シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#45 死人にくちなし

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 1114日の夜勤。前々から読みたいと思っていた本を読み切った。読むと夢中で、ほとんど一晩で読んだ。

 高野悦子『ニ十歳の原点』。おばあちゃんからもらった本。亡くなる数か月前のある日、おばあちゃんは本棚の中身を捨てる本と捨てない本に分けていた。ごみ処理場行きが決定された紙袋の中から私が救いだした中に高野悦子の本もあった。

 おばあちゃんは本にカバーをかけることなんかしない人で、それに本棚は日が差す場所にあったから、ページはもうすっかり茶色くなって、鼻を近づけると古書特有のにおいがした。

 数日前に『ライ麦畑でつかまえて』を読み終わっていた。サリンジャーが描いた主人公は純粋でありたいと思うあまりに、世の中の欺瞞や矛盾に敏感な少年だった。彼は自分が「汚れる」ことを禁じ、社会と折り合いをつけることを拒否していた。それはつまり、大人になるのを拒否したということとほとんどイコールだった。彼は他人とうまく関係を作りたいと思っている一方、高いプライドのせいで、相手も自分をも許すことが出来ず孤独を抱えている、そんな悲しい話だった。私はまるで自分を見ているような気がした。

 おばあちゃんに教えてもらったり、あるいはネットで調べたりして『ニ十歳の原点』がどんな本かというのはある程度知っていた。立命館大学に在学していた筆者が1969年の1月から6月までに書いていた日記。その日記を残して20歳の彼女は鉄道に飛び込んだ。読みながら私は、彼女が誰の意見にも影響されない自分の意見を、確固たる自己を確立しようともがいているように思えた。その内面の格闘の末、彼女はだんだんと孤独を深めていくのだった。

 私たちのような人間は、自分だけの思想、誰にも影響を受けていない自分だけの信念を持ちたいと心のどこかで思っている。でもそれは本来不可能である。どれだけ鍛錬を積んでも、どれだけ頑張っても、我々は物事を、全くの純粋な目線で物事を見ることはできない。育った環境や教育、読んだ本によって我々の精神は形成されるからだ。「100%の純度」を求め続けても答えはでない。頭でっかちのまま周りを見下すようになってしまう。ありのままを受け入れて行かないと破滅してしまう。精神病棟に入ったホールデン少年や高野悦子のように。

 1969年の高野悦子は当時の世の中——沖縄の問題、安全保障の問題、ベトナム戦争自衛隊の墜落事故——に漠然とした怒りを持っている。学生運動の大論争の中で、自分が何もしない傍観者であることに彼女は我慢できない。やがて彼女は体制に反抗しようと行動を起こし、やがて機動隊と対峙する。

 活動に加わる中で彼女はたくさんの本を読み、たくさんの知識を得ようと格闘する。たくさんの人と意見を交えることも大切にしないといけないとも思う。ただ彼女はそんな同志との間に距離を感じることもある。もちろん書いたことが全てではない。思っていて書かなかったこともあると思うし、まだ頭の中で漠然としていたために書けなかったこともあると思う。

 反体制という立場に立つことにした彼女は、自分が体制の中で育ったことをはっきりと自覚している。彼女の父親は公務員であるし、通っていたのも県内の進学校である。そもそも四年生大学に通っていること自体彼女が「体制」の中で育ったことを表しているのではないか*。そうした自己矛盾を彼女は論理化せねばならないと感じる。しかし結局論理化は最後まで書かれないままで終わる。恋愛のことを綴ったり、自傷行為を繰り返すうちに段々とニヒリズムに走って行く日記。傲慢でともとれる記述も散見されるようになる。

*彼女が大学に入学した1967年、四年生大学への進学率は12.9%で、女子だけだと4.9%である。

 沖縄、安全保障、戦争、自衛隊状況は似ている。今の日本は1969年の日本からそう遠くないところにあると思えるほどだ。違うのは現代の学生が政治的主張をしないようになったことぐらいだと思う。『ニ十歳の原点』は日記だから、その日その日の出来事で内容やテーマがころころ変わる。毎日のエピソードや記述を自分と結びつけて考えると、私の中にあるものは50年前に生きた大学生の中にもあったのだと思う。高校数学でやったベン図と同じように、その逆もあるのだと思う。

 けれどもまあ、それらは全部あとから推測したことでしかない。私は彼女の遺した日記のいくつかの箇所が好きだけど、共感もするけれど、それは全部一方的なのだ。読んだ後「会って話してみたかった」と思ったし、「自分の持っているのと同じ怒りや無力感を持っているのかもしれない」なんて思ったりもしたけれど、全部一方的なものだ。ほとんど「崇拝」みたいなもので、「学生闘争の中で悩み死んだ女子大学生」を自分と結び付けてみようと都合のいい解釈をしている醜悪なものなのかもしれない。どんな時にも死んだ人と会話することはできない。

 

 

 

〈付録~50年前のきょう~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、このブログでも書きましたが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月二日(日) 曇のち時々雨

 一歩、自分の部屋から足を踏みだすや否や私はみじめになる。電車の中で、繁華街で、デパートの中で、センスのない安ものの洋服を着た不格好な弱々しい姿をしているのに耐えられなくなる。美しく着飾った婦人に対する嫉妬、若い男に対しての恥ずかしさ、それらが次から次へと果てしなく広がり、みじめさはドンドン拡大する。

 

#44 「せつない」のありか

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『せつない話』という本を読んだ。私の好きな作家、山田詠美が集めた「せつない」短編たちを光文社が1993年に出版したものだ。国内外の作家が書いた14の短編たち。私はそれを先々週の金曜日に天神橋筋商店街で買ってついこないだ読みおわった。吉行淳之介の「手品師」という話で始まり最後はボールドウィンの「サニーのブルース」という話で終わる。どれもせつなかった。もちろん、一口に「せつない」と言っても様々で、失恋もあれば孤独もあり、家族の死もあった。複雑で言葉にできない感情の揺れもあれば、私には全く理解できない話もあった。

 山田詠美を知ったのは高校3年の時だ。秋が深まりセンター試験が近づいてくると、現代文の授業ではもっぱら先生が作ったセンター試験の模擬問題が配られるようになった。そのプリントを早く終わらせれば自習時間になるからみんなさっさと片づけようとするのだった。職員室でも長老の部類に入る現代文の先生は優しくて、「みんな受験で忙しいだろうから、聞きたい人だけ授業を聞いたらいいよ」というスタンスだった。だから私たちは罪悪感を感じることなく国語以外の教科を内職することができた。

 冬に入る前、「実力考査」という名の、成績にはあまり関係ない、入試前の腕試しのようなテストがあった。現代文の先生が出したのは山田詠美で、問題はその文章だった。彼女の短編がその時の私の精神状態にぴったりとはまってしまったのだ。テストなんてどうでもよくなって私の手は止まってしまった。もしかしたら感動で泣いたかもしれない。こんなふうに書ける人がいること、それから山田詠美の名を知らなかったことに驚き、また少なからず嫉妬した。

