シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#48 あの頃

 

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 11月の最初の日、Kちゃんと映画館に行った。TOHOシネマズ梅田。映画をわざわざ梅田で観るなんて久しぶりだ。春休みに友人の若林君と観に行って以来である。その時は「シェイプオブウォーター」と「グレーテストショーマン」を観た。「シェイプオブウォーター」は良かった。ギレルモ・デル・トロ版の人魚姫だった。

 その日の映画は「あの頃、君を追いかけた」だった。山田裕貴齋藤飛鳥が出ている映画だ。齋藤飛鳥が乃木坂の人というのはさすがに知っているが、私はアイドルに疎い。ミュージックステーションに出ているアイドルの中で、どれが齋藤飛鳥なのか、なんて訊かれたら多分答えられない(映画でようやく彼女の顔を把握した)。原作が台湾の小説で、元々台湾でも映画化されたものだというのは知っていた。私は「藍色夏恋(原題:藍色大門)」や「私の少女時代(我的少女時代)」、「若葉のころ(五月一號)」といった台湾の青春映画が好きだ。その手の日本映画と比べて登場人物一人ひとりがしっかりと描かれている気がするからだ。もちろん私が台湾という国が好きだと言うのもある。

 映画を観に行くことが決まる数日前、フェイスブックを開くと高校の時の倫理の先生の投稿が目に入った。先生は「あの頃、君を追いかけた」を観に行ってその感想をフェイスブックで投稿していた。それを読んで気になっていたので、Kちゃんが電話のむこうで「あの頃、君を追いかけた」がいいと言った時、私は大賛成だった。

 

 2時間弱の映画では、山田裕貴齋藤飛鳥の関係が高校時代から大学生、社会人になるまでの10年にわたって描かれていた。時期はだいたい2008年から2018年ぐらいまでの間。主人公たちも最初はガラケーで電話していたのが、途中でスマホを持つようになったし、物語が現代に近づくとスマホも新型になっていった。小道具がよくできていたのでそういう変遷を見るのも楽しかった。

 それから東日本大震災のシーンもあった。もう8年も前のことだけどやはりショッキングだった。物語の中では、お互いが連絡を取って安全を確かめ合う重要な場面になっていた。

 一応日本映画なのだけれど、台湾の匂いがたくさんした。主人公たちが通う高校の制服のデザインも台湾映画でよく見るやつだった。胸のところに学籍番号が刺繍してあるのだ。大学生になった二人が観光地で願い事を書いたランタンを空に上げるシーンもどうやらロケ地は台湾であるようだった。

 スクリーンの中で、山田裕貴10年にわたって齋藤飛鳥のことを想い続ける。彼らの関係がまだあいまいだった高校時代。それから大学での遠距離恋愛。別れてからも、彼の中で彼女は大切な存在なのである。

「しっかしなあ」と私は思う。果たして10年も同じ人のことを好きでいられるだろうか、なんてひねくれた目で考えてしまう。まあそんな風に思うのは私が飽きっぽい性格だからで、10年も同じ人のことを考え続けている山田裕貴が本当はちょっと羨ましい。一人の人をずっと考えるなんてステキなことじゃないか。そんなこと私には到底できない気がする。まあもちろん映画は虚構でしかないのだけど。

 

 映画を観たのと同じ頃、高校3年生の時のクラスLINEが動いた。卒業後4年が経ったこのタイミングで一度集まってみませんか、ということだった。同窓会委員のNが呼びかけていた。私は「予定が合えば行く」というズルいスタンスである。

 同級生の顔を思い浮かべてみる。クラスLINEにいるのは37人。LINEグループに入っていない人もいるから実際のクラスはたしか40人。あれ、41人だったかも。おそらくもう二度としゃべらない人も何人かはいるだろう。行こうとは思って一応予定は空けているけれどちょっと不安である。    

 長いこと会っていなかった誰かと再会する時、私はいつも、その人との間にあった関係性を取り戻そうとする。自分が彼彼女とどう話していたか、距離感はどうだったか、そういうのを思い出そうと記憶の淵をのぞき込む。仲の良かった友達ならすぐに距離感を思い出せるのだけど、たまにチューニングがうまくいかない時があって、そういう再会は終始挙動不審になってしまう。耳を傾けても何か言っても、足元がおぼつかない。彼らの話を上の空で聴きながら、頭の中で、その再会は失敗になってしまったと感じ少しだけ落ち込む。そのがっかりを気付かれないように何も感じていないようにふるまうことも忘れない。本当は、できれば同窓会でそんな思いはしたくない。でもそういうのを含めてが自分の人生だと思う。他は知らないけど。そもそも高校時代からシャイで、あまり人とは話せなかったのだ。

 いろいろ変わってもう昔のようにはしゃべれない人もいる。ブログとかでいろいろ書いちゃったから、私には声をかけにくいという人もいるかもしれない。当然だと思う。私だってブログで書いた人に会うと(もちろん名前を出したわけではないけれど、勘がいい同級生はわかるような書き方になっていることもあるから)ちょっと居心地の悪さを感じるかもしれない。全世界で絶賛大流行のSNSもそういうところがあって、TwitterInstagramFacebookも確かに人を近づけてくれたけれど、他人の見たくない側面まで簡単に覗けるようになってしまった。感じなくてもよかったはずの気まずさを感じてちょっと難しいところもある。なんかの記事で「ハイレゾ社会」なんてふかわりょうが言ってたけど本当にそうだと思う。見なくてよいものも聞かなくてよいものも全部こっちに伝わってきてしまう。

 

 あれだけ同じ時間を過ごした部活の友達でさえもう何年も会ってない気がする。「部活を引退したらみんなでカラオケに行く」というのが私のささやかな夢だったのだけど、結局卒業までに実現することはなかった。後悔している。仲が良かったから、これからも継続して連絡するのだろうと思っていたけれど、実際はそんなこともなく、たまに個人個人で連絡を取り合うぐらいである。映画みたいに10年も思いが続くなんてことはなさそうだ。一人また一人と社会人になり、大人になるにつれて、段々連絡をとることもなくなってしまうのだと思う。ちょっと寂しいなと思う。でも仕方ないよな。

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月十二日

 眼鏡をかけて一週間程たつ。眼鏡ほど邪魔で不便なものはない。眼も疲れるし、すぐ曇るし鼻の上に重量感がつきまとう。

 私の顔は、目はパッチリと口もと愛らしく鼻筋の通った、いわゆる整った部類に属するが、その整った顔だちというやつが私には荷が重い。大体人は整った顔だちに対し、まるで勝手なイメージと敵意をもつ。眼鏡をかけると私の顔はこっけいでマンガである。眼鏡によって私は人のおもわくから逃れられることができた。また私は眼鏡によって演技しているのだという安心感がある。

 姉は日大の紛争で、弟は受験体制の中で、独占資本というものの壁にぶちあたっている。現在の私を捉えている感情は不安という感情である。 

#47 芥川龍之介がわからない。(前編)

 

 最近読んだ本。

蜘蛛の糸杜子春新潮文庫

芥川龍之介の「羅生門」「河童」ほか6編』角川ソフィア文庫

羅生門・鼻』新潮文庫

地獄変・偸盗』新潮文庫

  

