シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#38 29+1

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 中国南方航空モスクワ発武漢行きCZ356便。長いフライトで10時間ぐらい座席に座っていた。お尻が蒸れてもう少しで餃子になるかと思った。ディスプレイがあったから映画を観た。悩んだ末 『291』(邦題:『29歳問題』)という映画を選んだ。舞台は20053月の香港で、キャリアウーマンのクリスティが主人公。あと一か月で30歳を迎えようとしている。

 クリスティは大家の勝手な都合で自分のフラットを追い出される。仮住まいとして紹介されたのはティンロという女性の部屋である。ティンロがパリにいる間、クリスティはそこに住むことになる。棚は古いレコードや映画のビデオテープが並べられ、水槽には2匹の亀がいて、壁は沢山の写真に覆われている。見るだけでウキウキするような部屋。素敵な部屋が出てくる映画はたいてい良い映画だと思う。『ゴーストワールド 』や『アメリ』、『勝手にふるえてろ』の部屋と同様、ティンロの部屋も雑多なようで整っていて、小道具たちが持ち主の内面を雄弁に語る。

 

 物語の本筋とはあまり関係ないけれど、クリスティのボーイフレンドが訪ねてくるシーンが印象に残った。出会って10年以上経つ彼らの中は冷え切って、すれ違いばかりである。

 だから訪ねてきても彼は彼女のことなど御構い無し。大量のレコードに夢中である。「上海への出張はどうだった? 」と聞いても大したことはなかったとか、いつもの出張だったとしか言わない。酒が飲めないからパーティーではただ座って上司が喋るのをただ聞いていたとか、退屈だからホテルでずっとテレビを見ていたとか、そういうのばかりで気の利いた返事が1つもない。男の人ってみんなこんな感じなのだろうか。

 私の祖父もこんな感じで、必要以上のことは何も言わない人だ。感情を見せない彼に対して、祖母は何度も怒りをぶつけたけれど、変わることはついぞなかった。一度「どうしておじいちゃんと結婚したの?」と聞いたことがある。祖母は「昔は、無口な人がかっこいいのだと思っていたのよ」と答えた。祖父が「喋らない」のではなく「喋れない」のだと気付いたのはだいぶ後だと言っていた。私が知る限り祖父と祖母は1日以上口論せずにいたことは無い。笑える話だ。お正月もお盆も家族で穏やかに過ごせた試しがなかった。しかし祖母が死んだ今、それすらも懐かしい。

 微かな記憶を集めてみると、私の父もそんな感じだった。祖父よりももっと悪くて、母を運転手や家政婦のようにしか思っていなかったと思う。私の脳内には彼らが愛し合っていた映像は1つも無い。彼に抱きしめられた記憶も、それどころか手を繋いだことも覚えていない。大きくなって何人かの人に父のことを聞いたけどどれもいい話じゃなかった。彼の顔はもう思い出せなくて、でも本棚の奥にはプレゼントでもらったウルトラマンの本がたしかにある。クソ食らえだ。

 

 画面の中では倦怠期もとうに過ぎたカップルがきまずい時間を過ごしている。キッチンの魚はとっくに冷めて匂いだけが漂っている。ボーイフレンドは嘘をついていたのだ。本当は上海出張などなかった。

 彼女は1994年のカウントダウンを思い出す。18歳のクリスティは大学を出てすぐ、できれば23歳までに、当時の彼と結婚したいと思っていて、でもニューイヤーイブの直前に失恋した。1994年を迎えた彼女の横にいたのが今のボーイフレンドで、彼はトニーレオンのモノマネで彼女を笑わせ、なぐさめた。

 ボーイフレンドがいなかった3週間、クリスティの周りでは色々なことが変わった。昇進したものの初めての大仕事で失敗し、クライアントに怒鳴られた。同じタイミングで父親が入院し、程なくして死んだ。仕事に意味を見出せなくなった主人公は会社を辞めた。そしてティンロの部屋でティンロの日記を読んでいた。

 ティンロは思い出ばかりを日記に書いている。一種の自伝のようなものだ。初恋の記憶や6年生に起こった出来事、初めて行ったコンサートのこと。日記は一つ一つの思い出を丁寧に取り出し、汚れを拭き取って並べていく。記憶はとても甘美である。でも一方で、現代に生きる私たちは常に前だけを向くように求められている。香港は都会だから毎日たくさんの人が忙しく過ごしていることだろう。ほとんどの人は過去を振り返る余裕がないし、必要以上に思い出に浸るということは現代社会では死を意味する。毎年同窓会ができるわけではないし、実家にも帰るのも忙しくて難しい。卒業アルバムなんて何年も開いてないしどこにあるかもわからなくなってしまった。

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 何年か前まで、昔話を語る人を「ダサい」と思っていた。今この瞬間にもどこかのバーでは呑んだくれた男が昔の武勇伝を語っているだろうし、またどこかの楽屋では落ち目の芸人が過去の絶頂期を語るだろう。毎日が楽しくて仕方なかった私にとって、そうした「昔話ばかり語る人」というのは過去の遺物のように思えた。「今」という現実に向き合うことができずに過去にすがりついている気がした。

 ティンロの日記もある意味では過去にすがりついている。ただ彼女の日記には人生を楽しもうとする態度があふれているとも思う。自分の好きな人や音楽、レコードに囲まれて生きるティンロの人生にクリスティはひかれる。そんな幸せな時間を忙しい彼女にはもう何年も過ごしてこなかった。記憶や思い出を大切にしようという態度は、ともすれば逃避に見えるけれど、一方では人生に対して真摯に向き合おうとするものなのかも知れない。私たちは昨日今日でできた存在ではない。生まれてから今日までに至る一つ一つの出来事が積み重なって私が作られた。だから過去を振り返る行為も自分に向き合う作業なのかも知れない。

