シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#177 セルフネグレクトして死んだ父のこと

 父が死んだ。
 本当に死んだ。嘘みたいだ。去年の7月に自分が交通事故に遭った時も嘘みたいだと思ったけれど、それと同じくらい信じられない。
 
 5月の2週目の火曜日。夜。普段は来ないSMSのメッセージが来ていた。父の姉だった。
「あなたの父親について連絡したいことがあります。電話でお話ししたいです」
どう考えても良くないことが起こったのは明らかだった。父親が私に会いたくないのは知っていた。だから次に会う時はお葬式だろうと思っていた。面倒だなと思う間に30分が経過して、このままかけずにいたら何年も経ちそうだった。仕方なく電話をかけて、案の定父親は死んでいて、驚くことに私は何も感じなかった。本当に何も。ゼロ。相手は涙ぐんでいる様子で、鼻炎であることを良いことに私は時々泣いているような声を出した。そんな風にする自分が嫌だと思った。
 
 半年近く父は誰とも会うことを拒んでいたみたいだった。ある晩にマンションの火災報知器が鳴って警察が部屋毎に住人を訪ねた。インターホンを押しても誰も出ない部屋があって、ベランダから警察が中に入った。異臭が察知され、中で死んでいる男が発見された。それが父だった。
 
 そこから父の姉へと連絡がいった。DNA鑑定。そして私へ。死後1ヶ月経った部屋がどういうものなのか知りたくてネットで調べた。一般清掃と特殊清掃。フローリングがどういう風に汚れるのか。虫はどういった風にわくのか。遺されたものがどう処分されていくのか。「セルフネグレクト」という言葉も初めて知った。
 
 誰にも相談できなかった。相談しても、結局のところ、私は何も落ち込んでいないように振る舞わないといけない。それが辛かった。父が死んだこと自体は、正直全然ショックではなかった。ただ、自分のこれまでの人生を、父の記憶が全くないままに生きないといけない事実を再確認しないといけないことが辛かった。
 
 親戚に相談した。その人はその人自身が家族について抱く不満を伝えてくれたけれど、正直迷惑だった。自分の地獄とその人の地獄。二つが釣り合うはずもなく、比べられるはずもない。その人が地獄を抱えながら頑張っているという事実は、私も頑張らないといけない理由にはならない。悲しみは比較されるべきではない。自分の不幸でマウントばかり取ろうとしている人たち。大学の先生もそんな人だった。愚痴を一方的にまくしたてることを、親密さの現れと勘違いしている人。依存の関係にあった過去の人たちを思う。弱い人がさらに弱い人を搾取する構造。でもそこに明確な線はない。それから、共有されたとて悲しみはぴったりとは重なり合わない。相手は「同じ」立場に立って寄り添ってくれるつもりかもしれないけれど、私は「違う」ということを思い知らされるだけ。
 
 幼稚な疑問ばかりが浮かんでくる。最後に父が考えていたことは何だったのか。最後に食べたご飯は。最後に話したのは誰? よく行ったコンビニはどこだろう? 明らかに死んでいる人もやはり最初は救急車に乗せられるのだろうか?
 
 伝わってくる情報は全て、父の姉を経由する。彼女の意見は偏っている気がする。いつも父親をまるで10歳児のように話している。彼女は中学生以降の彼のことをどれだけ知っているのだろうか。過保護だったのだと思う。姉と弟。彼らにとっての父親は早く死に、目が悪い母親も、働けなくなった。父の姉は、高校生の父の三者面談にも行っていたらしい。そうした背景を知っているから一方的に非難はしたくない。ただただわからないことがあまりにも多い。父は自分の意見をどれくらい持っていたのか、どうして結婚しようと思ったのか。自分の子どもが生まれて嬉しいと本当に思っていたのか。父親のことはいつも二次情報。母から、祖母から、伯母から、そして父の姉から。祖父に至っては、私に何も教えてくれたことがない。まあ、それが祖父のいいところでもあるのだけれど。
 
 母や祖母の言うことに従いたくなかった時、家にいたくなかった時、父親のことを考えていた。なぜ会いに来てくれないのか不思議だった。裁判までして、面会する権利を彼は勝ち取ったというのに。本当に何もなかった。そのことをおかしいと思ったことはなかったのか。子どもを持つことの責任とはなんなのか。養育費を払う。年に一度母から送られる私の成績を読む。果たしてそれだけでよかったと思うのか。良心の呵責は?「私があなたなら、」と言いかけてやめる。私は父親にはならないだろう。なったとしてもあなたと同じことはしないだろう。
 
 強く会いたいと思ったのは高校1年生の時。私は高校を辞めようとしていて、家族の誰とも、祖母とも母とも伯母とも伯父とも話したくなかった。高校の誰とも話したくなかった。全員嫌いだった。急に世界の中で自分だけが独りになったような気がしたあの頃。
 私の中には父親から受け継いだ素質や、ある種の特性のようなものがあって、だから家族に拒絶されるのだと愚かにも思い込んでいた。映画と本、それと音楽だけが味方だった。でもそれだけでは満たされず、「父親のように」語りかけてくれる存在が欲しかった。
 
 進路に迷っている受験生の時、急に父親の意見を聞いてみたいと思った。私は「これから」を決めるのに「これまで」を知らなかった。母方の家族にはそれぞれの歴史があって、祖父の受験のことも、祖母が教師の資格をとったことも、知っていた。でも父方は、本当に何も知らなかった。
 
 幼いながら父の話題はタブーだと思っていた。父といる時の母がいつも楽しそうではなかったのを覚えているし、何度も話し合いをしていた。母を傷つけたくなかった。母子家庭はどこも父と子が会えないものだと思っていた。大学生になって、離婚しても自分の子どもには会いに行く人の存在を知った。その時はすごく驚いた。
 
 当時持っていた情報は、7歳までの自分が持っていた名字と父親の職業、それに働いているであろうエリアと住んでいる県。母親から父の名前を聞き出し、インターネット空間から父の写真が奇跡的に見つかった。がっかりした。全然似ていない。職場で撮った営業用の写真なのに、全く笑っておらず、睨んでいるようにも不貞腐れているようにも見えた。瞳にも口元にも全く表情がなくて、こんな人が父親であるはずがないように思った。授業中もやかましく喋らずにはいられない小学生だった私とは似ても似つかなかった。
 
 おそらくその時の彼は脳出血で倒れる前だったはずだ。その時には彼はまだ会いたいと言っていたらしい。脳出血になってリハビリが必要になって、一度は頑張るもののまた倒れる。2回目の脳出血でもう彼は働けなくなり、仕事も辞めざるを得なくなった。私が父の姉に連絡をとったのは2回目の脳出血の後だった。
 
「それで、あなたのお父さんは何も連絡をよこさないの?」
「うん」
「それならもう、捨てられたってことじゃない」
これは私が父に会いに行く一年半前の祖母との会話。父の病気を知る前の2016年4月。祖母の家のソファーでテレビを観ながら。祖母はその翌年に死んだ。
後になって深く傷ついた。大好きな祖母がそんなことを言うなんて。信じられない。でもまあその時も今も、捨てられたようなものだと思っている。だってそうでしょ。20年近く子どもに連絡をしないなんて。お金がないわけじゃないのに。
 
 大学2年目の時、全部嫌になって休学した。サークルも、つまんない大学も全部投げ出した。父親の仕事場に電話する。彼はもう仕事を辞めたと聞かされた。市役所に行って戸籍のコピーをもらう。隣の隣の県の住所。電車に乗る。乗り換える。駅から降りる。ああ、昔見た景色。駅前のロータリー。
 
 てっきり父か父の母親が出てくると思っていたのに知らない女の人が出てきた。父の姉だった。全部説明してくれた。脳出血で2回倒れたこと、小さい頃の私の思い出。私と母がある朝突然いなくなっていたこと。養育費を毎月払っていたこと。目が悪い父の母がその額について語りあきらかなため息をつく。父の姉がそれを嗜める。父の姉も父の母も私を責めたりしない。むしろ来てくれてありがとうって言っていた。 複雑だった。この人たちが母を苦しめたことは知っていた。それを、そのわだかまりをまだ私も二人も引きずっていた。過去は精算できないとしても、今日の楽しい思い出を覚えていて欲しかった。成長して、ちゃんと育った私を知って欲しかった。目の見えない老人の腕をとって私の顔を触らせてあげた。それが父方の祖母と会った最後。
 
