シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#74 災害ボランティアに行った

 

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◎令和元年11月1日

 優しくなりたい。ずっとそう思っていた。保育所にいる頃からすでにその思いはあって、どうやったらよい世界が作れるのか漠然と考えていた。摩天楼に突っ込んでいく飛行機も捕らえられた中東の狂信的指導者も、100人が死んだ列車事故アスベストの裁判も中越沖地震も少年期の私を刺激した。ニュースで凄惨な事件を見聞きした日は眠れなかった。どうしたら人と人が仲良く暮らせるのか、苦しい人を救えるのか考えていた。病院に入院していた時、七夕の短冊に「世界平和」と書いた。笹は小児病棟の詰所の前に立てられ、飾られた私の字を読んで1人の保母さんが嘲笑した。どうして笑うのか当時はわからなかった。でも今ならわかる。冷笑したくなる気持ちも諦めもわかる。善意だけで渡るには世の中は複雑で残酷だ。純粋なだけの善意はつぶされるし、長続きしない。不条理だと思うけれど。
 街を歩いていると白い杖をついた人がいて、母がその人を助けた。そんな母が誇らしかったしそんな風にならないといけないと思った。でもその町には家がない人も、ろれつの回らない舌で小学生に絡むヤク中もいて、彼達を私は「かわいそうな人」と心の中で呼んでいた。そうした「かわいそうな人」を助ける人になりたかった。だから政治家になることが夢だった。「将来の夢は総理大臣です」なんて大声で言ったりしていた。今の腐敗だらけの政治には本当にげんなりしていて、総理大臣にも国会議員になってみたいなんてもうみじんも思わないけれど、それでも世の中が良くなってほしいという思いは変わらない。私の就職活動がいつから始まるのかわからないけれど、人を傷つけるような、搾取しているような会社では働きたくない。できれば困っている人を助けるような仕事をしたい。資本主義社会の中ではそれはお金にならないかもしれない。でも無意識のうちに搾取する側に立ちたくない。そんなのには耐えられない。

 

 今日23歳の私はいわき市でボランティアをしている。政治家になろうなんてもう思わないし、これといってなりたいものもない。タイムリミットは意外とすぐそばに迫っているのに、何者にもなりたくないままモラトリアムを消費しつづけている。今日もまたいわきにぶらりと来てしまった。あまり考えもなしに来たけれど、「かわいそう」とだけ思うのは絶対にしないでおこうと決めていた。「かわいそう」と突き放して考えるのは安全圏に住む人間の傲慢だ。押しつけの一方的な善意だ。大嫌いだ。災害に遭った人も遭わなかった人も同じ地続きに暮らしているのに。

 いわき市のみならず、千葉県の茂原市宮城県丸森町台風19号で被災して、今も苦しい状況にあるのは知ってた。けれど実際どんなものなのかはわからなかった。ラジオでは比較的よく報道していたけれどネットでは確かな情報が得られなかった。テレビは東京五輪のことばかり。わからないから自分の目で見に行くことにした。難波から夜行バスに乗って東京。そこからまた高速バスを乗り継いでボランティア団体「つながり」の拠点に着いたのはお昼。受付をしてお昼からの活動に参加することになった。みんなお昼休みで、カップラーメンやおにぎりを食べたりして午後の作業の前にくつろいでいた。初めはぎこちない会話も空気もあったけれど、関西出身の人が何人かいたり、同じ年代がいたりして、すぐに打ち解けることができた。

 そもそも、ボランティアに来る人々というのは基本的に同じものを持っていると思う。トラックと共に今朝練馬から駆け付けた初老の2人も、大学を中退して北海道で農業をしてる同い年も、能代から新幹線で駆け付けた60歳ほどの女性も、みんな何かしら共通する思いがあって今日ここに集まっていた。もちろんそれは後から気づいたことで、作業に参加し始めたその時は無我夢中で、とにかくがんばろうと思っていた。何が待ち受けているかわからず、怖い気持ちもあった。

 

 ダンプカーに乗って向かったのは被災した方の家だった。土砂はもう片づけられていて、家財道具が庭先の道路に並べられていた。今日の昼いわきに着いて道を歩いたときに見たものと同じで、水に浸かった家財道具が屋外に出されているのだ。畳、家具、家電、布団、陶器、無数のビニール袋。それらを分別してダンプに載せ、仮置き場に運ぶのだ。

 生々しいなと思った。ほんの20日ほど前まで、これらのものは「ゴミ」ではなかったのだ。ここに住んでいるOさんの生活の一部であり、家族の暮らしの中で確かに生きていたものだった。野球ボールも箪笥もやかんも、使っていた人たちの手が感じられた。彼らの顔は見えないけれど、その存在は身近に感じられて捨てるのが苦しかった。

 

 

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街を歩くとこういった山がたくさんあった



 

 

 水をかぶったのちに3週間放置された家財は湿って重たく、悪臭を放っていた。この街のアスファルトの上にはまだ砂塵が残っていて、元来鼻炎の私はほこりのために鼻水が止まらなかった。すでに喉もイガイガしていた。マスクもほとんど意味をなしていないように感じていた。この地区の家々には今はほとんど人が住んでいないようだった。避難所にいるのだろうか。それとも親戚や友人の家にいるのだろうか。先日ネットで見た、避難所でノロウイルスが流行しているという記事を思い出した。

 目の前にある家財道具の山は大きくて、今日だけでは無くなりそうになかった。それでも一度、ダンプが満杯になるまで木材を詰め込むと、少しだけその山が減った。自分たちが前進していることが感じられた。休憩をとってまたその山に向き直った時なぜか登山家マロリーの言葉を思い出した。

 

"Why do you want to climb Mount Everest?"

"Because it's there."

