シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#119 ぺルテス病と自意識

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  小さい頃、街で車いすの人を見かけた。私はその人のことをかわいそうだと思った。その人は守られるべき対象で優しく接しないといけない。その人には誰しもが無償の愛情を注がないといけない。私はそういう風に考える、少し変わった、気持ちの悪い子どもだった。図書室でマザーテレサ宮沢賢治シュヴァイツァーといった人の伝記を何冊も読んでいた私はどうしたら「優しい人」になれるのか考えていた。どうするわけでもなく、またどうする力を持っていないのに、通りの向こうにいる車いすの人のことを助けてあげないといけないと思っていた。駅構内で見かける白杖の人も、公園のベンチに座っているダウン症の人も私にとっては「かわいそう」なのだった。特別学級に通う「障がい」のある友達と接する時、私は7歳児なりに悩んでいた。それはものすごい傲慢で偽善的な感情であったけれど、7歳であれば許されるであろう無邪気さでもあった。

 そんな私が長期入院することになった。8歳の終わり。一時的に歩けなくなる足の病気だった。小児科病棟にはたくさんの子どもがいた。車椅子の友達、ステッキをついた友達、感情は分かるけれどコミュニケーションを取るのが難しい友達。ゆっくりと話す友達。酸素マスクを手放せない友達。春、夏、秋、冬、また春。今はもうなくなってしまったのじぎく療育センターという場所で私は一年を過ごした。

 診断を受けた時、私は泣いた。一年も歩けないなんて、そんなのあんまりだった。一年も友達と会えないなんて。今とは違って、時間の流れが緩やかだった。当時は中学生や高校生になるのはまだだいぶ先のことだと思っていた。夜更かしして作業しても、できることはそれほど多くないと知るずいぶん前の話だ。8歳にとって、一年は永遠にも近い時間だった。最初は心細かった入院生活も、同じ病気の友達と過ごすうちに慣れていった。あの頃は今よりも友達を作るのが簡単だった。平日の昼間は病棟に併設する養護学校——今は特別支援学校と名前が変わっている——に通い、授業を受け、休憩時間には先生の助けを借りて野球をした。午後に病棟に戻り、友達と遊び、ご飯を食べた。別に病院食だからといって不味いと思ったことはなかった。ホタテのフライが献立に出ると嬉しかった。「身体障がい」と「知的障がい」。当時はそんな言葉を知らなかった。なんとなく、何人かの友達と比べて、足が悪いだけの自分の状態は違うというのは分かっていた。運動会も普段の授業も、障がいの程度によってできることが違っていた。時々不公平だと思った。わけもわからず悲しくなることもあった。

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 週末は親が迎えに来る子は外泊できた。母が忙しかったり、病院まで遠かったりして、私が外泊できるのは1か月に1回ぐらいだった。神戸電鉄JRを乗り継いで家まで2時間弱。母の仕事はたぶん今よりもハードで、大変な時期だった。私がぺルテス病という珍しい病気にかかってしまったばかりに、苦労をかけているように感じたりした。 

 外泊する子が家に帰るので週末の病棟は閑散とする。同室の子がみな帰ると、普段は遊ばない隣の病棟の友達のところまで将棋を指しに行ったりした。本の世界に浸ることもあった。いくつかの病室ではいつもテレビが流れていて、ずっとテレビを見ている子もいた。ほとんどゲーム漬けの友達もいた。よく将棋を指した友達の1人は、私が夏に家に戻っている間に病状が悪化して亡くなった。よくわからなかった。ただ彼のことを忘れないようにしようとだけ、はっきりと思った。

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 病院から最寄り駅までは緩やかな下り坂だったと思う。外泊できる金曜日、母は駅までの10分間車いすを押してくれる。郊外の歩道はでこぼこで車輪の上の体に振動が伝わってくる。

 雑踏の中でも、病院から借りている黄色い車いすとその上にちょこんと乗った男の子は目立つ。三宮、駅構内を歩く人がみな私の方を見ている気がした。私はそこで自分が「かわいそう」だと思われていることについて考えていた。通りすがっただけの人に「かわいそうにねえ」と言われるのが嫌だった。思われることだけで嫌だった。以前は障碍を持つ人をかわいそうと思っていたのに自分が「かわいそう」だと思う人がいるのは我慢ならなかった。自尊心がゆるさなかった。でも難しいことに「かわいそう」と思う人も言う人も、悪気がない場合が大半なのだった。(そしてそれが問題なのだ)

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 退院と同時に引っ越して、新しい小学校に通うことになった。4月だった。松葉杖の私の病気について、母は転入先の学校の先生方に何度も説明し、私のできることとできないことを先生方に理解させた。当時は当然のように思っていた母の奔走は、今考えてみると全然当たり前ではなかった。仮に自分に子どができたとして、同じようなことをしてあげられる自信が私にはない。

 明日が始業式という夜、私は緊張して寝れなかった。自分が全校生の前に立ち、松葉杖の姿をさらすのだ。自信がなかったし、どういうわけかとても怖かった。「かわいそう」と思われたくなかった。全校生徒の数が1000人を超えるような人数の多い小学校だった。転校生も20人以上いて、一人一人紹介されるのだった。4年生にしては背の低い私を、私を支える松葉杖を、みなが好奇の目で見ているような気がした。他者の目に映る自分をはっきりと意識するようになったのはこの時だった。それまで、どちらかと言えば目立ちたがり屋だった私は「これからは目立たないでいよう」と思うようになった。

 

 

【今日の音楽】

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#118 理想と現実。ある大学生の場合 後編

 

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 大学生になったらアルバイトをたくさんするのだと思っていた。

 最初に始めたのはイベントスタッフ。初めて入ったのがインテックス大阪でのKANA-BOONのライブだった。『フルドライブ』や『ないものねだり』のような有名な数曲ぐらいしか知らなかった私は、観客の熱狂を見て、「売れている」バンドのすごさを思い知った。同時になぜかコレサワの『君のバンド』の歌詞を思い出していた。人とは違っていたいと昔から思っている私は、教室のみんなが聴いている「売れている」音楽ではなく、自分しか知らないような人たちを見つけるのが好きだった。大衆に迎合する音楽なんて良くないとも思っていた。でもKANA-BOONのファンが感動している姿を見ると、それも違うのかもしれないと思った。

