シゲブログ ~避役的放浪記~

日々の些細な出来事、昔の思い出を書いていきます

#11 銭湯評論家となるまで

 

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  私は銭湯が大好きである。服を脱ぎ、体を洗い、人としゃべる。それだけでとてもリラックスできる。

大学の近くの銭湯にもよく行く。友達と湯船につかりながら勉強のこととか悩んでいることとか将来のこととかを話す。気の置けない友達との会話は指がふやけるまで続く。

 「裸のつきあい」という言葉はなんだかオジサン的であまり好きではないけれど、それでも一緒に風呂に入ると仲良くなれるのだ。そんな気がするのだ。

 

 旅する時、できるだけその街の銭湯に入る。高速バスに乗る前に、ネットカフェで過ごす前に。ふらりと入る湯船とたまにあるサウナでその街の雰囲気を感じるのだ。

 最近自転車で広島に行った時、流川という場所で温泉に入った。繁華街だからかみんな背中に入れ墨が入っていてこてこての広島弁でしゃべっていた。私が友達とするような世間話を仲間同士でして、脱衣所でタバコを吸って怒られたりしていた。

 一人旅の中でそういう日常の風景に紛れ込んでみたり、湯船の中で考え事をしたり、サウナで我慢してみたりする。そういうのが好きなのだ。

 

 たまに銭湯評論家になってみたいなと思う。テレビではいろんな世界の評論家がしゃべっている。教育や政治、軍事やらいろいろな「評論家」の人がいる。私も銭湯評論家となってテレビの中で「あの銭湯がいい」とか「あの地域の銭湯は○○の病気に効用がある」などと言ってみたい。私がどれだけ銭湯が好きなのかお茶の間の皆さんに聴いてもらいたい。

 まあ半分冗談である。しかし銭湯評論家になるにはどうしたらいいのだろう? やはり何か銭湯に関する本を出すべきなのであろうか? どうもコメンテーターをするような評論家たちはだいたい本を書いているみたいだ。

 もしも銭湯評論家になるとしたら、銭湯のことを知らないといけないに違いない。銭湯の歴史、効用、快適な温度とは何度なのか、入浴によって軽減されるストレスの仕組み、ちょうどいいサウナの温度と湿度はどのくらいなのか。そう言ったうんちくを1から100まで知って、そうやってやっと評論家になれるのだろう。番組の司会者が何を言っても銭湯のことで返せるように引き出しを多く持っとかないといけない。

 

 知り合いに映画評論家がいる。それなりに尊敬されている人だ。たくさんの映画を知っているし、映画に関する記事も読んでいる。映画界でも顔が利いて、海外の映画関係者ともやりとりしているみたいだ。

 しかしその人のことをどうも好きになれない。彼の口調や醸し出す雰囲気の一つひとつから「私は映画についてたくさん知っている」という高慢が見えるのだ。「私はあなたより映画についてくわしい」という匂いがぷんぷんするのだ。映画が好きだから、映画のイベントに行って何人かの評論家の話を聞いたけど、どの人も知識をひけらかしている気がした。彼らの話はそれはそれで面白かったりするがどこか鼻につくのだ。なぜだろうか? 評論家という仕事を好きになれないから、評論家には成りたくないなあって思う。

 

 「『本を好き』って言うのって難しいよな」昨日めいちゃんはそう言った。私は昨日、中学の同級生のめいちゃんと大阪の街を歩いたのだった。ぶらぶら歩いて、最後に寄ったブックオフの文庫コーナーでどの作家が好きなのかという話になった。めいちゃんは宮本輝が好きらしい。意外だった。私は三浦しをんが好きだと言った。

 「三浦しをんが好き」と言うが別に三浦しをんの作品のすべてを読んだわけではない。せいぜい45冊ぐらいだ。それでも三浦しをんが好きだ。

 けれども世の中にはいろんな人がいる。「45冊しか読んでいないのに三浦しをんが好きだなんて言うなよ」みたいなことを言うやつもいる。「『舟を編む』を読まずして好きとかいっちゃいかんよ」という人もいる。そういう種類の人と話していると、会話のテーマが三浦しをんの文章について話しているのか、お互いの読書量について話しているのかわからなくなる。相手の顔を見ていると自分が三浦しをんを本当に好きと言えるのかわからなくなってしまう。

 めいちゃんが言ったのはそういうことみたいだった。「何かを好き」と言うには他人から突っ込まれないぐらいの知識量がないといけないと思っている人が世間にはいるのだ。そしてそう感じてしまう自分もどこかにいるのだ。「どこの世界にもマウントを取ろうとする人はいるよなあ」とめいちゃんは言った。

 つくづくあほくさい話だ。本来ならば、別に「三浦しをんが好き」というのに何のハードルも必要ないはずなのに。 

 

 私は映画が好きだ。長い間映画関係の職に就きたいと本気で思っていた。でも映画界をちょっと覗いてみると、そこには映画に関する知識量でマウントを取ろうとする人が大勢いた。「他人なんて関係ねえ」とすました顔をしながら他人と競ってドングリの背比べをしている人が何人もいた。

 映画を製作するサイドから映画界を覗けばまた違ったものが見えたのだと思う。けれど、批評家の世界をはじめに見てしまったために、幻滅してしまった。映画界への関心は急速に薄れて行った。特定の監督に対する崇拝、特定の批評家に対する崇拝が露骨に見えた。権威主義的な世界だと私には思えた。

 

 もちろん純粋に映画を楽しもうという人もいた。そう言う人は上映会とか、映画について語れるカフェや映画祭を作っていた。権威主義に関係なく人を楽しませて、自分も楽しんでいるそう言う人が素敵だった。誰かの言った意見にふんふん頷くだけじゃなくて、対等に映画の感想を言い合えるような場を自分も作りたいと思ったのだ。

 

 

 私は銭湯が好きである。三浦しをんが好きだし、そして映画も好きである。これは真実だ。誰にも変えられない。

 私はこれからも純粋に楽しみたい。だから私が銭湯評論家になる日は、、、たぶん来ない。