シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#52 夕日に向かって歌う歌

 〈詩のコーナー〉

夕日に向かって 

あなたのお母さんのことを聞きました

あなたがいつもより饒舌だから私はうれしくて

あなたがいつもより笑うから私もいつもより笑いました

それが先週のことでした

 

あなたのお母さんのことを聞きました

あなたが饒舌だった理由がいまわかりました

もしかしたら不用意な言葉であなたを傷つけたかもしれません

ちょっと反省しています

 

あなたのお母さんのことを聞きました

「ご冥福を」とか「ご愁傷様」とかそういう言葉はなんだか他人行儀で

それにいつもそんなにしゃべるわけじゃないから

私はなにも言えないでいます

 

あなたのお母さんのことを聞きました

伝えたいことがたくさんあるのに、言葉が見つからなくて途方に暮れています

仕方ないから誰かの言葉を口ずさんでいます

結局なにも言えないままです

 

夕日に向かって歌う声があなたに届けばいいのに

  

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【ひとこと】

言葉がなかった時代は、今よりも相手の気持ちに簡単に寄り添えたのでしょうか。それとももっと難しかったのでしょうか。

誰かこの歌に合わせて作曲してください

 

 

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

三月八日 曇天の寒い日

 お久しぶりです。ごぶさたしました。

 二月の最後の一週間は、それこそ何もせずにコタツに入ったきりの自慰的生活でした。そしてこの一週間、三月一日から夜のアルバイトや本を読む気が起りまして、ただ今、小田実「現代史Ⅰ」を読んでいます。高橋和巳にひかれましたので、「堕落——内なる荒野」を読みました。

 下宿の人たちも帰省して数少なくなってまいりました。牧野さんも、二月下旬に東京に帰り、時々思いだして寂しく感じております。人間はしょせん独りであると、こんな状況だから(あるいはそれとも無関係に?)身にしみて感じております。

 二、三日前、太宰を二、三頁読んだ後でポットのコードを首に巻いて左右に引張ったりしましたが、別に死のうと思ったわけでなく、ノドを圧迫したときの感触を楽しんだだけでして、しめあげられたノドは息をするにもゼイゼイと音をたてまして、妙に動物的に感じました。

 私はアフリカ的なジャズとか土人の叫び声が好きです。ミリアムマケバ(注 黒人歌手)とかゴリラ、そしてコヨーテなどが好きです。彼らには強烈な「生」がある。私は今生きているらしいのです。刃物で肉をえぐれば血がでるらしいのです。「生きてる 生きてる 生きてるよ バリケードという腹の中で」という詩がありましたが、悲しいかな私には、その「生きてる」実感がない。そしてまた「死」の実感もない。もっとも「死」が実感となれば生も死も存在しなくなるのですが。

 アルバイトをして、ウェイトレスに投げかけられた優雅な微笑に、恥ずかしげに嬉しげに微笑んで、生きる勇気が得られたと思っているチッポケな私であるのですが。

 

#51 ハテナを投げろ!

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 そして迎えた新年。うちは家族で集まるとすぐ坊主めくりをするのだけど、正月一日の午後になって「ボウリングに行きたい」なんて弟が言いだして。「ああめんどくさいこと言うなよ」と思った私が口を開ける前に父が「ストライク! いい考えや!」なんて叫んで、「いや全然ボールだよ、余裕で見送れるボール球だよ」って私は食い気味で返すけれども誰も聞いていない。弟は「いい加減坊主めくり飽きたー」と続けて、今度も「こちとらあんたよりも5年も長く坊主めくりしてるのよ。飽きるなんて生意気言ってんじゃない」と私が返すそばで、母まで「ボウリングいいわね」と同調して、30分後には最寄りのボウリング場で靴を借りていた。なぜか父は学生服を着ていて「お父さんが高校生の頃から使っているボウリング場だからなー」なんて訳の分からないことを言っている。ああうんざりだわ、と天を仰ぐとボウリング場に来たはずなのに空が見えた。頭上をボーイングが飛んで行った。この前ニュースでやっていた新型のやつかもしれない。

 父と私、母と弟で分かれて対抗でボウリングをした。どこで練習したのか弟はうまかった。投げ方も様になっていてサウスポーから放たれたボールは簡単にピンをなぎ倒した。生意気だ。高校に入ってサッカーをやめてぶらぶらしていると思ったら、さてはこいつボウリングで遊んでいるな。モラトリアム持て余し男子高校生め。勉強をしろ。この父と母がいつまでも元気でいると思ったら大間違いだからな。なんて思いながら横目で父を見ると、こっちは持ち方も投げ方もてんでなっていない。100%正真正銘のまごうことなきガーターである。オーバーなアクションで悔し顔を作る父の服はいつの間にか黄色に縦じまのタイガースのユニフォームに替わっていて、私は「ちょっとやめてよ、ここ名古屋よ、中日ドラゴンズのおひざ元よ」と言おうとしてやめる。さっきから誰も私の話を聞かないからだ。母は案外うまくてスペアを獲った。はじかれたピンが奈落の底に消えた。「うわあ、いきなり点差がついたなー」なんて頭を抱えているのは父で右手にスーパードライの缶を持っている。いや、ナイターを見ているんじゃないんだからさ、なんて心の中でぼやく。

 で、次が私の番。ボールがなかなか出てこなくて変な間が空いた。「母さんのボール、随分向こうまで行ったんだね」なんて弟がとんちんかんなことを言う。暗闇の向こうから「シュー」っという音がしてようやくボールが来たと思ったら出てきたのはつるつるとよく光る「ハテナ」だった。頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになって、家族の顔を見回す。ところがみんなはさもそれが当然のことであるかのように佇んでいる。「早く投げろよ」と言う弟。私はそこでようやく気が付いた。「ああ、これ夢なんだ」夢ならいいや。好きなことを好きなだけできるから。

