シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#96 2017年。春から夏。

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 祖母が息を引き取った時、私は祖母の前に座っていた。2日前から祖母は何も言わなくなっていた。何も言わなくなったその時に私の中でおばあちゃんは死んだ。だから息をしていないから、心臓が動いていないからといって、家族が今泣いているのは少し変だなと思っていた。

 さっきまで病室でお昼ご飯を食べていた。少しでも長い時間おばあちゃんの側にいたいからといってスーパーマーケットでサンドイッチやらコロッケやらを買った。もう点滴だけで生きていて口から食べ物を摂ることのできないおばあちゃんの横で、ごちそうを食べるのは気が引けた。無神経だとさえ思った。けれども、生きるためには食べないわけにはいかなくて、申し訳なく思いながら食べた。少しでも長くおばあちゃんの側にいたかった。談話室で食べる選択肢もあったけれどそれはなんか違うと思った。私たちが病室でわいわいと話しながらご飯を食べて、数時間後におばあちゃんは死んだ。みるみるうちに体が固まって、小さくなった。まるで示し合わせていたかのようにスムーズな流れで葬儀屋が呼ばれ、祖母だった遺体が運び出された。

 

 サークルの新歓が忙しい時期だった。大学も始まろうとしていた。

 新歓のイベントを運営する係になっていたのだけれど、落ち込んでいた私はやる気にならなかった。祖母が死んだ今、そんなイベントなど、サークル活動など無価値なものに思えた。バイトも休んだ。休んでも回るようなバイトなのでよかった。人間はどうせ死ぬのならやりたいことをやらないといけないなと何となく思うようになっていた。死んだ人の70年と少しの人生を考えると悲しかった。知多半島で一番足が速かった少女時代、教師の免許をとった学生時代、お見合い結婚、夫の転勤と出産、子育て、息子の結婚、娘の出産、娘の離婚、考え始めると止まらなかった。次から次へと感情が湧いてきて、パニックになりそうだった。今思っていることを書き残さないといけないと思ってずっとずっとノートに書いていた。

 

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時間があればずっと書いていた

 何にもやる気になれなくて、でも次の日に大学のオリエンテーションがあった。昨日おばあちゃんが死んだのに大学に行くのは変な感じだった。葬式はオリエンテーションの後だったから、キャンパスまでスーツを着ていかないといけないのだった。普段スーツを着ない私がスーツを着ているので友達が訊いてきた。本当のことを話したら変な感じになった。オリエンテーションと葬儀の間の時間、落ち着こうと思って駅前のミスタードーナツでコーヒーとドーナツを注文した。おばあちゃんはもうオールドファッションを食べることもできないのかと思った。

 ずっと絶縁状態だった伯父が葬式に来た。伯父が腫物みたいに扱われるのは仕方ないとしても、伯父の娘まで居心地悪い思いをしないといけないのは少し気の毒だった。伯父とはいくつか言葉を交わしただけだけれど、彼の人間性を知るにはそれでもう十分だった。

 

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 サークルのことを何もやらなかったら、先輩に心ないことを言われた。その人の家族の死なんて、他人にはわかることないと諦めていたけれど、それにしてもあんまりだった。結局私は半年後にサークルをやめるのだけれど、祖母の死はある意味ターニングポイントで、この時期を境に、世間には実は優しくない人の方が多いのかもしれないと思うようになった。私の悲しみがわかりやすく目に見える形であればいいのになとも思った。私の姿を観た瞬間、親類を亡くしたことが伝わればいいのに、なんて虫がいいことを思った。勉強にも身が入らなくて授業中にもサークルもミーティング中にも空想ばかりしていた。

 

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 チャイムがなると教室の外で黒いスーツを着た人が私を待ち構えている。眼が合うと彼は私に小さな箱を手渡す。その白い箱を開けると中からは白いフレームの眼鏡が出てくる。促されるままに私は眼鏡をかける。一見普通の眼鏡だ。私は首を振り廊下の端から端まで見渡す。度が入っているわけでもないし、サングラスのように色が入っているわけでもない。ただの伊達眼鏡。これを私に渡すのはどういうことなのだろうと思って私は眼鏡を外す。メガネをかけて外した一瞬のあいだなのにスーツの男の人はいなくなっている。廊下を見渡しても人影はない。あわてて私は階段を降りる。けれどもどこにも見つからない。何だったのだろうと私は思う。ただ白い箱と白い眼鏡が手元に残る。よくわからない。不思議だなあと思いながらも私は次の教室へと歩き出す。昼休みの校舎はにぎやかで階段も廊下も混みあっている。

 こうしてみるとなかなかおしゃれなデザインだ。午後はこの眼鏡をかけてみようと思う。今日は時間がなくて弁当を作らなかった。キャンパスに一つしかない小さな食堂には座る場所がなくて、購買でお菓子を買って昼ごはんがわりに食べることにする。チョコレートと午後の紅茶をもってレジに向かい、「はい」と差し出したところで腰をぬかしそうになった。レジ打ちの人の顔がのっぺらぼうにだったのだ。ぎょっとして顔をのけぞらせた拍子にメガネがずり落ちた。するとその人の顔が元通りに見えた。またメガネを戻すとまたのっぺらぼう。これは驚いた。不思議なメガネだ。レジの人はこちらはこちらで、私の顔に逆に驚いている。このまま立ち尽くすわけにはいかないのにお金を払ってそそくさとレジから離れた。

 大教室の片隅に座って、先刻もらった白い箱をもう一度開けた。さっきは気付かなかったが底に一枚紙が入っていた。取り出して見るとゴシック体で「ゼツボウガミエルメガネ」とだけ書かれている。そうか、さっきのレジの人は絶望を抱えていたのか。ポケットからスマホを取り出してインカメをつける。画面には私の顔の輪郭は確かに映っているが目鼻が全くなかった。眼鏡をとるとのっぺらぼうではなくなる。なるほど。この眼鏡をかけていると絶望を抱えた人がのっぺらぼうに見えるのかと思った。

 大教室では学生が銘々に話している。サークルのことバイトのこと部活のことSNSのこと。午後の授業が始まるまでの間、大抵は耳にイヤホンをねじ込んで、午前中のロシア語の復習をしているのだけれど、今日はみんなのことが気になった。チョコレートを食べながら周囲の会話を聴いていた。知り合いのスケート部の女の子が話している声が聴こえた。「今日の練習またリンク取れなくて夜中なんだけど」「また夜中なの? 最悪じゃん」

 うるさいなと思った。どんな顔なのか見てやろうと思ってそっちの方向に顔をやった。驚いたことに私が苦手なその女の子も向かいの子も顔ものっぺらぼうだった。なにか背筋にうすら寒いものが流れて、急に怖くなった。スマホの中なら大丈夫だろうと思ってSNSを開いた。タピオカミルクティーをもって自撮りしている人も、春休みに訪れたサグラダファミリアの前での記念写真も、神戸の中華街の「映える」写真もみんなのっぺらぼうだった。

 同じロシア語のクラスメイトぞろぞろとやってきて私の斜め前の少し離れた場所に座った。ロシア人の先生の愚痴を言ったり、課題の内容を確認したりしている。うるさいから黙っていてほしいなと思いながら私は音楽を聴くことにしてイヤホンの音量をあげる。鼓膜のすぐそばで小さなジョー・ストラマーが私の心を鼓舞する。

I am all lost in the supermarket.

