シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#54 一日目/『みかんの丘』

 

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 4月8日(月)

 目が覚めて思ったのは「筋肉痛がひどい」ということだった。ふくらはぎは大したことがないけれど、太ももの前、——大腿四頭筋というのだろうか?——そこがとても痛い。昨日はフットサルをした。新大阪まで行って先輩と会い、知らない人に交じって人工的な緑の上を走り回った。日曜日の午後、そこで初めて会った人たちと一つのボールをめぐって遊ぶのは奇妙な経験で高校の部活とは違うぎこちない楽しさがあった。意外と体力は続いたけれど、肺がダメだった。金曜日にオールをしたバーではみんな煙草を吸っていて、私も知らないうちに煙を吸ってしまっていたみたいだった。ちょっと走ると咳が出た。同じチームになった人が話しかけてくれて、学生時代のサッカー部の話をしたりした。初対面のすっきりしない感じはあったけれど、話すことは意外に多かった。

 筋肉痛は疲労とともにすぐやってきたくせに、ゆうべは眠れなかった。明日からの学校が怖かった。まだ初日も始まっていないのにやる気がなくなったらどうしようとか、落ち込んでしまったらどうしようとか、順調に進級した友達と出くわした時にどうしようとか考えていた。笑われたらどうしようとか、教室に入った時先生は、上がってきた新しいクラスメイトはどんな反応するだろうとか。本当にしょうもないことを考えていた。怖かった。笑われたくなかった。

 Twitterを見たら今日のアーセナルエバートンに負けたみたいで、ますます気持ちが滅入った。タイムラインをスクロールしたらこんどはアサド軍の化学兵器で殺された家族の写真が出てきて余計眠れなくなった。明日起きれないのは本当に洒落にもならないのでYouTubeにあるオードリーのラジオを聴きながら目を閉じることにした。それでもやっぱり眠れなくてYouTubeにあるフットボールの乱闘の動画を見ていた。さっき読み終わったリディア・デイヴィスの『話の終わり』のことも頭の隅で考えていた。「彼」に関する小説を書いている「私」が過去の出来事を思い出し、小説や自分を取り巻く環境を見つめたりする話で、日常の些細な考え事や記憶、思い出が積み重なり、物語というより「私」の思考がそのまま本になったようなものだった。

 

 8時に出て原付バイクで箕面の山奥まで向かう。今日はジーンズの上にオーバーズボンをはいた。暖かかった。昨日部屋の隅っこから出て来たコンバースのベージュ色は擦れるとシャカシャカと音が出るのだった。滑りやすい素材で、バイクの上に座っていると体重でおしりが少しずつずれ落ちるのだった。この前白バイにつかまってしまったので今日は速度を抑えて走った。それでも1時間ちょっとで大学に着いた。これなら去年からバイクで通えばよかった。わざわざ自転車で走っていたのが馬鹿みたいだ。

 コンピューター室で履修登録をして、2時間目ギリギリに滑り込む。例年と同じ年度始まりの授業。同じ文法を習い、同じ練習問題を解いた。3回目ともなると授業はらくちんだった。3回も同じ年を繰り返している事実が突然ナイフのように心をえぐりつける瞬間が何回かあって泣きそうになった。今年で定年となる先生は今年もまた丁寧に説明してくれた。練習問題を解く机を回りながら、私の新しい髪型のことを言ってくれた。両隣りも3年目に突入していて、それはそれで楽しくて、もちろん楽しいだけじゃだめなんだけど少し安心した。「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」っていうのは確かにそうだけれど、無理にしんどい思いをしなくてもいいのだ。もう開き直って肩肘張らずにやろうと思っていた。いつもと同じように教室を出た。授業終わり、ちょっとだけ先生と話した。またパソコンの部屋で履修を最後まで済ませて、ご飯を食べることにした。

  グランドを見下ろす階段に座ってお弁当を食べようと思ったけど、人がいたのでやめた。場所を変えて桜の木の見えるコンクリートの段に座って食べた。寮からキャンパスへ向かう学生が二人、自転車ですいと前の道を下って行った。

 

 月曜日は2限で終わりなので図書館で映画を観ることにした。これから予習復習が厳しくなるとわからないけど、できる限り映画を観ようと思う。今日DVDコーナーで見つけたのは『みかんの丘』というグルジアエストニアの共同製作の映画だった。紛争の続くアブハジア共和国に残り続けるエストニア人の老人イヴォが主人公で、みかんを収穫している同じくエストニア人の隣人マルゴス、そして彼らが助けたチェチェン人の傭兵アハメドジョージア人のニカが主な登場人物だった。なぜエストニア人がカフカスにいるのか、私は詳しい歴史は知らないけれど、コーカサス地方はアジアとヨーロッパの境にあって複雑な歴史を持った場所だからあり得る事だなと思いながら観ていた。紛争が起きて、アブハジアに住むエストニア人は故郷に帰ってゆくのだけれど、イヴォはその土地を去ろうとしないのだった。

 アフマドとニカは同じ衝突で負傷し、同胞を失った者敵味方として、お互いに憎しみ合っている。殺しあうことも辞さない彼らに、家主のイヴォは言う。「この家にいる限り私の許可なく殺しあうことは許さない」