 最初のインテックスは特別で、基本的に家に近い甲子園で働くことが多かった。私が入る日に限って阪神は負けた。外野席の酔っぱらいは負けた腹いせに私に怒鳴り、金本が監督になって1年目は高山の新人王以外散々だった。シフトを決めるために毎週水曜日に担当者に電話するのが段々と面倒になって、ついに電話しなくなった。

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 次に働いたのは大学生協だった。あまり面白くないバイトだったけれど、サークルと授業以外に同学年の人や先輩と知り合うことができたのは良かった。表面的な関係だったかもしれないけれど、気楽でくだらない話に安らげたのも事実だった。COVID19でコミュニケーションが限定された今年、一見無駄にも思えるやりとりに救われていたことに気づいたのは私だけではないはずだ。ステイホームが叫ばれるようになって、誰かとの些細なやりとりを思い出すようになった。5月以降私は思い出に浸ることが多くなり、今までは感じなかったような感謝を記憶の中の誰かに抱くようになった。感謝を伝えようとしても、彼らは就職したり、疎遠になっていたりしていて、もう近くにはいないのだった。

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みんないなくなる

 今働いているのは障碍を持った人が利用するショートステイである。職場の人の優しさのおかげで、長く働けている。元々はサークルの先輩のつてで紹介してもらったバイトである。詳しくは書かないけどいくつかの素晴らしい出会いがあった。またどこかで書けたら書こうと思う。

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国語学部のキャンパス

 ロシア語専攻に入ったのは偶然だった。浪人時代、別の大学の文学部を目指して勉強していた。外国語学部に向けた勉強をしていなかったので、受かるとは思っていなかった。滑り止めで受けた私大に行くのだと思っていたのに、受かってしまった私はロシア語を勉強することになった。

 ロシア語を勉強するようになった私は、将来はVGIKで勉強できたらいいな、なんて軽く考えていた。VGIKというのはモスクワにある国立の映画学校で、まだ映画監督になりたいと考えていた私は、初めそれをモチベーションに勉強していた。YouTubeにはロシア語の映画がたくさん転がっていて、いくつかを観たけれど、字幕なしではちんぷんかんぷんだった。映画監督になれなくても映画業界で働けたらいいなとも思っていた。映画の字幕を翻訳したり、ロシアの映画情報を日本に紹介するような仕事に就くのもいいなと考えていた。でも先輩方はロシア語を使わないような就職先に進んでいて、私にとってそれは衝撃だった。せっかく4年ないし5年ロシア語を勉強するのに、社会でロシア語を使わない職業につくなんて。もちろんそれぞれの選択だし自由なのだけれど、ピュアな私にとってその事実は衝撃だった。急に冷めてしまった私は、将来仕事で使わないかもしれないに毎日ロシア語を勉強する意味は果たしてあるのだろうかと思った。この勉強に意味があるのだと、私ははっきり言えなかった。ある時から本当にどうでもよくなって、授業もサボるようになってしまった。今はよくわからない。入学したばかりの頃よりも柔軟に考えられるようにはなったけれど、これからどうしたらいいのかわからない。留学したいとも思うし、院に進むのもあり得る。就職はできればしたくない。しかし働かずしてご飯を食べていいわけがない。

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選びきれない

「いろいろ感じることが多くて困ります」と言った私に、退官したロシア語のH先生は「大人になれば、そういうのは少なくなるよ」と言った。それはもう2年前のことで、その時と比べると私は大人になって、自分の感情がどのようなメカニズムで動くか少しはわかるようになったけれど、未だにコントロールするまでには至っていない。今日だってそうだ。文章が書きたいという気持ちが先走りして、もう10時間もぶっ続けで書いている。音楽が鳴らなくなってから随分経つ。もうすぐ夜が明ける。また来て欲しくもない朝が来る。

 やりたかったのにできなかったことがたくさんあった。今やりたいと思っていることもいくつかはできないままだ。絵空事を浮かべて、期待だけ抱いて、でも実現することはない。私はいつも自分に裏切られる。 

過ぎたこと、選ばんかった道、みな醒めた夢と変わりやせんな*1

 

 

 

【今日の音楽】

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#117 理想と現実。ある大学生の場合 前編

 何かをする前に、実現不可能な期待を抱いてしまう人間が一定数います。私の教えるロシア語のクラスにも毎年そのような学生が何人もいます。「ロシア語ができたらあんなことがしたい、こんなことがしたい」と考えるのは勝手ですが、語学は一足飛びに身につくものではありません。毎日の積み重ねなしに上達はありえません。そしてまた、理想と現実が違ったとしてもそれは誰のせいでもありません

*1

  

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 友達のゴビゴビ砂漠が北海道旅行の予定を立てていた。年始に札幌とその周辺に行くのだという。楽しそうに北海道の情報を集める彼を見ながら、私も3年前の北海道旅行を思い出していた。時間が来て彼と別れた後も、私はしばらく北海道の思い出に浸っていた。そのままふわふわした頭でスーパーに行くとコロッケをたくさん買ってしまった。

 

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札幌市内を流れる豊平川

 寝る前、札幌市内を自転車で走っていた時のことを急に思い出した。モエレ沼公園で午前中いっぱい過ごした私は札幌の中心部に帰る道すがら、父親の病気が治ったらいつか一緒に自動車で旅行したいなあと思ったのだった。今から考えるとロマンチックすぎる夢だった。

 2017年の11月だった。次の年の1月から2月にかけて米沢の自動車学校で免許を取ることになっていた。そして東北から関西に帰って来た2018210日、京都駅で父の家族と会い、彼らが私と父の再会を望んでいないことを知った。いつか父を助手席に乗せてドライブできるかな、なんて考えていたけれど、それはいつまでも夢のままである。でも私が小説を書くことがあれば、再会した父と子がドライブに行く話をどこかに挟もうと思う。

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京都駅。2018年2月10日

 

 こんなことをしたい、あんなことをしたいと私はよく考える。でもその数が多すぎて、全部を実現させるには私自身の力も時間も足りない。また、残念なことに私はたくさんのことを並行してやるのが苦手なようなのだ。一つのことに没頭してしまって他に手を回せなくなることがよくあるのだ。いつも「気が散って」いて「気が多い」私は、これまでたくさんの人に迷惑をかけてきてしまった。