 父が倒れて入院していること。回復は難しそうなこと。会わないでほしいという父の姉の願い。それは父が退院してからも同じだった。父は明らかに私と会うことを拒み、それを父の姉が私に伝えた。もらったDari K の父の姉が着ていたチョコレートとヴィトンの大きすぎるロゴ。
 私は父と会うことを諦めた。父を傷つけてまで、父の姉を傷つけてまで、病院へ会いに行こうとは思わなかった。私の中の父はその時に死んだ。だから次に会うときはお葬式だろうと思っていた。もしかしたら会いにいけばよかったのかもしれない。間違っていたのかもしれない。
 
 それから4年と少しが経って、父の姉からの電話。訊きたいことはたくさんあった。父親らしいことを何もしていないこと、会ってくれなかったこと、記憶の中にすらいてくれなかったこと。どうして結婚したのか、どうして子供を作ろうと思ったのか。自分の生に疑問を持っていた頃、知りたかったこと。
 
 おそらく食生活もめちゃくちゃでタバコも吸って、自暴自棄になっていたのだろうと思う。医者なのに2回も脳出血を起こすなんて。働けなくなってアパートに篭って電話も電源を切って手紙も読まない。最後は死因すらわからない。
 過干渉な姉からも病気になった自分自身も離婚した過去も全てから目を背けて逃避したのだろうか。状況から推測するに、そうなのだろう。一度くらいは私のことを思い出しただろうか。母と夜逃げしたのは4歳になる前で、名字が変わったのは7歳。その間に裁判までしてあなたは私に面会する権利を勝ち取ったというのに。何のための裁判? 母に嫌がらせをしたかったの?
 
 一度でも会えばいくらか違っていたのだろう。合わなかったために私の想像は止まるところを知らずに広がり続ける。そっちが何も言わないのだから、私が考えてあげないといけない。ずっと二次情報ばかり。私にとってのあなたは、いつも誰かが語るものだった。母や母の姉、祖母、そして父の姉。いつでも会えたのに。
 
 父が死んだこと自体はショックではなかった。ただ、自分の人生を再確認する作業だった。こうやって感じ考え、そしてこうやって生きて死ぬ。両親が揃っている家庭が死ぬほど羨ましかった中学時代のこと。自分の短所を全て父親の不在のせいにしたかった長い年月。一つひとつ思い出して、こんなことを考え続けないといけないことに嫌気が差してしまった。
 
 また父の実家に行く。遺影に手を合わせる。全然知らない顔。数年前に見つけた写真と比べるととても痩せていて同一人物には思えなかった。父の姉は私と父の共通点を見つけ出そうと一生懸命だったけれど、正直鬱陶しかった。父の話を聞いても何もピンとこない。「本当の」父はもうどこにもいないから、聞いても仕方がないなと思う。父の姉によって着色されたエピソードに果たして意味があるのだろうか、とかそんなことを考えている。香典は断られた。受け取らないことにしているみたいだ。もうそれすらも疑ってしまう。私の香典だけ断っているのではないのかと。本当の父をどこかに隠しているのではないかと。だいたい本当に父は死んだのか?
 
 父だった骨にも何も思わなかった。父の姉にも人生があって、その人生にも地獄があるのだろうとは思うけれど、それは共有されることも分り合うようなこともなくて、ただ一瞬人生が交差しただけで、また別の物語が続く。
 
 帰る。最寄り駅まで歩く。関係なかったはずの戦争に巻き込まれて、その戦後処理をさせられている気がした。緑が眩しい。暑い。黒いネクタイを解く。少し腰掛ける。スーツが汚れるかもしれないけれど今はいい。お城がある。友達の出身高校がこのお城の中にあるとか、この街は私の好きなバンドの出身地だったとか思う。思うだけ。
 
 また電車に乗って2時間。家に帰って荷物を置く。服を着替える。そういえば今日は暑かった。シャツを洗う。干す。歩く。歩いても歩いても何もわからない。ただ海まで歩いて風と暗闇を感じる。私の住む街に海があってよかった。波音も海から吹く風も、揺れる草の音も、私を包んでくれる気がした。もう全部どうでもいいかもしれない。
 
 
〈あとがき〉
当然、悪態をつきながら書いています。
読んでくださってありがとうございます。
 
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#176 ミスドで大学生活を振り返ろう(7)東北編

 ミスタードーナツについて自分の大学生活を振り返るこの試みもこれで最後。今回はざっくり「東北編」とした。関西のショップには結構行っているけれど、他の地方のミスドにはほとんど行ったことがない。実は長い間、ミスドは関西によくあるもので、他の地域にはあまりないのだと思っていた。この前、東京に行って、池袋駅に3つもミスドがあることを発見して驚いた。いつか東京のミスドも開拓したいけれど、そんな日々は来るのだろうか。
 ミスドについて書いたこのシリーズは今回でとりあえず終わるけれど、いつかまた再開するかもしれない。ちなみにミスドは全国に960店舗あるらしい。閉店したものも含めて27店舗、このブログでは紹介した。それでも全国の3%にも満たない。
 
 
 
イオン米沢ショップ(ショップNo.0855)

 2018年の1月から2月。免許合宿で行った山形県米沢市。とても楽しかった。何人か友達ができて、いまだに連絡を時々取ったりする。本当に時々。頻度は減ってしまった。ちなみに自分がInstagramのアカウントを作ったのもこの免許合宿がきっかけである。「シゲはインスタ持ってないの?」って良く聞かれたから。
 どうなんだろう。今更ながらあの時の自分は勇気もあって、アクティブだったなと思う。相部屋で誰かと2週間。2018年の自分、結構すごい。なんて2022年の自分は思う。とても雪が降った年で、雪国を知らなかった自分は運転するのがとても怖かった。道路の脇に積もった雪で車線が狭くなり、路面上の標識を信じているだけでは事故になりそうな場所だった。「何をしてる飛ばせ!」と言われて、泣きそうになりながら雪道でアクセルを踏み続けたことも何度かある。教官の置賜弁がわからなかったり、ボソボソ喋るのが聞き取れなくて、その都度聞き返し、車内に気まずい空気が流れたこともあった。

 同室になった友達がラーメン好きで、この頃からラーメンを食べるようになった。友達が教えてくれるメンマの話とか、一緒に食べに行った赤湯の辛みそラーメンも、教官に教えてもらって行った中華そばの店も、懐かしい。いつかまた行きたいし、また友達とも会いたいなと思う。(もし読んでいる人がいたらいつでも連絡してね!)
 

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 雪の積もる世界が面白くて、授業や教習のない日は良く歩いていた。歩くのが楽しかった。上杉神社の、雪のせいで誰かわからない石像の数々。猫の足跡。小学校の横を通りながら、雪国で育つ経験は関西で育つ経験とずいぶん違うんだろうなあなどと思ったりした。

 ウォークマンを持って行っていた。この頃よく聴いていたのがジッタリンジン相対性理論。日常なのに非日常の中にあるようなふわふわした感覚。そんな感覚を持ってずっと歩いていた。雪道を歩いていれば靴がびしょ濡れになってしまう気もするが、そんな記憶もないからきっと大丈夫だったのだろう。ナイキの革の靴を履いていた気がする。
 ミスドは、教習所から見て街の反対側にあった。どうせここでもノートを広げて色々書いていたのだろうと思う。あの頃は色々思うことがあって書くことがあった。
 
 
 
郡山駅前ショップ(ショップNo.1949)

 その免許合宿の帰り、郡山を通った。郡山からしか関西に向かう夜行バスはなくて、米沢から福島駅、そして郡山駅。友達が銀山温泉に行かないかと誘ってくれたのに「もうバスのお金を払っているから」と言って断ったのをまだ後悔している。数時間後にラインのグループチャットが動いて友達が雪の中の銀山温泉の写真を送ってくれた。同じ時間に私は郡山市内をぶらぶらして、全く雪のないことに驚いていた。電車に2時間乗っただけでこうも世界が違うなんて。米沢市にいた2週間で雪に慣れてしまっている自分にも驚いた。

開成山公園
 本当に意味もなくただただ西へと歩いて、開成山公園でぶらぶらして、また駅まで引き返した。やることがなくて、駅前でラーメンを食べた後は、ツバメノートのお気に入りのやつを買って駅前をまたぶらぶらしていた。夜行バスの時間は遅かったから、まだ時間が余っていて、結局ミスドに入ることにした。やっぱり銀山温泉に行くべきだっただろうかと考えながらコーヒーを飲み、ノートを書いていた。店内には数人しかいなくて高校生が勉強していた。
 