 敵同士、憎しみを隠そうともしなかったアハメドとニカが、同じ家で暮らし同じ食事をする中で、感情を通じ合わせていく過程は映画が映画となる上で当然必要で、それは頭ではわかっているのだけど、やはり感動してしまった。ただの兵士だった者が民族や人種から離れ、1人の「個人」として振舞うようになるのはいつでもドラマチックで、セルゲイ・ボドロフ監督の『コーカサスの虜』でも、スパイク・リーの『セントアンナの奇跡』でもそうだった。

 チェチェン人、ジョージア人の同胞意識の強さや、土地をめぐる出口の見えない論争は、日本で私が目にすることはほとんどなくて、「韓国人は××‼」なんて言う人は確かにいるけれど、まだ映画の中で繰り広げられた景色ほど血なまぐさいものではない。(もちろん、そうした言葉が殺戮につながることはルワンダでもボスニアでも、なんなら関東大震災の時の日本でも証明されている。だからそうしたヘイトにははっきり対峙しないといけない)

 イヴォにとっては戦争はもうすでに日常になってしまっている。人が殺し合い、死ぬというそのドラマも老人にとってはもう慣れっこのようである。それは長引く戦争のせいだけでなく、年齢を重ね物事に動じないイヴォの性格にもあると思う。彼の物語は映画が始まる前からずっとそこにあって、エンドロールの後も続く。彼がその土地に留まり続けるその理由も明らかにされないままに映画は終わった。エンディングのジョージアの歌がとても良かった。

 

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www.youtube.com

 

 映画の余韻に浸りながら誰もいないグランドを横切って駐輪場まで歩いた。茶色い土は昨日の雨で少しぬかるんでいた。でこぼこのアスファルトに散った桜はきれいだった。

 

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〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

四月六日

 何ごともなく一日が過ぎてゆく。本だけが私のたより。

 今日もバイト。仕事が忙しく非常に疲れた。帰りに思いきりソナチネをひいて大声で歌をうたって着替え、いつものように歩く。歩道の靴音をきき、車のライトをみながら鼻歌をうたって帰る。どこかでウイスキーをのみたかったが帰りが遅くなるのでやめる。

 なぜ生きているのかって?

 そりゃおめえ、働いてメシをくって、くそを放って、生活してるんじゃねえか。働いてりゃよォ、おまんまには困らねエし、仕事の帰りにしょうちゅうでもあおりゃ、それで最高よ。それが生活よ。

 自殺をしたら、バイト先では、ヘエあの娘がねエと、ちょっぴり驚かれ、それで二、三日たてば終りさ。かあちゃんやとうちゃんは悲しむ(悲しむ?)じかもしれねエな。牧野、彼女はどうだろうな。哲学的にいろいろ考えるかな。

 ヒトリデ サビシインダヨ

 コノハタチノ タバコヲスイ オサケヲノム ミエッパリノ アマエンボーノ オンナノコハ

 

#53 世界の末っ子

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〈詩のコーナー〉

世界の末っ子

 

まだまだまだまだまだまだ

準備ができていないんだ

まだまだまだまだまだまだ

駆け出すにはまだ早いよ

 


好きなものを好きなだけ

嫌いなものは飛んでゆけ

いつでも夏のキリギリス

どこまで許されるだろう

 


みんながおれを縛るけど

自由なままでいたいんだ

 

 

 

まだまだまだまだまだまだ

固まりたくはないんだ

まだまだまだまだまだまだ

何にもなりたくないんだ

 


時間はすでに息絶えた

昨日はとうに過ぎ去って

今日には今日の花が咲く

明日はどうなることだろう

 


みんながおれを縛るけど

自由なままでいたいんだ

自由なままでいたいんだ

 

〈ひとこと〉

20歳を超えたのにまだまだ思春期で、将来について何も選択したくなくて、ただただ日々をのんべんだらりと楽しく過ごしたいけれど生きていくにはそれだけではどうやらダメみたいです。

何かを決めるっていうことが最近は怖くなってきました。いつでも若くて、可変で、無限の可能性を持ったままでいたいです。

 

当方、海外旅行中なので付録はお休みです。

 

#52 夕日に向かって歌う歌

 〈詩のコーナー〉

夕日に向かって 

あなたのお母さんのことを聞きました

あなたがいつもより饒舌だから私はうれしくて

あなたがいつもより笑うから私もいつもより笑いました

それが先週のことでした

 

あなたのお母さんのことを聞きました

あなたが饒舌だった理由がいまわかりました

もしかしたら不用意な言葉であなたを傷つけたかもしれません

ちょっと反省しています

 

あなたのお母さんのことを聞きました

「ご冥福を」とか「ご愁傷様」とかそういう言葉はなんだか他人行儀で

それにいつもそんなにしゃべるわけじゃないから

私はなにも言えないでいます

 

あなたのお母さんのことを聞きました

伝えたいことがたくさんあるのに、言葉が見つからなくて途方に暮れています

仕方ないから誰かの言葉を口ずさんでいます

結局なにも言えないままです

 

夕日に向かって歌う声があなたに届けばいいのに

  

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【ひとこと】

言葉がなかった時代は、今よりも相手の気持ちに簡単に寄り添えたのでしょうか。それとももっと難しかったのでしょうか。

誰かこの歌に合わせて作曲してください

 

 