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 貸してもらったままの本の中に4冊も芥川があったので、先月末にようやく読み始めた。本棚にもう何年も居座るなかなかの古株である。左右の並びには私の買ったアメリカ文学やらロシア文学やらがあるけれども、芥川ゾーンの4冊もすまし顔でおさまっている。

 

 初めに読んだのは『蜘蛛の糸杜子春』という短編集。芥川は基本的に短編しか書かなかったので本屋で見るのは短編集が多いと思う。収録されているのは「蜘蛛の糸」「犬と笛」「蜜柑」「魔術」「杜子春」「アグニの神」「トロッコ」「仙人」「猿蟹合戦」「白」の10編。私のお気に入りは「蜜柑」と「トロッコ」。

 

「蜜柑」は横須賀線の二等客車に乗って故郷を去る少女の話である。少女の前に座る「私」の写実的な語りのおかげで少女の顔立ちや服装、駅や車両の様子が映画のようにモノクロ映画のように頭の中に浮かぶのだった。少女に対する語り手の感情の変化が丹念に描かれていた。

 

「トロッコ」はだれしもにあるような幼年の思い出である。私たちは、生まれてから死ぬまで、段々と世界を知っていく。大人になった今、未知が既知になる過程はもうずいぶんゆっくりになったけれど、子供のころはそうじゃなかった。毎日に発見があった。突然に世界の無情さと出会うことが時々あった。10歳、11歳になる頃には、そういう出会いも無くなってしまったが、小学校の低学年の私はごくたまに「世界の本質」みたいなものを垣間見て、一日中考え込んでしまうほどの衝撃を受けていた。芥川の「トロッコ」もそんな幼い日の衝撃を書いた話だと思う。

 

 『蜘蛛の糸杜子春』は10編で120ページちょいのなので読み切るのに半日もかからなかった。ただ前知識なく読んだので少々面食らった。「蜘蛛の糸」は小学校の図書室で絵の入ったものを読んで知っていたのだけど、次の「犬と笛」は木こりが冒険してお姫様を救うという童話みたいなお話だった。芥川龍之介といえばもっと堅苦しくて強面な文章なのだと思ったのでちょっと拍子抜けした。巻末に「この本では年少者向けのものをえらんでみた」みたいな記載があってそこでようやく理解した。

 脱線するけれど、私が初めて地獄を知ったのはこの「蜘蛛の糸」と『かいけつゾロリのじごくりょこう』である。どちらも小学校の図書室で読んだと思う。「蜘蛛の糸」は絵本だった。なにしろ文体が古風で——世に出たのは大正77月の『赤い鳥』創刊号——小学校の難しいものを読んでいる気がしたし、なんだか少し頭がよくなった気もした。御釈迦様が垂らした蜘蛛の糸を上る犍陀多(カンダタ)があとから上がってきた罪人を蹴落とす絵と血の池地獄の絵が私の頭の中にずっと残った。原ゆたかも『かいけつゾロリ』シリーズの一冊で地獄の様子を書いていて、私はその本で地獄のいろいろを知った。地獄の入り口で待ち構えているエンマ大王がやってきた悪人の舌を引っこ抜くこともそこで知った。かいけつゾロリはチューインガムを下に載せ、エンマ大王にガムを引っ張らせることでまんまと逃げだしていた。全然関係ないけど、かなり長い間かいけつゾロリの「かいけつ」は「解決」だと思っていた。

 

 一冊読んでも芥川龍之介という作家の実像がつかめなかった。好都合なことに借りている4冊の中には、角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックス近代文学編、『芥川龍之介の「羅生門」「河童」ほか6編』という本もあって芥川の作家としての人生や幼少期のこと、他の文豪との関係などが書かれてあった。伝記が好きな私はわくわくして読んだ。面白かった。どうも芥川の小説には『今昔物語』や『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多いみたいである。芥川が初期に書いた有名な「羅生門」も「鼻」も『今昔物語』を下敷きにしている。

芥川龍之介の「羅生門」「河童」ほか6編』には芥川の人生と共に作品も時代ごとの作品も紹介されていた。「羅生門」と「河童」の他に収録されていたのは「鼻」「地獄変」「舞踏会」「トロッコ」「将軍」「藪の中」だった。

羅生門」は無駄がない。「ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。」という冒頭といい、「下人の行方は、誰も知らない。」という最後の一文といい、よく練られている。短編で大事なのは文章を必要最低限までにそぎ落とすことだと思う。たしかサンテグジュペリも同じようなことを言っていた。

 

「鼻」もよかったけれど圧巻だったのは「地獄変」だった。大殿様に地獄変の屏風を描くように命令された絵師の話でなんだけど、かなり引きずる話で、読み終えてからちょっとの間気分が悪くなった。納得のいく絵を描くことに執着し、実際の生活を顧みない主人公の絵師良秀が、生活と文学を切り離して考えていた芥川と少しダブって見えた。

 芸術の追究と実際の生活。どんな人にもそのふたつを天秤にかける瞬間はあると思う。別に芸術だけに限った話ではない。好きなことや趣味、スポーツとか料理とかもそうだ。映画「ララランド」でも主人公の2人は恋愛と夢のどちらかを選ばないといけなかった。一時 流行ったYouTubeのコマーシャルみたいに、好きなことばかりして生きるわけにはいかないのだと思う。誰でもご飯を食べないといけないし、汗もかくし糞もする。病気やケガも避けられない。でも「地獄変」はフィクションで主人公の良秀は生活ではなく芸術に生きる人である。彼がご飯を食べる姿や厠に行く姿などは当然描かれない。彼は絵を描くことにほとんどすべてを捧げているので、地獄のイメージを写生するためだけに弟子を鉄の鎖で縛り上げもすれば、みみずくに弟子を襲わせたりする。社会性のようなものは感じられず、当世一の絵師であることに鼻にかけ、ただひたすらに美を追究する。彼の見せる人間らしさといえば、写生の時に迷い込んできた蛇をみてぎょっとしたことと、娘を溺愛していることぐらいだろう。地獄の絵を描くことに心血を注ぐ彼は、眠っている間でさえも地獄の風景を見ているのだ。そんな風に生活を捨てて芸術にのめりこんだ男の結末は悲しかった。芥川が結局自殺したことと「地獄変」の主題は無関係ではないと思う。

 

「舞踏会」と「将軍」はあまり面白さがわからなかった。「舞踏会」はピエール・ロティ、「将軍」は乃木希典、どちらも実在の人物を扱っているのだけれど、実在の人物を扱っているにしては「舞踏会」の内容は事実と少し食い違う部分が多いようだし(ピエール・ロティが日本を訪れたのは舞台となる明治19年ではなく、前年の明治18年)、乃木希典に対する明治時代、大正時代の国民の感情というのは平成時代の私は全く想像できないので、よくわからなくて難しかった。

 

