シゲブログ ~避役的放浪記~

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#78 はるかに遠い——『停電の夜に』を読んで

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 2018年の夏のある日、シリア出身だという人に初めて会った。彼は広島大学の大学院で建築を勉強していると言った。F市で行われたインターンシップに私たちは参加していた。インターンとは言ってもほとんど観光のようなものだった。F市にある工場や会社を巡って話を聴くのだ。のらりくらりと大学生をしながら就職もまともに考えたことのない私にとっては気楽なものであった。社会科見学でお菓子工場を訪れた9歳の時と同じ感動をもって金属製品が作られる工程を見ていた。港に面した工業地帯から山際にある漬物工場へ、その次は地域に密着した老人ホーム。私たちはバスに揺られて移動した。隣りに乗っていたのがシリア人の彼だった。

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F市の川沿いの道

『停電の夜に』という本を読んでいる。ベンガルアメリカ人であるジュンパ・ラヒリという人が書いた本だ。題名に惹かれて随分長い間読んでみたかった本である。ただ、どこのブックオフに行っても安売りしている本なので、本当に面白い本なのかどうか不安であった。

 挟みこまれてあるレシートによると、私はこの本を2018年の11月末に近所の古本屋で買ったらしい。一緒に買ったのは『フラニーとズーイ』で合わせて216円だった。まだ消費税が8%の時代だった。その月の私は、ライ麦畑から落ちて行ってしまう人を救いたいなんて言うホールデン少年にさめぜめと涙を流し、大学図書館で観た『ゴースト・ワールド』のイーニドがバスに乗って出かけたのはどこなのだろうと考えていた。久しぶりに授業に出てみたら、教室には学生が半分くらいしかいなくて、変だなと思っていたらその日はプレゼンテーションの発表だった。みんなプレゼンを用意していた。前に立たないのは私だけで、怒り狂った先生は誰かの発表が終わる度に私を指名してロシア語で感想を述べさせた。私は次の日からロシア語の授業には行かなくなった。12月には大学をやめようと思っていたが、高校の時のように自殺を考えることは少なくなっていた。ホールデンやイーニドの抱える苦しみが私のものでもあることを考えると幾分か心が休まったし、自分も誰かのための物語を紡ぎたいと以前にもまして思うようになった。

 300ページ弱の中に9つの短編がある。まだ全部は読んでいない。つまみ食いをするように、目次から気になった短編を選んで読んでいる。

今のところ読んだのは6つ。

「停電の夜に」

「ピルザダさんが食事に来たころ」

「セクシー」

「神の恵みの家」

「ビビ・ハルダーの治療」

「三度目で最後の大陸」

で、残っているのは

「病気の通訳」

「本物の門番」

「セン夫人の家」の3つ。

 

 他者に対する観察眼の鋭さが素晴らしい。小さなしぐさや些細なセリフが細やかに描かれ、人物たちの人格や出自を読者に想像させる。一体全体この作者はどういう人なのだろうと思った。小川高義という訳者の度量もあるかもしれない。折々に挟み込まれるモチーフや匂い、回想は簡潔な一文一文の中に積み重なって登場人物を取巻く世界を浮き上がらせる。わからないものに対して向き合っていこうという姿勢が随所に見える。理解しようという真摯な態度、そして優しさ。この作者が好きだと思った。特に気に入ったのは「三度目で最後の大陸」「セクシー」それから「ピルザダさんが食事に来たころ」。

 一九七一年秋、ある男の人が足繁くわが家にやって来た。ポケットにおみやげの菓子を忍ばせ、家族の安否を確かめたくて来るのだった。名前をピルザダさんという。ダッカから来ていた。今はバングラデシュの首都だけれどあの頃はまだパキスタンの領国にあった。パキスタンに内乱の会った年である。ダッカのある東パキスタンが独立を求めて、西の支配体制と戦っていた。三月までにはダッカまでパキスタン軍に攻め込まれ、焼き討ちがあり、砲撃があった。教師たちは町に引きずり出され、撃たれた。女たちはバラックに引きずり込まれ、犯された。夏の終わりには死者三十万人といわれた。

 ピルザダさんはダッカに三階建ての家があり、大学の植物学講師であり、二十年連れ添った奥さんとのあいだに六歳から十六歳までの七人の娘がいて、いずれもAで始まる名前がついてあった。「母親の思いつきでしてね」