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

三月八日 曇天の寒い日

 お久しぶりです。ごぶさたしました。

 二月の最後の一週間は、それこそ何もせずにコタツに入ったきりの自慰的生活でした。そしてこの一週間、三月一日から夜のアルバイトや本を読む気が起りまして、ただ今、小田実「現代史Ⅰ」を読んでいます。高橋和巳にひかれましたので、「堕落——内なる荒野」を読みました。

 下宿の人たちも帰省して数少なくなってまいりました。牧野さんも、二月下旬に東京に帰り、時々思いだして寂しく感じております。人間はしょせん独りであると、こんな状況だから(あるいはそれとも無関係に?)身にしみて感じております。

 二、三日前、太宰を二、三頁読んだ後でポットのコードを首に巻いて左右に引張ったりしましたが、別に死のうと思ったわけでなく、ノドを圧迫したときの感触を楽しんだだけでして、しめあげられたノドは息をするにもゼイゼイと音をたてまして、妙に動物的に感じました。

 私はアフリカ的なジャズとか土人の叫び声が好きです。ミリアムマケバ(注 黒人歌手)とかゴリラ、そしてコヨーテなどが好きです。彼らには強烈な「生」がある。私は今生きているらしいのです。刃物で肉をえぐれば血がでるらしいのです。「生きてる 生きてる 生きてるよ バリケードという腹の中で」という詩がありましたが、悲しいかな私には、その「生きてる」実感がない。そしてまた「死」の実感もない。もっとも「死」が実感となれば生も死も存在しなくなるのですが。

 アルバイトをして、ウェイトレスに投げかけられた優雅な微笑に、恥ずかしげに嬉しげに微笑んで、生きる勇気が得られたと思っているチッポケな私であるのですが。

 

#51 ハテナを投げろ!

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 そして迎えた新年。うちは家族で集まるとすぐ坊主めくりをするのだけど、正月一日の午後になって「ボウリングに行きたい」なんて弟が言いだして。「ああめんどくさいこと言うなよ」と思った私が口を開ける前に父が「ストライク! いい考えや!」なんて叫んで、「いや全然ボールだよ、余裕で見送れるボール球だよ」って私は食い気味で返すけれども誰も聞いていない。弟は「いい加減坊主めくり飽きたー」と続けて、今度も「こちとらあんたよりも5年も長く坊主めくりしてるのよ。飽きるなんて生意気言ってんじゃない」と私が返すそばで、母まで「ボウリングいいわね」と同調して、30分後には最寄りのボウリング場で靴を借りていた。なぜか父は学生服を着ていて「お父さんが高校生の頃から使っているボウリング場だからなー」なんて訳の分からないことを言っている。ああうんざりだわ、と天を仰ぐとボウリング場に来たはずなのに空が見えた。頭上をボーイングが飛んで行った。この前ニュースでやっていた新型のやつかもしれない。

 父と私、母と弟で分かれて対抗でボウリングをした。どこで練習したのか弟はうまかった。投げ方も様になっていてサウスポーから放たれたボールは簡単にピンをなぎ倒した。生意気だ。高校に入ってサッカーをやめてぶらぶらしていると思ったら、さてはこいつボウリングで遊んでいるな。モラトリアム持て余し男子高校生め。勉強をしろ。この父と母がいつまでも元気でいると思ったら大間違いだからな。なんて思いながら横目で父を見ると、こっちは持ち方も投げ方もてんでなっていない。100%正真正銘のまごうことなきガーターである。オーバーなアクションで悔し顔を作る父の服はいつの間にか黄色に縦じまのタイガースのユニフォームに替わっていて、私は「ちょっとやめてよ、ここ名古屋よ、中日ドラゴンズのおひざ元よ」と言おうとしてやめる。さっきから誰も私の話を聞かないからだ。母は案外うまくてスペアを獲った。はじかれたピンが奈落の底に消えた。「うわあ、いきなり点差がついたなー」なんて頭を抱えているのは父で右手にスーパードライの缶を持っている。いや、ナイターを見ているんじゃないんだからさ、なんて心の中でぼやく。

 で、次が私の番。ボールがなかなか出てこなくて変な間が空いた。「母さんのボール、随分向こうまで行ったんだね」なんて弟がとんちんかんなことを言う。暗闇の向こうから「シュー」っという音がしてようやくボールが来たと思ったら出てきたのはつるつるとよく光る「ハテナ」だった。頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになって、家族の顔を見回す。ところがみんなはさもそれが当然のことであるかのように佇んでいる。「早く投げろよ」と言う弟。私はそこでようやく気が付いた。「ああ、これ夢なんだ」夢ならいいや。好きなことを好きなだけできるから。

 レーンに向き直るとピンに違和感があった。白い体に赤色の首輪をしているのはいつもと同じなのだけど、首輪の下に黒いまだらが二つ三つあるのだ。「お母さん、ちょっと眼鏡貸して」と言って眼鏡をかける。思った通りで、黒い斑点は文字だった。「単位」とか「就活」とか「卒論」といった文字がピンに書いてあって私はそれを倒さなくてはいけないのだった。失敗は許されない。ふうっと息を吐いた。精神統一。ずっしり重たいハテナを見ると、ご丁寧にも三つ穴が開いて指を差し込めるようになっている。父のスーパードライはメガホンに変わっていて、プラスチックの打撃音とタイガースのチャンスマーチがボウリング場にこだまする。他のレーンでボウリングを楽しんでいる人たちには聞こえていないみたいでほっとする。

