今日はロシア語でプレゼンをする授業だった。4月から各々で進めてきた研究を発表するのだ。90分の授業で6人が発表した。
私は今月に入ってから論文を調べ、何冊かの本を読み、原稿を仕上げた。パワーポイントもどうにかこうにか仕上げた。しんどかった。
その時間、私は一番目に発表した。ロシア語を読むスピードが遅くて、A4の原稿を2ページ読むのに15分もかかった。その間みんなはずっと黙っているわけで、原稿を読みながらちらちらアイコンタクトをとっても、全員が全員退屈しているように思えた。顔を知っているけれどそのほかは全く知らないようなクラスメイト達。彼らの顔は無表情で怖かった。
私はプレゼンをするにあたって私の範疇を超える語彙を使っている。使うことを強いられている。そうした語彙はまだ私の血にも肉にもなっていなくて、だから使っても使っても手ごたえがなくてなんだか心細い。喋っているうちにどんどん自分が信じられなくなってしまいには何を言っているのかわからなくなる。それでも私は「新しい単語も文法も全部知っているんですよ」という態度で話さないといけない。もしかしたらそれが一番辛かったかも知れない。
正直、話を聞いている人もそんなにはわかっていないのだと思う。私たちはお互いに自分が知っているボキャブラリーだけを喋り理解する。みんながよく使うボキャブラリーも勉強の足りない私にとっては初めてだという時がある。逆に私が知っているボキャブラリーもおそらく何人かにとってはなじみのないこともある。
言語を学んでいて気付くことの一つに「私たちはお互いに決して分かり合うことがない」ということがある。この世の真理の一つだと思う。その真理は、言語の世界でわかりやすい形で現れる。
私が話し終えた後、一人のクラスメイトが質問をした。情けないことに彼女の質問を全く聴き取ることが出来なかった。あとで確認すると簡単な内容の質問だった。それでも私は聴き取ることが出来なくて、もちろん質問にも答えることが出来なかった。さっきまでさかしら顔でスピーチをしていたのに、急に心細くなる。所在無げに突っ立ったままの私にロシア人の先生が助け舟を出してくれた。それでもやっぱりわからなくて立ち尽くしている。こうかなと推測して答えてみたけれどうまくロシア語を使えなくてもどかしい。ひねり出した私の答えはやはりとんちんかんなものだったらしく、クラスメイトの顔にはてなマークが浮かんだだけであった。化けの皮が剥がれた私は先生に言われるがまま「Извините я не знаю」(ごめんなさい。わからないです)と言って教室の前から退散し、モヤモヤの残ったまま席に戻った。
前に立つ私はみんなの目にどう映っていただろう? 自分の席でそんなことを考えていた。私の弱気はきっと見透かされていただろう。何人かはきっと軽蔑したにちがいない。落ち込む。
他の人のスピーチも頑張って聞こうとしたけれど、いかんせん話の内容を聴き取ることが出来ないので、私の思考は自然とネガティブな方向へ進んでいった。
いや、思い込みすぎだ。そんなことあるわけない。みんな無表情なだけで、私に対してネガティブな感情を抱いているわけではないだろう。自分の思い込みが激しいことはよくわかっている。別にみんながみんな私を嫌っているわけではないのだ。それでも私だけがみんなから離れた場所にいるような気がして辛かった。
大学生は賑やかでいるように見えて、 実は孤独なのだと思う。私が抱いている孤独もおそらく私だけの孤独というわけではけっしてないだろう。私はみんなと仲良くなりたかった。でもどうすればいいのかわからなかった。教室を出てから少しだけ涙が出た。
家に帰って馬鹿みたいにチョコレートを食べたかった。下手なギターをじゃらじゃらならして大声で歌いたかった。自転車を全速力でこいでみたかった。