シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#61 ボールが記憶を

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 軟球を拾った。野球ボール。Aという文字が書かれているからこれがA球という種類なんだろうと思った。私の小学校は校区内に少年野球のチームが2つもあるようなところで回りの友達も毎日野球をしている環境だった。よく寄せてもらって放課後に野球をして遊んでいた。大学のグラウンドで拾ったボールで一人で遊んでいたらそんな昔の記憶がサイダーの泡みたいに出て来た。ダイビングキャッチをするプロ野球選手にあこがれて、普通に獲れるフライにわざと飛び込んだりしていた。友達が野球をやっている公園を探して校区内を自転車で巡っていた。休み時間に手打ち野球する友達を見るのが楽しかった。誰もいない午後の大学。グラウンドで独りボールを投げてはキャッチして、それを繰り返していた。6月になるともう暑い。

 

 その日から何となくボールを持つようになった。原付のドリンクホルダーに入れて毎日一緒に学校に行くようになった。駐輪場でバイクを停めてボールを手に持って、教室へと歩く。授業の後で友達とキャッチボールをしたり、カーブの握りを教えてもらったりする。一人の時はコンクリートにボールを投げ続けている。 もうすぐ23歳になる私はカベ当てをしながら考えている。尼崎の公営住宅。誰もいない申し訳程度の公園でも独りでカベ当てをしていたっけ。トイザらスで買った300円ちょっとのグローブを左手にはめてボールを延々と壁に向かって投げていた。本当に誰もいない公園で、コンクリートの白と誰もいないすべり台のプラスチックの赤がやけに記憶に残っている。その時に使っていたペコペコのボールは西宮に越した時にも持ってきたけど、段々ゴムが劣化してついに弾まないようになって捨てられてしまった。

 

 週末、おじいちゃん家に来た。昔おじいちゃんとキャッチボールした庭ももうずいぶんと小さくなってしまった。しゃがんだおじいちゃんをキャッチャーに見立てて投げ込んでいた距離も、今歩くと15歩しかなかった。びっくりした。昨日の雨ですこし水のたまった庭で昔と同じようにボールを宙に投げてはキャッチするのを繰り返していた。たまにボールを投げるのに失敗して梅の葉や実を落としてしまったりした。茂みに入ってしまったボールを探して草むらの中に目を凝らすのもあの頃の私と同じだった。何度も繰り返した動きを、10年ぶりくらいにやった。恐る恐る草の中に手を入れる時のドキドキする瞬間も、ボールを見つけ出した時のほっとした気持ちも、覚えがあった。どうってことない記憶ばかりだけれど、白いボールがあったというだけでいろんなことを思い出した。

 

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 中学の友達とやる野球はテニスボールだった。小学校高学年からずっと軟球だったから正直退屈だった。テニスボールだとバットに当たった時の感触が薄いし、ボールも早く投げられないのだ。それでもみんなでやる野球はまあ面白くて、次第に軟球は私の手から離れて行った。

 高校の時久しぶりにグローブをはめてびっくりした。小学校の時にはぶかぶかだったグローブがすっかり小さくなっていた。手入れもしていなかったからボロボロになっていた。部活でサッカーをしている間、手入れしていなかったから、傷んでしまっていた。それでもまだまだ使えたから、文化祭準備や受験勉強の合間、昼休みに友達とキャッチボールをしたりしていた。

 そんなことを思い出しながら私は今日もコンクリートにボールを投げ続けている。ボールを1球投げる度に思い出がまた蘇る。それがとても面白い。あの時の放課後のヒットも甲子園のスターもキャンプ場でのキャッチボールも、予想もしていない記憶を白いボールが持ってきてくれる。ボールを触るまでまるで思い出せないのに。

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〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。 

 

六月二十日 快晴

 きのう床についたのが朝の四時。九時ぐらいに目がさめたが、ラジオをきいたり、「時には母のない子のように」や「愛の讃歌」……を口ずさみながら、ぼんやりと三時ごろまで過し、バイトに行く。バイト先や「ティファニー」で人間はだれでも疲れているんだなあって、しみじみと思う。

 

 このノートを書くことの意味——

 これまでは、このノートこそ唯一の私であると思っていたから、誰かにこれをみせ、すべてをみてもらって安楽を得ようかと、何度か思った。しかし、今日ぼんやりとしていたとき、このノートを燃やそうという考えが浮んだ。すべてを忘却の彼方へ追いやろうとした。以前には、燃してしまったら私の存在が一切なくなってしまうようで恐ろしくて、こんな考えは思いつかなかった。

 現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味を持つものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何も意味もなさない。

 このノートが私であるということは一面真実である。このノートがもつ真実は、真白な横線の上に私がなげかけたことばが集約的に私を語っているからである。それは真の自己に近いものとなっているにちがいない。言葉は書いた瞬間に過去のものとなっている。それがそれとして意味をもつのは、現在に連なっているからであるが、「現在の私」は絶えず変化しつつ現在の中、未来の中にあるのだ。

 

 私は人間どもをだましながら、己れを生きさせているのだ 

 だまされているバカなヤツラヨ

 バカも愛を知っているものに対しては

 お互いに だましあいつつ生きてゆくのだ。

「独りである」とあらためて書くまでもなく、私は独りである。 

 

 

#60 私たちは何者かにならないといけない

 

 2留している。

 いや、正しく言うと、実際に留年したのは1年。その前は休学だった。

休学しても別に何もしなかった。旅行をちょろちょろして免許を取っただけだった。

 

 今月、私は23歳になる。

「大学生で22歳」と言うのと、「大学生で23歳」と言うのは違う。

 

 23歳で大学生している、ということはどこかで回り道をしているわけである。浪人、留年、休学、留学。初対面だろうがなんだろうが、訊く人はどんどん訊いてくる。1年間の浪人を含めて、私は3年間も回り道をしている。「若い時の2年や3年、別にどうってことないよ」と言ってくれる人もいるけれど私はまだそんな風には思えない。それは、大学で足踏みしていても自分の成長が見えないからである。それから、自分の今あがいていることが将来にどのように役立つかわからないからでもある。

 

 去年も一昨年も受けていた授業を今年も受けている。去年答えられなかった問題を今年も答えられない。がっかりする教師の顔もまた同じである。

 

 ストレートで大学に進学した高校の同級生は、大学院に進学したり、あるいは就職したりしている。昨年末、就活や院試が終わった友達から会わないかと誘われたりしたけれど、自分の現状が恥ずかしくて会えなかった。去年の夏から新生活が始まる今年の春までの期間は、彼らにとって最後の自由時間だったのかもしれない。その時期に会えなかったのは申し訳ないけれど、それでもやっぱり会えなかった。大学にも行かず、後ろ向きのことばかり考えて腐っている自分を彼らの前に出せなかった。今思えばくだらないプライドだった。でもその時はそんなプライドでも守らないと死んでしまいそうだった。

 

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 浪人時代同じ予備校で勉強した友達も今や4年生で、就活を頑張っているみたいだ。SNSで彼らの頑張っている姿が見える。エントリーシートに関する愚痴も、うまくいかなかった面接のことも、泣きそうになっている心も見えてしまう。もちろんツイッターフェイスブックが全てではないし、そうしたSNS上での振る舞いがその人のすべてではない。ただ偉いなあと思うだけだ。仮に自分が今、就職戦線に放り込まれたとして、就職活動をまっとうにできるとは思えない。就活サイトに登録して、インターンを申し込んで、メールをやりとりして、グループディスカッションをして、他人と競って。そこには想像もつかないような困難があるだろう。ただただ感服するばかり。別にこれは皮肉なんかじゃない。はたしてそういうことが私にできるだろうか。

 今日久しぶりに会った友達も、最近就活が終わった話をしていた。もうそんな感じなのかと思った。「すごいなあ」と思い、また少し心が痛くなった。

 

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 こんな風に書いているけれど私の毎日は案外に明るい。なぜなら今はぬるま湯に浸っていられるから。将来に対する見通しもないし、来年進級できているかもわからない。けれど毎日何かしらやることがあって映画だったり勉強だったり本だったりそういうので時間がどんどん過ぎていく。会社勤めや、就職活動をしている周りと比べるとどうしても気が滅入るけれど他人と比較しても仕方ない。自分は自分。そう言い聞かせてここ何年か生きている。

 バイト先の人と自分の学生生活について話す機会があった。その人は2人の子どものお父さんで、よく奥さんの話や子供の習い事の話をする家庭的な人である。留年していて不安であることを伝えるといろいろアドバイスをしてくれた。その中で響いたのは「家庭を作ると自分の時間が無くなってしまう」という言葉だった。結婚してから、子供が生まれてから、今まで何気なく過ごしていた時間こそが「自由」だったのだと、その人は思っているようだった。