 次の週、私はブックオフに行って山田詠美の『ぼくは勉強ができない』を買った。一息に読んだ。私と同じ高校生の主人公が考え悩み、答えをみつけようとする様子が短編集の形で描かれる。大きなストーリーがあるわけではなく、それぞれの章ごとにテーマがあって、主人公が思案する、そんな構成だったと思う。自分の頭で考えることの重要性や、生きていく事に正解も不正解もないんだぜということが書かれていたと思う——と、書きながらけっこう忘れていることに気づく。また読もう。

 

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 大学生になって初めての旅行は神奈川と東京だった。新幹線でまず横浜に行き高校時代の友達と集まった。その後一人で江ノ電に乗って相対性理論を聴きながら由比ヶ浜を歩いた。東京では小学校時代の友人を訪ねて一緒に神保町を歩いた。カレーと古本の町で、私も例にもれずカレーライスをほおばったのち、目を皿にして掘り出し物を探した。買ったのは確か4冊。『KAZOKU』という名前のはがきくらいの大きさの写真集、それからダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジー、あとガレージみたいな場所で段ボール箱に並べられていた鷺沢萠の『海の鳥・空の魚』と山田詠美の『色彩の息子』という二つの短編集。『海の鳥・空の魚』は初めての鷺沢作品でとても新鮮だった。大人が書く短編だと思った。読後、いつもの風景が違って見えた私は、いろいろなことに気を配るようにしようと思った。もっといろんな見方で世の中を見てみたい。すぐさま友人Jに連絡した。Jは「シゲの好きそうな作家だな」と返した。次に手をつけた『色彩の息子』はもっとすごくて、熱を持った人間の生々しいパワーに溢れていた。爪で引っ掻くとそこから血が噴き出してくるような気がした。一つ一つの話が強烈でページをめくるたびに息継ぎが必要なほどだった。しばらく放心状態になった私にはJLINEする気力も残っていなかった。

 どうしたらこんな文章を書けるのだろう? 読み終わってずっと考えていた。単なる文章の巧さや比喩の引き出しの多さとだけではなくて、大きく強い人間の力を山田詠美は持っているのだろうと思った。それは育った環境や読んできた本、人生の出会いや別れ、日々の習慣、触れた音楽や映画といったすべてのものに由来するのだろうと思う。人生経験を積み上げていけば、私も少しは彼女に近づくことができるのだろうか。

 

 話は戻るが、「せつない」という感情はどういうものなのだろう。「悲しい」とも「さびしい」とも違う。「せつない」の持つ実体はよくわからない。「切ない」と書くこともあるけど「切」という感じを使うようになったのはどういうことなのだろう。「せつ」が「ない」というのは一体どういうことなのか、とか考え始めるとよくわからなくなる。Jポップの歌詞でもtwitterでもよく見かけるし、「せつない」はけっこう使い勝手のいい言葉だと思う。だからこそ、本来の意味を失っているのではないかと疑ってしまう用例も散見される。そういう時、眉間には知らず知らずのうちにしわが寄ってしまう。「何が『Wi-Fiがつながらなくてせつない』だ! そんなことに「せつない」を使うんじゃない。正しい日本語を使えよ!」なんて叫びたくなる。でもそういう私だって「せつない」の正しい意味を知らないのだ。辞書を開くと「胸が締め付けられるような悲しみ云々」と書かれてある。「胸が締め付けられる」とは何なのか。いやそもそも「悲しみ」とは何なのだっけ。きりがない。

 「五粒の涙」と名付けられた巻末の文章の中で「せつない」という感情について編者はこんな風に説明している。

 

それでは「せつない」という感情はどうか。これは味わい難いものである。外側からの刺激を自分の内で屈折させるフィルターを持った人だけに許される感情のムーヴメントである。まったく味わえない人もいるし、ひんぱんに味わう人もいる。何故かというと「せつない」という気持ちに限っては、心の成長が必要だからである。つまり、それは、大人の味わう感情なのである。

その後でこんなことも書いてある。

 静かに湧いたせつない感情を自分の心に再現してみようとする。すると、自分では記憶力が良いと思っている筈なのに、具体的なものが何ひとつ浮かんで来ない。せつない感情というのは、その出所を明らかにしないたよりのないものだということがよく解る。切ない気分は刹那的なものであり、保存が、きかないのだということに気が付くのだ。せつない気持ちになり、その側から、その気持をなくしてしまうこと、これは本当にもったいないことだと口惜しい気持ちになる反面、だからこそ、「せつない」という感情は素敵なのだと思う。まさに、使い捨ての贅沢という感じである。

 なるほど、という感じである。「使い捨ての贅沢」とはうまい表現だ。たしかに「せつない」と感じた瞬間を呼び起こそうとしても、記憶の渦から掬い出されるのはあいまいであやふやな感情ばかりだ。一つ一つの記憶を薬品みたいに瓶に詰めて、棚に陳列できたらどんなにいいだろうとこんな時思う。「せつない」というラベル——おそらく黄色のラベルだろう。瓶の中身が琥珀色だともっといい——の貼られた瓶を選べばいつでも思い出がよみがえる。昔からそんな想像ばかりしている。

 

「せつない」と思う記憶は、いろいろある。悩んでるあいだ何日も部活を休んでいたのに放課後練習に行くとみんな受け入れてくれたこと、父親に会いに行ったのに結局会えなかったこと、12年ぶりに会った友達とカラオケに行き加藤登紀子を歌ったこと————その思い出が100%純粋の「せつない」感情なのかどうかはさておき、私には「せつない」思い出がたくさんある。それは幸せなことだと思う。

 

 

「せつない」という感情に一番しっくりくるのは免許合宿の最終日のバスだ。

 仲良くなった友達は私を入れて6人。みんな関東からの子だった。合宿最後の夜、米沢牛を食べて合宿での苦労をねぎらい、ちょっとした思い出を話し、過去や将来のことも少し話した。そうして別れることになる明日に備えたのだ。2週間はあっという間だった。運転について覚えることが多かったし(当たり前だ)街を歩くのにも忙しかった。おいしいラーメン屋がたくさんあった。「これぞ中華そば!」という感じの醤油ベースの店が多くて、あっさり派の私は、「今日はどの店に行こう」なんて考えながら授業を受けていた。

 その夜、流れで「夏にまた会おう」みたいな話をした。みんな日本酒を飲んでいた。下戸だけど私も飲んだ。山形に来て酒を飲まないわけにはいかないだろう。将来なんて未定だし、就職が決まった子もいたし、私は関西だし、会えるかどうかその時にはわからなかった。それでもそんな話をしないわけにはいかなかった。だって本当に楽しかったから。ずっとこの瞬間が続けばいいのに、なんて幾つになっても私は思ってしまう。