「藪の中」は名作だと思う。一つの事件を複数の視点から見る、という構造を大正時代にすでに始めているのがすごいと思う。

 例えば、三浦しをんの「私が語り始めた彼は」は、複数の人間の視点で描かれる短編の集合なのだけど、村川教授という女にもてて仕方ない男の人生や人間模様が、読み進めていくうちにどんどん浮き上がっていく構造になっている。高校の時に何度も読んだ朝井リョウの「桐島、部活やめるってよ」も同様に物語が複数の視点で展開される。成績優秀でバレーの県選抜にも選ばれるような学園のヒーローである桐島が退部し、学校にも来なくなるという事件を、親友やチームメイト、スクールカースト下層の映画部員、といった登場人物たちがそれぞれのやり方で受け止めるのだ。今読んでも斬新に思えるそうした構造が大正時代に芥川はすでに成立させていたことにびっくりした。加えて「藪の中」は謎解き小説のようにもなっていたから、食い違う登場人物たちの主張から真相を推理するのも楽しかった。

 

「河童」はひょんなことから河童の世界に入ってしまった男の見聞録である。人間界に対する風刺になっていて読んでいて面白かったのだけど、『芥川龍之介の「羅生門」「河童」ほか6編』の中ではページの都合上何か所か端折ってあったのでがっかりした。読むなら全部読みたいのに、カットするなんてあんまりだ。金曜ロードショーも歌番組もコマーシャルとか諸々の制約のせいで全部やってくれなかったりするけどそういうのは大嫌いである。余裕を持っていろいろ楽しんでみたい。ちゃんと全編をまたどこかで読んでみようと思う。

 

 とりあえずはこんなところである。ここまで読んでもやっぱり芥川のことはよくわからなかった。「地獄変」は気持ち悪いけれど同時に美しいと思うし、「藪の中」も構成が絶妙で面白い。「蜜柑」や「トロッコ」では作者の性格みたいなものが伺えそうな気もするけれど、でも「将軍」や「舞踏会」、その他の年少者向けの短編は面白さがわからないものもあった。

 次に読んだ『羅生門・鼻』と『地獄変・偸盗』はまた明日にでも書こうと思う。

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月八日(土) 晴

 煙草を七、八本すってお手洗いに行ってもおちつかなかった。どこにも行くところはなかった。しかしコンパに行こうとサ店を出た。寒くてブルブルふるえながら歩いた。電車に乗ってもふるえがとまらなかった。窓に映る景色は見知らぬ町のようだった。四条でおり五条までかけていった。

 酒は絶対飲むまいと思っていたが三杯のんでしまった。たわいのないことを話して、酔ってもいないのに大声で歌をうたい。煙草を吸って男の子にとり囲まれて、チヤホヤされていい気になり愉快な気分になって、帰りの電車で太宰を読みながら帰ってきた——んヨ!

 

 

 

#46 障害について思うこと

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 目下のところEさんの頭の中には肉のことだけ。リビングで食事をする他の人のお皿から肉片をかっさらおうと機会をうかがっているのだ。「もうご飯も食べてココアも飲んだでしょう? お風呂にも入ったんだからお部屋でゆっくりしてください」と言って制止する私。自分の声がなんだか遠くから聞こえる気がする。Eさんは私の眼を絶対に見ない。私の肩ごしに、テーブルと食事の乗ったお膳を見つめている。

 来所した瞬間から「ごはんごはん」と言うから、Eさんには6時になる前に夕食を食べてもらった。夕食の後はお風呂。それを住むと「ココアココア」「クッキークッキー」と言ってリビングに来る。ショートステイでは夜8時になるとティータイムといってコーヒーやココアと一緒にお菓子を食べるのだけど、やることがなくなってしまったEさんは早くココアを飲みたいと言う。仕方がないからココアを作る。「まだ6時半を過ぎたところなんだけどな」なんて呟くけれど、Eさんは耳を傾けるわけもない。頭の中で今日はいつもよりハードになりそうだと考えている私。

 案の定Eさんは個室に帰ってからも落ち着かず、何回もリビングに来た。他の人の食事を邪魔するばかりか食器の上のお肉を手づかみで取ろうとするのでEさんがテーブルに近づくのを阻止しないといけない。リビングに入ってこようとするその体を何度も何度も押し返さないといけない。肥満体の体は私の両腕を跳ね返し、私はリビングの方へ後退する。私はアメフトのディフェンスラインを思い浮かべながら再度Eさんを押し戻す。

 障害を持った人が利用するショートステイで働き始めて、私と利用者の違いについてよく考える。私はいわゆる「健常者」で彼らは「障害者」と一般的には言われる。でもバイト中、「私は彼らとそこまで違うのか?」と自問することがよくあって、答えはでない。

 一日に三食食べるとか、昼に活動して夜には寝るとか、歯磨きをするとか。そういうのがこの社会では「当たり前」のこととされていて、たいていの人はこの「当たり前」を当たり前にこなすことができる。逆にこのルールに従えない人は社会にいづらくなっている。小学校の友達に、体質的に朝起きるのが特別に苦手な子がいて、それはたぶん「障害」に入るのだろうと今となっては思うけれど、もし地球に生きているのが彼女一人だったならそれは「障害」とは言えない。あるいはこの世に生きるほとんどの人が早起きできない体質を持っていたなら、彼女は「障害」を抱えていなかっただろう。むしろ、夜行性の人がマジョリティである世界では、逆に昼行性の人こそ「障害者」となってしまうのかもしれない。結局「障害」の有無は社会との関係で決まるのだと思う。

 

 YouTubeを見ていた。集まったボディビルダーの前でオードリーが漫才をする動画を見つけた。ボディビルダーにうけるネタを作って笑わせるのが趣旨のようだった。プロテインを飲むタイミングとか、夜に糖質を摂らないとか、ジムではトレーニング後のマシンを拭かないといけないとか。そういうボディビルダーの「あるある」が漫才には盛り込まれていて、マイクの前で筋肉たちが笑っていた。

 中盤、有名なボディビルダーの名前を春日が出して、若林が「誰なんだよ!」ってつっこむ場面があった。動画を見ている私も、ターゲット漫才を企画したテレビ局の人も、視聴者も誰もその有名なボディビルダーのことは知らない。でもオードリーの前に座っているボディビルダーたちにとっては有名人で、だからみんな笑っている。「ボディビルダーにとっては常識なのに自分だけ知らないというのは変な感じがした」みたいなことを楽屋で若林が言っていた。「バカの人になった気がしました」

 

 初めて心療内科という場所に行った時、怖かった。自分が「障害」を持っていると宣告されるのは恐怖でしかなかった。医者は「障害」については明言せず、「思春期特有のうつ状態です」みたいなことを言った。私は16歳だった。安堵した。

 それ以降も、どう考えても自分に精神「障害」があるとしか思えない、と思う瞬間があった。ただ、心療内科に行くのはいつも怖かった。「障害があります」と言われたが最後、社会に置いてけぼりにされる気がした。その逆の時もあって、つらい日には、できることなら「障害」を言い訳にしたい、なんて思ってしまう。そんな時「うつ病」の診断は免罪符のように感じられるのだった。実際にうつ病で苦しんでいる人に失礼だし、仮に病名がついたとしてもつらいのは何も変わらないだろう? 何度も言い聞かせる。

 