 モーションをとって投げる。いい感じでリリースされたハテナは思い通りの軌道で進んでいくんだけど、同時に想定外の出来事が起きて、私はヒェッなんて情けない声を上げてしまった。ピンから突然にょきにょきとペンギンみたいな足が2本生え、よちよち歩き始めたのだ。顔のないピンたちがハテナの軌道を避けようと逃げるのは不気味な光景だった。何本かのピンが逃げ切れずに倒れ、「ニーーー!」と情けない声を上げた。倒れたピンが画面に大写しになる。それぞれ「卒論」「単位」「恋愛」「失せ物」と書いてあった。どうやら私は今年、無くしたものが見つかり、恋愛が成就し、無事に単位がそろって卒論も受理されるということらしい。私はもう一度レーンの奥の白いペンギンたちに目を凝らす。「卒業」というピンがあった。ということは卒業するにはあれを倒さなねばならないということか。配置が替わったためにさっきは見えなかったピンも見えた。「結婚」と「出産」という文字が飛び込んできてぎょっとした。「恋愛」をクリアできたというのにまだ「結婚」には至らないというのか。なんて不条理な世の中だ。ハテナが手元に戻ってくるのを待つ間じっくりピンを凝視した。中央右に構える「就活」はしっかり倒さないといけないなと思った。それからさらに右横にある「成功」もぜひとも倒しておきたい。何をもって成功と呼ぶのか非常に気になるところであるけれど、私の人生は私のもので、しかも一度きりしかないのだから成功するに越したことはないだろう。「+1」というピンも見える。これは倒したらもう一回投げられるってことなのかな。わからないのは「そば」というピンだ。側なのかお蕎麦なのか。倒したとして誰かの側にいられるということなのかお蕎麦にありつけるということなのか。このピンだけ本当に訳が分からない。倒しても倒さなくてもよさそうだ。でもそういう風に思うと、心の中に天邪鬼が現れる。倒してみて何が起こるか知りたいという好奇心も湧いてくる。

 返ってきたハテナはさっきよりずっしり重くなっていた。これが年月の重みか。昨日より今日、去年より今年の方が大事なのだ。

「紗季がんばれー」とかすれ声で母が叫ぶ。普段は聞かないかすれた声にびっくりして振り返ると母はワインをどこからともなく取り出してラッパ飲みをしていた。横で弟がニヤニヤ笑っていた。こっち見んなボケなす。相変わらず父はメガホンを叩いている。バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバン。

 少し緊張していた。振りかぶって投げた時ハテナを掴んでいた手のひらは汗で濡れていて手元が少し狂った。予定と違う軌道で進むハテナ。逃げ惑うペンギンの出来損ない。手が滑ってリリースが速くなった分スピードがついて、ピンたちは逃げる時間がなかった。また聞こえる「ニーーー!」の三重奏。倒れたピンが短い脚を空中にジタバタさせているのを見ると若干申し訳ない気がしないでもなかったが、これは私の人生である。「妥協はするな」ってスティーブ・ジョブズも言っていたはず。

 スクリーンに映った文字は「+1」「そば」「出産」。ん? 出産! 出産?

 いけない。優先順位の低いピンばかりを倒してしまった。しかも「出産」ってなんだよ。私は結婚なしで出産することになるのか。そんな風に育った覚えはないんだけどな。「就活」と「卒業」という絶対に倒さねばならないピンを倒せなかったのに「そば」なんてよくわからないピンを倒してしまった。唯一よかったのは「+1」を倒すことができたということ。これがなかったら悲惨だった。まさに地獄に仏渡りに船。残る一投を大事にしよう。

「おい紗季、結婚なんてお父さんはどっちでもええねんでー」と酔った父が叫んでいる。父は怪しくなるとすぐ関西弁になる。子供に戻る。

「うるさい。出産したのに結婚しないなんて馬鹿なことがあるかよ」と叫び返す。

「紗季、別にいいのよ。あなたの人生を生きてーー」と言ってハハハと笑う母もすでに素面ではない。

 戻ってきたハテナはまた一層重くなっていた。手汗をしっかりぬぐい、右手でハテナを掴む。ずんと重くてまた置きなおす。

「王様ははだかだ!」と少年が叫んだあとに流れたであろう空気と同じくらい重いハテナ。投げるには集中力が必要だった。

 父は「六甲おろし」を歌いだし、母はワインボトルをラッパ飲みのまま飲み干した。自分の頭に血が上って顔が赤くなるのがわかった。私は今試されている。夢でも余裕がないなんてどうなっているのだろう。ここで「就活」と「結婚」を倒しておかないと、現実の世界でも就活と結婚がうまくいかなくなる気がした。

「姉貴、就活と卒業、倒さなくていいのかよー」と言ってヒューっと指笛を吹いた弟の顔が無性にむかついてくる。にんまりとした顔が私の目を捉えて離さない。カーっと上った血はまだひかず、得意満面の弟に向かって「うるせえ! ほっとけや!」と叫んだ。怒りと恥ずかしさのままに私はハテナをむんずと掴んでシャカリキで振りかぶった。絶対にあのピンを倒さないといけない。ふうっと息を吐いてまた吸って吐いてまた吸って。息を吐くのと同時に左足を踏み出してハテナを持った右手を後ろに引く。重くて肩が外れそうだ。右足を上げて重心を前に移動させる。右足をおろすはずが、あっと思う間もなく滑った。ブーっというブザー音。「失敗」の二文字が脳裏に浮かんだ頃、体はすでに宙を舞っていた。眼の端でハテナがガーターに突っ込んでくのが見えた。