 レーンに向き直るとピンに違和感があった。白い体に赤色の首輪をしているのはいつもと同じなのだけど、首輪の下に黒いまだらが二つ三つあるのだ。「お母さん、ちょっと眼鏡貸して」と言って眼鏡をかける。思った通りで、黒い斑点は文字だった。「単位」とか「就活」とか「卒論」といった文字がピンに書いてあって私はそれを倒さなくてはいけないのだった。失敗は許されない。ふうっと息を吐いた。精神統一。ずっしり重たいハテナを見ると、ご丁寧にも三つ穴が開いて指を差し込めるようになっている。父のスーパードライはメガホンに変わっていて、プラスチックの打撃音とタイガースのチャンスマーチがボウリング場にこだまする。他のレーンでボウリングを楽しんでいる人たちには聞こえていないみたいでほっとする。

 モーションをとって投げる。いい感じでリリースされたハテナは思い通りの軌道で進んでいくんだけど、同時に想定外の出来事が起きて、私はヒェッなんて情けない声を上げてしまった。ピンから突然にょきにょきとペンギンみたいな足が2本生え、よちよち歩き始めたのだ。顔のないピンたちがハテナの軌道を避けようと逃げるのは不気味な光景だった。何本かのピンが逃げ切れずに倒れ、「ニーーー!」と情けない声を上げた。倒れたピンが画面に大写しになる。それぞれ「卒論」「単位」「恋愛」「失せ物」と書いてあった。どうやら私は今年、無くしたものが見つかり、恋愛が成就し、無事に単位がそろって卒論も受理されるということらしい。私はもう一度レーンの奥の白いペンギンたちに目を凝らす。「卒業」というピンがあった。ということは卒業するにはあれを倒さなねばならないということか。配置が替わったためにさっきは見えなかったピンも見えた。「結婚」と「出産」という文字が飛び込んできてぎょっとした。「恋愛」をクリアできたというのにまだ「結婚」には至らないというのか。なんて不条理な世の中だ。ハテナが手元に戻ってくるのを待つ間じっくりピンを凝視した。中央右に構える「就活」はしっかり倒さないといけないなと思った。それからさらに右横にある「成功」もぜひとも倒しておきたい。何をもって成功と呼ぶのか非常に気になるところであるけれど、私の人生は私のもので、しかも一度きりしかないのだから成功するに越したことはないだろう。「+1」というピンも見える。これは倒したらもう一回投げられるってことなのかな。わからないのは「そば」というピンだ。側なのかお蕎麦なのか。倒したとして誰かの側にいられるということなのかお蕎麦にありつけるということなのか。このピンだけ本当に訳が分からない。倒しても倒さなくてもよさそうだ。でもそういう風に思うと、心の中に天邪鬼が現れる。倒してみて何が起こるか知りたいという好奇心も湧いてくる。

 返ってきたハテナはさっきよりずっしり重くなっていた。これが年月の重みか。昨日より今日、去年より今年の方が大事なのだ。

「紗季がんばれー」とかすれ声で母が叫ぶ。普段は聞かないかすれた声にびっくりして振り返ると母はワインをどこからともなく取り出してラッパ飲みをしていた。横で弟がニヤニヤ笑っていた。こっち見んなボケなす。相変わらず父はメガホンを叩いている。バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバン。

 少し緊張していた。振りかぶって投げた時ハテナを掴んでいた手のひらは汗で濡れていて手元が少し狂った。予定と違う軌道で進むハテナ。逃げ惑うペンギンの出来損ない。手が滑ってリリースが速くなった分スピードがついて、ピンたちは逃げる時間がなかった。また聞こえる「ニーーー!」の三重奏。倒れたピンが短い脚を空中にジタバタさせているのを見ると若干申し訳ない気がしないでもなかったが、これは私の人生である。「妥協はするな」ってスティーブ・ジョブズも言っていたはず。

 スクリーンに映った文字は「+1」「そば」「出産」。ん? 出産! 出産?

 いけない。優先順位の低いピンばかりを倒してしまった。しかも「出産」ってなんだよ。私は結婚なしで出産することになるのか。そんな風に育った覚えはないんだけどな。「就活」と「卒業」という絶対に倒さねばならないピンを倒せなかったのに「そば」なんてよくわからないピンを倒してしまった。唯一よかったのは「+1」を倒すことができたということ。これがなかったら悲惨だった。まさに地獄に仏渡りに船。残る一投を大事にしよう。

「おい紗季、結婚なんてお父さんはどっちでもええねんでー」と酔った父が叫んでいる。父は怪しくなるとすぐ関西弁になる。子供に戻る。

「うるさい。出産したのに結婚しないなんて馬鹿なことがあるかよ」と叫び返す。

「紗季、別にいいのよ。あなたの人生を生きてーー」と言ってハハハと笑う母もすでに素面ではない。

 戻ってきたハテナはまた一層重くなっていた。手汗をしっかりぬぐい、右手でハテナを掴む。ずんと重くてまた置きなおす。

「王様ははだかだ!」と少年が叫んだあとに流れたであろう空気と同じくらい重いハテナ。投げるには集中力が必要だった。

 父は「六甲おろし」を歌いだし、母はワインボトルをラッパ飲みのまま飲み干した。自分の頭に血が上って顔が赤くなるのがわかった。私は今試されている。夢でも余裕がないなんてどうなっているのだろう。ここで「就活」と「結婚」を倒しておかないと、現実の世界でも就活と結婚がうまくいかなくなる気がした。

「姉貴、就活と卒業、倒さなくていいのかよー」と言ってヒューっと指笛を吹いた弟の顔が無性にむかついてくる。にんまりとした顔が私の目を捉えて離さない。カーっと上った血はまだひかず、得意満面の弟に向かって「うるせえ! ほっとけや!」と叫んだ。怒りと恥ずかしさのままに私はハテナをむんずと掴んでシャカリキで振りかぶった。絶対にあのピンを倒さないといけない。ふうっと息を吐いてまた吸って吐いてまた吸って。息を吐くのと同時に左足を踏み出してハテナを持った右手を後ろに引く。重くて肩が外れそうだ。右足を上げて重心を前に移動させる。右足をおろすはずが、あっと思う間もなく滑った。ブーっというブザー音。「失敗」の二文字が脳裏に浮かんだ頃、体はすでに宙を舞っていた。眼の端でハテナがガーターに突っ込んでくのが見えた。

 

