シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#204 毎週あっているかのように話せる人・加速する寂しさ


 毎週会っているかのように話せた。その事実がとても嬉しかった。そう感じているのが私だけでなかったらいいなと思った。
 私は誰かと別れる時が苦手で、時々どうしようもなく辛くなってしまう。駅構内だったり、ホテルの前だったり、交差点だったり、場所はどこであれ、言いようもない寂しさを感じるのだ。さっきまで確かにあった関係性が、このまま今日で最後になってしまうような、そんな気分になる。それはリモコンの一時停止ボタンが押されて、その人と私の物語がそこで中断されるような気分。回っていた一つの世界が止まって、巻き戻しはできてもここから先には進めない、みたいな。
 誰かと会った後によく考えること。自分に失言がなかっただろうか。相手は楽しめていただろうか。私は楽しめていただろうか。家に帰った時間を見計らってチャットするべきだろうか。チャットには何を書いたらいいのだろうか。そういうのを考えていると、いつも悲しくなる。どうしてなのかわからないけれど。

 きっと私は、当代一と行っても過言ではないくらい、近年稀に見るような、寂しがり屋なのだろう。「別れ」をずっとうまくやることができない。電話を切るときもそう。チャットを終わらせるときもそう。「バイバイ!」の後に何か話してしまう。「おやすみ」の絵文字とスタンプの後で、私は宇宙の片隅にピュンと飛ばされたような気分になるのだ。
 
 思えば中学に入ってガラケーを持ち出した頃からそう。誰かのメールに返信しないことには落ち着かない気分だった。返信したメールにリアクションが来ないと、怖くなった。自分が嫌われたのではないかと、自分が傷つけてしまったのではないかと怖かった。

 どこまで行っても孤独で、どこまで歩いても誰にも会えないような。そんな寂しさが別れ際にはある。誰かと話していたとき、つまりその誰かと「一緒」だと思い込んでいた時間は、実はまやかしでしかなくて、結局のところ私は一人で、誰とも底の底までわかり合えない。そんな気分に陥るのだ。
 そういうときは決まってニヒルな気分になる。
 みんな、誰かと一緒にいることができていいなあと思いながら自分を卑下して街を歩く。あるいはみんな誰かと一緒になれているという幻想に浸ることができてなんて幸せなのだろうと思う。
 
 もちろん、最近はもうそんな風に思うこともほとんど無くなった。浪人している時代、あるいは留年している時代は、本当にそういうことばかり考えていた。コロナ禍になった2020年の春から夏、私は時々「ざまあみやがれと思った。みんな、コロナウイルスのせいで孤独になっているけど、俺はずっと孤独の中にいたのだ。自分の気持ちをみんな思い知ればいいのにと思った。暗闇にずっといた自分の気持ちがわかればいいのに。

 不思議なことだけど、コロナ禍にあった2020年から2021年は、みんなが同じ時代を生きているという感覚があった。zoomの授業が終わる度「みんな、しんどいけれど頑張ろうね!」って言いたくなった。メールで課題を送るときに「お疲れ様です。お互いめげずに頑張りましょう」なんて時々書いた。
 大学で男女がイチャイチャしているのを見ても、気にならなくなった。散歩中にいつも行くお気に入りの公園で、ベンチに座る恋人が手を握っていても、むしろ嬉しいと思うようになった。会えない日々が続くのだから会える時間ぐらいはイチャイチャして欲しいとまで思うようになった。
 同じ時間を生きているという感覚はとても不思議だった。昔からずっとあった、自分だけが損しているという感覚が次第に薄まって、みんな頑張っているのだから自分も頑張ろうと思えるようになった。同じ困難な時代を生きているという連帯感を勝手に感じていた。

旧キャンパスのどこか
 話がそれすぎた。
 この人とはきっとまた会える。そう思って別れるときは何も心配しなくていい。とても楽だ。そういう人の存在はとてもありがたい。帰り道のしんどさが、全く違うから。また絶対に会えるもんね。また楽しい話できるもんね。また適当なタイミングで連絡することもできるもんね。安心安心安心。
 毎週会っているかのように話せる人、あるいは初めてなのに初めてではないように話せる人。そういう人って本当に人生の宝だと思う。
 
 少しの勇気を出して連絡さえすれば、あるいはその人のいる場所に行けば、また会えることができる。
わざわざその人を訪ねるためだけに旅程を組んだりする。その土地自体に興味を持っていなくとも、その人のことが好きだからこそ、知ろうと思う。
 先月行った沖縄もそうだし、大学生の頃よく行った広島も、仙台も、そうだった。台湾だってそうだ。山形のドキュメンタリー映画祭で台湾の人々と会わなかったら、台湾に行くこともなかっただろう。

東京駅
 東京は東京で、友達がたくさんいる。大好きな人もたくさんいる。一人一人に会いたいけれど、時間は有限で、会いたい人全員には会えない。連絡するのが難しい。もっと長い時間話したかったな、なんて思いながら帰るのが嫌で、なかなか連絡できない。誰にも連絡せずに東京に行き、誰にも会わずに帰ることもしばしば。
 バンドをしている2人友達はちょっと特殊だ。彼らが素晴らしく気持ちのいい人間だということがわかっているから。ライブに行けばいつでも話せる。そして刺激をもらえる。ちょっとづつ音楽がパワーアップしていること。友達の演奏を楽しんでいる人の姿を見ること。着実に前に進んでいる友達を見て、自分も頑張らないとって思う。いつもありがとう。
 友達のバンド、ザ・リラクシンズのライブに行って、ライブの後に話すのは大好きだ。ゆっくりドリンクとか飲んで話しながら、バンドが売れたら、こうしてライブの後に話せなくなるのだろうかといつも思う。そういう日々が楽しみだし、自分もその時には大きくなっていたい。いつもポジティブな気分でライブハウスを後にして電車に乗る。その瞬間が好きだ。

ザ・リラクシンズ
 いつの間にかみんなと簡単に会えなくなっている。あの頃一緒にいた人たち。連絡を取ろうと思って、またやめにする。春は色々な人の顔が思い浮かぶ。寂しさは年々加速している気がする。
 
【今日の音楽】
 
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