シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#82 言葉とか場所とか(1)『私小説 from left to right』

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アメリカに生まれていたら楽しかっただろうな」

かつて私の友人がそんなことを言った。私は同意した。私は中学生だった。毎日がどうしようもなくつまらなかった。引っ越し先の街にも学校にもなじめなかった私は親に命じられるままに中学受験をしたのだけれど、中学校も別にたいしたものではなかった。      

 小学校時代、同級生の野蛮さにはいらいらしていた。誰かをいじめたり、けんかや万引きを自慢しているのを見て、早く中学校に行きたいと思った。中学受験をすればこんな環境とはおさらばできて、もっと知的で教養のある友人に出会えるのだと思っていた。でもそれは間違いで、場所が変わっても同世代は馬鹿だった。教室を駆け回る彼らを見て、なんて幼稚なんだろうと思っていた。私はただ勉強し、そして本を読んでいた。そうすることで彼らに優越感を感じていた。優越感を感じながらも彼らのことが羨ましかった。少年なのに「少年らしく」ありたいと願う変な子供だった。トムソーヤーに憧れても彼みたいにはなれなかった。無邪気な少年時代は私にはほとんどなかった。

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歩道橋を歩くと小学校を思い出す

 映画を観るようになった時、アメリカの日常はは楽しそうだった。その国では自分を抑圧しなくてもいいように見えた。最初の頃に観た『SUPER8』や『リトルミスサンシャイン』『スタンドバイミー』に出てくる子供たちは私と違って主体的に行動していた。スクリーンの中に映し出される日常は生き生きとしていて、彼らと比べると、学校と家と塾を電車で往復するだけ生活は空虚でつまらないものに思えた。アメリカでは誰もが自分らしくいられるのだと思っていた。

 しかし私が抱える問題は私自身の問題であって、必ずしも日本の問題と言えるわけではなかった。昔も今も生きづらさの全てが、日本に生まれたことによるわけではない。そんな簡単なことでも気づくのには随分時間がかかった。

 でも次第にわかっていった。私が憧れる明るいアメリカだけがアメリカではないこと。そもそも私が最初にアメリカを知ったのが9.11だった。それからアフガニスタンイラクアメリカのやり方が何かおかしいというのはなんとなく感じていた。大学でロシア語専攻を選んだのも違う視点で世界を見たかったからだった。大学生一年目に受けた中東現代史の授業、そこで学んだアメリカの外交政策は滅茶苦茶だった。「日本人」の私にはおおよそ理解できないことだった。でも私がアメリカで育った「アメリカ人」で、学校で毎朝国家を斉唱するような幼少期を送っていたらイラク侵攻も当たり前だと思ったかもしれない。映画『Zero Dark Thirty』でアメリカ軍特殊部隊がビンラディンを殺害するのも当然と考えたかもしれない。たとえパキスタン政府に通告せずに特殊部隊が作戦を実行し、罪のない彼の家族もその作戦で死んだのだとしても。

 もちろん一口に「アメリカ人」といってもいろんな人がいる。私が「アメリカ人」だったとしても、その肌の色、信じる宗教、住む地域、親の年収と教育程度、その他の要因によって全然違う考え方をしていたに違いない。

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 当たり前だが日本にもいろんな人がいる。大和民族アイヌ、ウチナーンチュ、朝鮮半島にルーツを持つ人、中国にルーツを持つ人、ミックス、自分を何とも規定しない人、等々。1月に麻生副総理兼財務大臣が自身の無知をさらす発言をしたけれど、やっぱり「2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族」というのは無理がある。技術を大陸からもたらした渡来人や、白村江の戦いの後に海を渡った百済の人々、阿弖流為アテルイ)の乱、明治政府がアイヌを迫害した歴史。そうしたものをなかったものにしてもらっては困る。彼が直方市で語った言葉からは、生まれてこのかたメインストリームにいて、自分が「周辺」にあるとは感じたことのない人間の傲慢を感じる。

「だから2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。これに勝る証明があったら教えてくれと。ヨーロッパ人の人に言って誰一人反論する人はいません。そんな国は他にない」

 

 歴史やアイデンティティにしがみつくまでもなく「日本はいい国」と思える国だったらそれが一番いいのにな。

 もし「一つの民族」というのがそんなにいいものなら、どうして少子化対策をしないのかな。

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Tokyo 2019

 

 アメリカの場合、東アジアの島国と比べて、それぞれの人が来た道はより複雑だ。母親とよく観ていたフィギアスケートにもいろんな人がいた。キミー・マイズナーのような幼い私の「アメリカ人」のイメージに合致する人もいればクリスティーナ・ガオや長洲未来、カレン・チェンのように私と顔が似ている人もいた。ジョニー・ウィアーのように差別と偏見に立ち向かう人もいた。レイチェル・フラットのように学業を続けながら競技に打ち込む人もいた。私の周りでもLGBTQに対する知識はまだまだである。一流大学で勉強する傍ら国際大会にも出るような日本のアスリートは稀だ。ただフィギアスケートは「お金のかかる」スポーツなので、私が目にするアメリカのスケーターがアメリカのすべてというわけではないのであった。そもそも、もう「アメリカ」という言葉でひとくくりにできるものなど限られているのだ。

 

 

私小説 from left to right』はそんな「アメリカ」で育った水村美苗が主人公である。題名にも「私小説」とあるし、いくらかフィクションが混ざっているとはいえ、この本が作者水村美苗私小説であるのは間違いないと思う。もしこれがまるっきりのフィクションだったらそれはそれで面白いけれど、それではこの文章が成り立たないからその可能性は今は考えない。

 主人公の美苗は大学近くの部屋で一日中座っている。そしてアメリカに移り住んで以降の家族の来し方、母と姉と自分、そして自分の人生に登場した人物たちを取巻く運命を日がな一日考えている。外界とつながっているのは姉奈苗との電話だけである。博士課程に入るための口頭試験を控えているのだけれど、まだ踏ん切りがつかなくて、試験の日程を決めるのを数回先延ばしにしている。それでも勉強をする気になれなくて、日記と称した文章をコンピューターに書くことを憂鬱のはけ口にしている。まだ美苗のいる大学町には日本語のソフトウェアがなくて、だから彼女が書く文章は左から右へと進む。

 

 実際、今の私の日常は何もしないことに終始していた。机にまともに向かうのがそもそもつらく、朝起きたままの格好でマットレスの上に寝転んで必要文献を読もうとするのだが、とりとめのないことばかり頭に浮かんでくる。これではいけないと意を決してシャワーを浴び服を着替えてもそのあと髪をドライヤーで乾かしたりしたりするうちに、またぼんやりしてしまう。午後になれば雑誌やjunk mailが届くのでそれをいいことに読むともなく頁をめくっていると、もてあますように思えていた時間もいつのまにか経ってしまい、気がつけば日はもう暮れているのであった。夕食を済ませてふたたび文献を手にする頃にはじきに奈苗からの電話がかかってくる。くる日もくる日も不毛に送り、ひたすら口頭試験を先送りしているだけでは、口頭試験を受けるのはもとより、鼻先にある大学に足を踏み入れるのすら怖くなってあたりまえであった。

