シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#218 ギャップ。外見と内面、それから言語

カフェ、レインハート
 ドイツにいるのに、今日はほとんど誰とも話していない。教えてもらったカフェにいて文章を書いている。「コーヒーキャンプ」とカタカナが書かれた帽子をかぶるのを、いい加減やめた方がいいのかもしれない。私がカタカナの帽子をかぶっている、相手はこの人が外国人だということがきっとわかる。だから「Noch ein mal bitte」と訊き返しても、二言目には英語を使ってくる。でもそれではドイツ語の上達にはならない。

カフェの外観
 ドイツにいて自分の外見について考える。箱根のホテルで働いていた時、mさんが「シゲちゃんは外見のおかげで頑張ってるように見えるから、ずるいよねー」ってタバコを吸いながら言ったけど、その言葉は結構当たっている。お客さんが無理な注文をつけても、困った顔を作って「申し訳ございません」って言えた。ドリンクのオーダーを通すのを忘れて、ビールを持って行くのが遅れても、頑張っている自分を演出して、うまく誤魔化していた。働き始めは、料理説明に入る前に「まだこのホテルで働き始めて日が浅いので、何かと至らない点があると思いますが、ご了承ください」と言っていた。それを言うだけで一定数の人は本当に優しくなるのだ。

テントウムシ「Marienkäfer」は男性名詞
 そうだ。私はずるいのだ。でも外見を選べないのも事実。それから、日本社会ではわからないふりをしている方が得だと言うのもまた事実。
 ピュアな自分を演出していた場合の方がうまくいくことは結構ある。いつの時代も天然キャラのアイドルがいるし、私がテレビを見始めた頃は「お馬鹿キャラ」が流行っていた。最近は欅坂のアイドルがクイズ番組で正解したり、芸人が政治の話をするだけのライブをしていたりする。いい傾向だと思う。いつも誰かしらが叩いてくるとはいえ。
 私の大好きなオードリー若林も、ラジオやエッセイで自分が「変」だと思うことを挙げている。売れっ子芸人になり、テレビで活動する時間が長くなっても、配慮しながらも完全に迎合することなく、生きずらさや違和感を話している。時々彼の感覚と自分の感覚が重なる時があって、そういう時とても嬉しい。救われた気がする。自分はまだ何者にもなれていないけれど、いつかオードリーの二人が自分のことをラジオで話してくれたら最高だなあ。そんなの夢のまた夢だけど、でも現実にならないなんて限らない。

フリーWi-Fiで友達と電話した電車の駅
 話がそれた。私の外見の話。外見で得することもあれば損することもある。中学生の頃も高校生の頃も私は同級生がする「大人」の会話に入れてもらえなかった。身長がクラスで一番低い男の子を好きになる女の子なんていなかっただろうし、恋愛の対象に見てもらえなくて辛かったことなんて何回もある。何度もびっくりされた。伝えるのが下手だということもあるけれど。それから祖母に会う度に身長の低さを指摘されて自尊心が削られた。

ファッションと自信は相関関係があるので服は大事
 この前、街を歩いていて差別的なジェスチャーをされた。きっと私が日本人だと気づいてのことだと思う。でもきっと筋骨隆々の人にはしないだろうと思って悲しくなった。でも自分の通って来た道は変えられない。自分の見た目も、もう大きくは変えられない。見える位置にタトゥーを彫っても目立つピアスをしても、もう寂しいだけだ。もちろん、顔がいいとかスタイルが良いとかお金があるとか、それってとても大事だし、すごいことだ。でも恵まれた環境で育った人は、時々話していてとてもつまらない。私にとって「それ」が当たり前ではないということに気づいてくれない人が。想像力に欠ける人。もちろん全員ではないよ。

世界には本当にたくさんの人がいる
 中学生の頃、辛かった。受験して合格したのはよかったけれど、そこには自分のような人間が一人だった。自分だけに父親がいないことや、お金がないこと、世間一般とは少し離れた価値観で育てられたこと。自分に「ない」ものばかり目に入った。同級生が羨ましくてしょうがなかった。生まれた時から私にはお下がりのものしかなくて、小さい時ならまだしも、母親に何かを買って欲しいと求めるようなことはなくなっていた。それに私の家では祖母が絶対的な権力を持っていて、反抗する時期もあったけれど、自分の意思を持って行動することがあまりなかった。母親も同じで、末っ子の彼女も祖母や伯母、伯父の言うことに従う時間が長かったのだと思う。母は祖母に強く言えないので、結局私も祖母の言いなりだった。幼少期のトラウマのせいでもあるけど、そういうこともあって、家族でさえも心の底からは信頼できなかった。それは今も同じで、でもずっと誰かに理解されたいと思っている。

