シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#16 蛇口ひねれば五月病

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 最近涙もろい。低気圧なのだろうか。

 昔の友達が「低気圧の日は体がしんどくて頭が痛くなる」と言っていた。私は気圧がわかるほど繊細な感覚を持っていないからよくわからなかった。頭痛持ちの彼女とは毎週のように顔を合わせていたのに、いつのまにか疎遠になった。

 

「台湾本島にいつから人類が住み着いたかは定かではありませんが、考古学の研究によると、約五万年前には旧石器時代人が現れ、七千年ほど前からは中国大陸南部とも共通する新石器時代の文化が見られるようになり、およそ二千年前からは金属器を使用する文化が始まっていたと考えられます。台湾北部の十三行遺跡からは、錬鉄技術の存在を示す遺物が出土しています。十三行文化は、穀類や根茎作物の農耕も行っていたようですが、四〇〇年ほど前に途絶えてしまいました。それは、ちょうど漢人の移民が始まった頃に当たります。十三行文化の担い手がどの民族集団だったのかは不明です。」

(沼崎一郎著「台湾社会の形成と変容―二元・二層構造から多元・多層構造へ」(東北大学出版会)より抜粋。)

 

 この最後の「不明です」のところで私は泣いてしまった。自分でもびっくりした。とても悲しいことに思えた。私は本を閉じて永遠について考えた。生きる意味や人生で何を残せるかについても考えた。

 簡単に言えば五月病である。感受性の栓が抜けて、蛇口はもう全開である。ふとした瞬間にしんどくなったり、あの頃に戻ったりしてしまう。


  さっきお皿を洗いながら考えた。このお皿も誰かが作ったものだ。それを買った誰かがまた誰かに売って、誰かが運んだ。そうして最終的に祖父か祖母が買ったのだ。私が見たところ、さしたる特徴もないお皿だ。署名もない。おそらくどれだけ調べてもこのお皿を作った作者が誰なのかを確かめることはできないだろう。それでもこの皿を作った人というのは確実に存在していた。もちろん売る人も運ぶ人も買う人もいた。そういう人たちがいたからこそ、私と祖父はこのお皿にざるうどんを盛ることができる。それってすごいことだ。そうじゃないか? 

 

 たぶん永遠に残るものなんて無いのだ。どうあがいてもお皿はいつか割れるし、私は死ぬ。後の世にとってはお皿や私の人生などどうでもよいものだと思う。歴史の中で私はどう頑張っても小さな小さな一点でしかない。ゴマよりも小さい。たぶんミジンコよりも。


 そうはわかっていても、名を遺す人になりたかった。それは歴史が好きで伝記ばかり読む子だったせいでもあるし、単に有名になりたかったせいでもある。
 そして、
4歳の時に私は気づいてしまったのだ。伯母の部屋のトイレで、私は今日という日のこの一瞬が二度と来ないことに気付いた。そして、時間の流れによって自分もいつかは死ぬということも知った。それまで意識もしていなかったこの世界のルールを私は初めて知った。不条理なルールだと思った。


 なにより怖いのは、私が死んでもこの世界は何もなかったかのように回り続けることだった。そのことがただただ怖かった。私が死んでも次の朝は来るし、地球はずっと回り続ける。それが怖かった。私が死んだらみんな喪に服してほしかったし、なんなら全世界総出で出棺パレードを壮行してほしいとと
4歳の私は思った。大人たちになだめられて泣き止んだ後、何が何でも有名な人になろうと私は決心したのだ。

 

 呼んでもないのに6月が来た。来週末には雨が降りだすらしい。私はまだ五月病と格闘しているというのに。

 ゴールデンウィークに台湾に行って、帰ってきて。そこから二週間ぐらいはずっと台湾での日々のことを考えていた。台湾にまた行きたいという理由だけで台南市のサマースクールに申し込んだ。中国語を習いたいという理由だけで、図書館で行われている中国語の講座に行くことにした。午前中に大学の授業をぼけーっと受けたあと、午後は図書館で台湾の映画を観たりした。夜は台湾のロックバンド、五月天をたくさん聴いた。前述の本も図書館で借りて読んだ。台湾の歴史について非常にわかりやすく書かれていた。


 そのうちに五月も下旬になって、いろいろと考えるのが億劫になってぼーっと過ごすようになった。なんという理由もなくテレビを遅くまで見ていた。栃ノ心大関に昇進していた。栃ノ心ジョージア出身だった。そういえば初めて好きになった力士は高砂部屋黒海だった。彼もジョージア出身だった。黒海琴欧州時天空千代大海琴光喜朝青龍……… 児童ホームから家に帰ってテレビをつけるとちょうど相撲がやっている時間だった。鍵っ子の私は暗いマンションの一室で毎日相撲を観ていた。たまに家に帰るとおばあちゃんが来ていて、二人で観る時もあった。おばあちゃんの作る料理はおいしかった。相撲が終わって少し経つと母が帰ってくるのだった。