(中略)

 眠りが浅くなると昼間は考えないように努めていたことが次から次へと半分覚醒した意識にのぼり、ふと眼が覚めると、もう心がざわざわして寝られないのであった。時がとうとう本当にたってしまったこと、帰る家がもうアメリカにもないこと、母に捨てられたのも知らずに白い目を天井に向けホームのベッドに寝転がっている父のこと、母を捨て、ご苦労なことにSingaporeまで年下の男を追っていった母のこと、この先の奈苗のこと自分のこと——そのほか諸々の思いが私を襲い、枕の上から闇を見つめながらいつのまにかめそめそと泣いていることもあった。そして気がつけば朝の光がブラインドの横から漏れているのだった。

 主人公美苗の家族は彼女が12歳の時に日本を出てアメリカに来た。

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 (続きます)

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#81 文章の中に彼らがいてくれるおかげで。——『上海ベイビー』の天天と『ライ麦』のホールデン

 

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『上海ベイビー』を読んだ。衛慧(weihui)という人が女性が1999年に発表した小説である。現代は『上海宝貝』らしい。「宝貝」と中国語の辞書で引いたらどういう意味なのだろう。まさか「ベイビー」と出るわけではないと思うけど。気になる。

 主人公はココという名前の25歳。名門復旦大学を出て、今は作家をしている。彼女の行動は刹那的で非論理的で、退廃に満ち溢れている。世紀末の上海。広いようで狭いこの街でココと登場人物たちの断片的な物語が進む。

 ユーゴスラビアアメリカ軍が空爆しても、同棲相手が薬物中毒になっても、ココは決して人生を悲観しない。悲しむことはあっても決して絶望はしない。そして自分の人生に自分で決断を下していく。その決断が誰かを裏切ることにつながってもココは自分を曲げたりはしない。

 対照的なのはボーイフレンドの天天である。彼は外界との交流を極力断ち、自分が安住していられる場所に留まろうとする。身の回りの数人しか信用せず、ココと出かけるパーティーでもソファーに座ってぼおっとしていたり、ラりったりしている。先の見えない都会の生活。堕落で退廃的な人々が繰り広げる、確かな軸のないストーリーはどこかしら『限りなく透明に近いブルー』に似ていた。

 天天はとても正直で素直である。過去に家族の中でのゴタゴタがあり、それに伴う人間不信から、彼は外の世界から距離をとることにした。肉親の中で唯一心を開いているのは祖母だけである。異国に住む母親は彼にお金を送るだけで、手紙をやりとりするだけの関係である。純粋さゆえに彼は「大人」の「汚い」世界には決して足を踏み入れようとしない。自分が「汚く」なることに彼は耐えられない。

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 『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンと天天は驚くほど似ている。彼らは二人ともセックスができない。そして物語の最後で、彼らは二人とも社会にはいられなくなる。天天はホールデンやココのように何かを語るわけではない。でも『上海ベイビー』に出てくる登場人物の中で私が一番共感できるのは彼だった。彼らのような人間がアメリカにも中国にもいることは救いだ。彼らは決してメインストリームにはなれない。理解してくれる人間も一握りだ。大概は「変人」とか「メンヘラ」とかレッテルを貼られてそれでおしまいである。でも彼らが本の中にいるからこそ、私は救われた。たぶんそんな人はいっぱいいると思う。

 彼らの苦悩はもしかしたら贅沢かもしれない。日々生きるか死ぬかを考えている人間、今日のご飯、来月の家賃で頭が痛い人間とは違う場所で天天もホールデンも生きている。労働という言葉が持つイメージとは遠い場所にいる。

 実際、うつ病を抱えている人に対して「それは怠けだ!」という人はたくさんいる。私が「うつ症状」と診断された時もそんな言葉を向けられた。身近な人にも言われてますます絶望した。

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 それから、当たり前だけど小説と現実は違う。物語を読む私たちは天天やホールデンのように印字された存在だけのではない。自分の肉体を持っている。仮に彼らと「全く」同じ苦悩や生きづらさを抱えていたとしても、私がいるのは現実世界である。つねれば痛い。風が吹けば寒い。ホールデンが精神病棟に入り、天天が薬が原因で死んだとしても——「社会的生活」を拒否したとしても——現実世界に生きる我々は生きなくてはならない。我々は紙の上の彼らとは違って、まだ居場所があるはずだ。そして、簡単に消えられないだけの理由や義理がある。バイトのシフトや親の期待、恋人との約束や友人との旅行、同窓会忘年会内定先の人との飲み会。がんじがらめである。とかくに人の世は住みにくい。

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 天天やホールデンのような人たちは物語の上でしか存在できない。概念でしかない。——同じように私の書く文章もある意味では「演技」のようなものである。現実の私は文章の上での「私」とは違って肉体がある。嫌いなものも好きなものもある。それを忘れないでほしい——でも物語の中に彼らがいてくれるから、彼らを理解しようという試みは起こると思う。彼らが活字の中にいるからこそ、救われる人もいる。

 映画『パラサイト』や『万引き家族』だってそうだと思う。有名になって、多くの人が観て、その中には格差を初めて知る人もいる。その問題を解決しようとか、理解しようと考える人もいる。創作物として世に出たからこそ、問題を提起できるのだ。「ふーん怖いね」なんて言ってディナーを続ける人が多数だったとしても、何人かは、少なくとも誰か1人は関心を持ってくれるはずと思う。そう信じたい。

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ホテル・ルワンダ』も『ルンタ』もそうだ。『トークバック』も『これは君の闘争だ(現題:Espero tua (re)volta)』もそうだ。自分もまだ何かできるはずだ。 

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Hotel Rwanda

I think if people see this footage they'll say, "Oh my God that's horrible," and then go on eating their dinners. 

 

 サリンジャーの主人公があんなに赤裸々にぶちまけてくれたおかげで私は救われた。

 できることなら私も文章を書くことで誰かを救いたい。「子どもがライ麦畑から落ちてしまわないように捕まえてあげたい」と言うだけだったホールデンよりももっと直接的に具体的に誰かを救いたい。おこがましいかもしれないけど、「誰か」に「何か」を与えたいのだ。それがこうして私が文章を書き続ける理由である。わたしが誰かの文章にたくさん励まされたように、私も誰かの力になりたい。これに関してはおこがましいと思われてもいい。本心だもの。

 

 

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#80 正月

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 正月が来るのがイヤだった。
 母と祖父と三人で過ごす年の瀬はつまらないと思った。嫌でも祖母の死を実感してしまう。
3人では麻雀ができない。22に分かれての百人一首もできない。おばあちゃんの作った田作りも栗きんとんも無い。3人でテレビを見て寝て起きて買ったおせちを食べて終わりだろう。元日の午後には従兄弟たちがやって来るけれどそれも挨拶程度のものになるだろう。昔みたいにみんなで寝るぎりぎりまで麻雀をしたり、漫才を見たり、順繰りにお風呂に入ったり、一つの部屋で寝たりはしない。おばあちゃんが死んでからは大勢が泊まることは無くなってしまった。布団を敷いたり掃除をしたりする人がいないからだ。当たり前だと思っていたことは幸せだった。

