シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#33 そのことば「取り扱い注意!」


 

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 使う時に気をつけないといけない言葉がある。

 今年の217日と18日の土日に名古屋の大須に行った。「大須にじいろ映画祭」というのに参加したのだ。「にじいろ」という名の通り、セクシャルマイノリティに関する映画祭だった。

 18日にメインの上映会があって、17日の夜には前夜祭という名のパーティーがあった。パーティーの中盤になると、集まった参加者で輪になって自己紹介をした。映画祭の性質上様々な人がいて、いろんな境遇の人がいるのだった。自分をレズビアンだという人もいればゲイの人もいた。自分をセクシャルマイノリティだと思っていない人も何人かいて、その人たちは「私はふつうなんです」と言った。

 何人目かの人が「ふつうです」と言ったときに、自分のことをゲイだと言ったおじさんが「みんなふつうなんですよ」と言った。確かにそうだった。

 

 略し方もそうである。

 レズビアンは「レズ」と略したら不快に思う人もいるらしい。「どうして?」と聞くと、「レズ」という短縮した言葉にはポルノビデオのイメージがあったり、蔑称として使う人が多いからだそうだ。なるほど。

 東洋人、特に日本人のことを「ジャップ」と言うのもダメなようである。私の大好きなフットボーラーであるジェイミー・ヴァーディ―が昔、レスターのカジノで「ジャップ」という言葉を東洋人に浴びせて問題になっていた。

 

 この「気をつけないといけない言葉」の話をすると、いつも中国の名称の話をする人がいる。最近は中国のことを「しな」と呼ぶのは蔑称になるらしい。「東シナ海」や「インドシナ半島」という地名があるにも関わらずだ。

 確かに「支那人」という言葉からは差別の匂いがする。そういえば高校時代、右翼思想にはまっていたクラスメイトも中国のことを「しな」と呼んで笑っていた。

 この話を持ち出す彼はいつも決まってその後に続ける。「中国」という名称も逆差別に当たると毎回主張するのだ。中国という名前自体、「中国が世界の中心である」という中華思想に基づくもので、「中国」という言葉を使う時、それは中国を必要以上に敬ってしまうことになるのだと彼は言う。この話は面白いと思う。

 ただ、この論争には答えが出ない。年々、「支那そば」の文字は「中華そば」や「らーめん」の文字に替わっていくし、ニュースで中華人民共和国が取り上げられる時、キャスターは必ず「中国」と言う。しかし一方で東シナ海東シナ海のままである。「しな」という言葉にも「中国」にも問題があって、そういった言葉を嫌がる人はいるのだけど、彼らは新しい名称を作るわけでもないし、もし作ったとしても定着するには時間がかかる。一朝一夕で答えが出る話ではない。

 わきにそれるが、毎回この話題を出す彼のことが私はわからない。この論争を食事の時間に始めること自体私には不思議なことに思える。テーブルの面々を見回してもみんなは口をつぐんでいる。喋っているのはいつも彼一人である。私はこの話題が始まると帰る準備を始めることにしている。

 

 

 友達に3年浪人したやつがいる。もうどういう言葉をかけたらいいのかわからない。彼が頑張れるような言葉をかけてあげたいと思ったが、何を言っても傷付けてしまいそうな気がする。ツイッターでの彼の呟きを見ながら、私は考えなくてもいいようなことをいちいち考えてしまった。勇気づけたいし頑張ってほしい。けど無理はしてほしくない。私が声をかけて、それで彼が傷つくのなら声はかけないでおきたい。結果的に彼は東京の大学に行ったみたいで、私はそういうことをSNSでなんとなく知ってとりあえずほっとした。長い間彼にかける言葉を探していたが私はその言葉を見つけることが出来なかった。わりかし仲のいい友達だったのに。

 

 去年の10月上旬、山形国際ドキュメンタリー映画祭に行った。面白い映画祭だった。私は時間とお金が許す限り死ぬまでこの映画祭には参加していたいと思う。それほど良い場所である。

 この映画祭のいいところの一つに映画の感想をみんなで語り合える場所がちゃんとあるということがある。夜になるとみんなで香味庵という居酒屋に集まってわいわい話し合うのだ。

 そこで私は台湾の人達と仲良くなった。今思えばそれが私が台湾を好きになるきっかけで、それがなければ今年台湾に2回も訪れたりしなかったと思う。彼らは皆フレンドリーで話していて気持ちよかった。そもそも映画祭で私が話した人はみな面白い人であった。その頃の私は休学期間が始まったばかりで、開放的な気分になっていたのだと思う。

 

 私はミンタロハットという名のゲストハウスに泊まっていた。私が泊まって3日目の夜に台湾の人が二人、近くのホテルからミンタロハットに宿を移してきた。ゲストハウスのリビングには彼らのトランクだけがあって、私と顔なじみになった宿泊客達が、その台湾人達がどんな人なのかと話し合っていた。私は彼女らを知っていたので、二人のことを話した。ニ人は今度の5月に台北で行われるドキュメンタリー映画祭の宣伝で来ていること、一人は映画製作の会社に勤めていること、もう一人は私と同じように大学でロシア語を勉強していた人だということを話した。

 ニ人を区別する言葉を私は思いつくことが出来なくて、「若い方の人」「年取った方の人」という言葉を使った。そのすぐ後で「年取った」という言葉は女性に対して使うには適切ではないと私はその場にいた人に言われた。何の気もなく発した言葉だけど、それが人を傷付けるものであることに気付いて恥ずかしく思った。されど他にどういった言葉を使えばよかったのかと考えると、それも難しい話であった。しかし私はうまくやるべきだった。

 

 

 つまるところ、言葉を使って生きる限り人を傷つけることは免れない。大事なのは指摘された時にどうリアクションするかだと思う。「レズ」は「レズ」だと言って開き直る人を私は知っている。理解したうえで嬉々として「しな」と呼ぶ人もいた。

 そもそも線引きがあいまいな問題である。同じ言葉を聞いて全く何も感じない人もいれば、深く傷付く人もいる。「つんぼ」「めくら」は確かにダメな言葉だと納得できるが、「ぎっちょ」がなぜダメなのか私にはよくわからない。それでもその言葉を嫌がる人がその場にいるのであれば私はその言葉を避けようと思う。少なくともその人の前では言っちゃダメだ。

 ただ、傷付いた気持ちをみんながみんな表現できるわけではない。私が誰かを傷付けても、その人は傷付いた気持ちを自分で抱え込んだままであることもある。私が発した言葉で傷付いている人が私の知らないところにいるのなら、それはとても悲しいことだ。