 

 そんな風に過ごしていたら寝不足になった。授業にも行く気がしなくて、大学の図書館で本ばかり読んでいた。だんだんと頭が痛くなってきた。とうとう低気圧が来たのかもしれない。どうやったら有名になれるのかは未だに謎のままである。

 

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#15 残りの回数

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 浪人の時の友達に会った。一緒に焼肉に行った。

 

 予備校って大学に入るために勉強する場所だから、よくも悪くも、勉強の話題が多くて、勉強ができるやつが一番偉かったりする。みんな志望校になんとか入ろうと頑張るし、勉強だけをしていたらよいというある意味異常な空間だった。何人か友達ができたのだけど、自分も含めて自身を抑圧して勉強している人が多かった。つらい1年間だった。

 大学に入ってからも何人かとは連絡を取っていた。しかし頻繁にしていた連絡も、次第に次第に途絶えて行った。それでも時々やりとりをしている友達もいて、今回一緒にごはんを食べた彼もその一人である。たまたま同じ予備校から同じ大学に入ったおかげで彼との関係は続いた。偶然続いた縁だけど、お互いに嫌いあっていたら続いてなかった。そういう人は大事にしないといけない人だと思う。

 

 焼肉を食べながら予備校時代の話をして、部活のことや(彼は体育会系の部活に入っている)家族のことを少し話した。最近のお笑いの話をして(彼も僕もお笑いが好きだ)そして話がなくなった最後になってお互いの恋愛の話をした。そうしてまた会おうといって大学の入り口で別れた。彼は駐輪場の前の坂を上り、私は自転車を押して下って行ったのだった。

 

 別れてから思った。死ぬまでに彼と会うのはあと何回だろうと。

 大学をこのまま進んで、彼が卒業するまでに2年しかない。順調に行けば、2年で離れていってしまう。おそらく彼は院に進学することはないだろう。運動部を続けたことを生かして就活するだろう。そして社会人になれば、そうそう簡単には会えるものではなくなるだろう。

 とすると、これから彼に会うことはもう数えられるほどでしかないのだ。不思議なことだ。3年前にはいつでも喋ることができたのに。もう毎日彼に会うわけにもいかない。お互い、勉強に部活にバイトに忙しいのだ。あと、案外話が続かなかったりもする。べたべたして気まずくなってしまうのも嫌である。

 別に毎週ごはんに行かなくてもいいのだと思う。事あるごとにお互いの近況を送りあえるような関係でいいのだと思う。

 

 死ぬまでになにができるだろう? 最近こんなことばかりを考えてしまう。大学前にある行きつけのカフェに入るのはあと何回だろうかとか、「よっ友」の彼と大学構内であいさつを交わす残りの回数とか、そんなことばかり考えてしまう。考えたからといって何かが起こるわけでもない。ただ、毎日の当たり前もいつかは当たり前でなくなる。みんな知っていることだ。実際にサークルをやめた以後、何人かは全く話さなくなった。当然のように話していた友達と当然のように話さなくなってから、私はよく、残りの回数を考えるようになった。本当に大事なものを探さないといけないと思うようになった。

 

 残りの人生は長いようで短い。

 小学校に入学したとき、6年間という時間はあまりに長くて、ほとんど永遠であるように思えた。永遠に小学校にいられるのだと思っていた。実際に、1年生の1学期はとても長くて、たくさんの出来事があった。知らないこと、新しいものばかり溢れていたから、毎日がとても長かった。私は、小学校に入って初めて「時間」を意識したのだと思う。

 次第に次第に、時間は私の体を速く流れるようになった。学習塾に通い始めた時、電車に乗って中学校に通うようになった時、バイトを始めた時、大人へのステップを上がるごとにどんどん1日は短くなった。今ではもうスマホをいじっているだけで休日が終わる。学校から帰ってきてテレビを見ていただけなのにふと見ると時計は明日が来たことを無言で告げていたりする。

 

 そう考えると死ぬまでにできることは案外に少ない。小学校のころは図書室の本は卒業までに全部読めると思っていた。中学生になっても、近くのTSUTAYAの映画は死ぬまでに全部観れるものだと思っていた。そんなことはもうあり得ない。せいぜい三浦しをんの作品を全部読み切るぐらいしかできないだろう。それも彼女の作家生命が尽きる前に私が死ななければの話だ。ちなみに林芙美子はいっぱい書きすぎているから多分読み切れないと思う。絶版とかもあるし。

 いやいやそれだけじゃないだろう。他にもやりたいことがたくさんある。一生をずっと本を読んで過ごすわけがない。しかし挙げるときりがない。———旅がしたい、ロシア語をしゃべれるようになりたい、髪の毛を染めたい、ピアスを開けたい、結婚をしたい、田舎に住みたい、小説を一本書きあげてみたい———やりたいことがたくさんある。焦らずに一つ一つやっていこうと思う。