 時間が来て、駅の東西を結ぶ連絡路を通って駅の西口から東口に行った。郡山駅の東口は、真っ暗で、深夜とはいえまだ明るい西側と比べるとなんだか悲しくなってしまうような光景だった。雪が降ってきて、これならばもう少し長い間ミスドの暖かい店内にいればよかったと思った。オレンジ色のナトリウム燈に雪国らしさを感じ、降る雪を見上げながら、仲良くなっても別れないといけないことの悲しさについて考えた。まあでも人生ってこんなもんだよなって思って、夜行バスに乗った。あまり寝れなかった。

ナトリウムランプって世界で一番綺麗なものの一つだと思う
 
 
 
仙台勾当台ショップ(ショップNo.0528)

 何回来たかわからない。仙台に行くたびに来ているような気がするし、一回しか来ていないような気がする。いつも2階のカウンター席で食べる。商店街を歩く人を見下ろしながら。
 ウィキペディアにあるミスタードーナツの記事には「仙台市にあるミスタードーナツの店舗」として、店舗外観の写真がある。少し勾当台のミスドと外観は似ているけれど別の店舗。写真の店舗はもう閉店したらしい。
 今もいるのかはわからないけれど、仙台で学生をしている友達がいて、仙台に行くときはその友達に連絡して良く会った。彼の部屋で飲んだアルコールの味とか、話したこととか、まだうっすら覚えている。でもいずれ忘れるだろう。悲しい。
 最後に仙台に行ったのは去年の10月。その前は2022年の3月。すぐにでも仙台には行きたいけれど、友達がまだそこにいるか定かではないし、それに今はお金がない。
 仙台の思い出は本当にキリがない。駅東側にいい中古書店があったり定禅寺通りのけやきが綺麗だったり。勾当台公園の近くには美香園という広東料理のお店があって、わざわざ有名らしい麻婆焼きそばを食べに行ったこともある。牛タンとかずんだ餅とかではなくて、麻婆焼きそばを選んだのは、普通に尖っていたのだと思う。他とは違うことがしたかったんだろう。一応、ゲストハウスの人に訊いて手頃なお店に行って牛タンを食べたこともあるし、駅構内にあるハチでナポリタンも食べたことはある。ハチのナポリタン、時々サンドウィッチマンがテレビで紹介するお店。


絶対に美味しいので迷ったら食べるべき

定禅寺通り

せんだいメディアテーク
 2020年の3月。栗原市に向かう前に仙台を歩いた。見つけたミスドに入って時間を潰して、待ち合わせた友達とハチで食べた。悠長にコーヒーを飲むつもりが、予定より早く友達が用意してくれて、急いで店を出た気がする。この頃からミスドはプラスチックのストローを廃止しようとしていて、そういった「お知らせ」をレジで渡されたように思う。ああ仙台。また行きたいなあ。
 
 
〈あとがき〉
とりあえずミスドについて大学生活を振り返る企画はこれでおしまいにします。「こんな企画をやってほしい!」といったご要望があればコメント欄に書いてください。
なんか、お腹空いてきましたね。
 
 
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#175 ミスドで大学生活を振り返ろう(6)京都編

 もしこの地球上にミスタードーナツがなかったら、私の青春時代は違っていたのだろうと思います。もしミスドがなければ、きっと私は他の場所、例えばサイゼリヤコメダ珈琲なんかに行っていただろうとも思います。
 その場合、ミスドでコーヒーをおかわりする代わりに、ドリンクバーのジュースを混ぜ、豆菓子を摘んでいたのでしょう。その人生も、それはそれで楽しそうだと思うけれど、私の人生にあったのはミスドで過ごした時間でした。センスのいい有線がかかる店内と、コーヒーの匂いと黄色いトレイ、手の届きやすい価格のドーナツ。全部大好きです。
 
 
出町ショップ(ショップNo.0172)

 大好きなバンド Homecomings は京都精華大の出身。大学生になって初めて行ったライブは彼らのライブで、梅田シャングリラだった。私は何者かになりたいと強く思っている最中で、大学もつまらなくて、でも何をすればいいのかわからない時だった。音楽と映画と小説にのめり込んで、わかったような気になっていた。

shige-taro.hatenablog.com

 まだ Homecomings のメンバーは京都に住んでいて、FM802 によく出ていた。ギターの福富くんは(福富さんと呼ぶべきなんだけど、私の中でFM802土井コマキさんが「福富くん」と呼ぶのが好きなので、私もここでは福富くんと書きます。嫌な気分をする人がいたらごめんなさい)河原町オーパの9階にあるタワレコで働いていた。私は行ったことがないけれど、福富くんはラジオでそう話していた。一度十三のファンダンゴで話しかけられたことがあって、その時はドギマギしてしまってうまく話せなかった。次会う時はちゃんと話したいと思っていたけれど、最近はライブにもイベントにも行けてない。Twitter やラジオのトークでバンドのメンバーがおすすめするカレー屋をチェックしたり、歌詞に出てくる映画を観たりしていた。

homecomings.jp

『愛がなんだ』で Homecomings が主題歌を担当したときは嬉しかった。友達とテアトル梅田まで観に行った。ヒットしている映画の主題歌を、好きなバンドが担当するなんてそうそうないことだ。今泉力哉監督は2021年の『街の上で』ではラッキーオールドサンの曲を主題歌にしているし、もう少し前の『退屈な日々にさようならを』ではカネコアヤノが主題歌を歌って出演までしている。最近好きになったトリプルファイヤーも今泉監督の『サッドティー』で主題歌を担当していた。恋愛は苦手だけど、少なくとも音楽の趣味では、何かしら監督と似ている部分があるのだと思う。

出町柳駅からだと川を渡っていくことになる
 Homecomings のホームページには『愛がなんだ』の主題歌「Cakes」について福富さんが書いた文章がある。そこには出町柳ミスドで歌詞を書いたエピソードがある。
 2021年4月、京都に住む友達を訪ねた時、ここで彼と待ち合わせた。もうホムカミは東京に進出していて、昔みたいに英語だけで歌詞を書くこともなくなった。でもその日、私は友達と出町のミスタードーナツで食べて、近くの映画館で映画を観た。
 
 
丹波の里ショップ

丹波の里やまがた屋は2020年にコロナ禍の影響で閉店してしまった

季節限定のドーナツたち

 2017年の年末から2018年の年始にかけて、京都の農場でアルバイトをしていた。アルバイトは楽しかった。毎朝起きて農場で働いて寝る。それだけの生活。寮があって、そこから長靴で走って3分で農場。最初の週に2回遅刻してしまい、農場長は1時間遅く出勤してもいいと言ってくれたのでそれに従った。懐かしい思い出がいくつもあって、全部は書けそうにない。水菜を洗いながらパートのおばあちゃんと話したこと。パートの人の昔話。廃棄のトマトで作ったピューレ、毎日食べていたカレー。

最寄り駅まで歩いて1時間半
 一番近いスーパーマーケットまで歩いて40分かかった。阪神電車だと2駅分である。週に2回ぐらい寮に住んでいる社員さんが私をスーパーまで車で連れてってくれた。大学生になって色々な地域に行くようになって、ようやく車がないと暮らせない地域のことがわかった。
 時々、夜にスーパーまで歩いた。暗い道を心細い思いをしながら歩いた。高速道路沿い大きな古墳があって、向こうにあるサービスエリアが明るかった。農場まで戻ると、ビニルハウス内は植物の成長を進めるための照明がついていて、戻ってこれたことを感じるのだった。

夜の道は真っ暗

毎朝こんな景色を見ていた
 休みの日は近くの大きな公園を歩いたり、山に登ったりした。「丹波の里」という道の駅にミスドがあって、よく行った。クリスマスの日にここでドーナツを食べたのを覚えている。ドーナツを食べて、ノートを書いていた。

野菜の絵を描いていた。
 
 
 
JR京都駅ビルショップ(ショップNo.1947)

駅の中のミスド
 2018年の2月。父親の家族に京都駅で会った。休学が終わる頃のある日。15時からの約束だったのに私は時間を勘違いして午前10時に京都駅についてしまった。どうしてそんな間違いをしたのか不思議だけれど、きっと気が動転していたのだと思う。仕方ないから駅の周辺を歩いた。東本願寺にも西本願寺にも行った。それでも時間が余るからラーメンも食べた。