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 ピルザダさんは毎晩6時にやってくる。パキスタンの国費でアメリカに滞在し、植物の調査をしている。といってもお金には余裕がなくて済んでいる学生寮には炊事道具もテレビもない。だから十歳の「わたし」が住む家にニュースを見にやってくるのだった。ピルザダさんがディナーに来たその何カ月に「わたし」が気づいたこと、そして考えたことが30ページちょっとに綴られる。

 インドとパキスタンの違い、そして今ダッカで起きている戦争について父親は「わたし」に教える。一方で、母親は「わたし」にそんな知識は必要ないと言う。アメリカで生まれた「わたし」はそんな混乱とは無関係に生きる特権があるのだとでも言いたげである。そう思ってしかるだけの体験を両親はしてきたみたいだ。

 両親とピルザダさんが同じ言葉を喋り、食事の作法も同じで、同じ肌の色のベンガル人なのに、宗教が違うというだけで、インド人とパキスタン人と分けられる。「わたし」は不思議に思う。次第に「わたし」にもダッカの悲惨な状況がわかるようになる。彼が毎晩テレビニュースを見に来るのも、7人の娘のことが気にかかるからだということもわかってくる。

 市立図書館の自習室で私は涙が止まらなくなった。隣で簿記試験の勉強をしている女の人は音を立てずにしくしく泣いていることに気付いているのだろうか。鼻をすする私に前の人が振り向いてしかめ面をした。机の上には高校受験の赤本があった。図書館の二階に座りながらも私はピルザダさんの人生に思いを馳せ、いつの日か出会ったシリア人の彼を思った。異国の地で故郷や家族と離れて勉強する彼はシリア情勢をどう思っていたのだろう。そして今どこで何を思っているのだろうか。

 その時ももちろん気にはなっていた。しかし私には切り出せなかった。私は観光バスのふかふかのシートの上で、2011年以降の混乱についても、私がロシア語を勉強するようになったきっかけの一つがシリアのことだというのも、何一つ言えなかった。

 議論は嫌だった。シリアにある数多くの主義主張を知っているわけではない。Twitterでよく見かけるホワイトヘルメットについて彼がどう思っているかわからない。このバスの中でする会話にはふさわしくないと思って、だから内戦の話はしなかった。後で後悔した。

 光州事件の起こった時、あるいは天安門事件の起こった時、彼の地にルーツを持つ人々はどのように考えていたのだろう。やはりピルザダさんと同じように同胞で集まり、テレビでニュースを見ていたのだろうか。その時、日本のテレビや社会は彼らに同情や共感を示せていたのだろうか。とても気になった。コロナウイルスが話題になって以降、SNSに見られる差別や偏見を見ればとてもそうとは思えない。

 

 わが家の居間で熱心に動向を追った戦争のことを、学校では誰も話題にしなかった。あいかわらず授業ではアメリカの独立革命を勉強し、代表なくして課税されることの非道を学び、独立宣言の抜粋をそらんじた。休み時間になると男の子たちは二つのグループに分かれ、ブランコやシーソーのあたりで猛烈な追いかけっこをした。植民地とイギリス軍なのだった。

 

 ツイッターを開けば、インスタグラムを開けば世界の情報が手に入る。お気に入りのバンドがライブを告知するその下にジャーナリストがイドリブでついさっき撮られた映像をあげている。高校時代の友達は今日はスターバックスで勉強していてオーストラリアでは山火事がまだ続いている。誰かが生中継のフットボールに一喜一憂するのと時を同じくして、性被害の体験を意を決して語る誰かがいる。私は夜更かしていてラジオを聴きながら文章を書いている。アフリカ東部ではバッタが農作物を荒らしている。同じ地球にいるのにみんなが違うことを考えていて、もちろん、それは素晴らしいことなのだけれど、よほどのことがない限り悲しんでいる人困難な状態にいる人にみんなで寄り添おうとはならない。そしてSNSに集う情報量は私のキャパシティをどんどん削る。優しい人になりたい、知識を得たいと思えば思うほど、余裕がなくなって焦る。

 あるニュースに私が悲しい思いをしてもタイムラインは何食わぬ顔である。みなそれぞれの一日を生きていて、私の心の揺れには耳を貸してくれそうにない。それは当たり前で、でもやはり悲しい。それでも私自身は遠い地の人のことも思い続けていきたいと思う。

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