シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#42 目立つやつ云々

 

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  去年の1月末、免許合宿に行った。地元の車校に通うより安いようだし、私は短期集中型だから合宿で免許を取る方が性に合っている。旅が好きな私は知らない街で数週間過ごすことにも惹かれた。選んだのは山形県の小さな町でラーメンがおいしかった。

 毎日ホテルでご飯を食べて、授業を受けて車を運転して、またホテルにバスで帰る。友達ができるまで味気ない毎日だ。雪深い東北に一人で乗り込んだ私は中々友達ができず暇を持て余して人間観察をしていた。周りは大学の友達同士で来ている人が多い。関東人らしい標準語があふれていた。わいわい楽しそうである。「今日の授業どうだった?」とか「さっきの教官最悪だったわー」とかなんとかかんとか言っていて、私は高校の頃の会話を思い出した。そういうのをうらやましそうに思いながら、でもそれは表には出さずTwitterをやったり味噌汁をすすったりしている。そしてちらちらと気付かれないようにそういう人たちを観察している。これも高校時代と同じである。私みたいに一人で来ている人たちもいて、そういう人たちの中でも社交性の高い人は友達を作っている。

 授業前の教室あるいはホテルの食堂で、どうしてだか目立っている人がいる。なぜだかわからないけれど視線が惹きつけられるのだ。講習の合間にテキストを読んだり、パソコンに文章を打ち込んだりしながらそういう人たちがどうして目立つのか考えていた。

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駅前

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車校

 身体的な特徴というのはやっぱりあると思う。ハーフであるとか、体が大きいとか、少し年をとっているとかである。私もとりわけ背が低いのでおそらく目立っているのだと思う。初日の授業でも少し離れたところで何人かの男の子がこっちを見て笑っていた。十中八九、私を笑っているとみて間違いなかろう。

 あと、うるさい人や動作が大きい人も目立つ。授業中に大きく鼻をすすったり、くしゃみをしているとどうしても気になってしまう。声や足音が大きかったりするのも同じである。笑い声も人それぞれで、目立つ笑い方と言うのがあって時々耳に障る。自分の癖が注目を集めていると思いもしない人もけっこういる。新聞をめくる時に指をぺろりとなめずにはいられない人や一定の間隔で舌打ちをしてしまう人は無意識にそうしているわけで、私が眉をひそめたり睨んだりするのを理解できないだろう。こっちを睨んでいる私が、逆に彼らにとって目につく存在になっているかもしれない。

 当然、顔やスタイルがきれいな人も男女問わずに目立つ。美男子と美女はやはり見つめずにはいられない。性の対象として見るのかどうかという問題は横に置いて、やはり私は美しいものに惹かれてしまう。美しいと認められるのは特長だと思う。

 

 山形で過ごした2週間から一年経った今年、私はモスクワにいた。ロシア人だらけだった。ロシアが多民族国家とはいえ——本で読んだ記憶が正しければロシア連邦におけるロシア人は80%弱。東スラブ系民族となると割合はもっと多い。ロシア人の次に多い民族集団はタタール人でたしか4%弱だったと思う。ちなみにロシアは自分を規定する民族を自分で選ぶことができる——メトロに乗っていても赤の広場を歩いていてもレストランに入っても、目にするのは長身の白人が多い。金髪が多いと思っていたけれど黒や赤の人もよく見かけた。瞳の色も様々で茶色の人もいれば日本人のように黒い人もいた。トレチャコフ美術館に入る時、私の前に並んでいた56歳と思われる女の子の眼は薄い青色だった。空色と呼ぶか灰色と表現するか迷うような色で、初めて見る私は美しいと思った。他方、何しろ見慣れない色だから恐ろしい色だとも感じた。黒い目が多い日本では虹彩や瞳をはっきりと認識することは少ないけれど、女の子の眼は色素が薄いためにそういうものまで見えてしまうのだった。少しだけぞくっとした。