 

 その後、まだ時間があったので『今夜、ロマンス劇場で』という邦画を観た。さっき観た香港映画に比べると残念だった。邦画のコメディってどうしてこうも似た演出ばかりなのだろう。大げさで不自然なセリフも、ノスタルジーを押し付けるような古き良き日本の風景も、既視感ばかりだ。ほとんど観客を馬鹿にしているようなものだ。三谷幸喜の作品の焼直しのような映画に思えた。『ザ・マジックアワー』と『不思議な金縛り』を足して2で割ったような感じだ。「こういうのがうけるんだろう?」という作り手の慢心みたいなのが見えた。私にとって斬新のものが少なかったからだと思う。がっかりしたのでもう1本映画を観ることにした。そうして長いフライトは終わった。

#37 青春ごっこ

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 全部青春ごっこなのよ。彼女はそう言った。小雨が降る夜で時刻は午後8時を数分過ぎていた。とうに閉まったお城の門には屋根があって、私達はそこで雨宿りをしながらお酒を飲んでいた。

 漫画でもドラマでも映画でも、ありもしない「青春」を描いて売っている人がいる。そういうものを信じてしまう人がいて、またそういうものに僻んでしまう自分がいる。高校に入る時、そこには「青春」があるのだと思っていた。入学して1ヶ月、気づいたのは高校も中学とそう大して変わらないということだった。私は焦った。

 「青春」はどこまで続くのだろう。私は22歳だけど、もう私の「青春」は終わっているのだろうか。それともまだ「青春」のまっただ中なのだろうか。ある人曰く、私はまだ思春期の途中なのだという。また別の人は、私はまだ幼すぎて大学生のレベルに達していないと言った。とすれば、私はまだ「青春」にいるのだろうか。けれどもたいていの「青春」映画、小説の主人公は高校生や中学生だと思う。若くてキラキラして未来がある、そんなイメージがある。22歳は「青春」におさまるには年を取りすぎている気がする。

 自覚を持たないといけない年頃、というのもある。どうやらもうすぐやって来るらしい。自覚なんてそんなのクソ喰らえだと思う。私はいつまでも私だし自分の好きなように振舞っていたいと思う。でもわからない。家族とか会社とか子供とか、そういったものが簡単に私を変えるかもしれない。


 17歳の夏、私は必死だった。あと部活ができるのも半年と少し。来年の夏休みは受験勉強で忙しいだろう。文化祭もあと1回しかない。「青春」がどんどん逃げ出していく気がした。美術の先生が若いうちに色々な映画を観ていた方がいい、と言ったからひたすら映画を観た。ただ気になっているだけの人にいきなり告白したりした。でも結局卒業まで「青春」をリアルタイムで実感することはついになかった。もちろん楽しいことはいくつもあって、好きな人と梅田を歩いたとか、事あるごとに胴上げされたとか、家庭科の調理実習の時にした無駄話とか。そういうのが本当の「青春」だったのかも知れない。ただ、当時は「青春」にはもっともっと楽しいことがあるに違いない、という幻想を抱いていて、その場その場での幸せを噛みしめることができていなかった。「青春」に踊らされていた。

 いろんな人の「青春」の話を聞くのは楽しい。失敗談や冒険譚、面白い事件や悩んでいたこと。そういうのはワクワクする。修学旅行でのけ者にされた太田光がずっと1人で煙草を吸っていた話とか、オードリーの高校時代の悪ふざけとか、ラジオでそういうのを聴くと布団の中でニヤニヤしてしまう。

 実話ベースの小説も楽しい。最近読んだ「青春」文学は村上龍の『69』で、とても面白かった。ただただ日々を楽しもうとしている高校生の話なのだけど、ずっと一緒にいた人が離れて行ってしまう寂しさもちゃんと書かれていた。前半がお馬鹿で楽しい分、最後はうるっとなってしまった。スティーブン・キングの『スタンドバイミー』も読んで以来ずっと好きだ。キングと同じような12歳を送りたくて、6年生の私は親友を見つけようと必死だった。あと、森絵都の『永遠の出口』も何回もよんだ。千葉に住む女の子が成長していく話で、誰の人生にもあるようなありふれた記憶を大人になった「私」が振り返りながら書いている。思春期でふてくされた「私」が家族で別府に行く話や、ケーキ屋でのバイトの話、卒業式後の屋上で盛り上がったこと、そういった誰かの思い出が私の頭の中に入って私や他の思い出とミックスされ、再びどこかへ飛んでいくのだとしたら、それは美しいと思う。

 

 書きながら1つ思い出した。中学の修学旅行で鹿児島に行った時、みんなで1人ずつ噴水をくぐり抜けたことがあった。あの時はとても楽しかった。走り回りながら「青春はこんな感じなのかもな」とたしかに思っていた。もしかしたらこれは青春と認定していいのかも知れない。

 水族館近くの噴水、いつかまた行きたいな。いや行かない方がいいかな。

 

#36 私はМ-1グランプリを見た!!