I can no longer shop happily.

I came here for a special offer.

Guaranteed personality.

 突然に誰かの手が私の肩に触れる

「シゲ、さっきの教室に忘れとったよ」

そういってプリントを差し出したクラスメイトの顔ものっぺらぼうだ。平凡で悩みなど皆無に見える彼も私と同じなのか。意外だった。あわててメガネを外す。

「ああ、助かった。ありがとう」

「全然。シゲの描くこのキャラクターいいよね」

そう言って彼は私がプリントの裏に描いていた落書きを指した。

「ほんまに?」照れ臭かった。

「シゲの絵、よく解らないけど、いいよね」

私は不思議な気分になった。あきらかにナンセンスな4コママンガだった。吹き出しの中の会話は明らかに下ネタだ。優等生の彼がこの絵をほめるなんて世の中よくわからない。

「ありがとう」

「うん。また見せてよ」

そう言って彼はまたもとの同じクラスのグループに去って行った。

「君も絶望を抱えていたんだね」という言葉を私はギリギリのところで飲み込んだ。

 昼休み後の3限の授業はいつも以上につまらなくて私は眠ってしまった。起きた時には次の授業がもう始まっているころで、私は急いで大教室を出た。4限の教室にたどり着いて席に着いたと同時に、さっきのメガネをがないことに気づいた。授業後、大講義室に行って探してみたけれどどうしてだか無くなっていた。その時以来あの白いメガネを見かけることは一度もなかった。

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 16歳の時に辛くて学校に行かなかった。なりたい自分と現実の自分がどうしようもなく乖離していた。自分の家族のことでもやもやしていた。どこまで親のせいにできるのか、どこまで血のせいにできるのか考えていた。そんな私に「しんどくても俺たちは働いてんねん。働かなあかんねん」って言ってくれた人がいて、それだけでその人を嫌いになるには十分だった。祖母が死んだ今、母親も家族も毎日働き、今までと同じように日々を過ごしていた。死んだ後の手続きや、親族への連絡などを母が受け持って、連絡をとったりしていた。偉いなあと思った。大人になって親しい誰かが死んだとき私は同じように振舞えるだろうか。自信がなかった。

 

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 どんよりした毎日が過ぎた。おじいちゃんは独りで暮らすようになっていた。仏壇を買わないまでも、お骨と写真と蝋燭を用意して簡易の仏壇のようなものを和室の一角に作っていた。私もそのサンクチュアリのようになった場所で線香を立てて手を合わせた。祖父はふさぎ込んでいるように見えたけれど、実際は祖母がいなくなって伸び伸びできるようだった。興味深いことに、まるで神様かのように祖母の写真の前で手を合わせていた。私の知っている祖母はおじいちゃんのことを死ぬまで恨んでいた。けれども面白いことに、彼の認識は全く違うようだった。祖母と文通をしていた愛知の古い知り合いが祖母が送った手紙の束を送り返してきて、それを彼は額にいれて飾った。祖父の行動を理解することはできた。しかし背筋に寒いものを感じた。私が知っている祖母ならそんな風に自分の書いたものをみんなが見れる場所に置かないだろう。恥ずかしいからやめてほしいと言うにちがいない。祖母の死後も生前も、祖父はそんなことにはお構いなしだった。好奇心から額に入った手紙を読もうと思ったけれど祖母に悪い気がしてやめた。過去を美化し、自分を正当化し、長い間連れ添った人を偶像化する祖父を見ていると虫唾が走った。人間は分かり合えないのだと思った。そう思うともう絶望だった。

 

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 久しぶりに学校に行ったもののやはり授業に集中できなくてぼうっとしていた。ずっと考えていると、自分はその場所にいるはずなのに、いないような奇妙な感覚になった。まるで脳みそだけが浮んでいて、身体はここにないような気分。これ以上座っているのが辛くなってトイレに行った。5月なのに鏡に映る顔が真っ白だった。

「シゲ君、あんた生きてる?」なんて先生が冗談交じりに言った。笑うべきところなのだと思ったけれどそれよりも先に腹が立った。ちゃんと抗議をしないといけない思ったからまっすぐ目をみて「生きてますけど」と返した。帰り道に後悔した。どう返せばよかったのだろうと考えた。手を見つめながら「あれ、私透けてます?」なんて言えば笑えたのかもしれないなと思った。『千と千尋の神隠し』の序盤のシーンみたいに。自分はもうほとんど透けているんじゃないかと思うような時もあった。

 全部夢だったらいいなあと思った。全部消えてくれないかなあと思った。

 

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 サークルはもうめちゃめちゃで、そのめちゃめちゃの渦中の私はもうめちゃめちゃであることも分かっていなかった。自暴自棄になって、また平静を取り戻してというのをぐるぐる繰り返した。休学したほうがいいかもしれないというある日の思い付きが、段々と私の中で現実味を帯びるようになる一方で、ロシア語専攻の人たちは留学に行く手続きを進めていた。私には留学のことを考える余裕などなく、そもそも進級できるかさえ自信が持てなかった。実際、勉強していない私はこのままだと学期末の試験も受からないだろうと思った。出席も足りなくなるだろうと思った。しかし私は勉強のできる級友を羨んでいる一方で見下してもいた。彼らは本当に今まで「真面目」にやってきて、周りの出来事について、昨日今日の世界のニュースについて何も思ったりしないのだろうか。悩んだりしないのだろうか。不思議だった。勉強ばかりして、軽口の一つも立てずにロシア語ばかりして人生の何が楽しいんだろうと思った。あまりに静かで、あまりに薄っぺらくて、何のために生きているのだろうと思った。

 

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 漫然と日々が過ぎて、気づいたら梅雨に入っていた。悲しくなるニュースがあったり、サークルにいるのが辛くなったりして沈み込んでいた。ロシア語にはついていくことが出来なくなり、私は落ちこぼれた自分を認めたくなくて授業をサボり倒していた。オセアニアを中心に研究をしている人類学の先生の授業と、アメリカ文学概論だけは面白いから毎週出席していた。ロシア語も話せたら面白いし、ある程度わかるようにはなったのだけれど、先生の態度が冷たく感じられたり、クラスメイトがとてもつまらなかったり、本当にやりたいことはこれじゃないんだと思ったり、まあ自分に言い訳ばかりしていた。サークルでは意味のないことに時間と頭脳を費やしていて、本当に馬鹿みたいだった。