  大国の首都で日本人の私は明らかに「目立つやつ」なのであった。今まで行ったどこの国にもモンゴロイドがいて、口を開かない限り日本人と気づかれずに過ごすことが出来た。台北で私にKENZOのばったもんの帽子を売った女の人は私の顔を見て日本人だと気づいたけれど、彼女はレアケースである。ヤンゴンで肉まんを食べていた女性は私が話しかけるまで目の前に座る私を中国系ミャンマー人だと思っていた。彼女は祖父の時代に国共内戦を逃れてビルマにやってきた中国人の子孫で、もう中国語は話せないが旧正月などの行事は今でも家族で行っているそうだ。ほとんどすべての人が同一民族である国に育った私は多民族国家で生きるということがよくわからない。気になることがたくさんあった私は、民族や宗教といったアイデンティティーについて彼女にいろいろ質問した。小一時間話した後で私たちはFacebookを交換した。またいつの日か会えたらいいなと思う。160を超える民族が共存しているミャンマーで私が過ごしたのはたった2週間だったけど毎日が刺激的だった。仏教寺院の横にモスクがあるようなダウンタウンを歩くとたくさんの種類の顔を見ることが出来た。通りを歩いても自分が目立っているとは思わなかった。イングランドにも行ったけれど、私がいたのはイーストボーンという海沿いの町の語学学校で、クラスメイトはサウジアラビア人やトルコ人、韓国人や台湾人といった具合だったから、そこでも自分がとりわけ目立つ存在だとは思わなかった。

 しかしモスクワでは目立っていた。スリに警戒して自意識過剰だったのもあるけれど、初めてメトロに乗った瞬間、車内の視線が自分の顔に集まるのを感じた。すぐ慣れたけど最初はとても怖かった。もちろん観光地に行けば家族で来ている中国人がいたし、モンゴロイドの顔でロシア語を話しモスクワに住んでいると思われる人もいた。でもマジョリティはコーカソイドで背の高い人ばかりだった。

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赤の広場

  モスクワをあちこち歩いて気づいたことがある。それは清掃員に東洋人が多いことだ。新年を祝う直前、私は赤の広場近くでホットドックを食べた。スタンド——残念ながらロシア語で何と言うのわからない——には列ができていて、横には立食用のテーブルがあった。ミュンヘン風のソーセージは噛むとパリッという音を立てて、あつあつの肉汁が口の中に広がった。気温が低い分なおさらおいしかった。制服のジャンパーを羽織った一人のおばあさんがいて、汚れたテーブルを拭いていた。大晦日だというのに働いている人がいるのは日本と同じなのだった。明らかに東洋系の顔をしていたから気になって少し見ていた。驚いたことに彼女は私の方に来て、どこから来たのかと言った。日本から来たと言うと、「なるほど、そうかー」とリアクションをとるおばあちゃん。きくと、彼女は私がキルギス人だと思って話しかけたのだという。「あんた、キルギス人にそっくりだよ」とおばあちゃんは言った。というのも彼女はキルギス出身で、私を同胞だと思ったのだ。ちょっと嬉しかった。新年を迎えるという瞬間にも働いているということはもしかしたら何年も故郷に帰っていないのかもしれない。「キルギスから来た」とだけ言ったから、出稼ぎなのか永住しているのかはわからないけれど色々思うことがあった。でも拙いロシア語で表現できることはあまりにも少なくて、結局私は「С новым годом!*」と少し早い新年のあいさつをしておばあさんの両肩をぽんぽんと叩いた。それからお仕事お疲れ様ということと、話しかけてくれたことの感謝を込めて「Спасибо**」と言った。そのあとイルミネーションの中を歩きながら自分が涙を流していることに気づいた。

*:ス・ノーヴィム・ゴーダム。「あけましておめでとう」の意

**:スパシーバ。「ありがとう」の意

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 こういう刹那刹那の出会いと別れに感情が動くのは良いことだと思うけれど、それは自分の心が繊細で弱いからだ。感受性が豊かなのは良いことだとされているが、日常の一から百までに心が動いてしまう自分がひどく嘘くさい人間であることもまた事実である。「シゲのことがわからない」と言われたのは一度や二度ではない。高校でも大学でも言われた。時々家族でさえもそんなことを言う。しかし、いずれにせよそれは素敵な出会いで、モスクワにいた間の出来事で一番心に残るものだった。私が東洋系の顔をした「目立つやつ」であったからこそ起こりえた出会いなのだ。

