シゲブログ ~避役的放浪記~

些細な出来事、思い出、映画や音楽、フィクションと詩

#59 ある出来事

 

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※この話はフィクションです。血の描写があるので、苦手な人は読まない方がいいと思います。

 

 11時を回ったところだった。

 通称ラーメン横丁と呼ばれる通りを抜けて男は駅へと急ぐ。明日は土曜日。仕事がないとはいえ午前中は出社しなければならない。再来週に控えたA社との合同会議の資料を作るのだ。だから早めに起きたいし、今日はアパートに帰って自分のベッドで眠りたい、男はそうは考えていた。

 繁華街の真ん中には広場がある。夜にはいつも客引きや風俗の勧誘がたむろしている。あちらから舌足らずな日本語が聴こえてくる。かと思えば、こちらではギターセッションがあって、地面の上の帽子には結構な量のお金が溜まっている。仕事帰りにたまに立ち寄るこの街には、通るたびに新たな発見があって楽しい。広場を過ぎれば駅までもうすぐだ。

 男は今日、久しぶりに外で酒を飲んだ。割にハードだった一週間が終わり、自分へのご褒美として男は中華料理を食べてビールを飲んだのだ。阪神が連勝するのを見届け、その後に入った2軒目のバーで彼は大学時代の友人に偶然再会した。思い出話をして、それぞれの現在について情報を交換した。気分は上々だった。これからガールフレンドと待ち合わせてカラオケに行くと言う旧友と別れて、彼は駅へ歩き出したのだった。遠ざかるギターの音を聴きながらさっきの楽しい時間のことを思い出していた。友人の顔は案外昔と変わっていなかった。彼との会話を通じて些細な記憶がよみがえってきていた。思い出にうっとりしながら男は歩いていた。

 叫び声が聞こえたのは広場を通り過ぎようというところだった。駅構内への入り口にもう入ろうというところでで突然女性の甲高い声が聞こえた。振り返ると、ベンチの脇に女が独り立っていて、右手にはビール缶があった。

「ねえ! どうして! ねえ!」その言葉は誰かに語り掛けているように思えたけれど、近くに誰かいるわけでもなく、駅へと向かう人の流れの中から返事をする声もなかった。最初酔っぱらいの喧嘩か何かと思ったが、そうではないらしかった。

 明らかにアルコールが入っていて、焦点の定まっていない目をしていた。もう長い間、広場の終わりのそのベンチにいたみたいで、彼女の周りには吸い殻が散乱し、空き缶が転がっていた。明るい駅構内へと入っていく人の流れの中で何人かが声に振り返った。でもまたスマホに目を戻して改札へと向かう。通りを歩く人も彼女の方を見て、またそのまま歩いて行った。男も早く帰りたかった。ただ、何か思うところがあって足を止めた。もちろん彼はその「何か」の全容を把握していたわけではない。それは直感のようなものだった。

 ふらふらと12歩踏み出した後、女はまた顔を上げた。また何か言うのだろう、心の中で男が思い、女は叫んだ。

「死ぬなら一人で死なないといけないのかよ!」

 さっきよりも多くの人が足を止めた。ぎょっとした顔で女を眺める老人。顔はお酒で赤くなりお腹は美味しいもので膨らんでいる。血走った目に映る異質なもの。歩いて女の前を通り過ぎるカップル。ヒューっと男が口笛を吹き、女が声をだして笑った。店から出てきた中年サラリーマンの集団。一人が「なんか大声だしとるでえ」と言い、みんながどうと笑った。スマホの画面越しに誰かと電話していた女の子が画面を女に向けた。「なんかやばい人いるわー」と画面の向こうにいる誰かに向けた声は男の耳にも聞こえた。

「どうしてみんなしんどくないんだよ! どうしてみんな死にたくなったりしねえのかよ!」そう続けた女の言葉にまた何人かが足を止め、ちょっとした人だかりができた。何人かの顔には心配するような表情が浮かんでいた。何人かがスマホを取り出して撮り始めた。そうした野次馬のことをどれだけ見えていたのかはわからないけれど、女は笑い始めた。「ハハハッ!」体をのけぞらせて声を出し、人だかりはますます増えた。男のすぐ近くにいたOL二人が「やばいじゃん」と呟に、興味津々な目で眺めていた。一瞬、男には女が泣いているように見えた。両目がきらりと光ったような気がしたが暗い中では定かではなかった。

 金曜日の繁華街の夜には、いろんな感情があるだろう。誰にも打ち明けられない辛い気持ちなど、誰にでもあると男は思っていた。そうした気持ちが爆発する瞬間も何度も目撃していたし、自分でも経験があった。だから、無関係のことだとは思えなかった。その女の何を知っているわけでもないけれど、もしつ抱えているものがあるなら助けてあげたいなと思った。 

「おい!」と誰かが叫んだ。どうして持っているのか女は包丁を取り出し、長い刃を首筋にあてた。何を考えているのかわからないけれど包丁を持った右手は震えていた。さっきまで女が持っていた缶ビールは打ち捨てられ、路面に広がった液体は繁華街のネオンを反射させた。「やめなさい、あんた!」中年の女性が人だかりから1歩出て、女の方に寄った。「やめなさい!」おばさんはただただ純粋に自殺を止めようとしていた。狂ったように「やめなさい」を繰り返すおばさんに女は包丁を向けた。「来るなよ」と低い声で言ってまた首元に刃をあてた。言葉をかけるのはやめてもおばさんはまだそこに居続けた。