 

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 7月、雨がめちゃくちゃ降った。九州北部の畑や農地が流されて、ニュースでは歪んだ校舎の映像が繰り返し放送された。私に気候変動というものを始めて意識させた最初の洪水だった。サークルの人に誘われてボランティアに行った。言葉にできない光景だった。胡瓜を作っているビニルハウス、紅たでを作っているビニルハウスが流され、ハウス内の温度を調節する機械が水に浸かって使い物にならなくなっていた。上流で下水管が破裂したせいで土壌を全部一から消毒しないといけないという話も聞いた。土砂崩れのせいで茶色い山肌が露わになっている山がいくつも見えた。

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 自然災害によって生活が破壊されるのを目の当たりにして、感じること考えることが溢れて溢れて寝れなかった。緊張と労働で疲れているはずなのに頭がやけに冴えてどうしようもなかった。自分の家が洪水で押し流されていたら? 避難所に住むことになるのが私だったら? 色々と考えるうちに混乱していった。彼らはもう一か月以上も避難所生活を余儀なくされているのだ。そんな彼らとは無関係に関西では何不自由なく生活できる。テレビの中の世界では九州北部の豪雨はもう過去ったものであるかのように進む。祖母の死後から少しづつ考え続けていたことといくつかの考えが結びついて段々と苦しくなってきた。

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ボランティアのために自衛隊が設けてくれたお風呂

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 関西に帰って私は休学手続きをした。家では優等生だと思われていたから、休学すると言うと祖父が「どうしてそうなっちゃったかなあ」なんてぼやいた。もちろんそんなのは関係なかった。祖母がいないので布団を出したり料理を作る人がいないから、誰も祖父の家に泊まれなかった。会話量も、気まずさも、何から何まで祖母がいないことを再確認させられた。辛かった。祖父がありがたそうに写真の前で般若心経を暗唱したり、仏教の教えを唱えたりしている姿にいつまでも慣れなくて、言ってはいけない言葉を口走らないよう気をつけた。これほどにわかりやすい偽善もそうそうないものだと思った。

 サークルのことでミャンマーに行き、2週間滞在した後で帰った。関西国際空港難波駅も、死んだような顔をした日本人ばかりだった。ヤンゴンの喧騒の中で過ごした後ではこんなにも違って見えるのかと驚いた。日本の街は色が少なくて、静かすぎて気持ち悪かった。誰も彼も言いたいことを言わずに飲み込んでいる気がして不健康だと思った。こんな国では、気をつけて生きていないと簡単に自分を失ってしまうのだと思った。

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ヤンゴンダウンタウン

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シュエダゴンパゴダ

 

〈あとがき〉

 2017年は色々なひとを傷つけて、裏切ってしまいました。今から考えてみてもどう考えても不誠実でした。ごめんなさい。2017年を境に、全く連絡を取らなくなったり、話さなくなった人がいて、もったいなかったなあと思います。連絡をもらったのに無視したりとか、するべきではなかったなと思います。

 連絡を無視する、、みたいなことを、じゃあ今はしていないのかというと、今もしていると思います。申し訳ないです。まだ時間がかかりそうです。

 とはいえ理不尽なことも色々ありましたし、言わなくてもいい言葉で傷つけられたりもしましたし、それも絶対に忘れないようにしようと思います。

 未だにサークルにいた時の、特にサークルをやめる時の自分が大嫌いですが、そうした自分の不完全さや脆さをいつか肯定的に振り返られるようになれたらなと思います。

 斜体の所はフィクションです。最後まで読んで下さってありがとうございます。

 

 

 

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#95 鍵っ子だった

 

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 鍵っ子だった。

 尼崎の駅前のマンションに住んでいた。道路が拡張されたせいで今はもう残っていないけれど、マンションの前には広い花壇があって、春になると一面にチューリップが咲いた。毎年毎年チューリップの横で従兄弟達と写真を撮った。伯母がカメラに凝っていて、行事ごとに写真を撮って残してくれた。私の小学校の入学式にも伯母は来てくれた。入学式の日は雨で、濡れたコンクリートの上に張り付いた桜の花びらがとても綺麗だった。私は花びらを踏まないようにして歩いた。体育館には知らない子がたくさんいて、仲良くなれるか不安だった。私が保育所で同じだった友達は3人しかいなかった。心細い一方で教室も校舎も椅子も机も目に映る全てが新しくてわくわくした。でも学校にいる時間が長すぎて途中で疲れてしまった。帰ってきて、チューリップが目に入るとなぜかほっとした。

 母は仕事があるので朝8時には家を出ないといけなかった。だから私はそれまでに用意をしないといけなかった。大抵は母より先に家を出て、片道15分ほどの道を歩いて学校に向かった。起きるのが遅かったり身支度が遅れたりすると、母の方が先に家を出た。そうすると私が部屋の鍵をかけて家を出ないといけないのだった。

 鍵を閉めて、エレベーターを降りるのだけれど、途中でいつも鍵を閉めたかどうか不安になるのだった。鍵穴に差し込んだ鍵を回してまた戻す。鍵を抜いてドアノブを引いて閉まっていることを確認する。ドアを引っ張って確認した腕の感触も、鍵をしっかりかけたことも頭ではわかっているのだけど、エレベーターを降りて歩き出すと不安になってきて、最初の信号まで来たところでまたマンションの12階までひきかえす。もちろん閉まっている。でも泥棒が入るのは怖かったし、何より自分が鍵をかけなかったせいで母が悲しむのはいやだった。

 別に鍵に限った話ではなかった。ガスの元栓を閉めたのかどうか何回も確認したし、家を出る前にコンセントを抜いたかどうかも確認した。お風呂にお湯を張る時も栓をしたかどうか、お湯が湯船に溜まっているかどうかよく確認した。今でも家を出る時に何回も蛇口やコンセントを確かめてしまう。私が不在の間に家が火事にならないか、水浸しにならないか本気で心配になる。

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 多分家の中が不安定だったのだと思う。過保護だったけれど、母は母で毎日不安だったのだろう。理不尽なことで怒られて小学生の私は違和感を抱いたりもした。反発したりした。けれども当時の母親の状況がどのようなものなのかを知って、また「シングルマザー」というものを社会がどう考えているのかを知った今、母の態度は仕方がなかったとも思う。カーテンを開けっぱなしにして怒られるのも、門限に厳しいのも、当時は意味がわかっていなかった。でも今なら理解できる。