 

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 スーパーマラドーナが好きである。初めて見たのは2012年のThe Manzai 。それまでも深夜の番組で見たことはあったけれどコンテストのための漫才は初めてだった。

 伯父とホームセンターに行った帰りだった。記憶が正しければ、コーナンで買い物をして、二人で焼き鳥を食べて帰るところ。カーナビでテレビを見ようということになってたまたまつけたのがThe Manzaiだった。ちょうど彼らの出番で、小さい画面の中で芸人人生についての漫才をしていた。それがすごい面白くて。お笑いを言葉でそう表現すればいいのかわからないけれどとにかくすごい面白かった。メガネの田中と元ヤンキーの武智。二人のキャラクターが好きだった。武智が丁寧にすすめる展開の中で田中が暴走するのが面白かった。ファンになった。

 同じ組のアルコ&ピースが意外性のあるストーリー漫才をしてそれが会場に受けた。審査員たちは——なぜそこに座っているのかわからない秋元康テリー伊藤も含めて——アルピーに票を入れてスーパーマラドーナは敗退した。私にとっては面白くなかったけれどまあ笑いというのはそういうものなのだと知った。

 

 

 漫才を見るのは年末年始だけ、という家だった。そもそもテレビを見せてもらえなかった。なんとなくテレビは悪、教育によくない、という風潮が家にあって、NHKやニュース番組しか見れなかった。小学校高学年の頃はお笑いブームで、毎週イロモネアとかレッドカーペットとかやっていたのだけど、私は中学受験の勉強で忙しかった。2008年のM-1グランプリ 、オードリーとNON STYLEが一夜にしてスターになった。次の日の学校ではみんな春日のギャグ「オニガワラ!」をやっていたけど私には全く意味が分からなかった。

 全くテレビを見れなかったわけではない。小学校三年生の時、私は神戸の山の中にある病院に一年間入院することになった。そこでは毎日決まった時間、テレビを見ることが出来た。同室の友達とテレビを選ぶのだ。私は木曜日のアンビリバボーが好きだった。今はもうチープな番組としてしか見れなくなってしまったが、感動の実話を再現するシーンで私は毎回泣いていた。そんな9歳児だった。その頃から頭がおかしかった。

 病院では毎日9時までしかテレビが見れないのだけど、週のおわりだけは別だった。みんなが外泊して家に帰る金曜日はテレビが10時まで見れた。その時の私にとって午後10時という時間は深夜で、そんな時間にテレビを見れるなんてぞくぞくした。           

 私の4号室は金曜の夕方には空になった。みんな家族が迎えに来て家に帰るのだ。看護師さんは私を5号室に移す。5号室にはやっぱり家に帰れないさとちゃんがいて、週末は彼と一緒に過ごした。さとちゃんは三つ子で、姉妹と共に同じ病棟に入院していた。両親が軽自動車に買い替えたせいで車いすを乗せることができなくなり、三兄弟で一人だけ家に帰れないという可哀想な子だった。生まれてずっと入院している子だった。私は一年で退院できたけど彼は生まれてからずっと入院しているみたいだった。その病院は私が退院した2年後に閉鎖された。思い出がいくつか残った。

 とにかく、毎週末さとちゃんと過ごした。同じ部屋でご飯を食べて(病院の給食で一番おいしいのは貝柱のフライだった)その後一緒に見るテレビが「笑いの金メダル」だった。あんまり覚えてないけどピン芸人のヒロシとか波田陽区が一世を風靡したのもこの番組がきっかけだったと思う。子供でまだお笑いのルールとかよくわかっていなかったけどテレビの前でガハガハ笑っていた。それがお笑いとの出会いだった。

 

 昔も今も水曜は母親の帰りが遅い。つまり毎週水曜日はテレビが見れた。ちょうどいい時間にテレビでやっていたのは、はねるのトびらだった。番組の中のコントが好きだった。私のお気に入りはロバートの馬場。彼のおしゃれな髪型と眼鏡がかっこよかった。インパルスのシュールなボケと突っ込み、いるだけで面白いドランクドラゴン塚地とニヒルな鈴木も好きだった。残念なことにはねるのトびら2012年で終わってしまった。最後の方はほとんどコントもしていなかった。ピカルの定理が始まって人気も下火になっていたと思う。

 

 

 TheManzai を見てからしばらくは、スーパーマラドーナのネットで動画を探してもなかなか見つけ出せなかった。彼らよりももっと有名なスーパーマリオのゲーム映像とかマラドーナの五人抜きの映像が出てきたりした。だんだんと知名度が上がるにつれてYouTubeにも動画が上がるようになったし漫才特番にも出てくるようになった。嬉しかった。大学に入ったら劇場に観に行こうと思っていた。(まだこれは果たせていない。ルミネは遠い)

 浪人の時スーパーマラドーナM-1 の決勝に出た。お笑い好きの友達が予備校で昼ご飯を食べながら彼らがどうだったか教えてくれた。それが2015年で、そこから彼らは今年の大会まで四年連続で決勝に出場した。

 面白いのだけど優勝するほどまでではなくて、毎回悔しそうだった。2016年から毎年和牛が活躍するようになった。ホームランを打てる彼らに対してスーパーマラドーナは突き抜ける部分がなかった。ツーベースやスリーベースしか打てなかった。ミキみたいに華があるわけでもなかった。それでも堅実に毎年決勝に出続けていた。

 

 

 M-1 に出場できるのは結成15年以内に限られるみたいで、ジャルジャルギャロップスーパーマラドーナは今大会がラストだった。

 ラストだったからか、ひいき目なのかスーパーマラドーナのネタはいつもよりぶっ飛んでいるように見えた。吹っ切れて漫才をしているように見えて潔かった。覚悟のようなものが見えて漫才の最中からぽろぽろ泣いてしまっていた。この人たちは結成してから15年もこの大会のことを考えているのだ。