 確かに大学生の身分で今は何をしていてもよい。どこに旅行しようが、どんな本を読もうが自由である。映画も見放題である。バイトもできるしお酒もたばこもできる。入学当初、私は映画を作ることを仕事にしたいと思っていて、でも大学で学ぶことにしたのは言語だった。センター試験の点数をもとに半ばなげやりに決めたせいで、私は卒業まで○○語を専攻することになった。

 

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 正直耐えられなかった。映画の仕事をするのに大学の勉強は価値のないように思えた。でも入ってしまったがために卒業しなくてはならなくて、でも興味関心がなかなかわかなかった。

周りの何人かは自分の夢とか将来のプランとかに向かって邁進していて、輝いて見えた。別に大きな夢が無くとも現実に向き合ってやるべきことを着々とこなしている人もいて、尊敬が湧いた。自分はと言えば毎日を自堕落に過ごし、好きなことを好きなだけしている。目標も夢もなく、ただただ日々を過ごしているだけだった。大学生は人生の夏休み、なんて言うけれど私の時間の過ごし方は怠惰そのものだった。

 

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 次第に、決めることがおっくうになってきた。あれをやるこれをやる、ということが面倒くさいものになっていった。自分の進路をどう決断しても自分の夢を叶えられる可能性は低くなるように思えた。自分の周りにはたくさんの選択肢が転がっていて、そのどれかは自分の人生を良いものにするのかも知れない。けれどそういうのを一つ一つ手に取って確かめることは煩わしいものに思えた。私は段々と決めきることができないようになり、決断を先送りにするようになった。大学2年目の夏、私は半年間休学することを決めた。私のコースは通年で単位が出るので、自動的に留年することが決まった。

 

 何かを決定することが嫌で嫌で仕方がなかった。、私はひたすら決断を避けた。本棚のたくさんの本も捨てることができず、大掃除をしても物を捨てられなかった。パックに少しだけ残った牛乳を飲み干すことも嫌になり、服を買いに行っても何も買わずに帰ってくるようになった。

 同時に迷うことが増えた。自分には迷うことを楽しんでいる節があって、結論が出ないようなことを延々考えていたりした。家族のことや映画のこと、友人とのことや最近読んだ小説のこと。考えれば考えるほど沼にはまり、悩むことが楽しくなっていった。

 

 

 ある朝気づいた。自分がどうしようもなく嫌な奴になっていることに。自尊心と自意識だけが肥大して、周囲を見下し、小難しいことを考えている自分が偉いと思っている。迷う自分に酔っている。このままじゃいけない。そう思った。今のままだと駄目だ。変わらないといけない。「何者にもなってやらないぜ!」と今はうそぶいていられる。「何者にもなれる」力と可能性を持ったまま、何も決断せずに「何者にもならない」ままでいるのは確かに楽だ。でもそうこうしているうちに「何者にもならない」のではなく「何者にもなれない」ようになってしまう。そうなったら悲惨である。いざ「何者になろう」と思っても、力も選択肢もなくて、本当に「何者にもならない」まま人生を終えることになってしまう。そんな未来がよぎって、気持ちが暗くなった。

 

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 じゃあどうしよう、と考えて、とりあえず決定をしていこうと思った。毎日何かしらの決定をしよう。できることなら決定にかけるスピードを速くしよう。今すぐに根暗や不安が治るわけではない。でも決断をすることを恐れずにやっていけば勇気や自身も育つだろうかと思う。そう思って最近生きている。この心掛けが実を結んでいるかはわからないけれど、とりあえずのところは順調である。何者になれるか、わからないけれど、まだ何かしらにはなれると思う。

 

#59 ある出来事

 

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※この話はフィクションです。血の描写があるので、苦手な人は読まない方がいいと思います。

 

 11時を回ったところだった。

 通称ラーメン横丁と呼ばれる通りを抜けて男は駅へと急ぐ。明日は土曜日。仕事がないとはいえ午前中は出社しなければならない。再来週に控えたA社との合同会議の資料を作るのだ。だから早めに起きたいし、今日はアパートに帰って自分のベッドで眠りたい、男はそうは考えていた。

 繁華街の真ん中には広場がある。夜にはいつも客引きや風俗の勧誘がたむろしている。あちらから舌足らずな日本語が聴こえてくる。かと思えば、こちらではギターセッションがあって、地面の上の帽子には結構な量のお金が溜まっている。仕事帰りにたまに立ち寄るこの街には、通るたびに新たな発見があって楽しい。広場を過ぎれば駅までもうすぐだ。

 男は今日、久しぶりに外で酒を飲んだ。割にハードだった一週間が終わり、自分へのご褒美として男は中華料理を食べてビールを飲んだのだ。阪神が連勝するのを見届け、その後に入った2軒目のバーで彼は大学時代の友人に偶然再会した。思い出話をして、それぞれの現在について情報を交換した。気分は上々だった。これからガールフレンドと待ち合わせてカラオケに行くと言う旧友と別れて、彼は駅へ歩き出したのだった。遠ざかるギターの音を聴きながらさっきの楽しい時間のことを思い出していた。友人の顔は案外昔と変わっていなかった。彼との会話を通じて些細な記憶がよみがえってきていた。思い出にうっとりしながら男は歩いていた。

 叫び声が聞こえたのは広場を通り過ぎようというところだった。駅構内への入り口にもう入ろうというところでで突然女性の甲高い声が聞こえた。振り返ると、ベンチの脇に女が独り立っていて、右手にはビール缶があった。

「ねえ! どうして! ねえ!」その言葉は誰かに語り掛けているように思えたけれど、近くに誰かいるわけでもなく、駅へと向かう人の流れの中から返事をする声もなかった。最初酔っぱらいの喧嘩か何かと思ったが、そうではないらしかった。

 明らかにアルコールが入っていて、焦点の定まっていない目をしていた。もう長い間、広場の終わりのそのベンチにいたみたいで、彼女の周りには吸い殻が散乱し、空き缶が転がっていた。明るい駅構内へと入っていく人の流れの中で何人かが声に振り返った。でもまたスマホに目を戻して改札へと向かう。通りを歩く人も彼女の方を見て、またそのまま歩いて行った。男も早く帰りたかった。ただ、何か思うところがあって足を止めた。もちろん彼はその「何か」の全容を把握していたわけではない。それは直感のようなものだった。

 ふらふらと12歩踏み出した後、女はまた顔を上げた。また何か言うのだろう、心の中で男が思い、女は叫んだ。

「死ぬなら一人で死なないといけないのかよ!」

 さっきよりも多くの人が足を止めた。ぎょっとした顔で女を眺める老人。顔はお酒で赤くなりお腹は美味しいもので膨らんでいる。血走った目に映る異質なもの。歩いて女の前を通り過ぎるカップル。ヒューっと男が口笛を吹き、女が声をだして笑った。店から出てきた中年サラリーマンの集団。一人が「なんか大声だしとるでえ」と言い、みんながどうと笑った。スマホの画面越しに誰かと電話していた女の子が画面を女に向けた。「なんかやばい人いるわー」と画面の向こうにいる誰かに向けた声は男の耳にも聞こえた。

「どうしてみんなしんどくないんだよ! どうしてみんな死にたくなったりしねえのかよ!」そう続けた女の言葉にまた何人かが足を止め、ちょっとした人だかりができた。何人かの顔には心配するような表情が浮かんでいた。何人かがスマホを取り出して撮り始めた。そうした野次馬のことをどれだけ見えていたのかはわからないけれど、女は笑い始めた。「ハハハッ!」体をのけぞらせて声を出し、人だかりはますます増えた。男のすぐ近くにいたOL二人が「やばいじゃん」と呟に、興味津々な目で眺めていた。一瞬、男には女が泣いているように見えた。両目がきらりと光ったような気がしたが暗い中では定かではなかった。

 金曜日の繁華街の夜には、いろんな感情があるだろう。誰にも打ち明けられない辛い気持ちなど、誰にでもあると男は思っていた。そうした気持ちが爆発する瞬間も何度も目撃していたし、自分でも経験があった。だから、無関係のことだとは思えなかった。その女の何を知っているわけでもないけれど、もしつ抱えているものがあるなら助けてあげたいなと思った。 

「おい!」と誰かが叫んだ。どうして持っているのか女は包丁を取り出し、長い刃を首筋にあてた。何を考えているのかわからないけれど包丁を持った右手は震えていた。さっきまで女が持っていた缶ビールは打ち捨てられ、路面に広がった液体は繁華街のネオンを反射させた。「やめなさい、あんた!」中年の女性が人だかりから1歩出て、女の方に寄った。「やめなさい!」おばさんはただただ純粋に自殺を止めようとしていた。狂ったように「やめなさい」を繰り返すおばさんに女は包丁を向けた。「来るなよ」と低い声で言ってまた首元に刃をあてた。言葉をかけるのはやめてもおばさんはまだそこに居続けた。