 残されても祖父は祖父で楽しくやっている。私より干支が5周も進んでいるおじいちゃんは今年で84である。それでもだいぶ健康で、毎日のように囲碁自治会の集まり——だいたいは飲み会が目当てだと私はにらんでいる——に出かけている。まだ週に一回の野球も続けている。口うるさい祖母が死んで、以前にもまして伸び伸びとやっている。

 去年も一昨年も極力家族で集まる時間を極力短くしようと試みた。一昨年は京都の農場で泊まり込みでバイトをして、去年はロシアに旅行していた。祖母がいなくなったことをまた実感するのは耐えられなかった。元々が大家族でない上に、祖父の3人の子どもたちのうち1人は返ってこないのだ。今年も予想通りのなんだか寂しい正月だった。結局母が一泊、私が二泊しただけだった。伯母は従兄弟たちと一緒に元日の午後に来て一緒に楽しくご飯を食べた。

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農場。寒かった

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モスクワ。寒かった


 仮に、私にも父親の家族というものがあれば、また違ったのかもしれない。お正月はそういうことを毎年思う。記憶の中の父の家での正月は人数が多かった。それから庭が広くてたぶんお金持ちだった。

 ある時期を境に私の中で父親は死んだ。赦す赦さないという生半可なものではなく、そもそも最初から無かったと思うことにした。そうでも思わないとやっていられないような出来事が起こってしまった。「それはね、誰が悪いとかじゃなくてね、、、」と私に語った人がいたけれど、私はもう泣きわめくだけの3歳児ではない。悪いのが誰かなんて、もうわかりきっている。謝ってほしいと思うけれど、謝罪が何かを変えるわけではない。心の荷がすっきりするとは思わない。前に進むためにはただただ忘却のみである。謝ってほしいと思っている限り、大人になれない気がする。でもふとすれば未だに考え込む。眠れない夜、一人で乗るエレベーター、気が散った授業。キーンと耳鳴りが始まって時間の流れが緩慢になる。そういった時に限って先生は私を指名して、私はまた答えられない。私は永遠に不完全なままだ。私の家族も不完全で、だから私の人間性も大きな欠損を抱えている。そんな風に思う必要はないし、間違っているのはわかる。でも随分長い間そんな風に思ってきてしまった。テーブルの染みはいつまでも消えない。いくつかの呪いの言葉もまだ解けない。

 

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 おばあちゃんが死ぬ時、家族の関係はよくなったように思えた。

 入院して死ぬまでの1カ月、みんながおばあちゃんのことを考えていた。家族の昔話を祖父が語り、祖父の娘である伯母と母がまた語った。私と従兄弟たちはアルバムを見たりした。

 みんなの中にいて、おばあちゃんはもう生きる気力をほとんど無くしていた。不貞腐れた女の子みたいだった。私は死ぬ直前であってもわがままばかりのおばあちゃんを愛おしく思っていた。でもそんな風に考えるのは自分とおばあちゃんのパワーバランスが完全に逆転したからだった。それを思うととても悲しくて、病室が私だけになると「早く死にたいのよもう」なんて言うので毎日泣いていた。家族が集まってゼリーやら菓子やら持ってきても「そんなのいいのよもう」なんて鬱陶しがった。祖父が来るとあからさまに嫌がって「早く帰って」なんて言っていた。生きる希望なんて持っていなかったから、びっくりするほど衰弱がはやかった。

 たまたまおばあちゃんがホスピスにいた時期が春休みで、私も従兄弟たちも毎日のように彼女の部屋に通った。市のはずれにある埋め立て地で、窓からは小さなヨットハーバーが見えた。私は故郷から遠く離れた場所で死ぬ彼女の人生を考えたけれど、よくわからなかった。

 本当に祖母が死ぬ時になってようやく母の兄がやって来た。でも会わせてもらえなかった。「大人の事情」があって、当事者にしかわからない赦す赦さないの議論があって、結局彼はお土産だけおいて帰った。でも残念ながらそのお土産も彼ではなく妻が選んで買ったものなのである。おそらくは。

 死ぬまではおばあちゃんのことを考えてみんなが一つになっていた気がしたのに、葬式の後に家族関係が良くなるかと考えていたのに、そうでもなかった。またいつも通りの毎日があって、またいつも通り反りが合わなくなった。先週までは仲が良い家族みたいだったのにな、なんて思っていた。違和感しかなかったけれど、私には参政権は無くて、家族の中では二流市民扱いなのだ。私が何か言っても「なるほど、シゲはそう思うのか、ちょっと変わってるなあ」なんて大人たちは言った。何か気に入らないことを言うと「うるさいだまっとれ」とでも言いたげにすごい剣幕で怒鳴られたりした。

 祖母が死んだ後の一時期、祖父と暮らしていた。でも言葉の端々に現れる前時代的な偏見や差別に私は耐えられなくて、一緒に暮らすのをやめた。彼は私がなぜこんなに悲しくなるのかわからないみたいだった。祖父の勘違いや言葉に傷つく度に祖母のことを考えた。おばあちゃんはいつもおじいちゃんの愚痴を言っていた。理解されず、少しも分かり合えず、苦しさを抱えたまま愚痴を言いながら死んでいった。元々自分が会社で稼いでいるからといって自分の妻と子供を自分の所有物でもあるかのように考えているような人間なのだ。知れば知るほど人間は分かり合えないという思いがますます強くなった。

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 祖父は祖父なりに祖母の死を悲しんでいた。友人に祖母の絵を描いてもらったり、今まで祖母と文通していた人に祖母の描いた絵ハガキを送り返してもらったりした。そういう祖父の様は微笑ましいものではあるのだけれど、一方で違和感もあった。

 祖母が偶像化されている気がした。私が知ってる彼女は聖女でも仏でもなかった。もっと人間らしかった。優しくて厳しくて、大雑把でわがままで、ありとあらゆる矛盾を抱えた人だった。そんなおばあちゃんを「素晴らしい人やったんや」という一言だけで語って欲しくない。

「ねえおじいちゃん、おばあちゃんはおじいちゃんのことを恨みながら死んでいったんやで? そのことを覚えてる? こんなん飾ってどうするん?」

 何度か祖父に問い詰めてしまった。でも私が口にしても祖父は私の言葉など信じない。その議論さえもう覚えていないだろう。一度彼は「おばあちゃんとおれの間にあるものはお前にはわからないだろ。もうそってしておいてくれや」なんて言った。

 それにはもう何も言い返せない。でも私が会う時祖父母はほぼ毎回喧嘩していたのだ。正月は毎年口論になったし、旅行先でも祖母はイライラしていた。でも残念ながら素晴らしく前向き思考な祖父はそんなこといちいち覚えていないのだ。自分の関心のないことには無頓着な彼には、妻の機嫌も妻の怒りも記憶の彼方の出来事なのだ。いいよなあと思う。彼は今でも日本経済が上向きだと思っているし、自分のもらっている年金と同じぐらいの給料を日本人全員がもらっていると思っている。私の世代はもう年金などもらえないだろうという話をした時には一言「残念だな」とだけ言った。他人の立場に立って物事を考えるというのがどだい無理な人なのだ。