 

 肩をポンポンと叩かれていた。知っている手だった。

「紗季、年越し蕎麦の具、何にするね? 鶏肉とにしんがあるけど?」「うーん」と私が呻くとやわらかい手は叩くのをやめ、スリッパのペタペタという音が台所の方へ去っていった。私はこたつで寝てしまっていたようだった。眼をこすって時計を見ると、まだ大晦日11時半を過ぎたころだった。テレビではダウンタウンがお尻を叩かれていて、それを見ながら父が餅を食べていた。傍らにはスーパードライがあった。「そういえば紗季、さっき大掃除したらピアノの下から万年筆出て来たぞ」そういって父はジャージのポケットから私の名前の入ったパイロットを出した。「これ、無くしてたやつだろ」

「ありがとう」と言って受け取る。と同時に台所に向かって叫ぶ。「お母さん、にしんそばがいい」「はーい」と返ってくる声。

 弟はテレビ画面に映るムエタイ選手を真似してキックの素振りをしていた。履いていたスリッパが飛んでいった。

 

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月二十四日(月)

 私には「生きよう」とする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これはニ十歳となった今までズットもっている感情である。生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない。

 私の体内には血が流れている。指を切ればドクドクと血が流れだす。本当にそれは私の血なのだろうか。

 

#50 ドービニーの庭

〈詩のコーナー〉

 ドービニーの庭

 

自転車に乗ってやって来た街で

ゴッホの絵を見ている

盛り上がる黄色青緑
かつて絵を描いた人がいて

今絵の前にいるぼく

 

100年前のフランスのどこかの庭

目の前に広がる草原には

自転車だけじゃたどり着けない

額縁に近づいてゆく

ゴッホのいた場所に立つ

 

ゴッホが立っていた場所にぼくがいて

ゴッホの絵を見ている

画家はもう行ってしまった

残った絵が語る一陣の風

ゴッホのいた場所にいる

  

 

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【ひとこと】

友達に借りた詩集が素敵で、読んでいると自分も書きたくなって書いてみました。

小学校の頃、詩の音読の宿題が好きで、自分も詩を書いて参観日に発表したりしていました。

あの頃の詩はどこに行ったのでしょうか。

 9月に行ったひろしま美術館で観たゴッホの絵を観て感じたことを詩に書いてみました。ゴッホのことが好きな人にはこの歌もおすすめです。

 

www.youtube.com

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月二十三日(日) 晴

 二月十七日頃を境に、このノートを書くときの私の態度が変化している。以前はこのノートに、胸につまった言葉を吐き出す、ぶっつけることに意義があったのだが、クラブの人や友人達と話すことにより、その対話の中に自分を正面からぶっつけることにより、このノートにはその意義がなくなってきた、以後、二、三日書かずにいたのは、そのためである。その後の文章は意識化されたものとなって文面に現れている。

 注意しなくてはならないことは、吐き出しぶっつけるのは常に己れ自身に対して行うものであるということである。他の人間に対しては、いくばくかの演技を伴った方が安全である。

 それからノートには、その日の主な行動、事象、読書の内容を記録しておくと、後の理解の補助となる。ノートを読んで感じたのだが、イメージが狭小である。詩の勉強の必要性を感じる。

 

#49 おれの春巻き!!

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 大須にじいろ映画祭に参加していた。今日は朝10時から夜8時過ぎまでたくさん映画を観ていた。会場は名古屋の大須演芸場名古屋市営地下鉄鶴舞線(水色のライン)の大須観音駅から歩いて10分ぐらい。いや10分もかからんか、5分くらい。

 大きいスクリーンと大きい音で映画を観るのはかなり久しぶりで、それこそ前回のブログで書いた「あの頃、君を追いかけた」を11月に観て以来だった。随分前に知り合いが「映画館には映画後の余韻に浸れる部屋が欲しい」みたいなことをツイッターで言っていて、その時の私は「○○さんはよっぽど感受性が豊かなんだなあ」なんて他人事みたいに感心したけれど、よくよくわが身のことも考えると決して他人事じゃないのだった。昔からライブ会場や映画館なんかに行くと、私の感性は大爆発を起こして収集がつかなくなる。高校3年生の夏休み、近くの映画館で「善き人のためのソナタ」という少し前のドイツ映画が上演されていて、「世界史の勉強にもなるから」とかなんとか口実を作って観に行ったんだけどまあ素晴らしい映画で、夏の終わりまで引きずってしまった。いっぱいまでひねった蛇口みたいに涙が出て、帰り道でも自転車を全力でこぎながら「わーーーーーーー!!」なんて叫んでいた。映画に受けた衝撃をうまく表現しうる言葉が見つからず、ただただ意味のない言葉を叫ぶしかなかったのだ。