 緊迫した状況だった。女の行動は一種のパフォーマンスだと男は思っていたが、この後どうなるとも予想はできなかった。何かをしないといけないと思っていたけれど、かといって声をかけられるわけではなかった。何をできるのかわからなかった。もし声をかけるとしたらどういう言葉をかけるのがいいのだろうと男は考えていた。彼女が着ているのは誰でも一着は持っているような灰色のスーツだった。ハンドバックはおしゃれで、その中に包丁が入っていたとは思えないようなかわいいデザインだった。普段の彼女はどこにでもいるような「普通の」社会人なのだろう。それでも、持っているのがカッターナイフではなく包丁だというのが彼女の複雑さと深刻さを表しているように思った。少なくとも突発的に起こした行動ではなさそうだった。何回も反芻して考えた結果なのだろうと男は思った。

「死ぬなら一人で死ねよーう」最前列の黒シャツの男が叫び、その周りで笑いが起きた。男の気分はまた重くなった。スマホを女に向けている何人かの顔には何の表情も無くて、非人間的だった。当の女は刃を首にあてたまま目を閉じていた。

 そのうちに警察が来た。ほっとしたが、この状況がどのように終息するのかと考えると怖くもあった。何かが起こるわけで、誰かが死ぬかもしれなかった。人が死ぬのは見たくなかった。女の表情は混乱していていた。自分が何をしたいのか、当初の目的がなんだったのか、もう分かっていないような顔だった。

 説得にあたる巡査は若く、中年のもう一人がトランシーバーで状況を誰かに伝えていた。応援の警察と救急車が来るようだった。10分ほどの若い巡査と説得があり、応援が到着した。人混みは整理され、下がるように指示された。スマホを構えた集団がスマホを構えたまま数歩下がった。

 最後の最後の瞬間で女は包丁を首から離し、手首にあてて引いた。対応に当たっていた巡査が二人取り押さえた。血があふれてきて飛び散った。包丁が投げつけられて人混みがサーっと下がった。

 拘束された女は何か言葉にならないことをわめいていた。救急隊が手首の出血に対して処置をとり、甲高い声が嗚咽に変わった。警察が落ち着くように声をかけるのも聴こえた。見ていられなくなって男はその場を離れた。「通してください」と声を出しながら、構えられたスマホの間を抜けて駅構内へと入った。地下鉄とJRが乗り入れている駅は大きい。巨大な構内には酔ったスーツ姿がふらふらと歩いていて、本当の金曜日の終わりを告げるようだった。改札を抜けてエレベーターに乗ってホームに上がると、ちょうど最終電車が来たところだった。ぎゅうぎゅうの車内に乗り込む男の心はもやもやとしていた。発車ベルが鳴ってドアが閉まる直前になって一人の男が電車に飛び乗った。さっきの黒シャツだった。男はじっとその黒シャツを見つめていた。沸々と心の中に敵意が湧いてきた。黒シャツは四角い画面に夢中で睨まれていることに全く気付かない様子だった。男もスマホを出して何か別のことを考えようとしたが、手が震えてうまく操作できなかった。男はスマホをまたカバンに直した。

 

 その女の動画はすぐにSNSで拡散された。拡散された動画の端っこに男も映っていた。男が見つけたコメントは以下の通り。

「かわいいのにメンヘラなのは残念」

「これだから女は××」

「やるなら一人で家でやれよ」

「おばさん一人でがんばってて草」etc

 

 次の日、男は出社したが、なかなか捗らなかった。昼までには終わると踏んでいた仕事は午後になってようやく片付いた。会社近くの食堂で遅めの昼ご飯を食べて家に帰ることにした。食堂のテレビではワイドショーが流れていて、昨日の事件のことがニュースになっていた。SNSで拡散された映像がそのままテレビでも流れていて、男の後ろ姿も画面に収まっていた。女の顔にはモザイクが入っていた。コメンテーターが無責任なことを言って、司会者がそれに同調した。最近は政治のニュースが少なくなった代わりに、こういうニュースを深く報道するようになったな、と男は思い、ぼんやりと昨日のことを考えていた。

 土曜日の鉄道は親子連れがいつもより多かった。近くでイベントがあったらしく黄色い風船を持った子供たちが目についた。男の表情は虚ろで疲れていた。窓際に立って、流れていく景色を目だけで追っていた。昨日の駅に電車が停まって広場と繁華街が見えた。用事はなかったが、男は降りることにした。歩きながら男は昨日の出来事を反芻していた。目的もなく1時間ほど歩いてラーメンを食べた後、男はコンビニでビールを買った。そして昨日女がいたベンチでビールを飲んだ。

 

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

五月十三日

”学生であること”は、私にとり風のない空間に漂うちりのような存在でしかない”不確実なもの”である。その”学生であること”に固執する自分の不安定さ、不確実さ。

 どこかに勤めようかと思ったりする。メイン・ダイニングにでもと思ったのだが仕事(水さし、片付け、デザートを運ぶ等々)が全然おもしろくない。責任ある仕事やってみたいのに、どうでもよいような補助的な仕事のみ。

 社会から全く疎外されている私、しかし私は今この時間、この空間の中に存在している。自殺は卑きょうな者のすることだ。

 

#58 時代の切れ目に その1

 

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 4月30日

 ゆっくり家でおかんとご飯を食べればよかったなと思った。

 さっきからずっと山道。おまけにぽつぽつと雨も降っている。国道とは言え道幅の狭い道が続く。もう夜だから黄色い線ははっきりとは見えない。どこまでが道路でどこまでが路肩なのか。どこまでが生でどこからが死なのか。そんなことを考えながらやっとたどり着いたコンビニで、暖かいコーヒーを飲んだ。ほっとした。

 テレビもラジオも平成と令和の話題で持ち切り。馬鹿みたいだ。人間が勝手に時間を区切って、それに名前をつけて遊んでいるだけである。なんて思ったりして、テレビを冷笑したりするけれど、どこかうきうきしている自分もいた。雑誌もネット記事もブログもみんな「平成」とか「令和」とか、そういうことを書いていて、「もういいよ聞き飽きたよ」なんて思うけど、自分だってこうやって書いている。バイクで旅行をしたのも元号の変わり目に何か面白いことをしたいと思ったからだ。ああなんという矛盾!

 

 雨が通り過ぎるのを待っていたら夕方になってしまった。朝、また母親と言い争いをしてしまって、だらしない自分にも言い争いをしたことにも嫌気がさしてふて寝した。雨が降っていた。お昼に目が覚めても雨はまだ降っていておまけに風もびゅうびゅう吹いた。じっと目をつむったまま、窓枠からしずくがぽたぽたと落ちる音を聴いていた。いい加減何か食べないといけなかった。適当に冷凍ご飯を温めてケチャップをかけて食べた。

 最近知ったのだけど、ケチャップとご飯の組み合わせっていうのは見る人によっては眉をひそめるような食べ方らしい。鍵っ子の私が家で一人でご飯を食べる時、冷蔵庫には漬物も佃煮もめったになくてケチャップしかなかったから、よくケチャップをかけて食べた。ご飯にチーズとケチャップをかけてレンジに入れるととっても美味しいのだ。納豆をトッピングするのもなかなかいい。レースのカーテンの向こうは雨の日の白っぽい午後。道路向かいの駐車場もその向こうのラーメン屋も黒い雲の下、平等に濡れている。ぼんやりとした光は食卓に座る私を照らす。台所の方から見ると、大きな窓の前に座ってご飯を食べているのはもしかしたら寂しい光景なのだろうかもしれないと思う。白い光のこちら側ではきっとシルエットでしかない私の体。表情も見えず、ただ黙々とケチャップライスを食べる22歳。朗らかさから一番遠い存在。

 別にカメラがこっちを向いているわけではない。私の両目はおでこの下、頬の上にちゃんと収まっている。それでも、自分を俯瞰してしまうことがよくある。誰に聞かせるでもない独り言を発したり、スープを味見して、誰もいないのに「んんっすっごくおいしい!」なんて叫んでいる。そこにいない誰かを想定して喋ったりしている。中学生の頃は人と喋るのが今よりずっと苦手だったから、独りでそうやって会話の練習をしていたのだけど、22歳でそんなことをしているのはちょっとまずい。

 