 まあ点数はあんまり入らなかった。ぶっ飛びすぎていて漫才としてはあんまりよくなかったのかもしれない。あるいは松本人志が言ったように「ネタが暗すぎる」のかもしれない。まあ仕方ないかなあと思った。サイコ過ぎたし、確かに笑えない人もいるかもしれない。技術的なことはよくわからないけど「後半と前半のバランスが悪い」みたいなことを審査員の誰かが言っていた。なるほどとは思ったがファンである私には終始面白かった。いいネタだと思うんだけどな。

 

 

 もう一つのお気に入りのコンビ、ゆにばーすもあんまりよくなかった。序盤で噛んで上がってしまったらしい。噛んだのは気付かなかった。録画を見返してはじめて気づいたが、そこまで致命的なミスとは思えなかった。でも硬さとかはあったし、受けてもいなかったし、空回りしていた。もしかしたら大声でツッコむ漫才はあまり受けなくなっているのかもしれない。彼らは漫才を終えてから終始落ち込んでいたけど来年も頑張ってほしい。オール巨人が言ったようにスタイルを変えたゆにばーすが見てみたいと少し思う。

 あとギャロップが自身のハゲた頭をネタにしているのも受けなかった。「そもそもこういう賞レースで自虐ネタはダメです」って上沼恵美子が言っていた。正しいと思う。自虐は時と場所を選ばないといけない。自虐で笑いを取るたび、何かが一つ失われる。まあ素人である私の自虐とギャロップの職人芸的自虐は全く別物なのだが。

 

 

 そもそもが異常な番組である。

 一言で言うとお笑いに点数をつけるっていうのがナンセンスだ。あと人を笑わせることにあそこまで真剣になるのも日常ではありえない。笑わせるはずの出演者たち自身がまず緊張している。漫才を審査する人たちも大変そうだ。

 

 お笑いに限らず評価するのは難しい。

 たとえば映画。毎回アカデミー賞では物議がある。黒人の俳優が少ないのではないかとか、反トランプを掲げる風潮が反映されてるじゃないかとか。「純粋にいい映画を決めよう!」という雰囲気はあんまりない。もちろんそういう気概を持った人もいると思うけど少なくとも大阪まで届いてこない。

 たとえばフィギュアスケート。フィギュアはスポーツでありながらもうほとんど芸術にもなっている。音楽を身体で表現するスケーターをどうやって評価するべきなのか? 音楽との調和や技と技の繋ぎをどう点数つけるのか? これは難しい。それだけではない。決められた時間に要素を一つ一つこなさす必要がある。本当に忙しい競技だ。ただ、要素一つひとつ、ジャンプの種類に点数があってだからこそ競技として成り立っていると思う。スピンやステップのレベルも厳格に基準が決まっていて——姿勢を何回変えたとか同じ姿勢を維持して何回回ったとか、どれだけ体重移動を行っているかとか——それなりに納得できるシステムになっている、と思う。

 

 オリンピック種目と違ってお笑いにははっきりとした基準が無い。最終的には個人の基準にゆだねられてしまう。「観客がどれだけ笑っていたか」とか「噛まなかった」とか色々基準はあると思うけれど、極論は「審査員の好き嫌い」になると思う。「好き嫌い」といっても審査員の中に哲学があると思う。ただそれを伝えるにはM-1 の中で審査員の7人に与えられている時間は少ない。

 だから審査員に対して不満がでるのは仕方ないと思う。「おれはこうやって点数つける」とか「○○のつけた点数はおかしい、来年から審査しないで」みたいなことを言う人がいる。「おれはこう見た!!」みたいなのをSNSにあげる。悪口はいかんと思うけど、それでも見ていたら面白い。「ふーん、この人にはこうやって見えたんや」みたいな気付きがたくさんある。M-1 を見ながら、傍らではスマホを開いてTwitterを見ていたけど、いろんな人が思い思いのことを呟いて面白かった。

 個人的には上沼恵美子立川志らくの講評が面白かった。上沼さんは厳しいことを言うこともあったけれどそれは基本的に優しさから来ているように思えた。それから志らくは本当に興味深い人だと思った。二人とも気になるのでちょっと調べてみようと思う。

 

 

 優勝は霜降り明星だった。ツッコミの粗品がフリップネタをしているのを見たことがあってそれで名前は知っていた。てか「粗品」って芸名、かなり秀逸で面白いと思う。

 25歳と26歳。4学年上の人が天下を取ったのを見て私は興奮した。

 自分も何かしないといけないと思った。でも何を?

  霜降り明星の漫才についてナイツの塙が講評で言っていたのは「圧倒的に強い人間がやっている」漫才だということだった。講評を聞く姿勢とか会見を見ているととてもしっかりしている人たちという印象だった。

粗品は優勝後の会見で「世代交代」という言葉を使っていた。強いなあと思う。

 さあ、私は何をできるだろう? まずは引きこもりを脱しないと。

 

 世代交代が起こって来年のM-1 はどうなるのだろう。楽しみである。

 

 

#35 偶然/必然

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 自転車がパンクした。ここ一か月でもう3回目である。誰かにいたずらされているのではないかと勘繰りたくなるような頻度である。はじめに後輪が2回パンクしてチューブを新しくした。大学が午前中で終わった日の午後、自力でチューブ交換をしてみたのだ。これが案外簡単にできた。昔、ことあるごとに「おれは一人でパンク修理ができるんやぞ」と豪語するクラスメイトがいて、そんな彼をすごいなと思っていた。でもなんだ、やってみれば簡単じゃないか。