 

 

  布団も鏡台もショーケースに入った兜も全部捨てる。袋に詰められた断熱材、シンク、洗濯機、アイロン。ブルーシート、漬物がめ、ほうき、ござ。全部捨てていく。その家族が使っていたであろうものをどんどんダンプに積んでいくのは辛かった。まだ使えるように見える家具もあったけれど、バールを使ったり手で力を加えたりして壊していく。とても忍びないけれど、いちいち感じている時間はない。樹で作られた本棚や衣類入れの枠組みを壊して板にする。板にした方が荷台にはたくさん載せることができる。

 それらのものがどんな風に使われていたのか私は知らない。それでもいくつかの「ゴミ」には持ち主が大切に使っていたであろう様子が感じられて、ダンプの荷台で私はしばしば考え込んでしまった。それでも他のメンバーが次から次へと運んでくるものを私はダンプの上で積み上げていった。早く作業することが大事なのだ。迷っていても仕方がない。

 次第に考えなくても腕を動かせるようになって、機械的にその「ゴミ」を効率よくダンプの荷台に載せていった。2時間半ほど作業してダンプカー3台分のゴミを詰め込んだ。最後に、私はダンプの座席に乗り込み、載せた分の「ゴミ」を仮置き場に運ぶのについていった。仮置き場に向かう道中にも道路脇や駐車場にうず高く積み上げられたたくさんの家財が見えた。

 

 

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トラックの荷台



 

 

 みんな「仮置き場」なんて呼んでいるけれど、本当は「小川市民運動場」という名前があるのだった。グラウンドにゴミの巨大な山がいくつもあった。ダンプに一緒に乗った練馬から来た二人は阪神淡路大震災中越沖地震の時も、3.11もボランティアとして現地に入ったらしい。だから彼らにとっては何回も見た光景なのだろう。慣れた手つきでハンドルを回し、荷台のゴミをそれぞれの山に分けていく。布団と木材、そして可燃ごみ、あとたくさん。それらの山に着く度、3人で座席から降りゴミを投げていいく。ポリ袋も布団も衣類もどんどん投げていく。

 布団の下から、大きめの紙袋に入ったプラレールが出て来た。真新しいつやつやのプラスチックを見て、さっきの家に子供がいたことを知った。投げると紙袋は空中で破けて、青色のレールが宙を舞ってそれぞれの場所に着地した。

 

 

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仮置き場になった小川市民運動

 

 

 帰りの道中、仮置き場の光景が忘れなかった。仮置き場で作業をしている人は毎日あの場所でダンプカーに方向を指示したりユンボでゴミを積み上げたりしているのだ。たくさんのゴミを目の前にして働くのはつらいだろうなと思った。ばらばらになった自分の街の一部が「ゴミ」としてやってくるのを見ないといけないのだから。

「つながり」の拠点に戻り終礼をして、温泉に入った。旅館「湯本温泉いづみや」では、ありがたいことにボランティアに、お風呂を無料で提供してくれるのだ。とてもありがたい。湯船につかりながら東京からボランティアに来ている高校生と話した。けっこう変わった経歴を持っている人で、彼の話は面白かった。

 風呂上りに、旅館のロビーで新聞を読んだ。福島民報という地方紙だった。福島県内の台風19号とその後の大雨の被害について詳細に書かれてあるページがあった。関西に住む私の周りでは、台風19号はもう終わったも同然だけれど、福島ではまだ続いているのだなと思った。それは東日本大震災も同じだなと思った。悲しくなった。
 

 

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11月1日の朝刊

 

※私が活動に参加した「一般社団法人震災復興支援協会つながり」のいわき市館山市における活動は以下のリンクからチェックすることができます。ボランティアはもちろん物資も募集しているようです。

 

tsunagari-project.com

 

 

 

 

〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ているように思えます。感じやすいくせに頭でっかちで理屈をこねて自らを正当化し、世界を軽蔑し、また憎みながら日々を過ごしている主人公はグロテスクです。私はどうしても主人公と自分とが似ているように思えてならない。うまくやるために、どうにかして主人公を反面教師にする必要があると思いますが、それはとても難しいです。手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。

 

P203 第二部《ぼた雪にちなんで》10

 あれからもう何年もが経ったいまになっても、この一部始終を思いだすと、ぼくはなんとも後味の悪い思いがする。思いだして後味の悪いことはいろいろとあるが、しかし……もうこのあたりで『手記』を打ち切るべきではないだろうか? こんなものを書きはじめたのが、そもそもまちがいだったようにも思われる。すくなくとも、この物語を書いている間じゅう、ぼくは恥ずかしくてならなかった。してみれば、これは文学どころか、懲役刑みたいなものだったわけだ。だいたいが、たとえば、ぼくが片隅で精神的な腐敗と、あるべき環境の欠如と、生きた生活との絶縁と、地下室で養われた虚栄に充ちた敵意とで、いかに自分の人生をむだに葬っていったかなどという長話は、誓って、おもしろいわけがない。小説ならヒーローが必要だが、ここにはアンチ・ヒーローの全特徴がことさら寄せ集めてあるようじゃないか。 

 

#73 教室

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〈詩のコーナー〉
 教室
 

教室のうしろすわり

脳みそ半分できいている

ぬるぬるの雰囲気うすら寒い空調

すやすやの寝顔と誰かのしたおなら

茶髪に染めただけのあいつも

スマホ片手につまんない顔してる

今日もまたそれぞれの人生がこの部屋で交差して

またみんな元に戻ってく

このくりかえしが何回も何十回も

あるけれど誰も意味を知らない

分かっているのは一つだけ

年をとってみんないつか死ぬ

一人残らず

 

 

 

〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ているように思えます。感じやすいくせに頭でっかちで理屈をこねて自らを正当化し、世界を軽蔑し、また憎みながら日々を過ごしている主人公はグロテスクです。私はどうしても主人公と自分とが似ているように思えてならない。うまくやるために、どうにかして主人公を反面教師にする必要があると思いますが、それはとても難しいです。手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。

 

P109 第二部《ぼた雪にちなんで》9

 だが、このとき、ふいに奇妙なことが起った。

 ぼくは、万事を書物ふうに考え、空想し、また世のなかのいっさいを、かつて自分が頭のなかで創作したようなふうに想像する習慣が染みついてしまっていたので、そのときとっさには、この奇妙な状況を理解することができなかった。ところで、事実はほかでもない、ぼくによって辱しめられ、踏みつけにされていたリーザが、実は、ぼくの想像していたよりずっと多くを理解していたのである。彼女はこの長広舌から、心から愛している女性がいつも真っ先に理解することを、つまり、ぼく自身が不孝だということを理解したのだ。