 祖母にちなむ物が家の中に飾り立てられた様は哀しかった。同じ家族でもものの見方というものはこうも違うのか。何年も一緒にいて、でも彼らが結局分かり合えなかったことを思うと否が応でも人生に悲観的になる。夫婦としての祖父母、彼らの下に生まれた3人の子供たち、母、伯母伯父。随分前から私は自分の結婚に肯定的な気持ちになれない。

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 おばあちゃんが死んで、近くなると思っていた家族の距離は遠くなった。祖母の死によって解決するかに見えたいくつかの問題は結局解決されないままに残り、いくつかの新しい問題が起こった。それはイライラする政治であった。みんなが笑い合うだけの家庭なぞありえないのはもう知っているけれど、あまりにもひどいと思った。

 これからもずっと正月になると祖母のことを思う。恨み言を言いながら死んでいった祖母の人生を考える。別に何かをしてあげれなかった申し訳なさがあるわけではない。ただ、もっとお喋りがしたかった。私も祖母も年々偏屈になって、何回も口論をしたけれど祖母は私の一番の話し相手だった。

 今年もやはりおじいちゃんの一言一言はピンボケで、おばあちゃんがいてくれたら楽しかったのになと思い、そんなことを思うなんておじいちゃんに悪いなと思った。元来一人で過ごすのが好きな祖父はそばを食べてからすぐに二階にあがった。明日はおせち食べるから早く起きろよと私に言った。紅白が終わってテレビ画面はゆく年くる年になっていた。ガキ使にチャンネルを変えたりしたけれど、昔と違って蝶野のビンタを笑えなかった。やっぱりNHKに戻そうとなって、そのまま母と二人でぼんやりしているうちに気づけば2020年だった。ほどなくして母も寝に行って、私はテレビの前で一人になった。数人にラインを送って私も寝た。

 寝る前、初めてガラケーを買ってもらった年を思い出した。その年、私のケータイは年が替わった瞬間にいくつものメールが届いた。私も正月の布団の中で一つ一つメールを返した。私は私で年賀状を書く人とメールを送る人のリストを作っていて、一人ひとりにメールを打った。クラスメイトには一斉送信で送る人もいて、ケータイ初心者の私は「そういうやり方もあるのか」などと感心したりした。

 元旦はおせちを食べた。田作りが美味しくなかった。おばあちゃんの作る田作りときんとんはもう二度と食べられない。昼、初詣に行った。三人で行くのは初めてだった。

 

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#79 意味のないこと意味のあること

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「どうしてお前は意味のないことを心配するんだ?」

 高校の時に友達に言われた言葉。部活の試合の帰りでみんな疲れた顔でバスに乗っていた。ちょうど女の人が降りたあとだった。その女の人というのが問題で、彼女の腕には無数の切り傷があったのだ。どうもリストカット——だけでなくアームカットも——をしているように見えた。その女性が去った後、私は何かを言わずにはいられなかった。目の前を通り過ぎていった傷跡をみんなで見て沈黙なんてありえない。「あの人、つらいのかな。大丈夫かな」そんなことを言ったと思う。「かわいそう」とは思わないように努力していたけれど、どのみちほとんど同じことだった。ひどく心配そうに言う私に向かって一人が言ったのが冒頭の言葉である。私は何も返せずに黙り込んでしまった。

 ある意味で彼は正しい。実際問題、私は彼女がバス停で下りるのをただ見送っただけである。彼女は私の顔をちらりと見ることもなく黙って乗車賃を払い、歩いて行った。私は彼女と話すわけでもハグをするわけでもなかった。彼女のことを何一つ私は知らない。以前に会ったこともない。だからどうすることもできない。もちろん私の心配は彼女に届くことがないし、何の実も結ばない。無意味だ。そして、友人同士のうちには不要ともいえる同情を示した私は偽善者だったかもしれない。冒頭の言葉を言った彼は、私の偽善を感じ取っていたのだ。

 それでも、と私は思っていた。やっぱり気になるじゃないか。同じ社会に暮らしている以上、他人事ではないだろう。そう思っていたけれどそのモヤモヤを言葉にできなかった。馬鹿にされる気がして何も言えなかった。ただただ腹が立った。彼の言い分は正しいかもしれないとも思った。私がどうこう考えたところで仕方のない問題というのはやはり存在する。

 でも。とやっぱり小さく呟く。誰かのことを自分の中で考える事、それを口に出すこと。それは本当に意味のないことなのだろうか。それが本当にどうしようもないものだとしても意味はあると思う。そんなことをグダグダ考えるのが私は好きだ。毎日どうしようもないくらいにモヤモヤしている。

 

 18歳の夏休み。勉強したくなかった。2年前に鬱になってから勉強に打ち込めなくなっていた。高校を退学しようとまで思っていた自分がまた学校に行けるようになった時点でそもそも成長だったし、もう頑張らないでもいいやという気もあった。こうなりたいという自分の夢に大学のための受験勉強が直結している気がせず、100%の力で打ち込めなかった。

 そんな中広島県では信じられない量の雨が降って、テレビの中では豪雨災害が報じられていた。感じやすい私は居ても立っても居られなくなった。ブックオフや図書館、映画館に入り浸り、自習しに予備校に行ったり行かなかったりしているのなら、いっそのことボランティアに行く方がいいのではないかと思ったのだ。中途半端に勉強をしているよりボランティアに行って人のために動きたかった。

 予備校の地理の教師が広島市の土砂災害のことを話した。

□□区のあの場所、〇〇なんて名前をつけられる前は、あの場所は元々「△△」と呼ばれていたみたいですね。昔の人は地名や漢字に意味を込めていたのに、そんな漢字の地名に誰も住みたくないから、住宅地を作る時に新しい地名にしたみたいですけど、愚の骨頂ですね」

そんなこと言えるのも安全圏にいるからだと思った。暑い8月に駅前ビルの涼しい教室で、これまた涼しい環境で勉強する生徒を相手に仕事をしている人の言葉だった。別にその言葉が不謹慎だとは思わなかった。

 センター模試の解説講義だった。無料というだけで受けた授業なのでその先生の話を聴いたのは後にも先にもその時だけだ。髪の長い男の人で世捨て人のような風情を漂わせていた。「あんな格好のわるい製品作って、アップルももう終わりなんちゃいますか。今頃、ジョブズさん天国で悲しんでいるんじゃないですかね」みたいなことも同じ授業で言っていた。

「そんなことは考えなくてもいい。あなたは勉強すればいいだけ」

ボランティアに行きたいと告げた私におばあちゃんは怖い顔で言った。「あなたみたいなのが行っても足手まといになるだけ。邪魔よ」とまで言った。肺がんの手術をした後で昔みたいに声を張ることも少なくなっていたけれど、その時の声には迫力があった。私が知る限り祖母はずっと「教育ママ」だった。その教育熱心さが私や周囲を苦しめていてもお構いなしに振舞っていた。