西本願寺の大銀杏

shige-taro.hatenablog.com

 それでも時間が余るから、ミスドに行った。京都駅は建物のデザインがかっこいい。北改札で降りるとSF映画にも出てきそうな世界がある。銀色の金属がたくさん。光沢のあるタイルでできた壁。ガラスの向こうには近代的な京都タワーがあって、その日は。ステレオタイプの日本を心に抱いてやってきた人は驚くかも知れない。

改札前で待ち合わせる人々
 駅構内のオープンテラスにもミスドがあった。コーヒーとドーナツを買って食べる。行き交う人を見下ろすカウンター席。私のいる場所から下の改札まで冷たい風が吹く。コーヒーのカップを両手で抱えながら今日はどんなことを聞かされるのだろうと考えていた。
 
 時間が来て、ミスドのある場所からエスカレーターで降り、改札で待った。程なく父親の姉と、その娘が来て、駅からつながっているホテルの喫茶室で紅茶を飲んだ。切れ切れにしか覚えていない。覚えているのは、父親はもう会いたくないと言っていること。退院したものの障害が残って、彼は仕事を辞めざるを得ないこと。今はどこか1人で住んでいること。バレンタインが近いからと従姉にもらった Dari K のチョコレートも父の姉の服についた大袈裟すぎるルイヴィトンのロゴも覚えている。ケーキセットにしたかどうかも覚えていない。かなりぼんやりとした記憶。高次脳機能障害という馴染みのない言葉をその日知った。

SF映画に出てきそうだなといつも思う
 京都駅のミスド近鉄の方にもあって、そっちの方がミスドっぽいのだけど、一度行っただけで特に思い出はないので今回は書かなかった。
 
 
 
阪急桂駅前ショップ(ショップNo.0497)

 これはだいぶ後で、2022年の2月。やだっちと行った。長岡天神駅で降りて桂まで歩こうっていう思いつき。でも、寒すぎた。そして眠かった。
 大学を卒業したらもう会えなくなるなあと思いながら歩いて、でも眠いから途中でバスに乗った。お昼に食べた中華料理でお腹が一杯で、バスに乗ったら寝てしまった。私は誰かといるのに良く寝てしまう。起きてから悲しくなる。話せたかも知れないことや、交わせたかも知れない何かが失われたことに思い至って、泣きそうになる。サークルの飲み会でよく寝てしまって、起きた後よく泣いていた。
 洛西バスターミナルというところで降りようと言って降りる。ニュータウンがあって、高島屋がある商業施設があった。コーヒーを飲むか迷って飲まなかった。本屋と100均と小さなゲーセンがあった。ただそれだけのニュータウン。綺麗な並木道に風だけが吹いていた。
 バスが来てまた寝てしまう。桂駅でとりあえず降りる。京都市内にいくには時間が遅過ぎて、だから駅前のミスドで食べた。その日はまだウクライナでの戦争が始まる前で、だから呑気に秋の留学までに何をしようかなあなんて計画を立てていた。

この日の写真が全くなくて少し後悔している
 
 
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大根

#174 ミスドで大学生活を振り返ろう(5)大阪編

 私とミスドが出会ったのは尼崎の駅前にある伯父と伯母の部屋に居候していた頃です。あの頃、彼らが楽しそうにミスドの箱を持ち帰り、ドーナツをお皿に配るのが楽しみでした。当時の伯父は資格の勉強をしているものの、社会的には無職で、生計を立てていたのは伯母でした。彼ら夫婦は何か良いことがあるとドーナツを買いに行き、みんなで食べるのでした。それは、本当にささやかな楽しみという感じで、暮らし向きが良くなった現在に思い出しても、うっとりしてしまうような時間でした。後から生まれてきた従姉妹たちはあれを経験していないと考えると少し複雑な気分になります。
 きっと辛い日々だったと思うので、あの頃に戻りたいと家族の誰も思っていないでしょうが、時々懐かしくなります。あの頃のミスド原田治とコラボしていて、みんなでドーナツをたくさん食べて手に入れたオサムグッズのお皿が私たちの食器棚にはあります。
 
 
 
十三西口ショップ

神戸方面行きのホームから近い方が西口

売店はラガールショップからアズナスと変わり、今はローソンとなっている
 西口のミスドファンダンゴ側にある。あるいはシアターセブン側とも。ミスドは今は無くなって、跡地にはマクドナルドができた。ライブハウス、ファンダンゴも堺に移転してしまった。急速に拠り所が消えた気がして、何か悲しい。

早朝の十三西口

ホドロフスキーオールナイト!
 西口のミスドとの思い出はシアターセブンとの思い出。よく覚えているのは2018年の2月。休学が終わるころ。その頃、アレハンドロ・ホドロフスキーというチリの映画監督にはまっていた。シアターセブンで彼の作品のオールナイト上映会があった。上映されたのは3本。『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』『リアリティのダンス』
 3つ目の『リアリティのダンス』が一番観たい作品だった。監督の自伝的作品で、チリ北部の港湾都市トコピージャで育つ監督の幼少期の話で、最新作『エンドレス・ポエトリー』に繋がる前日譚でもあった。
 
 正直『エル・トポ』も『ホーリーマウンテン』は内容はほとんど覚えていない。『エル・トポ』はガンマンが主人公の神話的な作品で、『ホーリーマウンテン』は延々と詩的な映像が続いた。物語があるのかないのかわからなくて途中で睡魔に負けて寝てしまった。2つとも私には解説が必要な映画だった。聖書に詳しければもう少し楽しめたのかも知れないと思う。未だに聖書は読めていない。

オールナイト前の腹ごしらえ
 オールナイト上映会なのだから、眠くならないようにコーヒーをたくさん飲んでおこうと思って、ミスドに入った。寒くて、奥の方のトイレに近い方の席に座った。40代の女性が二人、近くの席で話していた。彼女たちは同じ高校の同級生で、何年かぶりに会っているようだった。同級生の安否や近況を3時間以上も確認していた。それは楽しそうであった。会話の端々から滲み出る生活の香りや、人間関係の歴史が、盗み聞きしている私の心を揺れ動かした。彼女らの話を聴きながら私は親友のことを思った。親友と会ってミスド焼肉屋で繰り返す会話の先に、この二人の会話があるような気がした。今でも時々あの寒い日のミスドを思い出す。知らない人の高校時代の話を聴いて、私は我々の将来について想像していた。私も彼も、まだ関係は続いているけれど、連絡する頻度はだんだん減ってきた。いつか数年ぶりに会って、あの日の二人のように話すのだろう。

淀川
 オールナイト上映が終わって早朝の十三の街に私は吐き出された。燃え殻のようになった繁華街。灰色と紺色の間にある空の色。淀川沿いを歩いて帰った。
 
 
 
十三東口ショップ(ショップNo.0555)

外が見えるのが良い

 たくさんの人と行った。ロシア語の同級生。バイトが同じだった人。いなくなってしまった人、好きだった人。散歩の終わりに寄ることが多かった。なんだかんだ思い出のある場所。西口のミスドが閉店になったから、東口のミスドを使うことが多かった。東口も西口とはそんなに大きくは変わらなくて、やはりにぎやかな商店街がある。ラーメン屋がいくつかとドラッグストアがあって、西口よりも人の生活が感じられる気がする。

十三周辺は細い路地があったり急に高級そうな店があったりして面白い

商店街の中にある店

 東口のショップは駅前の角に立っていて、2階に大きな窓がある。なので行き交う人が見える。阪急の線路の下の少し低くなっているところから出てくる自転車や、パチンコ屋の前で座っている男の人たち、スーツ姿で足早に歩き駅へと吸い込まれる人。いろんな人がいて人間観察をしているだけで楽しい。大学生活最後のセメスターは十三を経由する定期券だったので、授業が午後からの日は早起きして授業前に寄ったりしていた。誰もいないミスドの2階に流れる雰囲気が好きだった。

これも東口から少し歩いた場所
 開業してすぐにコロナで閉業したゲストハウスがあって、そこでのイベントの帰り道に寄ったこともあった。そのゲストハウスがあったのは一瞬なのだけど、そのイベントのおかげで未だにつながっている人がいる。不思議だ。

ミスドの階段から見える十三駅
 
 
福島大開ショップ(ショップNo.1484)

阪神淀川駅のホーム

駅構内から

お店の外観
 去年の10月に一度だけ行った場所。淀川の近くにある。知名度も低い阪神淀川駅という駅の近くにある。その名の通り淀川沿いにある駅で、何かしらの工事をいつもしている場所。去年の秋から私は橋や高架が好きになっていて、青い空を横切る高速道路がカッコよくて、何枚も写真を撮った。駅前にあう商業施設の1階にミスドはあった。別になんてことない駅前のなんてことない午前。もう10時なのに店内には朝刊を読むお婆さんしかいなかった。私はぼんやりと文章を書いて、昼過ぎまでいた。