 高校の友達が「シングルマザー」という言葉に性的なニュアンスを含ませていた時、とても嫌な気持ちになった。芸能人の離婚をワイドショーであーだこーだと話しているのを見て、どうして他人の私生活をほじくりまわして楽しんでいるのだろうと思った。そういった出来事一つ一つに遭遇する度、私の心の底には小さな石が溜まっていき、自己肯定感を奪っていった。 

 下宿を始めてアパートの3階に住むようになってから、尼崎に住んでいた時の記憶がふいに蘇るようになった。山と谷を切り開いて作られた住宅地は尼崎の駅前とは全く違う似ても似つかない場所なのに、アパートの入り口でポストをチェックしたり、鍵をかけて階段を降りる時、もう忘れていた記憶がふわりと浮かんでくる。

 私の部屋はワンルームしかなくて家賃が3万円弱なのだけど、敷地内を子供を二人連れた女の人が歩いていたりする。子供を連れて3人で住むには20平米のワンルームは狭すぎると思う。彼女ももしかしたらシングルマザーなのかもしれない。たまに子供がアパートの廊下で追いかけっこをしている。

 私は一人っ子なのだけれど、弟か妹がいた可能性もあった。1歳半、あるいは2歳の時に母は妊娠した。けれども赤ちゃんがお腹の中にいたのはわずか数カ月だけだった。妹あるいは弟が生まれたら精一杯可愛がってやろうと楽しみにしていた私は「赤ちゃんがいなくなった」というのが理解できなかった。意味が解らなくて何度も何度も尋ねた。最後まで意味がわからなかった。どこかの大病院で、表面にゴムが張られた椅子に座っている母に「赤ちゃんはどこにいっちゃったの? 天国ってなに?」なんてずっと訊いて困らせた記憶は鮮明に残っている。12歳になって、あれは流産というやつだったのかも知れないとようやく思い当たった。私は母とそういったセンシティブな話をするのは良くないと思っていたし、辛い記憶かもしれないから長い間その話題には触れなかった。最近ようやくその話を母とした。やはりそうだった。

 

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 もしも私が兄になっていたらどうなっていただろうか。大学に通うことはできていただろうか。経済的に余裕がなくて浪人できなかったかもしれないし、留年した身分として今よりももっと肩身が狭かったかもしれない。何よりも、母は二人の子供を連れて父親のもとを離れられただろうか。私が4歳になろうとするある夜、母は私を連れて車に乗り込んだ。母は母の姉を頼って尼崎に住み、私もそこで保育所に通うことになった。子が二人いたら同じことが母にできただろうかと思った。もしかしたら母は夜逃げも離婚も諦めてずっと父親の家で過ごしていたかもしれない。私は名字も変わらず、母子家庭であることに引け目を感じて生きなくてもよかったかもしれない。父親の不在のために自分が不完全な存在であると考えなくてもよかったかもしれない。父親のことを知るには周りに訊くしかなかったのが、父親の話題自体がタブーだと考えていた私は中学生になるまで伯母や祖母に訊けなかった。18歳になるまで母と父親の話をまともにできなかった。大学生になってから家族が教えてくれたことが本当なら、父親にはあまりいい評判はなかった。奈良の地主の家に生まれ、甘やかされて育った人。そういった情報は残念ながら私の幼い頃の記憶と、かなりの部分で一致するのだった。ずっと父親の下で育ったなら、もしかしたらひどいマチズモになったかもしれなかった。あの家に居続けたら、マイノリティの気持にみじんも共感せず、フェミニズムを嘲笑う男になっていたかもしれなかった。そうならなくてよかったと思った。母親に育てられてよかった。祖母が言う話が全部正しいのなら10何年も私に連絡をよこさないのも納得だった。毎月母の口座にお金が振り込まれるだけで、本当に一度も便りが来ることはなかった。もちろん電話もなかった。ずっと父に会いたいと思っていたが、10代半ばを過ぎるころから、捨てられたも同じなのだと思うようになった。

 

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 成人して市役所にある戸籍を見ることが出来るようになった。父親の住所がK市にあることを初めて知った。大学を休学して悩みに悩んでいた時、決心してその住所を訪ねた。父親に会うことだけが目的だったのに、しかし私は賭けに失敗した。父親は病気だった。それもかなりひどいらしく、入院していて家にはいなかった。脳の病気で、倒れたのは今度で二度目だということだった。父の姉が私にお茶を入れてくれた。私に会って泣いていた。けれども彼女はひどい偽善者だった。自分の偽善を偽善とも思っていないような、それこそ息を吐くように嘘がつける人だった。もう来ないでくれもう会わないでくれというようなことを彼女は遠回しに言った。私はその後の数年間、その時の彼女の言動を何度も反芻し、色々と考えてみたけれど結論は変わらなかった。そんなことを言ってしまえるような親戚ならいてもいなくても同じだ。向うに事情があってもなくても関係ない。会えないのなら死んでいるのも同じだ。そして後遺症が残る程度の脳出血なら、もう遅すぎるかもしれないと思った。だいたい、今まで20年も会おうとしてこなかった人なのだ。これから会わなくても同じだと思った。

 次に会うのがお葬式でも、お葬式に呼ばれないとしても構やしないと思った。そう思い込むことにした。というかそう思うしかなかった。今度はこっちから無かったことにしてやる。 そして自分に恋人ができたら、自分に子供が生まれたら、めちゃくちゃ大事にしてやる。

 

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〈あとがき〉

 読んで厭な気持になった人もいるかもしれません。ごめんなさい。

 自分の復讐のようなものをブログに書くのは間違っているかもしれませが、一度書いておきたかったので書きました。

 家庭のことを書きすぎたので家族の誰かに見つかる前に非公開にしようと思います。

 

 最後にもう一つ、母子家庭、父子家庭に対する差別は減って欲しいです。

  

 

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#94 フットボール、米原万里、ユーゴスラビア

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 昔のサッカーを見ていた。09/10シーズンのヨーロッパチャンピオンズリーグ準決勝1stレグ、バルセロナインテルDAZNYouTubeに上げている動画ではアナウンサーと解説者が当時のことを振り返りながら実況をしていた。深夜、コーヒーを飲みながら課題の傍らでその試合を見ていた。

 私が欧州サッカーにはまったのは2010年暮れだった。初めに見たのはミランユベントスの試合で、ガットゥーゾが得点を決めてミランが勝った試合だった。私はそれからACミランという赤と黒の縦じまのチームにはまり、イタリアサッカーの虜になった。今では「終わった選手」のように扱われることの多いアレッシャンドレ・パトが当時大活躍していた。イブラヒモビッチが前線に君臨し、中盤にはファン・ボンメルとピルロがいた。私のお気に入りは前線のケビン・プリンスと右サイドバックアバーテだった。フロントのゴタゴタが長引いて、内部の権力闘争みたいなのが目に入るようになってからは進んでミランを応援する気にはなれなくなってしまったのだけれど、本田圭佑が加入した時は嬉しかったし、アバーテが引退した時は悲しかった。当時のサッカー部の友達はイングランド・プレミアリーグや、リーガ・エスパニョーラを観ている子が多かったが、なぜか私はセリエAにはまって長い間イタリアリーグばかり観ていた。プロヴィンチャのユニークなクラブが多く、チームごとに個性のあるイタリアリーグが好きだった。そのミランのライバルチームが、同じサンシーロを本拠地とするインテルだった。