 そういえば去年の自転車旅行も雨で出発が遅くなったな、なんて考えていた。その時は午後3時に家を出てひたすら走り続けた。バイクと違って寒くないから走り続けても平気だった。誰もいない須磨の砂浜で食パンを食べた。夜ご飯は明石焼きを食べようと思っていたけれど、案外すぐに明石を過ぎてしまったので加古川あたりの定食屋でご飯を食べた。おかわりを何杯でもできるところだったのでモリモリ食べた。たくさん食べても走るとすぐにおなかが空いて、自転車旅行は食費がとてもかかることがわかった。

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須磨海岸

 出発したのはなんと午後5時になろうとする頃だった。もう開き直っていた。でもやっぱり怖かった。道を間違えたらどうしようとかガソリンが切れたらどうしようとか、事故を起こしたらどうしようとか。そんなことを考えるといつまでたっても出発できない気がした。それでも好奇心が恐怖に負けるはずがなくて、出発しないわけにはいかなかった。国道を走っていたら気が晴れてきてすぐにラクになった。

 

 国道163号線を走る。門真、枚方と抜けて、トンネルを抜けると京都府だった。伊賀まで50キロという表示が出て、すこし雨が降ってきた。それでも時間がないから走り続けた。明日になるまでに名古屋に着きたかった。別に名古屋で何をする予定もなかったけれどただ行ってみたかった。

 急に今は走っている市内に親戚が住んでいることを思い出した。色々あったせいで関係が希薄になっているけれど、血のつながっている人たちがこの土地に住んでいるのだった。一度しか会ったことのない従妹は来年大学受験だったはず。吹奏楽は大学でも続けるのかな。伯父の家族は今度一年ぶりに祖父に会いに来るらしい。どうして家族なのにこんななのだろうと思う。

 

 京都と奈良の境を走るとどんどん山の中に入ってしまった。原付の後ろには車がつっかえるけど、道幅は狭いし黄色の線だしなかなか追い越してもらえない。すっかり車列ができてしまって、たまにトラックなんかに追い抜かされる。暗闇の中を走るのによく抜かせるなと思う。こっちは生きた気がしないのにそんなのお構いなしにみんな抜かしていく。対向車のライトが目に入って次のカーブが右なのか左なのかわからない。たまに「動物注意!」の鹿が跳んでいる標識があってビクビクする。心臓に良くないのでたまらずコンビニに入った。一息ついてコーヒーとチョコレート、それに即席めんを買うと、緊張と恐怖と寒さでコチコチになっていた身体と心がほぐれて行った。結局、イートインで食べたそれらが平成最後の食事になった。なんだか寂しかった。家で母親と食事をすればよかった。

 さっきまで京都府で、右手に木津川が流れていてたのに、スマホで地図を見るともう三重県だった。コンビニのレシートにも三重の住所が印字されていた。

ツイッターでは去っていく時代について各々何かを言っていた。タイムラインを眺めながら担々麺をすすっていた。みんな知っていると思うしわざわざここで書く必要もないと思うがマルちゃん製麺はめちゃくちゃうまい。

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 この前見た『ゆかちゃんの愛した時代』という映画を思い出した。カフェで迎えた平成最後の夜に主人公が平成という時代を振り返るという30分ぐらいの映画。平成の「あるある」が、ふんだんに盛り込まれていて何度も「わかるわー」って心の中で呟いていた。ちょっとしたアハ体験だった。知り合いの人が監督をしていたからという理由で観に行った映画だけど、贔屓目なしで楽しかった。女優の主人公は平成に愛着があって去りゆく時代を惜しんでいるのだけど、机の向かいに座るマネージャーは平成が終わることにあまり関心がない。平成の思い出に浸る主人公とは対照的に、マネージャーは淡々と仕事の話を進めていく。それを見ながら客席で「そうだよなあ」って思っていた。テレビもツイッターもみんな平成のことを言っているけれど、元号に興味がない人も存在するもんな。「元号になんか関係ないぜ」とクールぶる自分もいるけれど、一方で令和を派手に祝いたい自分もいるし、平成をじっくり振り返りたい自分もいる。たくさんの自分を抱えながら時代の切れ間をバイクで走っている。

 三重の山を越えた。対向車は全くなかった。1台の車に抜かされたのと、レインコートを着るために停車している大型バイクを抜いた以外は誰もいなかった。心細くてこの道が合ってるのか不安だったけど、スマートフォンはこのルートが正しいのだと私に言った。この細い山道が国道で、しかも名古屋まで続いているとはにわかには信じがたかった。しかし進むしかなかった。

 さっきまで後続車両に追い立てられていた時は独りで走りたいと思っていたのに、今は孤独だった。誰もいない山道を一人で走るのは勇気がいる。暗い森から何かがこっちを見ている気がした。神様っているのかもなと思った。「動物注意!」の鹿がたくさんあって、ぶつかったら怖いなと思っていたらタヌキを引きそうになった。よく見えなかったけどイタチだったかもしれない。ハイビームにしても見通しが悪くて徐行した。下り坂なのにカーブがあって、スピードを出したまま対向車が来たら一発で御釈迦だろうなと思った。霧が出て来た。ハイビームに照らされた靄が私のバイクをかすめていく。不気味だった。山道はまだまだ続いていた。標高が上がったからか寒くなってきた。

 ふと、ネットで読んだ怪談を思い出した。エンストとかしたら嫌だなと思った。バイクの故障で山道で動けなくなった私は這う這うの体で一軒の家の明りにたどり着く。親切な老夫婦に一晩泊めてもらうことになるのだけど、彼らは実は元殺人鬼で、私は地下室で筆舌に尽くしがたい拷問を受けて山中に埋められる………あるいはこのまま山を下る道がアスファルトから砂利道へと変わり、道幅もどんどん狭くなる。妙だなと思いながらふもとに降りると家々は真っ暗である。走っても走っても山と田んぼばかりで明りがない。やっと見つけた光は派出所で、眠そうな夜番のお巡りさんに訊くと今は昭和30年だと言う。私は霧の中で64年前にタイムスリップしてしまっていたのだった………

 

 思えば去年の自転車旅行も夜に山道を走ったのだった。アップとダウンを繰り返して空を見上げると星がきれいだった。峠を越えると赤穂の街の夜景と夜の海ははきれいだった。その時も木々の間から誰がに見つめられている気がした。自分の存在が感じられないほどに真っ暗で、この道がずっと続いたら発狂するだろうなと思った。宇宙飛行士の人たちはすごいなと思った。真っ暗で何もない中を進んでいくのだから。『2001年宇宙の旅』の宇宙飛行士も最後は頭がおかしくなっていた気がするし、『インターステラー』のマットデイモンも孤独に耐えかねて理性を失っていた。

 山道を抜けると農村に出た。水を張って鏡のような夜の田んぼでカエルが大合唱していた。

 

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

 

四月三十日

 一一・四五AM

 再びガランドウな空間があらわれた。疲労がとれたあとに明るくもない暗くもない空間がノソットはい出してきた。非現実感がふっとあらわれる。

 明日はメーデー、どのように闘うべきか。闘うって? 何に対して、政府? 独占資本? ああ——。(ソノアト ポロリト ナミダヲナガストオモッタラ オオマチガイ)

 要するに理論家と組織的行動なのだ。私の欲しているものは。思い起せ、あの四・二八の御堂筋デモ!

 権力にはさまれての身動きとれぬデモ。あの屈辱感を忘れたのか。東京においては九七五名の逮捕者、自由とは闘いとるものなのだ。闘わぬものはますます圧しつぶされていくのだ。見よ、この部屋を、私は自由か。この社会は平和か。私のこの部屋に黒い帝国主義がおしよせ取りまいているのだ。権力は一枚の紙片で私のこの部屋を調べあげることもできるのだ。私のもっている自由とは、こんなものなのだ。自由とは闘いとるものである。

 機動隊員を殺すにはどうしたらよいか、そのためには民青を殺す必要があるのかを考えてみよう。「ろくよう」にいるとき隣りの学生がいっていた。バリケード、留置場にいるときが一番生きがいを感じると。法政大に機動隊が入り、日増しに弾圧は強まっている。恒心館にもいつ機動隊が入るやもしれぬという。文闘委の部屋に寝泊りしていると、敵との緊張感がビシビシとあり、彼のいったことが同感できる。

 

 一〇・五五PM バイトを終り部屋で

 学生と労働者との区別を拒否する。私は明日の労働者の団結を示すメーデーに参加する。「実践」こそが批判的思想を導くことができる。なぜならば、それは欺瞞を検出するのだから。

 