オールドファッションと苦目のコーヒーが美味しいのだ

むぎゅっとドーナツも美味しいのだ

 

 交通事故で入院した後で、リハビリのためにひたすら大阪市内を歩いている時期だった。この日も午後の大阪の街を歩いた。確か友達のお母さんに教えてもらった野田の古本屋に行った。林芙美子を買ったと思う。まだ読んでいない。

 
 
福島ショップ(ショップNo.0008)

踏切とミスド

少し離れた南側にある天満宮金木犀が綺麗
 大学のサークルにいた2016年と17年。毎月2回、土曜日にサークル全体のミーティングがあった。
 私の大学は、中之島にも施設を持っていて、そこでミーティングが開かれることがあった。何度か遅刻し、何度かみんなの前で発表した。発表する日に遅刻したこともある。サークルの先輩がセミナーだか勉強会のようなものを開いていたこともあった。
 自宅からは福島駅で降りて中之島まで歩くのが一番リーズナブルだった。ここにもミスドがあるのだからいつかここでもドーナツを食べたいなと思っていたが、結局まだ一度も行けていない。
 サークルのミーティングの後も、みんなと梅田まで歩くことが多かった。福島で電車に乗っても梅田で電車に乗っても時間も料金もそんなに変わらないのだ。リハビリのために大阪や神戸を歩いていた時も、ミスドでコーヒー飲む時間があるならもっと歩きたいと思って、福島のミスドには入らなかった。梅田で誰かと出会った帰り、時々野田や福島、場合によっては尼崎まで歩いたりするのだけれど、途中でいつも福島と野田のミスドに入るか迷う。迷ってやめる。
 サークルに所属していた頃を思い出す。あの頃は尖っていたと思う。人とは違う自分を意識するあまりに、突飛なことを言って周りを傷つけた。結果的に自分の可能性をも狭めてしまったように思う。もったいなかったと思うし、今からでもやり直したいと時々思う。本当に時々。

リハビリのための散歩では靱公園にも良く行った。
 
 
梅田東ショップ(ショップNo.0113)

 メガネを買ってから行った。大阪の街を歩くようになって、なんとなくここの場所もわかるようになった。大阪の東側は結構難しくて、今でも梅田から梅田東ショップに最短距離で行けるかどうかは微妙である。ミスタードーナツは都会の中心ではなく少し離れた場所に店舗を置く傾向がある。ここもそう。梅田とはいえ、周りにあるのはオフィスやマンション。誰かの会社からの帰り道にあるショップなのだと思う。
 卒業祝いということで母親に難波でメガネを買ってもらい、定食を食べ、散歩がてらここまで歩いた。歩くのが好きな人が親でよかった。これも時々思う。二人でロイヤルミルクティーを飲んだ。

中央公会堂
 
 
 
梅田阪急三番街ショップ
茶屋町ミスド」と単に呼んでいた。浪人時代は悲しいことよりも楽しいことの思い出が多い。きっと充実していたからだと思う。時々、授業後に友達と予備校を抜け出してここのミスドに行った。かっぱ横丁なる通路があり、水槽がいくつかあって、汚い水質の中に魚が泳いでいた。ミスドがあった場所には、今は別のカフェが入り、水槽も無くなって阪急沿線の施設を表現したレゴブロックが飾られている。
 親友とここでも何回か話した。高校時代の話を何度となく蒸し返し、同級生の悪口を言ったりした。古典の予備校教師のことで軽口を叩いたり、世界史の先生が教えてくれた単語の覚え方を共有したりした。本当にとりとめもない話。いつかオノヨーコの話をしていたら、ヨーコそっくりのマダムが近くの席について笑ってしまったこともあった。ここでの思い出を全部書くと本当にキリがないけれど、思い出の中の大事な場所だ。大学に入ってすぐ茶屋町ミスドは無くなってしまったけれど、まだ私の中には残っている。彼も覚えてくれていたらいいけれど。
 
 
【今日の音楽】
十三ファンダンゴで昔みたライブ。Not Wonkは苫小牧のバンドです。
 
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#173 ミスドで大学生活を振り返ろう(4)北摂編

 ミスド、おかわりができるのがいい。最近はコーヒーとカフェオレ、それに紅茶をドリンクバーで提供するお店もあって、ますます手軽におかわりができるようになった。おかわりをすればするほど、長居できるわけである。そして、トイレにも行きたくなる。ドリンクバーのコップは、耐熱の紙コップ。たっぷり入るのだけどしばらく飲んでいると、ミスドの陶器のカップが懐かしく感じられるようになる。不思議だ。
 今回紹介するミスドは外国語学部のキャンパスに近い4つのショップだ。大学の思い出とバイトの思い出が多めである。
 
 
小野原ショップ(ショップNo.0500)

一時期、食べかけのドーナツに芸術性を見出していた

 旧箕面キャンパスから最も近い場所にあるミスド。旧箕面キャンパスは、本当に山の中にあった。周りにあるのは住宅地と田んぼだけ。15分ほど歩けばモノレールの駅があって駅前には大きなスーパーとなぜかファミリーマートが2つもある。外国語大学だった頃は、この箕面キャンパスが本キャンパスで、学生は周辺に下宿していたと思うのだが、何も楽しみがなかっただろうと思う。実際、筑波大学と並んで学生の自殺者数が多くて問題になっていたらしい。A棟の何階にお化けが出るとか、お盆の時期に無数の幽霊が外大坂を降りていく話とか、不自然な位置にある自動販売機はその下に血痕を隠しているとか、そういうのがまことしとやかに語られていた。在学中の目撃談を授業中に語る、デリカシーのない先生もいて、授業中に気分が悪くなったりした。

誰も使わなくなった弓道場に竹林が迫る

 大学を辞めようとしていた頃は、将来に対して明るい気持ちを持てなくて、自分もいつかここのキャンパスで自殺したくなるのだろうかと思っていた。2018年も2019年も、高い階まで上がって窓を開けたら直ぐじゃないかと思っていた。でも前例があるから、どの階もどの窓も鍵は厳重に閉まっていた。

箕面キャンパス
 2020年、私は旧箕面キャンパスから徒歩10分の場所に住んでいた。時々夜中にキャンパス内を散歩したりした。大学の授業が全てオンラインになって、誰とも話せず、眠れなくてよく歩いていた。大学をウォーキングのコースにしている老人や、尾の丸まった白い猫がいた。一度なんか、下宿を出たところで鹿に会ったこともある。その時はびっくりしたけれど、驚いたのはきっと鹿も同じだったと思う。映画『スタンド・バイ・ミー』で主人公が鹿と出会うシーンを思い出した。
 

夜の旧キャンパス
 外大出身の人の昔話を聞くと、結構みんな小野原で遊んだみたいだ。吉野家マクド、ケンタッキー。学生時代の話を聞くと結構教授は小野原のことを話したりする。
外国語大学が編入されて外国語学部になるのは2000年代で、おそらくその時まで小野原は学生にとって重要拠点だったのだと思う。本キャンパスと箕面キャンパスの間をつなぐ連絡バスが運行されるようになってから、阪急沿線に住む人が増えたのだろうと思う。一度、学生生協で、新入生に物件を紹介するバイトをしたことがあるのだけれど、旧箕面キャンパス周辺は他のエリアと比べると家賃がとても安かった。私が住んでいた家もひと月30000円もしなかった。

住んでいたアパートの駐輪場
 そんな旧キャンパスから小野原まで、歩くと半時間かかる。気持ちいのいい日はいいけれど、雨の日は最悪だった。別にほとんど歩かなかったけど。
 バイト先で夜勤を終えて原付で移動し、小野原のミスドでモーニングをするというのが2019年のルーティーンだった。時間割の関係で夜勤に入れるのは火曜日が多かった。水曜はスペイン語の授業があって、毎週、水曜の午前はスペイン語の予習を慌ててやっていた。店を出る前にドリンクバーの紅茶を紙コップに入れてバイクに乗るのだった。
 久しぶりに会ったゴビゴビ砂漠くら寿司に行き、長く話したのもここ。彼とは6年の付き合いだけど、2020年から2021年にかけて、よく話したおかげで仲良くなった。隣にあるマクドにも何度か行った。

 
 
箕面ショップ(ショップNo.0001)