 むかえた合宿最終日、朝一番で試験である。市内を走り決められた所で停車する、というのが課題だった。大事なのは停まる際ウインカーを忘れないこと、それから交差点やバス停から十分に距離をとって停車することだった。白一色の米沢市内では道路脇の雪がせり出して車道が狭い。車線などあってないようなものだった。緊張していたけれど何回も走った街だし空き時間もせっせと歩き回っていたから案外簡単だった。待ち時間があって、アナウンスがあって、ロビーにある画面が合格者の番号を映し出す。私の番号も友達の番号もあった。

 6人のうちの2人とはそこでお別れだった。彼女ら——姉妹だった——が取るのはマニュアル車の免許で、オートマよりも2泊長く残るのだ。毎日通ったロビーで「ありがとう」とか「元気でね」なんて言葉を交わした。「また会おうね」とも言い合ったけれど、酔っていた夕べの席から一夜経つと、その言葉は空虚なものへと変わりつつあった。でも仕方なくて、言わずにはいられなかった。私はノートにみんなのサインを書いてもらった。20年と少し生きても、私はこういう子供っぽいことが好きだ。思い出はできるだけ可視化できるものにしておきたい。そうすればいつだってあの日に戻ることが出来るからだ。

 合宿中、毎日バスに乗ってホテルとスクールを行き来した。それも今日で終わりだった。車内はいつも地元のFMがかかっていて、最終日も例外でなかった。関東から来たふたりは新幹線に乗ると言い、一人は山形から足を延ばして山形県北部の銀山温泉に行くと言った。私は福島県の郡山まで出て、そこから夜行バスで大阪に帰るのだった。もう慣れっこになったけど窓の外は雪ばっかりで、でも関西に帰れば雪なんて全くないんだろうなあ、と曇ったガラスを見ていた。

 4人の会話が少しとぎれてしんみりした時、ラジオから流れて来たのは”Top Of The World”だった。「この曲なんだっけ」と一人が言って「あれやん、カーペンターズやん!」と私は言った。そして、みんなでメロディーを口ずさんだのだった。

 サビを歌いながら思った。これからの人生、私はこの曲を聴くたびにこの免許合宿のことを思い出すのだろう。そう考えるとせつない気持ちになった。

 

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 その時の感情はたしかに「使い捨ての贅沢」で、もう二度と味わうことが出来ない。どの「せつない」も「せつない」という言葉で表せるというだけで、毎回微妙に異なるのだ。記憶は出来事であり、その時の感情である。どれも同じということはあり得ない。ただ、たくさんの「せつない」を積み上げることが人生の豊かさにつながるのは間違いないように思える。

 

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 免許合宿が終わってもうすぐ1年経つ。私に山田詠美を教えてくれた現代文のT先生には感謝している。一度高校の最寄り駅で会った時に謝意を伝えた。「山田詠美、いいでしょう?」っとおっしゃられていた。ニコニコした笑顔で。

 

 

 

〈付録

今日から20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あります。響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

◎二月一日(土)雨のち曇

(中略)

 明日はメガネを買いにいくんだヨ。人に聞かれたら、こう答えるんだ。まず第一番目に

「近頃、本の読みすぎで目を悪くしてネ!」そして次にいうの、「チョットこのメガネに会うでしょう。だから掛けたの」

 こんなこと誰も信じない。私がメガネかけたら小さなプチインテリでいやらしくなるんだから、誰も信用しないのがミソ。本当の私は、ユーモリストで小生意気で自分の顔を気にしているいやらしい女で、やっぱりメガネをかけている方が近い。そして誰にも言わずソット自分にだけ言う言葉

「私の目をガラスで防衛しているということ。相手はガラスを通してしか私のオメメを見られない。真実の私は、メガネをとったところにある」

 

 この箇所を読むと「本当の私」について考えてしまう。私は私だけど、どの瞬間を切り取っても私であることに間違いはないのだけど、それでもたまに、ある瞬間の私が、私でないように思えることがある。バイト先での私、授業に出る私、祖父と接する時の私。どれも同じ私なのに全然違う。ある条件下での「私」が大嫌いである。大嫌いなあまり、その時の「私」は本当の私と違うのだ、と思い込もうとすることがよくある。別人になるために自身の「キャラ」を変えたり、口調や一人称を変えたりする。それでもダメな時は服装や見た目を変える。髪を長く長くしたときもあったし、パーマをかけたこともあった。でも全部失敗だった。いつの時でも私は同じ頭と肉体を持っているのだ。矛盾をはらむ複数の自己を使い分けることは難しかった。

 高野悦子も同じように自己と戦っていたのだと思う。彼女は『ニ十歳の原点』の中で自己を見つけ出そうと幾度となく格闘するのだ。

 

#43 イヤホン

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 イヤホンをしていた。イヤホンをしてマクドナルドの奥の暗い場所で旅行中の出来事を思い出してはつらつらとスクラップブックに書きこんでいた。とうに冷めたコーヒーと無造作に置かれたハンバーガーの包み紙が乗ったトレイは終演後の舞台のように見えなくもなかった。ペラペラの四角に切り取られた遠い異国の風景を私はノートにペタペタ貼っているところで、さっき読み終わった短編の余韻とコーヒーの匂いとウォークマンから伝わる音の中で心が潤っているのを感じていた。時々、スティックのりを塗る手を止めてぼんやり壁を眺めたりした。緩む体が心地よかった。

 声が聞こえた。隣の席の女性が発した声をイヤホンの奥の鼓膜ははっきりととらえることが出来なくて、それはプールの底ではプールサイドの声が歪んで聴こえるのと似ていた。右隣りを見ると、もう中年期を終えようかという女の人が話しかけているのだった。イヤホンをとる右手。彼女はトイレの場所を知りたいらしかった。駅構内のこのマクドナルドにはトイレがない。ただ隣接する百貨店の中にトイレがあるからそこに行けばいいだろうと答えた。やっぱりそうなのね、と言う掠れた声。

 一度外したイヤホンをどうしたものかと思った。両耳にイヤホンを戻すのは悪い気がした。自分だけの世界に戻るのは相手を突き放して拒絶するようなものだ。かといっても、片方だけイヤホンするのはもっと違う。それは不誠実だ。片方で会話してもう一方で音楽を聴こうなんて心根は嫌いだ。

 イヤホンをする人に声をかけるのは勇気がいることだと知っているからこそ、躊躇した。どうしたらいいかわからなくて数秒ほどフリーズしてしまった。蛇に睨まれた蛙のごとく急に何もできなくなる。そういうことが時々ある。キンキンに冷えたジュースの缶をほっぺにくっつけられた瞬間みたいに、冷やっとして体が固まる。