 3回目の昨日は前輪だった。たまたまパンクした場所が自転車屋の近くだったのでそこで直してもらった。自転車屋の隣にはドン・キホーテがあった。ふと気付いた。1回目のパンクもこのドン・キホーテの近くだった。大学に行く途中でパンクに気付き、ドン・キホーテの駐輪場に自転車を止めてひとまずバスで学校に行ったのだ。よくよく考えると2回目のパンクも別のドン・キホーテの近くであった。私はその奇妙な偶然に驚いた。3回のパンクが全てドン・キホーテの近くで起こっているのだ。少し怖くなった。21世紀になってもやはり説明のできない出来事は怖い。

 

 

 大学に入って一度だけおばあちゃんに手紙を出した。1週間後に返信が届いた。病気が進行するに連れて祖母はますます読書を楽しみとするようになっていて、その頃は私が貸した沢木耕太郎の「深夜特急」を読んでいた。手紙にも「深夜特急」のことが書いてあった。沢木耕太郎は「デリーからロンドンまでバスで行ってやる」といって一人旅をした人なのだけど、おばあちゃんの若いころにも小田実という人がいて、彼も「何でも見てやろう」という本に世界旅行の経験を書いたらしい。おばあちゃんはそういう諸々を手紙の中で教えてくれた。

 朝日新聞の一面には「折々のことば」というコーナーがあって、鷲田清一古今東西のステキな言葉を紹介している。毎日、過去の名言とそれにまつわる彼の文章が載っている。私はよくもまあネタが尽きないなと思う。もう1200回以上連載しているはずだ。

 おばあちゃんの手紙を読んだその日、鷲田清一が紹介していたのは「人間古今東西みなチョボチョボや」という小田実の言葉だった。びっくりした。その日まで「小田実」という名前を聞いたことも読んだこともなかったのにたった一日で2回も目にしたのだ。不思議である。ここから遠くない芦屋に彼の記念碑があって、その言葉が刻まれているということも新聞には書かれていた。

 それだけではなかった。「小田実」の名前はその午後読み始めた本の中にも出てきたのだ。新潮文庫「ニ十歳の原点」。その本にも彼の名前が紹介されていた。何か目に見えない力が働いているような気がして鳥肌が立った。「ニ十歳の原点」は学生運動全盛期の京都で大学生だった高野悦子という人が書いた日記である。「何でも見てやろう」が出版されたのが1961年で、高野悦子の日記が書かれた時期は60年代の終わり。小田実ベ平連といった平和運動に参加していた人だから当時の学生には広く知られていたのだろうと思う。

 同じ人の名前が別々の場所から3つも出てくるとやっぱり怖かった。ただの偶然とはいえその偶然が何か意味を持つのではないかと考え込んでしまった。私の思考は「運命」とか「啓示」といったスピリチュアルな方向に向かってしまい、その日は何をしていても頭の片隅でそのことを考えていた。

 

 

 1カ月前、連続して「ヘンな」ものが見えた。

 ある朝駅に向かう途中で犬を散歩させている人影を見た。確かに見た。しかしその一人と一匹は、私が地面に目を落としまた顔を上げるまでの数秒足らずの間に影も形もなくなった。急いでいたのでちゃんと確認しなかったけれどどう考えてもおかしな出来事だった。

 その次の月曜日にもまた「ヘンな」ものがみえた、祖父の家の手前50メートルほどのところを自転車で走っている時のことだった。時刻は夜10時で暗かった。坂道なので立ち漕ぎをしていた。祖父の家の門灯を見ていると人影がスーッと移動して門のところに入っていくのが見えた。初め、祖父だと思ったので「ただいまー」と呼びかけた。けれども返事はないし、門が閉まる音もしない。センサーで点く防犯ライトも反応はなかった。玄関の扉を開けて祖父に訊くと、彼はずっと書斎にいたと言う。自分の見間違いとも思ったけど、何かを見たという確信があった。泥棒かとも思ったが、生身の人間なら防犯ライトが反応したはずである。謎だった。怖かったので家中の電気を点けて風呂に入った。

 シャワーを浴びながらいろいろ考えていた。どこかで誰かが死んだのかもしれないとぼんやり思った。誰かが私にメッセージを送ってきたのかもしれない。いつか聞いた怖い話を思い出してぞっとした。

 突然お風呂のドアの向こうから電子音が聴こえた。ピピピピピピピピ……。体をふいて急いで出ると、誰も設定していないのにリビングでアラームが鳴っていた。時計を見ると日付が替わって10月2日になっていた。そこでようやく気付いた。そうか、2日は祖母の月命日じゃないか。そう気づくと、少しうれしくなった。丁度1年半だった。

 

 ドライヤーで髪を乾かした後で、祖母の写真の前に正座し、線香に火をつけた。煙の筋を見ていると少し気持ちが落ち着いた。もちろん私が勝手に盛り上がり、自分の都合のいいように物事を解釈しているだけとも言えよう。こういうものを全く信じない人の目には、私の思考も行動もひどく馬鹿げたものに映るに違いない。

 それでも私はその夜の不思議な出来事に理由を見つけることが出来てほっとした。

 

 その話は祖父にはしなかった。ただ彼の部屋までは行った。

 彼はパソコンの前に座っていた。もう寝ようとするところだった。見ると彼は画面の上にあるタブを一つ一つ消していたのだけど、最後にデスクトップに残ったのが谷町にある風俗店のホームページだった。私はニヤニヤがとまらなかった。そして少し安心した。自分の心配がちっぽけなものだと気づけたし、この人は恐怖をみじんも感じていないに違いない。

 一方で、それは悲しいことだとも思った。この人とは今の感情を共有できないと感じたからだ。私の恐怖も感動も、彼にとっては隣の星雲の出来事と大差ないのだろう。

 

