シゲブログ ~避役的放浪記~

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#94 フットボール、米原万里、ユーゴスラビア

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 昔のサッカーを見ていた。09/10シーズンのヨーロッパチャンピオンズリーグ準決勝1stレグ、バルセロナインテルDAZNYouTubeに上げている動画ではアナウンサーと解説者が当時のことを振り返りながら実況をしていた。深夜、コーヒーを飲みながら課題の傍らでその試合を見ていた。

 私が欧州サッカーにはまったのは2010年暮れだった。初めに見たのはミランユベントスの試合で、ガットゥーゾが得点を決めてミランが勝った試合だった。私はそれからACミランという赤と黒の縦じまのチームにはまり、イタリアサッカーの虜になった。今では「終わった選手」のように扱われることの多いアレッシャンドレ・パトが当時大活躍していた。イブラヒモビッチが前線に君臨し、中盤にはファン・ボンメルとピルロがいた。私のお気に入りは前線のケビン・プリンスと右サイドバックアバーテだった。フロントのゴタゴタが長引いて、内部の権力闘争みたいなのが目に入るようになってからは進んでミランを応援する気にはなれなくなってしまったのだけれど、本田圭佑が加入した時は嬉しかったし、アバーテが引退した時は悲しかった。当時のサッカー部の友達はイングランド・プレミアリーグや、リーガ・エスパニョーラを観ている子が多かったが、なぜか私はセリエAにはまって長い間イタリアリーグばかり観ていた。プロヴィンチャのユニークなクラブが多く、チームごとに個性のあるイタリアリーグが好きだった。そのミランのライバルチームが、同じサンシーロを本拠地とするインテルだった。

 YouTubeでぼんやり観るつもりだったのに、懐かしい名前がたくさん出てきて、感傷に浸ってしまった。インテルのスターティングメンバーには懐かしい名前があった。サネッティディエゴ・ミリートカンビアッソチアゴ・モッタジュリオ・セーザルデヤン・スタンコビッチゴラン・パンデフ。一時代を築いたフットボーラーたち。ワクワクして観ていた当時の自分を思い出した。記憶が一度に戻って来てぐるぐる回った。2012年のユーロ、2014年のワールドカップ。クラスメイトと盛り上がったこと。深夜、明け方にテレビの前でドキドキしていたこと。部活の練習中、なかなか一流選手のようにはプレーできなくてもどかしく思ったこと。

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ケビン・プリンス・ボアテングが好きだった

 

  

 大学のゼミの課題でユーゴスラビアについて調べた。米原万里の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』の中にある、ユーゴスラビア出身のヤースナの箇所を読んで感じたことや考えたことをレポートに書く課題だった。米原万里はロシア語を学ぶ者にとって偉大な存在である。私が彼女の本を読むようになったのはけっこう最近のことだけど、高校時代に米原万里の本に出会って、ロシア語専攻を選んだ人もいるみたいだ。

 米原万里10代の始め、父親の仕事の都合でプラハに住んでいた。プラハにあるソビエト学校で、様々な背景を持つ子供たちと時間を過ごした。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』には、その時の思い出と、30年後にプラハ時代の友達(ギリシャ人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤースナ)を訪ねて行った話のことが書いてある。通訳者として活躍した筆者の語り口はユーモアがあって面白く、色々なことを教えてくれる。

 米原万里はヤースナを探しに1995年のベオグラードに行く。スロベニアクロアチアの独立に端を発したユーゴスラビアの内戦は泥沼化の様相を呈していて、米原万里の文章にも街の緊張が感じられる。ボスニアの内戦が激しかった頃である。戦火はまだベオグラードまでは来ていなかったが、民族主義がいたるところに露わになっていた時代だったと思う。元々はユーゴスラビアという1つの国であり、ナチスを撃退したという歴史と共産主義、そしてティトーの下で団結していたのが、民族主義の隆盛で崩壊していったのだった。日本と言う均質度の高い国に育った私には想像もつかないような感情がそこにはあるのだと思う。

 米原万里が言うように、抽象的な人間などこの世にはいない。どんな人間にもそれぞれの生まれと育ちがある。民族や宗教、言語、趣味趣向、その他諸々で自らを規定することができる。そういった多様性をはらんでいるからこそ社会は豊かである一方、争いも起こる。違いがあるからこそ衝突が起こる。仮にこの世界のすべての人類が私だったとして、戦争は起きないと思う。みんなが平和に暮らせるはずだ。でもその世界の生活は味気ないだろう。そこに文化はないだろう。音楽も文学も詩も生まれないだろう。自分とは違う視点にふれることができるから映画も文学も発展してきたのだ。違う場所から来た者同士の交流があるからこそ人生には可能性がある。

 

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2019年5月、先輩と吹田スタジアム大阪ダービーを観た

 

 

