シゲブログ ~避役的放浪記~

些細な出来事、思い出、映画や音楽、フィクションと詩

#39 新年。映画と小説と音楽と

 

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 2019年の新年を赤の広場で迎えた、と自慢したくて街に繰り出したのだけど赤の広場には入場規制で入れなかった。警察が柵を作った前で動けなくなって、そのまま一時間待って、別にカウントダウンをみんなでするわけでもなかった。ただスマホが新年が来たことを教えてくれた。花火の音が遠くから聞こえて建物の隙間から花火が見えた。たくさんの人がいてぶつからずには動けなかった。みんなスマホで写真や動画を撮ったりしていた。喧騒の中に長居してもしょうがないのでトゥベルスカヤ通りを通ってゆっくり帰った。音楽がいたるところで鳴っていて、歩きながら音楽に合わせてステップを踏んだりした。新年でみんなうかれていたけれど、通りには清掃員がいて、地下鉄に入る通路には壁にもたれながら空を見つめている人がいて、店でヨーグルトを買うと東洋人がお釣りをくれた。それからいたるところに警察がいてテロに備えていた。

 

 ホステルに帰るとみんな落ち着いた様子でシャンパンを飲んでいた。花火——線香花火みたいなもの——に火をつけてみんなで祝った。私もシャンパンを飲んで、くらりとしたからあわててコーヒーを作って飲んだ。平和だった。

 

 ホステルのリビングに男の子が入ってきて私の隣の席に座った。私と同じように彼もロシア語が話せなくて、だからしばらく彼と話した。

 歳は幾つだと彼が聞くから22だと答えた。彼も同い年で、ウランバートルで音楽プロデューサーをやっていると言った。彼の仕事の話は中々面白かった。ラップを中心に音楽を作っていて、モスクワにもレコーディングで来ているという。「彼らといるよ」と指差した方には東洋人の顔立ちをした男女3人がいた。聞くと、ホステルの隣のスタジオで毎日音楽を作っているのだと言う。4人は共用のキッチンで料理を作るのもお手の物で、新年だからみんなのためにパスタを作ってくれた。

 

 私も、「昔美大に行こうとしていた」と言った。その後で「家族が許してくれなかったから結局普通の大学に行くことになったんだけど」と付け加えた。彼も高校を出る時、家族と話して大学に行かないことにしたらしい。その代わり自分で音楽を作って働いているみたいだ。人間の力が強い人にしかできないことだ。私は恥ずかしくなった。「本当は美大に行きたかった」とか誰でも言える。「映画監督になりたい」と夢見るのは誰でもできる。何を言っても、虚勢を張っても、私はただの大学に行ってない大学生だ。「本当に」映画監督になりたいのであれば方法などいくらでもあるし、今からだって頑張れば美大にいけないこともないだろう。

    それはそうと大学に行ってない大学生の価値とはなんなのか。

 

 今映画を作ろうとしている。最後まで出来るかわからないからまだ誰にも言ってなくて、でも頭の中には構想があって、時間はかかるけれどずっとスマホにメモをとっている。ミュージシャンの彼は打ち明ける相手として最適であるように思えた。「自分で文章を書いて、それにそったセルフドキュメンタリーを撮ろうとしてる」彼は驚いた様子だった。セルフドキュメンタリーは監督自身に人を引き込む魅力が必要だ。「君には何かあるのか?」と聞かれた。私は自分のことを話した。

「なぜ先に文章なんだ?」とも聞かれた。「なぜって、、、」言葉に詰まった。多分私は先に小説家になりたくて、でもいつかは映画も作ってみたい。贅沢なことだし夢みたいなことだけど、それでも2019年1月現在の私はこういうことをやりたいと思っている。

 

 彼は本を全く読まないと言った。「本は面白いのか?」と彼が聞くから私は読書と映画の違いについて思うことを話した。

 まずはじめに言ったのは、映画には「視点」がつきものだということ。これは映像と文学の大きな違いだ。小説は文章の積み重ねで、ページに書かれていることだけが、物語の全てである。文字の集合体の前で私たちは主人公のいる世界を想い、読み取った文字は頭の中で映像に変換される。ページをめくるにつれて頭の中でも人物たちが動いていく。脳内でのイメージはぼんやりとしていて自由自在に変えられる。例えば「或日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。」という文章を読んでも脳に浮かぶのは様々である。私が思い浮かべるのはキラキラした池の水面とうららかな空。池に浮かぶ蓮の花はとても綺麗で、モネの描いた絵みたいだ。御釈迦様の足元は裸足。顔は細面で目は閉じている。

    私のイメージは大体こんな感じだけれど、他の人のものと完全にマッチすることはないだろう。正解はもちろんなくて、どの人のイメージも尊重されるべきものだ。この一文を読んだだけでも「ぶらぶら」ってどんな感じだろうとか、御釈迦様の顔ってどんなだろうとか我々はたくさん考えることができる。のりしろみたいなその余白が小説の良いところだと思う。他方で映画はカメラという視点がある。映画はカメラが映した映像の集合体で、それによってストーリーが進む。カメラは(基本的に)物事を「ありのままに」映すから観客はあまり考えなくていい。スクリーンに映るイメージはすべて具体的で、想像力の入り込む余地はない。大きな違いだ。

 それから読書は積極的で映画鑑賞は受動的な行為だということも言った。映画は簡単だ。画面の前に座れば、もうそれでおわりである。あとは画面が勝手に動いて物語が進んでいく。90分、あるいは2時間程度座っていればそれで終わり。読書はその逆で、自分の力で11枚ページをめくらないといけない。自分で物語を理解し、脳内にイメージを作り、彼らの思考にもついていかないといけない。

 彼も音楽について言った。映画や本と違って音楽はいつでも聴ける。キッチンにいる時も外を歩いている時も。それが音楽のいいところだと彼は言った。音楽家だからてっきり「自分の作った音楽はゆっくりじっくり聴いてほしい」みたいなことを言うと思っていたからちょっと意外だった。「もし映画の音楽で迷ったら、連絡してくれ」と言ってくれた。その後彼が作った音楽や好きな音楽を教えてもらった。私も好きな音楽を話した。

 

 そんな感じで元旦の朝は進んでいった。6時頃になって寝た。

 

 

 

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