#14 台北101じゃないところ

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 なにもやることがなかった。

 本来なら今日は自転車で遠出しようとしていた。台北はレンタルバイクの拠点がたくさんあって、道路も比較的整備されていて自転車で走れるようになっている。だから今日は、自転車で淡水という川沿いを走ろうと思っていた。しかし天気予報はあいにくの雨である。弱った。

 とりあえず宿の近くの南陽街で朝ごはんを食べる。予備校や専門学校が所せましと並んでいる場所である。学生が多いからうまいものが比較的安く食べられるのだ。ごはん、あんかけで甘く味付けした豚肉、揚げ豆腐(に似たもの)、茎ワカメ、玉ねぎの卵とじ。それだけあって65元だった。日本円に直すとだいたい250円ぐらい。安いと思う。お代わり自由のお味噌汁(に似たもの)があった。日本の味噌汁よりも甘い気がした。

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 食べ終わってまた少し歩くとすぐに台北の駅前に出てしまった。まだ雨は降っていないけれどもう風が冷たい。空もどんどん暗くなってくる。もうすぐ降りだすに違いない。うーむどうしよう。ノープランである。

 

 と、その時一台のバスがやってきてバス停にとまった。ひらめいた私はそれに乗ることにした。299番のバスだった。このバスに乗って気の向いた場所で下りてみよう。

 

 バスは東へと走っていった。なんとなく予想はしていたけど、運転は荒くて、常に手すりにつかまっていないといけないほどだった。次のバス停で席が空いて、私は座ることにした。席にはシートベルトがあった。誰も使っていなかったけれど。

 日本と同じように若者はイヤホンをしてスマホを触っていた。おばあさんたちは大声でしゃべっていた。やはり電光掲示板があって、そこに次のバス停が表示される仕組みになっている。「感染症に備えて手洗いうがいをしましょう!」というような注意喚起も表示される。漢字だからなんとなくわかる。

 

 気が向いたところで私はボタンを押した。バスを下りて、グーグルマップのアプリで現在地を確かめる。インターネットが使えなくとも、スマホにはGPS機能があるのだ。21世紀に生きる私は無敵である。

 どうやらこの近くに台北101という大きなタワーがあるみたいだ。台北市の市庁舎があって、その近くはいくつかのモールがあった。再開発があった地区に思えた。少し不自然な景観だった。新たなモールも建設中であるようだった。旅行書に紹介されてあるようなおしゃれなカフェに入ってスイーツを楽しもうかと思ったけど、気が向かなかった。観光客が多くて、しかもゴールデンウイークの最中だから日本人が多くて、外国に来た気がしない。台北でモールに行くぐらいなら、イオンモールとかQ'sモールに行けばいいや。われらが西宮にも阪急西宮ガーデンズがあるではないか。帰ったらいくらでも行ける。

 

 ローカルな料理屋に入ってご飯を食べて店員さんとか、お客さんとしゃべるのが好きなのだ。地元の話を教えてもらったり、地元の人からみた私の街や、私の国についての意見を聞くのが好きなのだ。

 

 それに、床がピカピカのタイルになっていたり、ガラス張りになっていたりすると、おしゃれな雰囲気に気後れして入るのがためらわれることがある。自分みたいなダサいやつが入っていいのだろうか? 入ったが最後、何か買わなくてはいけないのではないだろうか? ———なんてへんなことを考えてしまう。わざわざ台湾に来てまでそんなこと考えたくない。

 

 結局台北101周辺は素通りした。素通りして呉興街市場という場所に行った。日本で言うところの商店街なのだけれど、野菜や魚、服や帽子が売られている。大声でセールストークを叫んでいる。地元の人が売る食材を地元の人が買っている。

 地図をみながらこれからどうしようか考えていると、道に迷っていると思われたみたいである。子供服を売る家族が話しかけてきた。地図を指さして現在地を教えてくれた。そして聞いてもいないのに駅の方面を指さしていた。全部中国語だから、想像力を駆使してなんとなく理解した。もしかしたら間違っているかもしれない。優しい人々だった。

 教えてもらった駅には用事がないので、夜に夜市がやっている臨江街というところを通った。さっきの呉興街市場と同じように物が売られていて、昼間でも活気があった。ちょうちんがずらりと並んでいた。古着が50元で売られていて、丈の長いシャツを買った。色が少し褪せていたけど、きれいなボタニカル柄だった。母にあげよう。

 帽子も買った。KENZOのキャップだけど、明らかにパチモンだった。100元(約400円)で買えるわけがない。なんとなくロゴも少し歪んでいる気がするし、PARISと書いた刺繍も真ん中から左にずれている。でもおしゃれだったし、ちょうど帽子が欲しい時だったから買うことにした。学校にかぶっていくのが楽しみだ。

