シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#80 正月

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 正月が来るのがイヤだった。
 母と祖父と三人で過ごす年の瀬はつまらないと思った。嫌でも祖母の死を実感してしまう。
3人では麻雀ができない。22に分かれての百人一首もできない。おばあちゃんの作った田作りも栗きんとんも無い。3人でテレビを見て寝て起きて買ったおせちを食べて終わりだろう。元日の午後には従兄弟たちがやって来るけれどそれも挨拶程度のものになるだろう。昔みたいにみんなで寝るぎりぎりまで麻雀をしたり、漫才を見たり、順繰りにお風呂に入ったり、一つの部屋で寝たりはしない。おばあちゃんが死んでからは大勢が泊まることは無くなってしまった。布団を敷いたり掃除をしたりする人がいないからだ。当たり前だと思っていたことは幸せだった。

 残されても祖父は祖父で楽しくやっている。私より干支が5周も進んでいるおじいちゃんは今年で84である。それでもだいぶ健康で、毎日のように囲碁自治会の集まり——だいたいは飲み会が目当てだと私はにらんでいる——に出かけている。まだ週に一回の野球も続けている。口うるさい祖母が死んで、以前にもまして伸び伸びとやっている。

 去年も一昨年も極力家族で集まる時間を極力短くしようと試みた。一昨年は京都の農場で泊まり込みでバイトをして、去年はロシアに旅行していた。祖母がいなくなったことをまた実感するのは耐えられなかった。元々が大家族でない上に、祖父の3人の子どもたちのうち1人は返ってこないのだ。今年も予想通りのなんだか寂しい正月だった。結局母が一泊、私が二泊しただけだった。伯母は従兄弟たちと一緒に元日の午後に来て一緒に楽しくご飯を食べた。

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農場。寒かった

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モスクワ。寒かった


 仮に、私にも父親の家族というものがあれば、また違ったのかもしれない。お正月はそういうことを毎年思う。記憶の中の父の家での正月は人数が多かった。それから庭が広くてたぶんお金持ちだった。

 ある時期を境に私の中で父親は死んだ。赦す赦さないという生半可なものではなく、そもそも最初から無かったと思うことにした。そうでも思わないとやっていられないような出来事が起こってしまった。「それはね、誰が悪いとかじゃなくてね、、、」と私に語った人がいたけれど、私はもう泣きわめくだけの3歳児ではない。悪いのが誰かなんて、もうわかりきっている。謝ってほしいと思うけれど、謝罪が何かを変えるわけではない。心の荷がすっきりするとは思わない。前に進むためにはただただ忘却のみである。謝ってほしいと思っている限り、大人になれない気がする。でもふとすれば未だに考え込む。眠れない夜、一人で乗るエレベーター、気が散った授業。キーンと耳鳴りが始まって時間の流れが緩慢になる。そういった時に限って先生は私を指名して、私はまた答えられない。私は永遠に不完全なままだ。私の家族も不完全で、だから私の人間性も大きな欠損を抱えている。そんな風に思う必要はないし、間違っているのはわかる。でも随分長い間そんな風に思ってきてしまった。テーブルの染みはいつまでも消えない。いくつかの呪いの言葉もまだ解けない。

 

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 おばあちゃんが死ぬ時、家族の関係はよくなったように思えた。

 入院して死ぬまでの1カ月、みんながおばあちゃんのことを考えていた。家族の昔話を祖父が語り、祖父の娘である伯母と母がまた語った。私と従兄弟たちはアルバムを見たりした。

 みんなの中にいて、おばあちゃんはもう生きる気力をほとんど無くしていた。不貞腐れた女の子みたいだった。私は死ぬ直前であってもわがままばかりのおばあちゃんを愛おしく思っていた。でもそんな風に考えるのは自分とおばあちゃんのパワーバランスが完全に逆転したからだった。それを思うととても悲しくて、病室が私だけになると「早く死にたいのよもう」なんて言うので毎日泣いていた。家族が集まってゼリーやら菓子やら持ってきても「そんなのいいのよもう」なんて鬱陶しがった。祖父が来るとあからさまに嫌がって「早く帰って」なんて言っていた。生きる希望なんて持っていなかったから、びっくりするほど衰弱がはやかった。

 たまたまおばあちゃんがホスピスにいた時期が春休みで、私も従兄弟たちも毎日のように彼女の部屋に通った。市のはずれにある埋め立て地で、窓からは小さなヨットハーバーが見えた。私は故郷から遠く離れた場所で死ぬ彼女の人生を考えたけれど、よくわからなかった。

 本当に祖母が死ぬ時になってようやく母の兄がやって来た。でも会わせてもらえなかった。「大人の事情」があって、当事者にしかわからない赦す赦さないの議論があって、結局彼はお土産だけおいて帰った。でも残念ながらそのお土産も彼ではなく妻が選んで買ったものなのである。おそらくは。

 死ぬまではおばあちゃんのことを考えてみんなが一つになっていた気がしたのに、葬式の後に家族関係が良くなるかと考えていたのに、そうでもなかった。またいつも通りの毎日があって、またいつも通り反りが合わなくなった。先週までは仲が良い家族みたいだったのにな、なんて思っていた。違和感しかなかったけれど、私には参政権は無くて、家族の中では二流市民扱いなのだ。私が何か言っても「なるほど、シゲはそう思うのか、ちょっと変わってるなあ」なんて大人たちは言った。何か気に入らないことを言うと「うるさいだまっとれ」とでも言いたげにすごい剣幕で怒鳴られたりした。