 YouTubeでぼんやり観るつもりだったのに、懐かしい名前がたくさん出てきて、感傷に浸ってしまった。インテルのスターティングメンバーには懐かしい名前があった。サネッティディエゴ・ミリートカンビアッソチアゴ・モッタジュリオ・セーザルデヤン・スタンコビッチゴラン・パンデフ。一時代を築いたフットボーラーたち。ワクワクして観ていた当時の自分を思い出した。記憶が一度に戻って来てぐるぐる回った。2012年のユーロ、2014年のワールドカップ。クラスメイトと盛り上がったこと。深夜、明け方にテレビの前でドキドキしていたこと。部活の練習中、なかなか一流選手のようにはプレーできなくてもどかしく思ったこと。

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ケビン・プリンス・ボアテングが好きだった

 

  

 大学のゼミの課題でユーゴスラビアについて調べた。米原万里の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』の中にある、ユーゴスラビア出身のヤースナの箇所を読んで感じたことや考えたことをレポートに書く課題だった。米原万里はロシア語を学ぶ者にとって偉大な存在である。私が彼女の本を読むようになったのはけっこう最近のことだけど、高校時代に米原万里の本に出会って、ロシア語専攻を選んだ人もいるみたいだ。

 米原万里10代の始め、父親の仕事の都合でプラハに住んでいた。プラハにあるソビエト学校で、様々な背景を持つ子供たちと時間を過ごした。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』には、その時の思い出と、30年後にプラハ時代の友達(ギリシャ人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤースナ)を訪ねて行った話のことが書いてある。通訳者として活躍した筆者の語り口はユーモアがあって面白く、色々なことを教えてくれる。

 米原万里はヤースナを探しに1995年のベオグラードに行く。スロベニアクロアチアの独立に端を発したユーゴスラビアの内戦は泥沼化の様相を呈していて、米原万里の文章にも街の緊張が感じられる。ボスニアの内戦が激しかった頃である。戦火はまだベオグラードまでは来ていなかったが、民族主義がいたるところに露わになっていた時代だったと思う。元々はユーゴスラビアという1つの国であり、ナチスを撃退したという歴史と共産主義、そしてティトーの下で団結していたのが、民族主義の隆盛で崩壊していったのだった。日本と言う均質度の高い国に育った私には想像もつかないような感情がそこにはあるのだと思う。

 米原万里が言うように、抽象的な人間などこの世にはいない。どんな人間にもそれぞれの生まれと育ちがある。民族や宗教、言語、趣味趣向、その他諸々で自らを規定することができる。そういった多様性をはらんでいるからこそ社会は豊かである一方、争いも起こる。違いがあるからこそ衝突が起こる。仮にこの世界のすべての人類が私だったとして、戦争は起きないと思う。みんなが平和に暮らせるはずだ。でもその世界の生活は味気ないだろう。そこに文化はないだろう。音楽も文学も詩も生まれないだろう。自分とは違う視点にふれることができるから映画も文学も発展してきたのだ。違う場所から来た者同士の交流があるからこそ人生には可能性がある。

 

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2019年5月、先輩と吹田スタジアム大阪ダービーを観た

 

 

 私が伯父に初めて買ってもらった地図帳にはもうユーゴスラビアは無かった。バルカン半島にはスロベニアクロアチアボスニアマケドニアに並んで新ユーゴスラビアがあった。そして2003年、私が地図帳を熱心に見ていた頃に新ユーゴスラビアセルビア・モンテネグロと名前を変える。2006年のワールドカップ、ブラジル戦の後に中田英寿がピッチに仰向けになって天を見上げていたあのドイツ大会には「セルビア・モンテネグロ」が出場していた。しかし、セルビア・モンテネグロはその時点ではもう存在しない国家だった。国民投票モンテネグロの独立が決まり、開幕前の63日にセルビア・モンテネグロは地上に存在しなくなった。2006年のワールドカップセルビア・モンテネグロ代表は存在しない国家を代表して戦ったのだ。選手たちはどんな気持ちでプレーしていたのだろう。冒頭に紹介したスタンコビッチはドイツ大会では背番号10番をつけ、グループリーグ3試合にフル出場をしていた。結局セルビア・モンテネグロはワールドカップ3連敗を喫して、セルビア代表とモンテネグロ代表に別れる。別れるといってもほとんどの選手がセルビア国籍を選択したようだ。モンテネグロ代表を選択したのはローマ、ユベントスで活躍したミルコ・ヴチニッチぐらいのようである。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』にはヤースナのモンテネグロ人の夫が出てくるが、モンテネグロ人は背が高くて有名のようである。考えてみると、確かにモンテネグロ代表選手には背の高い選手が多い。

 ちなみにグループリーグ2試合目のアルゼンチン戦でセルビア・モンテネグロ0-6で敗れたのだけれど、この試合では、まだ18歳だったリオネル・メッシが途中出場してゴールを決めている。彼もまた2010年のチャンピオンズリーグバルセロナの選手としてプレーしていた。

 

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2019年夏、全州ワールドカップスタジアム。私は旅先でスポーツを観るのが好きだ。

 

 

 日本代表のユニホームが歴代の中でも群をぬいてかっこよかったドイツ大会。日本代表は初戦のオーストラリア戦を1-3で落とした。2戦はクロアチアとの試合だった。9歳の私は夜更かしを許されていなかったので、朝のニュースでハイライトをみた。試合前のスタジアム周辺の盛り上がりを伝える映像にはクロアチアサポーターが映っていた。彼らはユニフォームを身にまとい国旗を掲げていた。彼らが口にする「わが民族の誇り」という言葉は、歴史を知らない私には古臭く感じられた。無理矢理日本語に訳したのだろうかと思った。この試合はスコアレスドローに終わり、第3戦で優勝候補のブラジルと戦うことになっていた日本代表はグループステージ敗退が濃厚となった。「日本代表を最後まで信じましょう」というヘンな言葉とともにサッカーのニュースは終わった。

