シゲブログ ~避役的放浪記~

ありゃりゃ、みつかっちゃったぜ。全部フィクションです

#37 青春ごっこ

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 全部青春ごっこなのよ。彼女はそう言った。小雨が降る夜で時刻は午後8時を数分過ぎていた。とうに閉まったお城の門には屋根があって、私達はそこで雨宿りをしながらお酒を飲んでいた。

 漫画でもドラマでも映画でも、ありもしない「青春」を描いて売っている人がいる。そういうものを信じてしまう人がいて、またそういうものに僻んでしまう自分がいる。高校に入る時、そこには「青春」があるのだと思っていた。入学して1ヶ月、気づいたのは高校も中学とそう大して変わらないということだった。私は焦った。

 「青春」はどこまで続くのだろう。私は22歳だけど、もう私の「青春」は終わっているのだろうか。それともまだ「青春」のまっただ中なのだろうか。ある人曰く、私はまだ思春期の途中なのだという。また別の人は、私はまだ幼すぎて大学生のレベルに達していないと言った。とすれば、私はまだ「青春」にいるのだろうか。けれどもたいていの「青春」映画、小説の主人公は高校生や中学生だと思う。若くてキラキラして未来がある、そんなイメージがある。22歳は「青春」におさまるには年を取りすぎている気がする。

 自覚を持たないといけない年頃、というのもある。どうやらもうすぐやって来るらしい。自覚なんてそんなのクソ喰らえだと思う。私はいつまでも私だし自分の好きなように振舞っていたいと思う。でもわからない。家族とか会社とか子供とか、そういったものが簡単に私を変えるかもしれない。


 17歳の夏、私は必死だった。あと部活ができるのも半年と少し。来年の夏休みは受験勉強で忙しいだろう。文化祭もあと1回しかない。「青春」がどんどん逃げ出していく気がした。美術の先生が若いうちに色々な映画を観ていた方がいい、と言ったからひたすら映画を観た。ただ気になっているだけの人にいきなり告白したりした。でも結局卒業まで「青春」をリアルタイムで実感することはついになかった。もちろん楽しいことはいくつもあって、好きな人と梅田を歩いたとか、事あるごとに胴上げされたとか、家庭科の調理実習の時にした無駄話とか。そういうのが本当の「青春」だったのかも知れない。ただ、当時は「青春」にはもっともっと楽しいことがあるに違いない、という幻想を抱いていて、その場その場での幸せを噛みしめることができていなかった。「青春」に踊らされていた。

 いろんな人の「青春」の話を聞くのは楽しい。失敗談や冒険譚、面白い事件や悩んでいたこと。そういうのはワクワクする。修学旅行でのけ者にされた太田光がずっと1人で煙草を吸っていた話とか、オードリーの高校時代の悪ふざけとか、ラジオでそういうのを聴くと布団の中でニヤニヤしてしまう。

 実話ベースの小説も楽しい。最近読んだ「青春」文学は村上龍の『69』で、とても面白かった。ただただ日々を楽しもうとしている高校生の話なのだけど、ずっと一緒にいた人が離れて行ってしまう寂しさもちゃんと書かれていた。前半がお馬鹿で楽しい分、最後はうるっとなってしまった。スティーブン・キングの『スタンドバイミー』も読んで以来ずっと好きだ。キングと同じような12歳を送りたくて、6年生の私は親友を見つけようと必死だった。あと、森絵都の『永遠の出口』も何回もよんだ。千葉に住む女の子が成長していく話で、誰の人生にもあるようなありふれた記憶を大人になった「私」が振り返りながら書いている。思春期でふてくされた「私」が家族で別府に行く話や、ケーキ屋でのバイトの話、卒業式後の屋上で盛り上がったこと、そういった誰かの思い出が私の頭の中に入って私や他の思い出とミックスされ、再びどこかへ飛んでいくのだとしたら、それは美しいと思う。

 

 書きながら1つ思い出した。中学の修学旅行で鹿児島に行った時、みんなで1人ずつ噴水をくぐり抜けたことがあった。あの時はとても楽しかった。走り回りながら「青春はこんな感じなのかもな」とたしかに思っていた。もしかしたらこれは青春と認定していいのかも知れない。

 水族館近くの噴水、いつかまた行きたいな。いや行かない方がいいかな。