「この前、自分の自閉傾向を調べてみました」

 校長が朝礼で話し始めた時、しゃべり声がやんだ。寒い朝だった。話が進み、校長が「テストの結果、私の自閉傾向は、障害ではないものの、一般と比べると高いことがわかりました」と言った瞬間、さざ波のような笑いが体育館に広がった。

 静かな水面にしずくが落ちたようなその光景を見て、どうしてかはわからないが、憂鬱な気持ちになった。体育館の気温がまた一度下がったような気がした。おそらく校長の話を自嘲的なものと捉えた人が多かったのだと思うけれど、逆立ちしても笑う気にはなれなかった。校長はどう考えても真面目に話していた。たぶん、誰もが正常でなくなる可能性を持っていることを言っていたのだと思う。

 「今のボールは線を踏んで投げたからセーフ!」なんて当てられた子が主張することが小学校のドッヂボールでよくあったけど、「障害」のあるなしなんて突き詰めていけば線を踏んだとか踏んでないとかそんなもんだろうと思う。社会がうまく回るために「障害がある」とか「障害がない」と言った言葉を便宜的に使っているだけで、その人の根っこはその人だ。もちろんいろんな「障害」があるわけだし、その人その人の苦労もあるとは思うけど「障害」という文字に惑わせられて、個性や性格、性質が見えなくなるのは悲しいなと思う。

「今の球はボールだ!」「いやストライクだ!」なんて争っても仕方ない。なによりも私は私で、あなたはあなたなのだから。

 

 

〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月五日(水)

 夕食時、大山さんがニヤニヤしながら私をみている。私の眼鏡がおかしいと言っては笑うのである。実際私が眼鏡をかけた姿は滑稽である。私は眼鏡をかけたときは、自分の存在の滑稽さを認識させようとしている。滑稽さはあるときは救いであり、またあるときは嫌悪である。だが、それを演じているのだという意識、本当の自分はもっと別のところにあるのだという意識は私の心を救う。

 

#45 死人にくちなし

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 1114日の夜勤。前々から読みたいと思っていた本を読み切った。読むと夢中で、ほとんど一晩で読んだ。

 高野悦子『ニ十歳の原点』。おばあちゃんからもらった本。亡くなる数か月前のある日、おばあちゃんは本棚の中身を捨てる本と捨てない本に分けていた。ごみ処理場行きが決定された紙袋の中から私が救いだした中に高野悦子の本もあった。

 おばあちゃんは本にカバーをかけることなんかしない人で、それに本棚は日が差す場所にあったから、ページはもうすっかり茶色くなって、鼻を近づけると古書特有のにおいがした。

 数日前に『ライ麦畑でつかまえて』を読み終わっていた。サリンジャーが描いた主人公は純粋でありたいと思うあまりに、世の中の欺瞞や矛盾に敏感な少年だった。彼は自分が「汚れる」ことを禁じ、社会と折り合いをつけることを拒否していた。それはつまり、大人になるのを拒否したということとほとんどイコールだった。彼は他人とうまく関係を作りたいと思っている一方、高いプライドのせいで、相手も自分をも許すことが出来ず孤独を抱えている、そんな悲しい話だった。私はまるで自分を見ているような気がした。

 おばあちゃんに教えてもらったり、あるいはネットで調べたりして『ニ十歳の原点』がどんな本かというのはある程度知っていた。立命館大学に在学していた筆者が1969年の1月から6月までに書いていた日記。その日記を残して20歳の彼女は鉄道に飛び込んだ。読みながら私は、彼女が誰の意見にも影響されない自分の意見を、確固たる自己を確立しようともがいているように思えた。その内面の格闘の末、彼女はだんだんと孤独を深めていくのだった。

 私たちのような人間は、自分だけの思想、誰にも影響を受けていない自分だけの信念を持ちたいと心のどこかで思っている。でもそれは本来不可能である。どれだけ鍛錬を積んでも、どれだけ頑張っても、我々は物事を、全くの純粋な目線で物事を見ることはできない。育った環境や教育、読んだ本によって我々の精神は形成されるからだ。「100%の純度」を求め続けても答えはでない。頭でっかちのまま周りを見下すようになってしまう。ありのままを受け入れて行かないと破滅してしまう。精神病棟に入ったホールデン少年や高野悦子のように。

 1969年の高野悦子は当時の世の中——沖縄の問題、安全保障の問題、ベトナム戦争自衛隊の墜落事故——に漠然とした怒りを持っている。学生運動の大論争の中で、自分が何もしない傍観者であることに彼女は我慢できない。やがて彼女は体制に反抗しようと行動を起こし、やがて機動隊と対峙する。

 活動に加わる中で彼女はたくさんの本を読み、たくさんの知識を得ようと格闘する。たくさんの人と意見を交えることも大切にしないといけないとも思う。ただ彼女はそんな同志との間に距離を感じることもある。もちろん書いたことが全てではない。思っていて書かなかったこともあると思うし、まだ頭の中で漠然としていたために書けなかったこともあると思う。

 反体制という立場に立つことにした彼女は、自分が体制の中で育ったことをはっきりと自覚している。彼女の父親は公務員であるし、通っていたのも県内の進学校である。そもそも四年生大学に通っていること自体彼女が「体制」の中で育ったことを表しているのではないか*。そうした自己矛盾を彼女は論理化せねばならないと感じる。しかし結局論理化は最後まで書かれないままで終わる。恋愛のことを綴ったり、自傷行為を繰り返すうちに段々とニヒリズムに走って行く日記。傲慢でともとれる記述も散見されるようになる。

*彼女が大学に入学した1967年、四年生大学への進学率は12.9%で、女子だけだと4.9%である。

 沖縄、安全保障、戦争、自衛隊状況は似ている。今の日本は1969年の日本からそう遠くないところにあると思えるほどだ。違うのは現代の学生が政治的主張をしないようになったことぐらいだと思う。『ニ十歳の原点』は日記だから、その日その日の出来事で内容やテーマがころころ変わる。毎日のエピソードや記述を自分と結びつけて考えると、私の中にあるものは50年前に生きた大学生の中にもあったのだと思う。高校数学でやったベン図と同じように、その逆もあるのだと思う。

 けれどもまあ、それらは全部あとから推測したことでしかない。私は彼女の遺した日記のいくつかの箇所が好きだけど、共感もするけれど、それは全部一方的なのだ。読んだ後「会って話してみたかった」と思ったし、「自分の持っているのと同じ怒りや無力感を持っているのかもしれない」なんて思ったりもしたけれど、全部一方的なものだ。ほとんど「崇拝」みたいなもので、「学生闘争の中で悩み死んだ女子大学生」を自分と結び付けてみようと都合のいい解釈をしている醜悪なものなのかもしれない。どんな時にも死んだ人と会話することはできない。

 

 

 

〈付録~50年前のきょう~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、このブログでも書きましたが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

二月二日(日) 曇のち時々雨

 一歩、自分の部屋から足を踏みだすや否や私はみじめになる。電車の中で、繁華街で、デパートの中で、センスのない安ものの洋服を着た不格好な弱々しい姿をしているのに耐えられなくなる。美しく着飾った婦人に対する嫉妬、若い男に対しての恥ずかしさ、それらが次から次へと果てしなく広がり、みじめさはドンドン拡大する。