#57 自殺について05/06/19

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はじめに

 まず、読みたい人だけ読んでください。この文章はあまり気持ちのいいものではないです。自殺について書いた文章なのは題名でわかると思います。自殺した人に対して、残された人は思い思いのことを口にします。肯定的に言うこともあります。「信念のために死んだ」とか「この世界で生きるには優しすぎた」とか「国を守った」とか。ただ私は自殺をポジティブなものとはどうしても考えられません。もちろんその人にはその人の考えと状況があるし、その人の命の使い方について私がどうこう言うことではないのだけれど、やっぱり自殺はよくない。自分で自分の命を途切れさせるというその行為を肯定することはできません。かといって否定も出来ないのですが。

 以下本文です。読みたい人だけ読んでください。

 

 

本文

 原付を買った。さっそく旅行をした。真夜中の山道を走ったら本当に一人だった。

 私は旅が好きだ。旅の良いところの一つは、死を間近に感じられることだと思う。日常から離れて非日常に入ると、当然、住み慣れた家も部屋もベッドもない。自分で自分の生を間に合わせないといけない。

 ちっちゃなバイクで夜の国道を走る。自動車がどんどん私の右側を追い抜かしていく。私の体は風にあおられる。ヒヤリとする瞬間がいくつもあって、そのたびに私は自分で自分の命を守るというリアリティに触れて生と死を実感する。得体の知れないゾクゾクとした気分。小さい頃から死に魅せられてきた。

 包丁を胸に突き立てたらどうなるのか、この窓ガラスを突き破って下に落ちたらどんな気分になるのか。そんな想像を私はずっとやめられずに生きてきた。好奇心は罪ではないけれど、自分の自殺する姿を想像することはあまり趣味がいいとは言えない。それどころかかなり歪んでいる。でももしかしたら案外多くの人が想像するのかもしれない。

 ただ、私はどんなに思い詰めても、つらくても、リストカットすらできなかった。刃を立てる瞬間を想像しただけで体は固くなってしまうのだった。肌ににじむ血や、皮の間から覗く肉を想像するだけで表情がひきつるのがわかった。胃がぐらりと揺れて吐きそうになる。どこまでもつらい夜があっても、私は恐怖に勝つことができなかった。狂ったように歌ったり、大声を出したり、物を投げることで埋め合わせるしかなかった。臆病者だと思ってそんな自分を恥じたこともあった。もちろんその臆病こそが私を生かしたのだけど、当時はそんなことわかりっこなかった。理性を捨てた無鉄砲にあこがれた。

 小さい頃、自分が自殺することが怖かった。ひどい癇癪持ちだということはすでにわかっていたけれど、コントロールする方法がわからなかった。常に欲求不満を抱えているのに、学校や保育所のような大人がいる場所では「いい子ちゃん」を演じないといけなかった。家に帰ると学校とは違う自分が首をもたげるのがわかった。3歳下の従弟をいじめ倒した。祖母も母も誰も私のことを理解できなかった。自分のことを悪い子だと思っていたけれどどうすればいいのかわからなかった。結局私が考えついたのは自分で自分を罰することだった。

 

 

 大河ドラマで『新選組!』がやっていた。三谷幸喜が脚本を書いていたので面白かった。規律に違反した隊士が切腹を命じられることがあって、ドラマでは切腹介錯のシーンがあった。私はそうした「侍」の姿に感動した。かっこいいと思った。『新選組!』だけでなく、日本史には自殺を肯定的に描く物語が多い。敦盛を舞った信長のエピソードは本能寺の炎とともに美しく感じられるし、茶器と共に死んだ松永久秀の最後も豪胆で潔い。『新選組!』でも、堺雅人演じる山南敬助切腹するシーンも感動を呼ぶ演出になっていた。そうした自死を尊ぶ風潮は現在にも残っていると思う。『新選組!』を観ている私にとって、切腹はかっこよかった。自分の命を賭してまで守るべきものがある人々の生き方をかっこいいと思い、また美しいと思った。しかし今冷静に考えると「切腹」は単なる「自殺」である。死を悼むのはいいが、ただただ礼賛するだけだとしたらそれは健全でないと思う。

 

 

 ウラジオストクからハバロフスクにいく電車で男の人に会った。もらった名刺を見るに、彼は極東剣道協会の幹部らしくて(名刺にはdirectorと書かれていた)、つい最近にも東京の大学で練習試合に行ってきたところだと言った。見せてくれたスマホ画面には胴着をつけた数十人のロシア人と日本人が写っていた。大学の道場で撮った集合写真だった。彼は泉岳寺にある赤穂浪士の墓に行ったことを話してくれた。武士道を礼賛する剣道家の前で、私は何となく気まずさを感じた。別の文化に育った人が日本の歴史や思想を知ってくれていることはすごく嬉しいのだけど、武士道は好きではない。現代の私の感覚からすれば、赤穂浪士は単なるテロリストである。彼らの物語の肝となるのは、主君の仇を討った忠義心だけれど、まず殺人はよくない。人を殺した話が美談になるのはおかしい。最後に彼らは切腹させられるわけだけど、敵討ち自体に自分の命を払う価値があるはずがない。今とその時じゃ価値観は全く違うのは当たり前だけど、彼らの行動はまったくもって人間らしくない。上下関係の厳しい社会のせいで命を軽く扱いすぎていると思う。

 私はロシア人の彼に対しておおむねそんなことを言った。会話はそれで終わってしまった。赤穂浪士の話題で盛り上がると思っていたかもしれない彼には悪いけど、そこで自分の意見を言わないのは違う。

 

 

 ある日、私の母が乗った電車が人身事故に巻き込まれたせいで、保育所に迎えに来るのが遅くなったことがあった。いつもは5時台にくるのに、その日は6時過ぎになっても母は来なかった。一本の電話が入って、保育士さんが私に迎えが遅くなることを伝えた。保育所では6時になってもお迎えが来ない子どもはジュースとお菓子をもらえることになっていた。めったに食べられない甘いものが食べられるので嬉しかった。つい半時間前まで電車に閉じ込められていた母にジュースとお菓子で満足した私は言った。「おかあさん、あしたもおそくにむかえにきていいよ」

 ほどなくして私は「人身事故」というものの多くが自殺であることを知った。

 

 

 同じ自殺なのに侍の「切腹」と現代人の「とびこみ」では、全く異なる文脈で語られるのが不思議だった。一方は尊厳を守るための死であり、一方は忌むべき死であるように思った。ある日、新聞で学生が自殺したニュースを知った。中学生だったか高校生だったかの飛び降り自殺だった。年齢のたいして違わない「子ども」が自殺したことが衝撃的で、その後の一週間、死んだ女の子のことを考えていた。恐ろしいと思った他方、自分で死を選んだ行為は崇高なものであるように感じた。

 

 

 ある時、先生がみんなの前で私を叱った。私は立たされてみんなが笑った。恥ずかしかった。それまで「いい子ちゃん」で通して来たのにすべてが水の泡になったと思い、その女教師を憎んだ。厚化粧も、白髪交じりの髪も、全てが醜いと思った。私は彼女をにらみつけ、その目つきでまた怒られた。笑い声が聞こえる教室で私は確かに思った。「こんな先生、死ねばいいのに」

 すぐに我に返った。自分の中に湧いたその感情を恥じた。恥じるどころでは済まなかった。びっくりした。自分はとんでもないことを考えている。他人の死を願うことが許されるはずがない。そんな願望を抱くこと自体がいけないことだ。早く捨てないといけない。一瞬心に湧いただけの黒い感情に私は驚き、そして怖くなった。突然自分の知らない「私」が現れて教師の死を願ったのだ。自分が異常な人間だと思った。いつか殺人者や犯罪者になってしまうのではないかとさえ考えた。それは一瞬にして心に湧いた感情で、強いものではなかったけど、ある意味ですべてを変えてしまう力があった。優しい人間になりたいはずだったのに鏡をのぞくとそこには自分の知らない顔があって、私はゾッとした。

 他人に対して「死ねばいい」と感じたことを、誰かに相談したかった。だが、今と変わらず昔も臆病だった私は、相談する勇気すらなかった。他人に異常な子どもだと思われるのは嫌だったから独りで悶々と悩み続けた。かねてから、従弟に対する暴力を止められない自分がおかしいと日ごろから思っていたけれど、この一件を境に私は自分の暴力性が異常であることを確認した。そして自分を責めた。

 その日から叱られたり悪いことを考えるたび、自分を罰するようになった。壁に頭を打ち付けたり、壁を殴りつけたりした。これ以上悪い行いを出来ないように自分の体を椅子に括り付けようとしたこともある。体を痛めつける仏教の修行にもあこがれたし、絶食にもあこがれた。最終的に見つけた答えが自殺だった。むかついただけで人に「死ね」なんて思う度、そんな風に思う自分が悪だと思った。人の死を願うような子どもは死なないといけないと感じた。それが必然だった。

 でも死ねなかった。

 

 