 祖母が死んだ後の一時期、祖父と暮らしていた。でも言葉の端々に現れる前時代的な偏見や差別に私は耐えられなくて、一緒に暮らすのをやめた。彼は私がなぜこんなに悲しくなるのかわからないみたいだった。祖父の勘違いや言葉に傷つく度に祖母のことを考えた。おばあちゃんはいつもおじいちゃんの愚痴を言っていた。理解されず、少しも分かり合えず、苦しさを抱えたまま愚痴を言いながら死んでいった。元々自分が会社で稼いでいるからといって自分の妻と子供を自分の所有物でもあるかのように考えているような人間なのだ。知れば知るほど人間は分かり合えないという思いがますます強くなった。

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 祖父は祖父なりに祖母の死を悲しんでいた。友人に祖母の絵を描いてもらったり、今まで祖母と文通していた人に祖母の描いた絵ハガキを送り返してもらったりした。そういう祖父の様は微笑ましいものではあるのだけれど、一方で違和感もあった。

 祖母が偶像化されている気がした。私が知ってる彼女は聖女でも仏でもなかった。もっと人間らしかった。優しくて厳しくて、大雑把でわがままで、ありとあらゆる矛盾を抱えた人だった。そんなおばあちゃんを「素晴らしい人やったんや」という一言だけで語って欲しくない。

「ねえおじいちゃん、おばあちゃんはおじいちゃんのことを恨みながら死んでいったんやで? そのことを覚えてる? こんなん飾ってどうするん?」

 何度か祖父に問い詰めてしまった。でも私が口にしても祖父は私の言葉など信じない。その議論さえもう覚えていないだろう。一度彼は「おばあちゃんとおれの間にあるものはお前にはわからないだろ。もうそってしておいてくれや」なんて言った。

 それにはもう何も言い返せない。でも私が会う時祖父母はほぼ毎回喧嘩していたのだ。正月は毎年口論になったし、旅行先でも祖母はイライラしていた。でも残念ながら素晴らしく前向き思考な祖父はそんなこといちいち覚えていないのだ。自分の関心のないことには無頓着な彼には、妻の機嫌も妻の怒りも記憶の彼方の出来事なのだ。いいよなあと思う。彼は今でも日本経済が上向きだと思っているし、自分のもらっている年金と同じぐらいの給料を日本人全員がもらっていると思っている。私の世代はもう年金などもらえないだろうという話をした時には一言「残念だな」とだけ言った。他人の立場に立って物事を考えるというのがどだい無理な人なのだ。

 祖母にちなむ物が家の中に飾り立てられた様は哀しかった。同じ家族でもものの見方というものはこうも違うのか。何年も一緒にいて、でも彼らが結局分かり合えなかったことを思うと否が応でも人生に悲観的になる。夫婦としての祖父母、彼らの下に生まれた3人の子供たち、母、伯母伯父。随分前から私は自分の結婚に肯定的な気持ちになれない。

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 おばあちゃんが死んで、近くなると思っていた家族の距離は遠くなった。祖母の死によって解決するかに見えたいくつかの問題は結局解決されないままに残り、いくつかの新しい問題が起こった。それはイライラする政治であった。みんなが笑い合うだけの家庭なぞありえないのはもう知っているけれど、あまりにもひどいと思った。

 これからもずっと正月になると祖母のことを思う。恨み言を言いながら死んでいった祖母の人生を考える。別に何かをしてあげれなかった申し訳なさがあるわけではない。ただ、もっとお喋りがしたかった。私も祖母も年々偏屈になって、何回も口論をしたけれど祖母は私の一番の話し相手だった。

 今年もやはりおじいちゃんの一言一言はピンボケで、おばあちゃんがいてくれたら楽しかったのになと思い、そんなことを思うなんておじいちゃんに悪いなと思った。元来一人で過ごすのが好きな祖父はそばを食べてからすぐに二階にあがった。明日はおせち食べるから早く起きろよと私に言った。紅白が終わってテレビ画面はゆく年くる年になっていた。ガキ使にチャンネルを変えたりしたけれど、昔と違って蝶野のビンタを笑えなかった。やっぱりNHKに戻そうとなって、そのまま母と二人でぼんやりしているうちに気づけば2020年だった。ほどなくして母も寝に行って、私はテレビの前で一人になった。数人にラインを送って私も寝た。

 寝る前、初めてガラケーを買ってもらった年を思い出した。その年、私のケータイは年が替わった瞬間にいくつものメールが届いた。私も正月の布団の中で一つ一つメールを返した。私は私で年賀状を書く人とメールを送る人のリストを作っていて、一人ひとりにメールを打った。クラスメイトには一斉送信で送る人もいて、ケータイ初心者の私は「そういうやり方もあるのか」などと感心したりした。

 元旦はおせちを食べた。田作りが美味しくなかった。おばあちゃんの作る田作りときんとんはもう二度と食べられない。昼、初詣に行った。三人で行くのは初めてだった。

 

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