 その午後、私は同じ日本に住んでいながら、そんな風に言えてしまう祖母が怖かった。無関係でいれる彼女に違和感があった。私はそのニュースを見て本当に悲しかったし、勉強もせずに無為に時間を過ごしていた分、余計に心が痛かったのだけれど、そんなこと彼女には関係なかった。

(もちろん、おばあちゃんの言った言葉は間違いである。被災地には力のあるなしに関わらず、被災地でできることはある。探せばいくらでもある。少なくとも2017年の8月の朝倉市201911月のいわき市にはやることはいくらでもあった。)

 

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 意味を求めていくことは怖いことだと思う。物事が合理的か合理的でないか、有益なのかそうでないのか。つきつめるとそう言った議論に至るように思う。意味を求めていった挙句に、大多数にとって必要でないものは、たとえ少数の人に必要不可欠なものであっても、全員にとって必要のないものになってしまうかもしれない。逆に、少々被害を被る人がいても、大多数に有益なものはどんどん取り入れようとなるかもしれない。

 今の日本で怖いのは「必要がないから」と言って切り捨ててしまう人がとても多いことだ。意味がないから、遠すぎるからといって理解を示さない人、不必要だと思う人、私は彼らが怖い。

「その人にとって必要がないこと」でしかないのに、まるで「社会全体にとっても必要のないこと」であるかのように語る人もいる。

「ロシア語を勉強しています」なんて言っても関心を示してくれる人は案外いない。「ふーん、ウケるね」とでも言いたげに半笑いを浮かべる人が多い。別に彼らにはどうとも思わない。けれど、「ロシア語勉強して意味あるの?」なんて聞いてくる人に対してはちょっと腹が立つ。有益か無益かを基準としている浅ましさや卑しさにがっかりする。人間だれしもご飯を食べていかないといけないのだから、仕方がないことではある。でも社会の大勢が「有益か無益か」で考えるようになったとしたらそれはとんでもない時代になってしまう。少なくとも文化は死んでしまうと思う。精神的な豊かさも死ぬだろう。もうすでに瀕死の状態なのに。

 「国益」という言葉が私はとても怖い。無差別殺人を起した挙句、自死した人に対して「死ぬなら一人で死ね」と書き込んでしまう人が怖い。その人の苦悩に思いを馳せる事ができずに、理解ができないからといって、その言葉が苦悩を抱える他の人を傷つけると想像できない人が怖い。殺された人が外務省の公務員だったからといって、「有益な」その人が「無益な」人に殺されたことを声高に言う人も怖い。家で何もせず、暴力を振るう引きこもり息子がニュースで報じられるような事件を起こす前に、息子を殺した元官僚の父親を賞賛できてしまう人が怖い。子どもができないからといって同性同士のカップルは「生産性がない」なんて言ってしまう政治家が怖い。障害者が「誰のためにもなっていない」と決めつけて殺してしまう人が怖い。その人の言葉に共感できる人が怖い。「日本を守る」と言って、その言葉を盾に在日外国人を攻撃する人が怖い。そして傷ついた人に無関心で、鈍感な今の社会がとても怖い。

 

 極論ではあるけれど全てに意味などないのである。そもそもいつか人類は滅びる。考えると怖いけれど実際そうなのだ。アフリカで二足歩行するようになってからの数千年の営みもいつかはすべて無に帰る。気候変動の問題をうまく乗り越えたとしても、いつの日か地球は太陽に飲み込まれる。それ以前に宇宙に脱出できたとしても、終末は来るだろう。

 それより前、何十年後かには私は死ぬ。手塚治虫の『火の鳥』に出てくる人たちみたいに100年も200年も、1000年も生きていたいと思うけれど、私の肉体にも精神にもいずれ限界が来る。そのことを考えたら、今の営みなんて、今日も明日も来年も何の意味もない。ただ毎日何となく楽しくて、意味があると思い込んでいる日々を何となく送るだけでいい。辛いことも悲しいこともいつかは無になる。そう考えると少し楽になれる。どうせなら馬鹿みたいに泣いて笑っていこうと思う。

 私は時々宗教が欲しいと心底思う。

 

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#78 はるかに遠い——『停電の夜に』を読んで

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 2018年の夏のある日、シリア出身だという人に初めて会った。彼は広島大学の大学院で建築を勉強していると言った。F市で行われたインターンシップに私たちは参加していた。インターンとは言ってもほとんど観光のようなものだった。F市にある工場や会社を巡って話を聴くのだ。のらりくらりと大学生をしながら就職もまともに考えたことのない私にとっては気楽なものであった。社会科見学でお菓子工場を訪れた9歳の時と同じ感動をもって金属製品が作られる工程を見ていた。港に面した工業地帯から山際にある漬物工場へ、その次は地域に密着した老人ホーム。私たちはバスに揺られて移動した。隣りに乗っていたのがシリア人の彼だった。

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F市の川沿いの道

『停電の夜に』という本を読んでいる。ベンガルアメリカ人であるジュンパ・ラヒリという人が書いた本だ。題名に惹かれて随分長い間読んでみたかった本である。ただ、どこのブックオフに行っても安売りしている本なので、本当に面白い本なのかどうか不安であった。

 挟みこまれてあるレシートによると、私はこの本を2018年の11月末に近所の古本屋で買ったらしい。一緒に買ったのは『フラニーとズーイ』で合わせて216円だった。まだ消費税が8%の時代だった。その月の私は、ライ麦畑から落ちて行ってしまう人を救いたいなんて言うホールデン少年にさめぜめと涙を流し、大学図書館で観た『ゴースト・ワールド』のイーニドがバスに乗って出かけたのはどこなのだろうと考えていた。久しぶりに授業に出てみたら、教室には学生が半分くらいしかいなくて、変だなと思っていたらその日はプレゼンテーションの発表だった。みんなプレゼンを用意していた。前に立たないのは私だけで、怒り狂った先生は誰かの発表が終わる度に私を指名してロシア語で感想を述べさせた。私は次の日からロシア語の授業には行かなくなった。12月には大学をやめようと思っていたが、高校の時のように自殺を考えることは少なくなっていた。ホールデンやイーニドの抱える苦しみが私のものでもあることを考えると幾分か心が休まったし、自分も誰かのための物語を紡ぎたいと以前にもまして思うようになった。

 300ページ弱の中に9つの短編がある。まだ全部は読んでいない。つまみ食いをするように、目次から気になった短編を選んで読んでいる。

今のところ読んだのは6つ。

「停電の夜に」

「ピルザダさんが食事に来たころ」

「セクシー」

「神の恵みの家」

「ビビ・ハルダーの治療」

「三度目で最後の大陸」

で、残っているのは

「病気の通訳」

「本物の門番」

「セン夫人の家」の3つ。

 