 私の感受性をそんな風に揺さぶった映画はけっこうたくさんあって、例えば「ララランド」を観た後には高校の同級生にいきなり電話をかけ30分ほど抑えきれない感情を受話器の向こうへぶちまけてしまったし、松岡茉優の「勝手にふるえてろ」を観た時は、映画館のある梅田のスカイビルから駅まで歩きながら主人公への共感を抑えきれなくて、梅田のビル群に向かってため息をつくやら叫ぶやら大変だった。書き出すと枚挙に暇がないのだけれど、鑑賞後に感情がメルトダウンした映画には、他にも「Beyond Clueless」「アメリカン・スリープオーバー」「さよならも出来ない」「A Strange Love Affair with Ego」「コーヒーをめぐる冒険」などがある。そうした映画は「自分にとって大事な映画」とほとんどイコールで、本当はもっともっと映画のタイトルをここに連ねたいけれど時間がないのでやめておく。とにかく私は、すばらしい映画を大きなスクリーンで観てしまうと、最低一週間は余韻に浸って何もできなくなる。だから最近はあまり映画館に行かない。行くにしても誰かと行くようにしている。誰かと感想を共有できると、とりあえず落ち着くことがわかったからだ。

 その点、映画祭はいい。みんなで同じ映画を共有し、鑑賞後に感想を交換できたりするからだ。上映後にもトークがあったりして、監督や役者さんから映画製作の裏話が聞けたりする。そうすると心の中のもやもやは多少小さくなる。たくさん映画を観ていると疲れてしまって、余韻に浸るだけの体力や思考力が残っていなかったりするのもいい。疲労感がむしろ心地よい時もあるのだ。今日もだいたい9本ぐらいの映画を観て——短編が多くて長編は3本ぐらい——グロッキーになってしまった。「ありがとうございました。来年も来ます」と映画祭のスタッフの人に言って、演芸場を出るとぐうーーーっとお腹がなって一気に疲労感と空腹感がやってきた。教えてもらった味仙という台湾料理屋に行くことにした。

 

 

 味仙矢場町店。日曜日だからか、演芸場を出た時点で、大須商店街のほとんどの店は営業を終えようとしていたけれど、矢場町の中華(はたして「中華料理」と「台湾料理」というのはどのように違うのでしょうか?)は大繁盛だった。中ではたくさんのテーブルにたくさんの人が座っていて、ひっきりなしに店員さんが動いていた。私は台南でOと二人で入った小籠包の店を思い出した。台湾は今ランタン祭りの季節である。SNSで流れてくる映像を見ながら「台湾にまた行きたいなー」なんて思っている。

 味仙入り口近くには椅子で待っている人もて、一方で勘定を済まして出てくる人もいて、一人だった私は案外すぐにテーブルに座ることができた。「12番のテーブルどうぞー」と言う日本語もそうなのだけど、ぱっと見た感じで海外から来た従業員が多いのがわかった。日本に働きに来た人の過酷な労働環境に関するツイートをこの頃よく見かけるので、この店で働いている人はどうなんだろう、なんてことも考えてしまった。

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 台湾ラーメンという写真からしてスパイシーな料理が人気らしいのだけど、今夜は24時間営業のブックカフェで過ごす予定で、だから匂いのつく料理はなるべく避けないといけなかった。悩んだ末、五目焼きそばと半チャーハンを頼んだ。とにかくお腹が空いていて、食べたいものを頼むと自然と炭水化物が二品になってしまった。今日、映画の合間時間はご飯をゆっくり食べるには十分でなくて、朝からお好み焼きを二つ食べただけだった。大須の商店街ではアルミホイルに包んで売っているお好み焼きが240円で売られていた。二つの店で合間ごとに一つずつ買って食べた。ふわふわだった。

 空腹は最大の調味料なんて言うけれど、本当に今夜の焼きそばと半チャーハンは美味しくて、瞬く間に胃の中におさまってしまった。その間もひっきりなしに客が来ては帰り、ホールで働く人たち——観察しているとベトナム、中国、インドから来た人が多い印象だった。もっとも顔だけでは確かなことはわからないけれど——は忙しくて、厨房から料理を受け取ってこっちのテーブルに届けると、またすぐに向こうのテーブルの客が「生ビールひとつ!」と叫ぶといった感じだった。まだ足りなかった私は春巻きを頼むことにしたのだけど、店内はますます混んできて店員さんに声をかけるのも難しくなった。やっと店員さんを一人捕まえて「春巻き一つお願いします」と言う。注文して一息ついた私はこの二日間の出来事をノートに書き始めた。昨日の交流会でいろんな人から聞いたこと、今日映画を観て感じたこと。諸々のことを忘れないように、とりあえず箇条書きで書き出した。あらかた書き出してもまだ春巻きは来なかったので、今度は明日の予定を立てることにした。大阪にはどうやって帰るか、知多半島に行くとしたらどの町に行くべきで時間がどれだけ必要か、おしゃれな古本屋さんは市内のどこにあるのか。そんなことを調べてけっこう時間が経ったのにまだ春巻きは来ない。どうもオーダーが通っていない感じである。頼んでから20分近く経とうとしていた。このままで帰ろうかとも思ったけれど、私は今どうしても春巻きを食べたい。仕方ない、店員さんに声をかけるか。

 こういう時、自分が店員だったらどう思うか、ということを必ず考えてしまう。「注文が通っていない」というのはお店の人からしたら「謝らなければいけない事案」なわけで、私が店員なら後ろめたさを感じずにはいられないだろう。だから店員さんに声をかけるのはちょっとつらいものがある。でもどうしても春巻きを食べたい。背に腹は代えられない私は、近くを通ったインド-ヨーロッパ系の顔の店員さんに声をかけた。その人が申し訳なさそうな顔をするのが怖くて、努めて明るく振舞ったけど伝わっただろうか。ほどなくもう一人の店員さんが確認に来て、もう一度同じことを言った。「まあ、気にしなくて大丈夫っすよー」みたいなニュアンスを込めたけど、想いが伝わっていたら嬉しいなと思う。嘘みたいにすぐ春巻きは来た。中にキャベツが入っていて、しゃきしゃきした触感だった。きつね色の皮もぱりっとしていた。注文がすんなり通っていたらこんなに美味しくなかったかもしれないな、なんて考えてた。

