シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいる者です

#119 ぺルテス病と自意識

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  小さい頃、街で車いすの人を見かけた。私はその人のことをかわいそうだと思った。その人は守られるべき対象で優しく接しないといけない。その人には誰しもが無償の愛情を注がないといけない。私はそういう風に考える、少し変わった、気持ちの悪い子どもだった。図書室でマザーテレサ宮沢賢治シュヴァイツァーといった人の伝記を何冊も読んでいた私はどうしたら「優しい人」になれるのか考えていた。どうするわけでもなく、またどうする力を持っていないのに、通りの向こうにいる車いすの人のことを助けてあげないといけないと思っていた。駅構内で見かける白杖の人も、公園のベンチに座っているダウン症の人も私にとっては「かわいそう」なのだった。特別学級に通う「障がい」のある友達と接する時、私は7歳児なりに悩んでいた。それはものすごい傲慢で偽善的な感情であったけれど、7歳であれば許されるであろう無邪気さでもあった。

 そんな私が長期入院することになった。8歳の終わり。一時的に歩けなくなる足の病気だった。小児科病棟にはたくさんの子どもがいた。車椅子の友達、ステッキをついた友達、感情は分かるけれどコミュニケーションを取るのが難しい友達。ゆっくりと話す友達。酸素マスクを手放せない友達。春、夏、秋、冬、また春。今はもうなくなってしまったのじぎく療育センターという場所で私は一年を過ごした。

 診断を受けた時、私は泣いた。一年も歩けないなんて、そんなのあんまりだった。一年も友達と会えないなんて。今とは違って、時間の流れが緩やかだった。当時は中学生や高校生になるのはまだだいぶ先のことだと思っていた。夜更かしして作業しても、できることはそれほど多くないと知るずいぶん前の話だ。8歳にとって、一年は永遠にも近い時間だった。最初は心細かった入院生活も、同じ病気の友達と過ごすうちに慣れていった。あの頃は今よりも友達を作るのが簡単だった。平日の昼間は病棟に併設する養護学校——今は特別支援学校と名前が変わっている——に通い、授業を受け、休憩時間には先生の助けを借りて野球をした。午後に病棟に戻り、友達と遊び、ご飯を食べた。別に病院食だからといって不味いと思ったことはなかった。ホタテのフライが献立に出ると嬉しかった。「身体障がい」と「知的障がい」。当時はそんな言葉を知らなかった。なんとなく、何人かの友達と比べて、足が悪いだけの自分の状態は違うというのは分かっていた。運動会も普段の授業も、障がいの程度によってできることが違っていた。時々不公平だと思った。わけもわからず悲しくなることもあった。

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 週末は親が迎えに来る子は外泊できた。母が忙しかったり、病院まで遠かったりして、私が外泊できるのは1か月に1回ぐらいだった。神戸電鉄JRを乗り継いで家まで2時間弱。母の仕事はたぶん今よりもハードで、大変な時期だった。私がぺルテス病という珍しい病気にかかってしまったばかりに、苦労をかけているように感じたりした。 

 外泊する子が家に帰るので週末の病棟は閑散とする。同室の子がみな帰ると、普段は遊ばない隣の病棟の友達のところまで将棋を指しに行ったりした。本の世界に浸ることもあった。いくつかの病室ではいつもテレビが流れていて、ずっとテレビを見ている子もいた。ほとんどゲーム漬けの友達もいた。よく将棋を指した友達の1人は、私が夏に家に戻っている間に病状が悪化して亡くなった。よくわからなかった。ただ彼のことを忘れないようにしようとだけ、はっきりと思った。

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 病院から最寄り駅までは緩やかな下り坂だったと思う。外泊できる金曜日、母は駅までの10分間車いすを押してくれる。郊外の歩道はでこぼこで車輪の上の体に振動が伝わってくる。

 雑踏の中でも、病院から借りている黄色い車いすとその上にちょこんと乗った男の子は目立つ。三宮、駅構内を歩く人がみな私の方を見ている気がした。私はそこで自分が「かわいそう」だと思われていることについて考えていた。通りすがっただけの人に「かわいそうにねえ」と言われるのが嫌だった。思われることだけで嫌だった。以前は障碍を持つ人をかわいそうと思っていたのに自分が「かわいそう」だと思う人がいるのは我慢ならなかった。自尊心がゆるさなかった。でも難しいことに「かわいそう」と思う人も言う人も、悪気がない場合が大半なのだった。(そしてそれが問題なのだ)

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 退院と同時に引っ越して、新しい小学校に通うことになった。4月だった。松葉杖の私の病気について、母は転入先の学校の先生方に何度も説明し、私のできることとできないことを先生方に理解させた。当時は当然のように思っていた母の奔走は、今考えてみると全然当たり前ではなかった。仮に自分に子どができたとして、同じようなことをしてあげられる自信が私にはない。

 明日が始業式という夜、私は緊張して寝れなかった。自分が全校生の前に立ち、松葉杖の姿をさらすのだ。自信がなかったし、どういうわけかとても怖かった。「かわいそう」と思われたくなかった。全校生徒の数が1000人を超えるような人数の多い小学校だった。転校生も20人以上いて、一人一人紹介されるのだった。4年生にしては背の低い私を、私を支える松葉杖を、みなが好奇の目で見ているような気がした。他者の目に映る自分をはっきりと意識するようになったのはこの時だった。それまで、どちらかと言えば目立ちたがり屋だった私は「これからは目立たないでいよう」と思うようになった。

 

 

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