 緊迫した状況だった。女の行動は一種のパフォーマンスだと男は思っていたが、この後どうなるとも予想はできなかった。何かをしないといけないと思っていたけれど、かといって声をかけられるわけではなかった。何をできるのかわからなかった。もし声をかけるとしたらどういう言葉をかけるのがいいのだろうと男は考えていた。彼女が着ているのは誰でも一着は持っているような灰色のスーツだった。ハンドバックはおしゃれで、その中に包丁が入っていたとは思えないようなかわいいデザインだった。普段の彼女はどこにでもいるような「普通の」社会人なのだろう。それでも、持っているのがカッターナイフではなく包丁だというのが彼女の複雑さと深刻さを表しているように思った。少なくとも突発的に起こした行動ではなさそうだった。何回も反芻して考えた結果なのだろうと男は思った。

「死ぬなら一人で死ねよーう」最前列の黒シャツの男が叫び、その周りで笑いが起きた。男の気分はまた重くなった。スマホを女に向けている何人かの顔には何の表情も無くて、非人間的だった。当の女は刃を首にあてたまま目を閉じていた。

 そのうちに警察が来た。ほっとしたが、この状況がどのように終息するのかと考えると怖くもあった。何かが起こるわけで、誰かが死ぬかもしれなかった。人が死ぬのは見たくなかった。女の表情は混乱していていた。自分が何をしたいのか、当初の目的がなんだったのか、もう分かっていないような顔だった。

 説得にあたる巡査は若く、中年のもう一人がトランシーバーで状況を誰かに伝えていた。応援の警察と救急車が来るようだった。10分ほどの若い巡査と説得があり、応援が到着した。人混みは整理され、下がるように指示された。スマホを構えた集団がスマホを構えたまま数歩下がった。

 最後の最後の瞬間で女は包丁を首から離し、手首にあてて引いた。対応に当たっていた巡査が二人取り押さえた。血があふれてきて飛び散った。包丁が投げつけられて人混みがサーっと下がった。

 拘束された女は何か言葉にならないことをわめいていた。救急隊が手首の出血に対して処置をとり、甲高い声が嗚咽に変わった。警察が落ち着くように声をかけるのも聴こえた。見ていられなくなって男はその場を離れた。「通してください」と声を出しながら、構えられたスマホの間を抜けて駅構内へと入った。地下鉄とJRが乗り入れている駅は大きい。巨大な構内には酔ったスーツ姿がふらふらと歩いていて、本当の金曜日の終わりを告げるようだった。改札を抜けてエレベーターに乗ってホームに上がると、ちょうど最終電車が来たところだった。ぎゅうぎゅうの車内に乗り込む男の心はもやもやとしていた。発車ベルが鳴ってドアが閉まる直前になって一人の男が電車に飛び乗った。さっきの黒シャツだった。男はじっとその黒シャツを見つめていた。沸々と心の中に敵意が湧いてきた。黒シャツは四角い画面に夢中で睨まれていることに全く気付かない様子だった。男もスマホを出して何か別のことを考えようとしたが、手が震えてうまく操作できなかった。男はスマホをまたカバンに直した。

 

 その女の動画はすぐにSNSで拡散された。拡散された動画の端っこに男も映っていた。男が見つけたコメントは以下の通り。

「かわいいのにメンヘラなのは残念」

「これだから女は××」

「やるなら一人で家でやれよ」

「おばさん一人でがんばってて草」etc

 

 次の日、男は出社したが、なかなか捗らなかった。昼までには終わると踏んでいた仕事は午後になってようやく片付いた。会社近くの食堂で遅めの昼ご飯を食べて家に帰ることにした。食堂のテレビではワイドショーが流れていて、昨日の事件のことがニュースになっていた。SNSで拡散された映像がそのままテレビでも流れていて、男の後ろ姿も画面に収まっていた。女の顔にはモザイクが入っていた。コメンテーターが無責任なことを言って、司会者がそれに同調した。最近は政治のニュースが少なくなった代わりに、こういうニュースを深く報道するようになったな、と男は思い、ぼんやりと昨日のことを考えていた。

 土曜日の鉄道は親子連れがいつもより多かった。近くでイベントがあったらしく黄色い風船を持った子供たちが目についた。男の表情は虚ろで疲れていた。窓際に立って、流れていく景色を目だけで追っていた。昨日の駅に電車が停まって広場と繁華街が見えた。用事はなかったが、男は降りることにした。歩きながら男は昨日の出来事を反芻していた。目的もなく1時間ほど歩いてラーメンを食べた後、男はコンビニでビールを買った。そして昨日女がいたベンチでビールを飲んだ。

 

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

五月十三日

”学生であること”は、私にとり風のない空間に漂うちりのような存在でしかない”不確実なもの”である。その”学生であること”に固執する自分の不安定さ、不確実さ。

 どこかに勤めようかと思ったりする。メイン・ダイニングにでもと思ったのだが仕事(水さし、片付け、デザートを運ぶ等々)が全然おもしろくない。責任ある仕事やってみたいのに、どうでもよいような補助的な仕事のみ。

 社会から全く疎外されている私、しかし私は今この時間、この空間の中に存在している。自殺は卑きょうな者のすることだ。