〈詩のコーナー〉
ドービニーの庭
自転車に乗ってやって来た街で
ゴッホの絵を見ている
盛り上がる黄色青緑
かつて絵を描いた人がいて
今絵の前にいるぼく
100年前のフランスのどこかの庭
目の前に広がる草原には
自転車だけじゃたどり着けない
額縁に近づいてゆく
ゴッホのいた場所に立つ
ゴッホが立っていた場所にぼくがいて
ゴッホの絵を見ている
画家はもう行ってしまった
残った絵が語る一陣の風
ゴッホのいた場所にいる
【ひとこと】
友達に借りた詩集が素敵で、読んでいると自分も書きたくなって書いてみました。
小学校の頃、詩の音読の宿題が好きで、自分も詩を書いて参観日に発表したりしていました。
あの頃の詩はどこに行ったのでしょうか。
9月に行ったひろしま美術館で観たゴッホの絵を観て感じたことを詩に書いてみました。ゴッホのことが好きな人にはこの歌もおすすめです。
〈付録~50年前の高野悦子~〉
2019年6月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。
◎二月二十三日(日) 晴
二月十七日頃を境に、このノートを書くときの私の態度が変化している。以前はこのノートに、胸につまった言葉を吐き出す、ぶっつけることに意義があったのだが、クラブの人や友人達と話すことにより、その対話の中に自分を正面からぶっつけることにより、このノートにはその意義がなくなってきた、以後、二、三日書かずにいたのは、そのためである。その後の文章は意識化されたものとなって文面に現れている。
注意しなくてはならないことは、吐き出しぶっつけるのは常に己れ自身に対して行うものであるということである。他の人間に対しては、いくばくかの演技を伴った方が安全である。
それからノートには、その日の主な行動、事象、読書の内容を記録しておくと、後の理解の補助となる。ノートを読んで感じたのだが、イメージが狭小である。詩の勉強の必要性を感じる。