 北海道に行く前、せっかくなので札幌だけでなく他の都市も回りたいと思ったけれど、北の大地は電車だけで回るには広すぎた。自動車の免許を取ったら、来年にでもレンタカーで北海道を旅行しようなんて、3年前は軽く考えていた。結局まだ行けていない。

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米沢の自動車学校

 

 大学に入る時、軽音楽部でドラムをやろうと思っていた。軽音サークルに仮入部して、新入生同士でバンドを組んで新入生ライブで演奏した。曲はGreen Dayの『Holiday』。練習も本番もドラムを叩けるだけで楽しくて、練習すればするほどに自分の演奏がうまくなっているのも解って嬉しかった。これから上達するだろう予感もあったのに、続けることができなかった。やりたいことが多すぎて時間がなかったのだ。人見知りが今よりもひどくて、サークルの雰囲気と自分が合っていないようにも思った。気がついた時にはlineグループから退会させられていた。

 

 浪人時代に本格的に音楽にはまった私は、大学生になればたくさんのライブに行こうと思っていた。水曜日のカンパネラは当時まだそこまでメジャーじゃなかった。みるきーうぇいはまだ大阪で二人で活動していた。いまはほとんど聴かなくなってしまったFM802を私はまだ聴いていて、Midnight Garageという深夜の番組を毎週楽しみにしていた。その番組では月に一回Homecomingsがコーナーを持っていて、大学一回生になってすぐの頃に彼らは2枚目のアルバムを出した。リリースを記念して、6月の末に梅田のシャングリラでライブをするというので聴きに行った。それは私が初めって行ったライブで、前の方に陣取った私はずっと音に合わせて体を動かしていた。ライブに行くときは荷物を少ない方がいいのだという当たり前のことをそこで知った。『LIGHTS』という曲の間奏でギターボーカルの畳野さんとギターの福富さんがギターをつき合わせて演奏するところで立った鳥肌が最後までおさまらなくて、ゾワゾワとした心のままアンコールが終わり、バッジとシャツを買った。途中から最後までずっと泣いていた。物販のところにHomecomings4人がいたけれど、泣いている自分が痛いファンに思えて話しかけるのはやめた。シャングリラで感動に浸った私は、酒飲みが酔いを醒ますように辺りを散歩した。梅田駅には行かず、中津駅周辺の人気のない通りを歩き、淀川を渡り、十三で電車に乗った。音楽が頭から離れなくて、ずっと歌っていた。この感動を忘れないようにしようとも思った。反面、悔しさや嫉妬もあった。あんな風に楽しそうに表現をできる彼らが羨ましかった。彼らのような表現者に自分もなりたいと思った。私はまだ「自分らしさ」のようなものを見つめている時期だった。表現者になる前に漠然とした「人間力」のようなものを培わなくてはいけないと思っていた。感動の余韻は次の日もその次の日も続いて、何も手につかなかった。ずっとぼうっとしていた。

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中津周辺

 翌月にもHomecomingsは、今はなき十三ファンダンゴでライブをした。Not WonkTHE FULL TEENZといった他のバンドもいて、小さなスペースに音楽好きが集まってみんなで騒いでいた。Not Wonkの人がステージから観客のほうにダイブして、ライブハウス慣れしていなかった私は少し怖かった。バンドとバンドの合間になぜかHomecomingsの福富さんが来て話しかけてくれた。嬉しいのと興奮したのとで、何を話したか覚えていない。ロシア語を勉強していることとか、文章で自分を表現したいこととか、そんなことを口走ったと思う。しっかりしたことを話さないうちに福富さんはミュージシャンの誰かに話しかけられて向こうの方に行ってしまった。いつか会うことがあったら、もし次の機会があるとしたら、その時はちゃんと話したいなと思いながらもう4年以上経ってしまった。

 大学生になったらライブにたくさん行こうと思っていたことを、勉強やらサークルが忙しくなるにつれて、私は忘れてしまった。たまに思い出しても、ライブハウスで聴く音楽に自分の情緒が耐えられるか不安で、悩んでいるうちにチケットの発売日を逃すというのを繰り返し、遂にはリリース情報をチェックするのをやめた。

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最後に行ったライブは一年前

 

 大学生になれば映画館にたくさん行こうと思っていた。いっぱしの映画好きだった私は受験勉強から解放されて、たくさん映画を観た。オールナイト上映会にも行った。トークショー付きの上映会にも行った。ただ、映画を観た後はいつもひどく疲れるのだった。泣いたり笑ったりハラハラしたり、とにかく私は忙しかった。自分の鋭すぎる感受性を上手くコントロールできなくて困った。段々、自分の心が擦り減っていくような気がして怖くなった。みなみ会館やシアターセブンの会員にもなったけれど、次第に行かなくなってしまった。

 

【ひとこと】

後編に続きます。

 

【今日の音楽】
クリスマスっぽいMVを選びました。

t.co

 

 

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*1:ユーリー・イシドロビチ・シュクスコイ『ロシア語学習者に送る9つの手紙』シベリア出版,2008,25

#116 何でもない日々(3)

  水曜日。久しぶりに大学の食堂でご飯を食べた。ゴビゴビ砂漠Sさんと一緒に食べた。食堂は感染対策のためにブース型自習室のように仕切りが立てられていて、3人で食べているのにまるで1人で食べているような気分にさせる。誰かが5月ぐらいにzoomの授業の中で言った「段々SF味を増してきましたね」という言葉を思い出した。無言で大学芋を頬張った。

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学食で昼ごはん

 ゴビゴビ砂漠は年始に札幌に行きたいらしい。モエレ沼公園テレビ塔大通公園、時計台。岩見沢に行きたいとゴビゴビ砂漠は言った。札幌出身のSさんいわく「岩見沢には何もない」らしいけれどそれでもゴビゴビ砂漠岩見沢で雪を見たいらしい。自分が札幌で生まれたらどんな風だっただろう。寒いのが好きになっていただろうか。黒海沿岸の保養地に押し掛けるロシア人のように何もない空と強い日差しに憧れるような人間になっていただろうか。将来住むとしたら寒い北国はごめんだけれど、2人は違う意見らしい。さすがはロシア語専攻。