「邪魔してごめんなさいね。ごめんなさい」と声がした。女の人の声はますます掠れていく気がした。目を合わせることはできなかったけど、明らかに、フリーズした様子を見た上での助け船だった。「大丈夫です」なんて意味のないことしか言えない。ごめんなさい、という言葉には「もう会話は終わりよ」というメッセージが込められていて少し悲しかった。もちろん「教えてくれてありがとう」もあると思うし「音楽の時間を邪魔してごめんなさい」もあったはずだ。それでもイヤホンをつけた時、心の底にまた一つ小石が落ちた。

 

 相手を突き放す加害者になりたくないと思って日和見を決め込み、最後はとうとう被害者になることに成功したのだった。それは無自覚な偽善で軽蔑されるべきなのかもしれない。でも一方で「なんていうこともない出来事だ。人生ってこんなもんだろう?」 と半ば開き直って何も感じないようにつとめているのも事実だ。だって、とにかく生きていかないといけないから。何かに向き合うことは絶対に大事だけど、全部に向き合うことは不可能だ。ほどなくして女性は去って行った。

 仕方ないこともある。できることもできないことも少しづつ受け入れていかない。そうじゃないと生きていけなくなる。

#42 目立つやつ云々

 

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  去年の1月末、免許合宿に行った。地元の車校に通うより安いようだし、私は短期集中型だから合宿で免許を取る方が性に合っている。旅が好きな私は知らない街で数週間過ごすことにも惹かれた。選んだのは山形県の小さな町でラーメンがおいしかった。

 毎日ホテルでご飯を食べて、授業を受けて車を運転して、またホテルにバスで帰る。友達ができるまで味気ない毎日だ。雪深い東北に一人で乗り込んだ私は中々友達ができず暇を持て余して人間観察をしていた。周りは大学の友達同士で来ている人が多い。関東人らしい標準語があふれていた。わいわい楽しそうである。「今日の授業どうだった?」とか「さっきの教官最悪だったわー」とかなんとかかんとか言っていて、私は高校の頃の会話を思い出した。そういうのをうらやましそうに思いながら、でもそれは表には出さずTwitterをやったり味噌汁をすすったりしている。そしてちらちらと気付かれないようにそういう人たちを観察している。これも高校時代と同じである。私みたいに一人で来ている人たちもいて、そういう人たちの中でも社交性の高い人は友達を作っている。

 授業前の教室あるいはホテルの食堂で、どうしてだか目立っている人がいる。なぜだかわからないけれど視線が惹きつけられるのだ。講習の合間にテキストを読んだり、パソコンに文章を打ち込んだりしながらそういう人たちがどうして目立つのか考えていた。

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駅前

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車校

 身体的な特徴というのはやっぱりあると思う。ハーフであるとか、体が大きいとか、少し年をとっているとかである。私もとりわけ背が低いのでおそらく目立っているのだと思う。初日の授業でも少し離れたところで何人かの男の子がこっちを見て笑っていた。十中八九、私を笑っているとみて間違いなかろう。

 あと、うるさい人や動作が大きい人も目立つ。授業中に大きく鼻をすすったり、くしゃみをしているとどうしても気になってしまう。声や足音が大きかったりするのも同じである。笑い声も人それぞれで、目立つ笑い方と言うのがあって時々耳に障る。自分の癖が注目を集めていると思いもしない人もけっこういる。新聞をめくる時に指をぺろりとなめずにはいられない人や一定の間隔で舌打ちをしてしまう人は無意識にそうしているわけで、私が眉をひそめたり睨んだりするのを理解できないだろう。こっちを睨んでいる私が、逆に彼らにとって目につく存在になっているかもしれない。

 当然、顔やスタイルがきれいな人も男女問わずに目立つ。美男子と美女はやはり見つめずにはいられない。性の対象として見るのかどうかという問題は横に置いて、やはり私は美しいものに惹かれてしまう。美しいと認められるのは特長だと思う。

 

 山形で過ごした2週間から一年経った今年、私はモスクワにいた。ロシア人だらけだった。ロシアが多民族国家とはいえ——本で読んだ記憶が正しければロシア連邦におけるロシア人は80%弱。東スラブ系民族となると割合はもっと多い。ロシア人の次に多い民族集団はタタール人でたしか4%弱だったと思う。ちなみにロシアは自分を規定する民族を自分で選ぶことができる——メトロに乗っていても赤の広場を歩いていてもレストランに入っても、目にするのは長身の白人が多い。金髪が多いと思っていたけれど黒や赤の人もよく見かけた。瞳の色も様々で茶色の人もいれば日本人のように黒い人もいた。トレチャコフ美術館に入る時、私の前に並んでいた56歳と思われる女の子の眼は薄い青色だった。空色と呼ぶか灰色と表現するか迷うような色で、初めて見る私は美しいと思った。他方、何しろ見慣れない色だから恐ろしい色だとも感じた。黒い目が多い日本では虹彩や瞳をはっきりと認識することは少ないけれど、女の子の眼は色素が薄いためにそういうものまで見えてしまうのだった。少しだけぞくっとした。

  大国の首都で日本人の私は明らかに「目立つやつ」なのであった。今まで行ったどこの国にもモンゴロイドがいて、口を開かない限り日本人と気づかれずに過ごすことが出来た。台北で私にKENZOのばったもんの帽子を売った女の人は私の顔を見て日本人だと気づいたけれど、彼女はレアケースである。ヤンゴンで肉まんを食べていた女性は私が話しかけるまで目の前に座る私を中国系ミャンマー人だと思っていた。彼女は祖父の時代に国共内戦を逃れてビルマにやってきた中国人の子孫で、もう中国語は話せないが旧正月などの行事は今でも家族で行っているそうだ。ほとんどすべての人が同一民族である国に育った私は多民族国家で生きるということがよくわからない。気になることがたくさんあった私は、民族や宗教といったアイデンティティーについて彼女にいろいろ質問した。小一時間話した後で私たちはFacebookを交換した。またいつの日か会えたらいいなと思う。160を超える民族が共存しているミャンマーで私が過ごしたのはたった2週間だったけど毎日が刺激的だった。仏教寺院の横にモスクがあるようなダウンタウンを歩くとたくさんの種類の顔を見ることが出来た。通りを歩いても自分が目立っているとは思わなかった。イングランドにも行ったけれど、私がいたのはイーストボーンという海沿いの町の語学学校で、クラスメイトはサウジアラビア人やトルコ人、韓国人や台湾人といった具合だったから、そこでも自分がとりわけ目立つ存在だとは思わなかった。

 しかしモスクワでは目立っていた。スリに警戒して自意識過剰だったのもあるけれど、初めてメトロに乗った瞬間、車内の視線が自分の顔に集まるのを感じた。すぐ慣れたけど最初はとても怖かった。もちろん観光地に行けば家族で来ている中国人がいたし、モンゴロイドの顔でロシア語を話しモスクワに住んでいると思われる人もいた。でもマジョリティはコーカソイドで背の高い人ばかりだった。

