ボールを出したら受験の時の参考書やらプリントやらが出てきた。後輩の誰かにあげようとかフリマアプリで売ろうとか思って置いていたけれど全部捨てることにした。ビニール紐で縛ってできた教科書の塊。国語便覧とか大好きなK先生が教えていた地理ノートは残すことにした。地図帳を開くと当時の書き込みが残っていて、ずっと読んでいたかったけれどそういうのをしていて許されるのが子どもで許されないのが大人なのかもしれない。それなりに思い出のあった紙の束は11枚に思い出があったけれど、明日ゴミ収集車に載せられてしまったが最後、そうした思い出は二度と蘇らない。それでも日々は続くし私たちは生きないといけない。

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〈あとがき〉

とある文芸コンペ用に書いたもので、完全なフィクションです。コンペではダメでしたが、良いところも悪いところも含めて自分らしい文章だと思っています。

 

 

youtu.be

 

 

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