 キャンパスのシンボルだった世界時計が新キャンパスに移転するため明日には見れなくというので写真を撮った。人の少ないことで有名なキャンパスだけれど最近は昼休みに世界時計の周りで写真を撮る人が結構いる。

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世界時計

 3限はロシア経済の授業。最初は退屈だったのだけれど、自分でレジュメにある単語の意味を調べたり、ソ連崩壊後にどん底にあったロシア経済をプーチンがどのように立て直していったのかということを知るのは興味深かった。日本にいては想像もつかないようなロシアならではの事情がたくさんあるのだ。今週は課題が出た。来週までに「ロシアでベンチャー企業は活躍できるのか」調べて簡単にまとめなくてはならない。

 4限の文法の難しい授業を受けてからゴビゴビ砂漠と別れた。パソコン室へ向かう少しの間、同じ授業を受けていたT君と話した。箕面駅近くのカフェとご飯やさんを教えてもらった。

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夜の図書館は幻想的な雰囲気になる

 パソコン室で用を済ました私はまた世界時計のある中庭を横切って図書館に入る。このご時世なので座れる席が決められていて、窓は半開きになっていて寒かった。新着の本の中に『ウガンダを知るための55章』があった。開くと、昔のサークルで先輩だった人が書いた文章が載っていた。嬉しくて写真を撮って連絡してしまった。知っている誰かが頑張っているのを知るのはとても嬉しいことだ。

 探していたロシアのSF小説についての簡単な本が見つかった。寒いので座らず、本棚の前に立ったまま読んだ。いろんな作家の名前と小説の名前が出てきてちんぷんかんぷんだった。知っている名前もちらほらあって、例えばゴーゴリの『鼻』を筆者はSFの枠に入れて紹介していた。ブルガーコフも出て来た。友達がレポートに書いていたストルガツキー兄弟についても長々と書かれていた。一応一通り読んだけれど頭には入らなかった。

 ソ連時代には文学官僚というのがいて、彼らの検閲なしでは本を出版することはできなかったそうだ。ブルガーコフの大作『巨匠とマルガリータ』も、死後になって出版されたものであったし、ストルガツキーも当局に反体制的であると見なされることを恐れて、創作途中で書き進めることを断念した作品もあるらしい。文学だけではなく、映画もそうである。私の好きなキラ・ムラトヴァの『長い見送り』はペレストロイカの時代になってようやく公開されたもので、映画監督としての活動を禁じられた時期さえあった。時代は違うけれど、音楽家ショスタコーヴィチも、スターリンに粛清されることを恐れて活動をやめていた時期もあった。(代わりに彼はスタジアムでサッカーを観戦することに熱中し、サッカーに関する記録を大量に残した。)

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よく行くキャンパス近くのカフェ「風゜輪」


 

 木曜日。早起きしてカフェに行こうかと思っていたけれど物事はそんなにうまくいくはずもなく、昼過ぎになってようやく布団から這い出す有様だった。3限にはぎりぎりに着いた。ゴビゴビ砂漠はまたスーツを着ていて、S先生の服飾史はいつものように面白かった。レジュメの1ページ目にはチェーホフの写真があって、「チェーホフ19世紀末のモード」という題名が書かれていた。「作家とモード(писатели и мода)」という名前の文豪と文学におけるファッションがまとめられたサイトを見ながら先生は授業を進めた。トルストイナロードニキ的ファッション——だらしないルバーシカや裾をブーツに入れたズボン——は私にはおしゃれとは思えなかったが、彼のファッションは信条から来ているものなのだという。先週の授業で読んだゴーゴリの『外套』のファッションもトルストイのファッションも現代人には少し奇妙に思えるが、より時代が下ったチェーホフの服は21世紀の街中で見かけてもおかしくはないと思う——ただし蔓なしの眼鏡を除く——。モード雑誌をよく読み、道行く人のファッションチェックも好きだったという彼は、戯曲にしても短編にしても、登場人物の性格と服装をリンクさせて書いたそうだ。『犬を連れた奥様』と『三人姉妹』の映像を観てその授業は終わった。

 後期の最初の授業から、毎週先生のおしゃれな服装をノートに落書きしていたのだけれど、段々飽きてきて、今週は結局描かなかった。世界時計はまだそこにあった。そこにあったけれど、ブルーシートをかけられていて、文字盤も世界地図ももう見えなかった。週末あたりに新キャンパスに移されるのだろうか。

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 ゴビゴビ砂漠が塾講師のアルバイトに向かうまでの1時間と少しを、今週もまたダラダラ構内の地下談話室で過ごした。私はトムスクに向けて送るメールの文面を練り、対面の彼は北海道旅行の計画を立てていた。談話室は暖かくて、WiFiも通っていて快適である。201711月の北海道旅行を私は思い出していた。新千歳空港に降り立った時の感動、札幌まで向かう電車の窓から見えるどこか寂しい景色、白樺の林水曜日のカンパネラMVでしか見たことがなかったテレビ塔と広い北海道大学のキャンパス。札幌駅に着いた私は駅ビルで味噌ラーメンを食べ、ゲストハウスにチェックインした。時計台を眺め大通公園を歩き、意味もなく市電に乗った後で、近代美術館で北海道出身の芸術家の作品を鑑賞した——日記によれば深井克美、伊藤光悦、神田日勝という人の作品を私は気に入ったみたいだ——。ピカンティというお店でスープカレーを食べ、初めて見るセイコーマートに意味もなく入ったりした。

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テレビ塔大通公園

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北海道大学


 次の日は駅前で自転車を借りてモエレ沼公園まで走った。札幌の街は碁盤のようにできていた。イサムノグチが設計した公園の人工的な山の上に座って吹いては抜けていく風とまだ暖かい日の温もりを感じた。スマホに通知があって、サークルの先輩からメッセージが来ていた。はやく提出物を出してください。そういうようなことが書かれてあった。大阪から離れた北の大地で、サークルの人間関係が急にちっぽけなものに思えた私は、サークルを辞めることをぼんやりと決めた。数カ月前から居場所がないとは感じていたから遅すぎるくらいだった。