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赤の広場

  モスクワをあちこち歩いて気づいたことがある。それは清掃員に東洋人が多いことだ。新年を祝う直前、私は赤の広場近くでホットドックを食べた。スタンド——残念ながらロシア語で何と言うのわからない——には列ができていて、横には立食用のテーブルがあった。ミュンヘン風のソーセージは噛むとパリッという音を立てて、あつあつの肉汁が口の中に広がった。気温が低い分なおさらおいしかった。制服のジャンパーを羽織った一人のおばあさんがいて、汚れたテーブルを拭いていた。大晦日だというのに働いている人がいるのは日本と同じなのだった。明らかに東洋系の顔をしていたから気になって少し見ていた。驚いたことに彼女は私の方に来て、どこから来たのかと言った。日本から来たと言うと、「なるほど、そうかー」とリアクションをとるおばあちゃん。きくと、彼女は私がキルギス人だと思って話しかけたのだという。「あんた、キルギス人にそっくりだよ」とおばあちゃんは言った。というのも彼女はキルギス出身で、私を同胞だと思ったのだ。ちょっと嬉しかった。新年を迎えるという瞬間にも働いているということはもしかしたら何年も故郷に帰っていないのかもしれない。「キルギスから来た」とだけ言ったから、出稼ぎなのか永住しているのかはわからないけれど色々思うことがあった。でも拙いロシア語で表現できることはあまりにも少なくて、結局私は「С новым годом!*」と少し早い新年のあいさつをしておばあさんの両肩をぽんぽんと叩いた。それからお仕事お疲れ様ということと、話しかけてくれたことの感謝を込めて「Спасибо**」と言った。そのあとイルミネーションの中を歩きながら自分が涙を流していることに気づいた。

*:ス・ノーヴィム・ゴーダム。「あけましておめでとう」の意

**:スパシーバ。「ありがとう」の意

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 こういう刹那刹那の出会いと別れに感情が動くのは良いことだと思うけれど、それは自分の心が繊細で弱いからだ。感受性が豊かなのは良いことだとされているが、日常の一から百までに心が動いてしまう自分がひどく嘘くさい人間であることもまた事実である。「シゲのことがわからない」と言われたのは一度や二度ではない。高校でも大学でも言われた。時々家族でさえもそんなことを言う。しかし、いずれにせよそれは素敵な出会いで、モスクワにいた間の出来事で一番心に残るものだった。私が東洋系の顔をした「目立つやつ」であったからこそ起こりえた出会いなのだ。

 最終日、空港に向かうメトロでも同じような出会いがあった。混雑した車内で私は背中のバックパックを下ろしたのだけど、座席に座る女の人の膝に荷物が触れてしまった。すまなそうな顔をして相手を見ると、その人は私の眼をみて微笑みながらうなずいてくれた。その人とその横の女性——なんとなく顔が似ていたので家族だと思う——はその後私の顔を何回かじっと見つめていて、何か言いたそうだった。二人は私の一つ前で降りたのだけど、降り際に私に話しかけてくれた。私が唯一聞き取れたのは「クラシ―バ」という「美しい」とか「きれいな」を意味する形容詞だった。身振りから察するに私の外見のことを言っているみたいだった。私は笑いながら「Спасибо**」と返した。これもやはり簡単には忘れられない思い出である。心がほっこりする。

 そんなモスクワ滞在だった。この旅行で、おざなりにしている大学のロシア語に対するモチベーションが上がったかどうかはよくわからない。すくなくとも話せた方が面白いことはわかったけれけども………。

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 日本では「目立つやつ」であることを避ける傾向があって、中学や高校にも出る杭は打たれる風潮があった。大学1年目の私も極力目立つことを避けて来た。しかし、私は背がとりわけ低いためにいつも目立っていた。それならば逆にもっともっと目立つやつになってやろうと髪の毛を長くしてちょんまげにしたりバンダナで髪をまとめたりしたけれど、そうすると逆に自意識過剰になって心の中が変な感じになってしまった。この文章でもわかるかもしれないが、私は「他人にみられている自分」を意識しすぎるのだ。「私」という人間の真相を悟られないよう、10代のいつからか私は自己を演じることを覚えた。最初は小学校。楽しかった塾と散々だった学校で私は別々の「私」を使い分けたのだ。部活やサークルでも「私」を演じ、教室でもまた別の「私」を演じた。おバカなことに、私は演じるうちに「本当の私」が何なのかわからなくなってしまった。授業に出ていても、サークルのみんなの前でプレゼンをしていても、バイト先で食器を洗っていても、自分が自分でないような気がするようになった。しまいには一人でいる時さえも今の「私」がどの「私」であるのかよくわからなくなった。読書の最中にも、文章を書いていても、絵を描いていても「私」が「私」でないような気がするのだ。ぼおっとして、頭と体が別々になったような奇妙な感覚———何を言っているのだろうと不審に思う人もいるかもしれない——は、長時間続くととても疲れてしまう。そういう時たまに高校一年生の保健の授業を思い出す。保健の担当はFという人気の先生で、バスケットボールをずっと続けていてプロ級の腕前ということだった。冬の日のその授業では、自己同一性障害がテーマだった。カウンセラーの資格も持つF先生がいつものように楽しく教科書を読み進めていった。

 授業の中盤、「まあこのクラスのみんなは自己同一性障害は大丈夫だと思うよ」と言って先生はクラスを見回した。そこで先生と私の目が合った。先生は「そうやなあ○○(私の苗字)以外は」と付け加えた。真顔だった。冗談ととるか微妙なところで、怒るべき事柄でもあった。しかし既に私には自分の精神状態がおかしいという自覚もあった。実際、半年前には学校に行くことが出来ない時期があったし、心療内科という所に初めて行ったのもその頃だった。私の普段の言動を知っていた先生は心配していたのだと思う。私を気にかけてくれていることは嬉しかったが、それでもみんなの前で言うことではないだろうとも思った。伺うようにこちらを見る数人の視線を感じた私は、チャイムが鳴るまで気まずい思いをしなくてはならなかった。

 F先生の見立ては正しかったとは思う。あるいは私が言霊に操られたのかもしれない。いずれにせよ「他人が見る私」と「自分が演じる私」や「こうなりたい理想の私」、「どこかにあるはずの本当の私」の間で私は静かにおかしくなりつつある。

