シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#67 ××××!

 

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※血と刃の描写があります。苦手な人は注意してください

 

 最近どうにもいかない。気分が落ち込む周期にいる。ずっと後ろ向きのことを考えていて、寝ている時だけが幸せである。

 昔は「死にたい」と思う度に世界の色が変わったものだけどそんなのはもう何もない。口に出しても何も思わなくなってしまった。

 手首を切る想像を毎日1回くらいしている。つらい時、失敗した時、うまく言えなかった時。気づくと脳みそが動く。グロテスクなシチュエーションを想像してしまうのは昔からで、ふとした拍子、無意識に刃物や血、交通事故等々を頭に浮かべてしまう。自分で勝手にグロテスクを再生し、勝手に息をのんだりしている。眠れない夜、自分がのった自転車がトラックに轢かれるその瞬間に喉がヒェッと鳴ったり足がビクッとなる。脳が勝手に想像して、体が無意識に反応するのだ。少々不気味だ。だがそれも本当の心では自作自演なのかもしれない。そんなことをやって人と違う特別な自分を演出しているのかもしれない。今、眼を閉じて手首にあてる刃の感じや痛みや流れ出る赤色を脳裏に浮かべると、喉が鳴って胃のあたりが少し縮む。

 こんな世の中なのにみんなは死にたくなったりしないのだろうか。本当に不思議だ。これからの時代、夢も希望も何もない。気候変動も少子化年金問題も、どんどん雪だるま式にひどくなって、生きるのがしんどくなるに違いない。子供を育てるのも親の面倒を見るのも老後を過ごすのも今より厳しくなる。人生100年時代なんて嘘っぱちで、最先端の医療が受けられるのは限られた富裕層だけだ。

 

 最近気づいたこと。どうやらみんなはそれほど感じないらしい。世間をにぎわすニュースや社会情勢、海外の紛争や国会前のデモについて私が感じていることを話してみても、みんなピンとこない感じである。長らく家に引きこもっていた人たちが絡んだ一連の事件に対して思うことがたくさんあったのだけど、それを話せる人は周りにいなかった。話してみてもしっくりこなかった。もちろん他人の脳みそを(そして痛みを)1から100まで知ってるわけじゃない。でも自分の感覚が他人より鋭敏なのは間違いないように思う。「敏感」「繊細」「感じやすい」。別に言葉なんてどうでもよくて、要するに私の感覚はどうも多くの人とは異なるようなのだ。ある意味それは思い上がりで、私は自分が他人より優れていると思い込みたい現れでもある。絶望できる自分がかっこいいと思っている節もある。「死にたい」なんて言うのは賢いから。人とは違うものを見ているから。そういう風に思っていたし、今も思っている。全て、ある意味で当たっていてある意味では間違っている。自分でも訳がわからない。

 排他的な選民思想のようなもので、私は他の人間を、ことに私のように絶望しない人間を見下し軽蔑している。こんな世の中なのにどうして楽観的にいられるのだろうか。つまるところかれらは真剣に考えていないのだと思う。そして軽蔑する。

 他方では羨ましくて仕方ない。彼らの人生や選択はシンプルに見える。くよくよ悩んだりせずにてきぱき動いている。私にないものをすべて持っている。もちろんこれも幻想で、ただ隣の芝生は青く見えるだけのことである。でもそんなことはわかっている。他人の生き方がラクに見え、妬ましく思うことが最近多い。がっかりである。こんなはずじゃなかった。相反する感情が何層にも重なって、もう自分でもよくわからない。私は矛盾ばかりである。

 

 「死にたい」と初めて思ったのは小学校低学年。悪い子の私は失敗作だった。失敗作は死なないといけなかった。地獄のような日々だった。「自殺した人」をウィキペディアで調べてそのリストを聖人のようにしている時期もあった。『ニ十歳の原点』も金子みすゞの詩が好きなのもそういう側面があるからだった。自殺した人物が残したものから、自分との共通点を探し出すことが好きで、感じているのが自分だけじゃないと知って安堵していた。そして自分が特別な存在であるように思い込もうとしていた。

 

 今現在、別に死に対してはっきりとした憧れがあるわけではない。今日明日に思い切るなんてことはないので安心してほしい。どちらかというと「死にたい」というよりは「消えたい」という方が正しい。自分の今までの人生とか自分の存在自体を消し去って、全部なかったことにしたい。実際、全部夢とか冗談だったらいいのにと本気で思う夜もある。そう思って今までの人生を振り返るとなんだか他人の人生のような気がしていくらか心が休まる。映画『リトルミスサンシャイン』でポール・ダノが言っていたみたいに、今眠りについてまた3年後ぐらいに目覚めたい。現実はつらくて、呼んでもいないのにまた朝が来て、季節も変わって、私はまた一つ年をとる。進級も進学も就活もキャリア形成もいざ現実にすると強い。今までの人生で夢ばかり見てきた私は妥協したくない。夢を見ていたい。かといっても、このまま逃げ続けることは不可能だ。悩み悶々としていると、いよいよ死ぬことが究極の逃げ道であるように思えてくる。

 部活の帰り道に友達が「自殺する人は死後の世界に何か楽しいことがあると思っているんやろ?」と自説を展開したことがあったけどそれは間違いだ。現代の日本で自殺する人の多くは死後なんて信じていないと思う。生が苦しくて死に逃げるのだ。もし逃げることが負けなのだとしたら、誰かが言った「死んだら負け」なんて言葉は正しい。もちろんそんな風には全く思わないけど。自殺についてわかっているのは自殺した人だけだ。生きている人は後から何でも言うことができるけど、そこに真相なんてあるわけがない。

 

 今日もまた一日が始まるけれど、私に救いの日なんて来ない。格闘し、もがきながら死んでいくのだと思う。理由を探しながら意味がわからないままに死ぬのだ。いいかげんあきらめたほうがいいのかもしれない。あきらめたら疲れなくていいかもしれない。

 

 

〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ていることがわかります。どうにかして主人公を反面教師にしないといけない気がします。いくつか訳はあるみたいですが、手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。プロ野球選手と関係はないです。

 

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第二部《ぼた雪にちなんで》1

 

 当時のぼくは、もうひとつ、別のことにも苦しめられていた。ほかでもない、だれひとりぼくに似ている者がなく、一方、ぼく自身も誰にも似ていない、ということである。<ぼくは一人きりだが、やつらは束になってきやがる>、ぼくはこう考えて、すっかり考えこんでしまったのだ。