シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#122 部屋の整理(2)

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 子供向けの国旗の本。保育所に通っていた時、国旗の本をおばあちゃんに買ってもらった。たしかクリスマスプレゼントだったと思う。朝起きたら枕元に一目見ただけで中身が本だとわかる包みがあって、開けると色とりどりの国旗の絵が入った表紙が目に入った。ちなみに今も昔も私はプレゼントの包装紙が破れてしまうのがイヤで、セロテープをきれいに剥がすことに一生懸命になるタイプである。保育所の遊戯室には自由に使っていい画用紙があって、毎日国旗を色鉛筆で描いていた。そのうちに、どうやらどの国にも「しゅと」というものがあるらしいということが解ってきた。日本の首都は東京。韓国の首都はソウル。中国の首都はペキン。覚えることがたくさんあった。今も昔も我が家のトイレには地元の銀行が年末に配る大きなカレンダーがあって、メルカトル図法の周りに12カ月が配置されていた。

 

 中学校の国語便覧。あんなによく読んだのに、読み返すと、あまり良いものではなかった。夏目漱石芥川龍之介以外にも日本には良い作家がいるのに、彼らのことしか書いていない。評価され過ぎて権威的な文学になってるのだとしたら作家にとっても読者にとってもよくないと思う。また便覧には、ことわざや四字熟語、日本語の細かい文法のルールも載っていた。海外で日本語教師をするときに便利だろうと思ったけれど、そんな日が実際に来るとは思えないので捨てることにした。

 

 高校1年生の時の生徒会報と文化祭実行委員会から配布されたプリント。私の高校は各学級で劇をする伝統があった。当時の私は劇を仕切る係をしていた。今となっては考えられないけど。劇の小道具を学校から借りるための申請書が出て来た。担任のハンコと署名。文化祭実行委員の署名。顔と名前だけは知っている先輩。今何してるんだろ。何してるんだろ自分。

 

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 世界史についてまとめたノート。表紙は三国時代の中国の地図があって、曹操劉備孔明孫権のイラストも添えられてある。同時代の朝鮮半島の勢力図も色分けされている。その時代の朝鮮半島中南部には馬韓弁韓辰韓があったと考えられている。受験生だったころ、教科書を読む気になれない時は図書館で世界史に関する本を借りて世界史の知識を得ていた。ノートは主に中国史について書かれている。『鄧小平』と『中国反逆者列伝』という2冊の内容にそって大学入試に必要な知識がまとめられている。

『鄧小平』は戦時下における鄧小平の下積みと、中国共産党の権力闘争の話が主で、中国の現代史について18歳の私はまとめていた。特に毛沢東の死と共に終わった文化大革命、その後の改革経済。ノートによれば鄧小平は客家出身らしい。「客家とは、南方の『本地人』に対して、よそから来た人の意。その多くは非漢民族華北を支配した東晋、唐代末、南宋、明代末、清朝末の5つの時代南方へ移住した。南の文化に同化せず、固有の文化を保ち続けた彼らは結束が強く排他的で、また勤勉で賢いと言われる。現地人から山間のやせた土地しか与えられず、しばしば土地争いが起きた」ノートにはそんなことまで書いている。

 ちなみに、台湾に漢人が移住するようになるのはオランダの統治が終わる17世紀からで、多くの客家も華南から海峡を渡って台湾に移住した。そして大陸でそうであったように土地争いも起きた。いつか読んだ台湾の本にそんなことが書いてあった。

 余談になるけれど、鄧小平は89年の64日に天安門広場でデモ隊に対して武力弾圧を行った人である。今でも天安門事件は中国ではタブーとなっていて、インターネットでも検索できないらしい。中国からの留学生と香港やウイグルの問題について話した時に、なかなか話がかみ合わないことがあった。私は天安門事件のことを思った。武力行使を鄧小平が命じなかったら、香港やチベットウイグルにおける現在の人権侵害はもしかしたら起きていなかったかもしれない。

 高校3年生の当時、いかにして勉強に対するモチベーションを上げられるかということを考えていた私は、ノートの表紙に絵を描いていた。世界史の勉強と地理の勉強を組み合わせたノートを作ったり、現代史に関わる英語の記事を読んだりしていた。次第に、好きな分野の勉強ばかりしてしまい、数学の勉強はほとんどやらなくなってしまった。

 

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 浪人時代の河合塾のテキストが出てくる。

 多和田葉子のことを初めて知ったのは現代文のテキストの中だった。アライという名の現代文の教師が「正直、多和田葉子村上春樹よりもノーベル文学賞に近い」ということを言って、『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』という文章を読んで問題の解説をした。

「ここに傍線Aを引く! ぴしっ」

「ぴしっ」をわざわざ発音する先生が面白くてクラスで何人もが真似していた。

 ページをめくるとよく覚えている文章がたくさん出てくる。リービ英雄『「there」のないカリフォルニア』、姜尚中『悩む力』須賀敦子「クレールという女」。

リービ英雄は台湾のことが好きになって調べていた時に『模範郷』という本を読んだ。幼年期に台湾で過ごした作者が大人になってから台中に帰って、昔住んでいた場所を探すというお話だ。烏丸の大垣書店若林正恭の『社会人大学人見知り学部卒業見込み』と一緒に買った。2019年の5月。M先輩と京都を一日歩いた後だった。

『悩む力』は結局買った。天神橋筋の天牛書店。読んだけれど内容は忘れてしまった。須賀敦子の「クレールという女」は『遠い朝の本たち』に収録されている。買ったけれどまだ最後まで読めていない。読むと泣いてしまって進められないのだ。私の本だなにはそうした本が何冊かあって、今年こそは読もうと毎年思うのだが結局読めない。困る。