 肩をポンポンと叩かれていた。知っている手だった。

「紗季、年越し蕎麦の具、何にするね? 鶏肉とにしんがあるけど?」「うーん」と私が呻くとやわらかい手は叩くのをやめ、スリッパのペタペタという音が台所の方へ去っていった。私はこたつで寝てしまっていたようだった。眼をこすって時計を見ると、まだ大晦日11時半を過ぎたころだった。テレビではダウンタウンがお尻を叩かれていて、それを見ながら父が餅を食べていた。傍らにはスーパードライがあった。「そういえば紗季、さっき大掃除したらピアノの下から万年筆出て来たぞ」そういって父はジャージのポケットから私の名前の入ったパイロットを出した。「これ、無くしてたやつだろ」

「ありがとう」と言って受け取る。と同時に台所に向かって叫ぶ。「お母さん、にしんそばがいい」「はーい」と返ってくる声。

 弟はテレビ画面に映るムエタイ選手を真似してキックの素振りをしていた。履いていたスリッパが飛んでいった。

 

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月二十四日(月)

 私には「生きよう」とする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これはニ十歳となった今までズットもっている感情である。生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない。

 私の体内には血が流れている。指を切ればドクドクと血が流れだす。本当にそれは私の血なのだろうか。

 

#50 ドービニーの庭

〈詩のコーナー〉

 ドービニーの庭

 

自転車に乗ってやって来た街で

ゴッホの絵を見ている

盛り上がる黄色青緑
かつて絵を描いた人がいて

今絵の前にいるぼく

 

100年前のフランスのどこかの庭

目の前に広がる草原には

自転車だけじゃたどり着けない

額縁に近づいてゆく

ゴッホのいた場所に立つ

 

ゴッホが立っていた場所にぼくがいて

ゴッホの絵を見ている

画家はもう行ってしまった

残った絵が語る一陣の風

ゴッホのいた場所にいる

  

 

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【ひとこと】

友達に借りた詩集が素敵で、読んでいると自分も書きたくなって書いてみました。

小学校の頃、詩の音読の宿題が好きで、自分も詩を書いて参観日に発表したりしていました。

あの頃の詩はどこに行ったのでしょうか。

 9月に行ったひろしま美術館で観たゴッホの絵を観て感じたことを詩に書いてみました。ゴッホのことが好きな人にはこの歌もおすすめです。

 

www.youtube.com

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月二十三日(日) 晴

 二月十七日頃を境に、このノートを書くときの私の態度が変化している。以前はこのノートに、胸につまった言葉を吐き出す、ぶっつけることに意義があったのだが、クラブの人や友人達と話すことにより、その対話の中に自分を正面からぶっつけることにより、このノートにはその意義がなくなってきた、以後、二、三日書かずにいたのは、そのためである。その後の文章は意識化されたものとなって文面に現れている。

 注意しなくてはならないことは、吐き出しぶっつけるのは常に己れ自身に対して行うものであるということである。他の人間に対しては、いくばくかの演技を伴った方が安全である。

 それからノートには、その日の主な行動、事象、読書の内容を記録しておくと、後の理解の補助となる。ノートを読んで感じたのだが、イメージが狭小である。詩の勉強の必要性を感じる。

 

#49 おれの春巻き!!

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 大須にじいろ映画祭に参加していた。今日は朝10時から夜8時過ぎまでたくさん映画を観ていた。会場は名古屋の大須演芸場名古屋市営地下鉄鶴舞線(水色のライン)の大須観音駅から歩いて10分ぐらい。いや10分もかからんか、5分くらい。

 大きいスクリーンと大きい音で映画を観るのはかなり久しぶりで、それこそ前回のブログで書いた「あの頃、君を追いかけた」を11月に観て以来だった。随分前に知り合いが「映画館には映画後の余韻に浸れる部屋が欲しい」みたいなことをツイッターで言っていて、その時の私は「○○さんはよっぽど感受性が豊かなんだなあ」なんて他人事みたいに感心したけれど、よくよくわが身のことも考えると決して他人事じゃないのだった。昔からライブ会場や映画館なんかに行くと、私の感性は大爆発を起こして収集がつかなくなる。高校3年生の夏休み、近くの映画館で「善き人のためのソナタ」という少し前のドイツ映画が上演されていて、「世界史の勉強にもなるから」とかなんとか口実を作って観に行ったんだけどまあ素晴らしい映画で、夏の終わりまで引きずってしまった。いっぱいまでひねった蛇口みたいに涙が出て、帰り道でも自転車を全力でこぎながら「わーーーーーーー!!」なんて叫んでいた。映画に受けた衝撃をうまく表現しうる言葉が見つからず、ただただ意味のない言葉を叫ぶしかなかったのだ。

 私の感受性をそんな風に揺さぶった映画はけっこうたくさんあって、例えば「ララランド」を観た後には高校の同級生にいきなり電話をかけ30分ほど抑えきれない感情を受話器の向こうへぶちまけてしまったし、松岡茉優の「勝手にふるえてろ」を観た時は、映画館のある梅田のスカイビルから駅まで歩きながら主人公への共感を抑えきれなくて、梅田のビル群に向かってため息をつくやら叫ぶやら大変だった。書き出すと枚挙に暇がないのだけれど、鑑賞後に感情がメルトダウンした映画には、他にも「Beyond Clueless」「アメリカン・スリープオーバー」「さよならも出来ない」「A Strange Love Affair with Ego」「コーヒーをめぐる冒険」などがある。そうした映画は「自分にとって大事な映画」とほとんどイコールで、本当はもっともっと映画のタイトルをここに連ねたいけれど時間がないのでやめておく。とにかく私は、すばらしい映画を大きなスクリーンで観てしまうと、最低一週間は余韻に浸って何もできなくなる。だから最近はあまり映画館に行かない。行くにしても誰かと行くようにしている。誰かと感想を共有できると、とりあえず落ち着くことがわかったからだ。

 その点、映画祭はいい。みんなで同じ映画を共有し、鑑賞後に感想を交換できたりするからだ。上映後にもトークがあったりして、監督や役者さんから映画製作の裏話が聞けたりする。そうすると心の中のもやもやは多少小さくなる。たくさん映画を観ていると疲れてしまって、余韻に浸るだけの体力や思考力が残っていなかったりするのもいい。疲労感がむしろ心地よい時もあるのだ。今日もだいたい9本ぐらいの映画を観て——短編が多くて長編は3本ぐらい——グロッキーになってしまった。「ありがとうございました。来年も来ます」と映画祭のスタッフの人に言って、演芸場を出るとぐうーーーっとお腹がなって一気に疲労感と空腹感がやってきた。教えてもらった味仙という台湾料理屋に行くことにした。