 ぼったくりやスリの標的にされたくないので、極力日本人だとわからないような服装を心掛けている。ただ私の顔は「日本人ぽい」らしい。今日も帽子屋さんはいきなり「こんにちは」と話しかけてきた。最初はわからないふりをして英語で話す。セールスがしつこくないとわかってから、日本語を混ぜて話した。台湾は日本語が話せる人が多い。私はまだあいさつ程度の中国語しか話せない。勉強しないと。

 

 燕が地上すれすれを飛んだかとおもうと、とたんに雨が降ってきた。雨の中を歩いてようやくご飯屋さんにたどり着いた。石家割包。旅行書に載っている台湾風バーガーのお店だ。よく神戸元町の中華街で売られている「角煮バーガー」に似た食べ物である。角煮が小麦粉のもちもちとした生地に挟まれてバーガーのようになっている。店員さんはパクチーも入れてくれた。メニューを見るとこの角煮バーガーは綜合割包というらしい。一緒に福州魚丸湯というものも注文する。大体400円ぐらい。おいしかった。

 

 まだ雨が降っているのでカフェにはいった。ここでもすぐに日本人だとばれた。「若いのに一人旅すごいねー 英語上手ねー」と英語で言われる。店員さんも十分英語が上手である。彼女は6月に大阪に行くらしい。

 コーヒーを飲みながらパソコンでこの文章を書いていると、客足が途絶えて暇になった彼女が私の席にやってきた。「大阪のおいしい焼肉屋さん教えて!」と聞かれたから一緒に調べて(店内はWi-Fiが使えた)難波のお店を教えてあげた。

 MRT台北の地下鉄)信義安和駅近くのYolo's CAFÉというところである。おすすめである。

 

 だらだら文章を書いた。一昨日のままになっている日記も書いて、ようやく昨日の午後まで戻した。気づいたら雨は上がっていた。

 そんな台湾四日目だった。明日はどんな出会いがあるだろう。

 

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#13 紅鮭漂流記

 

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   長い間母親と二人で暮らしていた。私が思うに母の悪いところは二つある。

 一つ目は時々現れる突拍子もない一言である。一度、家族全員としゃべっているテーブルで「あげまん」という単語を発したことがあった。びっくりした。みんな唖然としていて、私だけが爆笑していた。おばあちゃんが大真面目な顔でいさめていた。ちなみに母は「あげまん」の意味を正しく理解していなかった。

  そういうエピソードは母にはたくさんある。どれも笑い話だ。

 もう一つだめだと思うのは、買いだめした肉と魚類を冷凍庫に入れてしまうことである。ベーコン、ソーセージといった加工肉はならまだわかる。ただ、ふるさと納税で送ってもらったようなおいしい肉を食べきれずに冷凍してしまうのはやめてほしい。冷凍はお肉のおいしさを奪ってしまう気がする。

 

 この前冷凍庫の中身を整理してびっくりした。賞味期限をゆうに3年も過ぎた紅鮭が出てきたのだ。本当に驚いた。肉類は定期的にチェックして食べていたのだが、魚はあまりチェックしていなかった。

 冷蔵庫の奥から出てきたのは、真空パックに入ったロシア産の紅鮭だった。賞味期限は2014年の1122日だった。

 

 全く関係ないのだが、1122日はケネディが暗殺された日である。1963年のダラスでパレード中の車に乗っていたケネディは何者かに暗殺されたのだ。私は高校2年生だった2013年の11月は、暗殺からちょうど50年の節目だったので、暗殺を扱ったドキュメンタリー番組などが時々放送されていた。たしか東京オリンピックの開催が決まったころだと思う。先輩が受験勉強に必死になっているのを見て、高校生活の残り時間を数え始めたような私だった。 私は高校2年の時点ではまだ少し勉強していた。しかし3年になると受験勉強はおろか学校にもろくに行きもしない人間になっていた。紅鮭の賞味期限が切れた2014年の11月にはもうほとんど学校に行っていなかった気がする。

 

 しかし本当のところはどうだろう? 感覚と実際は違ったりもする。休んでいたと思うだけで、実際は案外学校に行っていたのかもしれない。でももう忘れてしまった。

 

 たしか体育祭が11月にあって、その後の1週間はまるっきり学校に行かなかったと思う。

 その頃は勉強から逃げるためにいろいろな本を読んでいた。現代文の先生に教えてもらった山田詠美が気に入って『僕は勉強ができない』を読んだのもこのころだった。衝撃だった。久しぶりに学校に行って、文芸部のJに「この本、おれのバイボーにするわ」と宣言したことを覚えている。大学に入ってからも彼女の本は何冊か買った。どれも面白かった。現代文の先生には、この前、偶然に駅前で会った時に感謝を伝えた。