 大学受験のための授業だったのにアライ先生のことはなぜかかなり記憶に残っている。酒を飲んで留置場で泊まった話や、文学を研究していた学生時代の話など、授業の合間に挟まれる話を毎回楽しみにしていた。同時に先生の人生を諦めたような言動に哀愁を感じたりした。授業後に質問に行くと、酒の匂いがしたりもした。今元気でおられるだろうか。まだ予備校教師をしているのだろうか。テキストで詩が出た週には穂村弘の短歌をプリントに刷って配ったりしていた。

 

 数学のテキスト。名前も忘れてしまった予備校教師たち。まだうっすら顔は思い出すことができる。数学が苦手だから文系にしたのに、文学部の合否を分けるのは数学の点数だと知ってやるせない気持ちになったのを覚えている。結局本番の試験でも数学は5問中1問しか解くことができなかった。

 

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 ミャンマーのパガンで買った砂絵。あまりいいものではない。捨てるかどうかまだ迷っている。パガンは観光地である。パゴダと呼ばれる仏塔が見渡す限り一面にあるのだ。電動バイクや自転車で仏塔をめぐり、写真を撮り、水辺で船から荷物を運ぶ人を見た。子どもにお金を要求され、ある9歳ぐらいの子どもは腕時計が欲しいと言われた。誰かを断罪することも、説教をすることもまっぴらだった。ただ悲しかった。観光が彼らの子ども時代をスポイルしてるように思った。観光客といて楽しんでいるだけの自分もその片棒を担いでいた。

 

 丸谷才一『笹まくら』のストーリーを時系列にまとめたメモ。2019年の夏、『笹まくら』の舞台となる西日本の街を巡る旅をした。杉浦健次が阿貴子と出会った皆生温泉近くの日野川の河口。出雲大社、そして杉浦健次が終戦を迎える宇和島の城山。天赦園の由来となった伊達政宗の晩年の漢詩。赦すとは赦されるとはどういうことなのだろうか。映画よりも映画的な小説。でも映画ではどうしても表現できないだろう。杉浦と阿貴子が結婚していたらどうなっていたのだろうと時々思う。存在しない人物のことを考えて現実にいる人たちのことをないがしろにしている。よくない。

 また今度は、芥川龍之介の「偸盗」に出てくる登場人物の相関図のメモ。もうかなり忘れてしまったけれど阿濃のところが気に入った覚えがある。

 

 全部捨てることにした。そう全部捨てる。

 

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#121 部屋の整理(1)

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例題12「次の日本後の文章をロシア語に訳しなさい」

 

「自分は他人とは違う」「自分こそが××にふさわしい」という慢心、他者への優越。今の自分が「しんどく」なっている原因はこういたものなのではないだろうかと思った。O大学に入った時、周囲のことをなんとなく見下していた。それはK大学に行きたかったということもあるし、自分が浪人したこともあるし、単に周囲となじめなかったってのもあると思う。4年、あるいは5年で大学を出て、「はい! 今からここが『社会』です!」って言われて働き始める自分が全然想像できなかったし、そもそも働きたくなかった。自分の「才能」にはスーツも似合わなければ、満員電車もブリーフケースもデスクワークも外回りの営業も似合わないと思った。自分にこその何らかの使命があると思っていた。だからこそ他人にはあまり興味がわかなかくなったし、他人と違う自分でありたいと思ってた。(→解説は402頁)

 *1

 

セブンイレブン関西空港2ターミナル店のレシート。201881日(水)01:15

セブンイレブン関西空港2ターミナル店のレシート。201881日(水)05:07

SEKISUIを知るinternship2018。就活の合同説明会でもらったチラシ。多分2018年の10月に行ったイベント。今のところ自分が参加した唯一の就活イベント。日本コーンスターチ株式会社、読売新聞社スーパーホテルのことが書いてある冊子。その日、スーパーホテルの印象はとても良かったのだった。2020年に支配人と副支配人が残業代の未払いで訴えるまでは。過酷な労働を強いていることを知るまでは。

 

なら国際映画祭近隣飲食店MAP。これも2018年。先輩の侘路さんと行ったやつ。自分が楽しみにしていて、先輩を誘って行ったのに、映画の途中で寝てしまった。

 

米沢ドライビングスクールで受けた効果測定の結果。点数81結果不合格。

新生銀行ATMで出金した際の明細。

中國信託銀行ののATMで出金した際のご利用明細2枚。

ミャンマーに入国する際に提示したEビザの写し。

近所のインド料理屋のチラシ。黄色が鮮やか。このチラシを持っていくとランチが50円引き、ディナーが10%引きになるらしい。

北海道見どころ観光バス道路図。中央に地図があり、端には北海道の難読地名や方言が紹介されている。「小さい」が「ちゃんこい」、「こんばんは」が「おばんです」は何となくわかるけれど、仲間外れにされることを「あっぱくさい」あるいは「あいてくさい」、寒さが厳しいことを「しばれる」というのは聴いてもわからないだろう。

株式会社シギヤ精機製作所のパンフレット。株式会社QOLサービス。株式会社エブリイホーミイホールディングス。株式会社ビンゴ漬物。株式会社キャステム。全て20189月に福山市で頂いたもの。

 

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京都国際写真祭のチラシ。かっこいいデザイン。友達がスタッフとして働いていて、M先輩を誘って一緒に観に行った。アルバート・ワトソンという人の写真の展示を見たと思う。M先輩とはもう連絡をとってない。写真展ももう忘れてしまったかもしれない。スタッフをしていた友達とは場所が違うのかシフトが違ったのか会えなかった。

 

届書(申請書等)の返戻などについて。日付は2019823日。たぶん市役所から送られてきたもの。その裏には日帰り旅行の日程がメモ書きされている。20199月下旬。私たちは竹田城跡と日の出を眺め、出石でそばを食べ、温泉に浸かった。

 

メモ。ボールペンでこう書いてある。怖い。

「ばらばらになった元素。僕たちは再びくっつきあい、またちがった命になる。くりかえされた最後、この星は太陽にのみこまれる」

 