 

 

 味仙矢場町店。日曜日だからか、演芸場を出た時点で、大須商店街のほとんどの店は営業を終えようとしていたけれど、矢場町の中華(はたして「中華料理」と「台湾料理」というのはどのように違うのでしょうか?)は大繁盛だった。中ではたくさんのテーブルにたくさんの人が座っていて、ひっきりなしに店員さんが動いていた。私は台南でOと二人で入った小籠包の店を思い出した。台湾は今ランタン祭りの季節である。SNSで流れてくる映像を見ながら「台湾にまた行きたいなー」なんて思っている。

 味仙入り口近くには椅子で待っている人もて、一方で勘定を済まして出てくる人もいて、一人だった私は案外すぐにテーブルに座ることができた。「12番のテーブルどうぞー」と言う日本語もそうなのだけど、ぱっと見た感じで海外から来た従業員が多いのがわかった。日本に働きに来た人の過酷な労働環境に関するツイートをこの頃よく見かけるので、この店で働いている人はどうなんだろう、なんてことも考えてしまった。

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 台湾ラーメンという写真からしてスパイシーな料理が人気らしいのだけど、今夜は24時間営業のブックカフェで過ごす予定で、だから匂いのつく料理はなるべく避けないといけなかった。悩んだ末、五目焼きそばと半チャーハンを頼んだ。とにかくお腹が空いていて、食べたいものを頼むと自然と炭水化物が二品になってしまった。今日、映画の合間時間はご飯をゆっくり食べるには十分でなくて、朝からお好み焼きを二つ食べただけだった。大須の商店街ではアルミホイルに包んで売っているお好み焼きが240円で売られていた。二つの店で合間ごとに一つずつ買って食べた。ふわふわだった。

 空腹は最大の調味料なんて言うけれど、本当に今夜の焼きそばと半チャーハンは美味しくて、瞬く間に胃の中におさまってしまった。その間もひっきりなしに客が来ては帰り、ホールで働く人たち——観察しているとベトナム、中国、インドから来た人が多い印象だった。もっとも顔だけでは確かなことはわからないけれど——は忙しくて、厨房から料理を受け取ってこっちのテーブルに届けると、またすぐに向こうのテーブルの客が「生ビールひとつ!」と叫ぶといった感じだった。まだ足りなかった私は春巻きを頼むことにしたのだけど、店内はますます混んできて店員さんに声をかけるのも難しくなった。やっと店員さんを一人捕まえて「春巻き一つお願いします」と言う。注文して一息ついた私はこの二日間の出来事をノートに書き始めた。昨日の交流会でいろんな人から聞いたこと、今日映画を観て感じたこと。諸々のことを忘れないように、とりあえず箇条書きで書き出した。あらかた書き出してもまだ春巻きは来なかったので、今度は明日の予定を立てることにした。大阪にはどうやって帰るか、知多半島に行くとしたらどの町に行くべきで時間がどれだけ必要か、おしゃれな古本屋さんは市内のどこにあるのか。そんなことを調べてけっこう時間が経ったのにまだ春巻きは来ない。どうもオーダーが通っていない感じである。頼んでから20分近く経とうとしていた。このままで帰ろうかとも思ったけれど、私は今どうしても春巻きを食べたい。仕方ない、店員さんに声をかけるか。

 こういう時、自分が店員だったらどう思うか、ということを必ず考えてしまう。「注文が通っていない」というのはお店の人からしたら「謝らなければいけない事案」なわけで、私が店員なら後ろめたさを感じずにはいられないだろう。だから店員さんに声をかけるのはちょっとつらいものがある。でもどうしても春巻きを食べたい。背に腹は代えられない私は、近くを通ったインド-ヨーロッパ系の顔の店員さんに声をかけた。その人が申し訳なさそうな顔をするのが怖くて、努めて明るく振舞ったけど伝わっただろうか。ほどなくもう一人の店員さんが確認に来て、もう一度同じことを言った。「まあ、気にしなくて大丈夫っすよー」みたいなニュアンスを込めたけど、想いが伝わっていたら嬉しいなと思う。嘘みたいにすぐ春巻きは来た。中にキャベツが入っていて、しゃきしゃきした触感だった。きつね色の皮もぱりっとしていた。注文がすんなり通っていたらこんなに美味しくなかったかもしれないな、なんて考えてた。

 

 

 注文が通っていないというだけですぐに腹を立てる人を知っている。そんな人と居合わせてしまうと、私の心までがりがり削られてしまう。特に相手が女性や外国人だというのを見るや否や、とたんに高圧的な態度になる人を見ると冷や水を浴びせられた気になる。私の周りにそんな人がいない分、街で出くわすとショックは大きい。沸々と怒りが湧くけれど、最後はこの国に対するがっかりとか悲しみにつながっていく。どうにかならんかなと思うけど、みんな余裕がないのだと思う。

 この前も十三でつけ麺を食べていると、ある店員さんが、替え玉を出さないといけないところに間違えて煮卵を出してしまっていた。ネームプレートを見るにその女性は中国人で発音を聞いた感じでも日本語ネイティブではないようだった。顔は日本人と言われてもわからないような顔で、高校の陸上部の後輩に少し似ていた。煮卵を出されたのはスーツを着た男の人で、仕事の合間に食事に来たようだった。むすっとして「これ頼んでない」と小さく鋭い声で言った。女性の店員はその声を聞き取れなくて、しばらくの間うろたえていた。湯切りしていた店主が状況を察してささっと出てきた。そこでようやくスーツ男は状況を説明したのだった。 同じ日本人として恥ずかしかった。相手が中国人だからか、女性だからか、コミュニケーションをとることを早々にあきらめて敵意だけをにじませるその顔に、私は張り手を浴びせたくなった。いい歳してふくれっ面してるんじゃねえ!! こっちの飯までまずくなるだろ!!