 

#44 「せつない」のありか

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『せつない話』という本を読んだ。私の好きな作家、山田詠美が集めた「せつない」短編たちを光文社が1993年に出版したものだ。国内外の作家が書いた14の短編たち。私はそれを先々週の金曜日に天神橋筋商店街で買ってついこないだ読みおわった。吉行淳之介の「手品師」という話で始まり最後はボールドウィンの「サニーのブルース」という話で終わる。どれもせつなかった。もちろん、一口に「せつない」と言っても様々で、失恋もあれば孤独もあり、家族の死もあった。複雑で言葉にできない感情の揺れもあれば、私には全く理解できない話もあった。

 山田詠美を知ったのは高校3年の時だ。秋が深まりセンター試験が近づいてくると、現代文の授業ではもっぱら先生が作ったセンター試験の模擬問題が配られるようになった。そのプリントを早く終わらせれば自習時間になるからみんなさっさと片づけようとするのだった。職員室でも長老の部類に入る現代文の先生は優しくて、「みんな受験で忙しいだろうから、聞きたい人だけ授業を聞いたらいいよ」というスタンスだった。だから私たちは罪悪感を感じることなく国語以外の教科を内職することができた。

 冬に入る前、「実力考査」という名の、成績にはあまり関係ない、入試前の腕試しのようなテストがあった。現代文の先生が出したのは山田詠美で、問題はその文章だった。彼女の短編がその時の私の精神状態にぴったりとはまってしまったのだ。テストなんてどうでもよくなって私の手は止まってしまった。もしかしたら感動で泣いたかもしれない。こんなふうに書ける人がいること、それから山田詠美の名を知らなかったことに驚き、また少なからず嫉妬した。

 次の週、私はブックオフに行って山田詠美の『ぼくは勉強ができない』を買った。一息に読んだ。私と同じ高校生の主人公が考え悩み、答えをみつけようとする様子が短編集の形で描かれる。大きなストーリーがあるわけではなく、それぞれの章ごとにテーマがあって、主人公が思案する、そんな構成だったと思う。自分の頭で考えることの重要性や、生きていく事に正解も不正解もないんだぜということが書かれていたと思う——と、書きながらけっこう忘れていることに気づく。また読もう。

 

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 大学生になって初めての旅行は神奈川と東京だった。新幹線でまず横浜に行き高校時代の友達と集まった。その後一人で江ノ電に乗って相対性理論を聴きながら由比ヶ浜を歩いた。東京では小学校時代の友人を訪ねて一緒に神保町を歩いた。カレーと古本の町で、私も例にもれずカレーライスをほおばったのち、目を皿にして掘り出し物を探した。買ったのは確か4冊。『KAZOKU』という名前のはがきくらいの大きさの写真集、それからダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジー、あとガレージみたいな場所で段ボール箱に並べられていた鷺沢萠の『海の鳥・空の魚』と山田詠美の『色彩の息子』という二つの短編集。『海の鳥・空の魚』は初めての鷺沢作品でとても新鮮だった。大人が書く短編だと思った。読後、いつもの風景が違って見えた私は、いろいろなことに気を配るようにしようと思った。もっといろんな見方で世の中を見てみたい。すぐさま友人Jに連絡した。Jは「シゲの好きそうな作家だな」と返した。次に手をつけた『色彩の息子』はもっとすごくて、熱を持った人間の生々しいパワーに溢れていた。爪で引っ掻くとそこから血が噴き出してくるような気がした。一つ一つの話が強烈でページをめくるたびに息継ぎが必要なほどだった。しばらく放心状態になった私にはJLINEする気力も残っていなかった。

 どうしたらこんな文章を書けるのだろう? 読み終わってずっと考えていた。単なる文章の巧さや比喩の引き出しの多さとだけではなくて、大きく強い人間の力を山田詠美は持っているのだろうと思った。それは育った環境や読んできた本、人生の出会いや別れ、日々の習慣、触れた音楽や映画といったすべてのものに由来するのだろうと思う。人生経験を積み上げていけば、私も少しは彼女に近づくことができるのだろうか。

 

 話は戻るが、「せつない」という感情はどういうものなのだろう。「悲しい」とも「さびしい」とも違う。「せつない」の持つ実体はよくわからない。「切ない」と書くこともあるけど「切」という感じを使うようになったのはどういうことなのだろう。「せつ」が「ない」というのは一体どういうことなのか、とか考え始めるとよくわからなくなる。Jポップの歌詞でもtwitterでもよく見かけるし、「せつない」はけっこう使い勝手のいい言葉だと思う。だからこそ、本来の意味を失っているのではないかと疑ってしまう用例も散見される。そういう時、眉間には知らず知らずのうちにしわが寄ってしまう。「何が『Wi-Fiがつながらなくてせつない』だ! そんなことに「せつない」を使うんじゃない。正しい日本語を使えよ!」なんて叫びたくなる。でもそういう私だって「せつない」の正しい意味を知らないのだ。辞書を開くと「胸が締め付けられるような悲しみ云々」と書かれてある。「胸が締め付けられる」とは何なのか。いやそもそも「悲しみ」とは何なのだっけ。きりがない。

 「五粒の涙」と名付けられた巻末の文章の中で「せつない」という感情について編者はこんな風に説明している。

 

それでは「せつない」という感情はどうか。これは味わい難いものである。外側からの刺激を自分の内で屈折させるフィルターを持った人だけに許される感情のムーヴメントである。まったく味わえない人もいるし、ひんぱんに味わう人もいる。何故かというと「せつない」という気持ちに限っては、心の成長が必要だからである。つまり、それは、大人の味わう感情なのである。

その後でこんなことも書いてある。

 静かに湧いたせつない感情を自分の心に再現してみようとする。すると、自分では記憶力が良いと思っている筈なのに、具体的なものが何ひとつ浮かんで来ない。せつない感情というのは、その出所を明らかにしないたよりのないものだということがよく解る。切ない気分は刹那的なものであり、保存が、きかないのだということに気が付くのだ。せつない気持ちになり、その側から、その気持をなくしてしまうこと、これは本当にもったいないことだと口惜しい気持ちになる反面、だからこそ、「せつない」という感情は素敵なのだと思う。まさに、使い捨ての贅沢という感じである。

 なるほど、という感じである。「使い捨ての贅沢」とはうまい表現だ。たしかに「せつない」と感じた瞬間を呼び起こそうとしても、記憶の渦から掬い出されるのはあいまいであやふやな感情ばかりだ。一つ一つの記憶を薬品みたいに瓶に詰めて、棚に陳列できたらどんなにいいだろうとこんな時思う。「せつない」というラベル——おそらく黄色のラベルだろう。瓶の中身が琥珀色だともっといい——の貼られた瓶を選べばいつでも思い出がよみがえる。昔からそんな想像ばかりしている。

 

「せつない」と思う記憶は、いろいろある。悩んでるあいだ何日も部活を休んでいたのに放課後練習に行くとみんな受け入れてくれたこと、父親に会いに行ったのに結局会えなかったこと、12年ぶりに会った友達とカラオケに行き加藤登紀子を歌ったこと————その思い出が100%純粋の「せつない」感情なのかどうかはさておき、私には「せつない」思い出がたくさんある。それは幸せなことだと思う。