 他者に対する観察眼の鋭さが素晴らしい。小さなしぐさや些細なセリフが細やかに描かれ、人物たちの人格や出自を読者に想像させる。一体全体この作者はどういう人なのだろうと思った。小川高義という訳者の度量もあるかもしれない。折々に挟み込まれるモチーフや匂い、回想は簡潔な一文一文の中に積み重なって登場人物を取巻く世界を浮き上がらせる。わからないものに対して向き合っていこうという姿勢が随所に見える。理解しようという真摯な態度、そして優しさ。この作者が好きだと思った。特に気に入ったのは「三度目で最後の大陸」「セクシー」それから「ピルザダさんが食事に来たころ」。

 一九七一年秋、ある男の人が足繁くわが家にやって来た。ポケットにおみやげの菓子を忍ばせ、家族の安否を確かめたくて来るのだった。名前をピルザダさんという。ダッカから来ていた。今はバングラデシュの首都だけれどあの頃はまだパキスタンの領国にあった。パキスタンに内乱の会った年である。ダッカのある東パキスタンが独立を求めて、西の支配体制と戦っていた。三月までにはダッカまでパキスタン軍に攻め込まれ、焼き討ちがあり、砲撃があった。教師たちは町に引きずり出され、撃たれた。女たちはバラックに引きずり込まれ、犯された。夏の終わりには死者三十万人といわれた。

 ピルザダさんはダッカに三階建ての家があり、大学の植物学講師であり、二十年連れ添った奥さんとのあいだに六歳から十六歳までの七人の娘がいて、いずれもAで始まる名前がついてあった。「母親の思いつきでしてね」

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 ピルザダさんは毎晩6時にやってくる。パキスタンの国費でアメリカに滞在し、植物の調査をしている。といってもお金には余裕がなくて済んでいる学生寮には炊事道具もテレビもない。だから十歳の「わたし」が住む家にニュースを見にやってくるのだった。ピルザダさんがディナーに来たその何カ月に「わたし」が気づいたこと、そして考えたことが30ページちょっとに綴られる。

 インドとパキスタンの違い、そして今ダッカで起きている戦争について父親は「わたし」に教える。一方で、母親は「わたし」にそんな知識は必要ないと言う。アメリカで生まれた「わたし」はそんな混乱とは無関係に生きる特権があるのだとでも言いたげである。そう思ってしかるだけの体験を両親はしてきたみたいだ。

 両親とピルザダさんが同じ言葉を喋り、食事の作法も同じで、同じ肌の色のベンガル人なのに、宗教が違うというだけで、インド人とパキスタン人と分けられる。「わたし」は不思議に思う。次第に「わたし」にもダッカの悲惨な状況がわかるようになる。彼が毎晩テレビニュースを見に来るのも、7人の娘のことが気にかかるからだということもわかってくる。

 市立図書館の自習室で私は涙が止まらなくなった。隣で簿記試験の勉強をしている女の人は音を立てずにしくしく泣いていることに気付いているのだろうか。鼻をすする私に前の人が振り向いてしかめ面をした。机の上には高校受験の赤本があった。図書館の二階に座りながらも私はピルザダさんの人生に思いを馳せ、いつの日か出会ったシリア人の彼を思った。異国の地で故郷や家族と離れて勉強する彼はシリア情勢をどう思っていたのだろう。そして今どこで何を思っているのだろうか。

 その時ももちろん気にはなっていた。しかし私には切り出せなかった。私は観光バスのふかふかのシートの上で、2011年以降の混乱についても、私がロシア語を勉強するようになったきっかけの一つがシリアのことだというのも、何一つ言えなかった。

 議論は嫌だった。シリアにある数多くの主義主張を知っているわけではない。Twitterでよく見かけるホワイトヘルメットについて彼がどう思っているかわからない。このバスの中でする会話にはふさわしくないと思って、だから内戦の話はしなかった。後で後悔した。

 光州事件の起こった時、あるいは天安門事件の起こった時、彼の地にルーツを持つ人々はどのように考えていたのだろう。やはりピルザダさんと同じように同胞で集まり、テレビでニュースを見ていたのだろうか。その時、日本のテレビや社会は彼らに同情や共感を示せていたのだろうか。とても気になった。コロナウイルスが話題になって以降、SNSに見られる差別や偏見を見ればとてもそうとは思えない。

 

 わが家の居間で熱心に動向を追った戦争のことを、学校では誰も話題にしなかった。あいかわらず授業ではアメリカの独立革命を勉強し、代表なくして課税されることの非道を学び、独立宣言の抜粋をそらんじた。休み時間になると男の子たちは二つのグループに分かれ、ブランコやシーソーのあたりで猛烈な追いかけっこをした。植民地とイギリス軍なのだった。

 

 ツイッターを開けば、インスタグラムを開けば世界の情報が手に入る。お気に入りのバンドがライブを告知するその下にジャーナリストがイドリブでついさっき撮られた映像をあげている。高校時代の友達は今日はスターバックスで勉強していてオーストラリアでは山火事がまだ続いている。誰かが生中継のフットボールに一喜一憂するのと時を同じくして、性被害の体験を意を決して語る誰かがいる。私は夜更かしていてラジオを聴きながら文章を書いている。アフリカ東部ではバッタが農作物を荒らしている。同じ地球にいるのにみんなが違うことを考えていて、もちろん、それは素晴らしいことなのだけれど、よほどのことがない限り悲しんでいる人困難な状態にいる人にみんなで寄り添おうとはならない。そしてSNSに集う情報量は私のキャパシティをどんどん削る。優しい人になりたい、知識を得たいと思えば思うほど、余裕がなくなって焦る。

 あるニュースに私が悲しい思いをしてもタイムラインは何食わぬ顔である。みなそれぞれの一日を生きていて、私の心の揺れには耳を貸してくれそうにない。それは当たり前で、でもやはり悲しい。それでも私自身は遠い地の人のことも思い続けていきたいと思う。

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#77 同窓会に行ったら

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 最寄り駅の改札を出て数歩。じーんとした。どうして涙腺がこうも緩むのだろうと思って考えた。答えは簡単だった。私にあるものと同じようなさびしさや諦めを、今日出会った何人かの中に感じたからだった。

 卒業して5年。同窓会には100人近くもの人が集まった。その分情報量が多くてちょっと疲れた。みんなひっきりなしに動いて喋っていた。移り気な私も回遊魚よろしくウロウロと動き回ったけれど、私が喋りたい人はみな誰かと話し込んでいた。その会話を邪魔するのも嫌だし、そもそも会話に割って入るだけの勇気もなくて、だから手頃な場所にいる誰かと話していた。

  じっくり腰を落ち着けて動かないようなグループや2人組3人組もあったけれど、私はじっとしてはいられない性質である。ドリンクを取りに行ったり、遅れてきた友人を迎えに行ったり、余っているご飯を一杯食べてみようと試みたり、来なかった人に電話をかけたり忙しかった。忙しいフリをして自分を騙していた。同じ水槽の中をぐるぐる回る水族館のイワシのようにひと時も休まらなかった。やっと場に慣れたのは残り時間が1時間を切ってからで随分と長いこと時間を無駄にしてしまった気がした。