箕面の滝は人工って誰かが言ってた
 ローソンの1号店は豊中に。そしてミスドの1号店は箕面にある。ミスドの1号店、元々の店舗は残っていなくて、最近に新しく建った店舗の壁に、ミスドの歴史が書かれていた。そしてその横で普通にドーナツを食べられるようになっていた。ナポリの釜と同じ店内で、ドーナツを食べて美味しいと思っていたらピザの匂いがして、食べているのにまたお腹が減ったりする。
 今もあるのかはわからないけれど、私の高校には、在学中にバンドを組んでいた人が卒業時にライブをするという慣習があった。私の代のサッカー部でもバンドを組んでいて、浪人が終わった時に、後輩の卒業ライブに出た。練習するスタジオが箕面駅の駅前にあって、大学入学前の3月にそこに行って、みんなの演奏を聴いた。2曲だけ私も歌えることになって銀杏BOYZ の「BABY BABY」と RADWIMPS の「もしも」を歌った。どっちも拗らせてる男の子の歌だけど、その時はいい曲だなって思ってた。箕面駅に降りるたびにそんなことを思い出す。
 他には後輩と箕面の滝まで歩いたこととか、高校の時に部活動でグラウンドから滝まで走ったこととか。友達がオールのカラオケボックスで教えてくれた箕面の滝の近くの心霊スポットについても書きたいけれど、ミスドと関係なくなってしまうのでここらでやめておこう。

zenfone で撮った写真。色合いが他と違う

何か見えたりしますか、、、?
 
 
 
南千里駅前ショップ(ショップNo.1922)

これだけ注文して夕方まで粘っていた
 ここのミスドに行った回数はかなり多い。山田駅北千里駅の間にある場所でバイトをしていた時代があって、その頃よく行った。夜勤が主なバイトで、夜勤明けに歩いて南千里まで歩くのだった。千里周辺は50年前に山を切り開いて作った住宅地なので、自然が豊かで大きな公園があって、坂が多い。高度経済成長期に土地を売ったお陰で、孫の代まで何もせずに暮らしている一族がいるらしいと聞いたことがある。本当だろうか。

通り道にある苔だらけの欅

ここを何度も通って鉄塔が好きになった
 バイトの夜勤が終わる。学校には行かないことにする。ホームセンターとマックを通り過ぎ駅までの坂を登る。駅と駅前の美味しいパン屋を通り過ぎる。小さな梅林があって、「記念樹」と書かれた碑がある。
 ここを通るたびに記念樹って迷惑だなと思っていた。記念に植えた人が木の世話をすることはほとんどないだろうに、記念碑は植えた人のことだけを記す。なんか変だ。記念に木を植えるというのもピンとこない。記念のために植えた木が成長するにつれて、その人の記念も大きくなるのだろうか。木を植えるというアイディアだけが大事にされているように思う。

「記念樹」は阪急の線路沿いにある
 線路沿いに歩いていたのに、阪急電車はいきなりトンネルに入る。トンネルの上には公園があって、結構な量の木があって森のようだ。当時の私は公園でよくウォークマンを聴いていた。朝の公園を歩きながら相対性理論を聴きながら、浮遊感を楽しんでいたのだろう。ジッタリンジンもよく聴いた。小沢健二も結構聴いた気がする。

13年使ってるウォークマン
 ドリンクバー形式でコーヒーやカフェオレ、紅茶がおかわりできるので、面白くて何杯も飲んだ。窓があって外を歩く人を見ていた。南千里駅前の同じ並びにはスタバがあったけれど、結局入れずじまいだった。人生を通じてスタバに行ったことがほとんどない。クーポンをもらった時と、海外の空港でトランジットする時にしか使ったことがない。

どうすれば鉄塔をかっこよく撮れるか考えていた
 南千里ミスドで何を考えていたのか思い出そうとするけれど、ほとんど思い出せない。当時の日記を見直そうかと思う。バイト明けにこのミスドに行ったある日、今日がセンター試験だということに気づいた。阪急千里線には試験会場の大学があって、帰りには受験生がたくさん乗っていた。当時の私は大学に全く行ってなくて留年が決まっていた。つり革に捕まって私は何を考えていたのだろう。どうせ憂鬱そうな自分に酔っていたのだろうな。

南千里の駅前
 
 
 
千里中央セルシーショップ

店内の様子
 ここもバイトの思い出。ある日、千里中央から歩いてバイトに行こうと思ったのだ。別に最寄駅でもないし、近いわけでもない。でもその頃は歩きたくて歩いた。長いので数回しか歩かなかったけれど。大学に行けない自分にも大学にもムカついていて、何かしらの発散が必要だったのだと思う。

窓から
 千里中央周辺は、大きな道路があって、南北が分断されている。元々山だった場所なので坂が多くて、自転車も徒歩も大変だと思うのだけど、なぜか人は住む。不思議だけど、そういうのって住めば慣れるものなのだろうか。
 千里中央のセルシーは耐震の問題で建物が閉鎖されて、ミスドも閉店した、らしい。人からそう聞いた。千里中央駅を定期的に利用していたわけではない私は、気がついたらミスドが閉店していた。千里中央に下宿していた友達はよく使っていたダイエーが閉店したと残念そうに教えてくれた。

 小野原と南千里ミスドは、バイト後に行ったのだけど、ここのミスドはバイト前に行った思い出。2018年は大学がつまらなすぎてバイトだけが楽しかった。もっと専攻語の雰囲気が楽しかったら、先生同士が仲良さそうだったら、大学楽しかったんだろうなと思う。せっかく卒業できたのに、なんだか恨み節が多くて悲しい。
 大学の新しいキャンパスは千里中央から歩いて20分のところにできた。原付を手放し、実家から通うことになった最後のセメスターは時々千里中央にも行った。卒業する日までを数えて、なんだかしんみりした。
 セルシーのミスドは閉店したが、代わりにテイクアウトだけのショップがせんちゅうパルの地下にある。

 
 
【今日の音楽】
 
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#172「東京に来たら連絡してね」

 せっかく東京に来たのに暑かったり寒かったり雨だったりで、毎日疲れている。なんだか昔より体力がなくなってしまったような気がする。金曜日、暑い中神保町で本屋を巡り、ゲストハウスにもどってスーツで企業説明会を受け、シャワーを浴び、それからまた出かけて友達と新宿で会った。気温が高い日で、最高気温は26℃とか。金曜の夜で歌舞伎町にはたくさんの人がいた。イベントがあったのかホストの軍団が路上で出ている区画があって、そこを歩くときはみんな警戒しながら歩いた。

新宿の空
 次の日もやはり暑かった。モーニングを友達と食べる予定で早くにゲストハウスを出たのだけれど、説明会があるからスーツで移動しないといけなくて余計に汗が出た。市ヶ谷駅が複雑だった。地下鉄が3本通っていて、JRもある。おのぼりさんには難易度が高い。やっと見つけた出口から地上に上がり靖国通りをテクテク歩いて15分。不安症なので荷物が多い。手提げ鞄の重量と用意した朝の自分に悪態をつきたくなる。待ち合わせたカフェの前に見覚えのあるシルエット。やあ久しぶり。待たせてごめん。
 
 座る前にハンガーにジャケットを掛けたのだけど、ワイシャツには汗染みで世界地図ができていた。友達はもしかしたら目のやり場に困っていたかもしれない。後から気づいて申し訳なくなった。モーニングは美味しかったし、社会人となった友達からもらった名刺のデザインは綺麗だった。なんだか緊張していて、いつもなら味わって飲むコーヒーを何も考えずに飲んでしまった。最近家で飲む種類のコーヒーと違っていて美味しく感じた。気がする。イングリッシュマフィンも間にあるとろりとした卵も美味しかった。優しい味。

 色々話す。就活のこと。同じ専攻語のこと。愚痴とか最近誰と会った話。とりとめもないと言えばそう。安心してそういう会話をできる関係性は、大事なのだ。最近知った。「おもろい会話」をしないといけないと思い込んでいる節が私にはあって、そういう強迫観念が時々顔を出して私を苦しめる。目先の笑いがほしくて言いたくもないことを言ってしまう。後になって口が悪かったと反省する。
 
「お店を出ましょうか」とお互いの意思を確かめる瞬間。どちらからともなく言い出す。色んな要素。お互いのコップが空だとか、お店が混んできたとか。ひと段落した話題、トイレに行くタイミング。なんとなくお互いに「もうそろそろ店を出てもいいかな」と思っている。どちらかが言い出して、暗黙の了解が、日の光の下に出る。
 