 やっぱりご飯を食べる時は笑顔を忘れずに余裕を持っておきたい。幸せなことに私は大抵のものを 美味しいと感じることができるようなので「美味しかったです」という言葉を忘れないようにしている。でもそれはそれで迷惑かもしれないなとも思う。会計を終わらせた私が「美味しかったですごちそうさまでした」と言う度に彼らは「ありがとうございます」とか「またお越しください」などと返さないといけないからだ。それでもそういった言葉が暮らしを豊かにさせるのだろうと何となく信じている。

 だから今夜も慌ただしい店内に「美味しかったですー」なんて言い残して味仙を後にした。

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 ※この記事は#56に続きます

shige-taro.hatenablog.com

 


 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月十七日(月) 晴

 毎日、立命には行っているものの、ただ見ているだけである。昨日と一昨日はノートを書く気がしなかった。一昨日は疲れすぎてであり、昨日は人と話して言いたいことを言ってサッパリして、それ以上の追求をノートで試みなかったからである。このノートは欲求不満の解消のためにあったのか。(ちっぽけだよ!)

 大体私は正直で人を信頼しすぎている。外にあるときは、何らかの演技を常に行い続けなくてはいけない。従順なおとなしい娘と映るよう、おまえはまだまだ演技が足りないぞ。

 十五日に広小路に行くと、学生二名が私服警官に逮捕されたことに対する抗議デモをやっていた。河原町通や梨ノ木神社には機動隊が待機しているし、それこそ一触即発の気配であった。

 十六日三・〇〇PM立命に行くと、十数人の中核が雨にぬれ意気消沈した様子でデモッており、民主化放送局のデッカイ声が挑発してガナリたてている。カメラでデモやバリケードをうつす。全共闘からフロントが脱退した。これからの動きが注目される。

 

#48 あの頃

 

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 11月の最初の日、Kちゃんと映画館に行った。TOHOシネマズ梅田。映画をわざわざ梅田で観るなんて久しぶりだ。春休みに友人の若林君と観に行って以来である。その時は「シェイプオブウォーター」と「グレーテストショーマン」を観た。「シェイプオブウォーター」は良かった。ギレルモ・デル・トロ版の人魚姫だった。

 その日の映画は「あの頃、君を追いかけた」だった。山田裕貴齋藤飛鳥が出ている映画だ。齋藤飛鳥が乃木坂の人というのはさすがに知っているが、私はアイドルに疎い。ミュージックステーションに出ているアイドルの中で、どれが齋藤飛鳥なのか、なんて訊かれたら多分答えられない(映画でようやく彼女の顔を把握した)。原作が台湾の小説で、元々台湾でも映画化されたものだというのは知っていた。私は「藍色夏恋(原題:藍色大門)」や「私の少女時代(我的少女時代)」、「若葉のころ(五月一號)」といった台湾の青春映画が好きだ。その手の日本映画と比べて登場人物一人ひとりがしっかりと描かれている気がするからだ。もちろん私が台湾という国が好きだと言うのもある。

 映画を観に行くことが決まる数日前、フェイスブックを開くと高校の時の倫理の先生の投稿が目に入った。先生は「あの頃、君を追いかけた」を観に行ってその感想をフェイスブックで投稿していた。それを読んで気になっていたので、Kちゃんが電話のむこうで「あの頃、君を追いかけた」がいいと言った時、私は大賛成だった。

 

 2時間弱の映画では、山田裕貴齋藤飛鳥の関係が高校時代から大学生、社会人になるまでの10年にわたって描かれていた。時期はだいたい2008年から2018年ぐらいまでの間。主人公たちも最初はガラケーで電話していたのが、途中でスマホを持つようになったし、物語が現代に近づくとスマホも新型になっていった。小道具がよくできていたのでそういう変遷を見るのも楽しかった。

 それから東日本大震災のシーンもあった。もう8年も前のことだけどやはりショッキングだった。物語の中では、お互いが連絡を取って安全を確かめ合う重要な場面になっていた。

 一応日本映画なのだけれど、台湾の匂いがたくさんした。主人公たちが通う高校の制服のデザインも台湾映画でよく見るやつだった。胸のところに学籍番号が刺繍してあるのだ。大学生になった二人が観光地で願い事を書いたランタンを空に上げるシーンもどうやらロケ地は台湾であるようだった。

 スクリーンの中で、山田裕貴10年にわたって齋藤飛鳥のことを想い続ける。彼らの関係がまだあいまいだった高校時代。それから大学での遠距離恋愛。別れてからも、彼の中で彼女は大切な存在なのである。

「しっかしなあ」と私は思う。果たして10年も同じ人のことを好きでいられるだろうか、なんてひねくれた目で考えてしまう。まあそんな風に思うのは私が飽きっぽい性格だからで、10年も同じ人のことを考え続けている山田裕貴が本当はちょっと羨ましい。一人の人をずっと考えるなんてステキなことじゃないか。そんなこと私には到底できない気がする。まあもちろん映画は虚構でしかないのだけど。

 

 映画を観たのと同じ頃、高校3年生の時のクラスLINEが動いた。卒業後4年が経ったこのタイミングで一度集まってみませんか、ということだった。同窓会委員のNが呼びかけていた。私は「予定が合えば行く」というズルいスタンスである。

 同級生の顔を思い浮かべてみる。クラスLINEにいるのは37人。LINEグループに入っていない人もいるから実際のクラスはたしか40人。あれ、41人だったかも。おそらくもう二度としゃべらない人も何人かはいるだろう。行こうとは思って一応予定は空けているけれどちょっと不安である。    

 長いこと会っていなかった誰かと再会する時、私はいつも、その人との間にあった関係性を取り戻そうとする。自分が彼彼女とどう話していたか、距離感はどうだったか、そういうのを思い出そうと記憶の淵をのぞき込む。仲の良かった友達ならすぐに距離感を思い出せるのだけど、たまにチューニングがうまくいかない時があって、そういう再会は終始挙動不審になってしまう。耳を傾けても何か言っても、足元がおぼつかない。彼らの話を上の空で聴きながら、頭の中で、その再会は失敗になってしまったと感じ少しだけ落ち込む。そのがっかりを気付かれないように何も感じていないようにふるまうことも忘れない。本当は、できれば同窓会でそんな思いはしたくない。でもそういうのを含めてが自分の人生だと思う。他は知らないけど。そもそも高校時代からシャイで、あまり人とは話せなかったのだ。