近くの図書館。林の中にある
  受験して入った中学校なら、誰か私のことを理解してくれるのではないかと期待していた。でもそこにいたのはある意味で地元よりも精神年齢が低い子たちだった。身長の低い出っ歯の私は、当時どうやって振る舞っていたのだろう。ずっとムカついていたように思うけど、どれだけ正しいのだろう。楽しいこともあったのはあったけれど、なんだかずっと言い訳をしていた。勉強さえしていれば褒められたから勉強だけしていた。同級生が嫌いだったから見返したかった。当時の自分のことはあまり好きではない。
 ずっと誰かに理解されたかった。小さい頃から家族の誰にも、理解されたと思えなかった。理解されたいという欲求は今の今まで続いていて、それはいつまで経っても満たされない。初めて会う誰かにいつも期待してしまう。そうやって初めて会う人を私は明らかに「消費」している時がある。この前マッチングアプリで会った人と散歩してみたのだけど、家に帰ってからとても反省した。期待して相手に失望する。あるいは相手に背負わせすぎた自分にがっかりする。
 

観光地エリア
 外見のせいで、自分の身振り手振りのせいで、自分が間違って理解されていると感じることがある。それは拙い言語能力のためでもあるのだけれど、でも外見は大きい。自分の身体性が言葉を変えてしまう気がする。だから私は書き言葉の方が好きだ。私は大切な人に手紙を書くのが好きだけど、いつも書きすぎてしまう。書きすぎて、書かなくてもいいことを書いて、甘えている。時々申し訳なく思う。甘えてごめん。友情のつもりが、私はあなたに媚びているだけなのかも。上下関係を作ってごめん。でもこのやり方しか知らないから、これからもまた手紙を書いてしまうよ。恥ずかしいけど。

これはハンブルク港の誕生日ということで屋台が出ていた日
 人を好きになる時も同じ。その人にたくさん求めすぎてしまう。理解してほしいと思う。でも理解されない。私の病的な欲求はきっと海よりも深くて、だから絶対に理解されたとは確信できない。それってものすごく不幸だと思う。
 私がこんなにも書いているのは、このインターネットのどこかに私のことを「完全に」理解してくれる人がいるだろうと期待するからだ。もちろんそんな人は見つかりっこない。概念としては存在するけれど、実体としては存在しない。AIには理解できるのだろうか。

ぽっかり開いた心の穴が時々こっちを見つめ返す
 箱根で2ヶ月半一緒に仕事をしただけなのに、mさんとはまだ時々連絡している。私はまだ人生の同じところを周回遅れでぐるぐるしているのに、彼女は今度結婚するらしい。この前急に知らされてびっくりした。でもそうだよな。私の人生がゆっくりだとしても、みんなの人生が同じ速度で進むとは限らない。
「ピュアそうに見えるのに、悪態ついたり世の中斜に見てたりして、それが文章だと面白いんだよね」
LINEでmさんが送ってくれた言葉。なんて嬉しい言葉だろう。

Bern駅
 外見を見て私を好きになってくれた人がいて、その人が自分の文章を読んでどう思うかと考えると、いつも怖い。自分の文章を誰に見せていいのか、誰に見せてはダメなのか、時々考える。とは言ってもこのブログは公開ブログだし、SNSのプロフィールにブログのリンクを載せているから、見たい人は見れるようになっているのだけれど。

Wellingbüttel駅
 外見と内面のギャップに苦しみ続けている。母語が通じない世界にいると尚更である。私は日本人を演じ、若者を演じ、時々子供っぽい人間を演じる。ドイツ語と日本語だけじゃない。ロシア語と英語にも、言語ごとに別の「私」がいる。口語と文語にもそれぞれの「私」がいる。それらはもちろん一致なんてしないから、だから私は永遠にギャップに苦しむのだろう。
 全てを諦めることができた時、きっと私はギャップに苦しまなくなる。でもその時私は文章を書き続けているだろうか。そもそも生き続けているだろうか。

これからラプスカウスを食べますよ、という写真
 
【Aufsatz006】
„Mein Geburtstag“
Ich habe 29. 6. Geburtstag. Ende Juni endet in Japan die Regenzeit und der Sommer kommt. In der Schule beginnt der Schwimmkurs. Ich mag schwimmen nicht. In jedem Sportunterricht musste ich schwimmen, aber kann im Schwimmbad nicht entspannen und, weil ich sinke. Letztendlich habe ich schwimmen nicht gelernt. Aber ich mag es entlang des Flusses oder am Strand zu spazieren. In  meiner Kindheit habe ich mich über meinen Geburtstag gefreut, aber ich habe an den Schwimmkurs gedacht. Ich war glücklich und traurig gleichzeitig.
 
【今日の音楽】

 

シェアしてください。よろしくお願いします。
コメントもぜひお願いします。
それから、最後まで読んでくださってありがとうございます。またね!
ランキング参加しています