「浪人して、休学して、留年した」なんて言ったら心配されたりする。私は強がってついつい偉そうに夢とかを語ってしまう。勉強しているロシア語のこととか、言語学のうんちくとかそれはもうベラベラベラベラ。そして話しながら自分のちっぽけな虚栄心を感じている。そういう時、大抵脳内に再生されているのはblur——90年代を代表するイギリスのバンド。オアシスとブリットポップ戦争を繰り広げた——のCharmless Manである。歌詞に出てくるのは題名通りつまらない男で自分の教養や血筋を鼻にかける本当にイヤな奴である。自分をより大きく見せるために「大物の自分はどこにでも無料で入れる」とか「セレブと自分は知り合いだ」なんて大声で言ってしまう。彼の声にみんな耳を傾けているようでいて、実際のところは誰も彼の話なんて聞いていない。それでも自分の話を聞いて欲しくて、彼はとめどない自分語りをするのだけれど、段々早口になり、ついには興奮で鼻血まで出してしまう。パーティーで自分のことを語る時、時々そんな悲しい男の歌を思い出す。「よく思われたい」という浅はかで安易な虚栄心が出過ぎてしまわないように気をつけたいと思う。

 

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  そもそも難しいことを考えずにその場その場で思いついたことをペラペラ話すだけで楽しいのだ。「思慮深い大人」にいつかはなりたいと思うけれど自分の本質はそう簡単には変わってくれない。自分に理想を要求するあまり自分を縛ってしまうくらいなら、好き勝手に振る舞う方がいい。幸せや満足は主観的なものであって誰かに評価されるものではないのだ。存在するかもわからない「誰か」の視線をおそれて何もできないなんてのは楽しくない。たとえその行動が本能や思いつきによるものだとしても自分らしくあるのが一番だ。なんて最近そんな風に考えるようになった。(そして縮こまってばかりだった中学高校時代の自分を愛おしく思えるようにもなった)

 

 同窓会に来る前、「話したい人」を頭の中にリストアップしていたけれど、実際会場にいるとめちゃくちゃでじっくり話せたのは数人だけだった。でもそれでもいいやと思った。かつて過ごした時間について考え、当時と同じように笑い、今日は来れなかった人に思いを馳せた。それぞれの顔を見ているとそれぞれの思い出が記憶の淵からゆらりと浮かび上がってくるのだ。とりわけ仲の良かった人でなくとも、一緒にやった調理実習とか、文化祭や体育祭でのその人の演技とか、その人の書いた作文とか細かい思い出がたくさん蘇るのだ。それはとてもウキウキする時間だ。記憶力が良いとこういう時とても楽しい。

 煩わしいのは、ある種の社交辞令を抜きにして会話を始めることができないことだった。

「元気にしとる?」

「まだ学生なんやっけ?」

「もう社会人なんやっけ?」

「えーと、、、今は関西おるん?」

こんな定型文をその夜の私は多用した。

 逆に私がかけられた言葉には

「今はちゃんと大学にいっとるん?」

「シゲ、色々なところに行ってるよねー」

というのが多かった。それから素晴らしく優しい数人が「シゲブログたまに読んどるよ」と教えてくれて嬉しかった。それはとても嬉しいのだけれど、自分が書いた文章を、それもかなり開けっぴろげに自分語りしている文章を「見られている」——もちろんこの表現はズルい。本当は私が「見せている」のだから——というのはやっぱり恥ずかしくて、ドギマギしてヘンな感じになってしまった。話す時まともに目を見て話せていたかどうか自信がない。ごめんなさい。

 

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 会場を借りた3時間は飛ぶように過ぎた。みんなで写真を撮ってそれで一次会はとりあえずお開きになった。パーティー会場の座席から解放されて自由に歩き回ることができるようになった私達は二次会へ向かうまでのしばらくの間、会場の外の舗道の上でたむろしていた。

 5年のブランクがあったからこそ、かつての部活やクラス、グループ(あるいはヒエラルキー?)に関係なくごちゃ混ぜで話すことができたのだけれど、この3時間で当時の感覚が段々と思い出して、なんとなく当時のグループで固まっていくような気がした。そしてみんなそれぞれの場所へと向かうのだった。当時から離れたからこそ話せることがあり、また当時に戻ったからこそ話せることがあるのだ。楽しかったらもうなんでもアリだなと思った。二次会も三次会も、懐かしい面々の中で私は何も考えずにずっと笑っていた。

 この時間が終わって欲しくないと本気で思ったし、もっと色んなことを話したかった。沢山の話を聞きたかった。でも時間はやっぱり過ぎていった。

 最後まで残った9人で夜明け前の梅田の街を歩きラーメン屋に入った。

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 久しぶりに会う人、春から働く人、まだまだ遊べる人、研究が忙しい人、就活中の人。それぞれの人生が交差して今同じ屋根の下でラーメンをすすっている。これは奇跡に近いことなのだろうと寝不足で半ばおかしくなった頭で考えていた。

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 空はもう明るくなっていた。梅田駅で三々五々別れた。

 最後まで一緒だったのは隣町に住むMだった。仲が良い彼と最後の最後に少し真面目な話をした。「最近は、会える時に会おうって努力するようになったな」と彼が言った。私は一次会を締める際にHが言った冗談半分の「次会う時は、誰かの結婚式かもしれません!」というセリフやカラオケボックスでKがボソッと漏らした「40になってもこうしてカラオケで騒いだりしてるんかな」という言葉を思い出していた。頭の中がぐわーーーんとなっている間に電車は駅について私とMはバイバイをした。

 いつの日か病院で観たドラえもんの映画のエンディングテーマが流れた。

ああ僕はどうして大人になるんだろう

ああ僕はいつごろ大人になるんだろう 

  冬の朝は空気が綺麗で太陽はキラキラ輝いていた。今日のことを出来るだけ覚えておきたいと思った。書かないといけないことがたくさんあった。私はその足でミスタードーナツへと向かった。

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【付録】この日頭の中で流れた音楽

Radiohead "Creep"

blur "Charmless Man"

Peter Bjorn and John "Young Folks"

武田鉄矢 "少年期"

JITTERINJINN "いつかどこかで"

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#76 同窓会に行くには

 

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 同窓会が開かれるらしい。クラスだけの同窓会だと思っていたらどうやら学年の同窓会らしい。行くのか行かないのか迷っていたけど、結局私は行く。なんだかんだでこういうのは絶対に行く。そういう性格である。コミュニケーションを取るのは上手じゃないけれど、それでも人がたくさん集まるパーティーみたいな場所は大好きだ。「シゲもこいよ」って言ってくれる人がいて、私は嬉しかった。
 場所は十中八九梅田で、成人式の時みたいに会場を貸し切ってやるんだろうと思う。となるといつもよりはちゃんとした格好をしないといけなくて、さすがにスーツではないと思うけれど、襟はあった方がいいのだろう。間違っても
Tシャツ一枚で行ってはいけないのだと思う。サンダルもダメ。髪もしっかりしないと。いや、冬だからTシャツにサンダルで行くことはほとんどないな。でもどちらにせよ服はちゃんとしたの着ないといけない。爪もヒゲも伸びすぎに気をつけないと。