 キングの『スタンドバイミー』もこの時期何回も読んだ。映画よりも面白くて、時々エッセイのように出てくる人生について書いている文章がとてもよかった。三浦しをんにも本格的にはまって『君はポラリス』や『秘密の花園』を夢中で読んだ。『秘密の花園』は女子高に通う三人の高校生の話なのだけど、物語の根底には思春期特有の暗い悩みや叫びがうごめいていた。進路に迷って何もやる気が出ずに落ち込んでいた私は、暗い内容に親近感を感じた。

 映画もたくさん見た。ベン・スティラーが監督と主演を務めた『LIFE!』もよかった。平凡なベン・スティラーが世界を飛び回う映画だ。映像がダイナミックでかっこよくて、大学生になったら旅をしたいと思って旅行のブログを読み漁っていたこともあった。大学にまだ行きもせず、受験勉強もろくにしてないのにである。

 本当になにも勉強をしなかった。大昔に母が買って、今では誰も読んでいない『レ・ミゼラブル』(全5巻)も、とうとう本棚の奥から引っ張り出して読んだ。そのころはやっていたスウェーデンの『ミレニアム』(全6巻)もブックオフで買って一息に読んだ。映画館では『ブルージャスミン』や『FLANK』を観た。映画と本だけが友達のような気がしていた。でもそれはフェイクで、本当は映画も本も麻薬のようなものだった。少なからず自覚していた。現実から目をどれだけそむけてもセンター試験と卒業は刻一刻と近づいていた。

 

 18歳だった。普通なら自分の人生を選ばないといけない年齢だった。

 でも私は将来をまだ選びたくなかった。何にも染まらずに無限の可能性を持ったままで生きたかった。

 

 落ち着いて考えれば、勉強する理由も見いだせたはずだった。でも働くのは嫌だったし、かといって勉強もいやだった。あまちゃんだった。

 

 2014年の11月はそんな感じだったはずだ。一日一日、なにをしたか覚えているわけではないけれど何も決断ができずにただただ映画や本を読んで、感性のシャワーを浴びていた。あるいは浴びていると思っていた。やりたいことがあるのに、それをどうやってやればいのかわからなかった。自分のやりたいことと大学がどう関係するのかも分からなかった。辛かったけれどそれは自分の怠慢だった。

 

 

 そんな日々の思い出をたった一尾の紅鮭が思い出させてくれた。私はすこしセンチメンタルになった。過去を振り返りながら、私は水の流れの中を漂っている気分になった。過去と現在をつなぐ大河を紅鮭の背に乗ってさかのぼってゆくのだ。思い出の切れ端を拾いながら。

 

 紅鮭は3年も待たされたのである。暗い冷蔵庫の中で紅鮭は何を思っただろう。生まれ故郷の川だろうか? 水揚げされたロシアの港だろうか? なんにせよ暗い冷蔵庫で過ごす時間は苦痛だったに違いない。

 鮭が冷蔵庫にいる間、私の周りでも時間は過ぎていった。私は大学に入り母とは離れて暮らすようになった。祖母も遠くに行ってしまった。私はいくつかの失望とあきらめ、怒り、そして数えきれない小さな幸せを経験した。

 

 

 紅鮭は、発見されたその夜に和風リゾットとなった。しめじやニンジンと合わせて酒粕を入れるとおいしかった。実家に帰るたびにちょっとずつ料理をして、冷凍庫の肉を減らしていこう。

 

 

 

#12 花びら

 

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 今年の桜は早かった。3月中旬から1週間ぐらい自転車旅行をしたけれど、私が広島にいた
22日にもう開花宣言があった。広島冷麺を食べながら店のテレビでそんな地元のニュースをみた。

 それから1週間もたたないうちに関西の桜も満開になった。京都の高野川も見ごろになって観光客でにぎわっていた。高校の同級生で集まって川沿いを歩いた。お互いの近況を話して、時事問題をあーだこーだと話して、友達の一人の下宿でご飯を食べた。みんなちょっとずつ変わっていた。たぶんこれが成長なのだろう。それでも時々、高校時代の顔がきらりと覗いてなんか懐かしい気持ちになった。それが3月の29日。幸せだった。

 

 次の日、桜がきれいだったから久しぶりに家の周りを歩いた。川沿いを歩いて浜まで出て、海を見ながらぼーっとした。川沿いの公園は桜の名所として知られていて、花見に来ている人でにぎやかだった。海まで行くと風が強くなった。パーカーがぱたぱたと音を立てていた。堤防の上に座って、幸田文の「おとうと」の続きを読もうとしたけど風でページがめくれるからやめた。

 