 いつか自殺しないといけない、そう思いながらその後の何年間を生きた。母に怒られる度、祖母に逆上してしまった後、私はまた感情をコントロールできない自分にがっかりした。死なない限り、その致命的な欠陥は取り除かれないのだと考えていた。忌むべきドロドロしたものを心の底に忍ばせて生きているように感じた。人前で負の感情を見せてしまわないように誰ともしゃべらないように決めた時もあった。死なないといけないと思いながらそれでも生きた。生きるのをやめることは難しかった。そのうちになんとなく楽しくなってきて、夢とか好きなものができた。生きる理由ができた。

 ある日読んだある本に、「人間にはいろんな側面があってそのどれもが自分自身なんだよ」みたいなことが書かれてあった。それを読んで少し楽になった。

 

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あとがき

 整っていない文章ですが、書かずにはいられませんでした。読みにくくてごめんなさい。

 もしかしたら大勢の人には理解できないかもしれない。共感を得られないかもしれない。けれど世の中にはこんな人もいるんですと言いたかったし、もし仮に似たものを抱える人がいるとして、その誰かに届いたらいいなと思って書きました。おこがましいことです。そんな人いないかもしれないのに。

 この話は根が深いので、とりあえずここでやめます。また新しく考えたことがあれば書こうと思います。最後に、このテーマに合う曲を紹介して終わります。

 ゴールデンウイークは終わりますが五月病にはくれぐれも気を付けてください。ではでは。

 

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〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

五月二日

 私は人を信じているのだろうか。ひどく皮肉っぽくなっている自分に、昨日気づいた。私の人を愛する心、やさしさなんていうのは、自分を保全しようとする上でしか成りたっていないんじゃないか。国家権力を憎むように他の人間を憎んでしまっているのだ。

 沈黙は金

 心の中でも、余計なおしゃべりはするな。

 私は私の歴史をさぐっていこう。

 

 

 

#56 知多半島/アイデンティティ

 

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※1 このブログは#49の続きでもあります。興味ある人はこちらもぜひ読んでみてください

※2 最後にお知らせがあります。

shige-taro.hatenablog.com

 

 

 

 

217日(日)深夜

 名古屋にいた。映画祭が終わってから一人でご飯を食べていた。矢場町にある台湾料理屋味仙を出た時はもう遅くて、夜10時を回ったところだった。そこから歩いてブックカフェまで行った。伏見駅近くにあるLump Light Books Hotel1階にある24時間営業のカフェ。本当は銭湯に行きたかったのだけど銭湯はどこも閉まるのが早くて、結局行けなかった。まあ一日ぐらい風呂に入らなくても死にしない。カフェの2階から上はホテルになっていて、私が入った夜11時ごろには宿泊客と思われる人もいた、外国から来たと思われる人もちらほらいれば、大学受験の勉強をしている人もいて感心した。受験期にこんなカフェがあれば自分も勉強しただろうか、なんて考えたりした。その人は2時頃になってどこか暗闇に帰っていった。

 日曜日の夜。この時点ではまだいつ関西に帰るのか決めていなかった。明日の月曜日の夜かあるいは火曜日の午前中。どちらで帰るのか決めあぐねていた。バイトがあるから火曜日の夕方までには家についておきたい。月曜に帰ると、名古屋にいる時間は少なくなるが、家でゆっくり寝られるので余裕を持ってバイトに行ける。火曜に帰るなら寝不足でバイトに行く可能性が高ってしんどいかもしれない。明日名古屋に泊まるとしてもやはり同じカフェで過ごすだろうからだ。月曜日に帰るのがいいだろうと思った。夜を過ごすためだけにカフェにお金を払うのはもったいないし、ちゃんと寝てからバイトに行きたい。ネットを見ると20:30名古屋駅前を出るバスはまだ席が残っているようだった。お昼まで待って値段が安くなっていたらその時に予約をしようと思った。

文章を書いて友達に出す手紙を書き、YouTubeで音楽を少しとオードリーのラジオを聴いていたら朝が来た。外が明るくなって、トイレでさっと着替えてカフェを出た。何冊か本を読もうと思って入ったカフェだけれど、結局読まずじまいだった。 

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カフェ

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コメダ

218日(月)

 朝

 「犬も歩けばコメダにあたる」と言えるのではないかと思うほどコメダ珈琲が多い。コメダ珈琲が関西に進出してきたのは結構最近で、私はそれほどなじみがないのだけど、名古屋に来てその店舗の多さにびっくりした。モーニングが安くて、おいしくてびっくりした。店員さんも印象が良い人が多かった。週のはじまりの新しい朝、通りを歩く人はみなスーツの中で寒そうにしている。珈琲屋の中ではみんなうまそうにコーヒーを飲んだり新聞を読んだりしている。

 名古屋出身の人に聞いて、素敵なお寺と古本やの場所を教えてもらっていた。鶴舞上前津の間と覚王山にあるいくつかの古書店も気になっていて、一通り回ってから名古屋を去りたいと思っていた。でもその瞬間に本当に行きたいと思ったのは半田だった。祖父母が若いころを過ごした知多半島に行ってみたかった。半田は伏見駅から電車で1時間くらいで行ける。半田を観光してお昼を食べ、てまた市内に戻って古本屋を巡って、名古屋駅矢場とん味噌かつを食べてバスに乗って帰ろうと思っていた。半田にはミツカンミュージアムと赤レンガの建物があるということを映画祭の交流会で教えてもらっていて、半田ではそこに行こうと思った。運河と蔵を観て、神社でゆっくりして、昼ご飯を食べようと思っていた。新美南吉記念館にも行きたかったけれど調べると月曜はやっていなかった。

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モーニング

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金山駅

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大府駅で乗り換え

 地下鉄で金山駅まで出て、そこでJRに乗り換える。JR金山駅の構内は平日の午前なのに人がたくさんいて、南に行く人や北に行く人で混雑していた。差している陽光が気持ちよかった。武豊線に乗って南へと行く。電車の最後尾に乗りこみようやくバックパックを下す。冬の空は青がうすくて、靄がかかっているように見えた。その中をやわらかい陽の光が分散していた。

 大府(おおぶ)駅で乗り換えて電車はまた南へと進む。ローカル線で車両は二つしかなかった。車窓から見えるのは冬の田んぼの景色。ずっとむこうまで枯野が広がっていた。その向こうには線路に沿って川が流れているらしかった。 

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半田駅

  半田駅に着く。10時を過ぎたところ。駅の跨線橋がとても古かった。指示書きを見るに、JRの駅に残っているものの中で最も古い跨線橋ということだった。

 とりあえず東の方へ歩く。蔵と運河を見たかった。振り返ると駅前はがらんとしていておばあさんが地図を見ているだけだった。バス停も郵便ポストも寂しそうに佇んでいた。ミツカンの本社とミツカンミュージアムがあった。100円で入れるので入った。100円で入れるのは一部だけで、もうちょっとお金を払うと全館を回るツアーに参加できるみたいだった。でも時間も金もないからやめた。結論から言うと100円でも十分楽しめた。お酢ができる過程や昔の製法が学べて面白かった。結婚する気も子育てする気もさらさらないけれど、子供ときたら楽しいだろうなと思った。酢をお土産に買おうかと思ったけれど重くなるのがイヤでやめた。 

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ミツカンミュージアム

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ミュージアムの展示

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運河と蔵

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業葉神社

 お昼

 運河沿いを歩く。接近する春をを感じるような陽気の中を、あてもなく歩いたり好きな角度で写真を撮ったりなにか考えたりするのは気持ちがよかった。日本庭園や神社、お寺があって、古い家がたくさんあった。おなかが空いたのでご飯屋さんを探したのだけど月曜日だからか休みのお店が多かった。グーグルマップでいい感じのお店を見つけて、そこにたどり着いては休業日の張り紙を見つけて他の店をまた探す、というのを何度か繰り返しているうちにJR半田駅の周りを一周していた。魚太郎という新鮮な魚とバイキングを食べられるローカルチェーンの店を見つけて、かなり心が惹かれたけど、お店は大行列だった。月曜の昼なのにお年寄りの団体客が多くて、すぐにお昼にありつけるわけではなさそうなのでやめた。歩き回った末にキッチン粕屋というところでハンバーグを食べた。夫婦がやっているお店で、少し不愛想に思ったけれど、味はおいしかった。おいしいおろしハンバーグを食べながら、他の人の食べている日替わりランチを見て、そっちにすればよかったと後悔していた。日替わりAランチの味噌カツはおいしそうに見えた。せっかく愛知に来たのに定食屋の味噌カツを食べないなんて馬鹿なことをしてしまった。食べ終わったハンバーグの皿の横で夜行バスの予約をした。直前だったので少し値段が下がっていてラッキーだった。

