シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#9言葉の限界 その1

 

 「関西クィア映画祭」というのがある。セクシャルマイノリティに関する映画を上映する映画祭で、「みんなヘンでいいじゃないか」というスタンスでやっているみたいだ。私は行かなかったが、去年の秋にも、11回目の映画祭が大阪と京都で行われた。今年もあるみたいだからぜひ行こうと思う。

 この前の土日、名古屋の「大須にじいろ映画祭」というのに行き(これらの映画祭の詳細は下記URLで)、そこでクィア映画祭の関係者の人と会った。その人に去年のパンフレットを頂いたのだけど、こんな文章があった。

 

「最近は「LGBT」が流行りですが、私たちは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーといった簡単な言葉では表しきれない存在です。恋愛対象や自身の性別が、個人の人生の中で「変わる/変態する」ことだってあります」

 

 ここで言う「私たち」にはパンフレットを書いた主催者の人だけではなくて、この文章を読んだ人にも当てはまるのだと思う。もっと言うと人類全体にも当てはまると思う。大げさかも知れないけど。

 「LGBT」という言葉は確かにある。けれども、だからといって「LGBT」という言葉でその人のことを定義できる訳ではない。むしろ定義できてしまうことは少ないんじゃないかと思う。というか、私たちはみな言葉で定義できてしまうほど単純ではないし、単純であってはならない。それから、肉体も精神も日々変化していくから、昨日の私に当てはまる言葉が今日の私に当てはまるとは限らない。

 

 高校の時に教えてもらった必要十分条件を思い出す。

AならばB、かつ、BならばAであるとき、BA必要十分条件といえる」

 懐かしい。

 私は学生である。しかしもちろん学生がみな私であるわけではない。

 もしかしたら彼はゲイと言えるかもしれないけど、だからと言って女の子に惹かれないわけではない。でも自分のことをバイセクシュアルとは言いたくない。そんな人だっているかもしれない。要するに数学とは違って、現実は複雑なのだ。AというものがBという言葉で完全に定義されることなど世の中にはほとんどないに違いない。

 かといって「LGBT」という言葉が悪だとは思わない。ある人にとっては言葉狩りをしたくなるような単語かもしれない。けれど「LGBT」というわかりやすいワードがあるからこそ知れることも、往々にしてあると思うのだ。使い方には気をつけないといけないというだけだ。

 

 スティーブン・キングは小説≪The Body≫(映画「スタンドバイミー」の原作になったやつ)の冒頭にこんなことを書いていた。私はこの冒頭で始まるこの小説が好きだ。

 

「なににもまして重要だというものごとは、なににもまして口に出して言いにくいものだ。それはまた恥ずかしいことでもある。なぜならば、ことばというものは、ものごとの重要性を減少させてしまうからだ——ことばはものごとを縮小させてしまい、頭の中で考えているときには無限に思えることでも、いざ口に出してしまうと、実物大の広がりしかなくなってしまう。だが、本当はそれ以上のものだ。そうではないだろうか?」(新潮社。山田順子訳)

 

 似たような言葉はサン・テグジュペリも書いていて、「星の王子さま」には、本当に大事なことは目には見えないのだよ、というような言葉がある。

 私は中学を卒業する時に読んで、この言葉は大事だなと思った。含蓄のある、かっこいい言葉だった。細かいストーリーや登場人物は忘れてしまったけれどこの言葉は今でも覚えている。あとゾウを飲み込んでしまったウワバミの絵と、地球をむしばむバオバブの木の絵も覚えている。今読んでも、この言葉は大事だと思う。

 

 キングとテグジュペリが言うように言葉には限界がある。これは真実だと思う。

 言葉は完全ではない。だからこそ、私たちは何回もラブレターを書きなおすし、教習所で教官と車に乗ると、学科でならったこととは正反対のことを言われたりする。

 「愛」は、定義しようとする手をすりぬけてゆくし、車を運転する際に気をつける様々なことをいちいち書いていくには教本のスペースが足りない。その時のその人の状況によって、愛の定義も運転の仕方も異なるはずだ。

 

 もう正しいとか間違いとかそういう話ではなくなってきているのだと思う。世の中はどんどん複雑になって、情報は洪水のようにあふれていく。正義も真実も嘘も価値観の数だけ増えていく。学校の先生とか大変だろうな。正しいことを教えないといけないけど、真実は星の数ほどあるのだから。この時代において、教育は相当大変な作業にちがいない。誰かにとっての真実は誰かにとっての嘘だったりするのだ。彼の語る真実は彼女を傷付けたりする。このブログだってきっとそうである。真実を語ってるつもりが、嘘ばかりである。私は正義漢の皮をかぶった偽善者だ。でも自分では正しいことを書こうとしているつもりだ。

(つづく)

 

 

URL

大須にじいろ映画祭:http://osurainbowfilmfestival.org/

 

関西クィア映画祭(※2017年):http://kansai-qff.org/2017/