 地元を歩くのは久しぶりだったからいろいろ思い出した。

 昔から川沿いを歩いたり自転車で走るのが大好きだった。川沿いの図書館で本を借りて、高揚感とともに夕暮れの中を自転車で帰るのだった。

 転入してきた時から学校になじめなかった。友達とどう遊べばいいのかわからなかったから干潟の浜で石をひっくり返したりしていた。石の下にはカニやらヤドカリやらがたくさんいて楽しかった。河口で石を並べてダムを作るのに熱中した時期もあった。その時期は浜辺に行くたびに石を運んで水の流れをせき止めようとしていた。

 案外一人でも楽しかった。少子化の時代に育ったからか、私は一人遊びができる子供だった。

 

 去年、おととしと同じように今年も川沿いでは桜が咲き、花びらは川面を流れていく。川辺に集まったり、水面から顔を出した岩にへばりついたりしながら次第に下流の方へと流れてゆき、海に出る。段々と私たちの目には見えなくなってしまう。あんなにたくさんの木にたくさんの花が咲いていたのに、花びらは風に散ってどこかへ行ってしまう。不思議だ。

 

 私が高校を出た時だったと思う。家族で夜桜を観に行ったことがある。二人の従兄弟もそれぞれ中学、小学校を卒業してみんなが落ち着いた時だった。自分もなんとなく心の区切りがついたころだった。

 どうしてだったかその日はおばあちゃんが我が家に来ていて、近くに住む私の従兄弟の家族と集まって三世代で王将に行った。中華をたらふく食べたのだ。大食漢ばかりだからそうするのが安上がりなのだった。

 帰り、誰かが「夜桜を観にいこう」と言いだして、家族みんなで川沿いの道を歩いた。昼間はあんなに人がいたのに夜は誰もいなくなっていた。何を話したのかまでは覚えていないけれど、幸せだなと思っていた。従兄弟たちは部活や新しい生活に目をキラキラさせていた。私も予備校が少しだけ楽しみだった。新しい季節がもう始まっていた。

 みんながばらばらに海まで歩いて、また川沿いを歩いて帰った。おばあちゃんは「疲れるから」といって自分の靴を履かずに私のスリッポンをはいていた。

 帰り道少しだけセンチメンタルな気分になった。おばあちゃんの病気の進行が進んだころだった。

 

 去年、桜が咲く前におばあちゃんは死んだ。その後に咲いて散った桜がどうだったかは覚えていない。長い間私は落ち込んでいた。

 

 もう4月も終わりにさしかかっている。桜はとうに散って花びらは見えないところに行ってしまった。おばあちゃんもまた見えなくなった。どこへ行ったのだろうと思う。

 

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#11 銭湯評論家となるまで

 

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  私は銭湯が大好きである。服を脱ぎ、体を洗い、人としゃべる。それだけでとてもリラックスできる。

大学の近くの銭湯にもよく行く。友達と湯船につかりながら勉強のこととか悩んでいることとか将来のこととかを話す。気の置けない友達との会話は指がふやけるまで続く。

「裸のつきあい」という言葉はなんだかオジサン的であまり好きではないけれど、それでも一緒に風呂に入ると仲良くなれるのだ。そんな気がするのだ。

 

 旅する時、できるだけその街の銭湯に入る。高速バスに乗る前に、ネットカフェで過ごす前に。ふらりと入る湯船とたまにあるサウナでその街の雰囲気を感じるのだ。

 最近自転車で広島に行った時、流川という場所で温泉に入った。繁華街だからかみんな背中に入れ墨が入っていてこてこての広島弁でしゃべっていた。私が友達とするような世間話を仲間同士でして、脱衣所でタバコを吸って怒られたりしていた。

 一人旅の中でそういう日常の風景に紛れ込んでみたり、湯船の中で考え事をしたり、サウナで我慢してみたりする。そういうのが好きなのだ。

 

 たまに銭湯評論家になってみたいなと思う。テレビではいろんな世界の評論家がしゃべっている。教育や政治、軍事やらいろいろな「評論家」の人がいる。私も銭湯評論家となってテレビの中で「あの銭湯がいい」とか「あの地域の銭湯は○○の病気に効用がある」などと言ってみたい。私がどれだけ銭湯が好きなのかお茶の間の皆さんに聴いてもらいたい。

 まあ半分冗談である。しかし銭湯評論家になるにはどうしたらいいのだろう? やはり何か銭湯に関する本を出すべきなのであろうか? どうもコメンテーターをするような評論家たちはだいたい本を書いているみたいだ。

 もしも銭湯評論家になるとしたら、銭湯のことを知らないといけないに違いない。銭湯の歴史、効用、快適な温度とは何度なのか、入浴によって軽減されるストレスの仕組み、ちょうどいいサウナの温度と湿度はどのくらいなのか。そう言ったうんちくを1から100まで知って、そうやってやっと評論家になれるのだろう。番組の司会者が何を言っても銭湯のことで返せるように引き出しを多く持っとかないといけない。

 

 知り合いに映画評論家がいる。それなりに尊敬されている人だ。たくさんの映画を知っているし、映画に関する記事も読んでいる。映画界でも顔が利いて、海外の映画関係者ともやりとりしているみたいだ。