 いろいろ変わってもう昔のようにはしゃべれない人もいる。ブログとかでいろいろ書いちゃったから、私には声をかけにくいという人もいるかもしれない。当然だと思う。私だってブログで書いた人に会うと(もちろん名前を出したわけではないけれど、勘がいい同級生はわかるような書き方になっていることもあるから)ちょっと居心地の悪さを感じるかもしれない。全世界で絶賛大流行のSNSもそういうところがあって、TwitterInstagramFacebookも確かに人を近づけてくれたけれど、他人の見たくない側面まで簡単に覗けるようになってしまった。感じなくてもよかったはずの気まずさを感じてちょっと難しいところもある。なんかの記事で「ハイレゾ社会」なんてふかわりょうが言ってたけど本当にそうだと思う。見なくてよいものも聞かなくてよいものも全部こっちに伝わってきてしまう。

 

 あれだけ同じ時間を過ごした部活の友達でさえもう何年も会ってない気がする。「部活を引退したらみんなでカラオケに行く」というのが私のささやかな夢だったのだけど、結局卒業までに実現することはなかった。後悔している。仲が良かったから、これからも継続して連絡するのだろうと思っていたけれど、実際はそんなこともなく、たまに個人個人で連絡を取り合うぐらいである。映画みたいに10年も思いが続くなんてことはなさそうだ。一人また一人と社会人になり、大人になるにつれて、段々連絡をとることもなくなってしまうのだと思う。ちょっと寂しいなと思う。でも仕方ないよな。

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月十二日

 眼鏡をかけて一週間程たつ。眼鏡ほど邪魔で不便なものはない。眼も疲れるし、すぐ曇るし鼻の上に重量感がつきまとう。

 私の顔は、目はパッチリと口もと愛らしく鼻筋の通った、いわゆる整った部類に属するが、その整った顔だちというやつが私には荷が重い。大体人は整った顔だちに対し、まるで勝手なイメージと敵意をもつ。眼鏡をかけると私の顔はこっけいでマンガである。眼鏡によって私は人のおもわくから逃れられることができた。また私は眼鏡によって演技しているのだという安心感がある。

 姉は日大の紛争で、弟は受験体制の中で、独占資本というものの壁にぶちあたっている。現在の私を捉えている感情は不安という感情である。 

#47 芥川龍之介がわからない。(前編)

 

 最近読んだ本。

蜘蛛の糸杜子春新潮文庫

芥川龍之介の「羅生門」「河童」ほか6編』角川ソフィア文庫

羅生門・鼻』新潮文庫

地獄変・偸盗』新潮文庫

  

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 貸してもらったままの本の中に4冊も芥川があったので、先月末にようやく読み始めた。本棚にもう何年も居座るなかなかの古株である。左右の並びには私の買ったアメリカ文学やらロシア文学やらがあるけれども、芥川ゾーンの4冊もすまし顔でおさまっている。

 

 初めに読んだのは『蜘蛛の糸杜子春』という短編集。芥川は基本的に短編しか書かなかったので本屋で見るのは短編集が多いと思う。収録されているのは「蜘蛛の糸」「犬と笛」「蜜柑」「魔術」「杜子春」「アグニの神」「トロッコ」「仙人」「猿蟹合戦」「白」の10編。私のお気に入りは「蜜柑」と「トロッコ」。

 

「蜜柑」は横須賀線の二等客車に乗って故郷を去る少女の話である。少女の前に座る「私」の写実的な語りのおかげで少女の顔立ちや服装、駅や車両の様子が映画のようにモノクロ映画のように頭の中に浮かぶのだった。少女に対する語り手の感情の変化が丹念に描かれていた。

 

「トロッコ」はだれしもにあるような幼年の思い出である。私たちは、生まれてから死ぬまで、段々と世界を知っていく。大人になった今、未知が既知になる過程はもうずいぶんゆっくりになったけれど、子供のころはそうじゃなかった。毎日に発見があった。突然に世界の無情さと出会うことが時々あった。10歳、11歳になる頃には、そういう出会いも無くなってしまったが、小学校の低学年の私はごくたまに「世界の本質」みたいなものを垣間見て、一日中考え込んでしまうほどの衝撃を受けていた。芥川の「トロッコ」もそんな幼い日の衝撃を書いた話だと思う。

 

 『蜘蛛の糸杜子春』は10編で120ページちょいのなので読み切るのに半日もかからなかった。ただ前知識なく読んだので少々面食らった。「蜘蛛の糸」は小学校の図書室で絵の入ったものを読んで知っていたのだけど、次の「犬と笛」は木こりが冒険してお姫様を救うという童話みたいなお話だった。芥川龍之介といえばもっと堅苦しくて強面な文章なのだと思ったのでちょっと拍子抜けした。巻末に「この本では年少者向けのものをえらんでみた」みたいな記載があってそこでようやく理解した。

 脱線するけれど、私が初めて地獄を知ったのはこの「蜘蛛の糸」と『かいけつゾロリのじごくりょこう』である。どちらも小学校の図書室で読んだと思う。「蜘蛛の糸」は絵本だった。なにしろ文体が古風で——世に出たのは大正77月の『赤い鳥』創刊号——小学校の難しいものを読んでいる気がしたし、なんだか少し頭がよくなった気もした。御釈迦様が垂らした蜘蛛の糸を上る犍陀多(カンダタ)があとから上がってきた罪人を蹴落とす絵と血の池地獄の絵が私の頭の中にずっと残った。原ゆたかも『かいけつゾロリ』シリーズの一冊で地獄の様子を書いていて、私はその本で地獄のいろいろを知った。地獄の入り口で待ち構えているエンマ大王がやってきた悪人の舌を引っこ抜くこともそこで知った。かいけつゾロリはチューインガムを下に載せ、エンマ大王にガムを引っ張らせることでまんまと逃げだしていた。全然関係ないけど、かなり長い間かいけつゾロリの「かいけつ」は「解決」だと思っていた。

 