 さっきまでの暑さが嘘のように霧雨が降っていた。奢ってもらったお礼を言って九段下まで歩く。湿度のせいで千鳥ヶ淵と皇居は煙が立ち込めたようにもやがかかっていた。もう少し歩こうかと言って神保町まで歩く。まだ10時台で開いている古本屋は少ない。開いている本屋を見つけてロシア文学の翻訳とか、文学者研究の本とか見てるうちに時間が来て、私は企業説明会に行くことになった。

金曜日、ここでヤーシンの本を買った
 
 誰かと別れるとき、電話を切るとき。正解がわからなくて困る。この一瞬が終われば私はあなたを忘れてしまう。多分あなたも私を忘れる。とても苦しい。悲しい。別にそこまで親密ではないし、守るべきライン、守ってほしいラインがあるのもわかる。このままさよならで、何ヶ月も会わない。もしかしたら何年も。何かが失われる気がする。可能性の青いドアが閉じる音。

「毎日会ってないと、究極どうでも良くなる」
そう言い放った Cを思い出す。COVID19が来た最初の季節。2年前の春が終わる頃、メインキャンパス近くのインドカレーを食べて、大学周辺を散歩した。阪急電車の高架下を歩いて適当に見つけた公園でブランコを漕いだ。Cは極端なやつだけど、でもその気持ちは私もわかる。一度会わない期間が続くと、その人との関係がどうだったかわからなくなる。思い出せないというわけではなくて、親密だったかどうかがわからなくなるのだ。親密さを測る完全な指標なんて存在しないから、結局は連絡の頻度や会った回数を数えてしまう。もっと目に見えないものを大事にしたいのに。

 
 地下鉄は走ってく。黒い窓を見ながら、さっきの会話を一つひとつ思い出してみる。やはり緊張していたのだと思う。駅から遠すぎるとか、暑すぎるとか、言わなくてもいいことを口走っていたことを反省する。傷つけなかったかどうかをチェックする。傷つけたくない。私はもう誰も傷つけたくない。誰にも会わずに家に一人でいた頃は、誰かを傷つけるくらいなら一人で死ぬ方がマシだと思っていた。自分のせいで傷つけたくない。

東京のどこかの駅
 また会いたいと思ってもらえるような人間でいたい。
「東京に来る時は連絡してよ!」みんなそう言ってくれるけど、本当のところはどうなんだろう。その言葉通りに受け取っていいのか迷う。内心では嫌われているのではないかと疑ってしまうから。結局のところ、自分が相手を信頼してないということなのだろうか。あるいは、言葉と内心が違う人に囲まれて育ったからだろうか。
 
「東京に行くときに連絡する人」のぼんやりとしたリストが私の脳内にはあって、時々自分の記憶力の良さを呪いたくなる。連絡しようと思ったりもするけれど、嫌われてる可能性も忘れられている可能性もあるから、チャットやDMの送信ボタンは押されないまま。自分が嫉妬深いことや、忘れることが苦手であることに悩む。悩みながら、自分は人が好きであることをまた確認している。

企業説明会に行く道
【今日の音楽】 
 
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#171 ミスドで大学生活を振り返ろう(3)池田・石橋・豊中編

 ミスドがいいのは、おかわり自由のシステムがあること。ブレンドとカフェオレ、それにミルクティーを頼めばいくらでもおかわりできるのだ。何杯飲んでも何時間いても料金は一緒。このおかわり制度があるから何時間でも居座る理由になる。貧乏くさいとは思うけど、本当に一日中居座ったこともある。最近はもうしないけど。全然関係ないけど、ロイヤルミルクティーの「ロイヤル」ってどこから来てるんだろうと疑問に思ってから、かれこれもう10年近く経つ。誰か語源を知っていたら教えてほしい。
 ミスドで大学生活を振り返る第3回目。今回は大学の本キャンパスに近い3つのショップについて書く。
 
 
阪急池田ショップ(ショップNo.0118)

いつも塩素の匂いがする
 私の高校から最も近くにあるミスド。なので親友Jとは学校帰りによくだべった。お互い2年生までは部活で忙しくて、3年生になってからよく喋るようになった。このミスドがなければ、カフェでダラダラなんてしない高校生活だったかもしれない。一人でぶらぶら歩いたり、電車に乗ってどこかに行ったりはしたけれど、誰かと時間をただ潰すなんていう時間はこのミスド以外にはなかった。
 ショップは阪急電車の高架下にある。近くに駄菓子屋があったり、スケボーするのによさそうな駅前広場がある。店内は面白い構造になっていて、半地下の席があり、天井が高く吹き抜けになっている。2階に客席はなく、キッチンがあって、ドーナツが揚がっているらしい。黒色の木と白い壁が基調になっている店内はドイツの田舎にもありそうな雰囲気で、純喫茶にいるような気分にもなれる。

この上にキッチンがあるのだと店員さんが教えてくれた

 大学のメインキャンパスからも2番目に近いミスドでもある。ミスドに行きたい、でも知り合いには絶対に会いたくないという時によく使った。一時期、川西のおじいちゃんの家に住んでいる時があった。その時は箕面市の果てまで片道17キロの山道を自転車で走っていた。時々、大学に行くのが面倒になってここで時間を潰した。今思えば片道2時間をかけて汗だくで走るのは馬鹿みたいだ。ちゃんと定期券を買えばよかったと思うけれど、それなら大学に通わなくてもよかったかもしれないとも思う。大学に通う時間が他の時間になっていたとしても、それなりに楽しめただろうし、大学は自分に向いていなかったとも思う。勉強は楽しかったけれど、いろんな人に迷惑をかけたし、不誠実なこともした。

 一度だけ、大学の友達と待ち合わせするのにこの場所を使ったこともある。サークルが一緒だった友達と一歩に待ち合わせて一緒に猪名川沿いを歩いた。天気のいい日で、裸足で川に入って水切りをした。友達はもう忘れているかもしれない。私は当分覚えているつもり。

 
 
 
阪急石橋ショップ

 石橋と大学生活を語る際に、欠かせないものはたくさんある。インド料理ガンガマハル、洋食屋ピノキオ、公園のベンチ、ご飯を何杯でも食べれる定食屋、先輩のアパートと借りたままの川上弘美の本。それから「再履バス」と学生に呼ばれるキャンパス間移動バス。
 石橋の本キャンパスと箕面の外国語学部のキャンパスを結ぶバスをみんな再履バスと呼ぶ。豊中キャンパスでの単位を取りきれなかった生徒が使うことがその名前の由来なのだろうけど、私が入学した2016年には既に外国語学部のキャンパスが移転することが決まっていたし、そもそも旧キャンパス周辺は車やバイクがなければ生活できないような場所だった。なので、交通の便が良い石橋や蛍池に住み、再履バスで通学する人が増えていたと思う。

再履バスの車内
 大学側としては「キャンパス間移動バスは、あくまでも再履修などで二つのキャンパスで授業を受けないといけない人に向けたバス」らしい。「単なる移動手段として使わないでください」といったお触れを、大学側は掲示板やメールで出したけれど、誰も納得するわけもなく、普通にみんな移動手段として使っていた。大学側がバスの本数を増やさない言い訳なのだと思う。

石橋阪大前駅。大学へと続く踏切から
 で、私はこの再履バスがとても嫌いだった。バスを使わないで済ませるために、自転車で祖父宅から通うという無茶なことをして、結局留年した。ちゃんと大学に通って進級した年は原付で登校した。バス、並ぶのも人が寿司詰めになるのも嫌だった。私はパーソナルスペースが比較的広いので、親しい人でもできれば30㎝は離れていたい。でもバスはラッシュ時でも1時間に3本しかなく、一つのバスに60人も乗り込むものだから、本当にぎゅうぎゅう。自分の尊厳が守れないように感じた。早起きすれば座れるし、パーソナルスペースも確保できるのだけど、目や耳から入ってくる情報量が多すぎて嫌だった。顔見知りと出会うのも避けたかった。2年前に同じ授業に出ていて数回話したことのある人と目が合ったとして、どう振る舞えばいいのかわからなかった。人間関係が嫌になって辞めざるを得なくなったサークルの後輩と出会って、素知らぬ顔をし続けないといけないのも嫌だった。ずっとイヤホンをしてスマホを見たり本を読むふりをしていた。向き合わないといけない現実から目を背けている気がして自己嫌悪感ばかり募った。孤独が好きなはずなのに、友達同志の楽しそうな会話が耳に届くと心がソワソワ揺れた。