 しかしその人のことをどうも好きになれない。彼の口調や醸し出す雰囲気の一つひとつから「私は映画についてたくさん知っている」という高慢が見えるのだ。「私はあなたより映画についてくわしい」という匂いがぷんぷんするのだ。映画が好きだから、映画のイベントに行って何人かの評論家の話を聞いたけど、どの人も知識をひけらかしている気がした。彼らの話はそれはそれで面白かったりするがどこか鼻につくのだ。なぜだろうか? 評論家という仕事を好きになれないから、評論家には成りたくないなあって思う。

 

「本を好きって言うの、難しいよな」昨日めいちゃんはそう言った。私は昨日、中学の同級生のめいちゃんと大阪の街を歩いたのだった。ぶらぶら歩いて、最後に寄ったブックオフの文庫コーナーでどの作家が好きなのかという話になった。めいちゃんは宮本輝が好きらしい。意外だった。私は三浦しをんが好きだと言った。

 「三浦しをんが好き」と言うが別に三浦しをんの作品のすべてを読んだわけではない。せいぜい45冊ぐらいだ。それでも三浦しをんが好きだ。

 けれども世の中にはいろんな人がいる。「45冊しか読んでいないのに三浦しをんが好きだなんて言うなよ」みたいなことを言うやつもいる。「『舟を編む』を読まずして好きとかいっちゃいかんよ」という人もいる。そういう種類の人と話していると、会話のテーマが三浦しをんの文章について話しているのか、お互いの読書量について話しているのかわからなくなる。相手の顔を見ていると自分が三浦しをんを本当に好きと言えるのかわからなくなってしまう。

 めいちゃんが言ったのはそういうことみたいだった。「何かを好き」と言うには他人から突っ込まれないぐらいの知識量がないといけないと思っている人が世間にはいるのだ。そしてそう感じてしまう自分もどこかにいるのだ。「どこの世界にもマウントを取ろうとする人はいるよなあ」とめいちゃんは言った。

 つくづくあほくさい話だ。本来ならば、別に「三浦しをんが好き」というのに何のハードルも必要ないはずなのに。 

 

 私は映画が好きだ。長い間映画関係の職に就きたいと本気で思っていた。でも映画界をちょっと覗いてみると、そこには映画に関する知識量でマウントを取ろうとする人が大勢いた。「他人なんて関係ねえ」とすました顔をしながら他人と競ってドングリの背比べをしている人が何人もいた。

 映画を製作するサイドから映画界を覗けばまた違ったものが見えたのだと思う。けれど、批評家の世界をはじめに見てしまったために、幻滅してしまった。映画界への関心は急速に薄れて行った。特定の監督に対する崇拝、特定の批評家に対する崇拝が露骨に見えた。権威主義的な世界だと私には思えた。

 

 もちろん純粋に映画を楽しもうという人もいた。そう言う人は上映会とか、映画について語れるカフェや映画祭を作っていた。権威主義に関係なく人を楽しませて、自分も楽しんでいるそう言う人が素敵だった。誰かの言った意見にふんふん頷くだけじゃなくて、対等に映画の感想を言い合えるような場を自分も作りたいと思ったのだ。

 

 

 私は銭湯が好きである。三浦しをんが好きだし、そして映画も好きである。これは真実だ。誰にも変えられない。

 私はこれからも純粋に楽しみたい。だから私が銭湯評論家になる日は、、、たぶん来ない。

 

#10言葉の限界 その2

 

#9のつづき)

 

 「星の王子さま」を読んで半年たった後、私は軽いうつ状態になった。周囲にあふれるとげのある言葉が辛くて家に引きこもっていた。クラスメイトの、物事を言い切るような言い方が許せなかった。私の席の後ろで繰り広げられる悪口の連鎖に傷つき、一方的な見方で相手を決めつける態度がどうしても受け入れられなかった。彼や彼女を憎んだ。16歳だった。

 しかし、それ以上に受け入れられないことがあった。それは自分自身も「相手を決めつける」言葉を使っていることだった。私はクラスの中の何人かを「悪口ばかり言うやつ」として警戒して接していたが、そうやってレッテルを貼っている自分も、他人を「決めつけて」かかっているのだった。彼や彼女らと自分が違う種類の人間だと思い込みたい私は、せめて「決めつけた」言葉は発しないようにと思って、他人と必要以上にしゃべらないようにした。これによって「決めつける言葉を使わない」という試みはある程度成功した。しかし、同時に、口数を減らしたせいで楽しい時間も減った。そして、大事なことには、その解決策は本質的なものとは到底言えなかった。言葉にしないだけで、頭の中で考えていることには何の変化もなかったからだ。