 

 

「せつない」という感情に一番しっくりくるのは免許合宿の最終日のバスだ。

 仲良くなった友達は私を入れて6人。みんな関東からの子だった。合宿最後の夜、米沢牛を食べて合宿での苦労をねぎらい、ちょっとした思い出を話し、過去や将来のことも少し話した。そうして別れることになる明日に備えたのだ。2週間はあっという間だった。運転について覚えることが多かったし(当たり前だ)街を歩くのにも忙しかった。おいしいラーメン屋がたくさんあった。「これぞ中華そば!」という感じの醤油ベースの店が多くて、あっさり派の私は、「今日はどの店に行こう」なんて考えながら授業を受けていた。

 その夜、流れで「夏にまた会おう」みたいな話をした。みんな日本酒を飲んでいた。下戸だけど私も飲んだ。山形に来て酒を飲まないわけにはいかないだろう。将来なんて未定だし、就職が決まった子もいたし、私は関西だし、会えるかどうかその時にはわからなかった。それでもそんな話をしないわけにはいかなかった。だって本当に楽しかったから。ずっとこの瞬間が続けばいいのに、なんて幾つになっても私は思ってしまう。

 むかえた合宿最終日、朝一番で試験である。市内を走り決められた所で停車する、というのが課題だった。大事なのは停まる際ウインカーを忘れないこと、それから交差点やバス停から十分に距離をとって停車することだった。白一色の米沢市内では道路脇の雪がせり出して車道が狭い。車線などあってないようなものだった。緊張していたけれど何回も走った街だし空き時間もせっせと歩き回っていたから案外簡単だった。待ち時間があって、アナウンスがあって、ロビーにある画面が合格者の番号を映し出す。私の番号も友達の番号もあった。

 6人のうちの2人とはそこでお別れだった。彼女ら——姉妹だった——が取るのはマニュアル車の免許で、オートマよりも2泊長く残るのだ。毎日通ったロビーで「ありがとう」とか「元気でね」なんて言葉を交わした。「また会おうね」とも言い合ったけれど、酔っていた夕べの席から一夜経つと、その言葉は空虚なものへと変わりつつあった。でも仕方なくて、言わずにはいられなかった。私はノートにみんなのサインを書いてもらった。20年と少し生きても、私はこういう子供っぽいことが好きだ。思い出はできるだけ可視化できるものにしておきたい。そうすればいつだってあの日に戻ることが出来るからだ。

 合宿中、毎日バスに乗ってホテルとスクールを行き来した。それも今日で終わりだった。車内はいつも地元のFMがかかっていて、最終日も例外でなかった。関東から来たふたりは新幹線に乗ると言い、一人は山形から足を延ばして山形県北部の銀山温泉に行くと言った。私は福島県の郡山まで出て、そこから夜行バスで大阪に帰るのだった。もう慣れっこになったけど窓の外は雪ばっかりで、でも関西に帰れば雪なんて全くないんだろうなあ、と曇ったガラスを見ていた。

 4人の会話が少しとぎれてしんみりした時、ラジオから流れて来たのは”Top Of The World”だった。「この曲なんだっけ」と一人が言って「あれやん、カーペンターズやん!」と私は言った。そして、みんなでメロディーを口ずさんだのだった。

 サビを歌いながら思った。これからの人生、私はこの曲を聴くたびにこの免許合宿のことを思い出すのだろう。そう考えるとせつない気持ちになった。

 

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 その時の感情はたしかに「使い捨ての贅沢」で、もう二度と味わうことが出来ない。どの「せつない」も「せつない」という言葉で表せるというだけで、毎回微妙に異なるのだ。記憶は出来事であり、その時の感情である。どれも同じということはあり得ない。ただ、たくさんの「せつない」を積み上げることが人生の豊かさにつながるのは間違いないように思える。

 

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 免許合宿が終わってもうすぐ1年経つ。私に山田詠美を教えてくれた現代文のT先生には感謝している。一度高校の最寄り駅で会った時に謝意を伝えた。「山田詠美、いいでしょう?」っとおっしゃられていた。ニコニコした笑顔で。

 

 

 

〈付録

今日から20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あります。響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

◎二月一日(土)雨のち曇

(中略)

 明日はメガネを買いにいくんだヨ。人に聞かれたら、こう答えるんだ。まず第一番目に

「近頃、本の読みすぎで目を悪くしてネ!」そして次にいうの、「チョットこのメガネに会うでしょう。だから掛けたの」

 こんなこと誰も信じない。私がメガネかけたら小さなプチインテリでいやらしくなるんだから、誰も信用しないのがミソ。本当の私は、ユーモリストで小生意気で自分の顔を気にしているいやらしい女で、やっぱりメガネをかけている方が近い。そして誰にも言わずソット自分にだけ言う言葉

「私の目をガラスで防衛しているということ。相手はガラスを通してしか私のオメメを見られない。真実の私は、メガネをとったところにある」

 

 この箇所を読むと「本当の私」について考えてしまう。私は私だけど、どの瞬間を切り取っても私であることに間違いはないのだけど、それでもたまに、ある瞬間の私が、私でないように思えることがある。バイト先での私、授業に出る私、祖父と接する時の私。どれも同じ私なのに全然違う。ある条件下での「私」が大嫌いである。大嫌いなあまり、その時の「私」は本当の私と違うのだ、と思い込もうとすることがよくある。別人になるために自身の「キャラ」を変えたり、口調や一人称を変えたりする。それでもダメな時は服装や見た目を変える。髪を長く長くしたときもあったし、パーマをかけたこともあった。でも全部失敗だった。いつの時でも私は同じ頭と肉体を持っているのだ。矛盾をはらむ複数の自己を使い分けることは難しかった。

 高野悦子も同じように自己と戦っていたのだと思う。彼女は『ニ十歳の原点』の中で自己を見つけ出そうと幾度となく格闘するのだ。

 

#43 イヤホン

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 イヤホンをしていた。イヤホンをしてマクドナルドの奥の暗い場所で旅行中の出来事を思い出してはつらつらとスクラップブックに書きこんでいた。とうに冷めたコーヒーと無造作に置かれたハンバーガーの包み紙が乗ったトレイは終演後の舞台のように見えなくもなかった。ペラペラの四角に切り取られた遠い異国の風景を私はノートにペタペタ貼っているところで、さっき読み終わった短編の余韻とコーヒーの匂いとウォークマンから伝わる音の中で心が潤っているのを感じていた。時々、スティックのりを塗る手を止めてぼんやり壁を眺めたりした。緩む体が心地よかった。

 声が聞こえた。隣の席の女性が発した声をイヤホンの奥の鼓膜ははっきりととらえることが出来なくて、それはプールの底ではプールサイドの声が歪んで聴こえるのと似ていた。右隣りを見ると、もう中年期を終えようかという女の人が話しかけているのだった。イヤホンをとる右手。彼女はトイレの場所を知りたいらしかった。駅構内のこのマクドナルドにはトイレがない。ただ隣接する百貨店の中にトイレがあるからそこに行けばいいだろうと答えた。やっぱりそうなのね、と言う掠れた声。