 後で知ったことだが、この試合には2018年のワールドカップで最優秀選手に選ばれることになる若き日のルカ・モドリッチがワールドカップデビューを果たしている。

 クロアチア代表のユニホームと言えば、赤と白の市松模様である。これはクロアチアの国章である。中世クロアチア王国のトミスラヴ王戴冠式に使用したデザインであるらしい。クロアチア人にとっては由緒ある紋章なのだと思う。ただ、このデザインは第二次世界大戦時に現在のクロアチアに存在したナチスドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」でも使われた。クロアチア民族主義者団体ウスタシャはクロアチア独立国支配下セルビア人、ユダヤ人、ジプシー、反対派のクロアチア人を逮捕し、強制収容所に入れ、虐殺をくり広げた。そしてウスタシャも赤白の市松模様を使用した。

 トゥジマン大統領がクロアチアの独立を宣言し、新しい国旗に市松模様が採用された時、クロアチアに住むセルビア人の頭に、50年前のことがよぎらないはずはなかった。彼らセルビア人は、クロアチア領内にクライナ・セルビア人共和国を作り新ユーゴスラビアがこれを支援した。クロアチアの内戦は一層ひどいものになった。クロアチアの内戦が終結してもボスニアの内戦、コソボの紛争はまだ続いていた。

 

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2019年3月、ハバロフスク

 

 

 思うに私はサッカーを通じてバルカン半島、そしてスラブの世界を知った。高い期待値と裏腹にドイツで一勝も挙げられなかったジーコに代わって新しく代表監督に就任したのはボスニア出身のイヴィツァ・オシムだった。そして海外サッカーに興味を持ちだした私が最初に観たのは旧ユーゴにルーツを持つ選手が多く在籍していたイタリアリーグである。ブチニッチパンデフハンダノビッチクラシッチ。地理的に近いイタリアにはスラブ系の名前を持つ選手が多く活躍していた。そうしたフットボーラーのインタビューを聴いたり、家族の話を調べたりするうちにバルカン半島の歴史にも興味を持つようになった。サッカーは私の世界史と地理の勉強に一役買ったのだった。

 私は今大学でロシア語を勉強しているが、おそらくこうしたサッカーにまつわる思い出も今の学業につながっているのだと思う。そして今日こうやってバルカン半島について調べていることも、こうして書いた文章も、少なからずこれからの人生につながっていくのだと思う。

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全州の特産である扇をイメージした屋根のデザインらしい


 

 

 

私が見ていた試合

www.youtube.com

 

試合の戦術についての記事

http:// https://note.com/seko_gunners/n/nd38311c7fac0

 

 

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参考文献

「ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇」

千田善 講談社現代新書1993年10月20日第一刷発行

嘘つきアーニャの真っ赤な真実

米原万里 角川文庫2004年6月25日初版発行

 

 

 

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最近よく思い出す2年前の夏

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#93 天然な人

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 さっきまで教授の部屋で数人で話していた。教授と数人の学生で、お茶やクッキーを食べてこれからの進路のことや研究のこと、卒論のことを話していた。帰り道に友達が呟いた。

「天然な人ってちょっと苦手やな。その人の言動のどこまでが『本当』でどこまで『演技』なのかわからへんくなる」

 なんとなく同感できた。「天然」とされている人の二面性を目の当たりにした時、私はいつもどきっとしてしまう。私に対していつもにこやかに話す人が、私の友人に対してはすげない態度をとった時、苦手なクラスメイトに対して自分が無意識に意地悪していると気づいた時、私の心はいつもぐらりと揺れた。「天然」とされている人は人間のそういった矛盾や不条理をわかりやすく見せつけてくる。それゆえ、私は「天然」とされている人が苦手なのかもしれないと思った。

 家族であれ、クラスメイトであれ、教授であれ、腹の底は見えない。外面はニコニコしていても心の中で何を考えているのはわからない。知っていると思っていた人の顔の中に知らない誰かを見つけてゾッとすることは確かにある。「天然」な人は、その特性ゆえに、「この人には裏の顔があるのではないか?」と特に疑ってしまい、私は警戒してしまう。中学、高校と私は「天然」とされている人とは距離をとってきた。

 「本当の天然」と「キャラとしての天然」がいたとしても、長い間私はどちらとも仲良くできなかった。物事を真剣に考えていたら「天然」でいられるはずなどないのに、彼や彼女は真剣に考える努力をしていないのではないだろうかとまで思ったこともあった。あるいは不誠実なのではないのかと。そう思って密かに少し軽蔑した。自分はこんなに考え込んで辛いのに、彼らは楽そうでいいなと思った。私が「100」落ち込むことでも、彼らは「1」ぐらいしか落ち込まないのだろうかと考えていた。そうだとしたらいいな。羨ましいな、なんて思った。

 そして、「天然」を装っている人も実際に存在する。何らかの理由があって、天然を演じることを選んだ、あるいは強いられたのだと思うけれど、その演技に一度気づいてしまうとこっちは居心地が悪くなる。「本当はこの人、私のことをどう思っているのだろう」なんて疑ってしまう。仲のいい人や好意を持っている人ならなおさらである。私はこの人にどう思われているんだろう? なんて思った瞬間、ぱっくり地面が割れて私は疑心暗鬼の暗闇に落ちて行ってしまう。なぜかガキ使の笑ってしまった時の音楽が流れる。

 

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 装っているのか装っていないのかわからないけれど、当たり障りのないことを言ってへらへらしてる人より、思っていることをそのまま言う人の方が信頼できる。デリカシーも必要だけど何か思うことがあるのなら言った方がいい。探り合いばかりのコミュニケーションは不健康だ。何か思うことがあるなら言ってほしい。できれば対面がいい。でも2020年の日本では思っていることを大声で言ってはいけない空気があって、自分の気持を抑圧しないといけない風潮がある。そもそも若い人や弱い人を不必要に萎縮させる仕組みがたくさんある。デモの現場に行っても、参加者以外の人は関心を示さないし、通り過ぎるだけだ。そして声を上げる人たちを叩くための言葉はたくさんあって、SNS上では毎日そんな言葉がタイムラインに出てくる。声を上げる人のアカウントに粘着する人、言葉尻をあげつらう人。不誠実や真面目さを嘲笑する空気には本当にうんざりする。正面から反論するのではなくてナナメの角度から来て、論点をずらそうする人たち。ずるいと思う。

 

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大学。食堂の横

 日本語のコミュニケーションは、受け手にゆだねられることが多い。伝達者が発した情報を受け手が解釈して初めてコミュニケーションが完成されるらしい。伝達者は言いたいことを直接的には言わず、オブラートに包んで伝える。そして受け手は相手の真意を「察して」理解する。そこには物事を直接的に言うのは無粋だという文化があると思う。他の外国語がどうなのかは知らないけれど、私が知る英語もロシア語も、コミュニケーションの中心は受け手ではなく伝え手であるように思う。伝え手はより具体的に、直接的に情報を伝えようとする。

