シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#92 進級

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 進級した。ようやくだった。
 夜勤だった。日付が替わった。久しぶりに大学のホームページに入った。緊張しながら「成績」のボタンを押すと、また新たなボタンが出て来た。そのボタンには「
2019年度通年」と書いてある。私はこれを今からクリックする。そうすればすぐに終る。「ああ、見たくないなあ」と思った。この成績は確実に私の人生を左右する。CF、合格と不合格、進級と留年。それらは日常の中にいつも潜んでいるのに、私はこういう時にしか現実を直視できない。普段は日常にかまけて無意識に顔をそむけているのだ。しかしいつまでも誤魔化し続けることは不可能で、いつかは襟首を掴まれて現実の前に立たされる。それが今日だった。出さなかった課題や休んだ授業のことが頭をよぎった。今更遅いけどもっとちゃんとしておけばよかった。
「不合格」が出て、もう一年同じ年を繰り返さないといけないシチュエーションを想像した。次の
2年生の大部分は私より4歳下だろう。一年浪人していたとしても3年も違う。おそらく彼らが物心ついた頃には3Rが活躍したあのワールドカップはとうに終わっていたし、今岡がめちゃくちゃ打って阪神が優勝した年もイチロー西岡剛が活躍したWBCも大昔のことなのだろう。荒川静香イナバウアーも、4回転ジャンプが跳べた頃の安藤美姫も知らないに違いない。中学生になった頃にはもうスマホがあっただろうから「メールアドレスを変更しました」とガラケーに一斉送信されてくるメールを受け取ったこともないだろう。

 ぞっとした。自分が同じところをぐるぐると回りながら年老いていく様を思った。天王寺動物園で昔見た虎は柵のむこうで一日中行ったり来たりを繰り返していた。当時は何とも思わなかったのに、今は同情できる。

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阪急塚口駅

 意を決してボタンを押した。アクセスが集中しているのかページがかわるのに時間がかかった。スクロールすると「ロシア語」の成績が出て来た。5つとも合格だった。私は進級できたようだった。

 数分が経ってもまだ私は信じられずにいた。実感がなかった。「合格」と書かれているけれど、これは間違いで、本当は「不合格」なのではないかと思った。誰かの手違いで今は「合格」となっているけれど、このページをリロードすれば表示が変わって「不合格」になるのだろう。そう思ってスマートフォンの画面の右上のボタンを押し続けた。

 この2年間諦め癖がついていた。何をしてもなりたい自分になれない気がして、取り組む前から諦めてしまっていた。やる前に負ける未来が見えた。何をする気にもなれず、アイデアは無間に浮かんでもチャレンジしないものだから、元々無いようなものだった自己肯定感がどんどん下がっていった。暗い穴に引きこもる日々が続いて、気づいた時にはその穴から抜け出せなくなっていた。肥大化した承認欲求と、それに不釣り合いな委縮した勇気。精神状態はバランスを欠き、突然心拍数が速くなったり、異常な量の汗が出たりした。精神科にも行った。医師の見解では私の精神に異常は無いようだった。一応、ということで別の部屋で何回かカウンセリングを受けた。白い何もない部屋で自分語りを続けていくうちに、私は自己顕示欲が満たされていくのを感じた。段々自分が怖くなった。自分はもっとできる。自分はこんな場所にくすぶっているような器ではない。有名になるんだ。自分の口からとめどなく溢れてくる言葉に嫌悪感を抱いた。それでもやめられなかった。ある日、病院の最寄り駅で降りた私はカウンセリング室に続く坂道を登りながら、吐きそうになった。歩道の上で叫び出したくなった。むしゃくしゃしたまま病院の前を通り過ぎ、また同じ道を引き返した。何往復かした後で私は駅まで戻ることにした。構内のミスタードーナツに入って、いつものコーヒーではなく少し高いカフェラテを頼んだ。予約していたカウンセリングに行かなかった現実を直視したくなくて、持っていた本を開いた。茶色とも灰色ともとれる表紙には朱色の花が描かれていた。付箋だらけのその本にまたさらに付箋を貼って、気に入った箇所をノートに書き写す作業をひたすらに続けた。ペンを動かす手を止めたら泣き出してしまうそうだった。50年前に自殺した作者の言葉は私の心を抉り、同時にその傷を癒した。独りであること、未熟であること、これが私の

「カフェオレのおかわりはいかがですか」

直視できなかった。顔が真っ白なのがわかる。「ください」と口の先だけで言って頑張って口角を上げる。髪の毛もぼさぼさだし、着ている服もひどいものだった。フードにフードを重ねたりしていた。オレンジ色のコップがテーブルにまた戻され、空腹を満たすためにカフェオレを飲んだ。恥ずかしかった。今の自分はミスタードーナツの店員さんとも、店内にいる客とも、誰と比べても、取るに足らない存在のように思えた。同じ空間にいる全員に劣っている気がして、早く消えてしまいたかった。

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病院がある街のミスタードーナツ

 耳たぶが熱くなっていた。何回もリロードした後で、ようやく自分の進級を信じることができた。報告しないといけない人達の顔が頭に浮かび、SNSでメッセージを送った。

 なあんだ。こんなに簡単に進級できるんじゃないか。バイト先の簡易ベッドの上で無為に過ごしたに等しい2年の歳月を思った。無駄な時間だったと悲しく思う一方、暗闇で苦しんでいた頃の自分に対してヘンな罪悪感を感じた。あまりにも、あまりにもあっけなく進級してしまった。ちょっとだけ泣いた。

 生まれ変わった気分で自転車をこいだ。バイトが明けて爽快な気分だった。朝の風も陽の光も気持ちよくて、全てが完璧に思えた。ミスタードーナツに入って、あの日と同じように本を読んだ。志賀直哉の「城の崎にて」だった。自分にとっては今朝の発表が生死の境目だったのかもしれないと思った。

  窓から友人Wの姿が見えた。日差しの中のオレンジのコートは眩しくて暖かそうだった。冬が終わりつつあった。午後を目いっぱいに使って2人で尼崎の街を歩いた。地区は違えど、尼崎で少年期を過ごした2人だから、話すことはたくさんあった。知っている古い建物が消えていく一方で知らない新しい建物が増えていた。

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さんさんタウン

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昔住んでいた団地

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新しくできた映画館

 

 

 

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