シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#95 鍵っ子だった

 

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 鍵っ子だった。

 尼崎の駅前のマンションに住んでいた。道路が拡張されたせいで今はもう残っていないけれど、マンションの前には広い花壇があって、春になると一面にチューリップが咲いた。毎年毎年チューリップの横で従兄弟達と写真を撮った。伯母がカメラに凝っていて、行事ごとに写真を撮って残してくれた。私の小学校の入学式にも伯母は来てくれた。入学式の日は雨で、濡れたコンクリートの上に張り付いた桜の花びらがとても綺麗だった。私は花びらを踏まないようにして歩いた。体育館には知らない子がたくさんいて、仲良くなれるか不安だった。私が保育所で同じだった友達は3人しかいなかった。心細い一方で教室も校舎も椅子も机も目に映る全てが新しくてわくわくした。でも学校にいる時間が長すぎて途中で疲れてしまった。帰ってきて、チューリップが目に入るとなぜかほっとした。

 母は仕事があるので朝8時には家を出ないといけなかった。だから私はそれまでに用意をしないといけなかった。大抵は母より先に家を出て、片道15分ほどの道を歩いて学校に向かった。起きるのが遅かったり身支度が遅れたりすると、母の方が先に家を出た。そうすると私が部屋の鍵をかけて家を出ないといけないのだった。

 鍵を閉めて、エレベーターを降りるのだけれど、途中でいつも鍵を閉めたかどうか不安になるのだった。鍵穴に差し込んだ鍵を回してまた戻す。鍵を抜いてドアノブを引いて閉まっていることを確認する。ドアを引っ張って確認した腕の感触も、鍵をしっかりかけたことも頭ではわかっているのだけど、エレベーターを降りて歩き出すと不安になってきて、最初の信号まで来たところでまたマンションの12階までひきかえす。もちろん閉まっている。でも泥棒が入るのは怖かったし、何より自分が鍵をかけなかったせいで母が悲しむのはいやだった。

 別に鍵に限った話ではなかった。ガスの元栓を閉めたのかどうか何回も確認したし、家を出る前にコンセントを抜いたかどうかも確認した。お風呂にお湯を張る時も栓をしたかどうか、お湯が湯船に溜まっているかどうかよく確認した。今でも家を出る時に何回も蛇口やコンセントを確かめてしまう。私が不在の間に家が火事にならないか、水浸しにならないか本気で心配になる。

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 多分家の中が不安定だったのだと思う。過保護だったけれど、母は母で毎日不安だったのだろう。理不尽なことで怒られて小学生の私は違和感を抱いたりもした。反発したりした。けれども当時の母親の状況がどのようなものなのかを知って、また「シングルマザー」というものを社会がどう考えているのかを知った今、母の態度は仕方がなかったとも思う。カーテンを開けっぱなしにして怒られるのも、門限に厳しいのも、当時は意味がわかっていなかった。でも今なら理解できる。

 高校の友達が「シングルマザー」という言葉に性的なニュアンスを含ませていた時、とても嫌な気持ちになった。芸能人の離婚をワイドショーであーだこーだと話しているのを見て、どうして他人の私生活をほじくりまわして楽しんでいるのだろうと思った。そういった出来事一つ一つに遭遇する度、私の心の底には小さな石が溜まっていき、自己肯定感を奪っていった。 

 下宿を始めてアパートの3階に住むようになってから、尼崎に住んでいた時の記憶がふいに蘇るようになった。山と谷を切り開いて作られた住宅地は尼崎の駅前とは全く違う似ても似つかない場所なのに、アパートの入り口でポストをチェックしたり、鍵をかけて階段を降りる時、もう忘れていた記憶がふわりと浮かんでくる。

 私の部屋はワンルームしかなくて家賃が3万円弱なのだけど、敷地内を子供を二人連れた女の人が歩いていたりする。子供を連れて3人で住むには20平米のワンルームは狭すぎると思う。彼女ももしかしたらシングルマザーなのかもしれない。たまに子供がアパートの廊下で追いかけっこをしている。