免許合宿でもらった紙束。A4の紙数枚をホッチキスで留めたもの。1枚目は自動車学校の教習計画表。車種普通自動車AT)。私の担当教官は高橋邦則さんという人だったみたいだ。2枚目は宿舎に泊まる際のルールをまとめられたもの。門限は原則として午後10時だそうだ。3枚目はホテル周辺の地図。裏にあるメモによると、運転中に取るべき車間距離は、時速3060の時は時速から15を引いた数を、時速60以上の時はその時速の数字をそのままmにしたものだそうだ。例えば時速45で走る時は30m、時速70の時は70m、前の車と距離を取らなくてはならない。では時速15ならおかまを掘ってよいと? 同じく合宿で配られたであろう小冊子「運転者による応急救護処置」平成281031日第五訂版発行。一般社団法人全日本指定自動車教習所協会連合会が編集・発行したもの。一般社団法人全日本指定自動車教習所協会連合会は漢字で22文字。9歳の時、知っている一番長い単語は駒沢大学附属苫小牧高等学校だったけれど、これは漢字にすると14文字しかない。15年間で8文字分だけ大人になった。

 

また、なら国際映画祭近隣飲食店MAP。その下にはなら国際映画祭2018ネットアンケートのおねがい。2枚ある。QRコードを読み取るとグーグルフォームがあってアンケートに答えられるようになっている。同じところに、なら国際映画祭2018上映スケジュール&チケット情報。A3の紙が4つ折りになっている。

 

大阪大学体育会入会案内の青い封筒。中には大学一回生の時の情報の課題や、ロシア語の授業メモが入っていた。

 

ふるさとワーキングホリデーのご案内。労働契約書と銀行口座の写し。これは南丹の農場で働いた時のものだろう。

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農場で描いた絵

2010年度J2 Grading Test。昔通っていた英語塾のテスト。(  )内に適切なものを選びなさい。上下の文がほぼ同じ文になるように(  )に適語を入れなさい。

 

2016大阪大学Integrared English後期中間テスト4時限目クラス。「答えは全て回答用紙に書くこと」という文があり、下線が引かれている。次の文章を読んで以下の設問に答えなさい。林という名の日本人の先生で、つまらない授業が多かった。

リムジンバス領収書。平成30731日。関空まで片道1750円。

カラーボックス3段取扱説明書および組み立て解説書。その裏には私のメモ書きがあって、バンドみるきーうぇいの曲名が箇条書きに書かれていた。おそらく2018924日のライブのセトリだと思う。グッズを買って、伊集院香織さんに握手をしてもらった。あの頃はCOVID19なんてなかったから気にせずにライブに行き、ドリンクを買い、繁華街を歩けた。

 

紙束2つ。「秋の風」「長生きすること」と題された私の文章。作家志望の友人に見てもらうために印刷したのだけど、ボロクソに評されて腹が立った。思い出のまたその下から思い出が出てくる。彼とはもうあんまり会いたくない。

 

口座振替開始のお知らせ〉by市役所税務管理課出納チーム。原付に乗り始めた時に市役所から来た手紙。

 

大学の図書館に置いてある小冊子2つ。表紙にはそれぞれ「ロシア映画特集」「レポート・論文のための引用の技術」

 

Звезда по имент солнцеの歌詞とコードの書かれたプリント。ロシアのバンドкиноの曲。ロシア人の先生が印刷して配ってくれた。

 

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なら国際映画祭近隣飲食店MAP。何枚あるんだろ。映画を観る度にもらったのだろうか。

花蓮で買った服についていたタグ。Mサイズの服。店員はアミ族の血をひいている女の子で、同年代だったことや彼女の弟が日本に留学していることもあって、お互いの国や文化のことを色々話した。もう3年も前のことになる。今でもたまに連絡を取っている。

 

米沢ドライビングスクール教習生手帳。19ページを空けると、「他の人の運転中に危険をよそくしてみましょう」という項目があった。そこにあるメモによれば、私はイシダとカワイ、それから教官と共に米沢市内を走ったらしい。雪道で標識が読めずに大変だった。

 

令和2年度(2020年度)軽自動車税(種別割)納税通知書。

改元に伴う元号の取り扱いについて(お願い)。大変恐れ入りますが、同封の国民年金学生納付特例申請書にご記入頂く際には、「平成」と記載された箇所を二重線(=)で抹消の上、「令和に修正していただくようお願いいたします。」

どういった理由で「頂く」と「いただく」を使い分けているのだろう。もう公的な書類は全て西暦にすればいいのに。

 

また別のインド料理屋のチラシ。家から歩いていける距離に4つもインドカレー屋がある。このチラシについてあるクーポンもまたディナー10%引き。

 

チバレイのデジカメ便利事典』2001629日発行。千葉麗子って誰だよって思って調べたら、はすみとしこや杉田水脈と一緒に写っている千葉麗子が出て来た。大変不愉快。この本は捨てよう。しかしこの本、どれほど売れたのかしら。

 

ハバロフスクでロシア2部の試合を観た時のマッチプログラム。あの日、アムール川沿いのレーニンスタジアムで、CKAハバロフスクトムスク1-0で勝った。

 

20197月にバイクで事故した時のメモ。保険屋さんとのやりとりなど。夜勤明けの後ブックオフのカベに穴を開け、同じ日の夜、友達と十三でお酒を飲んだ。ミスタードーナツで本を読む私の前に友達が現れる一瞬。赤玉パンチ。画廊の話。音楽。会いたい。

 

平取町立二風谷アイヌ文化博物館のパンフレット。従妹が修学旅行で持ち帰ったもの。いつか行きたい。アイヌ語の一覧がプリントされていた。

 

国民年金保険料納付のご案内。どうせほとんど私は受け取れない。

 

 

 

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*1:ユーリー・イシドロビチ・シュクスコイ『ロシア語学習者に送る9つの手紙』シベリア出版,2008,217

#120 固執

 

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固執

 

時間が止まったように感じられることは? 