 

 

 注文が通っていないというだけですぐに腹を立てる人を知っている。そんな人と居合わせてしまうと、私の心までがりがり削られてしまう。特に相手が女性や外国人だというのを見るや否や、とたんに高圧的な態度になる人を見ると冷や水を浴びせられた気になる。私の周りにそんな人がいない分、街で出くわすとショックは大きい。沸々と怒りが湧くけれど、最後はこの国に対するがっかりとか悲しみにつながっていく。どうにかならんかなと思うけど、みんな余裕がないのだと思う。

 この前も十三でつけ麺を食べていると、ある店員さんが、替え玉を出さないといけないところに間違えて煮卵を出してしまっていた。ネームプレートを見るにその女性は中国人で発音を聞いた感じでも日本語ネイティブではないようだった。顔は日本人と言われてもわからないような顔で、高校の陸上部の後輩に少し似ていた。煮卵を出されたのはスーツを着た男の人で、仕事の合間に食事に来たようだった。むすっとして「これ頼んでない」と小さく鋭い声で言った。女性の店員はその声を聞き取れなくて、しばらくの間うろたえていた。湯切りしていた店主が状況を察してささっと出てきた。そこでようやくスーツ男は状況を説明したのだった。 同じ日本人として恥ずかしかった。相手が中国人だからか、女性だからか、コミュニケーションをとることを早々にあきらめて敵意だけをにじませるその顔に、私は張り手を浴びせたくなった。いい歳してふくれっ面してるんじゃねえ!! こっちの飯までまずくなるだろ!!

 やっぱりご飯を食べる時は笑顔を忘れずに余裕を持っておきたい。幸せなことに私は大抵のものを 美味しいと感じることができるようなので「美味しかったです」という言葉を忘れないようにしている。でもそれはそれで迷惑かもしれないなとも思う。会計を終わらせた私が「美味しかったですごちそうさまでした」と言う度に彼らは「ありがとうございます」とか「またお越しください」などと返さないといけないからだ。それでもそういった言葉が暮らしを豊かにさせるのだろうと何となく信じている。

 だから今夜も慌ただしい店内に「美味しかったですー」なんて言い残して味仙を後にした。

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 ※この記事は#56に続きます

shige-taro.hatenablog.com

 


 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月十七日(月) 晴

 毎日、立命には行っているものの、ただ見ているだけである。昨日と一昨日はノートを書く気がしなかった。一昨日は疲れすぎてであり、昨日は人と話して言いたいことを言ってサッパリして、それ以上の追求をノートで試みなかったからである。このノートは欲求不満の解消のためにあったのか。(ちっぽけだよ!)

 大体私は正直で人を信頼しすぎている。外にあるときは、何らかの演技を常に行い続けなくてはいけない。従順なおとなしい娘と映るよう、おまえはまだまだ演技が足りないぞ。

 十五日に広小路に行くと、学生二名が私服警官に逮捕されたことに対する抗議デモをやっていた。河原町通や梨ノ木神社には機動隊が待機しているし、それこそ一触即発の気配であった。

 十六日三・〇〇PM立命に行くと、十数人の中核が雨にぬれ意気消沈した様子でデモッており、民主化放送局のデッカイ声が挑発してガナリたてている。カメラでデモやバリケードをうつす。全共闘からフロントが脱退した。これからの動きが注目される。

 

#48 あの頃

 

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 11月の最初の日、Kちゃんと映画館に行った。TOHOシネマズ梅田。映画をわざわざ梅田で観るなんて久しぶりだ。春休みに友人の若林君と観に行って以来である。その時は「シェイプオブウォーター」と「グレーテストショーマン」を観た。「シェイプオブウォーター」は良かった。ギレルモ・デル・トロ版の人魚姫だった。

 その日の映画は「あの頃、君を追いかけた」だった。山田裕貴齋藤飛鳥が出ている映画だ。齋藤飛鳥が乃木坂の人というのはさすがに知っているが、私はアイドルに疎い。ミュージックステーションに出ているアイドルの中で、どれが齋藤飛鳥なのか、なんて訊かれたら多分答えられない(映画でようやく彼女の顔を把握した)。原作が台湾の小説で、元々台湾でも映画化されたものだというのは知っていた。私は「藍色夏恋(原題:藍色大門)」や「私の少女時代(我的少女時代)」、「若葉のころ(五月一號)」といった台湾の青春映画が好きだ。その手の日本映画と比べて登場人物一人ひとりがしっかりと描かれている気がするからだ。もちろん私が台湾という国が好きだと言うのもある。

 映画を観に行くことが決まる数日前、フェイスブックを開くと高校の時の倫理の先生の投稿が目に入った。先生は「あの頃、君を追いかけた」を観に行ってその感想をフェイスブックで投稿していた。それを読んで気になっていたので、Kちゃんが電話のむこうで「あの頃、君を追いかけた」がいいと言った時、私は大賛成だった。

