※この話はフィクションです。
※暗い話が苦手な人や落ち込みやすい人は、調子が良い時に読んでみてください。
大人になんかなりたくないわあ、と言った私に、あんたももう大人なんやでとお母さんは言う。大人って何、みたいな会話は結局いつも哲学みたいなくだらない議論になるからもうその話はしない。たしかに成人して、家族にお酒を注いでもらって1月の第2日曜日は市民ホールにも行ったけど、そんなんで大人になるなんてことが本当にあるんやろか。小学校の同級生の懐かしい顔にまた会って、久しぶりに遊びにいこ! なんて言われて、連絡先も交換して、でもお互いに大学とかバイトとか恋人との約束やらなんやらで結局会えんままになって、あんなに仲良くて毎日遊んでいたのになんじゃそりゃ。あの言葉はやっぱり嘘なんかって感じやけどまあそういうことが大人になることなんかなあ、なんてきれいにまとめてみる。
「死んだら負け」って誰かがテレビの中で言って、そん時は、そうやろなー、死んだら感じることも笑うこともできへんもんなって思ったけど、「負け」ってのはちょっと違うかもって今になったら思う。「死にたい人がいたら死なせてやれよ」なんて考えるようになってきた。死ぬのはその人の最後の抵抗だったりするもんなやっぱり。ハンガーストライキをしている人に「死んではいけませんよ」なんて説く人がいても聴く気にもなれないやろな。いやでも実際に目の前に飛び降りようとしている人がいたらどう思うんやろう。やっぱり止めるやろか。
少し前に大丸の屋上に上って、飛びおりた人がいた。誰も止めなかった。ただただスマホを構えてSNSでバズろうとしただけやった。いやこの言い方はちょっと語弊があるか。見ている人はみんなめいめいに心の中で何か思っていたかもしれんし、実際に何かを叫んだ人もいたはずやと思う。それでも大多数はわき目もふらずに駅から駅へと向かう通路を歩いてた。スーツ姿の群れ、車の群れ。ダイヤ通りに動く電車。通勤ラッシュの大阪駅。
そしてその人が死んだ数時間後に私はタイムラインでその映像を見た。「やばいやばい」とカメラを持ちながら呟いている投稿主はどこか楽しんでいるようにも見えた。カメラを向けるその人の自己顕示欲が感じられて嫌な気分になったけれど、スマホの画面から目が離せなかった。周りにいる人もスマホを構えていた。みんな普通の人だった。
翌日はなぜか各地で人身事故が相次いで、私もあおりを食って大学の講義に遅刻した。私は1限に10分ぐらい遅刻しただけで済んだけれど、グループでのプレゼンがあって、ひとりが1時間ぐらい遅刻した。遅れた彼はプレゼンに間に合わなくて、自殺した人は遅刻するこっちの身にもなってほしいというようなことを言った。その言葉は、その時にはふうんと思っただけやったけれど、段々と私の心の中で膨れ上がってその夜は寝れなかった。よくわからんかった。確かなのは死んだ人はもう遅刻することもできないし、愚痴を言うこともできへんやろうということだった。次の日にはその動画はインターネットからことごとく消されて見ることができないようになった。その自殺が存在しなかったかのように。
高校の昼休み、自殺する人はどうして自殺するのかということをクラスで男の子たちが話し始めて、私も気になったから聞き耳を立てた。「自殺する人は死後になにか楽しいことがあると思っているんや」と言った子がいて、あほかそんなわけないやろ、と思った。もちろん私はその会話に入ってないから口には出さんかったけれど、そんな風に考えている人がいるのが信じられんかった。宗教を信じている人ならまだしも、みんな極楽やら天国やら本気であるとは思っていないやん、などと勝手に聞き耳を立てた私は勝手にモヤモヤしていた。そしたらある子が「死ぬ人は逃げたいと思って死ぬんやから他にどうしようもないんやろ」と言ってくれて少しだけほっとした。その子は卒業して東京のほうに進学した。弁護士を目指しているなんて風の便りできいたけど元気にしているだろうか。
「人間は本当にどうしようもないです。誠実に生きようとしても誰かを裏切っています。嘘もつきます。生きながらにして神と呼ばれている人はいません。神様と呼ばれるようになるのは死んだ人だけでしょう?」なんていう講釈を垂れたじじいがいた。たぶん卒業式とか入学式とかで来た「来賓」だったと思う。私はそういった行事ではたいがい寝ていたのだけれど、なぜかその時だけは起きていた。自殺をした人も死んだ人も、死んでから悪く言われることはない。生きていた時悪く言っていたひとでさえ、死んでから悪く言うことはない。しかし、本当にそうなんやろうか。みんな生前のことをそんな簡単にちゃらにできるんやろうか。
夏休みが終わるからと思って思い切って部屋を掃除した。クローゼットの奥にしまっていた段ボールを出したら受験の時の参考書やらプリントやらが出てきた。後輩の誰かにあげようとかフリマアプリで売ろうとか思って置いていたけれど全部捨てることにした。ビニール紐で縛ってできた教科書の塊。国語便覧とか大好きなK先生が教えていた地理ノートは残すことにした。地図帳を開くと当時の書き込みが残っていて、ずっと読んでいたかったけれどそういうのをしていて許されるのが子どもで許されないのが大人なのかもしれない。それなりに思い出のあった紙の束は1枚1枚に思い出があったけれど、明日ゴミ収集車に載せられてしまったが最後、そうした思い出は二度と蘇らない。それでも日々は続くし私たちは生きないといけない。
〈あとがき〉
とある文芸コンペ用に書いたもので、完全なフィクションです。コンペではダメでしたが、良いところも悪いところも含めて自分らしい文章だと思っています。
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