 私が伯父に初めて買ってもらった地図帳にはもうユーゴスラビアは無かった。バルカン半島にはスロベニアクロアチアボスニアマケドニアに並んで新ユーゴスラビアがあった。そして2003年、私が地図帳を熱心に見ていた頃に新ユーゴスラビアセルビア・モンテネグロと名前を変える。2006年のワールドカップ、ブラジル戦の後に中田英寿がピッチに仰向けになって天を見上げていたあのドイツ大会には「セルビア・モンテネグロ」が出場していた。しかし、セルビア・モンテネグロはその時点ではもう存在しない国家だった。国民投票モンテネグロの独立が決まり、開幕前の63日にセルビア・モンテネグロは地上に存在しなくなった。2006年のワールドカップセルビア・モンテネグロ代表は存在しない国家を代表して戦ったのだ。選手たちはどんな気持ちでプレーしていたのだろう。冒頭に紹介したスタンコビッチはドイツ大会では背番号10番をつけ、グループリーグ3試合にフル出場をしていた。結局セルビア・モンテネグロはワールドカップ3連敗を喫して、セルビア代表とモンテネグロ代表に別れる。別れるといってもほとんどの選手がセルビア国籍を選択したようだ。モンテネグロ代表を選択したのはローマ、ユベントスで活躍したミルコ・ヴチニッチぐらいのようである。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』にはヤースナのモンテネグロ人の夫が出てくるが、モンテネグロ人は背が高くて有名のようである。考えてみると、確かにモンテネグロ代表選手には背の高い選手が多い。

 ちなみにグループリーグ2試合目のアルゼンチン戦でセルビア・モンテネグロ0-6で敗れたのだけれど、この試合では、まだ18歳だったリオネル・メッシが途中出場してゴールを決めている。彼もまた2010年のチャンピオンズリーグバルセロナの選手としてプレーしていた。

 

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2019年夏、全州ワールドカップスタジアム。私は旅先でスポーツを観るのが好きだ。

 

 

 日本代表のユニホームが歴代の中でも群をぬいてかっこよかったドイツ大会。日本代表は初戦のオーストラリア戦を1-3で落とした。2戦はクロアチアとの試合だった。9歳の私は夜更かしを許されていなかったので、朝のニュースでハイライトをみた。試合前のスタジアム周辺の盛り上がりを伝える映像にはクロアチアサポーターが映っていた。彼らはユニフォームを身にまとい国旗を掲げていた。彼らが口にする「わが民族の誇り」という言葉は、歴史を知らない私には古臭く感じられた。無理矢理日本語に訳したのだろうかと思った。この試合はスコアレスドローに終わり、第3戦で優勝候補のブラジルと戦うことになっていた日本代表はグループステージ敗退が濃厚となった。「日本代表を最後まで信じましょう」というヘンな言葉とともにサッカーのニュースは終わった。

 後で知ったことだが、この試合には2018年のワールドカップで最優秀選手に選ばれることになる若き日のルカ・モドリッチがワールドカップデビューを果たしている。

 クロアチア代表のユニホームと言えば、赤と白の市松模様である。これはクロアチアの国章である。中世クロアチア王国のトミスラヴ王戴冠式に使用したデザインであるらしい。クロアチア人にとっては由緒ある紋章なのだと思う。ただ、このデザインは第二次世界大戦時に現在のクロアチアに存在したナチスドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」でも使われた。クロアチア民族主義者団体ウスタシャはクロアチア独立国支配下セルビア人、ユダヤ人、ジプシー、反対派のクロアチア人を逮捕し、強制収容所に入れ、虐殺をくり広げた。そしてウスタシャも赤白の市松模様を使用した。

 トゥジマン大統領がクロアチアの独立を宣言し、新しい国旗に市松模様が採用された時、クロアチアに住むセルビア人の頭に、50年前のことがよぎらないはずはなかった。彼らセルビア人は、クロアチア領内にクライナ・セルビア人共和国を作り新ユーゴスラビアがこれを支援した。クロアチアの内戦は一層ひどいものになった。クロアチアの内戦が終結してもボスニアの内戦、コソボの紛争はまだ続いていた。

 

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2019年3月、ハバロフスク

 

 

 思うに私はサッカーを通じてバルカン半島、そしてスラブの世界を知った。高い期待値と裏腹にドイツで一勝も挙げられなかったジーコに代わって新しく代表監督に就任したのはボスニア出身のイヴィツァ・オシムだった。そして海外サッカーに興味を持ちだした私が最初に観たのは旧ユーゴにルーツを持つ選手が多く在籍していたイタリアリーグである。ブチニッチパンデフハンダノビッチクラシッチ。地理的に近いイタリアにはスラブ系の名前を持つ選手が多く活躍していた。そうしたフットボーラーのインタビューを聴いたり、家族の話を調べたりするうちにバルカン半島の歴史にも興味を持つようになった。サッカーは私の世界史と地理の勉強に一役買ったのだった。

 私は今大学でロシア語を勉強しているが、おそらくこうしたサッカーにまつわる思い出も今の学業につながっているのだと思う。そして今日こうやってバルカン半島について調べていることも、こうして書いた文章も、少なからずこれからの人生につながっていくのだと思う。

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全州の特産である扇をイメージした屋根のデザインらしい


 

 

 

私が見ていた試合

www.youtube.com

 

試合の戦術についての記事

http:// https://note.com/seko_gunners/n/nd38311c7fac0

 

 

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参考文献

「ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇」

千田善 講談社現代新書1993年10月20日第一刷発行

嘘つきアーニャの真っ赤な真実

米原万里 角川文庫2004年6月25日初版発行

 

 

 

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