 大学に入って1年目、ウラジオストク出身の先生のロシア語の授業を受けていて、その言葉の強さに驚いた。日頃、日本語の「間接的な」表現に慣れている私にとって、その言葉は強すぎた。練習問題をやっても、活用形を覚えていない私は間違った答えしか言えなくて、先生が説明してくれるのだけれどロシア語の聞き取りは全くわからなくて、授業は毎回頭が真っ白になっていた。

「ありがとう。もう結構よ。あなた発音もだめだし、文法もだめだめね!」

日本語にするとこんな感じの言葉を先生は授業で言った。毎回の授業で私もクラスメイトもみんな言われた。日本語のコミュニケーションではそんな言葉を投げられることなどなかったので、カルチャーショックをうけた。段々慣れてきて、ロシア語で投げられるその言葉を日本語に直訳してもあまり意味がないことに気付いた。ロシア語の世界でのその言葉と、その言葉を日本語の世界に無理やり持ってきたものとは、全く手触りが違うのだった。そのロシア人の先生は日本にもう何年も住んでいて日本語も上手なのだけれど、同じ意味の言葉を日本語では絶対に言わない。逆に、私がロシア語で作文を書いたり、教授にメールを送ったりする時に、日本語では絶対に使わないような表現を平気で書くこともある。これは英語でも同じである。言語はそれぞれに世界を持っていて、一つ一つ違う。だから日本語と同じルールを持ち込んでもよくわからなくなるだけだ。

 

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大学

 大学に入った当初、言いたいことを言えないのが苦しかった。高校、浪人時代には一日の大半を一緒に過ごす友達がいて、関係性ができていて、だから大方のことを話せた。遠慮することも少なかった。でも大学はゼロから関係性を作らないと行けなくて、言っていいことと言っていけないことの見極めがいちいちめんどくさかった。大して興味のない相手の話に合わせないといけなかったり、自分の本心を隠さないといけないのが苦しかった。モヤモヤした。

 そんな時に初めて自分がこじらせすぎたことに気付いた。自分は考えすぎなのだと知った。もっと自由に言っていいのに遠慮してしまう。自分の言葉で傷つく人がいるのではないかと怖くなってしまう。独りでいる時間が長かったのも良くなかったと思った。自分と対話するうちに引っ込み思案な性格になってしまったていた。

 反面、周りの人は「ラク」そうでいいなあと思った。「天然」な人はいいなあと思った。忖度することなく好きなことを話せるもんな、なんて思った。でも聞いてみたら聞いてみたで、その人にもその人なりの見方があって、「天然」なように見える言動にも実は意味があるのだった。その人なりの気遣いがあったりするのだった。大学に入って4年ほど経って周りと関係性が出来て、そんな当たり前のことにもようやく気付けた。そもそもコミュニケーションは多分に演技なのだから、ある人の言動に「ウラ」を探そうと思えば、いくらでも「真意」を見つけられるのだと思う。「本当」なんていつでも捏造できる。

 その人が「天然」なのかそうじゃないのか。「本当の天然」なのか「装っている」のか、考えても仕方ないのだと思う。むしろ本来であればそんなことを考えなくて良かったのだと思う。それでも、もう私たちは色々なものを見てきてしまった。嘘も憎しみも恨みも知ってしまった。箱が一度開いてしまった以上、出ていったものは戻ってこない。知ってしまったものを忘れることはできない。ピュアだったあの頃にはもう戻れない。自分を守るために、疑うことを覚えた私たちはこれからもこうやって探り合いながら生きていかないといけない。多分みんなそうなのだと思う。そうであってくれ。 

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#92 進級

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 進級した。ようやくだった。
 夜勤だった。日付が替わった。久しぶりに大学のホームページに入った。緊張しながら「成績」のボタンを押すと、また新たなボタンが出て来た。そのボタンには「
2019年度通年」と書いてある。私はこれを今からクリックする。そうすればすぐに終る。「ああ、見たくないなあ」と思った。この成績は確実に私の人生を左右する。CF、合格と不合格、進級と留年。それらは日常の中にいつも潜んでいるのに、私はこういう時にしか現実を直視できない。普段は日常にかまけて無意識に顔をそむけているのだ。しかしいつまでも誤魔化し続けることは不可能で、いつかは襟首を掴まれて現実の前に立たされる。それが今日だった。出さなかった課題や休んだ授業のことが頭をよぎった。今更遅いけどもっとちゃんとしておけばよかった。
「不合格」が出て、もう一年同じ年を繰り返さないといけないシチュエーションを想像した。次の
2年生の大部分は私より4歳下だろう。一年浪人していたとしても3年も違う。おそらく彼らが物心ついた頃には3Rが活躍したあのワールドカップはとうに終わっていたし、今岡がめちゃくちゃ打って阪神が優勝した年もイチロー西岡剛が活躍したWBCも大昔のことなのだろう。荒川静香イナバウアーも、4回転ジャンプが跳べた頃の安藤美姫も知らないに違いない。中学生になった頃にはもうスマホがあっただろうから「メールアドレスを変更しました」とガラケーに一斉送信されてくるメールを受け取ったこともないだろう。

 ぞっとした。自分が同じところをぐるぐると回りながら年老いていく様を思った。天王寺動物園で昔見た虎は柵のむこうで一日中行ったり来たりを繰り返していた。当時は何とも思わなかったのに、今は同情できる。

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阪急塚口駅

 意を決してボタンを押した。アクセスが集中しているのかページがかわるのに時間がかかった。スクロールすると「ロシア語」の成績が出て来た。5つとも合格だった。私は進級できたようだった。

 数分が経ってもまだ私は信じられずにいた。実感がなかった。「合格」と書かれているけれど、これは間違いで、本当は「不合格」なのではないかと思った。誰かの手違いで今は「合格」となっているけれど、このページをリロードすれば表示が変わって「不合格」になるのだろう。そう思ってスマートフォンの画面の右上のボタンを押し続けた。

 この2年間諦め癖がついていた。何をしてもなりたい自分になれない気がして、取り組む前から諦めてしまっていた。やる前に負ける未来が見えた。何をする気にもなれず、アイデアは無間に浮かんでもチャレンジしないものだから、元々無いようなものだった自己肯定感がどんどん下がっていった。暗い穴に引きこもる日々が続いて、気づいた時にはその穴から抜け出せなくなっていた。肥大化した承認欲求と、それに不釣り合いな委縮した勇気。精神状態はバランスを欠き、突然心拍数が速くなったり、異常な量の汗が出たりした。精神科にも行った。医師の見解では私の精神に異常は無いようだった。一応、ということで別の部屋で何回かカウンセリングを受けた。白い何もない部屋で自分語りを続けていくうちに、私は自己顕示欲が満たされていくのを感じた。段々自分が怖くなった。自分はもっとできる。自分はこんな場所にくすぶっているような器ではない。有名になるんだ。自分の口からとめどなく溢れてくる言葉に嫌悪感を抱いた。それでもやめられなかった。ある日、病院の最寄り駅で降りた私はカウンセリング室に続く坂道を登りながら、吐きそうになった。歩道の上で叫び出したくなった。むしゃくしゃしたまま病院の前を通り過ぎ、また同じ道を引き返した。何往復かした後で私は駅まで戻ることにした。構内のミスタードーナツに入って、いつものコーヒーではなく少し高いカフェラテを頼んだ。予約していたカウンセリングに行かなかった現実を直視したくなくて、持っていた本を開いた。茶色とも灰色ともとれる表紙には朱色の花が描かれていた。付箋だらけのその本にまたさらに付箋を貼って、気に入った箇所をノートに書き写す作業をひたすらに続けた。ペンを動かす手を止めたら泣き出してしまうそうだった。50年前に自殺した作者の言葉は私の心を抉り、同時にその傷を癒した。独りであること、未熟であること、これが私の