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おろしハンバーグ定食

 赤レンガの建物は月曜休館だった。楽しみにしていたのに残念だった。何もなしに引き返すのもしゃくなのでちょっと足を延ばして名鉄の駅まで歩いた。名鉄住吉町駅の近くには住吉大社があって、そこは新美南吉のゆかりの地だそうだった。彼の作品は「ごんぎつね」と「手袋を買いに」しか読んだことがなかったけれど、同じ知多半島出身者ということで祖母が新美南吉のことをよく話していたのでなんとなく気にはなっていた。新美南吉記念館が休館なのはすこし残念だった。

 

 名鉄赤い電車が来て名古屋方面に向かう電車に乗り込んだ。数時間過ごした地方の街はすぐに窓からはみ出して後ろに流れて行った。祖父母の過ごした場所と時間、もっと言えば自分の祖先が歩んできた道のりが遠ざかっていく気がした。知っている親戚がいるわけではなく、見覚えのある景色があるわけではなく、ただただ古い家と高い空があるだけだったけど、列車がスピードを上げた時に感じたのは「淋しい」という気持ちだった。車窓にずっと映る冬枯れの田んぼを見ていると、市内の古本屋をめぐるという午後の計画は今やどうでもいいものに思えた。私は、基本的に自分のアイデンティティは遺伝子よりも育ち方や考え方に由来していると思っている。自分を作るのは自分だと強く思う一方で、「血」とか「家系」とか言葉が目の前にちらつく度にそうしたものにすがりたくなる時がある。ちょうど今日はそういう日のようだった。おしゃれな古本屋で本を探して運が良ければおしゃれなカフェで本をつらつら読むという計画は、お刺身についてくるツマや、甘ったるいバンドが歌う失恋や、フーディーの紐みたいに、本質的ではないもののように思えた。まあ「本質的って何?」ってきかれたら困ってしまうけれど、でもとにかく私の心の中で「古本屋巡り」は急速に輝きを失ったのだ。

 要は「旅をしている感」に浸りたかったのだと思う。寝不足だった。

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車窓

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太田川駅で引き返す

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河和駅のバス乗り場

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日間賀島へ行く船

 夕方

 名鉄の最南端は河和(こうわ)駅という名前だった。祖父母が学生時代使っていたはずの駅だから名前を聞かなかったはずはないのに、まったく覚えがなかった。

段々電車が南へと進むうちに乗客の人もお年寄りが多くなってきて、知り合い同士で喋っている人が多くなってきた。若者が少なかった。ほとんどいなかった。

駅構内にはスーパーとカフェ、バス乗り場しかなかった。ロータリーもなくすぐに幹線道路という駅だった。駅前も郵便局と銀行とちょっと離れたところにある町役場しかなかった。バスに乗って豊浜、あるいは半島最南端の師崎まで行こうかと思ったけれど、時間もお金もないので駅前をうろうろして飽きたら帰ることにした。読む本もあるし、書きたいこともあった。映画祭と交流会、そしてこの知多半島旅行。いろんなものを見て、話して聞いた。情報に触れすぎたためにちょっと疲れてもいた。港へ行くと、ちょうど日間賀島伊良湖岬への便が出るところだった。アナウンスがあって人が乗って、その後で船は白い波と共に向こうに消えていった。テトラポットをたどって海岸線を歩いた。海の水は透き通っていて、西宮の海よりもきれいに思えたけどそれは旅の魔法だったかもしれない。波と春霞の向こうにぼんやりと見える対岸に目を凝らしながら歩くと砂浜があって子どもたちが遊んでいた。学校が終わった近所の小学生が自転車で走り回ったり鬼ごっこをしたりしていた。なんだかほっとした。久しぶりに子供が遊ぶのを見た気がした。私はようやく重いリュックを下して海を臨む階段に腰かけた。散歩中の犬が私のところに来て飼い主に叱られて去っていった。霞がかった空気の中で夕方の太陽の光は柔らかく反射しているように見えた。読みかけの山田詠美のエッセイを読んだ。30年も前に書かれた文章は今読んでも先進的で、私が日々Twitterでみる主張とよく似ているものもあった。その反面、エッセイに出てくる日本社会の悪いところは現代とほとんど変わっていないように思えて少しがっかりした。本を読んだり、疲れたら海を眺めたり子どもの声に耳を傾けたりしているとすぐに1時間半ほど経ち、帰る時間になった。

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三河湾

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読書

 夜

 帰りの電車は一瞬で知多半島を縦断した。本当にすぐだった。何を食べるか迷った挙句、名古屋駅の地下街「エスカ」にある矢場とんに入った。わらじとんかつ定食。味噌を塗ったカツの美味しさはさることながらソースも酸味と甘さが丁度よく美味しかった。カツをおともに食べるご飯は最高で、2回おかわりした。お土産を買って、時間をつぶすために入ったマクドナルドで文章を書いて、時間が来たからビックカメラの前で夜行バスに乗った。 

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わらじとんかつ定食

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名古屋駅

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いっぱいのみかん

223日(日)

「おじいちゃんと連絡が取れない」と母から電話があったのが昨日の夜。バイト中だった。常勤山に断りをいれて私が電話をかけるとじいちゃんは出た。家にいるようだった。母が電話をかけた時間は外を松葉杖で移動していたからすぐに取れなかったのだと言う。声を聴けて安心した。

 夜勤明けの今日の朝、母と二人で祖父の家まで行った。脊椎管狭窄症になった祖父は割によく動いていた。本当は安静にしないといけないのだけど、そういう動かずにはいられないところが若くいられる秘訣なのだろうかと感心したりしていた。母が買い物に行き、料理を作る間、私は庭の木に登って夏蜜柑を獲っていた。200個以上あるオレンジ色の球体は獲っても獲ってもきりがないので援軍が欲しかった。助っ人をTwitterで募ったけれど誰も来なかった。結局、夕方まで一人で黙々と木登りを繰り返した。高いところの実は高ばさみで獲った。終わりごろにようやく助っ人が来た。お返しにいくつか蜜柑を持って帰ってもらった。

 知多に行った話をしたら、おじいちゃんは昔話をしてくれた。おじいちゃんが育ったのは豊浜という場所で、地図で見ると知多半島のほとんど南端の町である、高校は半田高校で、毎朝10キロの道のりを自転車で河和駅まで走り、そこから名鉄で半田まで通ったのだという。半田高校に通っていた話は多分何度も聞いた話なのだけど忘れていた。半田に行った今、ようやく実感が湧いて、これからは忘れないだろうと思った。よくよく聞くとおばあちゃんも半田高校の卒業生だった。今もそうなのかは知らないけど、当時勉強のできる知多半島の子は半田高校に行っていたみたいだ。豊浜の隣町で育ったおばあちゃんはどうやって半田高校に通ったのだろうかと気になった。やはり自転車だったのだろうか。

 半田におじいちゃんの兄弟(姉だったか妹だったか)が住んでいることもきいた。そんなこと今まで聞いたこともなかった。故郷の話は次第におじいちゃんの昔話になった。高校のこと、浪人していた時のこと色々聞いた。野球部を三日でやめて卓球に打ち込んだとか、英語をラジオで勉強したとか、浪人してもどこにも受からなくて泣きながら河和駅で家族に見送られたとか。何度も聞く話もあれば初めて聞く話もあった。ついついご飯を食べたりお茶をのんだりしているとついつい長居をしてしまった。バスに乗って帰った。ブルーがかった照明のせいで薄暗いバスの中は静かで、みんなうつむいているように思えた。私は窓の外を車の光が流れていくのをぼんやりと見つめていた。

 

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

四月十五日(火)小雨降る日

「ろくよう」には、もう恥ずかしくていけない。私のすべてをひっかけちゃったもの。見ず知らずの隣りの学生風な男に、「自然をどう思いますか、青い空、広い海」なんて話しかけちゃったんだから。全力投球なんてかっこいいこといってるけど醜い。

 酔っているうち常に私は他者を他者として認めようとした。自己を自己として認めるといっても、肉体的には確かに存在しているが一体何なのかよくわからない。私は地道に追求していかなくてはならないと思っている。

 後ろをふりかえるな。そこの暗闇には汚物が臭気をはなっているだけだ。

「ろくよう」に独りで呑みだしてから私はよく笑った。そして泣いた。泣き笑いのふしぎな感情ですごした。

 あのウェイターのおじさんに Do you know yourself? と、いったら、Yes, perhaps, I know myself. ——といった。私は I don't know myself. と、いって笑った。

 

 

 

 