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モエレ沼公園

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我流麺舞 飛燕


 豊平川沿いに走って、お昼は「我流麺舞
飛燕」という少し変わった名前のお店でラーメンを食べた。私は別にラーメンマニアではないけれど、魚介ベースでとっても美味しかったそのラーメンの味が未だに忘れられない。メンマもチャーシューも全部美味しかった。また行きたいと思うけれどいつになるだろう。再び自転車を漕いで中島公園ににある北海道立文学館で自転車を止めた。「アントン・チェーホフの遺産」という展示がやってた。数週間前、山形国際ドキュメンタリー映画祭で出会った檜山さんという人に頂いた前売り券を私は持っていた。詳細は忘れたけれど、チェーホフがサハリンで過ごした日々がメインテーマになっていた展示だったと思う。李恢成や宮沢賢治などサハリンに縁のある文学者の展示もあって、その中に林芙美子の直筆の原稿用紙を見つけた私はすっかり興奮して、学芸員さんに色々訊いてしまった。

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道立文学館

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林芙美子の原稿(許可を取って撮影しております)


 文学館を出るとすでに夕闇が迫っていた。スマホに残る写真を見るに、私はその後、市の中心部まで戻り、北菓楼の札幌本館でケーキを食べたらしい。ケーキを食べた後にも関わらず、私はまた昨日と同じようにまたスープカレーを食べた。
GARAKUという名前のそのお店は人気店らしく、たくさんの人がいた。美味しかった。

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スープカレーGARAKU

 経営が苦しいJRの路線は北海道に集中しているらしいと談話室でゴビゴビ砂漠が教えてくれる。北海道旅行最後の日、私はJR千歳線で苫小牧に向かった。苫小牧港から夜に出るフェリーで仙台に向かう計画だった。札幌圏の鉄道はJR北海道の中でも赤字はひどくないようだけれど、苫小牧駅から南東に伸びる日高本線はかなりの赤字らしい。2015年の高潮以来、鵡川駅様似駅の間の線路は切れたままで、様似には振り替え輸送のバスでしか行けないのが主な理由のようだ。いつか無くなってしまうのかもしれない。というか私が調べていないだけでもう路線の廃止が決まっていることもありえる。私は一度襟裳岬に行ってみたいのだけど、その時はずっとレンタカーで行かないといけないのかもしれない。

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札幌駅。ここからいろんな電車が出ていく

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苫小牧駅


 夜、急に気になって調べたら、私が
3年前に泊まったゲストハウスは閉業していた。私が人生で2番目に泊まったゲストハウスだった。そこで出会ったKCとは台湾に行く度に出会っているし、これからも何回か会うことになるだろう。それでも彼女と最初に出会った場所がなくなってしまったのは悲しい。

 

 

 

 【ひとこと】

 写真多めです。北海道旅行のことを考えていたら長くなってしまいました。

 

【今日の音楽】

 苫小牧出身のバンドです。MVの中に北海道の車窓が出てきます。

youtu.be

 

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#115 何でもない日々(2)

 従兄弟の家から帰って、リビングでテレビを見た。女芸人No1決定戦The W。令和になっても「女芸人」という表現が残っているのはどうなのかしらと思うけれど、お笑いの世界では「男」がマジョリティで、それ故に光が当たらない「女」芸人がいるからこそ存在する大会なのだろう。「男」芸人No1決定戦は存在しないけれど、The Wは存在する。ある意味アファーマティブアクションなのかもしれない。それはともかく、オダウエダとにぼしいわし、それからAマッソが見たかった。彼女らのネタを地上波で見られることはあまりないのである。期待は裏切られず、みんな面白かった。3組だけじゃなくて、優勝した吉住さんの一人コントも、ぼる塾の漫才の独特の間も、他の人達も。

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 表現っていいなあと思う。もちろん遠くから観てるから思うことである。養成所もライブシーンもテレビの現場も、大変なことばかりだと思う。ラジオを聴いている限り、オードリーやバカリズムのようなレベルの芸人になっても悩むことがあるようだ。すごいなあと思う。私はずっと何かしらの表現者になりたいと思っているけれど、彼らのような覚悟はあるだろうか。

 それから年齢のこと。吉住さんは芸歴6年目の31歳。2008年のM-1グランプリで一躍有名になった時、若林正恭30歳で早生まれの春日俊彰29歳だった。Aマッソは32歳と31歳だけれど未だに「ネクストブレイク」と言われている。彼女の他にも——以前にも以後にも——「ネクストブレイク枠」の芸人はたくさんいて、何人かは「ネクストブレイク」のまま忘れられていく。林芙美子が『放浪記』の連載を始めたのは25歳の時で、三浦しをん23歳の時に第一作『格闘する者に』を出版している。時代も状況も違うけれどチェーホフなんかもっと早くて、医学生だった彼は生活費を稼ぐために20歳になる前から雑誌に短編を書いている。スティーブン・キングが『キャリー』を出版するのは26歳になってからで、それまで教師として働きながら原稿を雑誌に送る生活を続けていた。ところで私は来年25歳になる。私は何かを成し遂げられるだろうか。「何か」がまだ固まっていない時点でもうすでに遅すぎる気がする。

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表現とは

 火曜日の授業はクラスメイトのプレゼンを聴く授業だった。昨日までに私も映画のプレゼンの原稿を先生にメールで送らないといけなかった。キラ・ムラトヴァの『長い見送り』について書いているのだけれど、なぜ私がこの映画が好きなのか考えれば考えるほど言葉にするのが難しくて、しかも曖昧なイメージを日本語ではなくロシア語で書かなくてはならないからどうやってもうまく行くような気がしない。でも好きな映画だからちゃんと表現したい。なんて手をこまねいているうちに期日が来て、過ぎてしまった。ソビエト映画におけるヌーベルバーグの影響、厳しい検閲、『長い見送り』の母と子の関係が私の家とよく似てること。アイディアも書きたいこともとめどなく浮かぶのに、実際に動き出せない。こんなことばかり繰り返しているうちは何も成し遂げられないだろう。そんなことを考えながらプレゼンを聴いていた。

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ウラジオストクの海。『長い見送り』にはこんな感じの海が出てくる

 