自分だけが暗い穴を落ちていくのに、世界は私には気づかないで昨日と同じ顔で回り続ける

不公平だと思ったことは? 忘れてしまったの? あんなにも怒っていたのに

あの頃、あなたは私の側にいて、私と同じように世界に憤っていた

 

短い春と乾いた夏が過ぎて、あなたが遠くに行ってしまったことを私は知った

何通かあなたから手紙が来たけれど、何一つまともには読めなかった

途中まで書いた便箋がうず高く積み重なり、時々雪崩のように崩れて床に散らばった

私は誰に見せるわけでもない文章をノートに書き続け

ついには積み上がった紙で家を作り住むことにした

 

秋が深まるまでに紙でできた家は冷えるようになっていた

北風が壁から紙を剥がして持って行った

二度と戻らない文章を思って私は泣いた

そのうち本当に寒くなると私は11枚ノートを燃やして暖をとった

あの人の思い出が、あの日の思い出が、ひとつまたひとつ失われていく

その冬最後の寒波が去ると手元に残ったのは10枚の紙きれだけだった

 

雪解け水が小川を作り、いくつもの小川があつまって一つの大きな川になった

私は10枚の紙で船を折り水に浮かべた

海までゆくのだと思った

私にはもう戻れる場所がなくて、だから新しい場所に行かなくてはならなかった

その場所ではあなたの思い出は必要ないだろうと思った

 

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#119 ぺルテス病と自意識

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  小さい頃、街で車いすの人を見かけた。私はその人のことをかわいそうだと思った。その人は守られるべき対象で優しく接しないといけない。その人には誰しもが無償の愛情を注がないといけない。私はそういう風に考える、少し変わった、気持ちの悪い子どもだった。図書室でマザーテレサ宮沢賢治シュヴァイツァーといった人の伝記を何冊も読んでいた私はどうしたら「優しい人」になれるのか考えていた。どうするわけでもなく、またどうする力を持っていないのに、通りの向こうにいる車いすの人のことを助けてあげないといけないと思っていた。駅構内で見かける白杖の人も、公園のベンチに座っているダウン症の人も私にとっては「かわいそう」なのだった。特別学級に通う「障がい」のある友達と接する時、私は7歳児なりに悩んでいた。それはものすごい傲慢で偽善的な感情であったけれど、7歳であれば許されるであろう無邪気さでもあった。

 そんな私が長期入院することになった。8歳の終わり。一時的に歩けなくなる足の病気だった。小児科病棟にはたくさんの子どもがいた。車椅子の友達、ステッキをついた友達、感情は分かるけれどコミュニケーションを取るのが難しい友達。ゆっくりと話す友達。酸素マスクを手放せない友達。春、夏、秋、冬、また春。今はもうなくなってしまったのじぎく療育センターという場所で私は一年を過ごした。

 診断を受けた時、私は泣いた。一年も歩けないなんて、そんなのあんまりだった。一年も友達と会えないなんて。今とは違って、時間の流れが緩やかだった。当時は中学生や高校生になるのはまだだいぶ先のことだと思っていた。夜更かしして作業しても、できることはそれほど多くないと知るずいぶん前の話だ。8歳にとって、一年は永遠にも近い時間だった。最初は心細かった入院生活も、同じ病気の友達と過ごすうちに慣れていった。あの頃は今よりも友達を作るのが簡単だった。平日の昼間は病棟に併設する養護学校——今は特別支援学校と名前が変わっている——に通い、授業を受け、休憩時間には先生の助けを借りて野球をした。午後に病棟に戻り、友達と遊び、ご飯を食べた。別に病院食だからといって不味いと思ったことはなかった。ホタテのフライが献立に出ると嬉しかった。「身体障がい」と「知的障がい」。当時はそんな言葉を知らなかった。なんとなく、何人かの友達と比べて、足が悪いだけの自分の状態は違うというのは分かっていた。運動会も普段の授業も、障がいの程度によってできることが違っていた。時々不公平だと思った。わけもわからず悲しくなることもあった。

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 週末は親が迎えに来る子は外泊できた。母が忙しかったり、病院まで遠かったりして、私が外泊できるのは1か月に1回ぐらいだった。神戸電鉄JRを乗り継いで家まで2時間弱。母の仕事はたぶん今よりもハードで、大変な時期だった。私がぺルテス病という珍しい病気にかかってしまったばかりに、苦労をかけているように感じたりした。 

 外泊する子が家に帰るので週末の病棟は閑散とする。同室の子がみな帰ると、普段は遊ばない隣の病棟の友達のところまで将棋を指しに行ったりした。本の世界に浸ることもあった。いくつかの病室ではいつもテレビが流れていて、ずっとテレビを見ている子もいた。ほとんどゲーム漬けの友達もいた。よく将棋を指した友達の1人は、私が夏に家に戻っている間に病状が悪化して亡くなった。よくわからなかった。ただ彼のことを忘れないようにしようとだけ、はっきりと思った。

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 病院から最寄り駅までは緩やかな下り坂だったと思う。外泊できる金曜日、母は駅までの10分間車いすを押してくれる。郊外の歩道はでこぼこで車輪の上の体に振動が伝わってくる。

 雑踏の中でも、病院から借りている黄色い車いすとその上にちょこんと乗った男の子は目立つ。三宮、駅構内を歩く人がみな私の方を見ている気がした。私はそこで自分が「かわいそう」だと思われていることについて考えていた。通りすがっただけの人に「かわいそうにねえ」と言われるのが嫌だった。思われることだけで嫌だった。以前は障碍を持つ人をかわいそうと思っていたのに自分が「かわいそう」だと思う人がいるのは我慢ならなかった。自尊心がゆるさなかった。でも難しいことに「かわいそう」と思う人も言う人も、悪気がない場合が大半なのだった。(そしてそれが問題なのだ)