 一度外したイヤホンをどうしたものかと思った。両耳にイヤホンを戻すのは悪い気がした。自分だけの世界に戻るのは相手を突き放して拒絶するようなものだ。かといっても、片方だけイヤホンするのはもっと違う。それは不誠実だ。片方で会話してもう一方で音楽を聴こうなんて心根は嫌いだ。

 イヤホンをする人に声をかけるのは勇気がいることだと知っているからこそ、躊躇した。どうしたらいいかわからなくて数秒ほどフリーズしてしまった。蛇に睨まれた蛙のごとく急に何もできなくなる。そういうことが時々ある。キンキンに冷えたジュースの缶をほっぺにくっつけられた瞬間みたいに、冷やっとして体が固まる。

「邪魔してごめんなさいね。ごめんなさい」と声がした。女の人の声はますます掠れていく気がした。目を合わせることはできなかったけど、明らかに、フリーズした様子を見た上での助け船だった。「大丈夫です」なんて意味のないことしか言えない。ごめんなさい、という言葉には「もう会話は終わりよ」というメッセージが込められていて少し悲しかった。もちろん「教えてくれてありがとう」もあると思うし「音楽の時間を邪魔してごめんなさい」もあったはずだ。それでもイヤホンをつけた時、心の底にまた一つ小石が落ちた。

 

 相手を突き放す加害者になりたくないと思って日和見を決め込み、最後はとうとう被害者になることに成功したのだった。それは無自覚な偽善で軽蔑されるべきなのかもしれない。でも一方で「なんていうこともない出来事だ。人生ってこんなもんだろう?」 と半ば開き直って何も感じないようにつとめているのも事実だ。だって、とにかく生きていかないといけないから。何かに向き合うことは絶対に大事だけど、全部に向き合うことは不可能だ。ほどなくして女性は去って行った。

 仕方ないこともある。できることもできないことも少しづつ受け入れていかない。そうじゃないと生きていけなくなる。

#42 目立つやつ云々

 

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  去年の1月末、免許合宿に行った。地元の車校に通うより安いようだし、私は短期集中型だから合宿で免許を取る方が性に合っている。旅が好きな私は知らない街で数週間過ごすことにも惹かれた。選んだのは山形県の小さな町でラーメンがおいしかった。

 毎日ホテルでご飯を食べて、授業を受けて車を運転して、またホテルにバスで帰る。友達ができるまで味気ない毎日だ。雪深い東北に一人で乗り込んだ私は中々友達ができず暇を持て余して人間観察をしていた。周りは大学の友達同士で来ている人が多い。関東人らしい標準語があふれていた。わいわい楽しそうである。「今日の授業どうだった?」とか「さっきの教官最悪だったわー」とかなんとかかんとか言っていて、私は高校の頃の会話を思い出した。そういうのをうらやましそうに思いながら、でもそれは表には出さずTwitterをやったり味噌汁をすすったりしている。そしてちらちらと気付かれないようにそういう人たちを観察している。これも高校時代と同じである。私みたいに一人で来ている人たちもいて、そういう人たちの中でも社交性の高い人は友達を作っている。

 授業前の教室あるいはホテルの食堂で、どうしてだか目立っている人がいる。なぜだかわからないけれど視線が惹きつけられるのだ。講習の合間にテキストを読んだり、パソコンに文章を打ち込んだりしながらそういう人たちがどうして目立つのか考えていた。

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駅前

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車校

 身体的な特徴というのはやっぱりあると思う。ハーフであるとか、体が大きいとか、少し年をとっているとかである。私もとりわけ背が低いのでおそらく目立っているのだと思う。初日の授業でも少し離れたところで何人かの男の子がこっちを見て笑っていた。十中八九、私を笑っているとみて間違いなかろう。

 あと、うるさい人や動作が大きい人も目立つ。授業中に大きく鼻をすすったり、くしゃみをしているとどうしても気になってしまう。声や足音が大きかったりするのも同じである。笑い声も人それぞれで、目立つ笑い方と言うのがあって時々耳に障る。自分の癖が注目を集めていると思いもしない人もけっこういる。新聞をめくる時に指をぺろりとなめずにはいられない人や一定の間隔で舌打ちをしてしまう人は無意識にそうしているわけで、私が眉をひそめたり睨んだりするのを理解できないだろう。こっちを睨んでいる私が、逆に彼らにとって目につく存在になっているかもしれない。

 当然、顔やスタイルがきれいな人も男女問わずに目立つ。美男子と美女はやはり見つめずにはいられない。性の対象として見るのかどうかという問題は横に置いて、やはり私は美しいものに惹かれてしまう。美しいと認められるのは特長だと思う。

 

 山形で過ごした2週間から一年経った今年、私はモスクワにいた。ロシア人だらけだった。ロシアが多民族国家とはいえ——本で読んだ記憶が正しければロシア連邦におけるロシア人は80%弱。東スラブ系民族となると割合はもっと多い。ロシア人の次に多い民族集団はタタール人でたしか4%弱だったと思う。ちなみにロシアは自分を規定する民族を自分で選ぶことができる——メトロに乗っていても赤の広場を歩いていてもレストランに入っても、目にするのは長身の白人が多い。金髪が多いと思っていたけれど黒や赤の人もよく見かけた。瞳の色も様々で茶色の人もいれば日本人のように黒い人もいた。トレチャコフ美術館に入る時、私の前に並んでいた56歳と思われる女の子の眼は薄い青色だった。空色と呼ぶか灰色と表現するか迷うような色で、初めて見る私は美しいと思った。他方、何しろ見慣れない色だから恐ろしい色だとも感じた。黒い目が多い日本では虹彩や瞳をはっきりと認識することは少ないけれど、女の子の眼は色素が薄いためにそういうものまで見えてしまうのだった。少しだけぞくっとした。

  大国の首都で日本人の私は明らかに「目立つやつ」なのであった。今まで行ったどこの国にもモンゴロイドがいて、口を開かない限り日本人と気づかれずに過ごすことが出来た。台北で私にKENZOのばったもんの帽子を売った女の人は私の顔を見て日本人だと気づいたけれど、彼女はレアケースである。ヤンゴンで肉まんを食べていた女性は私が話しかけるまで目の前に座る私を中国系ミャンマー人だと思っていた。彼女は祖父の時代に国共内戦を逃れてビルマにやってきた中国人の子孫で、もう中国語は話せないが旧正月などの行事は今でも家族で行っているそうだ。ほとんどすべての人が同一民族である国に育った私は多民族国家で生きるということがよくわからない。気になることがたくさんあった私は、民族や宗教といったアイデンティティーについて彼女にいろいろ質問した。小一時間話した後で私たちはFacebookを交換した。またいつの日か会えたらいいなと思う。160を超える民族が共存しているミャンマーで私が過ごしたのはたった2週間だったけど毎日が刺激的だった。仏教寺院の横にモスクがあるようなダウンタウンを歩くとたくさんの種類の顔を見ることが出来た。通りを歩いても自分が目立っているとは思わなかった。イングランドにも行ったけれど、私がいたのはイーストボーンという海沿いの町の語学学校で、クラスメイトはサウジアラビア人やトルコ人、韓国人や台湾人といった具合だったから、そこでも自分がとりわけ目立つ存在だとは思わなかった。