 私は他人にも自分にも嫌気がさしていた。ごく親しい友人と話す以外は、ひたすらに一人で日記を書いていた。日々のもやもやをすべて日記の中にぶつけて、他人に対する悪口と不満を書くようになった。クラスメイトに見られるとまずいから、自分にしかわからないような名前を勝手につけて、日記の中でこきおろしたりほめたりしていた。授業中も行きかえりの電車でも、私は日記を書いていた。楽しかった。日記と部活と映画ばかりに時間を使っていた。返ってきた数学のテストをみると27点だった。

 

 今でもそうなのだが、当時の私の苦悩は他人の言葉を必要以上に信じすぎてしまうことにあったと思う。ある意味で純粋だったのだ。他人の悪口や決めつけを「絶対のもの」として捉えてしまって、無意味に傷ついたり、反感を持ったりしていた。担任のヒゲ先生は私のことを「くそが付くほど大真面目」と評したけれど、当時の私は自分の真面目さをまだ相対化して理解できていなかった。「そんなに真面目じゃないけどなあ」ってくそ真面目に思っていた。

 私のリテラシーは高校時代とその後の数年間、ゆっくりと成長した。ちょっとずつ世の中がわかっていって、多くの人が本音と建て前を使うのがわかってきた。他人の言葉をうのみにすることはほとんどなくなった。自分の発言にも「真実だけを言おう」と考えて、萎縮して話すのではなく、ある程度割り切って楽しく話せるようになった。

 それでも、他人の言葉を聞き流すことをようやく覚えれたと自覚したのは去年のことだ。詳細は省くけど、自分の道は自分で決めよう強く思う出来事が年始に起こったのだった。人生は短いのだから、他人の言葉に惑わされることなく自分のやりたいことをしよう。そう思った。

 

 一歩引いた眼でみると、私の周りには他人を惑わせるような言葉が山ほど転がっていた。純粋であれば純粋であるほど、だまされやすい世の中に見えた。若者の感じやすい精神に訴えて、挑発し、こっちのものにしてやろうという連中がいくらでもいた。こういう人たちに対して私はどう接していけばいいのかまだはっきりとはわからない。みんな生きるために必死なわけだし、お金を稼がないといけない。ごはんも食べないといけない。それでも人の不安をあおったり、だましたりしてお金をだましとるような商売は大嫌いである。

 

 言葉は難しい。発するときにも、受け取る時にも気をつけないといけないみたいだ。誰かを傷付けないよう自分が迷わないように慎重にならないといけない。しかし慎重になりすぎて個性が失われるのはもっと悪い気がする。身の振り方がとても難しい。それなのにSNSもテクノロジーもどんどん加速して、情報量だけが、目いっぱいひねられた蛇口からどんどん流れていく。いやあな時代に生きている。

 

 去年、山形で出会った人が面白いことを言っていた。

 その人は登山が大好きで山小屋を渡り歩いているような人だった(何回かしゃべったけれど本来の職業をきちんときいたことがない)。「極端な話なのだけれど」と前置きをした上でその人が言いだしたのは、「言葉のない世界で生活したい」ということだった。最初はよくわからなくて「宗教の話だったらめんどうだな」とか思いながら半信半疑で話を聞いていた。彼は本物の自然の中で言葉を使わずに生きたいと言っていた。人間のつくった虚構の世界ではなくて、純粋な自然の中で生きたいのだと。だから一人で山に行くのだと。

 SNSとかテクノロジーに触れるたびに、人は、汚れて自然から離れてしまうのだとも言っていた。極端な話だったけれどなんとなく同感だった。過激だとは思うけど一理あると思う。

 猿の時代は言語を使わずに意思疎通をすることができたのに、今では言語なしではコミュニケーションできなくなってしまったのだ。文明のおかげで得たものもたくさんあるけれど、本来持っていた野性的な強さが失われてしまっていると酒を飲みながら話していた。

 

 その人の話は、やはりかなり極端だと今でも思う。けれど、スマホのせいで人間がダメになってしまっているのは私も実感することである。考える力と想像する力が日々奪われている。そして都市に住む我々は、本来は当然ではないものを当然のものだと思うようになってしまった。ごみは出しっぱなしでどこに行くのかも気に留めない。肉はスーパーでトレーに乗っかっているのが当たり前。下水の行きつく場所なんて考えたこともない。平気でご飯を残す。人間は確実に弱くなっていると思う。

 みんながみんな生活感のないままに生活しているような気がして、時々そんな自分たちの生活が気味の悪いものに思えてしまう。実態の無い暮らし。そんな風に思って不安になる。

 都市に育った私だが、いつかは土に向かい、地に足がついた暮らしがしたい。

 

 

 言葉の話を書こうと思ったのに、最後は文明についての話になってしまった。これではタイトルが大嘘である。話をあちこちに飛ばし過ぎるのは悪い癖だ。しっかりまとめないと。

 なにはともあれ、この文章を読んでみんなはどう思うのだろう。