新キャンパスのバス乗り場
 キャンパス間移動バスがもっと本数が多くて快適であれば、大学生活はもっと楽しめただろうと思う。他にも、新キャンパスの駐輪場が有料になったり、教務の対応が悪かったり、学部や大学の決定にはモヤモヤすることが多かった。いつか、大学生活を良き時間だったと認識できるようになるのかもしれないけれど、今は出身大学を全く誇りに思わないし、私の大学時代が素晴しかったなんて口が裂けても言えない。
 愚痴が長くなってしまった。再履バスについてはもっと書きたいし、他にも卒論のことや最後の一年に感じた専攻内の違和感もあるのだけど、他の機会か、あるいはフィクションに場を移して書こうと思う。 いずれにせよ私は毎朝、再履バスの列に並ぶ段になってもうすでに嫌になり、大学をサボってミスドに入り浸っていた。あるいは遅刻してるので開き直って、大学にも行かずにずっと本を読んだりロシア語を勉強したりノートを書いたりした。このミスドでノートをめちゃくちゃ書いた気がする。よく大学入学してから100ページあるツバメノートを日記兼雑記帳として使い始めたのだけど、当時のノートにはよくミスドのレシートが挟まっている。時々トレイに敷く薄い紙もある。大抵メモが書かれているのだけど、字が汚すぎて読めないことが多い。

店舗や時期によって、レシートの裏に柄があったりなかったりする
 大学に入って最初に読んだ本、川端康成の『伊豆の踊り子』も、読み終わったのはこのミスド。大学の図書館で借りた本を何冊もこのミスドで読んだ。大学2年目も、休学に気持ちが傾いた後は、授業の予習復習もそこそこにスマホで漫画を読んでいた。押見修造作品にはまって、漫画村で読める範囲のものは全部読んだ。『惡の華』が大好きで今でもネカフェに行くとよく読む。『漂流ネットカフェ』も『ぼくは麻理のなか』も好き。結構グロテスクだけれど、残酷な内面を抑圧して育った自分と押見作品の主人公が似ている気がして、いずれ全部読みたいと思っている。漫画村にアクセスしたことについては、反省はしている。

いつかのネカフェ
 サークルの人とミーティングしたり集まるのはここであることが多くて、いろんな人と話した。待ち合わせをして、ミスドでひとしきり喋って、向かいにあるインド料理屋ガンガマハルか、あるいはピノキオに行くのだった。ガンガマハルでは、常連になりすぎて、いつの頃からか私が行くとサービスでチキンティッカが出されるようになった。ナンのおかわりが無料で、よく一緒に留年した悪友のCとナンをたらふく食べた。老夫婦がやっているピノキオは、サークルの新歓で来て以来大好きなお店なのだけどこの前石橋を歩いたら潰れていた。代わりにダーツバーが入っていた。安くて量が多くて、店も広い。最高のお店だったのに。ダーツバーなんてもう流行らないだろ。

ガンガマハル

5時台はまだ空いているが、6時を過ぎれば学生と地元の人で賑わう

ピノキオの手書きのメニュー

ピノキオの店内。年季の入った入ったクロスが好きだった

唐揚げとメンチカツの定食。定食につくスパゲティがうまいのだ
 たくさんの思い出のあるミスタードーナツ阪急石橋ショップも、2021年の1月に閉店してしまった。2019年ぐらいにリニューアルされて綺麗になったトイレも、手すりのようなもので仕切られた店内も、ガンガマハルとなか卯が見える窓際のカウンターの席も好きだったのに。
 ミスドのあったところには整骨院が入った。こうして、この国からは若者の溜まり場が失われ、老人向けの場所ばかりが増える。石橋については今度また書きたい。本当に好きな場所。あの頃にはもう2度と帰りたくないとしても。

この公園でもいろんな話をした
 
 
豊中駅前ショップ(ショップNo.0599)

 大学生活最後のセメスターは、豊中駅をよく使った。2021年度から大学のキャンパスが移転したこと、そして夏の交通事故で私の原付がスクラップになったこと、この2つがあって豊中経由で大学に通うようになった。
 原付のこともいつか書きたい。原付で名古屋にも、山陰にも、九重連山にも行った。思い出がたくさん。でもバイク屋さんが来てトラックに乗っけるのは一瞬。あの夏の早朝に事故が無ければ、未だに一緒にいられたかもしれないバイク。ぶつかってきた相手からは未だに手紙も電話もない。ひと月半入院したのだから手紙をくれる機会はたくさんあっただろうに。 

豊中駅
 13歳から16歳までの間、豊中駅前の英語塾に通っていた。その時期の私は秀才で通っていたと思う。勉強以外にすることがなくて、遊ぶことを知らなかった。部活と文化祭の練習との両立が難しくて、塾はやめたけど、続けてもよかったなと思う。もったいなかった。同じ学校の子も何人か同じ塾に通っていた。なんとなく信頼関係があって、よくメールとかしたと思うけどもうほとんど覚えていない。でも何人かとはまだ繋がっている。繋がってるから、だからなんだよ、と思わなくもないけど。でも時々思い出したように連絡する。

この2階が英語塾
 卒論を書くのに豊中ミスドを使っていた。11時まで開いているのでとても助かった。論文を読んで、文章を書く。何度も心が折れそうになった。「(私の所属する)〇〇ゼミから出される論文がひどい」というようなことをわざわざ私に言ってのけた先生がいて、その言葉が何度も頭をよぎり、自分の書いている文章がひどく陳腐で価値のないように思えた。実際、精神的に参って、自分の書いているものは無価値なのだと思っていた。ひどい論文なのにOKを出しているとしたら、先生方にも問題はあると思う。それ以前にそういうのは暗黙の了解だと思うのだけれど、なぜ私にだけそういうのを言ってくれたのだろうと今は不思議に思う。私は相談されるのが好きだし、悩んでいる人がいたら一緒にいてあげたいと思うけれど、だからと言って愚痴ばかり言われるのは嫌だ。一方的に愚痴や悪口ばかりぶつけられると、自分がゴミ箱にでもなったような気がする。そんな風に誰かに接することを「信頼の証」だと思っているとしたら悲しすぎる。一方でそこまで許していた自分も悪かったと思う。我々の関係は共依存だったのだと思う。
 とにかく、私はその人の言葉が頭の中でリフレインしたおかげで自分の文章にも構成にも全く自信が持てず、卒業論文はひどい有様になった。自信を喪失し頭を抱えていたのが、この豊中駅ミスド。かなり広い店内で、店舗面積も、座席数も今まで行った中で一番広いかもしれない。新聞を広げている人、パソコンで仕事をしている人、放課後の受験生、中国語を勉強している社会人、いろいろな人がいる。
 ミスドから信号を挟んですぐ、新キャンパスに向かうバス停がある。1限の授業は取らないことにしていた。早起きして豊中ミスドでモーニングをしながら論文を読み、時間が来たらバスに乗って大学に向かうような日々だった。豊中からキャンパスまでの道は細くてアップダウンが多く、コーヒーで荒れた胃や食道が刺激されるのだった。

新しいキャンパス
 年始の授業でショスタコービチのプレゼンをしたこともあって、卒論の作業をしながら、あるいはバスに乗りながら、ショスタコービチの交響曲第7番を聴いていた。交響曲第7番は別名「レニングラード交響曲)」。作曲家ショスタコービチが生まれた町レニングラード(現サンクトペテルブルク)は1941年9月から44年の1月まで戦場となり、900日近くドイツ軍に包囲された。100万人を超える市民が死亡し、死因の大半が餓死だった。ショスタコービチは自らの交響曲レニングラードに捧げると述べ、包囲下のレニングラードではオーケストラが交響曲を演奏し人々を勇気づけたらしい。

授業のスライドから。ショスタコービチはサッカーファンだった
 レニングラードがドイツ軍の攻撃に耐え、ナチスの侵略に打ち勝ったことが、対ナチスプロパガンダに利用されたエピソード。そのプロパガンダは21世紀になっても続いているのだと感じる今日この頃。
 2022年の2月以降も第7番をたくさん聴いている。最初はロシア軍が迫ったキエフを思い、そして今は包囲されたマリウポリを思う。
 豊中駅には、他にも駅ビルの上階の図書館で本を読んだり勉強をしたこと、高校の文化祭の打ち上げの後に駅前のベンチで友達と話したこと、入り浸っていた駄菓子屋の話など、書きたいことはあるのだが、これ以上文章が散らばっても良くないのでここら辺でやめにする。

講義室
 
 
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