 

 ああでも面倒くさい。考え出すととても面倒くさい。

 みんなと話が合うのだろうか。社会人の道を踏み出している人もいて、大学院に進んでいる人もいて、留学に行った人も内定取った人も医者になる人もいる。そう考えると自分が見劣りするというか、取るに足らないと存在である風に思えてきてしまう。そんな場所にいてもいいんだろうか。妄想妄想妄想妄想。全部被害妄想。現実は違う。でもわかっていても気にしてしまう。自意識過剰なのだ。自分が陰で笑われているんじゃないかとか、話していても腹の底ではこいつ見下しているんだろうなとか。だいたい、この文章だって誰かは笑っているかもしれない。というか笑っているだろう。もう書くのやめようか。いやでも書くことだけが救いであり、癒しなのだ。書くのをやめたら死んでしまうな。どうか私のことを好きな人だけがこの文章を読んでくれますように。いや嘘。私の文章と私自身は基本的に別物だから、私について知っている人も知らない人も、好きな人も嫌いな人も、みんな等しくこの文章を楽しんでほしい。いやそれもなんかちょっと違う。まあいいや、とにかくみんな読みたかったら読んでよ。面白いと思ったら周りにおすすめしてよ。共感とかあったらコメントとかSNSとかで感想送ってよ。批判もしたかったらしてよ。

 ところで「みんな」っていうのは一体誰なんだ???

 

 自分が「同窓会に行きたくない」となぜ自分が思うのかよくわからない。どうせ行くのに。会いたい人は10人ぐらいはいるし、それって結構多い方だと思う。ただ全体としてその空間にまき散らされてあるであろうキラキラした雰囲気、上流の感じが苦手だ。汚い居酒屋なら居場所がある分まだいいけれど、だだっ広い会場に私の居場所はない気がする。どう振舞えばいいのかわからなくなるだろう。とはいえ当日の私はきっと好き勝手に振舞うのだ。

 

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 進学校で、ある程度裕福な生徒が多い学校だったというのもあると思う。
 私の高校は公立なのだけれど附属の小学校、中学校があるようなちょっと特殊なところだった。私は中学受験をして入ったのだけれど、「上流階級」に見える人が多くて初めはびっくりした。小学校から上がってきた人が作る雰囲気になじめなかった。遠足にしても運動会にしてもクラスの中で発言力があるのは彼らだった。最初の
3年間ぐらい、全然楽しくなかった。段々卑屈になって、独善的な考えに至るようになっていた。彼らは私より幼稚なのかもしれない、なんて考えたりしていた。彼らより私の方が大人なのだと思っていた。ある部分では私は思春期を終えていたし、ある部分では思春期以前、小学校高学年のレベルにも達していなかった。

 会話の節々に出てくる彼らの「当たり前」が私の世界の「当たり前」とは大きく違っていた。自分の世界のスタンダードが全世界のスタンダードのように考えている人がいた。彼らは別になんとも思っていなくても、私には「当たり前」を押しつけられているように感じることがあった。幸せそうな生活や仲の良い家族が垣間見えて、嫉妬してしまう時があった。ますます卑屈になったし、目立たないでいようとちぢこまってしまった。自分に父親がいないことも、なかなかクレイジーな家庭で育っていることも、誰かに知られたらいじめられるかもしれないと本気で思っていた。馬鹿にされないために隠さないといけないと本気で思っていた。そんなのだから、なかなか人と仲良くなれなかったし、孤独だった。

 

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 同窓会について考えていたのに脱線して、段々混乱してきた。シンプルにしようと思って同窓会に行きたくない理由を箇条書きにしてみた。以下は私が日記帳に書いたメモの引用である。

 

〈行きたくない理由〉

・浪人、休学、留年でみんなより「遅れ」ているから

・将来やりたいことがなく勉強も真面目にやっていない怠惰な自分と、しっかり自分の道を踏み出している人を比べてしまうから

・お金持ちで、「上流」の人達が多くて引け目を感じてしまう

・ブログやツイッターで好き勝手なことを書いているので、ちょっと後ろめたい

・他人に嫉妬してしまう

・なにを話せばいいのかわからない

・デリカシーのない言葉や人に傷つけられるのが怖い

・当時喋っていた感覚や距離感を取り戻すのに時間がかかってしまい、ようやくエンジンがかかって来たころには同窓会は終わってしまいそう 

 

 なるほど。こうやって箇条書きにするとわかりやすい。傾向が見える。

 要するに私は「自信がない」のだ。「自信がある」人は自分が「遅れ」ているとは思わないだろう。自分のペースで物事を進めていくはずだ。下流も上流も関係なく「私は私だ」と言うのだろう。デリカシーのない人間の心ない言葉を聞いても、何とも思わない。

 でも自意識過剰な私は色々気にしてしまう。自分と他人の間には明確に線を引かないといけないのに、私はどうもそこがはっきりしていない。他人に求めすぎてしまうし、他人に求められないことを恨んだりする。かと思えば容赦なく突き放したりする。「自信」という確固たる枠がないから、固まった信念もない。毎回言っていることが違うし、ああでもないこうでもないと永遠に考えている。

 

 逆に行きたい理由を考えてみる。箇条書きにするまでもなくこちらはシンプルである。

 

〈行きたい理由〉

・話したい人が何人かいる

・この機会を逃すと会えない人もいるかもしれない

・何人かの近況を知りたいし自分の近況も知ってほしい

・とにかくおしゃべりしたい 

 

 書いて思う。全部本心だ。これ以上でもこれ以下でもない。行くしかないのだこれは。多分私が求めているのは「同窓会に行った」という事実だ。行きたくない理由はすべて精神的で漠然としている。でも「同窓会に参加した/する」という事実は、そういったモヤモヤした感情よりも強いと思う。(すいません。自分でも何を書いているかさっぱりです。なんとなく察してください)

 行っても行かなくてもどうせ色々考えてしまうのだ。それなら行った方がいい。

 

 とここまで思ってもやはり不安なものは不安である。不安な私は鳥貴族で親友Jにもらしてしまった。

「同窓会不安やわあ。いい会場やから服とか靴とか気にしなあかんのもほんま面倒やわあ」
「でもシゲはどうせ行くやろ。それで、『同窓会おもんない』みたいなことを後でまたラインしてくんねんやろ」

砂ずりを食べる彼はすべてを見透かしたような顔である。彼の言う通りだ。

「ほんで、同窓会のことを話す時、シゲは楽しそうな顔するんやろ」

 

 

【ひとこと】

 今回は楽しく書きました。太字を織り交ぜて村上龍の『69』みたいにしたのも、ギャグだと思って楽しく読んでもらえたらいいなと思ったからです。

 同窓会でみんなに会えるの楽しみです。ブログ読んでいる人がいたらこっそり教えてください。喜びます。ちなみにJは人気者なのに同窓会には来ません。

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