 長くなるのでここらへんで終わりにしよう。「私」についての話はもう少し理解できるようになってからまた書こうと思う。

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#41 不確実性の時代におけるデートについて

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 もしあなたが優しい人だと思われたいのであれば、集合場所はビッグイシューの販売員がいる駅にするべきだ。相手が来た時を見計らってビッグイシューの最新号を手に取りきっかり350円を渡すのだ。お釣りをないようにするのが親切と言える。改札を出たばかりの彼女または彼は、あなたが愛情に溢れた人だと思い、尊敬の眼差しであなたを見つめる。そうなるとデートはもう成功したようなものでランチの会話も弾むし、劇場で観る映画も決してハズレではない。

 この作戦には1つ欠陥があって、恋人がビッグイシューについての知識がない場合、あなたは「道端で売られているヘンな雑誌を買うヘンな人」と思われることだ。その場合あなたは説明をする必要がある。

 もっと悪い場合も考えられる。昨今、どこの駅前にも必ずと言っていいほど宗教の勧誘を行なっている人たちがいるので、ビッグイシューの赤い服を着た販売員を宗教勧誘と勘違いすることもあるかもしれない。二重の勘違いによってあなたは「宗教の機関紙を買ったヘンな人」になる。状況はよくない。彼または彼女はあなたのことを心配し、あなたの過去の言動に宗教的なものがなかったか記憶を辿るかもしれない。

 あなたが牛肉を進んで食べないことを彼女または彼は知っている。「肉牛を育てることは環境に悪いから」とあなたはいつも説明していて、バーチャルウォーターやカーボンフットプリントの観点からこれは正しいのだけど、そうした細かいデータをあなたは恋人に語ったことはない。小難しい話はカップルがする会話としてふさわしくないとあなたが思っているからだ。きちんと説明をしなかったばかりに、あなたの恋人はあなたが牛肉を食べないことを宗教的理由のためだと勘違いする可能性もゼロではない。勘違いした相手はこう言うかも知れない。「私も今日からは牛肉を食べることをやめてみようかな」このセリフの後、恋人はその宗教について興味津々で聞いてくるだろう。

あるいは、たまたま駅前で勧誘しているような宗教の中に牛肉摂取を禁じている宗教があって、すでに彼または彼女がその宗教の信者であることも考えられる。可能性は十分にある。おそらく、誤解した恋人はあなたに優しくハグをするだろう。自分の信教について公に語る者に対して胡散臭い視線を向けるこの社会で、その人は今まで自分の信仰を誰かに打ち明けることができなかった。あなたは恋人でありながら、神をも共有する存在になった。同志となってしまったあなたは間違いを指摘することができない。彼女または彼の秘密を知ってしまった以上、ここで真実を明かすと相手は落胆するだろう。秘密を誰にも打ち明けることができなかった悲しみや苦しみを想像し、あなたは数秒間沈黙する。もちろんあなたは誤解を解かないのも裏切りであると知っているからしばらくの間苦悩しなくてはならない。あなたの頭の中でシーソーがゆらゆらゆれている。


 全く逆の場合も想定される。宗教を持つ人に対して彼女が嫌悪感を抱いている可能性も除外できない。そうなるとあなたは窮地に立たされる。あなたはビッグイシューについて説明しなくてはいけない。ビッグイシューの歴史や社会的役割について話さないといけなくなる。あなたはビッグイシューの活動に共感しているからついつい話過ぎてしまうかもしれない。

 それで誤解が解けるならばよいのだが、早口で話すあなたが与えるのは不信感である可能性もある。しかしそうなるともうおしまいで、このデートは大失敗だ。もうお手上げで、何をしても悪い方向へと進む。あなたは家に帰り自室の床で体育座りになったまま1時間ほど過ごすだろう。


 と、ここまで考えたところであなたはスマホを放り投げる。プラスチックと金属でできた板はすぽっという音とともに布団に受け止められる。ああデートに誘うなんてどうかしてる。やはりあなたはその人をデートに誘うべきではない。恋も愛もそもそも初めからなかったのだ。たしかなのはあなたの頭の中だけであり、その他のことは想像するしかない。他人の思考など決してわかることはない。想像しても無駄なのだ。大の字になったあなたは青い天井を眺める。あなたが数秒間凝視すると天井には魚が泳ぎ始める。色とりどりの魚がいるから熱帯の浅い海だろう。ちょうど海底から海面を見上げた形である。日光が波に乱反射してゆらゆらとゆれる。すいと泳ぐウミガメの腹を眺めながらあなたは眠りについた。

 

 

 

結論 完璧などないのだから失敗などに怯えてはならないし、人間は分かり合えない。


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#40 匂い、時々おなら

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 友達に貸した本が帰ってきた。ページをめくるとかすかにその人の匂いがしてちょっとだけドキドキした。私には見当もつかない香りである。多分シャンプーとかヘアスプレーとかそういう匂いなのだと思う。あるいは部屋に置いてるアロマの香りとかそんなのかもしれない。いつか本人に聞いてみたいけど、いざ聞くとなるとやっぱり恥ずかしかったりする。

 

 人それぞれ匂いがある。自分自身の匂いは、自分ではもう意識できないほど当たり前のものになっているけど、どんなに微かでも自分の匂いというものがある。個人差があって強烈な人もいればほとんど無臭の人もいる。同じクラスの同級生の友達で1人、かなりビターな匂いを放つ人がいて、良くも悪くもない変わった匂いだった。ホリスターばかり着てる彼の体臭は、強いていうならば濃い麦茶と濃いコーヒーが混ざった匂いだった。不思議なことだが、初めは違和感でしかなかったその匂いは仲良くなるにつれて段々と気にならなくなった。それどころか、彼が留学に行く前にはその匂いだけで切ない気分になってしまったのだ。単なる慣れと、それから彼が周囲に安心感を与えるタイプだったということが理由であると思う。私は大学であまり友人を作れなかったが、彼の前では素に近い自分を出すことができた。彼の下宿には何回かお邪魔して、泊まったこともあったけれどその匂いがなんなのか究明することはついにできなかった。彼は毎朝コーヒーを淹れていたが、あの匂いはそれだけじゃなかった。もっと複雑な何かだ。

 潮江に住んでいた時 ——ダウンタウンが育った街だ——カホちゃんという友達がいた。彼女の家とは家族ぐるみの付き合いをしていてよく彼女の住むマンションにお邪魔した。彼らの住む部屋もやはりいい匂いがした。不思議な香りで、ロマンチックに例えるなら、夏の早朝、うす青い空に広がる白い雲みたいな匂い。一度カホちゃんから日本の民話が書かれた素敵な本を上下巻2冊借りたけど、そのページの隙間からも同じ香りがして、私の住む部屋に戻ってからもその香りはずっと消えなかった。もちろんカホちゃんもその匂いがしたし、彼女の妹も、両親も同じ香りを纏っていた。なんの匂いだったのか最後までわからずじまいだった

 