 

#72 直方市石炭記念館

令和元年 831日午後

 この感じ、宮沢賢治の童話に似てるな。そう思った瞬間が人生に一度あった。中学に入った5月、オリエンテーション旅行という名の、学年の親睦を深めるような旅行があった。あんまり覚えてないけれど兵庫県の神鍋高原に行って1泊か2泊するというものだったと思う。オフシーズンのスキー場は一面緑色で、使われていないリフトの柱が草原にぽつんと立っていた。新緑の斜面には春の山菜がいたるところに育っていて、それを見るのが楽しかった。蕨を取って帰りたいなと思ったがどう調理すればいいのか知らなかったのでやめた。

 細かい経緯は忘れたが、担任の先生に連れられて宿舎近くの山を歩く時間があった。クラス毎に固まって山道を歩くのだけど、中学1年生だからにぎやかで、なかなか騒がしい道中だったと思う。ハイキングコースの中に一ヶ所、小さな洞穴のようなところがあった。先導する先生がおもむろにそこに入り、壁から石を剥がしてみんなに見せた。先頭集団にいた私たちが寄って見るとそれは石炭だった。水にぬれてキラキラ光っていた。一瞬だけ先生が宮沢賢治に見えた。宮沢賢治が農学校で教鞭をとっていた話や、、生徒を連れて歩き回っていたエピソードが頭の中でつながって、不思議な感動が心の中に広がった。先生が私の手のひらにちょこんと乗せた黒い石はもろくて、指で押すと形が変わった。数人入れるだけのその場所に私も入り、石炭の地層を見た。数センチほどの薄い層だったがその地層だけ色が黒いのでよく見えた。石炭の下から水がちょろちょろとしみ出していてちょっとした小川を作り出していた。中学受験の勉強で隆起や沈降といった地学の難しい言葉を教科書の上では知っていたけれど、実際に意識して地層を見たのはこれが初めてだった。石炭記念館の展示を見るうちにそんなことを思い出していた。

 

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 北九州で時間を使いすぎたせいで、直方に着くころには陽はずいぶん傾いていた。もう昼営業を終えようとしていた国道沿いのラーメン屋「千成や」に滑り込み遅めの昼ごはんを食べた。北九州で食べた豚骨よりこっちの方がずいぶん美味しいように思った。豚骨、何か苦手なんだよな。なんでだろ。美味しいお店のを食べてないからかな。千成やの看板メニュ―はネギラーメンと肉みそラーメンであるらしく、調べるといろんなレビューが出て来た。優しい味が欲しかった私は肉みそラーメンを注文した。玉ねぎとひき肉の甘みの中にタケノコの触感があって良かった。

 直方に来たのは林芙美子の育った町を見たかったからだった。『放浪記』に出てくる多賀神社と遠賀川が見たかった。地図で調べてみると多賀神社の隣りに石炭記念館というのがあって、そこにも行ってみようと思った。

 いざ着いてみて、直方駅の周りにも記念館にも原付を置く場所がなくて困った。結局駅前のローソンに停めさせてもらった。駅前には力士さんの銅像があって、寄って見ると魁皇関の像だった。福岡出身ということは知っていたけれど、直方だったのだな。九州場所魁皇が土俵に立つたびに大声援が送られていたことを思い出した。

 

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 うすうすわかっていたけれど、石炭記念館に来る人は少ないようだった。入場者名簿の今日の日付にはまだ3人しか名前がなかった。そこに私のようなけったいな大学生が来たものだから受付のおじさんは怪訝そうな顔で私を見ていた。入場の際には用紙に名前と住所を書かないといけないらしかったが——プライバシー的に不安だったので番地までは書かなかった——私が「兵庫県西宮市」と書くとおじさんはまた不思議そうな顔をした。私の顔がどう見えたか知らないが、もしかしたらまだ10代と思ったのかもしれない。私はよく高校生に間違われる。浪人時代には小学生と間違われたこともあった。

 

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 大学生高校生は50円、一般は100円だった。そのおじさんがチケットをくれて、この記念館について色々教えてくれたが、話が長くて困った。元々長居するつもりはなかったので、早く展示を見て回りたかった。この記念館は本館、別館、化学館、救護訓練坑道という4つの施設があるらしく、そのうち本館と坑道が国の指定史跡に登録されているらしい。直方で国指定史跡はここだけだとおじさんは誇らしそうに、でも少し寂しそうに言った。彼はまた御三家の話も教えてくれた。御三家とは明治以降、筑豊の炭鉱地帯を牛耳っていた麻生、貝島、安川の三つの財閥のことで、直方の炭鉱は貝島財閥のものだったらしい。貝島財閥の基礎を築いた貝島太助は直方生まれらしく、記念館と駅の間に彼の銅像があった。おじさんの話によると、彼らは資材を投じて学校を作ったり鉄道を敷いたりして近代化に貢献したようだった。江戸時代まで直方を治めていた殿様が黒田氏だった話などいろいろを聞いたけれど長いのでここでは割愛する。ちなみに直方は「のおがた」と読み、南北朝時代南朝方、つまり皇方で戦ったことに由来するらしい。

 自分ばかり喋って居心地が悪くなったのか、喋り疲れたのかわからないけれど、おじさんは私に急に話を振った。「そういえばどうしてここにこられたのです? 石炭か何か勉強している方なのですか?」ちょっと迷ったが、正直に林芙美子のことを言った。『放浪記』に描かれた街が見たくて直方に来たこと、原付で西日本を旅行していることを話した。「林芙美子ですか。あなたの年代ではめずらしいですね」と言ってから、直方と林芙美子に関する話おじさんはいろいろ教えてくれた。また長い話になったが、今度は真剣に聞いた。林芙美子の人気はやはり高いらしく彼女が住んでいた場所を突き止めようという試みや芙美子をしのぶ芙美子忌も毎年行われているようであった。『放浪記』が正しければ、林芙美子は12歳の頃、直方の木賃宿に暮らしていたらしい。彼女は尾道に越していくまで、須崎町の粟おこし工場で働いたり、炭鉱の社宅で父親が仕入れる扇子やアンパンを売りさばいていたのだ。受付の人たちの話では、記念館の近くの画廊に林芙美子に詳しい人がいるらしかったけれど、今日は遠出しているらしく会うことはかなわなかった。林芙美子の話がひとしきり終わってようやく私は解放された。