 しかしモスクワでは目立っていた。スリに警戒して自意識過剰だったのもあるけれど、初めてメトロに乗った瞬間、車内の視線が自分の顔に集まるのを感じた。すぐ慣れたけど最初はとても怖かった。もちろん観光地に行けば家族で来ている中国人がいたし、モンゴロイドの顔でロシア語を話しモスクワに住んでいると思われる人もいた。でもマジョリティはコーカソイドで背の高い人ばかりだった。

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赤の広場

  モスクワをあちこち歩いて気づいたことがある。それは清掃員に東洋人が多いことだ。新年を祝う直前、私は赤の広場近くでホットドックを食べた。スタンド——残念ながらロシア語で何と言うのわからない——には列ができていて、横には立食用のテーブルがあった。ミュンヘン風のソーセージは噛むとパリッという音を立てて、あつあつの肉汁が口の中に広がった。気温が低い分なおさらおいしかった。制服のジャンパーを羽織った一人のおばあさんがいて、汚れたテーブルを拭いていた。大晦日だというのに働いている人がいるのは日本と同じなのだった。明らかに東洋系の顔をしていたから気になって少し見ていた。驚いたことに彼女は私の方に来て、どこから来たのかと言った。日本から来たと言うと、「なるほど、そうかー」とリアクションをとるおばあちゃん。きくと、彼女は私がキルギス人だと思って話しかけたのだという。「あんた、キルギス人にそっくりだよ」とおばあちゃんは言った。というのも彼女はキルギス出身で、私を同胞だと思ったのだ。ちょっと嬉しかった。新年を迎えるという瞬間にも働いているということはもしかしたら何年も故郷に帰っていないのかもしれない。「キルギスから来た」とだけ言ったから、出稼ぎなのか永住しているのかはわからないけれど色々思うことがあった。でも拙いロシア語で表現できることはあまりにも少なくて、結局私は「С новым годом!*」と少し早い新年のあいさつをしておばあさんの両肩をぽんぽんと叩いた。それからお仕事お疲れ様ということと、話しかけてくれたことの感謝を込めて「Спасибо**」と言った。そのあとイルミネーションの中を歩きながら自分が涙を流していることに気づいた。

*:ス・ノーヴィム・ゴーダム。「あけましておめでとう」の意

**:スパシーバ。「ありがとう」の意

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 こういう刹那刹那の出会いと別れに感情が動くのは良いことだと思うけれど、それは自分の心が繊細で弱いからだ。感受性が豊かなのは良いことだとされているが、日常の一から百までに心が動いてしまう自分がひどく嘘くさい人間であることもまた事実である。「シゲのことがわからない」と言われたのは一度や二度ではない。高校でも大学でも言われた。時々家族でさえもそんなことを言う。しかし、いずれにせよそれは素敵な出会いで、モスクワにいた間の出来事で一番心に残るものだった。私が東洋系の顔をした「目立つやつ」であったからこそ起こりえた出会いなのだ。

 最終日、空港に向かうメトロでも同じような出会いがあった。混雑した車内で私は背中のバックパックを下ろしたのだけど、座席に座る女の人の膝に荷物が触れてしまった。すまなそうな顔をして相手を見ると、その人は私の眼をみて微笑みながらうなずいてくれた。その人とその横の女性——なんとなく顔が似ていたので家族だと思う——はその後私の顔を何回かじっと見つめていて、何か言いたそうだった。二人は私の一つ前で降りたのだけど、降り際に私に話しかけてくれた。私が唯一聞き取れたのは「クラシ―バ」という「美しい」とか「きれいな」を意味する形容詞だった。身振りから察するに私の外見のことを言っているみたいだった。私は笑いながら「Спасибо**」と返した。これもやはり簡単には忘れられない思い出である。心がほっこりする。

 そんなモスクワ滞在だった。この旅行で、おざなりにしている大学のロシア語に対するモチベーションが上がったかどうかはよくわからない。すくなくとも話せた方が面白いことはわかったけれけども………。

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 日本では「目立つやつ」であることを避ける傾向があって、中学や高校にも出る杭は打たれる風潮があった。大学1年目の私も極力目立つことを避けて来た。しかし、私は背がとりわけ低いためにいつも目立っていた。それならば逆にもっともっと目立つやつになってやろうと髪の毛を長くしてちょんまげにしたりバンダナで髪をまとめたりしたけれど、そうすると逆に自意識過剰になって心の中が変な感じになってしまった。この文章でもわかるかもしれないが、私は「他人にみられている自分」を意識しすぎるのだ。「私」という人間の真相を悟られないよう、10代のいつからか私は自己を演じることを覚えた。最初は小学校。楽しかった塾と散々だった学校で私は別々の「私」を使い分けたのだ。部活やサークルでも「私」を演じ、教室でもまた別の「私」を演じた。おバカなことに、私は演じるうちに「本当の私」が何なのかわからなくなってしまった。授業に出ていても、サークルのみんなの前でプレゼンをしていても、バイト先で食器を洗っていても、自分が自分でないような気がするようになった。しまいには一人でいる時さえも今の「私」がどの「私」であるのかよくわからなくなった。読書の最中にも、文章を書いていても、絵を描いていても「私」が「私」でないような気がするのだ。ぼおっとして、頭と体が別々になったような奇妙な感覚———何を言っているのだろうと不審に思う人もいるかもしれない——は、長時間続くととても疲れてしまう。そういう時たまに高校一年生の保健の授業を思い出す。保健の担当はFという人気の先生で、バスケットボールをずっと続けていてプロ級の腕前ということだった。冬の日のその授業では、自己同一性障害がテーマだった。カウンセラーの資格も持つF先生がいつものように楽しく教科書を読み進めていった。

 授業の中盤、「まあこのクラスのみんなは自己同一性障害は大丈夫だと思うよ」と言って先生はクラスを見回した。そこで先生と私の目が合った。先生は「そうやなあ○○(私の苗字)以外は」と付け加えた。真顔だった。冗談ととるか微妙なところで、怒るべき事柄でもあった。しかし既に私には自分の精神状態がおかしいという自覚もあった。実際、半年前には学校に行くことが出来ない時期があったし、心療内科という所に初めて行ったのもその頃だった。私の普段の言動を知っていた先生は心配していたのだと思う。私を気にかけてくれていることは嬉しかったが、それでもみんなの前で言うことではないだろうとも思った。伺うようにこちらを見る数人の視線を感じた私は、チャイムが鳴るまで気まずい思いをしなくてはならなかった。

 F先生の見立ては正しかったとは思う。あるいは私が言霊に操られたのかもしれない。いずれにせよ「他人が見る私」と「自分が演じる私」や「こうなりたい理想の私」、「どこかにあるはずの本当の私」の間で私は静かにおかしくなりつつある。

 長くなるのでここらへんで終わりにしよう。「私」についての話はもう少し理解できるようになってからまた書こうと思う。

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