 親しい人なら知っていることだが、私のおならはすごく臭い。ひどい時には硫黄に似た匂いがする。自分のおならがとりわけ臭いことに気づいたのはみんなでキャンプに行った時である。従兄弟の家族とカホちゃんの家族と岡山かどこかそっちの方に向かう道中であった。キャンプ場に向かう車内で私はおならが我慢できなくなった。祖母と同じで私も腸が弱くてすぐおならをしてしまう。ステップワゴンの2列目に乗っていた私は我慢しようと思うけれどもどんどんお腹が痛くなってゆく。ちょうどトイレ休憩を済ました後で、次に車が止まるのはキャンプ場であった。自己との闘争の末白旗を掲げた私は音を殺して放屁した。頼むからバレないでくれ!  しかしそこは密閉空間。芳しい香りはまたたくまに各々の嗅覚に到達し、誰かが悲鳴をあげた。必死に平静を装う私。だが私は嘘をつくのが下手ですぐに仮面を剥がされてしまう。魔女裁判が始まり、その日の夜のキャンプファイアでは、タールを塗りたくられた私が全身に鳥の羽をつけられた後、ジリジリと焼かれることになった。ご存知のかたもいると思うが、それ以降私は実体の無い亡霊として永遠にこの世をさすらうことになった。亡霊であるのも意外と便利なもので、亡霊はこうしたインターネット上のブログやSNSといった電脳空間を自由に泳ぐことができるのだ。だからこうして私もブログを通じてあなたに語りかけることができる。なかなか悪くない。ちなみに、死の間際に私が放ったセリフは「まだブラックコーヒーを飲みきれたことがないのに!」というものだった。我ながらセンスが無いと思う。

 

 冗談はさておき、おなら問題は私にとって永遠の課題であるようだ。狭い場所にいる時や環境が急に変化した時など、ストレス下にあると便意ならぬ屁意をもよおしてしまう。

   最悪なのは高校の部活だった。他の部活との兼ね合いでグラウンドが使えない時や雨の日はみんなで筋トレをする。だいたいメニューは決まっていて体幹を鍛えるトレーニングは毎回やっていた。狭い場所でぎゅうぎゅうになってやる筋トレは私の腸には脅威でしかなく、キューバに配備されたソ連製ミサイルの如く私の腹部にプレッシャーを加えてゆく。体幹を鍛えながら放屁することが何回もあってその度に申し訳ない気分になった。楽だったのは通っていたのが大阪の高校で、ちゃんといじってくれるチームメイトがいたことである。いじってくれなかったらと思うとぞっとする。

「おいなんか臭いぞ。シゲ、へえこいたやろ」「いや、おれちゃうわ」「嘘やろ確かめたるわ。おい〇〇(後輩の名)匂ってみろ」「クンクン、、、うぐ!」

 これがおきまりの流れだった。自分の体幹に思いを馳せていると、気づくと自分の周囲だけ人がいなくなってたりした。あるいは私のせいで冬なのに換気をしないといけなかったりした。高校生は本当に馬鹿だ。あまりの臭さに私の腸内環境を大真面目に心配してくれる優しいチームメイトもいたし、お前は食べ物を飲み込む時にお前は空気も一緒に飲んでいるのではないかと指摘してくれるちょっと変わったやつもいた。

 かくして私は「おならキャラ」として時代を築いたわけであるが、臭いのは私の着るトレーニングウエアも同様なのだった。私は「メンバーの嗅覚に訴える存在」としてベンチを温め続けた。いじってくれるだけみんな優しかったのだと思う。

 まあ、正直なところ他の面子だって汗臭いトレーニングウエアを着ていたし、そもそも筋トレをしている床自体、歴代のサッカー部の汗を吸っていて汗臭い場所だ。みんな感覚が麻痺していたのかもしれない。

 毎朝朝練があった。運動して汗で濡れた服はそのままハンガーに吊るしてロッカーの窓枠や格子にかけ、着替えた私たちは1限に向かう。ミニゲームで負けると最後のトンボがけをしないといけなくて、着替える時間が無くなることもある。そういう時はそのままの格好で授業に行かなければならなくて、午前中を汗びっしょりのまま過ごす羽目になった。めちゃくちゃ臭かったと思う。当時のみんな、ごめん。

 

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 一時期私は漢方の先生にかかっていたことがあり、煮だした漢方薬をペットボトルに入れて学校に持っていた。「臭い」「苦い」「色が汚い」と三拍子揃ったその液体は仲間内で罰ゲームに使われたりしたけれど、私は美味しいと思ってぐびぐび飲んでいた。ある時、誰かか「シゲが臭いのは漢方のせいだ」という説を唱えるやつがでてきて、ペットボトルの中のくすんだ灰色の液体はますます嫌われるようになった。私は「そんなことはない」と断固とした態度をとり、以前にも増してぐびぐび飲むようになった。体調はちょっとだけ良くなった。漢方と私の体臭に相関関係があったか、今となっては知る由も無い。

 

 昼練がある日は——確か月水金だったと思う——昼休みの20分弱、体幹レーニングするのだけど、朝掛けた服が乾いてたらまだいい方で大概まだ湿っていて汗臭くなっている。みんな感覚をゼロにして体育館の2階に向かう。たまに運動着を2枚持ってくる用意周到なやつがいて、そいつは涼しげな顔で体育館シューズに履き替えている。

 昼練が終わるとロッカーで着替え、服をまた干す。そして放課後になるとまたその服に着替えてスパイクを履いてグラウンドに歩いていく。

 たまに掛けたはずの服が無くなっている。大抵の場合、風に飛ばされてロッカーの下の芝生の上や隣の建物の間に落ちているのだけど、半年に一度くらい本当に服が無くなっていることがある。周囲を見ると、自分以外の服も無くなっている。

 どうやら生徒指導部の手入れがあったようである。何が楽しいのか生徒指導部の体育教師は汗臭い運動着を集めるという悪趣味をもっていて、来客が来るわけでもないのに「見栄えが悪い」などと難癖つけてロッカーで干されてある体操着を没収してゆく。そうなると我々は教官の待つ体育準備室まで取りに行かなくてはならない。

 

 先生の前にある青い箱の中には様々な体臭がコレクションされていて、律儀にも畳んである。我々は「ちゃんと挨拶せえ」とか「日頃から目につくぞ!」などといったもったいない金言とともに服を返してもらう。そして半年後また服を取られる。

 たまに没収された服を取りに来ない不届き者がいて、彼らの私物は体育準備室の半永久的なコレクションになってしまう。その場合、彼らは洗濯さえもしてくれる。なんて優しいのだろうと思う。

 不思議なのは「山本」とか「吉田」という刺繍の入った学校指定の体操着やジャージまでも半永久コレクションとして保存されていることだ。全校の山本さんや吉田くん一人一人に尋問していけば持ち主がはっきりするだろうに彼らはそうしない。あくまで生徒の自主性を重んじるのだ。ああ、素晴らしきかな自由の校風!