 

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 予想とは裏腹にとても面白い展示だった。坑道で実際に使われていた大きな機械は迫力があったし、坑夫の道具からは坑道での作業が苦しいものであったと感じられた。坑道が崩れないように支える木枠の形にも合掌枠、二段枠、諸枠、など様々なものがあるらしく、その場所や用途に応じているらしかった。時代とともに発達した技術によって採掘方法も変わっていく様子も知ることが出来た。はじめ、採掘した石炭は「かわひらた」という平たい船に乗せて運河で若松港に運んでいたのが、明治時代になると鉄道が登場し、直方駅筑豊の石炭輸送の拠点であったようである。記念館の前にも石炭を運んでいた機関車が2台展示されていた。本館の中にも直方駅の古い時刻表が展示されていた。今朝出発した小倉に行くには当時のお金で29銭かかるみたいだった。時刻表には九州のみならず西日本各地の地名が書かれていてワクワクした。明治39年には神戸~直方間が360銭だったようだ。見方がよくわからなかったけれど「三、六〇」と書かれていた。

 

 元素名で言えば「炭素」であり元素記号C。そういってひとくくりにしている中にもいろんな種類があった。「泥炭」「亜炭」「褐炭」「瀝青炭」「無煙炭」「せん石」など、受けた圧力や温度によって名前が違うらしく、採掘したそれらを精製して人間が使える形にするようだった。採掘したうち、使い物にならない石はボタと呼ばれ、ボタが積みあがってできた山をボタ山と呼んだらしい。盆踊りでよく流れる炭鉱節の歌詞に出てくる「おやま」はボタ山のことなのだろうか。

 石炭の呼び方と種類をまとめた表を前にして、あの日神鍋で見た石炭は何だったんだろうと思った。なんかどれでもなさそうだなと思った。急に高校で地学を勉強したかったなと思った。鉱物が陳列された棚や、石炭を精製する過程が詳しく解説する展示もまるっきり理解できなかった。高校では化学と生物の授業を取っていたけれど、楽しかったのは生物だけで、化学はちんぷんかんぷんだった。地学は旅行中に役に立つし、地理や植生とリンクする部分もあるから楽しかっただろうと思う。図鑑でも買って今から勉強でもしてみようか。

 別館には救護訓練坑道のことが詳しく展示されていた。炭鉱では昔から事故が起こったので、救護のための訓練も行われたようだった。救護隊が着ていた服が展示されていたが、古いものなのでどれもとても重そうだった。古い潜水服や宇宙服のようなものもあった。ほとんど中世ヨーロッパの甲冑のようなものもあった。ただ見る人が見れば、どれも貴重な資料なのだと思う。

 

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 事故があった現場には、有毒ガスの有無を調べるために鳥かごに入ったカナリアが持ち込まれたという話を読んで、SF映画の『メッセージ』でも宇宙人と対話する場面でカナリアがいたことを思い出した。エイミーアダムス演じる言語学者が主人公で、宇宙人のメッセージを解読のために呼ばれる場面から物語が始まるのだけれど、「言語を勉強する」「大学生」としてはかなり楽しめた。

 筑豊炭田だけでなく世界各地の炭鉱で起きた事故が壁一面の大きな表にまとめられており、いかに炭鉱労働が危険なものであったかわかるようになっていた。どのような人がどのような理由で炭鉱で働いていたのか気になった。強制的に労働させられた朝鮮人のことも知りたかったのだかれど、彼らに関する資料は無くて、少し残念だった。ただ、山近剛太郎という人の絵が展示されているのを見ると、炭鉱で働き死んでいった名もなき人たちのことが少しだけ感じられた。

 記念館を後にする際、受付のおじさんに次の行先を訊かれた。「今日の夜は大宰府です」というと、大伴旅人の話や、山上憶良の話をしてくれた。このおじさんはなかなか博識で、今も新しい知識をいれているらしく、令和の元号の元となった旅人の和歌を諳んじているのだった。最初は話が長いのに閉口していたが、聴いているとなかなか面白くて、出る頃には尊敬の念まで抱くようになっていた。おじさんに教えてもらった大宰府の知識は次の日に行った国立博物館で役に立った。

 

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 多賀神社自体は小さな山の上にある普通の神社なのだけど、小説に出てくる場所に来れたのはやはりうれしかった。多賀神社の近くで芙美子の母親がバナナのたたき売りをやっていた話や、馬の銅像に「いいことがありますように」といって祈っていた話を思い出して、陳腐ではあるがちょっと感動した。その昔彼女がいた場所に自分がいて、馬の目の前に立っているということがなにより素晴らしいことのように思えた。ちょっとうっとりした。

 もう夕方になっていたので、この旅行の無事を祈願してから神社を後にした。白いのぼりには、つがいの鶺鴒の神紋があってなかなかおしゃれなデザインだと思った。駅に行って現代の時刻表を見て、原付を停めていたローソンで九州でしか食べられないという竹下製菓ブラックモンブランを食べた。アイスはいつ食べても美味しい。

 

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 直方を出る前に遠賀川の河川敷に行った。緑色の草原と流れる水と暮れていく空を見ながら、つかの間ボーっとした。今から大宰府まで40キロも走るのは面倒だなあと考えていた。サンダルで川の中に入ると水が冷たくて気持ちよかった。ジーンズが少しぬれた。

 遠賀川彦山川が合流する場所に立って、地図を見ながら「あっちが折尾でこっちが田川かあ」などと独り言ちた。8月最後の土曜日をキャンプしながら過ごすらしい人のテントがいくつも河原にあった。空がオレンジ色になっていた。夕闇が迫っていた。