「カフェオレのおかわりはいかがですか」

直視できなかった。顔が真っ白なのがわかる。「ください」と口の先だけで言って頑張って口角を上げる。髪の毛もぼさぼさだし、着ている服もひどいものだった。フードにフードを重ねたりしていた。オレンジ色のコップがテーブルにまた戻され、空腹を満たすためにカフェオレを飲んだ。恥ずかしかった。今の自分はミスタードーナツの店員さんとも、店内にいる客とも、誰と比べても、取るに足らない存在のように思えた。同じ空間にいる全員に劣っている気がして、早く消えてしまいたかった。

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病院がある街のミスタードーナツ

 耳たぶが熱くなっていた。何回もリロードした後で、ようやく自分の進級を信じることができた。報告しないといけない人達の顔が頭に浮かび、SNSでメッセージを送った。

 なあんだ。こんなに簡単に進級できるんじゃないか。バイト先の簡易ベッドの上で無為に過ごしたに等しい2年の歳月を思った。無駄な時間だったと悲しく思う一方、暗闇で苦しんでいた頃の自分に対してヘンな罪悪感を感じた。あまりにも、あまりにもあっけなく進級してしまった。ちょっとだけ泣いた。

 生まれ変わった気分で自転車をこいだ。バイトが明けて爽快な気分だった。朝の風も陽の光も気持ちよくて、全てが完璧に思えた。ミスタードーナツに入って、あの日と同じように本を読んだ。志賀直哉の「城の崎にて」だった。自分にとっては今朝の発表が生死の境目だったのかもしれないと思った。

  窓から友人Wの姿が見えた。日差しの中のオレンジのコートは眩しくて暖かそうだった。冬が終わりつつあった。午後を目いっぱいに使って2人で尼崎の街を歩いた。地区は違えど、尼崎で少年期を過ごした2人だから、話すことはたくさんあった。知っている古い建物が消えていく一方で知らない新しい建物が増えていた。

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さんさんタウン

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昔住んでいた団地

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新しくできた映画館

 

 

 

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#91 ミシシッピイエロー

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ミシシッピイエロー』

 

こんなにいい日は外に出て絵でも描こう

春風が吹いた最初の日 

心はどこへでもとんでゆける

パレットの上親指でかきまぜる黄色い絵の具

少しの白ともっと少しの赤をまぜて

世界に一つのミシシッピイエロー

かぐわしいミシシッピイエロー

 

なにもない夜もちょっとしたことで変わるはず

夢を見る潜水服 

蝶はどこまでも飛んでゆく

星はまたたき半月は微笑んだ「淋しい人」

うすい黄色にもっと薄い白をまぜた淡い色

夏の朝焼けはミシシッピイエロー

涙が出るよミシシッピイエロー

 

 

 

【ひとこと】

 浪人している時、予備校の近くに電子タバコIQOSのショップが出来ました。まだ珍しかったので帰り道、友達の平野君と一緒にガラスの外から店内をのぞき込みました。カラーバリエーションの中に「ボルドーレッド」という色があって、「地名を色の名前にするのってどうなん?」と駅まで歩きながら平野君と話したりしました。そのうち「地名と色をくっつけるなら、どんなのがいいか」という話になって、私が思いついたのがこのミシシッピイエローという言葉でした。この言葉が気に入った私はその夜、平野君に見せるために詩を書くまでしたのでした。

 なんだか変なエピソードですが、思うに浪人時代は楽しみがなかったのでしょう。平野君と私は同じK大学の文学部を志望していたのですが、私は落ちて、平野君だけ受かりました。もし二人とも受かっていたらもっと仲良くなっていただろうと思います。大学一年生の時、K大学の学祭で会いましたが、それっきり会えていません。彼は今どこで何をしているのでしょうか。また会ってみたいですね。ゴールデンウィークに自分の部屋を整理していたら思いがけずこんな詩が出て来たのでブログに上げました。

 

 

 

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#90 詩を書こう

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『詩を書こう』

 

こういう時だから文章を書こう

そう思った

それなのに言葉はあとからあとから溢れて

掬えど掬えど「本当」は掴めないまま

 

誰かと電話した

思いつくままこぼれ出る言葉たち

強いことば弱いことば

抱きしめたいのに目を合わせたいのに

目の前にあるのはプラスチックの板だけ

 

スクロールすれば

それぞれの立場それぞれの正義

不誠実と嘘つきが街中を闊歩して

かき消される声なき声

彼らは透明人間なのか?

彼らと私は何が違うのか?

 

今朝、あなたの夢を見た

今だけならと手を繋いで踊った

幸せだったのに目が醒めて

シャワーの下で泣いた

鏡に映るぶさいく。

詩ならまだ書けるかもしれない

 

 

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【ひとこと】

 大丈夫かなと思っていたのですが、最近精神的にきつくなって、寝込んでしまいました。大学の学費が払えないかもしれない友人がいて、そのことを考えるとしんどくなってしまったのです。
 今、考えればすぐに「おかしい」と思えることが、「当たり前」になっていて、誰も指摘しません。いや、声を上げている人も確かにいるのですが、コロナウイルスの時代の激流の中でそうした声はすぐに忘れられてしまいます。とってもつらいです。正義や誠実、寛容がどんどん社会から消えて行っています。そんな中ではなかなか文章を書く気になれなくて、ブログも更新できていませんでした。代わりに思うことをつらつらスマートフォンに吹き込んで
YouTubeに上げたりしていました。

 3月末から、小森はるかさんと瀬尾夏美さんという方がツイキャスでラジオをやっていて、たまに聴いています。ラジオの中で詩が朗読されるのを聴いて、詩なら自分も書けるかもしれないと思って書いてみました。

 

 

瀬尾夏美さんのTwittertwitter.com 

小森瀬尾ラジオのリンク:t.co

 

 

 

 最近始めた自分のYouTube

www.youtube.com

 

 

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