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 退院と同時に引っ越して、新しい小学校に通うことになった。4月だった。松葉杖の私の病気について、母は転入先の学校の先生方に何度も説明し、私のできることとできないことを先生方に理解させた。当時は当然のように思っていた母の奔走は、今考えてみると全然当たり前ではなかった。仮に自分に子どができたとして、同じようなことをしてあげられる自信が私にはない。

 明日が始業式という夜、私は緊張して寝れなかった。自分が全校生の前に立ち、松葉杖の姿をさらすのだ。自信がなかったし、どういうわけかとても怖かった。「かわいそう」と思われたくなかった。全校生徒の数が1000人を超えるような人数の多い小学校だった。転校生も20人以上いて、一人一人紹介されるのだった。4年生にしては背の低い私を、私を支える松葉杖を、みなが好奇の目で見ているような気がした。他者の目に映る自分をはっきりと意識するようになったのはこの時だった。それまで、どちらかと言えば目立ちたがり屋だった私は「これからは目立たないでいよう」と思うようになった。

 

 

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#118 理想と現実。ある大学生の場合 後編

 

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 大学生になったらアルバイトをたくさんするのだと思っていた。

 最初に始めたのはイベントスタッフ。初めて入ったのがインテックス大阪でのKANA-BOONのライブだった。『フルドライブ』や『ないものねだり』のような有名な数曲ぐらいしか知らなかった私は、観客の熱狂を見て、「売れている」バンドのすごさを思い知った。同時になぜかコレサワの『君のバンド』の歌詞を思い出していた。人とは違っていたいと昔から思っている私は、教室のみんなが聴いている「売れている」音楽ではなく、自分しか知らないような人たちを見つけるのが好きだった。大衆に迎合する音楽なんて良くないとも思っていた。でもKANA-BOONのファンが感動している姿を見ると、それも違うのかもしれないと思った。

 最初のインテックスは特別で、基本的に家に近い甲子園で働くことが多かった。私が入る日に限って阪神は負けた。外野席の酔っぱらいは負けた腹いせに私に怒鳴り、金本が監督になって1年目は高山の新人王以外散々だった。シフトを決めるために毎週水曜日に担当者に電話するのが段々と面倒になって、ついに電話しなくなった。

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 次に働いたのは大学生協だった。あまり面白くないバイトだったけれど、サークルと授業以外に同学年の人や先輩と知り合うことができたのは良かった。表面的な関係だったかもしれないけれど、気楽でくだらない話に安らげたのも事実だった。COVID19でコミュニケーションが限定された今年、一見無駄にも思えるやりとりに救われていたことに気づいたのは私だけではないはずだ。ステイホームが叫ばれるようになって、誰かとの些細なやりとりを思い出すようになった。5月以降私は思い出に浸ることが多くなり、今までは感じなかったような感謝を記憶の中の誰かに抱くようになった。感謝を伝えようとしても、彼らは就職したり、疎遠になっていたりしていて、もう近くにはいないのだった。

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みんないなくなる

 今働いているのは障碍を持った人が利用するショートステイである。職場の人の優しさのおかげで、長く働けている。元々はサークルの先輩のつてで紹介してもらったバイトである。詳しくは書かないけどいくつかの素晴らしい出会いがあった。またどこかで書けたら書こうと思う。

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国語学部のキャンパス

 ロシア語専攻に入ったのは偶然だった。浪人時代、別の大学の文学部を目指して勉強していた。外国語学部に向けた勉強をしていなかったので、受かるとは思っていなかった。滑り止めで受けた私大に行くのだと思っていたのに、受かってしまった私はロシア語を勉強することになった。

 ロシア語を勉強するようになった私は、将来はVGIKで勉強できたらいいな、なんて軽く考えていた。VGIKというのはモスクワにある国立の映画学校で、まだ映画監督になりたいと考えていた私は、初めそれをモチベーションに勉強していた。YouTubeにはロシア語の映画がたくさん転がっていて、いくつかを観たけれど、字幕なしではちんぷんかんぷんだった。映画監督になれなくても映画業界で働けたらいいなとも思っていた。映画の字幕を翻訳したり、ロシアの映画情報を日本に紹介するような仕事に就くのもいいなと考えていた。でも先輩方はロシア語を使わないような就職先に進んでいて、私にとってそれは衝撃だった。せっかく4年ないし5年ロシア語を勉強するのに、社会でロシア語を使わない職業につくなんて。もちろんそれぞれの選択だし自由なのだけれど、ピュアな私にとってその事実は衝撃だった。急に冷めてしまった私は、将来仕事で使わないかもしれないに毎日ロシア語を勉強する意味は果たしてあるのだろうかと思った。この勉強に意味があるのだと、私ははっきり言えなかった。ある時から本当にどうでもよくなって、授業もサボるようになってしまった。今はよくわからない。入学したばかりの頃よりも柔軟に考えられるようにはなったけれど、これからどうしたらいいのかわからない。留学したいとも思うし、院に進むのもあり得る。就職はできればしたくない。しかし働かずしてご飯を食べていいわけがない。

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選びきれない

「いろいろ感じることが多くて困ります」と言った私に、退官したロシア語のH先生は「大人になれば、そういうのは少なくなるよ」と言った。それはもう2年前のことで、その時と比べると私は大人になって、自分の感情がどのようなメカニズムで動くか少しはわかるようになったけれど、未だにコントロールするまでには至っていない。今日だってそうだ。文章が書きたいという気持ちが先走りして、もう10時間もぶっ続けで書いている。音楽が鳴らなくなってから随分経つ。もうすぐ夜が明ける。また来て欲しくもない朝が来る。

 やりたかったのにできなかったことがたくさんあった。今やりたいと思っていることもいくつかはできないままだ。絵空事を浮かべて、期待だけ抱いて、でも実現することはない。私はいつも自分に裏切られる。 