〈お知らせ〉

 このブログを読んでる方へ

 どういう人が読んでいるのか知りたいのでオフ会を開催したいと思います。 以下の時間、大阪梅田、茶屋町サンマルクに座っているので、気になる方はふらーっと立ち寄ってください。 ブログをそんなに読んでない人でもいらして下さるとうれしいです。ただ会ってみたいという気持ちだけで大歓迎です。

 青いキャップとデニムジャケットで奥のトイレ近くの席に座っているのが私です。

 

時間:5/18(土)10:00〜13:00

場所:サンマルクカフェ大阪梅田茶屋町

合言葉:「レモン・キャンデー」

#55 友達のバンド

 

 

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 221日(木)

 ライブに行った。心斎橋パンゲア去年9月に伊集院香織の弾き語りに行って以来、久しぶりのライブハウスだった。

 二日酔いから起きてスマホを見るとバンドマンの友達からラインが来ていた。「今日ライブじゃけえ、前売りのリストのとこに名前書いとるけえ、来んさい!」いや、これは嘘。彼は広島弁では喋らないし同じ市の出身である。本当は「都合が良かったら来て!」みたいな誠実で整ったラインメッセージだった。正直迷った。二日酔いでしんどかったからだ。家でまた寝ようとも思ったけれど、今日行かなければ二度と彼のライブには行けない気がした。もう夕方の5時で家を出ないといけない時間だった。でも頭がまだぼんやりしていてゆっくりご飯を食べた。ゆっくり用意をしていたら時間が無くなって、家から駅まで走った。心斎橋のライブハウスまでは電車で一時間。座席に座って本を読もうと思ったけど眠くて、スマホばかり見ていた。

 難波駅から歩く。道頓堀も心斎橋もおしゃれでうるさくて汚い。人間が生きている感じがする。お酒も煙草も飲めないけど、この街の居酒屋に入ったらなにか面白いことが起りそうだ、なんて思う。たどり着いたライブハウスも戸を引くとやっぱり煙草の匂いがして、髪を染めた受付の人がチケットとドリンクの券をくれた。もう1つ扉を開けるとそこはもう別世界。ステージがキラキラと光ってどっかんどっかんとドラムが鳴っていて、ボーカルの人がきれいな声で歌って、耳を澄ますとベースのブンブンという音も聴こえた。音楽に合わせて体を揺らすのだけど、コアな音楽ファンが多いだろうこの場に自分はそぐわないというか、場違いな感じがして、初めはあまり音楽に集中できなかった。周りにいる人たちも知り合い同士で来ているようで一人なのは私ぐらいらしかった。それでも体を揺らしていると次第にリラックスしてきて、女性ボーカルもちゃんと耳に入るようになったし、変わった位置にあるクラッシュシンバルが揺れるのも見えるようになった。

 

 大きい音に触れると心が動く。知らないうちに泣いていた。自分でも不思議だと思う。体は恐怖を感じているのか、それとも喜んでいるのか。ライブに行って拡張された音を聴くと、毎回自然と感情にうねりが起こる。涙がすうっと流れて、またすぐに乾く。

 いいバンドだなと思ったけれど、どういう風にいいバンドなのかわからなかった。ボーカルの声がきれいだとか、声が有名な誰々に似ている気がするとか、ドラムが楽しそうに叩いているとか、そんな断片的なことは様々に思うけれど頭の中に湧いたどの言葉も目の前のバンドを形容するのには十分ではなくて、諦めてやっぱり音楽っていいなあと思うだけにした。音楽で表現できないことがあるから言葉が生きて、言葉で表現できないことがあるから音楽が生きる。映像も絵も匂いもみんな同じだと思う。私は音楽を形容できるほどに音楽を知らないし、言葉も知らない。ただ「よかった」とか「好みではなかった」としか言えない。でももっと音楽を言葉で表現できたらそれはそれで楽しいだろうと思う。でもそれが幸せなのかはわからない。

 人のまばらな薄暗い空間も頭上を回るミラーボールも私にとっては異世界で、ライブの勝手もわかっていなかったし、そもそも今演奏しているバンドが何という名前かもわかっていなかった。タオルを首にかけた人影が右の方から歩いてきて私の前方でステージの音楽を聴き始めた。シルエットだけでわかるくしゃくしゃ頭が誘ってくれた友達だった。演奏が終わってからボーカルが何かしゃべってからはけて、また次のバンドが出て来た。チューニングとか何やらで時間があいて、その間にそのベースの彼と喋った。今のバンドが「SEAPOOL」という名前だということも知った。ジンジャーエールを飲むと炭酸が喉の奥で踊った。演奏前の友達は自然で、余裕があるように見えた。かっこいいなと思った。

 次のバンドもよかった。音楽っていいなあとまた思った。こんなにいいバンドが売れていないのはどうしてだろうとも思った。音楽が好きな友達が昔私に行った「売れるにはビジュアルも大事」という言葉を思い出した。音楽は音楽なのに、音楽をしたいから音楽をしているのに、音楽を続けるには見てくれも大事なんてそんなの不条理だと思った。私はきれいごとが好きなので、「本当に音楽が好きな『真の』ミュージシャンなら売れるとか売れないに関係なく音楽を続けるに違いない」と思っている。けれど、実際はそんな単純な話ではないと思う。好きなことを続けるにも、生きるにも、何にだってお金は必要だ。

 技術的な良しあしとか、○○というバンドの○○という曲に似ているとか、そういうのは全くわからなかったけど、聴いていていい音楽だなと思った。音楽の知識がたくさんあったらライブはもっと楽しめるのだろうか。

 

 友達のバンドはその次だった。チューニングをしにバンドのメンバーがステージに出てきて、10分か15分くらいの間、曲のかけらをかき鳴らして音を合わせてまたはけた。

 また照明が消えてバンドが出て来た。それが彼のバンド「ザ・リラクシンズ」だった。水色のさわやかなポロシャツを着たドラムがステージから降りて客席に入った。「もっと前に来いよ!!」みたいなことを言ってて、お客さんは1020人しかいないのに「盛り上げてこうぜ!」みたいなのをマジのトーンで言ってた。そんな絵にかいたようなバンドマンの言動は実際に目の当たりにするとちょっと怖かった。観客を煽って盛り上げていくステレオタイプ的なバンドマン達は、「ゆとり世代」とか「草食男子」とかそんな言葉とはまったくかけ離れていてかっこいいと思った。

 曲を演奏しているというよりも、彼ら自身をステージで表現しているように私の目には映った。ドラムとベース、ギターボーカルの三人は確かに音をかき鳴らしているのだけれど、ステージでとても動いた。何千人も集まるような大きなステージで演奏しているかのように動き回るのだ。それも無理に演じているわけではなくて自然に動いているのだ。昔のバンドみたいにステージの上でひっくり返りながらベースをかき鳴らすベーシストはもう私の友達ではなくて一人の表現者だった。線の細いボーカルもスティックをくるくる回しているドラムも、誰に強いられることもなくただ音とその向こうにある人間を表現しているのだった。かっこよかった。少し、いやかなり、うらやましかった。

 一応リラクシンズをいくつか予習して行ったのだけど、YouTubeと実際は違っていた。ライブハウスで聴いた音はうるさくて生き生きしていて否応なしに観客を惹きつけるものだった。いくつかの曲は確かに家のパソコンの前で聴いたのと同じものに違いないのだけれど、圧倒的な迫力のために全く異なるものに聴こえた。ボーカルの声はほとんど聞こえないし、ベースの彼はまるで観客がそこにいないかのように集中した顔で激しく動きまわっていて、ドラムも時々立ち上がったり叫んだりスティックを回したりしていて、大事なのはその場所にいるという事実だけなのだという思いが私の頭の中には浮かんでいた。

 

 リラクシンズで集中力と体力を使い果たした私は次のバンドのことはあまり見れなかった。一応体を揺らしながら聴くのだけど、頭の中では他のことを考えていた。音楽に言葉は必要なのだろうかということをぼんやり考えていた。そんなことばかりずっと反芻していると意識は目の前のバンドから離れて行ってそのままライブは終わってしまった。物販でボーカルの彼からリラクシンズのCDを買った。それからベースの彼と少し言葉を交わしてライブハウスを出た。

 難波駅26番出口は人気が無くて無機質だった。そこだけソビエトSF映画の世界のようだった。家に帰ると母親が買ってきた団子が台所にあった。

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

四月九日

 空っぽだなあ。人からみると変った生活していて彼らをせせら笑っているのに、せせら笑っている自分と自分との距離があるのを感じる。その自分は何にもない空っぽの自分である。独り、独りだと思っているのは錯覚なんだろうか。そのことで自己を防衛する殻に閉じこもっているのかもしれない。

第二の性」を読んだら、どうしたって(性交で一体になったとて)人間は独りなんだと思った。恐ろしい。

 

 

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