 存続の危機にあるらしい外国語学管弦楽団が署名活動を展開していて、私も署名をした。そうしたらポッキーをもらった。1年と半年ぐらい同じ教室で勉強しているけれど、クラスlineで署名の呼びかけがあるまでその人が管弦楽団に所属していることを知らなかった。そもそも今まで話したことが少ない。集中講義のウクライナ語の授業の時に一回話しただけだ。別にその人だけでなくて、せっかく長い時間一緒に過ごしているのにクラスメイトについてほとんど知らない。もったいないとは思うけれど、共通の話題もそんなにないし、私も彼らもみんな忙しいのだ。2留している——厳密にいえば最初の1年は休学なので、11留である——クラスメイトは署名をしたお礼にポッキーをもらえて嬉しかった。

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ポッキーとムラトヴァ

 

 Uから久しぶりに電話があった。京畿道のどこかを彼女は運転していた。営業の帰り道で、運転中暇だから電話したのだという。北大阪にいる私は課題をしながら、小一時間つらつら話していた。時折聞こえるウインカーやクラクションの音が、運転しているUの顔や韓国の冬の夜を私に想像させた。今の仕事では韓国語か英語しか使わないので、日本語を忘れてしまったとUは言ったけれど、そもそも3か国語をしっかり話すことができるのがすごいと思う。私はロシア語を5年勉強しているけれど、全然駄目である。今ここでUFOキャッチャーにつまみ上げられて、ロシアのどこかの都市に振り落とされても、私はサバイバルできない。

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ソウルでUに連れていってもらったお店

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お腹が空くね


 韓国では
COVID19の感染者が増えてきて一日に1000人程度いるらしい。日本はどうだろうと思って調べたら日本は2400人だった。京畿道のどこかに、私はCOVID19に感染して回復したスペイン語の先生から聞いた話をした。救急車で運ばれた先生は、結局10日もの間入院していたらしい。先生がしてくれた授業の始めにした話はかなり壮絶で、zoomの授業から退出する際、先生に何か気の利いたひとことを言おうかと思ったぐらいだった。しっくりくる言葉を探しているうちにzoomの部屋は消えてしまった。「お大事に」も違うし、「回復されてよかったですね」も何か変だ。言いたいことが言えない歯がゆさがある。インターネットで調べると「退院した上司に送るお祝いメールの文例」というページがあった。紹介されている表現を一通り見たけれど、奥歯に物が挟まったような文章ばかりだった。どの表現も無機質で心のこもっていない感じがした。気持ちが悪い表現を作ろうと思えばいくらでも作れる稀有な言語だと思う。日本語はしっかり話そうと思うと遠くなるし、崩すと急に距離が近くなってしまうとも思うのだけれど、どうだろうか。誰かに話しかける時、適切な日本語で適切な距離間を表現したいのだけれど、いつも難しい。

 ちなみに「酸素マスク」は韓国語でも同じ発音だそうだ。「後遺症」はカタカナにすると「フユッジュン」で日本語の発音と大きく違うように感じるけれど、同じ漢字から派生した読みだとUは言っていた。キムギドクが死去したニュースの報道が韓国と日本では大きく違う話をしているうちにUのドライブは終わって電話は切れた。元気そうでよかったとスマホを見つめながら思う。行ったことのない京畿道のどこかについて考えながら私はスペイン語の課題に取り掛かった。

 

 【ひとこと】

 (3)に続きます

  

【今日の音楽】

ロシアのバンドです

youtu.be

 

 

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#114 何でもない日々(1)

 

私の寝起きの悪さは7つの海と5つの大陸の津々浦々にまで轟くほど有名で、もし第三次世界大戦が起こるならそれは私の寝起きの悪さによって引き起こされるでしょう。あるシンクタンクの報告によれば、私の寝起きの良しあしが株価に影響を与えていることはほぼ間違いないそうです *1 

 

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冬の朝と鉄塔の街

 

 泊まりの勤務だった。障がいを持った人が利用するショートステイ。市が委託した社会福祉法人の運営する施設で私は働いている。働き始めて3年目がもう終わろうとしている。その朝は低血圧がひどくて、身体がうまく動かなくて使い物にならなかった。コロナの影響なのか利用者の数は普段よりも少なくて、さらには自立度の高い人ばかりだった。つまりいつもより「楽」なシフトなのだった。その日、朝にすることといえば、食事の配膳や食器洗い、見守りぐらいで、食事介助やトイレや着替えの手助けなどはなかった。そんな日に低血圧だったのは不幸中の幸いだったかもしれない。とにかく熱いコーヒーかホットミルクが飲みたかった。もちろん勤務中に飲めるはずもなく、代わりに私を待ちうけていたのは原付バイクで実家に帰る1時間の道のりだった。寒かった。家に帰ってもなかなか回復せず、結局日曜日は一日中寝て過ごした。夜に少しだけ本を読んだ。1週間前に読んだ時には好きになれなかった筆者の語りが、なぜか気にならなくなっていた。

 月曜日も起きれなかった。ずっと体温が低かった。昼過ぎに布団から這い出し、街に出た。クーポンがあったからマクドナルドでビッグマックを食べて、勉強をした。久しぶりに食べたからか、体調が悪いからか気分が悪くなって、勉強は全く進まなかった。マクドナルドから出た私は文房具屋とスーパーで買い物をして家に帰った。母親が帰ってきていた。ありがたいことにキッチンから美味しい匂いがした。カレーと豚汁だった。

 月曜日は5時間目だけ授業がある。時間が来て私はパソコンでzoomを起動させてパスワードを入力してバーチャル上の部屋に入った。M先生は若い先生なのだけど授業はとてもスムーズで、話も上手である。ロシアに関する知識も豊富でいろいろなことを教えてくれる。今学期に授業で使うのはロシア語の慣用表現を紹介するテクストと、YouTubeにあるロシアのドキュメンタリー番組の映像でどちらも興味深い。ただ、私は先週の授業まで丸々1カ月も月曜5限の授業をサボり散らかしていた。zoomの授業は一度休むと、次の授業に出席しにくくなる。私のような友達のいない生徒にとってはそれが難点だ。

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 1ヶ月間、毎週毎週、月曜日が近づく度に次の授業からはちゃんと出席しようと思っていた。でも予習の箇所がわからなかったり、テクストが難しかったり、自意識が邪魔したりして出席できなかった。月曜5限が来るたびにふて寝して、起きて自己嫌悪に陥るというのを繰り返していた。よくよく考えると私の人生はそんなことばかりだった。いろんなことがやりたいと思いながら一つのことができないと落ち込んでしまう。少しの失敗が尾を引いて、雪だるま式に膨れ上がり、やがて留年しなくてはならないほどになってしまう。今日やらなくてはいけないノルマが明日に引き継がれ、明後日に持ち越され、来週、来月、来年。そうやって物事を先延ばしにしてきた結果が現在である。やりたかったのにできなかったのか、できたのにやらなかったのか。不可能か怠惰か。中学受験、部活、大学受験、浪人、休学を決めて留年が確定した時、2回目の留年。フラッシュバックに次ぐフラッシュバック。