過ぎたこと、選ばんかった道、みな醒めた夢と変わりやせんな*1

 

 

 

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#117 理想と現実。ある大学生の場合 前編

 何かをする前に、実現不可能な期待を抱いてしまう人間が一定数います。私の教えるロシア語のクラスにも毎年そのような学生が何人もいます。「ロシア語ができたらあんなことがしたい、こんなことがしたい」と考えるのは勝手ですが、語学は一足飛びに身につくものではありません。毎日の積み重ねなしに上達はありえません。そしてまた、理想と現実が違ったとしてもそれは誰のせいでもありません

*1

  

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 友達のゴビゴビ砂漠が北海道旅行の予定を立てていた。年始に札幌とその周辺に行くのだという。楽しそうに北海道の情報を集める彼を見ながら、私も3年前の北海道旅行を思い出していた。時間が来て彼と別れた後も、私はしばらく北海道の思い出に浸っていた。そのままふわふわした頭でスーパーに行くとコロッケをたくさん買ってしまった。

 

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札幌市内を流れる豊平川

 寝る前、札幌市内を自転車で走っていた時のことを急に思い出した。モエレ沼公園で午前中いっぱい過ごした私は札幌の中心部に帰る道すがら、父親の病気が治ったらいつか一緒に自動車で旅行したいなあと思ったのだった。今から考えるとロマンチックすぎる夢だった。

 2017年の11月だった。次の年の1月から2月にかけて米沢の自動車学校で免許を取ることになっていた。そして東北から関西に帰って来た2018210日、京都駅で父の家族と会い、彼らが私と父の再会を望んでいないことを知った。いつか父を助手席に乗せてドライブできるかな、なんて考えていたけれど、それはいつまでも夢のままである。でも私が小説を書くことがあれば、再会した父と子がドライブに行く話をどこかに挟もうと思う。

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京都駅。2018年2月10日

 

 こんなことをしたい、あんなことをしたいと私はよく考える。でもその数が多すぎて、全部を実現させるには私自身の力も時間も足りない。また、残念なことに私はたくさんのことを並行してやるのが苦手なようなのだ。一つのことに没頭してしまって他に手を回せなくなることがよくあるのだ。いつも「気が散って」いて「気が多い」私は、これまでたくさんの人に迷惑をかけてきてしまった。

 北海道に行く前、せっかくなので札幌だけでなく他の都市も回りたいと思ったけれど、北の大地は電車だけで回るには広すぎた。自動車の免許を取ったら、来年にでもレンタカーで北海道を旅行しようなんて、3年前は軽く考えていた。結局まだ行けていない。

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米沢の自動車学校

 

 大学に入る時、軽音楽部でドラムをやろうと思っていた。軽音サークルに仮入部して、新入生同士でバンドを組んで新入生ライブで演奏した。曲はGreen Dayの『Holiday』。練習も本番もドラムを叩けるだけで楽しくて、練習すればするほどに自分の演奏がうまくなっているのも解って嬉しかった。これから上達するだろう予感もあったのに、続けることができなかった。やりたいことが多すぎて時間がなかったのだ。人見知りが今よりもひどくて、サークルの雰囲気と自分が合っていないようにも思った。気がついた時にはlineグループから退会させられていた。

 

 浪人時代に本格的に音楽にはまった私は、大学生になればたくさんのライブに行こうと思っていた。水曜日のカンパネラは当時まだそこまでメジャーじゃなかった。みるきーうぇいはまだ大阪で二人で活動していた。いまはほとんど聴かなくなってしまったFM802を私はまだ聴いていて、Midnight Garageという深夜の番組を毎週楽しみにしていた。その番組では月に一回Homecomingsがコーナーを持っていて、大学一回生になってすぐの頃に彼らは2枚目のアルバムを出した。リリースを記念して、6月の末に梅田のシャングリラでライブをするというので聴きに行った。それは私が初めって行ったライブで、前の方に陣取った私はずっと音に合わせて体を動かしていた。ライブに行くときは荷物を少ない方がいいのだという当たり前のことをそこで知った。『LIGHTS』という曲の間奏でギターボーカルの畳野さんとギターの福富さんがギターをつき合わせて演奏するところで立った鳥肌が最後までおさまらなくて、ゾワゾワとした心のままアンコールが終わり、バッジとシャツを買った。途中から最後までずっと泣いていた。物販のところにHomecomings4人がいたけれど、泣いている自分が痛いファンに思えて話しかけるのはやめた。シャングリラで感動に浸った私は、酒飲みが酔いを醒ますように辺りを散歩した。梅田駅には行かず、中津駅周辺の人気のない通りを歩き、淀川を渡り、十三で電車に乗った。音楽が頭から離れなくて、ずっと歌っていた。この感動を忘れないようにしようとも思った。反面、悔しさや嫉妬もあった。あんな風に楽しそうに表現をできる彼らが羨ましかった。彼らのような表現者に自分もなりたいと思った。私はまだ「自分らしさ」のようなものを見つめている時期だった。表現者になる前に漠然とした「人間力」のようなものを培わなくてはいけないと思っていた。感動の余韻は次の日もその次の日も続いて、何も手につかなかった。ずっとぼうっとしていた。

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中津周辺

 翌月にもHomecomingsは、今はなき十三ファンダンゴでライブをした。Not WonkTHE FULL TEENZといった他のバンドもいて、小さなスペースに音楽好きが集まってみんなで騒いでいた。Not Wonkの人がステージから観客のほうにダイブして、ライブハウス慣れしていなかった私は少し怖かった。バンドとバンドの合間になぜかHomecomingsの福富さんが来て話しかけてくれた。嬉しいのと興奮したのとで、何を話したか覚えていない。ロシア語を勉強していることとか、文章で自分を表現したいこととか、そんなことを口走ったと思う。しっかりしたことを話さないうちに福富さんはミュージシャンの誰かに話しかけられて向こうの方に行ってしまった。いつか会うことがあったら、もし次の機会があるとしたら、その時はちゃんと話したいなと思いながらもう4年以上経ってしまった。