 一冊読んでも芥川龍之介という作家の実像がつかめなかった。好都合なことに借りている4冊の中には、角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックス近代文学編、『芥川龍之介の「羅生門」「河童」ほか6編』という本もあって芥川の作家としての人生や幼少期のこと、他の文豪との関係などが書かれてあった。伝記が好きな私はわくわくして読んだ。面白かった。どうも芥川の小説には『今昔物語』や『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多いみたいである。芥川が初期に書いた有名な「羅生門」も「鼻」も『今昔物語』を下敷きにしている。

芥川龍之介の「羅生門」「河童」ほか6編』には芥川の人生と共に作品も時代ごとの作品も紹介されていた。「羅生門」と「河童」の他に収録されていたのは「鼻」「地獄変」「舞踏会」「トロッコ」「将軍」「藪の中」だった。

羅生門」は無駄がない。「ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。」という冒頭といい、「下人の行方は、誰も知らない。」という最後の一文といい、よく練られている。短編で大事なのは文章を必要最低限までにそぎ落とすことだと思う。たしかサンテグジュペリも同じようなことを言っていた。

 

「鼻」もよかったけれど圧巻だったのは「地獄変」だった。大殿様に地獄変の屏風を描くように命令された絵師の話でなんだけど、かなり引きずる話で、読み終えてからちょっとの間気分が悪くなった。納得のいく絵を描くことに執着し、実際の生活を顧みない主人公の絵師良秀が、生活と文学を切り離して考えていた芥川と少しダブって見えた。

 芸術の追究と実際の生活。どんな人にもそのふたつを天秤にかける瞬間はあると思う。別に芸術だけに限った話ではない。好きなことや趣味、スポーツとか料理とかもそうだ。映画「ララランド」でも主人公の2人は恋愛と夢のどちらかを選ばないといけなかった。一時 流行ったYouTubeのコマーシャルみたいに、好きなことばかりして生きるわけにはいかないのだと思う。誰でもご飯を食べないといけないし、汗もかくし糞もする。病気やケガも避けられない。でも「地獄変」はフィクションで主人公の良秀は生活ではなく芸術に生きる人である。彼がご飯を食べる姿や厠に行く姿などは当然描かれない。彼は絵を描くことにほとんどすべてを捧げているので、地獄のイメージを写生するためだけに弟子を鉄の鎖で縛り上げもすれば、みみずくに弟子を襲わせたりする。社会性のようなものは感じられず、当世一の絵師であることに鼻にかけ、ただひたすらに美を追究する。彼の見せる人間らしさといえば、写生の時に迷い込んできた蛇をみてぎょっとしたことと、娘を溺愛していることぐらいだろう。地獄の絵を描くことに心血を注ぐ彼は、眠っている間でさえも地獄の風景を見ているのだ。そんな風に生活を捨てて芸術にのめりこんだ男の結末は悲しかった。芥川が結局自殺したことと「地獄変」の主題は無関係ではないと思う。

 

「舞踏会」と「将軍」はあまり面白さがわからなかった。「舞踏会」はピエール・ロティ、「将軍」は乃木希典、どちらも実在の人物を扱っているのだけれど、実在の人物を扱っているにしては「舞踏会」の内容は事実と少し食い違う部分が多いようだし(ピエール・ロティが日本を訪れたのは舞台となる明治19年ではなく、前年の明治18年)、乃木希典に対する明治時代、大正時代の国民の感情というのは平成時代の私は全く想像できないので、よくわからなくて難しかった。

 

「藪の中」は名作だと思う。一つの事件を複数の視点から見る、という構造を大正時代にすでに始めているのがすごいと思う。

 例えば、三浦しをんの「私が語り始めた彼は」は、複数の人間の視点で描かれる短編の集合なのだけど、村川教授という女にもてて仕方ない男の人生や人間模様が、読み進めていくうちにどんどん浮き上がっていく構造になっている。高校の時に何度も読んだ朝井リョウの「桐島、部活やめるってよ」も同様に物語が複数の視点で展開される。成績優秀でバレーの県選抜にも選ばれるような学園のヒーローである桐島が退部し、学校にも来なくなるという事件を、親友やチームメイト、スクールカースト下層の映画部員、といった登場人物たちがそれぞれのやり方で受け止めるのだ。今読んでも斬新に思えるそうした構造が大正時代に芥川はすでに成立させていたことにびっくりした。加えて「藪の中」は謎解き小説のようにもなっていたから、食い違う登場人物たちの主張から真相を推理するのも楽しかった。

 

「河童」はひょんなことから河童の世界に入ってしまった男の見聞録である。人間界に対する風刺になっていて読んでいて面白かったのだけど、『芥川龍之介の「羅生門」「河童」ほか6編』の中ではページの都合上何か所か端折ってあったのでがっかりした。読むなら全部読みたいのに、カットするなんてあんまりだ。金曜ロードショーも歌番組もコマーシャルとか諸々の制約のせいで全部やってくれなかったりするけどそういうのは大嫌いである。余裕を持っていろいろ楽しんでみたい。ちゃんと全編をまたどこかで読んでみようと思う。

 

 とりあえずはこんなところである。ここまで読んでもやっぱり芥川のことはよくわからなかった。「地獄変」は気持ち悪いけれど同時に美しいと思うし、「藪の中」も構成が絶妙で面白い。「蜜柑」や「トロッコ」では作者の性格みたいなものが伺えそうな気もするけれど、でも「将軍」や「舞踏会」、その他の年少者向けの短編は面白さがわからないものもあった。

 次に読んだ『羅生門・鼻』と『地獄変・偸盗』はまた明日にでも書こうと思う。

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月八日(土) 晴

 煙草を七、八本すってお手洗いに行ってもおちつかなかった。どこにも行くところはなかった。しかしコンパに行こうとサ店を出た。寒くてブルブルふるえながら歩いた。電車に乗ってもふるえがとまらなかった。窓に映る景色は見知らぬ町のようだった。四条でおり五条までかけていった。

 酒は絶対飲むまいと思っていたが三杯のんでしまった。たわいのないことを話して、酔ってもいないのに大声で歌をうたい。煙草を吸って男の子にとり囲まれて、チヤホヤされていい気になり愉快な気分になって、帰りの電車で太宰を読みながら帰ってきた——んヨ!

