シゲブログ ~避役的放浪記~

ありゃりゃ、みつかっちゃったぜ。全部フィクションです

#93 天然な人

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 さっきまで教授の部屋で数人で話していた。教授と数人の学生で、お茶やクッキーを食べてこれからの進路のことや研究のこと、卒論のことを話していた。帰り道に友達が呟いた。

「天然な人ってちょっと苦手やな。その人の言動のどこまでが『本当』でどこまで『演技』なのかわからへんくなる」

 なんとなく同感できた。「天然」とされている人の二面性を目の当たりにした時、私はいつもどきっとしてしまう。私に対していつもにこやかに話す人が、私の友人に対してはすげない態度をとった時、苦手なクラスメイトに対して自分が無意識に意地悪していると気づいた時、私の心はいつもぐらりと揺れた。「天然」とされている人は人間のそういった矛盾や不条理をわかりやすく見せつけてくる。それゆえ、私は「天然」とされている人が苦手なのかもしれないと思った。

 家族であれ、クラスメイトであれ、教授であれ、腹の底は見えない。外面はニコニコしていても心の中で何を考えているのはわからない。知っていると思っていた人の顔の中に知らない誰かを見つけてゾッとすることは確かにある。「天然」な人は、その特性ゆえに、「この人には裏の顔があるのではないか?」と特に疑ってしまい、私は警戒してしまう。中学、高校と私は「天然」とされている人とは距離をとってきた。

 「本当の天然」と「キャラとしての天然」がいたとしても、長い間私はどちらとも仲良くできなかった。物事を真剣に考えていたら「天然」でいられるはずなどないのに、彼や彼女は真剣に考える努力をしていないのではないだろうかとまで思ったこともあった。あるいは不誠実なのではないのかと。そう思って密かに少し軽蔑した。自分はこんなに考え込んで辛いのに、彼らは楽そうでいいなと思った。私が「100」落ち込むことでも、彼らは「1」ぐらいしか落ち込まないのだろうかと考えていた。そうだとしたらいいな。羨ましいな、なんて思った。

 そして、「天然」を装っている人も実際に存在する。何らかの理由があって、天然を演じることを選んだ、あるいは強いられたのだと思うけれど、その演技に一度気づいてしまうとこっちは居心地が悪くなる。「本当はこの人、私のことをどう思っているのだろう」なんて疑ってしまう。仲のいい人や好意を持っている人ならなおさらである。私はこの人にどう思われているんだろう? なんて思った瞬間、ぱっくり地面が割れて私は疑心暗鬼の暗闇に落ちて行ってしまう。なぜかガキ使の笑ってしまった時の音楽が流れる。

 

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 装っているのか装っていないのかわからないけれど、当たり障りのないことを言ってへらへらしてる人より、思っていることをそのまま言う人の方が信頼できる。デリカシーも必要だけど何か思うことがあるのなら言った方がいい。探り合いばかりのコミュニケーションは不健康だ。何か思うことがあるなら言ってほしい。できれば対面がいい。でも2020年の日本では思っていることを大声で言ってはいけない空気があって、自分の気持を抑圧しないといけない風潮がある。そもそも若い人や弱い人を不必要に萎縮させる仕組みがたくさんある。デモの現場に行っても、参加者以外の人は関心を示さないし、通り過ぎるだけだ。そして声を上げる人たちを叩くための言葉はたくさんあって、SNS上では毎日そんな言葉がタイムラインに出てくる。声を上げる人のアカウントに粘着する人、言葉尻をあげつらう人。不誠実や真面目さを嘲笑する空気には本当にうんざりする。正面から反論するのではなくてナナメの角度から来て、論点をずらそうする人たち。ずるいと思う。

 