 

 2時間弱の映画では、山田裕貴齋藤飛鳥の関係が高校時代から大学生、社会人になるまでの10年にわたって描かれていた。時期はだいたい2008年から2018年ぐらいまでの間。主人公たちも最初はガラケーで電話していたのが、途中でスマホを持つようになったし、物語が現代に近づくとスマホも新型になっていった。小道具がよくできていたのでそういう変遷を見るのも楽しかった。

 それから東日本大震災のシーンもあった。もう8年も前のことだけどやはりショッキングだった。物語の中では、お互いが連絡を取って安全を確かめ合う重要な場面になっていた。

 一応日本映画なのだけれど、台湾の匂いがたくさんした。主人公たちが通う高校の制服のデザインも台湾映画でよく見るやつだった。胸のところに学籍番号が刺繍してあるのだ。大学生になった二人が観光地で願い事を書いたランタンを空に上げるシーンもどうやらロケ地は台湾であるようだった。

 スクリーンの中で、山田裕貴10年にわたって齋藤飛鳥のことを想い続ける。彼らの関係がまだあいまいだった高校時代。それから大学での遠距離恋愛。別れてからも、彼の中で彼女は大切な存在なのである。

「しっかしなあ」と私は思う。果たして10年も同じ人のことを好きでいられるだろうか、なんてひねくれた目で考えてしまう。まあそんな風に思うのは私が飽きっぽい性格だからで、10年も同じ人のことを考え続けている山田裕貴が本当はちょっと羨ましい。一人の人をずっと考えるなんてステキなことじゃないか。そんなこと私には到底できない気がする。まあもちろん映画は虚構でしかないのだけど。

 

 映画を観たのと同じ頃、高校3年生の時のクラスLINEが動いた。卒業後4年が経ったこのタイミングで一度集まってみませんか、ということだった。同窓会委員のNが呼びかけていた。私は「予定が合えば行く」というズルいスタンスである。

 同級生の顔を思い浮かべてみる。クラスLINEにいるのは37人。LINEグループに入っていない人もいるから実際のクラスはたしか40人。あれ、41人だったかも。おそらくもう二度としゃべらない人も何人かはいるだろう。行こうとは思って一応予定は空けているけれどちょっと不安である。    

 長いこと会っていなかった誰かと再会する時、私はいつも、その人との間にあった関係性を取り戻そうとする。自分が彼彼女とどう話していたか、距離感はどうだったか、そういうのを思い出そうと記憶の淵をのぞき込む。仲の良かった友達ならすぐに距離感を思い出せるのだけど、たまにチューニングがうまくいかない時があって、そういう再会は終始挙動不審になってしまう。耳を傾けても何か言っても、足元がおぼつかない。彼らの話を上の空で聴きながら、頭の中で、その再会は失敗になってしまったと感じ少しだけ落ち込む。そのがっかりを気付かれないように何も感じていないようにふるまうことも忘れない。本当は、できれば同窓会でそんな思いはしたくない。でもそういうのを含めてが自分の人生だと思う。他は知らないけど。そもそも高校時代からシャイで、あまり人とは話せなかったのだ。

 いろいろ変わってもう昔のようにはしゃべれない人もいる。ブログとかでいろいろ書いちゃったから、私には声をかけにくいという人もいるかもしれない。当然だと思う。私だってブログで書いた人に会うと(もちろん名前を出したわけではないけれど、勘がいい同級生はわかるような書き方になっていることもあるから)ちょっと居心地の悪さを感じるかもしれない。全世界で絶賛大流行のSNSもそういうところがあって、TwitterInstagramFacebookも確かに人を近づけてくれたけれど、他人の見たくない側面まで簡単に覗けるようになってしまった。感じなくてもよかったはずの気まずさを感じてちょっと難しいところもある。なんかの記事で「ハイレゾ社会」なんてふかわりょうが言ってたけど本当にそうだと思う。見なくてよいものも聞かなくてよいものも全部こっちに伝わってきてしまう。

 

 あれだけ同じ時間を過ごした部活の友達でさえもう何年も会ってない気がする。「部活を引退したらみんなでカラオケに行く」というのが私のささやかな夢だったのだけど、結局卒業までに実現することはなかった。後悔している。仲が良かったから、これからも継続して連絡するのだろうと思っていたけれど、実際はそんなこともなく、たまに個人個人で連絡を取り合うぐらいである。映画みたいに10年も思いが続くなんてことはなさそうだ。一人また一人と社会人になり、大人になるにつれて、段々連絡をとることもなくなってしまうのだと思う。ちょっと寂しいなと思う。でも仕方ないよな。

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月十二日

 眼鏡をかけて一週間程たつ。眼鏡ほど邪魔で不便なものはない。眼も疲れるし、すぐ曇るし鼻の上に重量感がつきまとう。

 私の顔は、目はパッチリと口もと愛らしく鼻筋の通った、いわゆる整った部類に属するが、その整った顔だちというやつが私には荷が重い。大体人は整った顔だちに対し、まるで勝手なイメージと敵意をもつ。眼鏡をかけると私の顔はこっけいでマンガである。眼鏡によって私は人のおもわくから逃れられることができた。また私は眼鏡によって演技しているのだという安心感がある。

 姉は日大の紛争で、弟は受験体制の中で、独占資本というものの壁にぶちあたっている。現在の私を捉えている感情は不安という感情である。