 

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〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ているように思えます。感じやすいくせに頭でっかちで理屈をこねて自らを正当化し、世界を軽蔑し、また憎みながら日々を過ごしている主人公はグロテスクです。私はどうしても主人公と自分とが似ているように思えてならない。うまくやるために、どうにかして主人公を反面教師にする必要があると思いますが、それはとても難しいです。手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。

 

P109 第二部《ぼた雪にちなんで》9

 だが、このとき、ふいに奇妙なことが起った。

 ぼくは、万事を書物ふうに考え、空想し、また世のなかのいっさいを、かつて自分が頭のなかで創作したようなふうに想像する習慣が染みついてしまっていたので、そのときとっさには、この奇妙な状況を理解することができなかった。ところで、事実はほかでもない、ぼくによって辱しめられ、踏みつけにされていたリーザが、実は、ぼくの想像していたよりずっと多くを理解していたのである。彼女はこの長広舌から、心から愛している女性がいつも真っ先に理解することを、つまり、ぼく自身が不孝だということを理解したのだ。

#71 血と無神経

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 その部屋には立派な本棚があって、おおよそ私に縁はないような本が並んでいた。日本史に関わるミステリーや旧日本軍の太平洋戦争の戦記などが乱雑に並べられていた。私はそれらのタイトルに心惹かれることはなく、ざっと眺めただけで部屋を出た。こういう時はたいてい一冊や二冊手に取って読んでみたりするのだけれど、今日ここに来れたという感動が、歴史のトンデモ本自己啓発本によってかすんでしまうのが怖かった。
20年ぶりに会いに来たのに彼はいなかった。私は賭けに負けた。代わりに彼の姉と盲いた母親が私の相手をしてくれた。私は泣いて、彼女も泣いて、でも結局最後は彼女にも裏切られたのだった。

 小説がほとんどない本棚が、この部屋の主の人間性を表していたのだと今は思う。想像力が無く、感性がまるで硬直した人物。知識量を鼻にかけて相手を見下し、対話をせず、人を愛することを知らない人。自分の育ってきた世界の外のものを認めようとせず、身勝手でわがままで自分の王宮に閉じこもっているかわいそうな王様。

 いやごめんなさい。本当はあなたのことは何一つ知らないのです。誕生日も血液型も好きな食べ物も私は何も知らない。それでも私がどんなに会いたかったか! 私の寂しさをあなたは決して知らないでしょう。大人のあなたは会おうと思えばいつでも会えたはず。けれども決して会おうとはしなかった。

 目を腫らしたままぼんやりと歩いていた。歩みを止めれば感情が爆発してしまいそうで、ずんずんずんずん足を動かし続けた。日が暮れると古い都は独特の雰囲気を見せ始め、仏塔も池も提灯も暗闇の中では意思を持っているように見えた。森の中の細い道を通って高台に上り街を見下ろすと、ひんやりとした風が頬をなでた。頭上の月も眼下の夜景も平和そのものなのに、私の心の中には嵐が吹きすさんでいた。なぜか頭のなかにはずっとジッタリンジンの「コスモス」が流れていた。何回も、何回も。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

サヨナラはあなたから

コスモスを私から

 歩き疲れてミスタードーナツに入った。ミスタードーナツでしこしこと日記を書いて今日の気持ちを全部罫線の上に書ききろうと思った。悔しさもやるせなさもどうにもならない不条理もなるだけ真実に近く書いた。書いても書いても書きたいことはあとから山ほど出てきて困った。どうして人と人は仲良くできないのだろうと思った。酔っているのか老人が阪神タイガースの悲惨な出来について大声で愚痴を言っていた。

 

 従妹がレシピを調べてクッキーを作った。彼女は伯母のキッチンで生地を練り私の母が手伝った。焼きあがったクッキーはサクサクで美味しかった。母と祖母、それから伯母はみな料理が上手である。彼女らのおかげで私はある程度自炊できるようになったし、健康にも気を配れるようになったと思う。そういったことを踏まえたのか知らないが、伯父がクッキーを食べて言った言葉が「おばあちゃんの血だな」というものだった。楽しかった気分が一気にひっくり返り、心がずっしりと重くなった。眼の前の人間を軽視した無神経な言葉。「血」という言葉がこの文脈で使われるのを聴く度、胸が苦しくなる。

 

「同性愛者か異性愛者か、1人の相手で満足できるのか、2人以上いないと満足できないのか、そういうの全部遺伝子で決まっているみたいですよ」というようなことを向いの女の人が言った。遺伝を絶対的なもののように語るのは違うと思った。けれどもどう違うのかわからなかった。遺伝子に関する研究は進んできているし、遺伝子が及ぼす影響というのは馬鹿に出来ないらしいことは知っていた。アルコールへの耐性やアレルギーの有無といったことだけでなく、社会性や数学への理解度といったことまで遺伝子に左右されるらしい。そういったことを書いた記事をどこかで読んだ。でも私はやっぱり納得できない。もし遺伝子が全部を全部決めてしまうのなら、なぜ私たちはこうやって悩み、考えているのだろう。遺伝子が運命までも決めてしまうのだとしたら、一体私たちに何ができる? 