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大学。食堂の横

 日本語のコミュニケーションは、受け手にゆだねられることが多い。伝達者が発した情報を受け手が解釈して初めてコミュニケーションが完成されるらしい。伝達者は言いたいことを直接的には言わず、オブラートに包んで伝える。そして受け手は相手の真意を「察して」理解する。そこには物事を直接的に言うのは無粋だという文化があると思う。他の外国語がどうなのかは知らないけれど、私が知る英語もロシア語も、コミュニケーションの中心は受け手ではなく伝え手であるように思う。伝え手はより具体的に、直接的に情報を伝えようとする。

 大学に入って1年目、ウラジオストク出身の先生のロシア語の授業を受けていて、その言葉の強さに驚いた。日頃、日本語の「間接的な」表現に慣れている私にとって、その言葉は強すぎた。練習問題をやっても、活用形を覚えていない私は間違った答えしか言えなくて、先生が説明してくれるのだけれどロシア語の聞き取りは全くわからなくて、授業は毎回頭が真っ白になっていた。

「ありがとう。もう結構よ。あなた発音もだめだし、文法もだめだめね!」

日本語にするとこんな感じの言葉を先生は授業で言った。毎回の授業で私もクラスメイトもみんな言われた。日本語のコミュニケーションではそんな言葉を投げられることなどなかったので、カルチャーショックをうけた。段々慣れてきて、ロシア語で投げられるその言葉を日本語に直訳してもあまり意味がないことに気付いた。ロシア語の世界でのその言葉と、その言葉を日本語の世界に無理やり持ってきたものとは、全く手触りが違うのだった。そのロシア人の先生は日本にもう何年も住んでいて日本語も上手なのだけれど、同じ意味の言葉を日本語では絶対に言わない。逆に、私がロシア語で作文を書いたり、教授にメールを送ったりする時に、日本語では絶対に使わないような表現を平気で書くこともある。これは英語でも同じである。言語はそれぞれに世界を持っていて、一つ一つ違う。だから日本語と同じルールを持ち込んでもよくわからなくなるだけだ。

 

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大学

 大学に入った当初、言いたいことを言えないのが苦しかった。高校、浪人時代には一日の大半を一緒に過ごす友達がいて、関係性ができていて、だから大方のことを話せた。遠慮することも少なかった。でも大学はゼロから関係性を作らないと行けなくて、言っていいことと言っていけないことの見極めがいちいちめんどくさかった。大して興味のない相手の話に合わせないといけなかったり、自分の本心を隠さないといけないのが苦しかった。モヤモヤした。

 そんな時に初めて自分がこじらせすぎたことに気付いた。自分は考えすぎなのだと知った。もっと自由に言っていいのに遠慮してしまう。自分の言葉で傷つく人がいるのではないかと怖くなってしまう。独りでいる時間が長かったのも良くなかったと思った。自分と対話するうちに引っ込み思案な性格になってしまったていた。

 反面、周りの人は「ラク」そうでいいなあと思った。「天然」な人はいいなあと思った。忖度することなく好きなことを話せるもんな、なんて思った。でも聞いてみたら聞いてみたで、その人にもその人なりの見方があって、「天然」なように見える言動にも実は意味があるのだった。その人なりの気遣いがあったりするのだった。大学に入って4年ほど経って周りと関係性が出来て、そんな当たり前のことにもようやく気付けた。そもそもコミュニケーションは多分に演技なのだから、ある人の言動に「ウラ」を探そうと思えば、いくらでも「真意」を見つけられるのだと思う。「本当」なんていつでも捏造できる。

 その人が「天然」なのかそうじゃないのか。「本当の天然」なのか「装っている」のか、考えても仕方ないのだと思う。むしろ本来であればそんなことを考えなくて良かったのだと思う。それでも、もう私たちは色々なものを見てきてしまった。嘘も憎しみも恨みも知ってしまった。箱が一度開いてしまった以上、出ていったものは戻ってこない。知ってしまったものを忘れることはできない。ピュアだったあの頃にはもう戻れない。自分を守るために、疑うことを覚えた私たちはこれからもこうやって探り合いながら生きていかないといけない。多分みんなそうなのだと思う。そうであってくれ。 

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