#34 ポケット今昔物語

 

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 今は昔——というか去年の6月——2つ年下の女の子が私に言った。「人ってそんな簡単には変われないんですよ」

 その時、私は「そんなことはない」と返したし、今でもそう思っている。でもどうだろう。人間の根っこにある本質的な部分は案外変わらないのかもしれない。そんな風に最近感じ始めた。

 

 

 目薬がなくなりそうだ。小さなボトルにはあと数滴分しか残っていない。達成感が湧いてくる。何しろ目薬を最後まで使い切るのは初めてのことなのだ。

 私は目が細い。目つきが悪くて、祖母には何度も注意された。道を歩いているとガンを飛ばされたりすることもある。目を開けているのに寝ていると勘違いされたこともある。正直目の大きな人が羨ましい。彼らは笑っても目が線になることはない。クラス写真を撮る時、写真屋さんに「そこの男の子、目を開けてくださいよー」なんて言われることも絶対にない。

 そんなに細い目だから、目薬をさすのは大変である。恥ずかしい話、一滴で目薬をさせるようになったのは高校生の時である。中学生になっても私は目薬が苦手で何滴垂らしても上手く目に入れることができなかった。悪戦苦闘する私をみんなが笑っていたけれど私は必死だった。

 最近極端に目が疲れるようになった。大学の眼科検診で視力を測ると左目だけ視力が落ちていた。眼科に行くとおばあちゃんの先生が「きみ眼圧高いねー」と言って眼圧の検査をすることになった。まあ眼圧には異常がなかったのだけど点眼薬をもらった。

 私は面倒くさがりでもある。眼科で目薬をもらっても面倒で、いつも途中でさすのをやめてしまう。処方されて大体3日ぐらいは毎日使うのだけど1週間ほど経つと忘れてしまって、1ヶ月経てばどこに行ったのかもわからなくなる。

 そんな私だが今回はちゃんと毎日目薬を差そうとこころがけた。視力の低下が少し怖かったのだ。実際目が疲れるとぼやけて見えることが多くなっていた。私は毎日小さなボトルをポケットに入れて家を出た。バイト、大学、図書館、カフェ。いろんな場所を行き来しながらいつもポケットの中には目薬を忍ばせていたのだ。一か月半ほど経って目薬はもうほとんどなくなった。少し誇らしかった。目薬を最後まで使い切るというのは今までにない経験なのだ。「初めて」はいくつになっても良いものである。私は目薬を使い切るXデーを心待ちにしていた。

 

 

 ところがである。先週ついに恐れていた出来事が起きた。私は目薬をポケットに入れたまま洗濯に出してしまったのだ。次の朝、目薬がないことに気付くも時すでに遅し。「ああ」とむなしいため息が漏れる。私はまたやろうとしていたことを成し遂げられなかった。がっかりして悲しくなる。

 小学校に入った頃のことを思い出した。小学校に入ると祖母と母は決まって毎朝ハンカチとティッシュを持たせた。家を出る前に「ハンカチ鼻紙持った?」といつも私に確認するのだ。7歳の私は半ズボンの小さなポケットにそれらをねじ込んで家を出る。小学校低学年の子が履くようなズボンは小さい。ハンカチとティッシュを入れるとポケットはぱんぱんに膨らんで気持ちが悪い。動きにくいのでハンカチも鼻紙も持っていくのはいやだった。

 学校と学童保育が終わると家に帰る。帰宅した私は最初にお風呂に入ることになっていたと思う。一日中校庭で遊んで服を汚しているからだ。私はよくハンカチとティッシュをポケットに入れたまま洗濯機を回してしまった。洗濯かごを持った母があきれた顔で私を呼びつける。私は洗濯物にからみついた白い繊維たちを見て何とも言えない悲しい気持ちになるのだった。沈んだ気持ちでティッシュだった塊をセーターやシャツから取り除くのだ。「ティッシュを洗濯機に入れてはいけない」と母に何度も言われているのにまたやってしまった。自分が恥ずかしかった。いらいらした。

 奇妙なことだが、幼い私はそんなティッシュ達に対して申し訳ないと思っていた。最後まで使い切ることが出来なかったという自責の念にかられる。道半ばで洗濯機の藻屑となった彼らのことを考えるとやり切れない思いになった。

 目薬を洗濯してしまったのも今回が初めてではない。生まれてから今まで、かれこれ10回ぐらいやっている気がする。洗濯する度自分が成長していないことを知って悲しくなる。別にそんなに大げさなことではないのだけれどやっぱり悲しい。さすがにティッシュを洗濯することは少なくなったけれど、目薬やレシートなんてのをポケットに入れたまま洗濯してしまうことはまだある。秋が来て涼しくなったこの10月、私は今シーズン初めてのジーンズを履いたのだけれど、お尻のポケットから出てきたのは出場を済ませていない阪急電車の切符だった。もう笑ってしまった。

 

 

 自分より若い人が「人間はそんな簡単に変わらない」と言うのを聞いた時、私は悲しくなった。自分自身これから大きく変わりたかったし、変われると信じていた。なのにそんな風に言われるなんて。

 極悪人が改心して善人になる話や、問題児が更生してヒーローになる話は世の中にごまんとある。例えばほら、刑務所で腐っていたジャンバルジャンも善人になろうと苦悩する。ジャベール警部だって最後は改心したじゃないか。『クリスマス・キャロル』のスクルージだって最後は善人になろうとするだろ?

