シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#74 災害ボランティアに行った

 

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◎令和元年11月1日

 優しくなりたい。ずっとそう思っていた。保育所にいる頃からすでにその思いはあって、どうやったらよい世界が作れるのか漠然と考えていた。摩天楼に突っ込んでいく飛行機も捕らえられた中東の狂信的指導者も、100人が死んだ列車事故アスベストの裁判も中越沖地震も少年期の私を刺激した。ニュースで凄惨な事件を見聞きした日は眠れなかった。どうしたら人と人が仲良く暮らせるのか、苦しい人を救えるのか考えていた。病院に入院していた時、七夕の短冊に「世界平和」と書いた。笹は小児病棟の詰所の前に立てられ、飾られた私の字を読んで1人の保母さんが嘲笑した。どうして笑うのか当時はわからなかった。でも今ならわかる。冷笑したくなる気持ちも諦めもわかる。善意だけで渡るには世の中は複雑で残酷だ。純粋なだけの善意はつぶされるし、長続きしない。不条理だと思うけれど。
 街を歩いていると白い杖をついた人がいて、母がその人を助けた。そんな母が誇らしかったしそんな風にならないといけないと思った。でもその町には家がない人も、ろれつの回らない舌で小学生に絡むヤク中もいて、彼達を私は「かわいそうな人」と心の中で呼んでいた。そうした「かわいそうな人」を助ける人になりたかった。だから政治家になることが夢だった。「将来の夢は総理大臣です」なんて大声で言ったりしていた。今の腐敗だらけの政治には本当にげんなりしていて、総理大臣にも国会議員になってみたいなんてもうみじんも思わないけれど、それでも世の中が良くなってほしいという思いは変わらない。私の就職活動がいつから始まるのかわからないけれど、人を傷つけるような、搾取しているような会社では働きたくない。できれば困っている人を助けるような仕事をしたい。資本主義社会の中ではそれはお金にならないかもしれない。でも無意識のうちに搾取する側に立ちたくない。そんなのには耐えられない。

 

 今日23歳の私はいわき市でボランティアをしている。政治家になろうなんてもう思わないし、これといってなりたいものもない。タイムリミットは意外とすぐそばに迫っているのに、何者にもなりたくないままモラトリアムを消費しつづけている。今日もまたいわきにぶらりと来てしまった。あまり考えもなしに来たけれど、「かわいそう」とだけ思うのは絶対にしないでおこうと決めていた。「かわいそう」と突き放して考えるのは安全圏に住む人間の傲慢だ。押しつけの一方的な善意だ。大嫌いだ。災害に遭った人も遭わなかった人も同じ地続きに暮らしているのに。

 いわき市のみならず、千葉県の茂原市宮城県丸森町台風19号で被災して、今も苦しい状況にあるのは知ってた。けれど実際どんなものなのかはわからなかった。ラジオでは比較的よく報道していたけれどネットでは確かな情報が得られなかった。テレビは東京五輪のことばかり。わからないから自分の目で見に行くことにした。難波から夜行バスに乗って東京。そこからまた高速バスを乗り継いでボランティア団体「つながり」の拠点に着いたのはお昼。受付をしてお昼からの活動に参加することになった。みんなお昼休みで、カップラーメンやおにぎりを食べたりして午後の作業の前にくつろいでいた。初めはぎこちない会話も空気もあったけれど、関西出身の人が何人かいたり、同じ年代がいたりして、すぐに打ち解けることができた。

 そもそも、ボランティアに来る人々というのは基本的に同じものを持っていると思う。トラックと共に今朝練馬から駆け付けた初老の2人も、大学を中退して北海道で農業をしてる同い年も、能代から新幹線で駆け付けた60歳ほどの女性も、みんな何かしら共通する思いがあって今日ここに集まっていた。もちろんそれは後から気づいたことで、作業に参加し始めたその時は無我夢中で、とにかくがんばろうと思っていた。何が待ち受けているかわからず、怖い気持ちもあった。

 

 ダンプカーに乗って向かったのは被災した方の家だった。土砂はもう片づけられていて、家財道具が庭先の道路に並べられていた。今日の昼いわきに着いて道を歩いたときに見たものと同じで、水に浸かった家財道具が屋外に出されているのだ。畳、家具、家電、布団、陶器、無数のビニール袋。それらを分別してダンプに載せ、仮置き場に運ぶのだ。

 生々しいなと思った。ほんの20日ほど前まで、これらのものは「ゴミ」ではなかったのだ。ここに住んでいるOさんの生活の一部であり、家族の暮らしの中で確かに生きていたものだった。野球ボールも箪笥もやかんも、使っていた人たちの手が感じられた。彼らの顔は見えないけれど、その存在は身近に感じられて捨てるのが苦しかった。

 

 

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街を歩くとこういった山がたくさんあった



 

 

 水をかぶったのちに3週間放置された家財は湿って重たく、悪臭を放っていた。この街のアスファルトの上にはまだ砂塵が残っていて、元来鼻炎の私はほこりのために鼻水が止まらなかった。すでに喉もイガイガしていた。マスクもほとんど意味をなしていないように感じていた。この地区の家々には今はほとんど人が住んでいないようだった。避難所にいるのだろうか。それとも親戚や友人の家にいるのだろうか。先日ネットで見た、避難所でノロウイルスが流行しているという記事を思い出した。

 目の前にある家財道具の山は大きくて、今日だけでは無くなりそうになかった。それでも一度、ダンプが満杯になるまで木材を詰め込むと、少しだけその山が減った。自分たちが前進していることが感じられた。休憩をとってまたその山に向き直った時なぜか登山家マロリーの言葉を思い出した。

 

"Why do you want to climb Mount Everest?"