 大学生になったらライブにたくさん行こうと思っていたことを、勉強やらサークルが忙しくなるにつれて、私は忘れてしまった。たまに思い出しても、ライブハウスで聴く音楽に自分の情緒が耐えられるか不安で、悩んでいるうちにチケットの発売日を逃すというのを繰り返し、遂にはリリース情報をチェックするのをやめた。

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最後に行ったライブは一年前

 

 大学生になれば映画館にたくさん行こうと思っていた。いっぱしの映画好きだった私は受験勉強から解放されて、たくさん映画を観た。オールナイト上映会にも行った。トークショー付きの上映会にも行った。ただ、映画を観た後はいつもひどく疲れるのだった。泣いたり笑ったりハラハラしたり、とにかく私は忙しかった。自分の鋭すぎる感受性を上手くコントロールできなくて困った。段々、自分の心が擦り減っていくような気がして怖くなった。みなみ会館やシアターセブンの会員にもなったけれど、次第に行かなくなってしまった。

 

【ひとこと】

後編に続きます。

 

【今日の音楽】
クリスマスっぽいMVを選びました。

t.co

 

 

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*1:ユーリー・イシドロビチ・シュクスコイ『ロシア語学習者に送る9つの手紙』シベリア出版,2008,25

#116 何でもない日々(3)

  水曜日。久しぶりに大学の食堂でご飯を食べた。ゴビゴビ砂漠Sさんと一緒に食べた。食堂は感染対策のためにブース型自習室のように仕切りが立てられていて、3人で食べているのにまるで1人で食べているような気分にさせる。誰かが5月ぐらいにzoomの授業の中で言った「段々SF味を増してきましたね」という言葉を思い出した。無言で大学芋を頬張った。

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学食で昼ごはん

 ゴビゴビ砂漠は年始に札幌に行きたいらしい。モエレ沼公園テレビ塔大通公園、時計台。岩見沢に行きたいとゴビゴビ砂漠は言った。札幌出身のSさんいわく「岩見沢には何もない」らしいけれどそれでもゴビゴビ砂漠岩見沢で雪を見たいらしい。自分が札幌で生まれたらどんな風だっただろう。寒いのが好きになっていただろうか。黒海沿岸の保養地に押し掛けるロシア人のように何もない空と強い日差しに憧れるような人間になっていただろうか。将来住むとしたら寒い北国はごめんだけれど、2人は違う意見らしい。さすがはロシア語専攻。

 キャンパスのシンボルだった世界時計が新キャンパスに移転するため明日には見れなくというので写真を撮った。人の少ないことで有名なキャンパスだけれど最近は昼休みに世界時計の周りで写真を撮る人が結構いる。

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世界時計

 3限はロシア経済の授業。最初は退屈だったのだけれど、自分でレジュメにある単語の意味を調べたり、ソ連崩壊後にどん底にあったロシア経済をプーチンがどのように立て直していったのかということを知るのは興味深かった。日本にいては想像もつかないようなロシアならではの事情がたくさんあるのだ。今週は課題が出た。来週までに「ロシアでベンチャー企業は活躍できるのか」調べて簡単にまとめなくてはならない。

 4限の文法の難しい授業を受けてからゴビゴビ砂漠と別れた。パソコン室へ向かう少しの間、同じ授業を受けていたT君と話した。箕面駅近くのカフェとご飯やさんを教えてもらった。

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夜の図書館は幻想的な雰囲気になる

 パソコン室で用を済ました私はまた世界時計のある中庭を横切って図書館に入る。このご時世なので座れる席が決められていて、窓は半開きになっていて寒かった。新着の本の中に『ウガンダを知るための55章』があった。開くと、昔のサークルで先輩だった人が書いた文章が載っていた。嬉しくて写真を撮って連絡してしまった。知っている誰かが頑張っているのを知るのはとても嬉しいことだ。

 探していたロシアのSF小説についての簡単な本が見つかった。寒いので座らず、本棚の前に立ったまま読んだ。いろんな作家の名前と小説の名前が出てきてちんぷんかんぷんだった。知っている名前もちらほらあって、例えばゴーゴリの『鼻』を筆者はSFの枠に入れて紹介していた。ブルガーコフも出て来た。友達がレポートに書いていたストルガツキー兄弟についても長々と書かれていた。一応一通り読んだけれど頭には入らなかった。

 ソ連時代には文学官僚というのがいて、彼らの検閲なしでは本を出版することはできなかったそうだ。ブルガーコフの大作『巨匠とマルガリータ』も、死後になって出版されたものであったし、ストルガツキーも当局に反体制的であると見なされることを恐れて、創作途中で書き進めることを断念した作品もあるらしい。文学だけではなく、映画もそうである。私の好きなキラ・ムラトヴァの『長い見送り』はペレストロイカの時代になってようやく公開されたもので、映画監督としての活動を禁じられた時期さえあった。時代は違うけれど、音楽家ショスタコーヴィチも、スターリンに粛清されることを恐れて活動をやめていた時期もあった。(代わりに彼はスタジアムでサッカーを観戦することに熱中し、サッカーに関する記録を大量に残した。)

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よく行くキャンパス近くのカフェ「風゜輪」


 