 「でも、」と私の頭の中で声がする。それってお話の中だけだろ? 実際の世界を見ろよ。お前の祖母は恨み言を言いながら死んだし、彼女の死があってもお前の家族はほとんど変わっていない。

 

 

 私はロマンチストで肥大妄想の癖がある。だからこそその言葉を聞いて耳が痛かった。「こんな人間になりたい」という自分の妄想も、「変わりたい」という思いも、無計画で非現実的なものだ。第一努力していると本当に言えるのかよ? その現実をどこかで自覚していたから彼女の言葉が心に刺さったのだ。

 

 

 思えば今年の9月、親友Jも同じことを言っていた。「毎年新しい夏が来ても、結局人は最初の夏休みを繰り返す」

 自分自身を振り返ってみて、これは真実だと思う。

 

 

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#33 そのことば「取り扱い注意!」


 

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 使う時に気をつけないといけない言葉がある。

 今年の217日と18日の土日に名古屋の大須に行った。「大須にじいろ映画祭」というのに参加したのだ。「にじいろ」という名の通り、セクシャルマイノリティに関する映画祭だった。

 18日にメインの上映会があって、17日の夜には前夜祭という名のパーティーがあった。パーティーの中盤になると、集まった参加者で輪になって自己紹介をした。映画祭の性質上様々な人がいて、いろんな境遇の人がいるのだった。自分をレズビアンだという人もいればゲイの人もいた。自分をセクシャルマイノリティだと思っていない人も何人かいて、その人たちは「私はふつうなんです」と言った。

 何人目かの人が「ふつうです」と言ったときに、自分のことをゲイだと言ったおじさんが「みんなふつうなんですよ」と言った。確かにそうだった。

 

 略し方もそうである。

 レズビアンは「レズ」と略したら不快に思う人もいるらしい。「どうして?」と聞くと、「レズ」という短縮した言葉にはポルノビデオのイメージがあったり、蔑称として使う人が多いからだそうだ。なるほど。

 東洋人、特に日本人のことを「ジャップ」と言うのもダメなようである。私の大好きなフットボーラーであるジェイミー・ヴァーディ―が昔、レスターのカジノで「ジャップ」という言葉を東洋人に浴びせて問題になっていた。

 

 この「気をつけないといけない言葉」の話をすると、いつも中国の名称の話をする人がいる。最近は中国のことを「しな」と呼ぶのは蔑称になるらしい。「東シナ海」や「インドシナ半島」という地名があるにも関わらずだ。

 確かに「支那人」という言葉からは差別の匂いがする。そういえば高校時代、右翼思想にはまっていたクラスメイトも中国のことを「しな」と呼んで笑っていた。

 この話を持ち出す彼はいつも決まってその後に続ける。「中国」という名称も逆差別に当たると毎回主張するのだ。中国という名前自体、「中国が世界の中心である」という中華思想に基づくもので、「中国」という言葉を使う時、それは中国を必要以上に敬ってしまうことになるのだと彼は言う。この話は面白いと思う。

 ただ、この論争には答えが出ない。年々、「支那そば」の文字は「中華そば」や「らーめん」の文字に替わっていくし、ニュースで中華人民共和国が取り上げられる時、キャスターは必ず「中国」と言う。しかし一方で東シナ海東シナ海のままである。「しな」という言葉にも「中国」にも問題があって、そういった言葉を嫌がる人はいるのだけど、彼らは新しい名称を作るわけでもないし、もし作ったとしても定着するには時間がかかる。一朝一夕で答えが出る話ではない。

 わきにそれるが、毎回この話題を出す彼のことが私はわからない。この論争を食事の時間に始めること自体私には不思議なことに思える。テーブルの面々を見回してもみんなは口をつぐんでいる。喋っているのはいつも彼一人である。私はこの話題が始まると帰る準備を始めることにしている。

 

 

 友達に3年浪人したやつがいる。もうどういう言葉をかけたらいいのかわからない。彼が頑張れるような言葉をかけてあげたいと思ったが、何を言っても傷付けてしまいそうな気がする。ツイッターでの彼の呟きを見ながら、私は考えなくてもいいようなことをいちいち考えてしまった。勇気づけたいし頑張ってほしい。けど無理はしてほしくない。私が声をかけて、それで彼が傷つくのなら声はかけないでおきたい。結果的に彼は東京の大学に行ったみたいで、私はそういうことをSNSでなんとなく知ってとりあえずほっとした。長い間彼にかける言葉を探していたが私はその言葉を見つけることが出来なかった。わりかし仲のいい友達だったのに。

 

 去年の10月上旬、山形国際ドキュメンタリー映画祭に行った。面白い映画祭だった。私は時間とお金が許す限り死ぬまでこの映画祭には参加していたいと思う。それほど良い場所である。

 この映画祭のいいところの一つに映画の感想をみんなで語り合える場所がちゃんとあるということがある。夜になるとみんなで香味庵という居酒屋に集まってわいわい話し合うのだ。

 そこで私は台湾の人達と仲良くなった。今思えばそれが私が台湾を好きになるきっかけで、それがなければ今年台湾に2回も訪れたりしなかったと思う。彼らは皆フレンドリーで話していて気持ちよかった。そもそも映画祭で私が話した人はみな面白い人であった。その頃の私は休学期間が始まったばかりで、開放的な気分になっていたのだと思う。

 

 私はミンタロハットという名のゲストハウスに泊まっていた。私が泊まって3日目の夜に台湾の人が二人、近くのホテルからミンタロハットに宿を移してきた。ゲストハウスのリビングには彼らのトランクだけがあって、私と顔なじみになった宿泊客達が、その台湾人達がどんな人なのかと話し合っていた。私は彼女らを知っていたので、二人のことを話した。ニ人は今度の5月に台北で行われるドキュメンタリー映画祭の宣伝で来ていること、一人は映画製作の会社に勤めていること、もう一人は私と同じように大学でロシア語を勉強していた人だということを話した。