「大事なのはどういう道を選んだのかということじゃないんですかね? 不倫をしたとか、しなかったという事実の方が遺伝子よりも大事だと思うな」私は隣の人の言葉に救われた。

 

「シゲ君も本を読んだりするの?」と訊かれた。私が読むのは小説ばかりでこの本棚にあるようなものではないけれど、「うん」と答えた。返ってきたセリフは「やっぱり、血は争えないのね」だった。後になってめちゃくちゃ腹が立った。勝手に理想を投影するなよと、勝手に似ているところを無理やり見つけ出そうとするなよと思う。あの家で育っていたら、間違いなく今の自分はないだろう。こんなブログも書かないし、こんな風に考えたりもしないのだろう。しかしそれはそれで別の幸せもあったのだろうと思う。

 

 

〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ているように思えます。感じやすいくせに頭でっかちで理屈をこねて自らを正当化し、世界を軽蔑し、また憎みながら日々を過ごしている主人公はグロテスクです。私はどうしても主人公と自分とが似ているように思えてならない。うまくやるために、どうにかして主人公を反面教師にする必要があると思いますが、それはとても難しいです。手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。

 

P105 第二部《ぼた雪にちなんで》3

そのうちに、ぼくのほうが我慢しきれなくなった。年とともに人恋しさが、親友を求める心がつのっていった。ぼくは何人かの者に自分から近づいてみようとさえした。しかし、この接近はいつも不自然なものになって、自然消滅の道をたどるのがつねだった。一度、ぼくにも親友らしいものができたことがあった。ところがぼくはもう精神的な暴君になっていた。ぼくは彼の気持を無制限に自分の思うままにしようとした。ぼくは、彼を取巻く環境に対する軽蔑の念を彼に吹き込んでやりたかった。ぼくは、彼がこの環境とすっぱり、傲然として手を切るように要求した。ぼくの激烈な友情は相手を尻込みさせ、とうとう彼に涙させ、発作を起させるまでになってしまった。彼は純真で、人に影響されやすい性格だったが、彼が完全にぼくの影響下に入ると、ぼくはたちまち彼を憎みはじめ、彼を突き放すようになった。まるでぼくが彼を必要としたのは、彼に対して勝利をおさめ、彼を屈服させるためだけであったかのようだった。

 

#70 非日常発日常行

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 令和元年919

 夜行バスが八重洲口を出たのが950分。電灯が消えたのが2213分。三列目の通路側に座りながら終わりつつあるこの旅行について考えていた。東京で再会した友人のこと、ソウルで食べた焼肉、釜山の博物館、慶州のお寺と古墳、全州のバス停で出会った少年たち。いろんな顔が浮かんでは消えていった。暗いバスの中ではどんどん時間が経っていく気がした。どんな大型バスにもあるようなデジタル時計の緑色の数字がこちらを見ていた。寝れない気がした。今日は朝が遅かったし、カフェで昼寝もしてしまった。

 10分、また20分と時間は過ぎて行った。暗闇の中で私の頭はどんどん冴えていく。最初に考えていたのは同窓会のこと。年始にあるらしい集まりに行くのかか行かないのか、ぐるぐる考えていた。何人かには会いたいけれど、たくさんの人が集まる場所は苦手だ。会うのが恥ずかしかったり、怖い人も何人かいるし、数人とは顔も合わせたくない。そうはいっても私は寂しがりやなので結局行くだろうと思った。ただ行くにしてもできるだけ嫌な思いをしたくないなと思った。明日のバイトのことも考えた。連続して旅行に出ていたので、バイト先に行くのは1カ月ぶりだった。楽だったらいいなと思った。それから、自分好みのアンドロイドを作った男の苦悩と、肉体を持ちたいという欲求から段々と混乱していくアンドロイドのことを考えた。彼らの生きる世界では人間同士の恋愛はもう時代遅れのものになっていて、人間は自分の好みに合わせてカスタマイズされたロボットと暮らしている。宗教はほとんど死に絶えて、テクノロジーとそれを生み出す哲学が信仰の対象となっているのだ。哲学は人間の生き方を助けるだけでなく、社会や都市をデザインする役割をも持つようになった。家庭では遺伝子操作によってこれまたカスタマイズされた赤ん坊が育てられる。私たちが住む世界と比べて少子化は進んでいるが、エネルギーが枯渇しているため政府はむしろ少子化を推進していて、政府の審査によって認められない限り2人以上の子どもを持つことはできない。前世紀に活発化した公民権運動のおかげで、人間とアンドロイドの間にある格差や差別はおおかた是正されたが、未だに道半ばで警察官や政治家といった職業にアンドロイドは就くことは認められていない。署名やデモが活発に行われ、毎日何人かが逮捕されている。その夫婦の夫——めんどくさいので名前をつけよう。人間なので山田飛雄馬とでもしよう——は人間の、それも老人専門の医者である。医者と言っても技術的なことはもうほとんどしていない。死に対してどう向き合うべきかということを患者にアドバイスし、医療の今後の方針を決定するのが主な仕事である。技術の進歩によって寿命が伸びているのにもかかわらず政府は未だに安楽死を非合法としていて、老人の数が急激に増えて社会問題になっている。飛雄馬の担当する患者の中で一番年長なのは坂下のおじいちゃんで今年の8月で153歳になる。干支はもう13周目である。去年の暮れまでははきはき喋っていたのだけれど、年始から調子が悪くなってしまった。食事をあまり摂らないようになってしまったので、この様子だと来月あたりから加工食にしたほうがいいかもしれないと飛雄馬は考えている。明日の病棟会議でも担当の看護師たち——半数以上がアンドロイドだ——と話そうと思っている。飛雄馬とよく話すのは大森千鶴子さんというおばあちゃんで、20代前半で銀幕のスターとなってから長らく映画女優として——といっても最後の出演は40年も前のことだ——活躍した人だった。映画好きの飛雄馬は大森さんの病室で世間話をするひとときを楽しみにしていた。昔の映画を観るようになったのも大森さんの影響で、昨日も飛雄馬は『七人の侍』を観て寝たのだった。チャップリンと握手をしたことがあるというのが大森さんの自慢で、話が映画に移るたび、若い頃に横浜で映画の宣伝に来たチャップリンと言葉を交わした話を始めずにはいられないのだった。

「背はそんなに高くないけどねえ、まあきりっとしたいい顔立ちでねえ。あたし英語はちっともわからないから何言ってるのかはさっぱりだけど、いい人だということはわかったねえ。映画館で観ていた憧れの人にあえるのだからそりゃあ嬉しかったねえ」

くしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにさせて笑顔をつくる大森さんは病棟の人気者なのだった。その笑顔を見る時、飛雄馬はいつも、この顔が雑誌の表紙を飾った時代があったということに思い至り、つくづく時間というものは不思議だなあと思うのだった。