"Because it's there."

 

 

  布団も鏡台もショーケースに入った兜も全部捨てる。袋に詰められた断熱材、シンク、洗濯機、アイロン。ブルーシート、漬物がめ、ほうき、ござ。全部捨てていく。その家族が使っていたであろうものをどんどんダンプに積んでいくのは辛かった。まだ使えるように見える家具もあったけれど、バールを使ったり手で力を加えたりして壊していく。とても忍びないけれど、いちいち感じている時間はない。樹で作られた本棚や衣類入れの枠組みを壊して板にする。板にした方が荷台にはたくさん載せることができる。

 それらのものがどんな風に使われていたのか私は知らない。それでもいくつかの「ゴミ」には持ち主が大切に使っていたであろう様子が感じられて、ダンプの荷台で私はしばしば考え込んでしまった。それでも他のメンバーが次から次へと運んでくるものを私はダンプの上で積み上げていった。早く作業することが大事なのだ。迷っていても仕方がない。

 次第に考えなくても腕を動かせるようになって、機械的にその「ゴミ」を効率よくダンプの荷台に載せていった。2時間半ほど作業してダンプカー3台分のゴミを詰め込んだ。最後に、私はダンプの座席に乗り込み、載せた分の「ゴミ」を仮置き場に運ぶのについていった。仮置き場に向かう道中にも道路脇や駐車場にうず高く積み上げられたたくさんの家財が見えた。

 

 

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トラックの荷台



 

 

 みんな「仮置き場」なんて呼んでいるけれど、本当は「小川市民運動場」という名前があるのだった。グラウンドにゴミの巨大な山がいくつもあった。ダンプに一緒に乗った練馬から来た二人は阪神淡路大震災中越沖地震の時も、3.11もボランティアとして現地に入ったらしい。だから彼らにとっては何回も見た光景なのだろう。慣れた手つきでハンドルを回し、荷台のゴミをそれぞれの山に分けていく。布団と木材、そして可燃ごみ、あとたくさん。それらの山に着く度、3人で座席から降りゴミを投げていいく。ポリ袋も布団も衣類もどんどん投げていく。

 布団の下から、大きめの紙袋に入ったプラレールが出て来た。真新しいつやつやのプラスチックを見て、さっきの家に子供がいたことを知った。投げると紙袋は空中で破けて、青色のレールが宙を舞ってそれぞれの場所に着地した。

 

 

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仮置き場になった小川市民運動

 

 

 帰りの道中、仮置き場の光景が忘れなかった。仮置き場で作業をしている人は毎日あの場所でダンプカーに方向を指示したりユンボでゴミを積み上げたりしているのだ。たくさんのゴミを目の前にして働くのはつらいだろうなと思った。ばらばらになった自分の街の一部が「ゴミ」としてやってくるのを見ないといけないのだから。

「つながり」の拠点に戻り終礼をして、温泉に入った。旅館「湯本温泉いづみや」では、ありがたいことにボランティアに、お風呂を無料で提供してくれるのだ。とてもありがたい。湯船につかりながら東京からボランティアに来ている高校生と話した。けっこう変わった経歴を持っている人で、彼の話は面白かった。

 風呂上りに、旅館のロビーで新聞を読んだ。福島民報という地方紙だった。福島県内の台風19号とその後の大雨の被害について詳細に書かれてあるページがあった。関西に住む私の周りでは、台風19号はもう終わったも同然だけれど、福島ではまだ続いているのだなと思った。それは東日本大震災も同じだなと思った。悲しくなった。
 

 

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11月1日の朝刊

 

※私が活動に参加した「一般社団法人震災復興支援協会つながり」のいわき市館山市における活動は以下のリンクからチェックすることができます。ボランティアはもちろん物資も募集しているようです。

 

tsunagari-project.com

 

 

 

 

〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ているように思えます。感じやすいくせに頭でっかちで理屈をこねて自らを正当化し、世界を軽蔑し、また憎みながら日々を過ごしている主人公はグロテスクです。私はどうしても主人公と自分とが似ているように思えてならない。うまくやるために、どうにかして主人公を反面教師にする必要があると思いますが、それはとても難しいです。手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。

 

P203 第二部《ぼた雪にちなんで》10

 あれからもう何年もが経ったいまになっても、この一部始終を思いだすと、ぼくはなんとも後味の悪い思いがする。思いだして後味の悪いことはいろいろとあるが、しかし……もうこのあたりで『手記』を打ち切るべきではないだろうか? こんなものを書きはじめたのが、そもそもまちがいだったようにも思われる。すくなくとも、この物語を書いている間じゅう、ぼくは恥ずかしくてならなかった。してみれば、これは文学どころか、懲役刑みたいなものだったわけだ。だいたいが、たとえば、ぼくが片隅で精神的な腐敗と、あるべき環境の欠如と、生きた生活との絶縁と、地下室で養われた虚栄に充ちた敵意とで、いかに自分の人生をむだに葬っていったかなどという長話は、誓って、おもしろいわけがない。小説ならヒーローが必要だが、ここにはアンチ・ヒーローの全特徴がことさら寄せ集めてあるようじゃないか。