 私は一人っ子なのだけれど、弟か妹がいた可能性もあった。1歳半、あるいは2歳の時に母は妊娠した。けれども赤ちゃんがお腹の中にいたのはわずか数カ月だけだった。妹あるいは弟が生まれたら精一杯可愛がってやろうと楽しみにしていた私は「赤ちゃんがいなくなった」というのが理解できなかった。意味が解らなくて何度も何度も尋ねた。最後まで意味がわからなかった。どこかの大病院で、表面にゴムが張られた椅子に座っている母に「赤ちゃんはどこにいっちゃったの? 天国ってなに?」なんてずっと訊いて困らせた記憶は鮮明に残っている。12歳になって、あれは流産というやつだったのかも知れないとようやく思い当たった。私は母とそういったセンシティブな話をするのは良くないと思っていたし、辛い記憶かもしれないから長い間その話題には触れなかった。最近ようやくその話を母とした。やはりそうだった。

 

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 もしも私が兄になっていたらどうなっていただろうか。大学に通うことはできていただろうか。経済的に余裕がなくて浪人できなかったかもしれないし、留年した身分として今よりももっと肩身が狭かったかもしれない。何よりも、母は二人の子供を連れて父親のもとを離れられただろうか。私が4歳になろうとするある夜、母は私を連れて車に乗り込んだ。母は母の姉を頼って尼崎に住み、私もそこで保育所に通うことになった。子が二人いたら同じことが母にできただろうかと思った。もしかしたら母は夜逃げも離婚も諦めてずっと父親の家で過ごしていたかもしれない。私は名字も変わらず、母子家庭であることに引け目を感じて生きなくてもよかったかもしれない。父親の不在のために自分が不完全な存在であると考えなくてもよかったかもしれない。父親のことを知るには周りに訊くしかなかったのが、父親の話題自体がタブーだと考えていた私は中学生になるまで伯母や祖母に訊けなかった。18歳になるまで母と父親の話をまともにできなかった。大学生になってから家族が教えてくれたことが本当なら、父親にはあまりいい評判はなかった。奈良の地主の家に生まれ、甘やかされて育った人。そういった情報は残念ながら私の幼い頃の記憶と、かなりの部分で一致するのだった。ずっと父親の下で育ったなら、もしかしたらひどいマチズモになったかもしれなかった。あの家に居続けたら、マイノリティの気持にみじんも共感せず、フェミニズムを嘲笑う男になっていたかもしれなかった。そうならなくてよかったと思った。母親に育てられてよかった。祖母が言う話が全部正しいのなら10何年も私に連絡をよこさないのも納得だった。毎月母の口座にお金が振り込まれるだけで、本当に一度も便りが来ることはなかった。もちろん電話もなかった。ずっと父に会いたいと思っていたが、10代半ばを過ぎるころから、捨てられたも同じなのだと思うようになった。

 

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 成人して市役所にある戸籍を見ることが出来るようになった。父親の住所がK市にあることを初めて知った。大学を休学して悩みに悩んでいた時、決心してその住所を訪ねた。父親に会うことだけが目的だったのに、しかし私は賭けに失敗した。父親は病気だった。それもかなりひどいらしく、入院していて家にはいなかった。脳の病気で、倒れたのは今度で二度目だということだった。父の姉が私にお茶を入れてくれた。私に会って泣いていた。けれども彼女はひどい偽善者だった。自分の偽善を偽善とも思っていないような、それこそ息を吐くように嘘がつける人だった。もう来ないでくれもう会わないでくれというようなことを彼女は遠回しに言った。私はその後の数年間、その時の彼女の言動を何度も反芻し、色々と考えてみたけれど結論は変わらなかった。そんなことを言ってしまえるような親戚ならいてもいなくても同じだ。向うに事情があってもなくても関係ない。会えないのなら死んでいるのも同じだ。そして後遺症が残る程度の脳出血なら、もう遅すぎるかもしれないと思った。だいたい、今まで20年も会おうとしてこなかった人なのだ。これから会わなくても同じだと思った。

 次に会うのがお葬式でも、お葬式に呼ばれないとしても構やしないと思った。そう思い込むことにした。というかそう思うしかなかった。今度はこっちから無かったことにしてやる。 そして自分に恋人ができたら、自分に子供が生まれたら、めちゃくちゃ大事にしてやる。

 

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〈あとがき〉

 読んで厭な気持になった人もいるかもしれません。ごめんなさい。

 自分の復讐のようなものをブログに書くのは間違っているかもしれませが、一度書いておきたかったので書きました。

 家庭のことを書きすぎたので家族の誰かに見つかる前に非公開にしようと思います。

 

 最後にもう一つ、母子家庭、父子家庭に対する差別は減って欲しいです。

  

 

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