シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#203 恋とか愛とか。あと内面化したマッチョイズムとの向き合い方とか

 シーブリーズのCMもポカリスエットの広告も、FMから流れてくるJポップのヒットチャートも、私達を焦らせていた。高校生活のうちに恋愛をしておかないとダメな気がしていた。でも部活をやって勉強もして、塾にも行って、読みたい本もあって。恋愛するなんてそんな余裕はなかった。要領の良い数パーセントだけがうまくやっていた。
 
 中学も高校も、なんなら大学にも社会人になっても、周りには欲求不満状態にある男子がたくさんいた。恋愛をしていることが偉くて、彼女を持ってるからマウントが取れる。そんな雰囲気があった。セックスがしたいがために誰かを騙す。そこまで行かないでも、ズルい男がたくさんいた。

大学の共用スペース
 男の子だけの間で女の人を話す時は「所有」あるいは「消費」という概念が念頭にある気がして、気持ち悪いなとずっと思っている。社会のシステムがそうなっているとか、お金を儲けたいがためにそのシステムを回したい人がいるとか、格差の上にあぐらをかきたいとか、そういう社会の上にそうした考え方があるのはわかる。けれど、大事な友達の中にもそうした考え方が内在化していると、とても悲しくなる。せめて言わないでくれ。人を傷つけないでくれ。

 自分が女の子だったらいいのになって思うのは小学生の時からあった。最初は、男の子よりも女の子の方が本の話ができるから。それから喧嘩が強いとか、万引きとか、授業中にガム噛むとか、そういう枠組みで動かなくていいいのに憧れていた。男の子は話が合わないなあとずっと思っていた。
 ただそれは心と体の性が一致しないとか、そのためにとても辛い思いをしているとか、そういうのではなかった。なんとなく、自分が女の子であれば、クラスの女の子ともっと話せて、楽しいだろうなって、そんな風に思っていた。

 中学生になると制服のせいか、部活のせいか、付き合う男女がクラスに出現したとか、そういうので自分が男の子だと自覚することが増えた。自分も好きな人がいたりした。高校生くらいまでは自分は男性として生まれたのだから、男性として生きないといけないと思っていた。だから部活の中でも友達同士でも、男の子としての自分を自覚していた。でも今はそんな日々が続いていたことに違和感がある。マッチョにならないとその時の自分は思っていて、でも背も低いし、誰とも付き合ったことがないし「男として」一人前ではない。もしかしたらずっと「男」にはなれないかもなって思っていた。
 初めから完全を求めたあまり、完全と程遠い自分にがっかりして、もうダメだと思っていた。自分にもそうした「男性らしさ」を求めないといけないと思っていた私は辛かった。

 自分がダメであることの原因を「彼女がいないから」だけに集約して、女の子を血眼で探している人がいることに、大学生になってから気づいた。SNSでも身の回りにもそういう人がいて怖かった。女性とセックスすることは解決策ではないし、恋愛関係はそれだけで単体ではなくて、人と人とのコミュニケーションの延長にあるものだ。周囲とのコミュニケーションを一足飛びにして恋愛もセックスもできるなんて、考えている方がおかしい。
 でも、誰かの性欲を募らせることをビジネスにしている人が世の中にはいる。ネットの広告も漫画誌のグラビアも、お金を儲けたいために男の子の性欲を駆り立てる装置になっている。それが普通になってしまっている。風俗という産業があること自体おかしいのに、みんな麻痺している。

 大学生になって数年経ち、マッチョイズムを求めてもなんかよくなさそうだなと思った。自分が男として成長するためだけに、誰かと付き合うとかセックスするというのは、相手を尊重しない気がして嫌だ。一時的なセックスで自分が人間的に大きくなれるとも思わないし、童貞を捨てることが世間一般で言われているほどに意味があるとは思えなかった。そうした男性的な規範に沿って生きるのは無理だなあと思った。それはなんだか道を外れるような気がした。信頼できる友人以外に、これを話しても意味がないのだろうと思っていた。理解できない人には本当に理解できない。マチズムとか男性優位主義とか、言い方はなんでもいいけれど、それ以外の見方ができない人にはきっとわからないだろう。

 別に自分の肉体の精神の性が一致していないとは思わない。ただ、自分が男性であるということが時々嫌になる。男性でありたくないと思う時がよくあって、そう思う瞬間は大学生以降増えた。それがきっかけで落ち込むこともある。色々ネットで情報を調べたり、ネットの簡単な診断を受けたりして、今は自分はXジェンダーだと思っている。
 決定的に自分が男性であることが嫌になったのはフラワーデモに参加した時。参加した大阪のデモでは、性暴力を受けた人がスピーチをしていた。どれも辛い体験談ばかりで、帰り道、泣きながら帰った。どうして性欲ってあるんだろう。どうして性別ってあるんだろう。私は全員をハグしたいと思うけれど、男の人の存在自体に恐怖を感じている人にハグしても怖がらせてしまうだけだ。なんで性別ってあるんだろう。自分が性別を超えた存在だったら。自分に性別がなければ。

www.flowerdemo.org

 自分の中にある男性性と性暴力の加害者にあるものは、きっと繋がっているのだろう。そう思うと自分が内面化した男性性をどうにかして無くしたいと思った。もちろん、性暴力の被害者は女性だけじゃない。それでも私はマチズムから逃れたいと思った。誰かを支配したいという欲求、セックスだけしたいという欲求がマチズムに由来すると思っているから。

 そのフラワーデモから数年が経ったけれど、私の中のそれは、今でも完全に消えたとは言えない。きっと永遠に消えることはないと思う。でも私はそれだけに囚われて生きることはないだろうし。目の前にいる人を大切に思うなら、ちゃんとコミュニケーションが取れるだろう。これから先の私が誰かを好きになることがあれば、相手の体よりも前に心自体を好きになるだろう。
 
 
 
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