 

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母校

 一度は辞めようと思った部活に戻ると決めた後、毎日が新鮮だった。生き返ったような気分だった。もちろんしんどかったけれど、自分がまた部活に戻れたこと、周りが受け入れてくれたことが嬉しくて、走るのも筋トレも苦にならなかった。2カ月も経てば新鮮だった部活は日常になって、つらいことのほうが多くなってしまったけれど、それでもモチベーション次第で難易度が変わるというのは発見だった。

 話は少し変わるけれど、最後の大会となる公式戦まで1ヶ月を切った頃、自分が強いシュートを打てるようになったことに気付いた。パスを受けてドリブルで運びシュート。コースは甘かったけれどスピードがあったからキーパーは一歩も動けなかった。ゴールの中からボールを回収してまた列に並ぶ。パスを出し、パスを受けてシュート。今度も強いシュートがネットに突き刺さった。私のシュートが強くなったことに誰も気付いていなかった。嬉しくて、全員に言って回りたかったけれど、みんなは元々私より強いシュートが打てるのでそんなことはしなかった。その日の練習はたしか二部練とかで辛い日だったと思うけれど、面白いことにその日の練習は全く苦にならなかった。ただ、その日に掴んだ感覚は、次の日にはわからなくなっていた。何度打っても昨日のようなシュートは打てなかった。がっかりした。結局公式戦には最後まで出られなかった。

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従兄弟の家族と

 久しぶりの実家は温かくて、少しだけ泣きそうになった。隣に住む従兄弟の家族と食べる晩ご飯。食後のケーキと紅茶。いつものようにケーキをじゃんけんで勝った順で獲りあった。親たちは確実に老いているし、私も従兄弟も大人になっている。数年後にこの食卓に残っているのは一番下の従妹だけだろう。母と伯母は祖父の家と庭の今後について話し合っていた。「俺のお墓を守ってくれるか?」と事あるごとに私に訊く祖父は、死後も家を壊さないでほしいと願っている。でも築50年の家はもう修復できないほどに傷んでいる。年末になれば母と二人で祖父を訪ね、三人で新年を迎えるのだろうけれど、また祖母の不在を感じる年末年始になる。従兄弟たちが来ることがあっても2017年以前のように長居はしないだろう。おばあちゃんがいなくなってわが家の正月から会話も喧騒も同時に消えた。廊下に空いた穴や破れた網戸が目立つようになった。

 今から考えても新年は少し憂鬱である。しかし、そんな2021年の正月も2030年ぐらいになれば懐かしく思い出しているのだろう。幸か不幸か私はそういう人間である。

 

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踊り場と冬の夕日

 

【ひとこと】

(2)に続きます。時間がないです。

 

【今日の音楽】

youtu.be

 

 

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*1:

ユーリー・イシドロビチ・シュクスコイ『ロシア語学習者に送る9つの手紙』シベリア出版,2008,127

 

#113 Welcome to melancholic December

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 猫の声がした。確かにしたのだけれど暗がりの中に目を凝らしても何も見えなかった。もしかしたら誰かを乗せた自転車が軋む音だったのかもしれないし、どこかのフラットで誰かが椅子を引く音だったのかもしれない。でも私が聴いたのは確かに猫の鳴き声で、だから、私の脳内には「2020年の123日午後8時前、石橋の就活カフェ『HELLO, VISITSを出た後に猫の鳴き声を聴いた」と記憶された。

 いつの間にか12月になっていた。2020年も残すところあとひと月、もない。121日は「映画の日」でシネコンでは映画料金が安くなるから映画を観に行こうかなんて思ってたけれど、日々忙しく色々考えていると結局忘れてしまって行けなかった。別にずっと独りでいるわけではなくて、割合人と話しているし、チャットもしているはずなのに、なぜか寂しくて、誰かに電話をかけたいと思うけれど、こんな夜に誰かに重い話を聞いてもらうなんて申し訳なさすぎるなと思って、それならインスタライブやってみるかーとか夜中にパスタをゆがきながら考えたけれど、ミートスパを食べたら眠くなって寝てしまった。

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キャンパス。やだっちの自転車

 友達から久しぶりの電話があって、3時間も電話した。楽しい電話だった。それをまるで昨日のことのように思いながら毎日過ごしていたけれど、計算したらもう10日も前のことだった。その電話の4日前には前所属していたサークルの後輩のTと一緒に篠山に紅葉を見に行った。広島出身の彼は「ささやま」ではなくて「しのやま」と読んでいた。昔から兵庫に住んでいる自分にとって「篠山」は今も昔も当然のように「ささやま」なのだけれど、確かに初見では難しいなと思った。お城は意外と小さくて、でも立派な堀があった。調べると築城は1609年。藤堂高虎の設計らしい。城の種類としては「平山城」に分類されるようだ。平山城は戦国末期から江戸時代にかけて多く作られたもので、有名なものには松江城彦根城、姫路城、高知城宇和島城などがあるらしい。戦国時代まで長らく、防御のために有利な山城が多かったのが、次第に統治機能も兼ね備えた平山城が増え、戦乱の世が終わる頃になると名古屋城大阪城、二条城といった平城が建築されるようになる。去年も今年もよく城に行ったな、と遠くの山を見ながら思う。海外ではなく国内を旅行したのだから当たり前なのかもしれないけれど、それにしても私は城好きなのだと思う。春休みはやだっち青春18きっぷで姫路城に行った。商店街を歩いたり城下町を歩いたりして、その後には赤穂の坂越に移動して牡蠣を食べて、最後は岡山でまたお城を見た。本格的にCOVID19が問題になっていて、電車の中の空気はすでに以前のものではなかった。岡山から西宮に帰る頃は丁度帰宅ラッシュに差し掛かかる頃で、私は息を殺して窓の外を眺めていた。神戸の病院に入院していた時、隣りの病棟に上郡町の子がいたなとか、浪人時代、梅田の予備校まで兵庫と岡山の県境から通ってる友達がいたなとか色々考えていたらすぐに西宮だった。