 木曜日。早起きしてカフェに行こうかと思っていたけれど物事はそんなにうまくいくはずもなく、昼過ぎになってようやく布団から這い出す有様だった。3限にはぎりぎりに着いた。ゴビゴビ砂漠はまたスーツを着ていて、S先生の服飾史はいつものように面白かった。レジュメの1ページ目にはチェーホフの写真があって、「チェーホフ19世紀末のモード」という題名が書かれていた。「作家とモード(писатели и мода)」という名前の文豪と文学におけるファッションがまとめられたサイトを見ながら先生は授業を進めた。トルストイナロードニキ的ファッション——だらしないルバーシカや裾をブーツに入れたズボン——は私にはおしゃれとは思えなかったが、彼のファッションは信条から来ているものなのだという。先週の授業で読んだゴーゴリの『外套』のファッションもトルストイのファッションも現代人には少し奇妙に思えるが、より時代が下ったチェーホフの服は21世紀の街中で見かけてもおかしくはないと思う——ただし蔓なしの眼鏡を除く——。モード雑誌をよく読み、道行く人のファッションチェックも好きだったという彼は、戯曲にしても短編にしても、登場人物の性格と服装をリンクさせて書いたそうだ。『犬を連れた奥様』と『三人姉妹』の映像を観てその授業は終わった。

 後期の最初の授業から、毎週先生のおしゃれな服装をノートに落書きしていたのだけれど、段々飽きてきて、今週は結局描かなかった。世界時計はまだそこにあった。そこにあったけれど、ブルーシートをかけられていて、文字盤も世界地図ももう見えなかった。週末あたりに新キャンパスに移されるのだろうか。

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 ゴビゴビ砂漠が塾講師のアルバイトに向かうまでの1時間と少しを、今週もまたダラダラ構内の地下談話室で過ごした。私はトムスクに向けて送るメールの文面を練り、対面の彼は北海道旅行の計画を立てていた。談話室は暖かくて、WiFiも通っていて快適である。201711月の北海道旅行を私は思い出していた。新千歳空港に降り立った時の感動、札幌まで向かう電車の窓から見えるどこか寂しい景色、白樺の林水曜日のカンパネラMVでしか見たことがなかったテレビ塔と広い北海道大学のキャンパス。札幌駅に着いた私は駅ビルで味噌ラーメンを食べ、ゲストハウスにチェックインした。時計台を眺め大通公園を歩き、意味もなく市電に乗った後で、近代美術館で北海道出身の芸術家の作品を鑑賞した——日記によれば深井克美、伊藤光悦、神田日勝という人の作品を私は気に入ったみたいだ——。ピカンティというお店でスープカレーを食べ、初めて見るセイコーマートに意味もなく入ったりした。

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テレビ塔大通公園

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北海道大学


 次の日は駅前で自転車を借りてモエレ沼公園まで走った。札幌の街は碁盤のようにできていた。イサムノグチが設計した公園の人工的な山の上に座って吹いては抜けていく風とまだ暖かい日の温もりを感じた。スマホに通知があって、サークルの先輩からメッセージが来ていた。はやく提出物を出してください。そういうようなことが書かれてあった。大阪から離れた北の大地で、サークルの人間関係が急にちっぽけなものに思えた私は、サークルを辞めることをぼんやりと決めた。数カ月前から居場所がないとは感じていたから遅すぎるくらいだった。

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モエレ沼公園

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我流麺舞 飛燕


 豊平川沿いに走って、お昼は「我流麺舞
飛燕」という少し変わった名前のお店でラーメンを食べた。私は別にラーメンマニアではないけれど、魚介ベースでとっても美味しかったそのラーメンの味が未だに忘れられない。メンマもチャーシューも全部美味しかった。また行きたいと思うけれどいつになるだろう。再び自転車を漕いで中島公園ににある北海道立文学館で自転車を止めた。「アントン・チェーホフの遺産」という展示がやってた。数週間前、山形国際ドキュメンタリー映画祭で出会った檜山さんという人に頂いた前売り券を私は持っていた。詳細は忘れたけれど、チェーホフがサハリンで過ごした日々がメインテーマになっていた展示だったと思う。李恢成や宮沢賢治などサハリンに縁のある文学者の展示もあって、その中に林芙美子の直筆の原稿用紙を見つけた私はすっかり興奮して、学芸員さんに色々訊いてしまった。

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道立文学館

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林芙美子の原稿(許可を取って撮影しております)


 文学館を出るとすでに夕闇が迫っていた。スマホに残る写真を見るに、私はその後、市の中心部まで戻り、北菓楼の札幌本館でケーキを食べたらしい。ケーキを食べた後にも関わらず、私はまた昨日と同じようにまたスープカレーを食べた。
GARAKUという名前のそのお店は人気店らしく、たくさんの人がいた。美味しかった。

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スープカレーGARAKU

 経営が苦しいJRの路線は北海道に集中しているらしいと談話室でゴビゴビ砂漠が教えてくれる。北海道旅行最後の日、私はJR千歳線で苫小牧に向かった。苫小牧港から夜に出るフェリーで仙台に向かう計画だった。札幌圏の鉄道はJR北海道の中でも赤字はひどくないようだけれど、苫小牧駅から南東に伸びる日高本線はかなりの赤字らしい。2015年の高潮以来、鵡川駅様似駅の間の線路は切れたままで、様似には振り替え輸送のバスでしか行けないのが主な理由のようだ。いつか無くなってしまうのかもしれない。というか私が調べていないだけでもう路線の廃止が決まっていることもありえる。私は一度襟裳岬に行ってみたいのだけど、その時はずっとレンタカーで行かないといけないのかもしれない。

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札幌駅。ここからいろんな電車が出ていく

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苫小牧駅


 夜、急に気になって調べたら、私が
3年前に泊まったゲストハウスは閉業していた。私が人生で2番目に泊まったゲストハウスだった。そこで出会ったKCとは台湾に行く度に出会っているし、これからも何回か会うことになるだろう。それでも彼女と最初に出会った場所がなくなってしまったのは悲しい。

 

 

 

 【ひとこと】

 写真多めです。北海道旅行のことを考えていたら長くなってしまいました。

 

【今日の音楽】

 苫小牧出身のバンドです。MVの中に北海道の車窓が出てきます。

youtu.be

 

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