 ニ人を区別する言葉を私は思いつくことが出来なくて、「若い方の人」「年取った方の人」という言葉を使った。そのすぐ後で「年取った」という言葉は女性に対して使うには適切ではないと私はその場にいた人に言われた。何の気もなく発した言葉だけど、それが人を傷付けるものであることに気付いて恥ずかしく思った。されど他にどういった言葉を使えばよかったのかと考えると、それも難しい話であった。しかし私はうまくやるべきだった。

 

 

 つまるところ、言葉を使って生きる限り人を傷つけることは免れない。大事なのは指摘された時にどうリアクションするかだと思う。「レズ」は「レズ」だと言って開き直る人を私は知っている。理解したうえで嬉々として「しな」と呼ぶ人もいた。

 そもそも線引きがあいまいな問題である。同じ言葉を聞いて全く何も感じない人もいれば、深く傷付く人もいる。「つんぼ」「めくら」は確かにダメな言葉だと納得できるが、「ぎっちょ」がなぜダメなのか私にはよくわからない。それでもその言葉を嫌がる人がその場にいるのであれば私はその言葉を避けようと思う。少なくともその人の前では言っちゃダメだ。

 ただ、傷付いた気持ちをみんながみんな表現できるわけではない。私が誰かを傷付けても、その人は傷付いた気持ちを自分で抱え込んだままであることもある。私が発した言葉で傷付いている人が私の知らないところにいるのなら、それはとても悲しいことだ。

#32 プレゼンターツィア  

 

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 今日はロシア語でプレゼンをする授業だった。4月から各々で進めてきた研究を発表するのだ。90分の授業で6人が発表した。

 私は今月に入ってから論文を調べ、何冊かの本を読み、原稿を仕上げた。パワーポイントもどうにかこうにか仕上げた。しんどかった。

 その時間、私は一番目に発表した。ロシア語を読むスピードが遅くて、A4の原稿を2ページ読むのに15分もかかった。その間みんなはずっと黙っているわけで、原稿を読みながらちらちらアイコンタクトをとっても、全員が全員退屈しているように思えた。顔を知っているけれどそのほかは全く知らないようなクラスメイト達。彼らの顔は無表情で怖かった。

 

 私はプレゼンをするにあたって私の範疇を超える語彙を使っている。使うことを強いられている。そうした語彙はまだ私の血にも肉にもなっていなくて、だから使っても使っても手ごたえがなくてなんだか心細い。喋っているうちにどんどん自分が信じられなくなってしまいには何を言っているのかわからなくなる。それでも私は「新しい単語も文法も全部知っているんですよ」という態度で話さないといけない。もしかしたらそれが一番辛かったかも知れない。

 

 正直、話を聞いている人もそんなにはわかっていないのだと思う。私たちはお互いに自分が知っているボキャブラリーだけを喋り理解する。みんながよく使うボキャブラリーも勉強の足りない私にとっては初めてだという時がある。逆に私が知っているボキャブラリーもおそらく何人かにとってはなじみのないこともある。

 

 

 言語を学んでいて気付くことの一つに「私たちはお互いに決して分かり合うことがない」ということがある。この世の真理の一つだと思う。その真理は、言語の世界でわかりやすい形で現れる。

 私が話し終えた後、一人のクラスメイトが質問をした。情けないことに彼女の質問を全く聴き取ることが出来なかった。あとで確認すると簡単な内容の質問だった。それでも私は聴き取ることが出来なくて、もちろん質問にも答えることが出来なかった。さっきまでさかしら顔でスピーチをしていたのに、急に心細くなる。所在無げに突っ立ったままの私にロシア人の先生が助け舟を出してくれた。それでもやっぱりわからなくて立ち尽くしている。こうかなと推測して答えてみたけれどうまくロシア語を使えなくてもどかしい。ひねり出した私の答えはやはりとんちんかんなものだったらしく、クラスメイトの顔にはてなマークが浮かんだだけであった。化けの皮が剥がれた私は先生に言われるがまま「Извините я не знаю」(ごめんなさい。わからないです)と言って教室の前から退散し、モヤモヤの残ったまま席に戻った。

 

 前に立つ私はみんなの目にどう映っていただろう? 自分の席でそんなことを考えていた。私の弱気はきっと見透かされていただろう。何人かはきっと軽蔑したにちがいない。落ち込む。

 他の人のスピーチも頑張って聞こうとしたけれど、いかんせん話の内容を聴き取ることが出来ないので、私の思考は自然とネガティブな方向へ進んでいった。

 

 いや、思い込みすぎだ。そんなことあるわけない。みんな無表情なだけで、私に対してネガティブな感情を抱いているわけではないだろう。自分の思い込みが激しいことはよくわかっている。別にみんながみんな私を嫌っているわけではないのだ。それでも私だけがみんなから離れた場所にいるような気がして辛かった。

 大学生は賑やかでいるように見えて、 実は孤独なのだと思う。私が抱いている孤独もおそらく私だけの孤独というわけではけっしてないだろう。私はみんなと仲良くなりたかった。でもどうすればいいのかわからなかった。教室を出てから少しだけ涙が出た。

 家に帰って馬鹿みたいにチョコレートを食べたかった。下手なギターをじゃらじゃらならして大声で歌いたかった。自転車を全速力でこいでみたかった。