 

 

 

#46 障害について思うこと

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 目下のところEさんの頭の中には肉のことだけ。リビングで食事をする他の人のお皿から肉片をかっさらおうと機会をうかがっているのだ。「もうご飯も食べてココアも飲んだでしょう? お風呂にも入ったんだからお部屋でゆっくりしてください」と言って制止する私。自分の声がなんだか遠くから聞こえる気がする。Eさんは私の眼を絶対に見ない。私の肩ごしに、テーブルと食事の乗ったお膳を見つめている。

 来所した瞬間から「ごはんごはん」と言うから、Eさんには6時になる前に夕食を食べてもらった。夕食の後はお風呂。それを住むと「ココアココア」「クッキークッキー」と言ってリビングに来る。ショートステイでは夜8時になるとティータイムといってコーヒーやココアと一緒にお菓子を食べるのだけど、やることがなくなってしまったEさんは早くココアを飲みたいと言う。仕方がないからココアを作る。「まだ6時半を過ぎたところなんだけどな」なんて呟くけれど、Eさんは耳を傾けるわけもない。頭の中で今日はいつもよりハードになりそうだと考えている私。

 案の定Eさんは個室に帰ってからも落ち着かず、何回もリビングに来た。他の人の食事を邪魔するばかりか食器の上のお肉を手づかみで取ろうとするのでEさんがテーブルに近づくのを阻止しないといけない。リビングに入ってこようとするその体を何度も何度も押し返さないといけない。肥満体の体は私の両腕を跳ね返し、私はリビングの方へ後退する。私はアメフトのディフェンスラインを思い浮かべながら再度Eさんを押し戻す。

 障害を持った人が利用するショートステイで働き始めて、私と利用者の違いについてよく考える。私はいわゆる「健常者」で彼らは「障害者」と一般的には言われる。でもバイト中、「私は彼らとそこまで違うのか?」と自問することがよくあって、答えはでない。

 一日に三食食べるとか、昼に活動して夜には寝るとか、歯磨きをするとか。そういうのがこの社会では「当たり前」のこととされていて、たいていの人はこの「当たり前」を当たり前にこなすことができる。逆にこのルールに従えない人は社会にいづらくなっている。小学校の友達に、体質的に朝起きるのが特別に苦手な子がいて、それはたぶん「障害」に入るのだろうと今となっては思うけれど、もし地球に生きているのが彼女一人だったならそれは「障害」とは言えない。あるいはこの世に生きるほとんどの人が早起きできない体質を持っていたなら、彼女は「障害」を抱えていなかっただろう。むしろ、夜行性の人がマジョリティである世界では、逆に昼行性の人こそ「障害者」となってしまうのかもしれない。結局「障害」の有無は社会との関係で決まるのだと思う。

 

 YouTubeを見ていた。集まったボディビルダーの前でオードリーが漫才をする動画を見つけた。ボディビルダーにうけるネタを作って笑わせるのが趣旨のようだった。プロテインを飲むタイミングとか、夜に糖質を摂らないとか、ジムではトレーニング後のマシンを拭かないといけないとか。そういうボディビルダーの「あるある」が漫才には盛り込まれていて、マイクの前で筋肉たちが笑っていた。

 中盤、有名なボディビルダーの名前を春日が出して、若林が「誰なんだよ!」ってつっこむ場面があった。動画を見ている私も、ターゲット漫才を企画したテレビ局の人も、視聴者も誰もその有名なボディビルダーのことは知らない。でもオードリーの前に座っているボディビルダーたちにとっては有名人で、だからみんな笑っている。「ボディビルダーにとっては常識なのに自分だけ知らないというのは変な感じがした」みたいなことを楽屋で若林が言っていた。「バカの人になった気がしました」

 

 初めて心療内科という場所に行った時、怖かった。自分が「障害」を持っていると宣告されるのは恐怖でしかなかった。医者は「障害」については明言せず、「思春期特有のうつ状態です」みたいなことを言った。私は16歳だった。安堵した。

 それ以降も、どう考えても自分に精神「障害」があるとしか思えない、と思う瞬間があった。ただ、心療内科に行くのはいつも怖かった。「障害があります」と言われたが最後、社会に置いてけぼりにされる気がした。その逆の時もあって、つらい日には、できることなら「障害」を言い訳にしたい、なんて思ってしまう。そんな時「うつ病」の診断は免罪符のように感じられるのだった。実際にうつ病で苦しんでいる人に失礼だし、仮に病名がついたとしてもつらいのは何も変わらないだろう? 何度も言い聞かせる。

 

「この前、自分の自閉傾向を調べてみました」

 校長が朝礼で話し始めた時、しゃべり声がやんだ。寒い朝だった。話が進み、校長が「テストの結果、私の自閉傾向は、障害ではないものの、一般と比べると高いことがわかりました」と言った瞬間、さざ波のような笑いが体育館に広がった。

 静かな水面にしずくが落ちたようなその光景を見て、どうしてかはわからないが、憂鬱な気持ちになった。体育館の気温がまた一度下がったような気がした。おそらく校長の話を自嘲的なものと捉えた人が多かったのだと思うけれど、逆立ちしても笑う気にはなれなかった。校長はどう考えても真面目に話していた。たぶん、誰もが正常でなくなる可能性を持っていることを言っていたのだと思う。

 「今のボールは線を踏んで投げたからセーフ!」なんて当てられた子が主張することが小学校のドッヂボールでよくあったけど、「障害」のあるなしなんて突き詰めていけば線を踏んだとか踏んでないとかそんなもんだろうと思う。社会がうまく回るために「障害がある」とか「障害がない」と言った言葉を便宜的に使っているだけで、その人の根っこはその人だ。もちろんいろんな「障害」があるわけだし、その人その人の苦労もあるとは思うけど「障害」という文字に惑わせられて、個性や性格、性質が見えなくなるのは悲しいなと思う。

「今の球はボールだ!」「いやストライクだ!」なんて争っても仕方ない。なによりも私は私で、あなたはあなたなのだから。

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月五日(水)

 夕食時、大山さんがニヤニヤしながら私をみている。私の眼鏡がおかしいと言っては笑うのである。実際私が眼鏡をかけた姿は滑稽である。私は眼鏡をかけたときは、自分の存在の滑稽さを認識させようとしている。滑稽さはあるときは救いであり、またあるときは嫌悪である。だが、それを演じているのだという意識、本当の自分はもっと別のところにあるのだという意識は私の心を救う。