 

 匂いについて考えていたらついつい高校時代の様々を思い出してしまった。今の私がどんな匂いかはわからないけれど、高校時代の私の匂いよりはいいものになっていると嬉しい。高校時代、私の周囲にいた人の中には多分本気で嫌だった人もいると思う。本当にごめんなさい。大人になるにはこういう一つ一つの気配りが必要なのかもしれない。これからも日々精進していきたいと思う。

 ずっと座ってこれを書いてたらちょっと疲れてきた。なんかお腹が張ってるな。片尻上げてみるか。

 

 

#39 新年。映画と小説と音楽と

 

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 2019年の新年を赤の広場で迎えた、と自慢したくて街に繰り出したのだけど赤の広場には入場規制で入れなかった。警察が柵を作った前で動けなくなって、そのまま一時間待って、別にカウントダウンをみんなでするわけでもなかった。ただスマホが新年が来たことを教えてくれた。花火の音が遠くから聞こえて建物の隙間から花火が見えた。たくさんの人がいてぶつからずには動けなかった。みんなスマホで写真や動画を撮ったりしていた。喧騒の中に長居してもしょうがないのでトゥベルスカヤ通りを通ってゆっくりとホステルまで帰った。音楽がいたるところで鳴っていて、歩きながら音楽に合わせてステップを踏んだりした。新年でみんな浮かれていたけれど、通りには清掃員がいて、地下鉄に入る通路には壁にもたれながら虚空を見つめている人がいて、店でヨーグルトを買うと東洋的な顔立ちをした人がお釣りをくれた。それからいたるところに警察がいてテロに備えていた。

 

 ホステルに帰るとみんな落ち着いた様子でシャンパンを飲んでいた。花火——線香花火みたいなもの——に火をつけてみんなで祝った。私もシャンパンを飲んで、くらりとしたからあわててコーヒーを作って飲んだ。平和だった。

 

 ホステルのリビングに男の子が入ってきて私の隣の席に座った。私と同じように彼もロシア語が話せなくて、だからしばらく英語を使って彼と話した。

 歳は幾つだと彼が聞くから22だと答えた。彼も同い年で、ウランバートルで音楽プロデューサーをやっていると言った。彼の仕事の話は中々面白かった。ラップを中心に音楽を作っていて、モスクワにもレコーディングで来ているという。「彼らといるよ」と指差した方には東洋人の顔立ちをした男女3人がいた。全員モンゴル人だった。聞くと、ホステルの隣のスタジオで毎日音楽を作っているのだと言う。4人は共用のキッチンで料理を作るのもお手の物で、新年だからといってみんなのためにパスタを作ってくれた。

 

 私も、「昔美大に行こうとしていた」と言った。その後で「家族が許してくれなかったから結局普通の大学に行くことになったんだけど」と付け加えた。彼も高校を出る時、家族と話して大学に行かないことにしたらしい。その代わり自分で音楽を作って働いているみたいだ。人間の力が強い人にしかできないことだ。私は恥ずかしくなった。「本当は美大に行きたかった」とか誰でも言える。「映画監督になりたい」と夢見るのは誰でもできる。何を言っても、虚勢を張っても、私はただの大学に行ってない大学生だ。「本当に」映画監督になりたいのであれば方法などいくらでもあるし、今からだって頑張れば美大にいけないこともないだろう。

    それはそうと大学に行ってない大学生の価値とはなんなのか。

 

 今映画を作ろうとしている。最後まで出来るかわからないからまだ誰にも言ってなくて、でも頭の中には構想があって、時間はかかるけれどずっとスマホにメモをとっている。ミュージシャンの彼は打ち明ける相手として最適であるように思えた。「自分で文章を書いて、それにそったセルフドキュメンタリーを撮ろうとしてる」彼は驚いた様子だった。セルフドキュメンタリーは監督自身に人を引き込む魅力が必要だ。「君には何かあるのか?」と聞かれた。私は自分のことを話した。

「なぜ先に文章なんだ?」とも聞かれた。「なぜって、、、」言葉に詰まった。多分私は先に小説家になりたくて、でもいつかは映画も作ってみたい。贅沢なことだし夢みたいなことだけど、それでも2019年1月現在の私はこういうことをやりたいと思っている。

 

 彼は本を全く読まないと言った。「本は面白いのか?」と彼が聞くから私は読書と映画の違いについて思うことを話した。

 まずはじめに言ったのは、映画には「視点」がつきものだということ。これは映像と文学の大きな違いだ。小説は文章の積み重ねで、ページに書かれていることだけが、物語の全てである。文字の集合体の前で私たちは主人公のいる世界を想い、読み取った文字は頭の中で映像に変換される。ページをめくるにつれて頭の中でも人物たちが動いていく。脳内でのイメージはぼんやりとしていて自由自在に変えられる。例えば「或日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。」という文章を読んでも脳に浮かぶのは様々である。私が思い浮かべるのはキラキラした池の水面と春のようなうららかな空。池に浮かぶ蓮の花はとても綺麗で、モネの描いた絵みたいだ。御釈迦様の足元は裸足。顔は細面で目は閉じている。

    私のイメージは大体こんな感じだけれど、他の人のものと完全にマッチすることはないだろう。正解はもちろんなくて、どの人のイメージも尊重されるべきものだ。この一文を読んだだけでも「ぶらぶら」ってどんな感じだろうとか、御釈迦様の顔ってどんなだろうとか私たちはたくさん考えることができる。のりしろのように残る想像力のための余白。それがあるのが小説の良いところだと思う。他方で映画はカメラという視点がある。映画はカメラが映した映像の集合体で、それによってストーリーが進む。カメラは(基本的に)物事を「ありのままに」映すから観客はあまり考えなくていい。スクリーンに映るイメージはすべて具体的で、想像力の入り込む余地はない。大きな違いだ。

 それから読書は積極的で映画鑑賞は受動的な行為だということも言った。映画は簡単だ。画面の前に座れば、もうそれでおわりである。あとは画面が勝手に動いて物語が進んでいく。90分、あるいは2時間程度座っていればそれで終わり。読書はその逆で、自分の力で11枚ページをめくらないといけない。自分で物語を理解し、脳内にイメージを作り、登場人物や筆者の思考についていかないといけない。

 彼も音楽について言った。映画や本と違って音楽はいつでも聴ける。キッチンにいる時も外を歩いている時も。それが音楽のいいところだと彼は言った。音楽家だからてっきり「自分の作った音楽はゆっくりじっくり聴いてほしい」みたいなことを言うと思っていたからちょっと意外だった。「もし映画音楽で迷ったら、連絡してくれ」と言ってくれた。その後彼が作った音楽や好きな音楽を教えてもらった。私も好きな音楽を話した。

 

 そんな感じで元旦の朝は進んでいった。6時頃になって寝た。

 

 

 

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