 最終日、空港に向かうメトロでも同じような出会いがあった。混雑した車内で私は背中のバックパックを下ろしたのだけど、座席に座る女の人の膝に荷物が触れてしまった。すまなそうな顔をして相手を見ると、その人は私の眼をみて微笑みながらうなずいてくれた。その人とその横の女性——なんとなく顔が似ていたので家族だと思う——はその後私の顔を何回かじっと見つめていて、何か言いたそうだった。二人は私の一つ前で降りたのだけど、降り際に私に話しかけてくれた。私が唯一聞き取れたのは「クラシ―バ」という「美しい」とか「きれいな」を意味する形容詞だった。身振りから察するに私の外見のことを言っているみたいだった。私は笑いながら「Спасибо**」と返した。これもやはり簡単には忘れられない思い出である。心がほっこりする。

 そんなモスクワ滞在だった。この旅行で、おざなりにしている大学のロシア語に対するモチベーションが上がったかどうかはよくわからない。すくなくとも話せた方が面白いことはわかったけれけども………。

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 日本では「目立つやつ」であることを避ける傾向があって、中学や高校にも出る杭は打たれる風潮があった。大学1年目の私も極力目立つことを避けて来た。しかし、私は背がとりわけ低いためにいつも目立っていた。それならば逆にもっともっと目立つやつになってやろうと髪の毛を長くしてちょんまげにしたりバンダナで髪をまとめたりしたけれど、そうすると逆に自意識過剰になって心の中が変な感じになってしまった。この文章でもわかるかもしれないが、私は「他人にみられている自分」を意識しすぎるのだ。「私」という人間の真相を悟られないよう、10代のいつからか私は自己を演じることを覚えた。最初は小学校。楽しかった塾と散々だった学校で私は別々の「私」を使い分けたのだ。部活やサークルでも「私」を演じ、教室でもまた別の「私」を演じた。おバカなことに、私は演じるうちに「本当の私」が何なのかわからなくなってしまった。授業に出ていても、サークルのみんなの前でプレゼンをしていても、バイト先で食器を洗っていても、自分が自分でないような気がするようになった。しまいには一人でいる時さえも今の「私」がどの「私」であるのかよくわからなくなった。読書の最中にも、文章を書いていても、絵を描いていても「私」が「私」でないような気がするのだ。ぼおっとして、頭と体が別々になったような奇妙な感覚———何を言っているのだろうと不審に思う人もいるかもしれない——は、長時間続くととても疲れてしまう。そういう時たまに高校一年生の保健の授業を思い出す。保健の担当はFという人気の先生で、バスケットボールをずっと続けていてプロ級の腕前ということだった。冬の日のその授業では、自己同一性障害がテーマだった。カウンセラーの資格も持つF先生がいつものように楽しく教科書を読み進めていった。

 授業の中盤、「まあこのクラスのみんなは自己同一性障害は大丈夫だと思うよ」と言って先生はクラスを見回した。そこで先生と私の目が合った。先生は「そうやなあ○○(私の苗字)以外は」と付け加えた。真顔だった。冗談ととるか微妙なところで、怒るべき事柄でもあった。しかし既に私には自分の精神状態がおかしいという自覚もあった。実際、半年前には学校に行くことが出来ない時期があったし、心療内科という所に初めて行ったのもその頃だった。私の普段の言動を知っていた先生は心配していたのだと思う。私を気にかけてくれていることは嬉しかったが、それでもみんなの前で言うことではないだろうとも思った。伺うようにこちらを見る数人の視線を感じた私は、チャイムが鳴るまで気まずい思いをしなくてはならなかった。

 F先生の見立ては正しかったとは思う。あるいは私が言霊に操られたのかもしれない。いずれにせよ「他人が見る私」と「自分が演じる私」や「こうなりたい理想の私」、「どこかにあるはずの本当の私」の間で私は静かにおかしくなりつつある。

 長くなるのでここらへんで終わりにしよう。「私」についての話はもう少し理解できるようになってからまた書こうと思う。

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