 ちなみに最近行った城は熊本城でその前は津山城。来年の春休みには社会人になるゴビゴビ砂漠高知城に行ってみたいけれど、この分だと来年は予想よりも早くに来そうだ。20歳を過ぎてから、時間が過ぎていくスピードがとてつもなく速い。ゴビゴビ砂漠と、『海がきこえる』の舞台となった高知でお城を見たり商店街を歩いたり、防波堤の上を歩いたりしたいけど全部はできないだろう。時間はそんなにないだろうから。

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宇和島城

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萩城

 あと5分で橋本愛のラジオが始まる。最近買ったiPhoneがそれを教えてくれる。私はまだ国道沿いにあるカフェでこの文章を書いていてリアルタイムで聴けそうにはない。初回の放送なのに。AM2時まで座れるからと思って来たけど、コロナの影響で閉店は23時になっていた。仕方がない全部仕方がない。ともかく篠山の城下町で私はTと一緒に定食を食べて、私は栗を買った。車でしか行けないようなカフェに行ってテラス席でケーキを食べながら話した。サークルにいた時のこと、サークルの後輩たちが今どうしているか、これから進学するのか働くのか。風が強かったけれど、2週間前はまだ今ほど寒くなくて、日中は暖かかった。目の前に広がるのは畑と山々と、空と雲。夕日が見える時間になってから帰った。車の中で好きな音楽をかけた。後輩を下宿まで送った後、私は中国人留学生のユエと古着屋に行ってダウンジャケットとコートを買った。篠山の栗をいくつかユエが食べて、家に帰ってからは母が食べた。盛りだくさんだったその日の最後は友人5人とのテレビ電話で、ああだこうだみんなで近況を報告したり、いつ行けるかわからないようなキャンプの予定を立てたりした。電話の後、眠る気になれなくて意味もなくスマホをいじってボーっとしていた。

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篠山城

 今年で役割を終えるキャンパス。イチョウが黄色になる頃をしっかり見届けようと思っていたのに気付いた頃には葉っぱは散って茶色くなり、空に枝だけが残っていた。次の日曜日にはキャンパスのシンボルだった世界時計が撤去されて新キャンパスに移転するらしい。全く現実感がわかない。COVID19もキャンパスの移転も、友達の卒業も。

 2248分。あと10分ほどでこのカフェから出ないといけない。誰もいないテーブル。とっくの昔に掃除を済ました床。壁にかかったそれっぽい絵。書き終えたいのに終わらない。時間がない時間がない。本当に時間がない。あれもこれもしたいのに。

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時間がない

 この時期、原付に乗る時にリュックサックを前に抱えるか後ろに背負うか迷う。前に抱えると風よけになるけれど、背中の熱は逃げていく。ドン・キホーテでは卵が108円で売っていた。雄であると判明した瞬間に残酷な方法で殺されるひよこたちのことを考えながら私は10個入りパックをかごに入れた。後ろめたさを感じないのかって? そりゃ心が痛むさ。けれどもう疲れた。500グラム600円弱のフェアトレードマークのついてないコーヒー豆だってベトナムやブラジル、コロンビアの誰かを搾取して作られたものに違いないのだし、マクドナルドでもコンビニでも技能実習生の人ばかり働いているように思える。たったの8円と充電の切れたスマホしか持たずにバス停で寝起きしていた人が「邪魔だから」という理由だけで殺されて母親に付き添われた46歳の職を持たない人が出頭して、果たしてそんな世の中で本当にいいんですか? って思うけど、それでいいと思ってる人ってけっこういるんだろうなって思う。私も多分同じだ。そのままかごをレジまでもっていくような私は、PASONAのロゴが付いた幕を使っているからといって私は天満天神繁盛亭にいくのをやめたりなどしないのだから。資本主義経済の中で生きるということは誰かを搾取しながら素知らぬふりして生きて行くということなのだろうか。そうだとしたら絶望でしかない。パトラッシュ、僕はもう疲れたよ。

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驚安(そんな言葉はない)の殿堂

 ユニットバスの縁に腰かけて本を読んでいる。足だけ湯に浸かりながら難解なページをめくる。ウラジミール・ソローキン『青い脂』。2068年にクローン文学者から精製された「青い脂」は遺伝研究所からシベリアの地下に広がる宗教組織の神殿、そしてパラレルワールド1954年のモスクワへと移動し、支離滅裂なストーリーはいきなりのフィナーレを迎える。正直最初から最後まで全く理解できなかった。苦行に近い読書は土曜日のシフトの後にようやく終わっり、次に控えているのはブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』。これは上下巻で計800ページもあるのでまた苦行になるかもしれない。その後できれば年内に『罪と罰』に再チャレンジしたいけどこれもまた難解だろう。強豪校のクリーンナップに対峙するピッチャーの気分である。

 同期と久しぶりに連絡をとった。彼はまだエントリーシートESを書いていないと言っていた。少しほっとしたけれど、ほっとしていいのかとも思った。私はみんなに仕事が向いていないと言われる。たぶん当たっていると思う。そもそも私が満足できて、雇用主も私に満足できるであろう仕事はかなり限られていると思う。出版社とかどうだろうって考えているけれど、まだ調べていない。というかずっと調べていない。

 篠山からの帰り道、Tは留学中の出来事を語る流れで、今考えている将来のことを話してくれた。院に進むかもしれない彼は着実に情報を集めているようであった。就活の情報集めも並行して行っているようだった。

 私は——大方の予想通り何もやっていない——どうすればいいだろう。ゼミの先生は院進を進めてくれた。留学にも行きたいなんて思っているけれどCOVID19が邪魔をしてくる。また休学するのも少し怖くて、早めに卒業したいと思うし、そろそろ高校の同級生のように働き始めないといけないとも思う。ああどうすればいいんだろう。わからないまま12月が来てしまった。2020年がもう終わるなんて信じられない。まだ何もしていない。

 世界時計が撤去される日は延期になったらしい。また猫の声が聴こる。 

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キャンパスのシンボル世界時計。10月。

【今日の音楽】

youtu.be

 

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