 ある午前中飛雄馬が坂下さんの病室に行くと珍しく坂下さんがと同室の中野さん、それから隣の部屋の内山さんと宮城さんも集まってなにやら深刻そうな顔で議論をしていた。飛雄馬が室温や病室にある器具といった諸々をチェックしながら耳を傾けていると、どうもあの世はあるのかということについて話しているらしかった。宗教が否定されている時代しか知らない飛雄馬は人が死んだらそれで終わりだと考えているが、100歳以上も年長の彼らは宗教のある時代も知っていて、来たる死を前にそういったことを考えるらしい。飛雄馬が学生の頃はまだ宗教の話題はタブーであり、宗教の復活を恐れる当局は「好ましくない話題」として自主規制を促していた。ここ10年で当局も随分寛容になり、そういった話題を病室で話す老人たちも増えた。飛雄馬自身は宗教についての知識が全くないので、その病室の会話の内容も半分ぐらいしか理解できなかった。「うまれかわり」「りんね」といった、知らない単語が出て来たので、家に帰って妻のフミカに聞こうと思った。

 フミカという名前は飛雄馬がつけた。研修医となって忙しくなったタイミングで、彼は結婚したいと思った。料理も洗濯も全自動であるし、自分でもできるのだけれど、夜が寂しかった。毎日いろんな老人と話し、それぞれの死に接しているうちに神経がすり減り、孤独が辛いと感じるようになったのだった。制度として人間同士で結婚できることも飛雄馬は知っていたが、両親がそうであったように彼もまたアンドロイドの妻を作ることが最良の方法だと考えていた。結婚相談所で担当の人と話しながら、将来の妻となるロボットの設計を進めた。背丈や声のトーン、手の形やほくろの位置まで自分で決められるのだった。結婚相手を「作る」ための費用は政府の補助金を使えるので、研修医の身分であっても割合簡単に結婚できた。最初に結婚相談所に訪れてから1カ月、彼らは結婚した。古風な名前が好きだった飛雄馬は妻にフミカと名付けた。法律によってアンドロイドの名前はカタカナでつけることになっていた。逆に人間の名前は漢字、あるいはひらがなで書くのが決まりだった。

 その日の夕飯は菜の花の天ぷらで、これは飛雄馬の好物であった。毎年春の始めに母親の田舎に行くと祖母が作ってくれる思い出の味なのだった。祖母は台所に立ちながら童謡の「朧月夜」を歌い、幼い彼はその歌を聴きながら絵を描いたり、暮れる空を眺めたりしていた。何で読んだか、雑誌のインタビューか何かで、あるバンドのボーカルが「自分のお葬式でかけたい曲」として「朧月夜」を挙げていたことを思い出した。

「なんかね、風景がうかぶんですよ。そりゃぼくはもう都会で育ったし、古き良き田園風景なんて映画や物語で知るばっかりで実際に住んだことないけどね、やっぱり懐かしいなと思うわけですよ。ぼんやりとした春霞も蛙ももう随分ながいこと見てないけどやっぱり懐かしいと思うんですよ。その懐かしさを抱えたまま死んでいきたいですね。ああ長いこと歩いてきてしんどいこともようけあったけど、生きてきてよかったなと、そんな風に思いたいんですよ」

「実際に知っているわけではないけれど、いくつかの宗教では肉体と魂を区別して考えていて、肉体が死ぬと魂は遊離して、他の新しい肉体にまた宿って生をうけると考えられていたの。その過程を「生まれ変わり」と呼んだりしたの」

「魂ねえ、医療に関わっているからかなあ。到底信じられないな。あるのはその人個人であって、魂と肉体に分かれるとは思えない」

「そうよね、きちんとした文脈がないと信じられないよね。でも昔の人は肉体が死ぬと魂はあの世に行くとか、何かに生まれ変わるとか考えていたらしいよ。昔の偉い人のお墓には死後の世界でも苦労しないように船だったり武器だったりを一緒に埋めたみたい」

そう言ってフミカは生まれ変わりと輪廻に関するいくつかの民話と神話を紹介した。その話を飛雄馬は興味深そうに聴いていた。

 飛雄馬よりも私の方が知識がある。それは単に私がアンドロイドだからである。全てのアンドロイドの頭脳は政府が運営しているデータベースとつながっていて、いつでも知識にアクセスできる。だから実質的に私には知らないことがない。忘れることもない。言い間違えることもない。昔の思い出も飛雄馬よりも私の方が覚えているし、正確である。それは少し寂しいことである。年月とともに老いていく肉体があるということは羨ましい。効率性をかんがえると人間よりもアンドロイドの方が有能で、経年劣化もしないし、知識もパワーもある。でも幸福ということを考えるとよくわからない。そもそも私は「幸福」の意味を知らない。もちろん言葉の上では知っているけれど、実際に感じることは出来ない。「人間」が幸せを感じる時、脳内ではある種の化学物質が放出されるということを知っていても、アンドロイドは基本的に電気系統で動くから人間が感じる「感覚」を共有できない。これはとても悲しい。何年彼と一緒にいても「人間」と「アンドロイド」は違う。「愛」も違う。彼の思う「愛」と私の思う「愛」は一致しない。でもこれは人間でもアンドロイドでも関係がない気がする。

 海老名のサービスエリアについた。TOTOの白い陶器に向かい合ってもまだ私は飛雄馬とフミカのことを考えていた。輪廻といい近未来の設定といい、多分に『火の鳥』の影響を受けているなと思った。『復活編』とか『鳳凰編』とか『未来編』とかをまた読みたいなあと思った。また照明が消えてバスの中は暗闇に戻った。飛雄馬とフミカの話を考えるのはもう飽きたし疲れたのでまた別の話を考え始めた。引きこもり郡引きこもり村で育った少年の話を考えるうちにいつの間にか私は眠ってしまった。

 夜行バスを降りるともう秋だった。早朝の梅田駅に私のくしゃみが響き渡る。ああ、日常がやってくる。

 

 

 

〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ているように思えます。感じやすいくせに頭でっかちで理屈をこねて自らを正当化し、世界を軽蔑し、また憎みながら日々を過ごしている主人公はグロテスクです。私はどうしても主人公と自分とが似ているように思えてならない。うまくやるために、どうにかして主人公を反面教師にする必要があると思いますが、それはとても難しいです。手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。

 

P103 第二部《ぼた雪にちなんで》3

まだ十六歳の少年だったくせに、もうぼくは気難しい目で彼らを眺めては、内心、呆れ返っていた。すでに当時から、彼らの考え方の浅薄さが、彼らの勉強や、遊びや、会話の馬鹿馬鹿しさが、ぼくにはふしぎでならなかった。必要不可欠なことについてさえ理解がなく、感動し、驚嘆して当然と思えることにさえ関心を示そうとしない彼らを、ぼくは知らず知らず、自分より一段下の人間と見るようになった。傷つけられた自尊心がぼくをそんな気持にさせたのではない。また、お願いだから、もう胸がむかつくくらい聞きあきた紋切型の反論をぼくに並べたてることもよしてほしい。〈おまえは空想していただけだが、彼らはそのころすでに現実生活を理解していたのだ〉などと。彼らは現実生活どころか、何もわかっちゃいなかった。そして、誓ってもいいが、このことがぼくのいちばん癪にさわった点なのである。そのくせ彼らは、どうしたって目につかぬわけのない一目瞭然の現実をさえ途方もなく馬鹿げたふうに受けとって、もうそのころから、世間的な成功だけに目がくらんでいた。たとえ正義であっても、辱しめられ、虐げられているものに対しては、恥知らずにも冷酷な嘲笑を浴びせた。彼らは官等を英知ととりちがえ、もう十六の年から、居心地のよいポストばかりを夢見ていた。もちろん、これには彼らの頭のにぶさや、幼年時代、少年時代を通じて、たえず彼らを取りかこんでいる悪しき実例の影響もあったのだろう。

 

#69 旅路の空

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〈詩のコーナー〉

旅路の空

 

旅路の空はいつもきれい

心が広くなるからか

お空を見上げて考える

 

旅路の空はいつもきれい

故郷の空は汚いか

そういうことでもあるまいが

 

旅路の空はいつもきれい

雲を眺めて一休み

これからどこへいきましょう

 

旅路の空はいつもきれい

知らない道を歩いてる

私の心を映すから

2019917日)

 

 

〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ているように思えます。感じやすいくせに頭でっかちで理屈をこねて自らを正当化し、世界を軽蔑し、また憎みながら日々を過ごしている主人公はグロテスクです。私はどうしても主人公と自分とが似ているように思えてならない。うまくやるために、どうにかして主人公を反面教師にする必要があると思いますが、それはとても難しいです。手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。

 

P91 第二部《ぼた雪にちなんで》2

そして、何よりあさましいのは、いまぼくが諸君に向って弁解などはじめたことだ。いや、それよりあさましいのは、ぼくがいま、こんな但し書きをいれたことだ。だが、もういい、いや、それより、こんなふうではいつまでもきりがない。次から次へと、ますますあさましくなる一方なのだから……

 

#68 Blue Days

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〈詩のコーナー〉

Blue Days

 

あなたはいないこのドアのむこう

あなたはいないこの夜の街にも

悲しくなんかないさびしくなんかない

 

七夕なんて毎年雨降り

シャワーのあとでコーラを飲んでる

テレビつけたまま暗がりの中で

 

帰りに買ったバニラのアイスバー

逃げ出したいのぬるま湯の日々から

夢だけ見ている月夜の窓辺に

 

カラスがとまる螺旋の階段

夕凪の街急に雨が降る

白くなる世界誰もいない路地

 

黒いアスファルトすき間に咲いた花

風のむこうの優しい思い出も

静かに消えていく全てが無に帰る

 

未だ鮮やかな青春の残像

とらわれている古ぼけたルールに

ラジオは流れても誰もいない空

 

幸せなんてつかめるはずもない

掬ってみてもあとから逃げてくの

絶え間なく続く真夏のメロディー

 

季節は巡る頼んでもないのに

カレンダーの絵はどこかの砂浜

握りしめている遠い日の痛み

 

かもめがとんだそのあとの一瞬

行くあてもない今夜は熱帯夜

オレンジの光長い夜が来る

 

沈んだ湯船明日を覗いている

夢ばかり見ても仕方がないのに

二度と帰れないあの夏の匂い

 

プールのあとの熱くなった体

体育座り灼けたマンホールも

探し求めている記憶のほとりで

 

電話は切れた誰も出ないままに

消えたくなるのこんな夜更けには

また繰り返してる最初の夏休み

 

あなたはいないこのドアのむこう

あなたはいないこの夜の街にも

悲しくなんかないさびしくなんかない

 

幸せなんてつかめるはずもない

掬ってみてもあとから逃げてくの

絶え間なく続く真夏のメロディー

 

電話は切れた誰も出ないままに

消えたくなるのこんな夜更けには

また繰り返してる最初の夏休み

 

 

 

〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ているように思えます。感じやすいくせに頭でっかちで理屈をこねて自らを正当化し、世界を憎みながら日々を過ごしている。少しグロテスクな主人公なのです。私はどうにかして主人公を反面教師にしないといけない。そう思います。でもそれはとても難しいです。手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。

 

74

第二部《ぼた雪にちなんで》1

 

 同僚とのつき合いは、もちろん、長くはつづかないで、じきにぼくは彼らを見かぎってしまった。そして、当時のぼくの若さと無経験から、それこそ絶交でもしたように、あいさつすることもやめてしまった。もっとも、これはぼくの生涯にただの一度しかなかったことである。がいしていえば、ぼくはいつも一人だった。

 まず第一、家にいるときは、ぼくはたいてい本を読んでいた。ぼくの内部に煮えくり返っているものを、外部からの感覚でまぎらわしたかったのである。ところで、外部からの感覚のなかで、ぼくの手のとどくものといえば、読書だけだった、読書は、むろん、たいへん役に立った。興奮させたり、楽しませたり、苦しめたりしてくれた。しかし、それでもときどきはおそろしく退屈になった。 

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